三十一

 千曳のほうからやってきた列車の最前車両に乗り、端っこの窓に立って線路と切り通しと遠方の山並を眺める。草むぐらと樹々の緑。建物はほとんどない。たまに切妻屋根が樹間に見えるのがうれしい。狩場沢。客が一人乗りこむ。清水川。客二人。どれもこれも短いコンクリートの板二枚の駅。カラスが飛んでいる。ときどき東北弁が聞こえてくる。たまに田畑が雑じるだけで、景色はちっとも変わらない。貨物列車とすれちがう。小湊。野辺地駅より一回り小さい。客は五人。ここから夏泊半島の首を西へ横断する。左右に田畑が展ける。
 平内。青高のころは土手から直接乗りこむ駅だったが、いまはコンクリート二枚に出世している。草むぐらと樹林の景色が回復する。車内アナウンスが次は浅虫と告げる。夏泊半島を抜ける。背の高いビルがポツポツ現れ、やや繁華な町に到着する。ここにはカズちゃんと山口ときた。ホームに数十人の人びと。線路端に民家のある景色がめずらしい。長いトンネルを抜けると、やはり線炉端に民家が密集している。そうしてもとの景色。客が増えている。車内が賑やかになる。眼鏡をかける。畑、森、民家が混在しはじめる。
 野内。ふつうの小駅だが、浅虫に倍する人びとの群れ。青森市に近いからだろうか。もう森や林はない。民家のみ。矢田前。市電の停留所のように小さいが、人は多い。小柳、東青森。畑雑じりのふつうの町の風景になる。筒井。青高のそばだろうか。すべて浪打駅と浦町駅の廃止で新しくできた駅だ。周囲は見渡すかぎり住宅が建てこんでいる。もう都会だ。葛西さんの家からかなり離れたところを走っているとわかる。次は青森、のアナウンス。十一時四十分。快晴。七・八度。座らずずっと立っていた。レールが小坂を登り、くだる。線路が錯綜する。
 長いホームに到着。眼鏡をしまい、荷物を両手にタラップを降りる。跨線橋を渡って駅正面に出る。リンゴ市場、新町通り。公衆ボックスから葛西家に電話する。五、六回鳴らしても出ない。たぶんパートの仕事にでも出ているのだろう。奥さんにはすまないようだが、胸を撫で下ろす。電話を切り、白百合荘に電話する。ユリさんが出る。
「はい、白百合荘です」
「ぼくです……神無月です」
「神無月さん! 青森にきてるんですか?」
「はい、駅前にいます。これからすぐそちらに伺います」
「うれしい! お昼ごはん作りますね」
「チャーハン」
「ホホホ、承知しました。名古屋へお帰りになるのは今夜ですか?」
「あしたの二時五分の飛行機です。昼に空港バスに乗れば間に合います」
「じゃこちらにお泊まりになれるんですね」
「うん」
「よかった! 離れで、美代子さんもいっしょに夕飯を食べましょう。……お蒲団も同じにして。ああ、夢みたい。ついきのうも二人で神無月さんのことを話してたばかりなんですよ」
「ミヨちゃんはもう授業が始まってるの?」
「全校の授業開始は十三日からです。今週は、一、二年生は授業準備の補習、三年生は土曜日に東奥日報摸試です」
「じゃ三年生はいるんだね」
「はい。でも、いつものように裏口から入れば顔を合わせなくてすみます。一、二年生は二時までには帰ります。美代子さんが帰ったら神無月さんのことをすぐ伝えて、離れにきてもらいますね」
「じゃ、十五分後に」
「お待ちしてます。生徒のお昼を食堂に用意して、離れにいますから」
 タクシーで白百合荘へ向かう。堤橋の西詰を右折して、松原通りへ曲がりこむと、道路の様子が一変している。家並に野辺地のような新築改築の手は入っていないが、道のアスファルトが新しくなっている。もと鉄橋だった松園橋の線路跡が整地されて歩道に変わり、対岸の花園町のほうには、高さ三メートルほどの名も知れない樹木がズラリと植えられていた。いずれ大木になる種類の木だろう。
 藤田靴店はもとのままだった。ルート変更された東北本線の高架をくぐる。奥野の交差点を左折して、筒井橋を渡る。関野商店の前でタクシーを降りる。青高の校庭は閑(しず)かだった。桜が満開だ。離れの玄関をそっと開け、そっと閉め、呼びかける。
「こんにちは―」
「はーい。ああん、神無月さん!」
 飛び出してきたユリさんは妙に甘えた声を上げると、踵をこすり合わせて靴を脱いだ私の手を引いて式台に上げた。強く抱き締める。思い余ったふうにキスをする。拘りのない天真さがなつかしい。いい香りがする。念入りに歯を磨いたのだ。
