三十七
イネが、
「神無月さんのお土産で、干しホダデと舞茸の炊きこみごはんを作るこどにした。クニの大湊でもよぐやるすけ」
ちょうど帰ってきた幣原が、
「いいわね、炊きこみごはん」
「たきこみごはん!」
直人が叫ぶ。ソテツが、
「子供用に、貝柱と鶏モモの中華粥を作ります。みなさんもよろしければ、そちらもどうぞ。お吸物はサッパリと、春雨とカブと小松菜の中華スープにします」
幣原が、
「余った貝柱はあしたの夜、ホウレン草とクリーム煮にしましょうよ」
「賛成!」
「干しホタテは酒の肴に齧るものだと思ってた。意外だな」
菅野と連れ立ってカズちゃんたちが帰ってきた。ジャッキが吠え、直人がまとわりつく。女将も帳場から出てきた。
「キョウちゃん、お帰りなさい!」
「ただいま」
「おじいちゃんおばあちゃん、元気だった」
「ばっちゃはだいじょうぶ。じっちゃが少し足腰にガタがきてるかな。いい杖を買ってあげた。二人ともモダンな暮らしをしてたよ。当分安心だ」
「よかった。シーズンが終わったらかならずいってあげてね」
「そのつもり」
素子が、
「牛巻坂、ええわァ。五百野みたいには泣けんけど、神経に刺さるわ」
菅野が、
「一段レベルの高い名作ですね」
カズちゃんが、
「登場人物は本人も含めて全員仮名だから、しっかりした虚構として受け入れられる作品ね。節子さんは実名で登場しないけど、彼女、先を読むのが怖いって電話してきたわ。キョウちゃんが自分を浄化しようとして書いた小説なんだから、生まれ変わったあなたもこの作品で最後のミソギをしなさいって言ってあげた」
メイ子が、
「雅江さんは打ちのめされるかも。善良な人に描かれてるから」
「彼女は善良な人よ。小説の時代から何年か経って、冒険心がなくなっただけ。それを非難することはできないわ。生存本能だもの。キョウちゃんにはないものだから、妥協するのは難しいわね」
「ぼくにも生存本能はあるよ」
「野球の中だけね。私たちの中ではそんな本能は要らないはずよ。見世物でない生活の中でキョウちゃんは私たちを生かし、私たちはキョウちゃんを生かしてる。おたがいに助け合い、落ちこんだらおたがいに元気づけ、おたがいにそばにいる。生き延びようとする本能なんかいらないの。冒険心がありさえすれば、あとは相手まかせよ。でもプロ野球選手としてのキョウちゃんはフェンスの内側にいるということ、自分たちがショーの一部だということ。それはまさしく小さいころからキョウちゃんがなりたかったものなの。ショーにはバットとグローブを持って登場する。その格好だけでも〈生活〉をしてるんじゃないことがわかるわ。そうなるために数え切れない予選を通過してきたわ。そのために生きてきたんだから、そうする必要があったのは当然ね。ショーに比べれば予選なんて些細なことよ。せっかく予選を通過したのにショーに出られない人もいる。生存本能の強さが足りなかったからよ。だから本能を高めようと奮闘してキョウちゃんたちの地位を脅かす。キョウちゃんたちはショーの一部でありつづけようとしてますます本能を研ぎ澄ます。一点の曇りもない生存本能。すごい景色だわ。ショーに出場できない人の特徴は、緊張しすぎること。どんなスポーツもその最中に緊張しすぎると、まともな演技ができなくなってしまうの」
「彼らの気持ちはわかるんだ。純粋なバッティングの感覚、投球の感覚、打ったボールや投げたボールが自分の意図したとおりに動く楽しい感覚が恋しいだろうね。ぼくも打ったり投げたりすることは楽しい。でも、彼らが楽しいと感じるのは意図したとおりにボールが動くことで、そこで追求が終わってしまって、野球というゲームそのものを楽しむ気持ちに至れない。リラックスしてゲームを楽しみながら、最終的に〈勝ち抜く〉ためにプレイしていないなら、真の野球をしていないということなんだ。自分を信頼してリラックスしなければ、せっかくの才能は役に立たない。リラックスのもとになる自己信頼を得るには、猛烈な鍛錬と工夫を継続する努力が要る」
素子がカズちゃんに、
「キョウちゃんの言うことは難しいけど、ボンヤリわかる。雅江ちゃんは男と女のショーに参加しようとして、緊張しすぎて生活の生存本能を発揮してまったゆうことやね」
