二十五
「ところで、じっちゃが御幸(みゆき)列車の機関士をしたのはいつのこと?」
ばっちゃの顔に生気がのぼった。
「大正九年に二十四でシベリア出兵から帰って、二十年機関車さ乗ってだの。ハヂログてへる機関車。いぢばん腕のいい機関士てへられてみんながら尊敬されでいたんだども、上ささがらって、昭和十五年に四十四でビダッと仕事辞めで、囲炉裏さ落ち着いてカラキジになってまったの」
カラキジというのは、働かない人という意味のようだ。
「昭和二十一年から天皇さまの全国御巡幸が始まって、二十二年に東北を巡るこどになって、あだやおろそがな機関士には運転をまがされねって機関区で決まって、じっちゃが駆り出されたわげせ」
「じゃ、五十一歳が最後の運転だったんだね」
「ンだ。八戸から青森まで。途中停車駅は野辺地だげ。八月の真夏でよ。野辺地のホームさふとがあづまって日の丸の旗振ったじゃ。ワもいった。汽笛コ、ポーポーって三回鳴らした。じっちゃはその日の晩げに一人で野辺地さ帰ってきた。特別手当やら、恩賜の煙草やらじっぱどもらってよ。次の日がら、まだ囲炉裏さねまった」
ばっちゃはニッコリ笑った。私も笑った。
「天皇さまは、おめの生まれた昭和二十四年まで巡行つづげて、千四百の町に立ち寄ったず」
「罪滅ぼしのつもりだったんだろうね」
「そんだべおん。疲れで死んでもいいがらやり遂げてェ、って宮内庁の役人たぢに頼みこんだツケ。東北御巡幸が決まったとぎの新聞さ載ってらった。それでじっちゃも二つ返事で機関車牽っ張る気になったんだ」
「そういう華々しいこと、佐藤家のみんなは知ってるの?」
「ワラシたぢは知らね。浜も知らね。惣助さんは知ってる。じっちゃは自慢が嫌いだすけ」
「……ばっちゃ、困ったことがあったら言ってね。何でもするから」
「何もねじゃ。おめのおかげで、あと百年何不自由なぐ暮らしても釣りがくるくれだ。十一時だ。寝べ寝べ」
†
四月七日火曜日。六時起床。カーテンを開けた窓に霧雨がかかる。八・六度。口もととあごに軽くナショナルをあて、ジャージを着て居間に出ると、すでにじっちゃは新聞を手に煙草を吹かしながら自分で茶をいれて飲んでいた。重油ストーブを小さく焚いている。大テーブルでばっちゃと坂本のかっちゃが向き合って話をしている。
「みなさん、おはようございます」
「おんや、丁寧なこど」
かっちゃが頭を下げる。
「顔洗ってきます」
裏の洗面所にいって、歯を磨き、顔を洗う。和式の水洗便所にしゃがみ排尿と排便。下痢でないので難渋する。親指二本ほどの軟便を搾り出し、念入りに肛門を拭き、風呂場のシャワーで洗う。炉端に戻る。かっちゃが、
「晩げに野高まで走ったツケ」
「はい、少しでもからだがナマると、取り戻すのがたいへんですから」
「きンびしい仕事だおんたな。ホダデとガンジェ持ってきたすけ、昼間にケじゃ」
「ありがとうございます。きのうは野高の入学式だったんですか?」
「ンだ。こどしは、浜がらも新道がらも、ふとりもいがねかった。本町からは七、八人いったこった」
「集団就職のせいですか」
「でねのよ。郷ちゃんが野中さ転校してきたころがピークで、このごろは下火だ。昭和二十三、四、五年はベビーブームだったべ。なんたかた都会さ出して口減らししねばわがねがったんだ。いまも集団就職列車は走ってるばって、満員にならね。野辺地から乗るワラシも二十人もいねこった」
ばっちゃが、
「野辺地は百姓や漁師の家が多いすけな、とっちゃかっちゃが齢とって稼ぎが悪くなれば貧乏になるべ。口減らしで都会さ出たワラシの余りしかいねぐなって、残ったワラシは親のあど継ぐしかなぐなるのよ」