「このお土産は白百合荘に?」
「いや、名古屋に。野辺地の近所の婆さんたちから持たされた南部煎餅と干しホタテ。青森の人にはめずらしくない」
 ユリさんはぐずぐず式台に立ったまま、潤んだ目で私を見つめる。
「嘘みたい。神無月さんがここにいるのね」
 もう一度私を抱き締め、掌で私の股間のものが勃起していることを確かめると、
「すてき」
 手を取ってスカートに潜りこませる。熱い湯に触る。下着をつけていない。
「もうだめ……」
 と囁き、私の腰を抱いて寝室に引き入れる。うれしいうれしいと言いながら、ズボンと下着を剥ぎ取り、屹立を確認するとスカートの裾を拡げて跨る。あっという間に熱い襞に包み入れる。
「はああ、神無月さん、好き!」
 激しく腰を上下させ狂ったようにアクメを求める。達してはふるえ、動き、達してはふるえて早急に私の射精を引き出そうとする。私はたまらず射精する。
「あああ、好きいィィ!」
 ユリさんは私の膝をつかんで大きく反り返り、射精のあとの律動に合わせてさらに強いアクメを貪る。貪り尽くすとドッと胸を預けてきた。小刻みなアクメで何度も陰茎を締めつけながら、深くキスをし、舌を吸う。
「愛してます、愛してます、死ぬほど愛してます、一日も忘れなかったわ」
 緊縛が弱まっていき、唇が離れ、からだが離れると、名残の痙攣を一度してゴロリと仰向けになった。
「ごめんなさいね。ちゃんと挨拶も終わらないうちにこんないけないことをして……。お顔を思い出したら、待っているうちにたまらなくなって」
「ぼくも道々そうなったから、気にしないで。……待ってるうちについ下着を脱いでしまったんだね。四カ月……気が遠くなるくらいあいだが空いちゃったから」
「去年で最後だって覚悟してたんですけど」
「いままで何度もその覚悟をしたでしょ? 男と女は一度交わると、なかなかそれで最後というわけにはいかない。あまり逢えないけど、これからも逢うたびに思い切りセックスしよう」
「はい! でも年に一、二回でじゅうぶんです。美代子さんだってそうですから。……お風呂入れますね。いっしょに入りましょう」
 二人全裸になり、廊下越しの風呂へいき、湯が溜まるまでからだを流し合う。
「ミヨちゃんは成績どう?」
「一年生の三学期になって、学年の五十番を下らなくなったようです。東北大レベルを維持してます。二年生でどうなるか心配ですけど、なんとか名古屋大学には 受かってくれると思います。美代子さんは日に日に美しくなっていきます。からだも成熟して……。神無月さんに抱かれる姿を想像すると、ちょっと嫉妬してしまいます」
 肩寄せ合って湯に浸かる。
「胸が少し垂れてしまって」
 恥ずかしそうに乳房を持ち上げる。
「しっかり張ってるよ。立派だ」
 握り締める。身をよじる。
「ご主人とは?」
「離婚してからすっかり疎遠になりました。避けてるわけじゃないんですよ。お話ぐらいはしてもいいと思ってます。ながいあいだ夫婦でしたからね」
「ミヨちゃん一家はどうしてる?」
「お母さんが月に一回ぐらい訪ねてきます。娘さんのことより神無月さんの話ばかり。名古屋の秀子さんは元気ですか」
「張り切って大学生をしてる。北村席には青高出身の名古屋大生が二人もいるんだ。仲よくやってる」
 脱衣場に出て、ユリさんは私のからだを拭いた。
「じゃ、食堂のあと片づけをして、チャーハンを作ってきます」
「ありがとう」
 裸のまま蒲団にもぐりこむ。テレビを点ける。選抜高校野球の総集編をやっている。入場行進曲『世界の国からこんにちは』から始まって、坂田道太文部大臣の始球式、簑島高校の優勝まで。
 チャーハンと緑茶がきた。蒲団にあぐらをかき、さっそくスプーンを入れる。混ざっている具材は、焼豚、カニ、長ネギ、玉ネギ、キャベツ、ピーマン、シメジ。刻みたくあんが利いている。ユリさんが目を細め、
「おいしい?」
「最高!」
 たちまち平らげる。ユリさんは空の皿を手に、
「風邪をひかないように下着だけは着といてね。関野商店にいってきます。今晩とあしたの朝の食材を買ってこなくちゃ」
「あの店、大きくなったね」
「ええ、米、総菜、酒、雑貨からプロパンガスまで置いてるの。株式会社になったんですよ。じゃ、美代子さんが帰ってきたらここによこします」
「うん、少しウトウトしてる」