「そうよ。気兼ねなく助け合える人がそばにいることに気づかなかったのね。悲しいことだわ」
食卓が整っていく。トモヨさんがいち早く直人とカンナに食事をさせる。中華粥と中華スープだ。直人は炊きこみごはんも少し食べる。カズちゃんは配膳の手助けをしながら語りつづける。
「キョウちゃんが結婚せずに、いまのような生活をつづければ、愚かな人間かしら? たぶん世間の評価ではそうよ。たいていのことを正しく行なってきた愚かな人間が、目指した一つの愛も正しく行なおうとして世間の基準に従おうとしたのだけれど、彼にはその準備ができていなかった。人を愛する準備はできていたけど、しきたりに合わせる準備はできていなかった。それは恥ずかしいことじゃないわ。だれかを愛することは難しいし、万人に認められる権利でもない。付和雷同することは簡単よ。妥協は万人に認められる権利だから」
菅野が、
「雅江さんは逃げなければならなかったんでしょう」
カズちゃんがうなずき、
「……未来からね」
「はい。自分の未来がどこで終わるかがわかっていたからです。常に恋をしたいと思って動き回っていると、イライラして、早く決着をつけたいと思うものです。すべての人間関係に花火のような結果を期待すると、人を遠ざけてしまいます。だから妥協が必要になるんです。無理のない範囲でたがいに期待しないようにすると、居直るプレッシャーがなくなるわけです。でもそれだと、ありのままの自分でいられなくなりますけどね。……雅江さんには世間の基準から外れた人生を送るのはかなり難しい。世間の目を気にしない波乱に満ちた男女関係に待ったをかける環境にいますから」
大人たちが箸とスプーンを動かしはじめる。カズちゃんが、
「基準も波乱も認めてこそ、人間関係に調和が保たれるのよ。キョウちゃんを愛し、キョウちゃんをよく知っているから、キョウちゃんの心を読むことができるし、キョウちゃんも私たちを愛してよく知ってるから私たちの心がわかる。だからこそおたがいに信頼し合える。私たちのあいだに愛があるからこそ、調和を保つことができるの。キョウちゃんが野球で活躍をつづけるためには、愛が必要なの。私たちの生活をつづけるためにもね。だれが何と言おうと〈愛が答え〉なの。……キョウちゃん、野球のすばらしさを即興詩にしてくれる?」
「詩に? このごろは散文を書きつけてるので、散文調になっちゃうと思うけど」
「何調でも、お願い。長いあいだキョウちゃんの詩を耳にしてないわ」
厨房から女たちが集まってきた。私は箸を止め、呟く。
盆のような箱庭から ただよい昇る土と芝のにおい
盆の崖から寄せてきては退いていく 喝采の波
太鼓や鐘の音が聞こえる
鼓舞される恥ずかしがり屋が
うなだれたまま 絢爛たる返礼を誓う
「すてき!」
「すごいもんやなあ」
女たちが拍手し、主人が拍手し、菅野が拍手する。トモヨさんが何度もうなずき、直人がまねをする。カズちゃんが、
「すばらしいわ!」
菅野が、
「最高ですよ、神無月さん、野球場が目に浮かびました」
「野球は難しく、残酷なものです。簡単なときもあるけど、それはごくマレなことなので詠えませんでした。ほとんどの場合、特にバッターは謙虚になるんです。正確に計れないミリ単位のミートで結果が決まりますから。ホームランか凡フライか、右中間を抜くかセカンドゴロか、ほんのわずかなミリ単位のちがいが個人やチームの勝敗を分けます。ぼくの打球スピードは百九十キロ前後らしいですが、そのスピードはすべてぼくのからだから生み出されてます。エンジンもガソリンもない。だからぼくのからだがその力を出すためには、リラックスして集中する必要がある。謙虚な気持ちでからだと心を調和させなくちゃいけないんです」
カンナが何か喃語を発した。トモヨさんが、
「郷くんの言葉の一部をまねたんですね。何だかわかりませんけど、郷くんの真剣さを感じたんだと思います」
直人がカンナの下唇をそっと押した。主人が、
「プレッシャーに負けてその調和を失ってまうと、まちがった判断をするわけやな。すると打球がまちがった方向へ百九十キロの力で飛んでくことになる」
