三十四          

 尊いと思っていた人が死ぬことは悲しい。同じ思いを共有する場では男も女もなくる。性別は虚構だとしみじみ思う。ラーメンの鉢をさげたシュミーズ姿の二人が、ぴたりと私に寄り添う。二つの腰を抱く。掌に感じるぬくもりと柔らかさのせいで、ズボンの前がふくらみはじめる。生きている証にユリさんが気づく。 
「あら! オチンチンが苦しそう」
 チャックを開けて解放する。
「ああ、ラクになった。昼に出してからだいぶ経つからね。回復した」
「すごい……」
 天を突いているものをミヨちゃんが見下ろす。二人の股間に手を入れる。二つの頭が肩に凭(もた)れてくる。悲しみの感情と性欲は同居できる。がんらい性欲は生殖欲という麗しい仮面をかぶった好色な本能なので、たとえ中性の人間でもなくならない。私は? それに満ちあふれていたころの自分を忘れていないし、いまも女の胸や、尻や、ふくらはぎに欲望が動く。ただし、心を許した相手でなければ発動しない。さらに、心を許した相手であっても、臨機にしか発動しない。
「ぼくは回復したけど、二人はもうできるの?」
 ミヨちゃんが、
「もうも何も、神無月さんとならいつでもできます。一日じゅうでも」
 ユリさんが快感をこらえきれず、
「あ、イキそ。美代子さん、ごめんなさい、私、お先にいただきます」
 立ち上がってテレビを消し、あわててスカートと下着を脱ぎ、私のズボンとパンツを引き下ろす。ミヨちゃんがそのあいだに一度達する。ユリさんは中腰で抱きつき、私のものに指を添えるとクリトリスにこすりつけて昇り詰め、痙攣の止むのを待ってから膣口に食いこませ深々と腰を下ろす。
「あああ、気持ちいい! 神無月さん、愛してる!」
 すぐに新しい痙攣が始まる。潮の退いたミヨちゃんが尻をさすってやる。片手で自分のスカートと下着を脱いでいる。ユリさんが四、五回アクメに達してから脇に転がり落ちた様子を確かめると、私の唇に吸いつき、首を抱いて跨り、正確に接合する。
「ああ愛してます、神無月さん、愛してます」
 早くユリさんと同じ高みに昇りつめようと尻を激しく上下させ、遠慮のない声を上げながら一度強く達する。二度目からは動きを緩やかにし、五度、六度、さらに心ゆくまで達し尽くす。
「もうだめ!」
 ユリさんと反対側に転げる。私はユリさんの腰を持ち上げて尻を向かせ、奥深く挿入して吐き出し、心ゆくまで律動する。
「ああ、好きィー! イクウゥ! ウググ、イグ!」
 ユリさんは尻を密着させて腹を絞る。そっと引き抜き、すぐシャワーで局部を洗いにいく。行為を終えたあとの自分の〈実体〉を、からだではなく頭の中身を調べようとする。
 ―私はなぜ野球選手に焦点を当てた生き方に目覚め、野球選手として生きることを目指してきたのか。そしてなぜこれからもその生き方を尊重し目指そうとしているのか。
 日本の教育制度をはじめとする社会全体が、西洋の影響でわがままな方向へ破壊されたからだと軽々しく呟いてみる。概念としての〈能力〉が、忍従を必要としない機械的で経験的なものに均一化されたからと……。やっぱり、その考えは軽々しい。外からの何 ものにも影響を受けないどんな制度の下であろうと、だれもがその国の制度に忍従し、慣らされ、経験を積むことでその制度の受益者になる。
 つまり私は制度の受益者になりたくなかったということだ。社会からではなく個人からのみ祝福される自分の〈天分〉を生かし、その制度から出ていき、社会的幸福とは別種の小規模な幸福に浸りたかったということだ。しかしいま私はその天分ゆえに、制度の枷の中で暮らす人びとに愛でられ、大規模な幸福を与えられ、終局、社会制度の受益者になっている。
 下着をつけずに居間に戻ると、全裸になったミヨちゃんとユリさんが仰向けになり、下腹を並べて心地よさそうに呼吸していた。二度目の逢瀬の宴が終わった。ユリさんの股間にティシュを当ててやる。
「……神無月さん、ありがとう。すっかり落ち着きました」
「私も。またあしたからがんばって勉強できます」
「よかった。ホッとした。これでぼくも心置きなく野球に打ちこめる」
「シャワーを浴びてきます」
 二人で風呂へいった。一年の間に築かれた二人の絆に感銘する。そのせいで気がかりな八、九カ月が始まる。十二月には訪ねてこなければならない。
 風呂から戻るとユリさんは、寝室に三組の蒲団を敷いた。
「今夜はこのまま静かに寝ましょう」
「はい。朝ごはんの前に部屋に戻って一勉強します。生き延びた者は励まなくちゃ。どんな一日も後悔しないように」
 枕を並べて寝物語をする。ユリさんが、
「幼いころ、神無月さんは神童と言われたんでしょうね」
「言われなかった。じっちゃに変わったワラシだと喜ばれただけ」