 寒くはないので、裸のまま蒲団をかぶってテレビを観る。スターダイヤル、スターハイライト、古賀政男とともに、二時の映画招待席、教師の時間。なんだろなあ。
「神無月さーん、美代子です」
「いらっしゃい。ぼく、裸です」
「わかりました!」
 廊下で服を脱ぐ音がする。テレビを消す。襖を開けて全裸のミヨちゃんが入ってきて、
「わあ、神無月さん! いらっしゃい」
 蒲団を剥いで、私の全身を撫で回し、隅々に口づけをする。股間を私に向けた格好で陰茎を含む。
「ふだん心にかかってることをすませてしまいますね。この格好をして舐めてもらう夢を何度も見たんです。からだがマセちゃったんですね。羽島さんも一人前の女らしく奔放に振舞えって言ってくれました。そのほうが神無月さんも喜ぶって」
 リクエストに応えて抜かりなく舐める。たちまち反応が始まり、
「ああ、あ、神無月さん、気持ちいい、夢と同じだわ! イ、イ、イク!」
 かわいく二度、三度尻をすぼめる。
「夢でもイッたの?」
「はい、しっかりイキました」
 向き直って両手を絡め、私のものを濡れた陰門で探りながら腰を落とす。瞬間、長い吐息をつき、ゆっくり上下する。
「うーん、やっぱり覚えてたとおりです、あ、神無月さん、愛してます、いつまでも愛してます、あ、イク、強くイキますね、イ、イ、イックゥゥ!」
 尻を持ち上げてズルリと離れ、両手を握ったまま、腰をあわただしく前後させて痙攣する。異様に美しい顔が降りてきて、私の唇を舐めたり噛んだりする。
「これも夢と同じ?」
「いえ、このあいだは初体験だったので、夢に見ませんでした。ああ、信じられないくらい気持ちいい」
 ミヨちゃんは上下逆になり、
「今度は神無月さんの番です」
「出していいの?」
「だいじょうぶな日ですけど、できれば外にお願いします」
「うん」
 両手を尻に添えて少し浮かせ、上壁を引きこするように往復する。
「む、むん、気持ちいい! ああすぐイク、イクイク、イク! 神無月さん、もうだめです、だめだめ、神無月さん、降参!」
 ユリさんに数倍する収縮力で間断なくアクメをつづけるので、風雲急を告げる。
「あ、あああ、イク、イク! ク、ウーン!」
 私は引き抜き、繁みに載せて発射する。みごとに鼻の脇に飛んだ。それから、首と乳房に飛ぶ。愛らしい下腹が何度も弾む。
「好き好き好き、愛してます!」
 尻の引き攣れの間隔が空いていき、腹だけの小波になる。私が枕もとのティシュで顔を拭おうとすると、ミヨちゃんは指をスッと伸ばして鼻の脇から掬い取り、口に入れた。
「ウ、強烈。喉に貼りつきます。でもうれしい」
「ミヨちゃんも短いあいだにさばけたね」
「羽島さんや秀子さんのおかげです。男と女の挨拶は早く終えて、それから愛情の本題に入るのよって、本題のほうが挨拶の何百倍も長い時間なのよって……。ほんとうに二人のおっしゃることは胸に響きます。ああ、幸せ。思いがけなく神無月さんに逢えたし、 夢にまで見た気がかりなことも逢ってすぐすませましたし。あとは神無月さんのそばにいることを楽しむだけ」
「いっしょにシャワー浴びよう」
「はい」


         三十二

 黒いスカートと白いセーターに着替えたミヨちゃんと、生徒のまばらな青高の校庭を歩く。私はブレザーに革靴。一本路の桜の下を白亜の校舎の玄関までいく。下駄箱をなつかしんで引き返す。金網の途中から野球グランドに入り、一周する。ミヨちゃんは私の銅像の前で掌を合わせ、お辞儀をした。
「朝、登校するとき、かならずここにきてお祈りします」
「勉強は順調みたいだね」
「はい、いまのところは。……あと二年。再来年のいまごろは、大学生になって神無月さんのそばにいたい。それしか考えてません。秀子さんは天にも昇る気持ちでしょうね」
「花園には顔を出してるの? お母さんがときどき様子伺いにくることは聞いたけど」
「ひと月に一度、そのおかあさんを送っていくついでに、おとうさんを呼び出して食事をしたりします」
「おとうさんとの仲はうまくいってるんだね」