「はい、パニックになって集中力を失い、急ぎはじめ、早く結果を出したくなる。グズグズしてると致命傷を与えられると思うんですね。野球でいちばん重要なのは、冷静に自分のするべきことを読む作業です」
菅野が、
「あたりまえの作業ですね。プロ野球選手になるために生まれてきたんですから。バッターボックスに立ったら、集中して自分のするべきことだけを見つめる。読み切ったら未来だけを見る。その瞬間のために人生懸けて努力してきたんです」
「はい、すべてはそこに帰結します」
優子が、
「……そんなに深く考えて、野球選手は投げたり打ったりしてるんですね」
「考えた結果は単純だよ。ホームラン―それがバッターの究極の夢だ。ほかに同じものはない」
箸が鳴り、スプーンが鳴る。女将が、
「こういう話が出てくると、また野球の季節がやってきたなあて思うわ」
「そうですか。ぼくは年じゅうです」
千鶴が、
「うちらは神無月さんに年じゅう」
食卓が片づけられはじめる。テレビが点く。カズちゃんが、
「ひさしぶりに直人とお風呂に入ろうっと」
トモヨさんがカンナを抱き上げ、素子が直人の手を引いて、四、五人で風呂へいく。菅野が、
「またランニングの毎日が始まりますね」
「うん、四日間の取りこぼし。一年間にひと月ぐらい取りこぼす」
女将が、
「息抜き、息抜き。神無月さんに取りこぼしなんかあれせんよ」
主人と菅野が見回りに出、かよい三人、住みこみ二人、イネと千鶴の賄い七人が食卓につく。ソテツと幣原がおさんどんをする。テレビはクイズタイムショック。田宮二郎の愛想笑い。
「俗に、歳月何を待たず?」
「人」
百江が答える。
「二百十日はいつから数えてのこと?」
「立春」
女将が答える。
「国宝を指定するのは何大臣?」
「…………」
文部大臣の解答が出る。
「シナリオライタ―松山善三の夫人の名前は?」
「高峰秀子」
メイ子が答える。頭のノロい私はついていけない。関取とかバドミントンとか、みんな活発に答えているうちに最終問題。
「川柳に、角な座敷を丸く掃き、とありますが、この上の句は?」
解答者が、
「無精者」
と答える。正解は居候と出たが、解答者の答えもピンポンが鳴った。風呂から戻ってきたカズちゃんが、
「川柳に、と言ってる以上、原本どおり居候じゃないといけないでしょ。居候は無精者や横着者が多いとにおわせてるわけだから、結果を先に言ったんじゃおもしろ味がないわ」
「原本て何?」
「柳多留(やなぎだる)ね。江戸の古川柳。選集みたいなものは出てるんでしょうけど持ってないわ。朝帰りだんだん家が近くなり。聞いたことがあるでしょう」
「ああ、圓生の落語で聴いた。子別れだったかな」
三十八
カンナを抱えたトモヨさんと直人が並んで、おとうちゃんお休みなさいを言う。
「お休み」
女たちも全員、
「お休みなさい」
「おとうちゃん、あしたあそぶ?」
「あしたもあさっても遊べるよ。保育所から帰ったらね」
「うん!」
母子が離れへ去っていく。カズちゃんが、
「きょうはこちらで休みなさい。あしたは名古屋観光ホテルだから、手っとり早く支度できるでしょ」
「いや、一時間でも書いて寝る。もう少ししたらいっしょに帰ろう」
八木治郎の万国ビックリショー。出演者はアジア系の外国人ばかり。電球を食う男、タイヤチューブパンク男、バスに腹を轢かせる男。ゲテモノ趣味。
「これあかんわ、替えてや」
女将に言われて、ソテツがケンちゃんトコちゃんに替える。無害。賄いたちがテーブルを片づけはじめる。カズちゃんが、
「さ、引き揚げましょう。じゃおかあさん、帰るわ。あしたのお昼、キョウちゃんをよろしくね」
「はいよ。朝ごはんはええの?」
「ゆっくり寝かせておきたいから、お昼だけお願い。ランニングは九時ごろって菅野さんに伝えといて」
「ほいほい。言っとくよ」
「名古屋観光ホテルは九月の末から改築に入るらしいわね。三年間休業する予定だって新聞に載ってた」
「ほうみたいやな。球団行事は名古屋ではしばらくやらんのやろか」
「それはないでしょう。優勝のパーティや納会があるんだから」
「でもどこでやるんかな」
「名鉄グランドホテルじゃない?」
「豊田ビルの名古屋都ホテルは巨人の定宿やからな」
「あそこも巨人が使わないときは中日が使うと思うわ。もともと地元のホテルだもの」