「勉強は?」
「小学校四年生まで平均。五年生以降はどうやって成績が伸びていったか記憶にない。とにかく伸びていったけど、神童と呼ばれたことは一度もなかった。野球の天才と言われたことは何度もある」
 ミヨちゃんが、
「名古屋の飯場に入るまでは孤独だったんですよね」
「うん。人は一人でも平気、中途半端な関係は不要だと思って十歳まで生きてきたけど、飯場の人たちがその考えを打ち砕いた。人は人に頼り、甘え、頼られ、甘えられていないと生きていけないって。クマさんは、破傷風から生き延びたあとはオマケだとまで 言ってくれた。……そういう人たちに遇えたのはほんとに幸運だった。もともとぼくは幸運の遺伝子を持ってたんだろう。こうして生を享けたのも幸運だからだ。先祖が足が速かったからか、賢かったからか、健康だったからか、運がよかったからか知らないが、 とにかくぼくは存在する。彼らのおかげでそう思うようになった」
「でも、油断はできないわ。私はいつもそう思ってます。神無月さんは心の底に癒されない孤独を持ってる。とても死に近い孤独。その心の底へいかないようにいつもそばにいるつもりです」
「私はスッパリ切ったわ。その、死に近い孤独というものを持ってない人だったから。あの人は重要な事実を見落としてたの。女は自分が愛してない不要なものを一瞬で決めるってこと。決めるのは女だってわかってなかった。神無月さんはわかってる。そういう ことに何の不満も抱かない。だから愛されると感謝して、私たちの愛に応えようとするの。……齢をとるとわからなくなるのよ。それまで何が問題だったかが……。五十になる前に神無月さんに遇えてよかった。問題がわかったから」
「……愛ですね」
「そう。私みたいな女も神無月さんは大きな愛で包んでくれる。私の無教育なところも、言葉遣いも、マナーもぜんぜん気にしない。ひょっとしたら、ゲップやオナラも気にしないでしょうね。そんな私でも、私であるだけで完璧な人間と思ってくれてる、愛して くれてるとわかるの」
「私もそう。……どうしてそういう人でいられるのか、考えても解決できないので、神秘的にさえ思えます。たぶん、自分がすばらしい才能と美しさのせいで注目されていることなどちっとも眼中になくて、他人にばかり偏見のない関心を注ぐ。無邪気と好奇心が 行動の出発点になってるからでしょうね。そんな人、世間に二人といない。この経済優先の科学時代にこんな無垢な人がいるなんて……。神無月さん以外の人を愛するなど、ぜったいできません」
「気取らないふつうの人が好きなんだ。サラリーマン、土方、市電やバスの車掌、タクシーの運転手、酒場のホステスやバーテン、小学生、中学生、水商売の女、駅の売店の売り子。……習慣に飽きてない人たち。彼らが野球ファンとしてプロ野球選手を観にくる。最高の仕事に就けたと思う」
「高校生は?」
「権威に近いだけあって、気取ったやつが多い。大学生はほぼ全員だめだね。ぼくの周りにいる高校生や大学生は例外だ」
「野球選手は?」
「ほとんどだめ。現代では彼らは権威そのものだから仕方がない。権威を嫌うぼくは、多少誇張して言うと、気心知れたドラゴンズ以外では仲間外れだ。親切ごかしはされてるけどね。僕が信頼してるのは中日ドラゴンズの選手だけ。水原監督と仲間たちが去った ら、ぼくも球界を去るつもりだ。長くて十年、短ければ五、六年だろうね」
 ユリさんが、
「もったいない……」
「もったいなくないさ。小さいころからあこがれてきたプロ野球選手になれたし、自分で予想していた以上の活躍もできたし、優勝の美酒も味わえた。クマさんじゃないけど、これからの野球人生はオマケのオマケだ」
「神無月さんは書くために生まれてきたんです。野球をやめても、死ぬまで書かなくちゃいけないわ」
「何を?」
「神無月さんの際立った感覚と、その感覚で表現する愛する人たちへの思い―」
「ふうん、ぼくの感覚も文章力も平凡なものだと自覚してるけどね。でも、まんいち書くことが使命だとするなら、ぼくは……ぼくに書かれる別のだれかの代わりに生きてることになるね。それはゾッとするような特権だ」
「神無月さんにはその特権があります」
 二人の差し出した手を握る。
「……来月で二十一歳になる。長く生きてきたなあ。……でも一瞬のような気もする」
 ユリさんが、
「私は今月の二十三日に五十二になります。神無月さんに遇ってからたった五年。あのとき少女に戻ったので、長く生きてきたような気がしません。五年はあっという間でした。なつかしいことも、五年間の中でのできごとばかりです」
「私も五年です。もともと少女だったので、羽島さんと同じ気持ちです。神無月さんは物心ついたときにはもう大人の人生を意識できる人だったんだと思います。どんなときも長く生きてきたと感じたんじゃないかしら」