「親子三人の関係は、むかしもいまもしっくりいってます。夫婦のあいだは私にはよくわかりません。ただ、私も神無月さんのおかげで男女の生理は少しわかってきたので、おとうさんに対するおかあさんの心持ちも理解できるようになりました。おかあさんはいつも上機嫌にしてます。でも……その方面は無理に望んでないと言うか、抱かれたいと思うほど欲望を感じてないと言うか……おとうさんなりに努力してるんでしょうけど。若いときほどからだが自由にならないんじゃないでしょうか。子供の口から言うのも不謹慎だと思いますけど」
「ぼくはそういうお父さんを責める気にはならないな。ぼくも五年間の経験で、セックスは男女が仲良く生きていくうえでとても大切なことだとわかってきた。男は、若いころは愛のあるなしに関わらず性欲をすぐ行為に結びつけることができるけど、齢をとると 愛があってもそうもいかなくなるみたいだね。女は、相手を愛してるかぎり死ぬまで難なくセックスができる」
「はい、そう聞いてます。羽島さんから教えていただきました」
「名古屋の北村席のご主人は還暦近いけど、立派に現役だ。還暦を過ぎた年上の女将さんもやる気満々。愛情があるうえに、夫婦で努力してるからだよ。ハブ酒を飲んだり、股割れのパンティを穿いたりしてね。問題はお父さんの好奇心と精力が回復すればいいだけのことでしょう? だから、お父さん一人の努力だけにまかせずに、お母さんも努力しなくちゃ。お母さんはミヨちゃんに似てじゅうぶん魅力的な人だ。きっとお父さんもそう感じてる。お父さんは純朴な人です。彼の不幸は見るに忍びない。もっとおかあさんに積極的になるよう、ミヨちゃんの口から言ってあげたらどうかなあ」
「そういうことをおかあさんが心から望んでればいいんですけど。それが原因で二人のあいだがギクシャクするのも……」
 彼女とのことはミヨちゃんに決して明かさないようにと厳命されている。彼女の意外な姿は隠し通さなければならない。
「そうだね、成りゆきにまかせたほうがいいね。ちょっとしたことが、はしなくもお母さんの〈やる気〉に反映するかもしれないし」
 野球グランドを眺め、
「野球部の調子はどうなの」
「サッパリです。ベスト十六がせいぜい。去年、予選二回戦で三沢高校と対決したときに盛り上がったくらいで」
「太田旋風か」
「はい。一対三で負けました。神無月さんが去ってからは、三年間、一回戦か二回戦で敗退してます」
「戦後三回も優勝してるのにね」
「はい。いつか盛り返してくれると思います。神無月さんがいなくなってから、部員は二倍以上に増えたようです」
「先生がたは元気?」
「みなさん元気です。今週は何回か職員会議をしてます。神無月さんがいまここにいることを知ったら、大騒ぎになります」
「遠慮しよう。白百合荘でもだれにも遇わないようにする」
「はい」
「いま寮生は何人いるの」
「三年生が六人、二年生が三人、一年生が三人です。朝食と夕食の手伝いにくる五十歳くらいの賄いさんが一人います」
「じゃ、ユリさん、生活はだいじょうぶだね」
「ええ、きちんと貯金もしてると言ってます。じゃ私、玄関から帰ります。神無月さんは離れへ」
「うん。少し市内を散歩してから」
「七時までには戻っててくださいね。私は補習の復習と予習をしてから、夕飯をいっしょに食べに離れにいきます」
「わかった」
 三時半を回っている。かなりぶらぶらできる。正門でミヨちゃんと別れ、奥野の交差点まで歩いてタクシーを拾う。眼鏡をかける。合浦公園へいくのは気が進まない。
「大映映画をやってる映画館へ」
「新町の新興劇場ですね。七百人も入れる映画館です。『座頭市と用心棒』をやってます」
「どのあたりですか」
「成田書店の隣です」
「ふうん、気づかなかったな。映画代って、いまいくらですか」
「封切館は五百五十円ですね。隣に青森松竹もあります。新興も松竹も二番館なので、四百円から四百五十円でしょう。寺町にある青森東宝劇場は封切館です」
 いまどきの松竹は、コント55号とか為五郎とかドリフターズとか、わざとらしく軽っこい映画が主流なので観応えがないし、東宝も若大将とか社長とか怪獣とか、ふざけすぎている。寺町の映画館には葛西さん一家と赤井と『怪談』を観にいった記憶がある。
 新町通りと八甲通りが交わる角地で降りる。青高のころよくかよった成田書店を八甲通りへ左折する。まず二階建ての青森松竹がある。その隣に青森大映新興劇場。かなり背高の鉄筋平屋建て。二番館らしく、二、三カ月遅れの二本立てだ。フランキー堺の『縁結び旅行』と、勝新太郎の『座頭市と用心棒』。二本立て合わせて三時間半。入場料は四百五十円也。