ソテツたちが立ち上がり、門まで送って出る。
「あしたの昼は、ビーフカレーがいいな」
「わかりました。おいしいカレーを作ります」
「だいぶ空いちゃった子いる?」
「私と千鶴さんです」
優子が答える。
「適当に則武にいらっしゃい。シーズンに入ったら、キョウちゃんもなかなかお相手できなくなるし、高校も予習復習で忙しくなるしね」
「私は、あしたの夜いきます」
「うちはあさって」
ソテツたちに手を振り夜道を歩きだす。カズちゃんが私に、
「論語はどうだった?」
「教訓話は退屈だ。もういいかな」
「そう? ミステリー小説は?」
「まだるっこくて……」
「見かぎるのは早いかも。古典、現代小説、純文学、大衆小説、犯罪小説などと言うのは文章傾向を示す表現にすぎないの。言葉のあやとか、物語の設定を脇へ追いやれば初歩的なことが残るわ。人間のすばらしい本質である好奇心や、発見への熱意や、知りたいという願望……私たちの本当の姿が見えてくるのよ。キョウちゃんはそれがよくわかってる書く人だけど、それをいつも忘れないために読むことにも精力を傾けなくちゃ」
私は立ち止まり、カズちゃんを抱き締めた。
「著者を信頼して、同盟関係を結ばなくちゃね。ジャン・クリストフも考え直さなければいけないかな」
「旅のお供にすればいいだけのことだから、深く考えないことよ。人間の真実を忘れないためだっていつも思っていれば」
素子が、
「セックスと同じやね」
「そう」
五人、則武の居間に落ち着き、木曜洋画劇場を観る。バターフィールド8。昭和三十五年のアメリカ映画。主演のエリザベス・テイラーはこの映画でアカデミー主演女優賞を獲ったと紹介される。共演ローレンス・ハーヴェイ。顔の大きい、渋い役者だ。『年上の女』で共演したシモーヌ・シニョレは忘れられない。
ベッドで女が目覚め、リゲット! と男の名前を呼んだが、返事がないので、煙草を探し、ウイスキーを飲むというロングショットから始まる。妻が留守中の男の部屋のようだ。枕もとに二百五十ドル置いてある。九万円か。高級娼婦への支払いと踏んだ。女は鏡に口紅でノー・セイルと書きつける。金銭づくで寝たのではないと腹を立てたようだ。金をそのまま置き捨て〈バターフィールド8〉に電話して客の有無を確かめる。売春斡旋所の番号だろう。男の妻のファーコートとスコッチを一本失敬して退散する。
「ベージュのサテンスリップ、すてきですね」
「靴もいいじゃない。サーモンピンクのラメ入りハイヒールパンプスよ」
「ワイドスリーブの毛皮コートっておしゃれ」
「生地はクリームカシミヤ」
どんどんファッションの名が出る。女の神秘だ。
マツダとミズノの提供なので、しきりに私の顔が映し出される。百江がそのつど拍手する。照れくさい。カズちゃんがうっとりして、
「映画俳優よりきれいね」
ドラマが進むにつれ、結婚生活に不満を抱く製薬会社の重役と売春婦との哀恋とわかってくる。劇中の科白。
「なぜ人生を浪費する」
「女は男に犠牲を強いられると、その分、男の愛を確信するのよ」
「この世の三大買いかぶりは、家庭の愛、家庭料理、それから家庭の安全だ」
「どんな人間も値札付きだし、ぼくは高値をいとわない」
「恋は多くの問題を解決するが、同時に複雑だ。完全な解決を願うのは危険だ」
「人はすべてを持ってないわ。何だろうと、いまあるわずかなものに感謝すべきよ」
作品の中ではだれもが哲学者になる。薄っぺらい科白ではないが、胸に迫らない。数あるテレビ工場生産のメロドラマよりマシという程度だ。
素子が食い入るように観ている。―どんな作物にも人間の真実を見出すこと。メイ子が、
「幼馴染のミュージシャン役のこのエディ・フィッシャーという俳優、何人目かの旦那さんだった人ですよ」
「変わったハンドバッグだな」
「ボックス型クラッチと言うの。ブランドで固めた映画ね」