「だから、とっても年上の人のように感じたりするのね」
「それでいて永遠の少年でもあるんです。比較されることを嫌う少年のような心じゃないと、野球に打ちこめないし、あんなにたくさんのホームランは打てないでしょうね」
「少年は比較されることを好むんじゃない?」
「比較され、競争したがるのは大人になりかけの子供か、大人そのものです。真の子供はそんなことバカバカしいと思ってます。だれかと比較される覚えはないと思ってるし、実力を証明したいだけだと思ってます。神無月さんは証明しました。それで心から満足なんです」
「神無月さんだけの満足を越えて、新聞、雑誌、テレビに取り上げられるスーパースターになっちゃったわ。偉大な運動選手は大衆やマスコミに採りあげられて有名になるの。有名人は、どう思われるかが大事。彼らに支持されればされるほど、偉大な選手になっていくのよ」
「……そうでしょうか。記録のレベルが型破りだから、そんなこととは関係なく別の人生が開けきたんじゃないでしょうか。いい大人にならずに子供のままでも、じゅうぶんスーパースタ―になれます。私たちはそういう子供に説教なんかせずに、その子供の人生 をじゃましないことだけを心がけてればいいんです」
「そのとおりね。あとはその型破りを誤解されないことが大切よ。黙々とホームランを打つ姿に熱狂するのは、野球少年たちと、野球の専門家と、野球好きの成人男性と、同僚のプロ野球選手たちだけだって書いてある記事を読んだわ。神無月さんに女性ファンはほとんどいない、ファンレターは球界でいちばん少ないって」
「人気なんか気にする必要がないし、女性票もどうでもいいと思う。神無月さんの身近にいる女の人たちだけがファンでいれば、ほかに女っ気は必要ないでしょう。野球は男の実力の世界です。そのことをわかっている人はたくさんいます。でも神無月さんはわかってない大勢の人にも一所懸命やさしくしてます」
「愛想よくしてるわね。愛想が悪いと、大金を手にして思い上がっているやつだと悪口を言う人が出てくるし、何さまだと言われる。それが耳に入るのは煩わしいから愛想よくするのね。煩わしさは何よりも神無月さんを傷つけるから」
「愛想じゃないんです。保身のための世故じゃないんです。ほんとうに根っからやさしい人なんです。……いまどき、重要人物としてコンクリートの上を駆けずり回っているうちに変わってしまう人が多いと思いませんか。自分以外の人間はバカだと見下して、結果は出すけれども判断力と思いやりを失って、人間ロードローラーになってしまう人が多いんです。神無月さんはきちんと判断して、そういう人たちにもやさしくしてます。世間の意見を気に留めちゃいけないわ。誤解なんてとんでもない。ファンが少ないことのほうを不思議がるべきです」
「……あなたの言うとおりよ。私が悪かったわ。美代子さんは神無月さんのことになると、呆れるほど夢中になるんだから」
「あたりまえです。羽島さんだってそうじゃないですか。神無月さんが暴漢に襲われたときだって、二、三日眠れなかったでしょう? 世間が作り上げた神無月さんのアラなんか心配してあげなくてもいいんです。気持ちよく野球をしてもらえれば、私たちにはこれ以上の幸せはないんですから」
「ええ。私、じつは神無月さんが押しも押されもしない人気者だってわかってるの。ファンレターなんかに関係のない、もっとスケールの大きな人気です」
「コマーシャルね」
「そう、リポビタンDとナボナ、ミズノとマツダ。スケールがちがうでしょう?」
「フフフ、本音が出ちゃった。贔屓の引き倒しですよ。そんなこと気にもしていないくせに。結局私たちが神無月さんのいちばんのファンだってことです。あ、そうだ、神無月さんに訊きたいことがあったんです」
「なに?」
「アメリカではワールドシリーズに優勝すると、チャンピオンズリングという指輪を作って選手に渡すそうですけど、中日ドラゴンズは作りましたか」
「日本にはそういうものはないね。日本シリーズ優勝チームにトロフィーや優勝旗が渡されるだけ。胴上げも日本独自のものだ。アメリカは、高校野球みたいにマウンドに選手全員集まって騒ぐようだね」


         三十五
 
「さ、そろそろ十二時よ。寝ましょう。あしたは昼に出発だから」
 ユリさんは寝室に敷き放しの蒲団へ促し、三組のパジャマを用意した。蒲団に入ってからも話が止まない。ユリさんが、
「ロードローラーって、うまい表現ね。現代人そのもの」
「はい、不機嫌に人びとを押しつぶす文明人です。原始人の神無月さんを苦しめる人たち……でもやさしくしてる」
 私は、