じっちゃが、
「高校さいがせられね貧乏人が増えたのせ。高校さいぐのは商人の家ばりだ」
「浜も新道も、家はどんどん新しくなってるのに」
「出てった子供の仕送りを下の子の教育さ使わねで、家建でるのさ使ったすけ、貧乏のままだんだ」
かっちゃが、
「オラんどは家も建ってねじゃ」
「それであだりめだべ。分相応に暮らしてるってことせ」
ばっちゃが、
「品川から帰ってきた息子はどうなのよ。さっぱり顔見ねな」
「どうかこうか、とっちゃの下で仕事おべでら」
どの家の構成人員も顔を見せないのがこの町の特徴だ。いつも家族が顔を合わせているテレビドラマが人気になるのはそのせいだろう。
「だば、帰るじゃ。郷ちゃんが名古屋さ帰るときは寄ってけんだい」
かっちゃが玄関を出ていった。ばっちゃは白湯を入れた鍋を四角いストーブに載せ、きのうの余りの半欠けの豆腐を掌に置き、包丁で刻んで入れる。
「ナメゴと玉子と納豆買ってくるじゃ」
「ぬるめがしたナメゴとねっぱる納豆てが」
「ぬるぬるした食いもんは、からださいんで」
じっちゃは苦笑いする。傘を持ってばっちゃが出ていく。
「んが、きょうは出はるのが?」
「いかない。一日家にいる。じっちゃが昼寝したら、傘差して散歩に出るよ。ところで、金曲(かなまがり)の善太郎さんの娘はどうなった? ひなたって言ったかな」
「あれからさっぱり連絡ねな」
「僕が高一のとき中三だったから、いま十九だね」
「田名部の高校出て、去年がらむつ市で下北交通バスの車掌やってるずじゃ。善太郎もあと四年で定年だすけ、早ぐ嫁さやりてべおん」
「去年あたりから東京にワンマンバスが増えはじめたから、いずれこっちもそうなるんじゃないかな。その前にあのハリキリ少女は観光バスのほうへいきたがると思うよ。あのあたりは観光の名所でしょ」
「ンだ。むつの観光バスなら、観光だな」
じっちゃは腰を屈めて立っていき、ガチャガチャとチャンネルを回して七時のNHKニュースをかける。ばっちゃが帰ってきて、鍋にナメコと味噌を投入。刻んだニンジンも投入。テーブルの端をじっちゃの上座に近づける。小鉢に納豆とネギを盛り、殻から取り出したウニを小皿に盛って、テーブルに並べる。電気釜を持ってくる。めしを盛る。バケツのホタテは昼食に回すようだ。
「かまどでめしを炊くことはなくなったの?」
「ほどんど電気釜だな。赤飯とが雑ぜめしはかまどで炊ぐ。三合な。重油バーナーは火力が強いすけ、薪と同じふうにちゃんと炊げる」
最後に味噌汁が出て、いただきます。ウニと味噌汁だけの朝食。美味。大盛りで二杯食った。二人は一膳。今回もじっちゃはほくほく、ばっちゃはニコニコ。
「ナメコに腰があって、うめがった」
「じっちゃ、さっき金持ちと貧乏の話が出たけど、じっちゃの家系は武士で貧乏、ばっちゃの家系は商人で裕福。明治は四民平等を目指した社会だったから、そんな垣根は取っ払われちゃったんだろうけど、そこに紛れこんでた華族ってどういう人たちだったの?」
じっちゃは茶を口中でブクブクさせ、楊枝を使う。
「四民平等てへるのは、人間に上下があってはまいねという平等思想だげでなぐ、それまで武士だけが握っていだ国防の義務を国民全員が負担することも意味したんだじゃ。そごで徴兵令が敷かれて国民皆兵となるわげよ。その体制に逆行するみてに生れできたのが華族だな。維新の前には、黙って大将にも大臣にも昇れる上級公家てへる七家の清華家があって、それを華族と呼んでたのせ。久我とが西園寺とが今出川とがな。維新のあど、ふつうの公家や大名、維新に手柄を挙げだ家なんどを華族に昇格させて特権をあだえ、天皇を守るという役割をくれてやるべって構想がでぎ上がった。で、明治十七年に華族令が制定されだ。その特権階級を華族と呼んだんだじゃ。ぜんぶで千十一の華族がいだ」