 客席が斜面階段構造になっている大きな映画館だった。客は二百人ほど。夕方から混んでくるのだろう。真ん中より少し上の席に着く。始まって一時間くらい経っている縁結び旅行が終わるまでのあいだ、薄暗い座席で仮眠。
 館内が明るくなり、時計を見ると四時十五分になるところ。客が倍にふくれあがっている。トイレにいき、自販機で缶コーヒーを買って席に戻る。ふたたび暗くなり、開演。黒い霧のニュース。テレビで何度か観た会談場面。インタビューされる五、六人の選手の中に池永正明もいた。うつむいて訥々と話す様子から、見るからに無実だと察せられ、些細な行動が原因で人生の見当が狂いはじめた人間の悲哀を感じた。なぜか、これまであった同情の気持ちが急速に退いていった。
 オープニング早々、乱闘。座頭市の殺陣(たて)は芸術的と言っていいくらい美しく、しかも凄惨だ。バランスといい、スピードといい、間合いといい、達人の至芸だと痛感する。中でも動体に対する間合いはバッティングに相通じるものがある。
冒頭から人生哲学にかぶせたような情緒的な独白が多すぎて辟易したが、勝新太郎や隠密役の三船敏郎の剣技を観ているうちにそれも愛嬌になった。贅沢な脇役として若尾文子、嵐寛寿郎、滝沢修はじめ、寺田農(みのり)(みのり)、米倉斉加年(まさかね)、岸田森まで出ているのはうれしい。ただストーリーが難解で役者個々の背景がよくつかめない。詰まるところ、強欲な役人と商人の征伐という勧善懲悪の夢物語だろう。いずれにせよ殺陣が抜群にハイレベルで、まったく退屈しない。力を合わせて懲悪を終えたあと、三船敏郎がむだな決闘を座頭市に挑んだ理由に首をひねったが、とにかく好みの俳優が妖刀の手にかからずにすんだので、ラストシーンまで安心して堪能できた。幕が閉じて明るくなる。六時半になろうとしていた。あわてて外へ出てタクシーを拾った。
 六時四十分に白百合荘に帰り着き、離れの居間に入る。明かりは点いているが二人の姿はない。玄関を開けて食堂の磨りガラスを眺める。何人かの人影が動いている。まだ夕食中のようだ。テレビを点ける。あしたの天気。消す。
         †
 七時半を回って、居間の食卓が華やかになった。離れの台所でユリさんとミヨちゃんが一品一品丁寧に作る。
「生徒たちの材料は関野ですませましたけど、私たちの分は古川市場で食材を買ってきたんですよ。あしたの朝の海鮮丼の具材はそっくりとってあります」
「きょうはどんな映画を観てきたんですか」
「新興劇場で座頭市を観た。殺陣がすごかった。勝新と三船だからね。最強だ」
「神無月さんと時代劇? 不思議」
「テレビの時代劇とは迫力がちがう」
 ツブ貝の煮つけ、ホタテ貝味噌、八甲田山のタケノコ焼と煮しめ、昆布ダシ汁に漬けたホヤと水菜、ナスの赤紫蘇巻き、イカメンチ、四合瓶の田酒(でんしゅ)。
「イカメンチって?」
「イカゲソのたたきと野菜を混ぜてあげたものよ」
 醤油をかけ、それをおかずに大盛めしが一膳食えた。そのほかのものは田酒の肴にした。三人ほろ酔いになる。
「美代子さん、お酒初めてじゃない?」
「はい、初めてです。神無月さんと初めてのお酒が飲めるなんて、幸せ」
 酔いざましのリンゴが剥かれる。
「山口がこっちでリサイタルするって話をタクシーの運転手から聞いた」
 ミヨちゃんが、
「はい、青森市文化会館で十一、十二日の二日間。堤橋を4号線へちょっと曲がったところです。二千人も入る大会場です。もう羽島さんと十二日の分の予約切符をとりました。山口さんから電話があって、十二日の夜に会館のレストランで食事をする約束をしてくれました」
 ユリさんが、
「娯楽室に二人の写真が飾ってあります。みんなの励みになってるようです」
「ふうん、励みって何だろうね。ぼくも山口も勉強は不得意だよ。たまにマグレ当たりがあったくらいで」
「出世したということですよ」
「出世? それは勉強の成果じゃない。寄り道の情熱だ。正道をいくまじめな勉強家が寄り道にあこがれるのは見当ちがいだ。ユリさん、写真は離れの居間に移してください。白百合荘の箔は、自主独立の心で道を歩める人を作り出し、送り出すことですからね。 ユリさんが経験したすばらしい時代を見せつけることじゃない。……ぼくたちだけの栄華として胸にしまっておきましょう」