「ぼくがやさしくするのは、文明人の中でも下層の人たちだけだよ。もともと文明人でない人にはもちろん心を開く」
「下層って?」
「ひょっとしたらぼくがそうなっていたかも知れない人たちだ。それまでの努力が評価されて報われると思ってたのに、報われなかった人たち。苦手な政治や変化が、自分の大切な仕事より重要だと思い知らされた人たち。そんな虐待が積み重なると、かならず生活に長期的な影響が出る。ぼくが断ち切らなければ……一人でも、二人でも、なんとか」
「知り合いだけでも」
「うん」
 ユリさんが、
「ほんもののやさしさね。上層の文明人にはやさしくできないの?」
「人を押しつぶしてチヤホヤされて生きてる人間に心を懸ける必要はない。彼らの行く手に道を譲って危害を与えられないようにするだけで精いっぱいだ。ぼくは弱い人間に対しては思いやりを発揮できるけど、強い人間をいたわるほど政治的なアタマを使えないからね」
 ミヨちゃんが私のものに手を伸ばしてきた。
「……もう一度だけ。これが最後」
 ユリさんが、
「ほんとに最後ですよ。……私もご相伴します」
 と言ってうれしそうに微笑んだ。
         †
 四月九日木曜日。六時ごろミヨちゃんが蒲団を抜け出して自室に帰った。ユリさんも母屋の食堂へいった。私は二度寝をした。
八時に起き出して洗面、歯磨き、排便、シャワー。ジャージを着る。野辺地で買った運動靴は合船場に置いてきたので、女もののサンダルを足半分突っかけて、爪先立つような格好で裏戸から出る。歩きづらいので、戻って素足に革靴を履く。ユリさんとミヨちゃんが母屋からやってきた。ミヨちゃんが、
「散歩ですね。ご一緒します」
 小さな足にサンダルを突っかける。
「私は三人の朝食の支度をしてます」
 快晴。十・四度。筒井通りに出て、旧陸軍第五連隊正門から長い桜道を見やったあと引き返して、川からくる朝風を感じながら東北本線の迂回線路をくぐる。かつて死に場所を求めながら夜陰に歩いた道にはなかった低くて短い架橋だ。短い階段を登って堤川支流の岸辺に出る。木柵の下方がコンクリートの岸壁になっていて、その途中が石を敷き詰めた平らな添え岸壁として伸びている。降りていく階段でもあれば散歩道になりそうだが、あたりに階段は見当たらない。春の雪解け水が周囲の家並と緑の立木を映して、添え岸を舐めるように早足で流れている。
「春なのに急流じゃないね」
「今月の初めは荒々しかったですよ。……ああ、五年経ちました。あと二年」
「ミヨちゃんは六月七日生まれだったね。北村席にいる鈴木睦子という名大生も六月七日生まれだ」
「鈴木さんは伝説になってます。三年前の大秀才、野球部のマネージャー。神無月さんを追いかけて、東大から名大へ。すてき。青高野球部のマネージャーがもう一人、名大にいったんですよね」
「うん、木谷千佳子。東京で一浪して名大にきた。法学部の勉強が肌に合わなくて、来年は南山大学の英文科に移ろうとしてる。学者肌で情熱家の鈴木睦子を尊敬してて、ほとんど行動を共にしてるいいコンビなんだ。そこへヒデさんも加わった。賄いの女の人たちも含めてみんな北村席一家に取り巻かれてる」
「そのカナメは和子さんでしょう?」
「ちょっとちがうんだな。ぼくもずっとそう思ってきたし、いまだにそう思うところなきにしもあらずだけど、どうもちがうようだ。だれかがだれかの引力圏にあるというんじゃなくて、みんなが無意識に協和してる感じだね」
「そうでしょうか。神無月さんと和子さんは連星だと思います。大きな主星は神無月さん、伴星が和子さん。みんなはその連星に気持ちよく引きつけられる惑星。それでおたがい何のわだかまりもないという不思議な関係じゃないでしょうか」
「わだかまりがないのは、何の力関係もないからだよ。力関係があればどうしてもわだかまりが残る。つまり、ぼくたちはみんな、連なっているわけでも引きつけられているわけでもないから、自分たちの関係に無意識でいられる。だから不思議さなんかあるはずがない。とにかく協和してるんだ。……二年後が楽しみだ。首を長くして待ってるよ」
「はい! 朝ごはん食べたら、桜川を散歩しましょうか」
「いいね、青々とした稲田の道を通ってよく浪打のほうへ歩いたものだ。小笠原照芳という同級生と」
「巨人にいった人ですね」
「うん、今年は活躍すると思う」
「神無月さんが歩いたあたりは駒込川と荒川に挟まれた区域で、いまもまだそのままですが、荒川の南はすっかり団地になりました。去年洪水にやられましたけど、もう復興してます。たしか、和子さんも桜川に住んでましたね」
「うん、幼稚園のそば」
「桜川幼稚園ですね」
 厚切りのバタートースト、厚切りのハムステーキ、ホレタマ、コーンスープが居間のテーブルに用意されていた。パンは苦手なので一枚しか食えなかった。女たちは二枚食った。ミヨちゃんがユリさんに、