「その階級はなくなったんでしょう?」
「昭和二十二年の日本国憲法でな。じつはその年に、士族という身分呼称もなくなったんだ」
「じっちゃが巡幸列車を運転した年だね」
「なんだ、そったらこどまでばっちゃが話したのな」
「うれしい話だよ、じっちゃ。誇らしいよ」
じっちゃは頭をさすり、
「士族の品格を伝えてぐて、士族の末裔てこどばり子供や孫にしゃべってきたどもよ、ほんとに伝えたがったのは、どたらに平等な社会でも、人のために戦って死ぬこどをいどわね武士のタマシだ」
「じっちゃ、ぼくはその魂で生きようとがんばってるよ」
「わがってら。おめがいぢばんだべせ」
ばっちゃはコクコクうなずき、
「おめがいぢばんだ、どこさ出しても、恥(しょう)しぐね」
「おんやあ……」
じっちゃがテレビの画面を見つめた。日本プロスポーツ大賞のテロップが流れている。
神無月郷選手にスポーツ功労賞
「日本野球界で三冠王はじめ偉大な成績を残した中日ドラゴンズの神無月郷選手が、スポーツ功労者として坂田道太文部大臣から表彰されることになりました。昨年度の大賞受賞者は大鵬幸喜さん、殊勲賞受賞者は金田正一さんでしたが、昨日六日、日本プロスポーツ協会は坂田大臣の主導で、どの打撃部門でも飛び抜けた世界記録を打ち立てた神無月郷選手に、遅ればせながら特別な賞を授与するべきではないかと協議を行ない、満場一致で授賞決定に至りました。スポーツ功労者の表彰制度は四十三年のメキシコオリンピックを契機に創られたもので、オリンピック大会の一位から三位の入賞者に贈られることになっていましたが、神無月選手の六大学野球以来の活躍ぶりを見てきた坂田文部大臣が、世界新記録を樹立した野球選手にも当然贈るべきだと協会に提案、さっそくスポーツ功労者の表彰規定を改め、神無月選手の表彰となったものです。なお、十日の午後に予定されている授賞式には坂田文部大臣みずから名古屋に赴き、名古屋観光ホテルにおいて表彰状と楯を手渡すことになっています」
そんな賞があることさえ知らなかった。十日に日程を合わせたのは、北村席と球団本部に私の帰省のことを聞いたからだろう。努力した結果きちんと打ち立てた記録に対して与えられる賞は、根拠がゆるぎない正当なものなので私は快く受けることにしている。しかし忙しくなった。翌日の夜には東京へ出発だ。じっちゃはテレビを消して、
「きょうはうるせぐなるごった。家さいろ」
雨が激しくなってきた。
「野辺地の人たちは野球に関心がないし、マスコミもぜんぜんいないから心配ないと思うけど、そうする。……奥山先生は転任していっちゃったんだよね」
ばっちゃが、
「七戸の白石さな。野月校長先生はおっとし退職したし、義理欠ぐとごろはながべ」
ばっちゃが食器を片づけ、台所と縁側の拭き掃除にかかった。私は土間を掃く。玄関の開く音がした。
「こんにぢは」
「はーい」
ばっちゃが応える。
「佐藤製菓の文雄だ。神無月くんがけェってるって、かっちゃに聞いでよ」
突き出た玄関土間の仕切り戸を開けると、傘を差して大きな紙袋を提げたボッケが立っている。
「やあ」
「よ、でってらった? こっちさきたらオラんどさ寄ってければいがべせ」
「忙しくしてると思って」
「水くせじゃ。いづまでいるのよ」
「あしたの昼過ぎに帰る」