さびしく生きてきた売春婦が、生涯に一人と決めた男の愛を求めてさまよう。そして足を洗おうとする。これはしみじみとわかる。その気持ちを察し、人生懸けて愛し返した女だったはずなのに、妻の毛皮コート一枚を拝借されたくらいの理由で、恥だ、汚らわしい淫売だと罵り倒して女と別れる男の心理はわからない。脚本がじっくり練られていないせいだろう。傷心の女はミュージシャンを訪ね、少女時代に母の恋人に汚されたことが契機で好色に目覚め、ある種の社会貢献的な意識から売春婦になったと告白する。はァ? 一人の男への愛情の確認と決意をしなければならない緊急のときに、そんなあたりまえの人間生理を呪うような告白をする意味は? ますますわからない。
後日、男は妻と訣別して家を出、女を訪ねて命懸けで謝罪し、深甚の愛を吐露しながら結婚を申し出る。女は男が何もかも捨てて懇願していることをはっきり覚っているのに、先日の罵りを自分に対する烙印だと感じていると言い返して許さず、男から逃走する。この心理も謎だ。生涯に一人と決めた男ではなかったのか。女は逃走の途中で崖から落ちて死ぬ。
コーヒーになる。素子が、
「娘時代のくだらんできごとのせいで自分がスケベやとわかったなんて、お笑い草や。嘘やろ。人間はみんな多かれ少なかれスケベやで。そんなことがきっかけでコールガールになるゆうことはあれせんわ。あの商売するのにそんなもっともらしい個人的理由はま ずないで。まんいちあったとして、そんなどうでもええことがカセになって、せっかく巡り会えた大事な男を振り切って逃げるやろか? いくら罵られたかてあり得んわ。……あげくに死んでまうなんてふざけとる。おかしいんやない? 一途に、穢れのない心で 愛しとるんやから、それだけでバンザイやろが。男もおかしいわ。たかが女房の持ち物一つに拘って、ケチョンケチョンに好きな女を痛めつけるなんてな」
カズちゃんが、
「男が悪態をついたり、女が逃げて死んだのはシナリオのミスよ。素ちゃんが腹を立てることはちっともないの。素ちゃんほど純粋な女はいないもの」
「純粋な〈経験者〉は、やろ」
「そういう言い方もあるわね。でもそのおかげでキョウちゃんに遇えたんじゃないの。ラッキーだったでしょう」
メイ子が、
「神無月さんの女のうち、私を含めて五人も純粋な経験者ですよ。ラッキーでした」
「経験者だろうとなかろうと、人間はみんなスケベよ。悩みの種になることじゃないわ。心がどれほど純粋かを悩まなくちゃ。あなたたちには悩みなんかないの。だからつまらなく悩む人を見ると、不純さがわかって腹が立つのよ」
私は、
「売春婦物の映画って、経験者が身につまされるストーリーは一つもないようだね。さ、ぼくは少しでも書いて寝るよ。お休み」
「お休みなさい」
†
四月十日金曜日。八時起床。ぐっすり眠った。曇。二・九度。寝惚けまなこで下へいくと、みんなすでに朝食のあと片づけをしていて、私の分にキッチンパラソルがかぶせてある。ベーコンエッグ、大根サラダ、キュウリとミョウガの和え物、鶏とジャガイモの バター醤油炒め。百江が、
「お味噌汁は白菜です。汚れた食器はシンクのボールに漬けといてください」
「オッケイ。ほったらかしておくとご飯粒がこびりついちゃうんだよね」
「月曜日からは中番ですから、お手数かけません」
「大した手数じゃないよ。じゃいってらっしゃい」
「いってきます」
八時二十分、四人出かけていく。筋トレ室にいき、ラットプルダウンをやりながら便意を待つ。便意がきたので、八十キロを三回挙げてからトイレへ。軟便が滑り出る。シャワー、歯磨き、洗髪。新しい下着とジャージに着替え、枇杷酒でうがい。めしを食う。
ジャージ姿の菅野がやってきて、ランニングに出発。きょうはひさしぶりに駅玄関から桜通を通ってテレビ塔へ向かう。往復五キロのほぼ直線路。青年像と噴水を右に見て、電停横の横断歩道を大名古屋ビルヂングへ渡る。11番の市電が停まっている。明るい 緑色のイチョウ並木の連なる舗道を走り出す。
「いつ見ても壮大な並木だなあ」
「久屋大通まで百二十本です」
「うす緑、深緑、黄色と季節ごとに変わっていくんだね」
泥江町から桜橋、日銀前。
「あんなところに小さな神社がありますね」
通りの反対側を指差す。
「ああ、桜天神社。菅原道真を祀る名古屋三大天神の一つです。帰りに寄ってみましょう」
久屋大通到着。右折してテレビ塔下の公園に入る。
「三種の神器!」
「はい!」
私は百回ずつ、菅野は五十回ずつ。
「オッケイ、休憩!」