「桜を観ながら桜川を散歩しようと思って」
「いいわね、私もいきます。あ、神無月さん、ここにいたころに履いていた下駄をとってありますので、出します」
         †
 九時五十分。三人で青森高校の北側の塀沿いにいく。人けはない。テルヨシと歩いた農道をしばらくいき、住宅街に入りこむ。ミヨちゃんが、
「桜川中央通りです。市内でいちばんの桜の名所です」
「近所なのに、いままできたことがなかったわ」
 満開の桜並木を左右に見やりながら歩く。団地はポツリポツリとあるだけで、ほとんど新築住宅だ。カズちゃんが住んでいた家はすでになく、その一角に瀟洒な住宅が立ち並んでいた。桜川幼稚園。近代ふうに手が入れられている。覗きこめる園庭はない。復興で旧態に戻ることはけっしてない。延々とつづく桜並木を途中で見かぎり、左折して荒川のほうへ進む。川沿いの土手に出る。
「わあ、きれい!」
 ミヨちゃんが思わず叫ぶ。土手道に百日紅(さるすべり)の並木がつづいている。空が高く、南風に靡く雲が白い。川がきらめいて流れている。五年前とそっくりの岸辺の道を歩く。むかしとちがうのは、土手の片側に角張った住宅が建ち並び、処々に橋が架かっていることだ。三人で手をつなぐ。オレンジ色のヒナゲシが群生するT字路を曲がり、園庭を覗きこめる筒井幼稚園を過ぎ、白百合荘へ戻っていく。そろそろ十一時だ。裏戸を入ると二人がどことなくソワソワしはじめる。
「空港バスの時間を調べます」
「飛行機の予約は名古屋でとったのでだいじょうぶ。切符を買うだけ」
 ユリさんは水屋の抽斗からパンフレットを取り出し、
「一時二十分発だと、一時五十五分着だから焦りますね。一本前の十二時半にしましょう。ちょうど離陸一時間前の一時五分に着きます。チケットを買って、ロビーでコーヒーでも飲んで搭乗を待つ、と。余裕です。ここを十二時のタクシーで出れば間に合います」
「私、青森駅までいっしょにいきます」
「お願いね。私はお昼の支度があるから」
 すぐにタクシー会社に電話する。私はこの数日着た下着の上下とワイシャツ一枚をバッグから取り出して、代わりに南部煎餅二包みと干しホタテを詰めた。
「今度きたときのために置いてく」
「はい」
 ジャージと下着を脱いで裸になり、
「これも置いてく」
「はい」
 新しい下着とワイシャツを取り出す。すでにミヨちゃんが私のものを握り、含みはじめている。ユリさんが全裸になりながら、
「ごめんなさい、ぎりぎりまで甘えてしまって」
 ミヨちゃんは夢中で私の尻をさすっている。私は畳に仰向けになり、ミヨちゃんに服を脱いで顔に跨るように言う。ユリさんはミヨちゃんの胸を両手で抱えるようにして私のものに跨る。ミヨちゃんの乳房がユリさんの掌からあふれている。舌を使いはじめると、二つの声が上がりはじめ、切迫し、ほとんど同時に達する。二人は前後を交代し、ユリさんが私の顔の上で痙攣するあいだにミヨちゃんは数度痙攣する。二人四つん這いになり、私の抽送に応えて交互に温かい膣をふるわせながら心ゆくまでアクメを繰り返 す。ユリさんに射精する。これだけの交歓に十五分とかからなかったが、二人の回復にはかなりの時間がかかった。ミヨちゃんが、
「手を握って歩いてるときからおかしくなって」
「私も……」
「シャワーを浴びよう」
「はい!」
 二人声を合わせる。抱き合いながらくまなく石鹸を使う。
「十二月にくるね。そのときは連絡する。山口のリサイタルの様子は、手紙かハガキをちょうだい」
「はい」
「私は美代子さんが出す手紙に同封した写真でご挨拶に代えます。シーズン中くれぐれもおからだに気をつけて。遠くからいつも見守ってます」
 ブレザーに身を固め、革靴を履き、眼鏡をかけ、バッグを提げる。
「……ミヨちゃん、これ、十万円。五万円はサングラスのおじさんへの香奠。裸でごめんね。熨斗袋か何かに入れてお母さんに渡して。墨書きはユリさんにやってもらって。五万円は今年の勉強の費用に充てればいい。物入りだからね」
「―こんなに。ありがとうございます。大切に役立てます」
「はい、ユリさん、二万円。気持ちばかりのものだけど、二日間のお礼のつもり」
「お礼は私のほうが……でもありがとうございます。ときどき美代子さんと食事でもします。帰りの旅費は?」
「飛行機代だけは残してる。安心して」
 裏戸から白百合荘の正面に出て見納め、青高正門を見納め、はるか彼方の八甲田山系を見納める。ユリさんと握手する。小さい、かさついた手だ。関野商店の前で待っていたタクシーにミヨちゃんと乗る。年輩の運転手なので安心する。ユリさんに手を振る。顔容も姿もカズちゃんに重なった。緑の少ない松原通りを走る。ミヨちゃんが、