「わかりました。ほんとに一本気な人ですね」
「大好き!」
「山口は銅像を立てられるのを断ったそうだ。ぼくもそうすればよかったけど、打診すらされなかったからできなかった。そうこうしているうちに寺山修司まで呼ばれて、引っこみがつかなくなった。でもミヨちゃんみたいに心から願懸けてくれる人もいるから、 よしとして拘らないことにするよ」
「相馬先生はいつも部員たちに一礼させてから練習を始めてます」
 ユリさんが、
「名古屋っていいところのようですね。神無月さん、むかしよりずっと幸せそうになりました」
「生まれてから、五年以上根を生やした土地が一つもないから、一生懸命拘ってる。名古屋は足し算すると七年になる。拘ってることが楽しくなりだしてるので、幸せそうに見えるんだろうね。……あの土地で死にたい」
「私も還暦になったら名古屋に移り住もうかしら。山口さんも電話でそんなことを言ってました」
 ミヨちゃんが、
「齢をとると難しいと思います。私の父母や、野辺地のおじいさんおばあさんがいい例です。しがらみが増えて移動が億劫になるんです。でも、ふるさとに根を張る人がいてくれないと、都会に根を張って遠くふるさとをなつかしんでる人たちが帰る所をなくして、深い喪失感を味わうでしょうね。生甲斐さえなくす人もいるかもしれません」
「だからこそ、ふるさとには変わってほしくないな。野辺地は四角い家ばかりが建ちはじめた。むかしの面影は浜辺にしか残ってない。青森市も危ない感じがする。でも、過去の面影に愛着せずに環境を変えてしまいたい人がいる以上、そしてその新しい環境の中で住みつづけたい人がいる以上、そうなるのは仕方のないことだと思う。ふるさとというのはその場所を去らない人に会いに帰る場所だと考えて納得するしかない。……ユリさんにはここにいてほしい」
「はい―」


         三十三

 九時。テーブルの食器を女二人で台所にさげる。ついでに風呂を洗いながら、湯を溜める。私はテレビを点ける。コント55号の野球ケン。あまりにもくだらない。チャンネルを回して、燃えよ剣。幕末ものは政治情勢を重厚に描きすぎるし、大物同士の人間関係がごたごたしていて苦手だ。これもやめて、俺の義姉(あね)さん。山田洋次の矮小な世界。お決まりの渥美清(何の冗談かマドロス姿で二十年ぶりに帰還する。家に居ついてからの常住坐臥、やることなすこと失敗ばかりという、男はつらいよの車寅次郎そっくりの間抜けぶりを発揮する)、京塚昌子(渥美の義姉。駄洒落で名づけたようなキャビンなるスナックを経営している気のいいママさん)、森繁久弥(作家で大学教授。キャビンの常連というダメ押しの退屈な設定。夏目漱石を意識させようとしているのだろう。山田洋次はかならずインテリを一人登場させてドラマに芸術と学問の箔をつけ、ナイーブな人間賛歌という建前をみずから破る。東大出身者のスノビズム、裏を返せばその二分野に対するひそかな劣等感にちがいないと私は思っている)、脇役陣は沢村貞子、佐藤オリエなど演技のクサイ役者ばかり。ホームドラマは何を観ても虫唾が走る。
風呂掃除でシュミーズ姿になったユリさんとミヨちゃんが、コーヒーをいれて戻ってきた。私の両脇に腰を下ろす。ユリさんが、
「あ、これ先週始まった寅さん番組ね。みんなわざとらしくて嫌い」
 正しい認識をする。これ幸いと、歌謡番組に切り替える。
「秋の男子マラソン大会は相変わらずやってるの?」
「倒れる人や棄権する人が続出して、去年廃止になりました。今年からは体育祭という名目のままで、校庭で小ぢんまりやる運動会になるようです」
「質実剛健は崩壊しはじめたか」
「学力は相変わらずですけど、運動部以外の生徒の体力は年々低下しているようです」
「ぼくもからきしだったけど、自分に鞭打ってがんばったな。がんばる習慣を捨てちゃいけない。でも、体力が落ちて、学力が相変わらずというのは不思議だね。勉強は体力が肝心だと思うから」
「同感です。神無月さんのミズノのコマーシャルを観て以来、東大合格者は浪人も入れて毎年十人前後出てますし、東北大には毎年五十人は受かってるんですけど、これからは体力の低下とともに少しずつ減っていくんじゃないでしょうか」
「白百合荘の生徒たちはだいじょうぶ?」