「ンだな。今夜わんつか飲むべ。ガマも呼ぶすけ。七時からどんだ」
「八時なら」
「うんだな、すたら二時間ほどチビチビやるべ。オラんども朝はえすけにさ。駅前の蔦屋のカツ丼つまみによ」
「カツ丼?」
「上っ皮だげせ」
ばっちゃが雑巾をバケツで洗いながら、
「あいィ、文雄さん、しンばらぐだっきゃ。おがったしなあ。見ぢがえだじゃ。上がってけへ。店まンだあがねんだべ」
「八時半からだ。だば、ちょっくらおじゃまします」
二十六
ボッケは居間に上がると紙袋を前に押し、炉端で膝を折る。じっちゃに向かって、
「このたびはおめでとうございます。いままでいろんな賞もらってる神無月くんにはあだりまえのこどだばって、テレビのニュースさ名前コ大っきぐ映ったの初めでだったすけ、ヤイ驚いだじゃ。じさまばさまも同じだべ。お祝いに佐藤の菓子一揃い持ってきたじゃ」
「ひよこまんじゅうも?」
「あれは発売中止。ボロボロ崩れるはんで食いにぐくてよ。成分の調合はイモ菓子のほうさ生がすこどにした。その代わり、十符ヶ浦もぢ開発したじゃ。クルミ入りだ。百十年つづいてる店だてへっても、将来性がねば銀行金貸してけねがらな」
愉快そうに笑う。
「……なあ神無月よ、町なが歩ってでも、あんまし騒がれねべ」
「うん。助かってる」
「……助かってるてが。神無月らしな。みんな見ねふりしてんだじゃ。腹のそごから認めでるすけよ。合船場は南部武士だはんで、一般人に受げねんだ。わんつかおっかね感じがするのせ」
じっちゃがうれしそうに、
「南部武士は津軽武士とちがるってが」
「大ちがいだじゃ。官軍に寝返ったのが津軽で、たでついたのは南部だ。砲台築くのに作ったこの新道もその名残ですべ。秀吉の全国統一に最後までさがらったのは、九戸二戸七戸の南部藩士だったずじゃ。武士だげでなぐ、八甲田の東と西では人がちがる。津軽は権力好ぎで、立ち回りがうめくて、ツラつけねくて、でしゃばりだ。南部のふとはおっとりしてるばって、一度しゃべったこどは死んでも曲げね。反権力で、反中央だども、立派だこんじょ持ってるふとだとわがると、ぜって差別しねで親切にする。南部のじょっぱりは長いものに巻がれろをよしとしねんだじゃ。合船場のじさまやばさまや神無月くんは南部武士そのものですべ。転校してきたのが野辺地中学校でいがったじゃ。でねば、嫉妬されて、無視されて、てえへんだったべ」
ばっちゃが、
「おめんど、わァほの郷にそったら気持ぢでいでくれるのが。ありがてじゃ」
「幼稚園からずっとこっちゃ、親友(けやぐ)だはんでな」
じっちゃが、
「あずましいこどだじゃ。新聞読んでも、郷は正しいこどばりしてるはんでな。危らしねこどされても、かならず勘弁してやってるよんたしな。野球の世界でもふとりこいるんだべおん」
「ドラゴンズにいるから独りじゃないよ」
ばっちゃがボッケに、
「父親(あや)は元気でやってらの」
「元気だァ。たいて作業場でばやめいでら。母親(あっぱ)は店さ出っきりだ。ほんずなぐしてしまるてほンど忙しいわげでねすけ、若げ従業員ど七、八人使ってラグに回しでる。ばさまも五十嵐スーパーさきたら、たまには寄ってけさまい。茶っこ飲ませるすけ」
「わい、寄らせでもらうじゃ。おめんどのイモ菓子、んめふてな」
ボッケは満足げな顔で立ち上がり、
「へば、いぐじゃ。じさまばさま、失礼します。神無月、ほんにおめでとう。だば八時な」
と言ってボッケは帰っていった。少し離れたところで車のエンジン音がした。
ばっちゃがイモ菓子の箱を開き、じっちゃと私に配る。口の中に粉っぽい溶け心地が拡がる。かすかに甘い。ケツメイ茶をいれる。