「羽島さん、きれい……」
「ミヨちゃんは妖しいくらいだよ」
「そんな……。折に触れ手紙を書きます。いつものとおり返事はいりません」
「たとえハガキでも、かならず返事は書く。ゆっくり、真剣に勉強してね」
「はい、気を抜かずにがんばります」
「お父さん、お母さんによろしく。冬こそお宅に寄ると言っといて」
「はい。跳び上がって喜ぶでしょう。来年、受験直前に野辺地のおじいさんおばあさんのところに顔を出そうと思ってます。名古屋にいくって報告に」
「心遣いありがとう。先の短い人たちだ。やさしくされるのを心からありがたがるよ。できたら、じっちゃばっちゃの写真を撮って送って」
「はい、かならず」
 青森駅に着く。ロータリー左手の観光案内所前に目立った色の空港バスが停まっている。大型だ。券売機で切符を買う。空港から青森駅に向かう場合は整理券を抜いて乗り、下車する際に料金を払うことになっていると教えられる。十分ほど待合の椅子に座る。
「駅からはバスで帰るの?」
「はい、青高前で停まりますから」
「キスをしたいけど、控えるね」
「障子に目あり、ですね。……九カ月、待ってます。名古屋のみなさんによろしく。……愛してます」
「ぼくも」
「信じてます」
 握手してバスのステップに上がる。客は十人足らず。最後部の窓際に席を取る。窓の外のミヨちゃんが大粒の涙を流す。バスが発車する。手を振る。ミヨちゃんも大きく手を振る。バスが新町通りに曲がりこんで、白いワンピース姿が消えるまで手を振る。


         三十六

 デパートや商業ビルがひょいひょい雑じる繁華な商店街を走る。新町一丁目。知っているようで知らない店の数々。県庁通り。停留所のたびに信号がある。この通りを何度も歩いたはずなのに、一つひとつの店に見覚えがない。新町二丁目、柳町通り、と停車していく。ワンマン運転手の声以外、車内に話し声一つしない。
 ビルが途切れ、堤橋を渡る。親しまなかった町並に入る。葛西家と映画、カズちゃんと野球道具と学生服、テルヨシと約束……。この国道沿いに走っていた機関車の姿はもうない。大野十文字。一、二分ごとに停車した間隔が五分になる。空き地の多いものさびしい浜町の風景。農協会館前。乗車限定バスが一般車よりスピード豊かに走る。青森放送前。停留所はこれですべて終わり。新町一丁目で二人乗ったきり、ほかの停留所からはだれも乗ってこなかった。右折して、民家と疎林と田畑を過ぎていく。商店は一軒もない。疎林が途切れると、新緑の森や農耕地が拡がる。十二時半に出発してここまで十六、七分。あと二十分か。
 単調な道をひた走ること二十分、空港導入路へ曲がりこみ、ターミナルビルに到着。三百五十円の切符を支払いボックスに投入して降りる。そのとき〈ようやく〉末子やミヨちゃんやユリさんのことを思い出した。特に別れぎわのさびしげな顔を。それから名古屋や東京や芦屋や広島や明石や福岡の女たちの顔を思い出した。持ち上げきれない何トンもの重量を両腕に感じた。架空の重さに感じていたものが現実のものに実感できた。
 あれほどのさびしさを前にして、ホームラン一本がどれだけの百人力がある? このまま私は長生きしていく。ホームランを打ちながら、ホームランを打った記憶を思い返しながら。
腕ばかりでなく、足の骨も腰の骨も背骨も変形を重ね、一年でも早くからだじゅうが皺だらけ、シミだらけになり、醜悪な怪物のようになってほしい。それで足りないなら、皮も骨も砕け散ればいい。しかし、皮も骨も砕け散っても、彼女たちが私を幸福の源とするかぎり、私は力を振り絞って再生しようと蠢く。
         †
 三時半、小牧空港ロビーで出迎えの菅野と再会する。アヤメの早番の百江と優子もいる。
「お帰りなさい!」
「ただいま!」
 いやになつかしい。握手。女二人とも握手。この世に彼らしかいない感じになる。優子が、
「今朝からムッちゃんたちは旅行に出かけました」
「ああ、万葉旅行」
「素子たちの入学式、無事終わった?」
 百江が、
「はい。おとといがソテツちゃんと千鶴ちゃんの熱田高校、きのうが素ちゃんの文理栄養学校。どちらもお嬢さんと社長夫婦とムッちゃんたちが出席しました」
 菅野が、
「もちろん私も。熱田高校は二十七名、栄養学校は八十名でしたが、立派な入学式でした」
 みんなで車に乗りこむ。
「栄養学校はどこらへんにあるんだっけ」
 菅野が、
「環状線を康生通りに突き当たって、左折した右手です。東レ工場の真向かい。名駅から車で十五分くらいです」
「遠いな。ローバーの出番だね」