「運動部はいません。三年生は秀才タイプが多いです。東奥日報摸試の上位常連も二人います。口を利いたことはないですけど」
 森山加代子『白い蝶のサンバ』、軽薄なオーガズム表現。ピーター『愛の美学』、無意味な後悔。吹きすさぶ風に刺されて苦しみに涙を流す? 美学? 弘田三枝子『私が死んだら』、体のいい脅迫。〈あなただけを愛した女〉は脅迫しない。
後手を踏むのが嫌だというだけの理由で連綿と作り出されていく似たような流行歌、流行の安堵の中で唄われる、激しさや熱のない上っ調子な歌を私たちはどんな気持ちで受け入れればいいのだろう。表舞台に載らない歌の中に、胸に響く名歌があるとしんじるしかない。
「いまEP盤はいくらするの?」
「四百円」
「五年で七十円上がったか。橋幸夫たち御三家以来、日本の歌の質は落ちたね。黒猫のタンゴやズビズバーが典型だろう。五年前この寮にきた当時、佐々木新一のあの娘たずねてとか、城卓矢の骨まで愛してなんてくだらない歌が流行ってた。夜明けのうたや、函 館の女や、サントワマミーといった名曲がどんどん唄われた直後のころだよ。音楽家はある種の殉教者だろうね。世間の闇の中で苦悩にまみれて生きる人たちのために発光し、燃え尽きる。殉教者の創る音楽こそ世界で唯一の救いだ。その最先端をいく歌謡曲が……。もう一度名曲の波がうねってほしいな」
「夜明けのうた……花園の部屋でよく聴いてましたね。テープレコーダーで」
「いい歌だ。涙が出る」
 テレビの画面が霞んだ。ミヨちゃんが、
「ひさしぶりに神無月さんの歌声を聴かせてください」
「うん。最近まともに聴けるのは、藤圭子ぐらいかな。このあいだ覚えたばかりの『女のブルース』を唄うね」
 ユリさんがテレビを消す。山口を横に感じながら唄いだす。
 
  女ですもの 恋をする
  女ですもの 夢に酔う
  女ですもの ただ一人
  女ですもの 生きてゆく

 二人が私の両肩に寄り添う。藤圭子の暗い顔を思い浮かべる。

  あなた一人に すがりたい
  あなた一人に 甘えたい
  あなた一人に この命
  あなた一人に 捧げたい

 二人がじっと息を詰めながら目頭を拭っている。藤圭子はあるインタビューに、暗いさみしい歌が好きですと応えていた。

  ここは東京 ネオン町
  ここは東京 涙町
  ここは東京 何もかも
  ここは東京 嘘の町 

  どこで生きても 風が吹く
  どこで生きても 雨が降る
  どこで生きても ひとり花
  どこで生きても いつか散る


 二つの腕が左右から私にすがりついた。
「悲しい声! 神無月さん、ぜったい死なないでね」
 ユリさんが洟をすすり、
「ほんと、声が透き通りすぎてて不吉な感じがしたわ。赤い月の輪を思い出しちゃった」
「命懸けで唄うんだもの。花園の部屋の勉強机に向かっていた背中を思い出してしまいました」
「だいじょうぶだよ。こういう声だったこと忘れたの? ミヨちゃんはいつも手紙に死なないでって書いてきたね。杞憂、杞憂。ほんとにだいじょうぶ。プロ野球選手という責任ある仕事に就いたんだ。大勢のファンのためにもフラフラつまらないことを考えていられない。テレビでも観よう」
 ユリさんがもう一度テレビを点ける。エキスポスタジオ世界の広場。日本国じゅうどこへいっても同じ話題だ。ふと眠気に襲われる。ミヨちゃんが、
「あ、万博ですね。神無月さんもいくんですか」
「まったく暇がない。興味もないし」
 ユリさんが、
「私たち東北の人間は興味があっても、大阪までいくのは無理です。旅費も宿泊費もとんでもなくかかるし、とにかく遠すぎます」
「それでも大勢の人が出かけていくんでしょうね。でったらもでぎねべ」
「あ、ミヨちゃんの東北弁、初めて聞いた」
「フフ、ふだんの調子が出ちゃいまいました。この寮で訛らないのは羽島さんだけなんですよ。うちのおとうさんもおかあさんも訛りっぱなし」
「お母さんも!」
「はい。神無月さんの前だとがんばってましたけど」
 ブラウン管からパトカーのサイレンの音がして特別機動捜査隊が始まった。
「青森弁は、いつ聞いても外国語に聞こえる。まず単語が難しい。まあ多少は知ってるけどね。捨てるはなげる、恥ずかしいはしょうすい、触るはちょす、バカとかスケベははんかくせ、においはかまり、あたたまるはぬぐまる、疲れたはこえ、きのうはきな、乞食はほいど。青高の教室ではわからない言葉が多かったな。文脈があってもね。だから山口とばかり話をしてた。ぜったい他県の人間にはわからない言葉というのがあるんだよ」