「はい!」
「帰りまーす!」
「ヨシャ!」
往路よりややスピード上げて走る。
三十九
ビルの狭間の桜天神社に立ち寄る。小鳥居をくぐった隘路の奥に小ぶりな社が一つ見えるきりだが、菅野に促されて進んでいく。社の右に広い空間があり、いきなり大量の柄杓が奉納されている手水舎が目に飛びこんできた。小さな石の牛が水場の前方に横たわっている。
「願いの水の牛と言います。あの牛に水をかけて願いごとをすると叶うと言われてます。秀樹もここにきて、字がうまくなるようにと願かけをしました。あの隣にある像は、道真が愛した鷽(うそ)という鳥の木彫りです。道真が大宰府に流される途上で海難に遭いそうになったとき水先案内をしたとか、祭事をしていたときに現れた蜂の大軍を退治してくれたとか、縁起鳥と伝えられていて、天神社では欠かせない名物になってます」
「ヒヨ、ヒヨ、とかわいい声で鳴く鳥ですね。ふっくらと丸いからだをした、喉の赤い」
「そうですか。この像からフクロウみたいな鳥だと思ってました」
「その隣の、ドタッと横たわってる牛は?」
「撫で牛です。自分のからだを撫でてから牛のからだの同じ場所を撫でると、悪い場所が治るとされてます」
奥に立派な社殿があった。学生たちが何人か参拝している。すでに国立二期校の発表も終わっている時期だから、合格のお礼参りにでもきているのだろう。賽銭箱に菅野が百円放って鈴を鳴らしたので、便乗して、彼の背中で掌を合わせる。『このまま進みます。ご加護のほどを』と祈った。気分が爽快になる。おみ籤所があったが引かなかった。
「さ、いきましょう」
「はい」
さらにスピードを上げて駆け出す。正体の知れないビルばかりなので、地面だけを見つめて走ればいい。北村席に帰り着いて、二人でシャワー。
「菅野さん、桜神社で何を祈ったんですか?」
「叶いそうで、なかなか叶わないことです」
「何ですか」
「……ふつうの量の幸せです」
「ふつうの? いまは不幸ですか?」
「とんでもない。幸せすぎるので、少しでも減ってほしいと思って」
「変わった願いだなあ。幸せが口になずんでおいしくなくなったとか」
「まさか。神無月さんから一方的にいただいてる幸せをみんなと割り勘にして、割り前を払えるようになりたいんです」
「天知る地知る、最初からみんなで払ってくれてます。それを足し算したら、幸せすぎるのはぼくのほうです。すごい借金だ」
「はいはい、いつもどおりの慰め、ありがとうございます」
廊下をいききする賄いたちの足音を聞きながら、菅野と二人、新しい下着とライトブルーのワイシャツとジャージに着替える。
「十二月の末にプロスポーツ大賞の授賞式は終わってるから、補欠発表みたいなもんでしょう。チャッと終わりますね」
「どうですか……なんせ神無月郷の表彰式ですから、いろいろな団体の関係者が出席するでしょうしね。ファインホースのほうへ入ってる情報だと、坂田文部大臣、プロスポーツ会議の議長が出席することだけはわかってます。それから授与される賞は、日本プロ スポーツ大賞特別新人賞という名前だそうです」
居間にいき、主人夫婦とトモヨさんのコーヒーに交じる。カレーのいいにおいがしてくる。十一時半、ソテツが、
「お待たせ。じっくり煮こんだビーフカレーです」
品出しが終わると、賄いたちもいっしょに座敷のテーブルにつき、いっせいにスプーンの音を立てる。
「うまい!」
「おいしい!」
「名人やね」
ソテツも卓に交じり、
「うん、大成功」
主人が、
「ワシとおトクとトモヨは会場にいってくるでな。みんなで留守頼むで」
幣原が、
「直ちゃんは私が迎えにいってきます。ジャッキといっしょに」
「二時半ね。それまでには帰れると思うわ」
「無理ですよ。ゆっくり見学してきてください」
「カンナちゃんはオラが看てるすけ」
「お願いしますね。郷くんの表彰式見るの初めてですから」
「ワシらの席は二列目に予約されとる。村迫さんから連絡あった」
十二時十五分。ダークグレイのブレザーの上下を着、濃紺のワンタッチネクタイをする。千鶴が、
「衝撃の美しさやね。モデルみたい」
「それ以上です。神がかってます。女で言えばヴィーナス」