「広い駐車場がありますから車で通学するのがいちばんいいと思ったんですが、きびしい学校で、公共交通機関と自転車の通学以外は禁止なんですよ。名駅前から市バスに乗ることになります。学校の目の前の堀越町のバス停まで十五分。九時授業開始なので、八時半にはバスに乗らなくちゃいけません。面倒ですね」
「熱田高校も面倒だったよね」
「ええ、五時四十分授業開始なので、五時には国鉄に乗らないと」
「北村席から名駅まで歩いて五分、熱田まで十分足らず、熱田から市電で南一番町まで十分足らず。乗り換えも含めて三十分くらいか。勉強そのものより、その面倒さを満喫するのが青春だよ。何時に帰るの」
「ソテツたちは月曜日から土曜日まで四十五分四コマ、九時終了なので、帰ってくるのは九時半過ぎでしょう。素ちゃんも月曜日から土曜日まで一時間半の授業が四コマあるそうです。午後の四時十分まで。どちらも十三日が初日です。あさってまでアイリスに勤めるそうです」
「一時間半授業! それを二年間か。生やさしくないな。専門家への道はきびしい」
 優子が、
「青森はどうでした」
「祖父母と丸二日間行動を共にした。別れぎわが切ない。ほかに、三人の女に会った。これも別れぎわが切なかった」
 菅野が、
「別れぎわには一瞬義務感が消えますからね。四日間相当がんばりましたね。さっきは開放感いっぱいの顔をしてましたよ」
「うん、みんなを抱き締めたくなった」
「私たちはいつも抱き締められてますよ。あ、そうそう」
 ダッシュボードから二葉の写真を取り出し、
「後楽園球場のジャンボスタンドとスコアボードです。この一日からジャンボスタンドの場所にあった照明灯は撤去されて、小型のものが二基になりました。スコアボードが全電光式になったのはご存じですね」
「うん。……へえ、センター場外に建てたんですね。バカでかいな。下の端まで何メートルくらいあるのかな」
「スコアボードの高さですか? さあ……盛り土で高くしてあるとは聞いてますけど」
「いや、ホームランの距離」
「百四十メートル……百五十メートル前後ですかね。ブルペンはポール横の内外野の接合部に移されました。フェンスはコンクリートのままです。来年ラバーフェンスにする予定だそうです。本来開幕戦は前年度上位チームの持ち球場でやるべきものなんですが、 電光掲示板のこけら落としをしてほしいという読売側のたっての要望で、開幕戦一試合だけ後楽園球場でやることになったんです。中日球場の開幕戦は十四日の阪神戦になります」
「中日球場はどこも変わらないの?」
「まったく。照明灯八基、収容人員も三万五千人のまま。電光化するのはまだまだ先のようです」
「よかった。電光化するころには、水原監督も江藤さんたちもぼくも辞めてる。両翼九十一メートル五十センチ、中堅百十八メートル九十センチ、フェンスは日本一低い二メートル十三センチ。ライト寄りのスコアボード。理想形だ。広すぎないフィールド、スコ アボードがセンターより右か左寄りにあると、バッターはバックスクリーンを背景にしたピッチャーの投球に集中できる。特にフェンスの低いのがいい。野球をしているときに圧迫感がない。フェンスはないに越したことはないけど、ホームランの目安だし、硬球 は危険だからね。相撲の桟敷席も関取たちの圧迫感を取り除くためのものじゃないかな」
「なるほど。あそこに四、五メートルのフェンスがあって、観客が上から見下ろしていたら相撲をとるのも窮屈でしょうね。相撲は二メートルもだめだな」
「危険なボールが飛んでくるわけじゃないからね。……野球がどんどんつまらない模様替えをしていく。しっとりした手書きが電球になった。いずれ観客との親しい交流を断ち切る方向に進むだろうね。球場が巨大化して、金網とフェンスがどんどん高くなること はまちがいない。観客を守るというより、興奮した観客を乱入させないようにね」
「ああ、楽しい会話が始まった。外から帰ってきた神無月さんは、たまってるものを吐き出してくれるからいい。あしたは名古屋観光ホテルでスポーツ功労賞の授賞式ですよ。一時です」
「あ、忘れてた!」
 四人、声を上げて笑った。
 四時二十分過ぎに北村席に帰り着き、菅野はファインホースへ、百江と優子は座敷へ、女将は来客接待中、私は主人に土産を渡したあと、
「お帰りなさい!」
 と飛び出してきたトモヨさんとソテツと千鶴に小鳥のキスをし、新品のジャージ着替えて芝庭に出る。幣原に見守られながら直人とジャッキとしばし戯れる。直人がボールを投げ、ジャッキが咥えて戻る。何投目かでボールが池に落ちたので、幣原が熊手で掻き 寄せて拾い上げる。それを見た直人が、もう一度ボールをエイと投げこんで、不器用に熊手を使う。ブロックの岸があってうまくいかないので、直人は玄関へ走っていって昆虫網を取ってきた。どうにか掬い上げ、得意そうに笑う。私と幣原は思わず大笑いする。遊び終了。