「そうですね……たとえば、反対とか逆というのはケッチャ、ごまかすとかシラばっくれるはカンツケル、手伝うはスケル、こぼすはマガス、うまくやられたはシマレダ」
 ユリさんが、
「雪かきをして歩けるようにするのをケドつけると言うでしょう?」
「はい。泣き虫はナゲッツ、お腹いっぱいはハラチェ、かぶるはフッチャグ、生意気はヌサバッタ、わざとはヤグド、化粧はオシロイ」
 私は、
「オシロイはわかるな。とてもはやだら、柔らかいはやっこい、埃だらけはほごりくるめ、乾くはほへる、前は前っぱら、後ろは後ろっぱら、かゆいはもちょこい」
「初めて聞いた人にも通じるものばかりです。こんなのはわからないでしょう。腐るはあめる、けむいはユブイ、不細工はメグサレとかミッタグナシ、ろくでなしはユグデネ、眉毛はカヌケ」
「裸ははんだか、男のチンボはカモ」
「そっちへいきましたか。女のあそこは……」
 ミヨちゃんが言い淀むと、ユリさんが、
「ヘッペ、エッペ」
「とか、マンジュウ」
 二人で手を取って笑い合う。私も手を差し出す。つくづく愛縁奇縁を感じる。茶箪笥が温かく目に映る。テレビに目をやり、しばし特別機動捜査隊に見入る。
「この波島進って好きだなあ」
「七色仮面ですね。十年くらい前のテレビドラマ」
「残念ながらそれは観てないけど、小学校一、二年生のころ、少年探偵団とか七つの誓いでよく見た」
 ミヨちゃんが、
「一人で映画館へいったんですか?」
「うん、ウィークデイは貸本。学校が半ドンの土曜日は映画。卓袱台に置いてある十五円持ってね。三、四キロ歩いて保土ヶ谷までいった。何周りも粘って終映まで観るから、帰るのはほとんど十一時過ぎだった。貸本と映画。ぼくの青春だ。……二度と戻りたくない青春」
「遅く帰って、叱られたでしょう」
「叱られなかった」
「心配しなかったということですか」
「疲れてて面倒くさかったんだろう」
「面倒くさいなんて―」
 ユリさんが、
「子供の帰宅時間を心配するのは、両親のいる裕福な家庭だけですよ。それに、貧乏人の子供は放っておいてもだいじょうぶと思われていた大らかな時代でしたからねェ。……小腹がすいたでしょう。ラーメン作りましょうか」
「いいね、野菜たっぷり!」
 シュミーズ姿二つが台所へいく。私は廊下越しに声を投げる。
「浅虫のおじさん、元気?」
「……正月の十一日に亡くなりました」
「え! 死んだ!」
 こちらを振り向いたミヨちゃんの顔に翳りはなかった。
「はい、今年。二十日間も降りつづいた雪が止んだ日です。日本晴れの日曜日で、明るかったおじさんを祝福するようでした」
 ユリさんもビックリしてミヨちゃんの横顔を見ている。横顔に問いかける。
「癌か何かで?」
「はい。進行性の胃癌だったらしくて、手術もできない手遅れの状態で、あっという間でした。浅虫から青森市内の病院に引き取って、一週間もしないうちに亡くなりました。家族墓に入れるなと生前から言っていたので、三内霊園の共同墓地に納骨しました」
「……亡くなったのか。迫力のあるすばらしい人だった」
「おじさんも、いつも神無月さんのことを褒めちぎってました。生きてきて遇えてよかったと思わせるマレな人物だって」
 野菜ラーメンが出てきたが、三人食欲が失せている。
「山田三樹夫が死んだときも腹にくる言葉で励ましてもらった。―人が死ぬのは、自然の決まりごどだんだ。死ぬ者がいて生き残る者がいるのは、仕方のねこどだ。生き延びた人間がせいぜい励めばいんだ。……はっきり憶えてる」
 ユリさんが、
「おじさんの話はときどき美代子さんから聞いてましたけど、亡くなったことはいま知りました。……悲しいですね。でもおじさんの言ったとおり、生き延びた者がせいぜい励むべきだと思うわ。さ、気を取り直して食べましょう。二人前を三つに分けたので、軽 く食べられますよ」
「晩めしから三時間か。このくらいなら食える」
 おちゃらけの11PMにチャンネルを合わせ、三人、気持ちを明るくするよう努めながら音立ててすすった。



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