幣原が眩しそうに見つめる。主人と菅野もスーツ姿になる。女将とトモヨさんは淡い茶色のスーツ。洋装の男三人、女二人が玄関に立つと、ジャッキがウォフと鼻を鳴らした。賄いたちに門前に見送られ、クラウンで出発。助手席に主人、後部座席に女将、トモ ヨさん、私。
近鉄百貨店前から左折して、桜通と広小路通に挟まれた錦通をいく。西柳公園、柳橋中央市場。入口のアーチ看板がいくつもある。常に開発の手を入れているドヤ街の趣だ。戦後二十五年、伊勢湾台風から十年も経つのに、駅西も駅東も、名古屋じゅうが、いつ終わるとも知れない復旧工事に熱中している。
「あの祐成という小さな店は何ですか」
菅野が、
「ユウセイではなくて、スケナリです。戦前から四十年近くやってる包丁屋で、本社は富山にあるれっきとした株式会社ですよ」
主人が、
「うちの包丁はぜんぶここから仕入れとる。二万から五、六万、十何万もするやつもある」
「その横の丸八寿司も古いですよ。ネタもいいし、フラッといくには最高です」
西柳町交差点。錦橋。堀川を渡る。
「さっき西詰にあったふみ屋という大衆酒場はけっこううまいですよ」
渡り切って、ケヤキ並木のビル街。また正体が知れなくなる。
「着きました」
名古屋観光ホテル到着。下園公園前を右折して地下駐車場に入る。エレベーターで一階フロントへ。
「いらっしゃいませ、神無月さま、北村さま」
いっせいにフラッシュが光る。報道陣が二十人余り、あちこちで無秩序に固まり合っている。
「二階ラウンジでおくつろぎくださいませ。お飲み物をお持ちいたします」
案内されて二階広場へいくと、ここも報道関係者の溜まり場になっている。四人、胸に赤い花と名札をつけられる。かしましくシャッターが鳴る。傍らに電気スタンドと観葉植物が立つ小テーブルにつく。周囲のテーブルにも人が大勢いる。一人の顔も知らない。コーヒーが運ばれてくる。ラウンジの片側に映画館のような扉が開け放たれていて、そこから広い室の内部が見える。国旗の立つ演壇に向かって、五百人に余る人びとが頭を並べていて、壇上の司会ボックスが黄色く照らされている。
「北村さま、どうぞこちらへ」
三人が案内嬢に連れられていった。ややあって、別の案内嬢とともにスーツ姿に花飾りをつけた水原監督、小山オーナー、村迫代表が現れる。三人におのずと頭を下げ、強い握手をする。水原監督が、
「気が乗らないだろうが、辛抱だよ」
「だいじょうぶです。慣れました」
オーナーが、
「じゃ、いこうか。榊くんもおっつけ駆けつけるよ」
扉を入り、少し勾配になった薄闇の中を最前列へ進んでいく。会議室か映写室のようだ。二列目に主人たちが座っている。その前の演壇の真下の席に導かれて座る。数分遅れて榊が村迫の隣に座った。
静寂の中で司会ボックスに男が一人現れ、
「昭和四十五年、第三回日本プロスポーツ大賞特別新人賞の授賞式を開催いたします。本日の司会進行を務めさせていただきます××と申します。どうぞよろしくお願いいたします。それでは、表彰に先立ちまして、日本プロスポーツ会議議長××よりご挨拶申し上げます。××議長、よろしくお願いいたします」
最前列の端から恰幅のいい男が立ち上がり、演壇に登る。マイクの前に顔を寄せ、
「日本プロスポーツ会議、NHK等主催者を代表いたしまして、ひとことご挨拶を申し上げます。さっそく本筋へ入らせていただきます。……本日のプロスポーツ大賞特別新人賞受賞者である神無月郷選手は、日本球界のみならず米国野球界においてもこれまで不 可能であった、また、われわれのように野球をやったことのある人間ならだれもが考えられないような記録を成し遂げ、プロスポーツ界に偉大な足跡を残されました。彼は何ぴとの再来でもない超然と輝く星であります。その評価が一点の曇りもないものと考えら れるほど、彼はその才能を披瀝しました。どういう角度から見ても、われわれ野球を愛する者にとって、ほんとうにうれしい、張り合いのある、誇らしい、天才選手でございます。そういう堂々としたことをやってのけて、何食わぬ顔をして、当然のことをやり遂 げただけだというあの謙虚な彼の顔を拝見していると、つくづく立派な人間がいるんだなあと思わざるを得ません。