「じゃ、ジャッキのお散歩をしてきます」
「いってらっしゃい」
 座敷でイネがかわいらしいベビー服を着たカンナに後追いさせながら、ハイハイやズリ這いを促している。案外素早く移動し、ときどきテーブルにつかまり立ちする。百江と優子が寄り添う。直人はステージ部屋で千鶴とパズル。百江がトモヨさんに、
「九カ月ぐらいになると、昼寝の時間が二回に決まるでしょう?」
「はい。朝六時に起きて、十時と二時の二回に定まりました。食事は七時、十二時、六時の三回。大人と同じ時間に食べさせるのがいいんですって。コップで水が飲めるようになったんですよ。手を添えてあげるんですけどね」
「イヤイヤとかバイバイみたいな動作は?」
「します。バンザイやおててパチパチのまねをします。このあいだ幣原さんが自分の足の甲にカンナの足を載せて、オイッチニ、オイッチニをやってました。感心しちゃった」
 優子が、
「健診はしてるんですか」
「一カ月、三カ月、半年とやりました。今月末に、乳児期後期健診をします。そのあとは、一歳半と三歳健診だけです」
 私は、
「そんなにやってるんだ。直人のころのことを忘れてしまったなあ」
 トモヨさんは笑いながら、
「忘れるも何も、郷くんは名古屋西高から東大、大学野球からプロ野球への忙しい時期でしたから、直人にほとんどタッチしてなかったんですよ。いまは忙しい中なのに、しっかり子育てに協力してくれてます。ほんとにありがとうございます」
「働く母親と働く父親が協力し合うのはあたりまえのことだよ。ただ、十分の一も協力できてないと思うな。十分の九のうち六、七は北村一家が尽力してる」
 主人が、
「尽力なんてもんやなく、みんな楽しんで子供と遊んどるんですよ。きちんと計画立てて子育てしとるのはトモヨやな。神無月さんの大事な子やからね。神無月さん、つまらん反省なんかせんと、しあさっての巨人戦のことを考えたほうがええで。先発は高橋一三か浜野とワシは踏んどる」
「ピッチャーのことはバッターボックスで考えます。谷沢さんの起用が気がかりです。代わりに出るとしたら、中さんか江藤さんか、それとも太田の代わりか。春先の中さんは外せない。毎年四割近く打つ人ですから。江藤さんの代わりはぜったい務まらない。と すると太田と半々で使うか、三一で使うか」
「太田さんが当たってないときの代打でしょう。あるいは、不調の選手が出てくるまで使わないか。ところで電光掲示板の印象はどうですか」
「写真で見るかぎり、キメが粗いのでイライラします。人が書いた迫力のある字に見えるくらい改良されないと落ち着かないですね。上のほうにくっついてる横長ののっぺらぼうのボードは何ですか。コマーシャルのネオンでも設えるゾーンかな。チラチラ何か映されたら迷惑です。ホームラン噴水はどうなったんですか」
「今年から撤去やそうや」
「やっぱりね。あれも野球の華のホームランを軽薄なものに見せます。なくなってよかった。ほかにも苛立つことはあります。まず、ブルペンが内外野間の通路に隠れてしまったこと。選手やファンの気持ちをまったく考えていない。ブルペンで投げているピッ チャーが試合の進行状況を観られなくなって、やる気が半減するでしょうね。江夏なんかよくブルペンからじっと試合を見つめてますよ。うちの小川さんもそうです。観客にしても、次のピッチャーはだれだろうと胸躍らすこともなくなる。次に、外野席のポールを越えてこれ見よがしに食いこんだジャンボスタンド。これまでも後楽園の異様に大きい内野二階席には呆れてました。球場にかぶさる大空を遮って、野球を楽しむ人たちに窮屈な思いをさせてたんですからね。だいたい、人が米粒みたいに見える二階席から選手 一人ひとりの美しいプレイなど堪能できない。それでもいままでは、二階席の端の場外ファールゾーンの空と、外野の場外ホームランゾーンの空が救いだった。そこを侵食してしまったら、後楽園球場はただの密閉空間になってしまう。そして、そうなっちゃったんですよ。すばらしい打球の弾道を見極められるのは大空を背景にしたときだけです。大飛球が描く白い線に目を奪われることこそ、野球の醍醐味なんです。ジャンボスタンドはいちばん作ってはいけないものでした」
「ふーん……残っているのは右中間から左中間の外野席の上空だけですか。その真ん中にでっかい電光板を建ておって―。いつも神無月さんが言ってるように、たしかに中日球場はいろいろな意味で理想的な球場ですな」
 どうでもいい会話をしているという自覚がある。しかし楽しいし、するべき会話だと思う。



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