……そういったすべてのことを象徴するのが、きょうの文部大臣坂田道太先生のご来駕でございまして、これもご本人が気持ちよく、ぼくが表彰したいと申し出たことによって実現したものでございます。神無月選手にとってじつに名誉なことであり、われわれ国民にとってもじつにめでたいことであります。……まだまだ申し述べたいことはございますが、このへんで引き揚げさせていただきます。どうぞみなさま、きょうはかぎられた時間ではありますが、大いに会場を盛り上げていただきまして、みなさまの来年の活躍の糧にもしていただきたいと心から祈念いたしましてご挨拶とします。ありがとうございました」
さわさわと拍手。会場が暗転する。闇の中で勇壮な音楽が鳴り、なり終わると同時に舞台が明るみ、
「受賞者にご登場いただきます。坂田道太文部大臣、どうぞステージまでお越しください」
軽快な音楽とともに、演壇に坂田道太文部大臣が進み出た。六十代、半白の七三、黒い丸縁眼鏡、長面だ。ふたたび会場が闇になり、勇壮な音楽が響き渡る。闇の中で私に自然光のスポットライトが当たる。背広を着た係員に立ち上がるよう促される。
「昭和四十四年度、プロスポーツ大賞特別新人賞受賞者、神無月郷さまです!」
ライトのほうをお向きください、小声で言われる。
「中日ドラゴンズの神無月郷選手は、今シーズン、百三十試合に出場し、打率六割五分四厘、百六十八本塁打、三百八十三打点を記録し、すべて世界最高記録でした。本塁打最長不倒距離推定百八十三メートル、一試合六打席連続本塁打という驚異的な記録も打ち 立てています。四十五盗塁でご愛嬌の盗塁王も獲得しました。神無月選手、どうぞ舞台にお進みください」
舞台真ん中のマイクの横に促される。少し離れたところに坂田大臣が立っている。
「ここで授賞に先立ち、坂田道太文部大臣からお祝いの言葉をちょうだいしたいと存じます。坂田大臣、よろしくお願いいたします」
大臣がスッスと近づいてきて握手を求める。私は眼鏡を見つめ、両手で握手した。彼もにこやかに両手で握手する。大臣はマイクの前に立ち、
「みなさんこんにちは。坂田道太でございます。ええ、本日、ご出席なさっているすべてのみなさん、おめでとうございます。本年一年、多くのファンが、日本人が、神無月選手に胸躍らされ、驚かされ、そして感動に浸ったことと思います」
私を振り返り、正対し、わずかに礼をしながら、
「神無月選手、おめでとうございます! 天は二物を与えずと言いますが、打ってよし、守ってよし、走ってよし、人気の秘密はそこにあることはもちろんですが、みなさんごらんください、いい男でしょう」
会場に笑いが湧く。
「私の知り合いに、将来私の秘書となる予定の息子さんをお持ちのかたがおりますが、その息子さんはひょんなことをきっかけに、この二、三年来、神無月さんの友人である僥倖にあずかっているらしく、豪胆無比の男ですが、まるで恋人であるかのように神無月さんの写真を財布に入れて持ち歩いておりました。水も滴る美男子でしょうと言って、そっと私に見せるんです。うん、確かに、と私も一目見て同意しました。きょう本人にお会いして驚きました。うん確かに、どころではない。目を焼く美しさです。その息子さんと同様、神無月さんの写真を財布に忍ばせているファンは、日本ばかりでなく外国にも数多くいると聞いております。しかし、ファンレターが少ないそうですね!」
私は歯を出して笑った。場内爆笑。
「少し図々しくしないとだめですよ。人は完全な謙虚さを不安に思いますから。さて、飛び抜けた才能と、持ち前の好男子ぶりで、球界の黒い霧を押しのける八面六臂の活躍をしてきた神無月選手。日本男児ここにあり。私はあなたのことをほんとうに日本人の誇りだと思っております。長くなりました。人前に立つのが、そして褒められることが心底苦手なかただと聞き及んでおります。このへんにしておきましょう。神無月郷さん、これからもさらなる飛翔を遂げられることを期待しております。きょうはほんとうにおめでとうございました」
深く礼をする。私も深く礼をする。大拍手。
「坂田大臣、ありがとうございました。日本スポーツ大賞特別新人賞を受賞された神無月郷さまには、坂田大臣より賞状と楯が贈られます」