「文雄のとっちゃがイモ菓子発明したんだ。戦争前でねがったがな」
「ンだった。研究熱心な男でせ、菓子のこどしかアダマにねくてよ。そごさきて、あの歌舞伎ヅラだべ。だあも寄ってがねがった。あったら男が仕事すんだじゃ。おべだふりの何(な)も知らずよりな」
私は茶を飲み干すと、
「やっぱり散歩してくる。雨の野辺地の町を歩いたことがないから眺めてみたい。常夜灯から引き返して、野辺地駅までいってみる。一時間ぐらいで帰るよ。二人でテレビでも観てゆっくりしてて」
「ンだが。去年おめの履いだ長靴があら。出してやら」
「おめもいっしょにいってこい。足腰鍛えられるべし、人払いになるべ。ふんとに変わったワラシだな」
ばっちゃといっしょに傘を差して浜町へくだっていく。低い堤防沿いの土の道を歩いて常夜灯に向かう。漁師家が連なる裏手の道なので、四戸末子には遇わなかった。桟橋に合羽を着た五、六人の釣り人。石積みの古びた常夜灯に着く。小ぶりな五重の塔のように見える。刻まれた五文字の崩し文字は読めない。
傘も差さず低い堤防から身を乗り出して、藍色の小波の立つ海を覗く三人の女の子がいる。二人は白い浴衣姿、一人はパンツの見えるスカート姿。雨を嫌がり、すぐそばの家に駆けこんだ。引き返す。電信柱の向こうに、おぼろに下北の低い山並が伏せっている。まさかりの柄の部分だ。
「山脈とも言えないぐらい低いね。山と呼べる山はあるの?」
「よごはま町の東の六ヶ所村に、ぼんてん山があら。あどは何もね。大湊までずっとあの高させ」
若水取りの水神宮から細い段々を登り、線路を渡って野中の校庭を眺める。しんとしている。生徒たちは新学期を開始したばかりの教室にいる。
「うさぎやがら歩ぐが?」
「うん」
「なんだが見納めよんたな」
「空き地になったとき、もとの店は何だったか憶えておきたいから」
野中の校庭からヤジに出、大万旅館を曲がってうさぎやへ。ここいらはこの二日しっかり見ていない。味噌蔵の角向かいのうさぎや、ようこちゃんの店。彼女のうわさは一度も聞いたことがない。隣はビクターレコード。野中に転向したばかりのころ、この店でばっちゃにたくさんレコードを買ってもらった。
「ジェンコ沢山(わったり)使ったでば」
と笑ったばっちゃの声が蘇ってくる。その隣はヤマハエレクトーン。楽器を売っている店だ。覗いたことしかない。隣はスキー用品店、四歳か五歳のころ英夫叔父さんに千五十円の子供用スキーを買ってもらった。そのことをばっちゃに言うと、
「英夫が野辺地さきたのはあれ一けきりだ。昭和二十八年の正月でせ、郁子を連(へ)でできたっきゃ。ミッちゃんが郁子に赤いべべ着せで、正月の挨拶さへでよ」
「ああ、そうだったね」
郁子が合船場一家の前に平伏してお辞儀をしたことを思い出した。私はたしか、じっちゃの膝にいた。うさぎやの角向かいはサロンパスの看板を揚げている薬局。ここに信号があったことを知らなかった。幼稚園のころはなかった。あとは五十嵐商店まで二日間見たとおりだ。縦貫タクシーの前のバス停にバスがきた。私は道の向かいの佐藤製菓と青森銀行を眺めながら、
「これに乗って野辺地駅まで出て、そこからうさぎやまで引き返そう」
男の車掌のバスに乗って野辺地駅に向かう。バス代は十五円。
「よくばっちゃはこのバス停まで見送りにきたね」
「雪の日ばりな。なもかも昨日(きな)のよんた」
パチンコハッピー、五十嵐商店を見やる。下町へくだっていく。
†
野辺地駅。義一と家出したころ、舗装されていない駅前のロータリーにいつも四輪タイヤの小さな馬車が停まっていた。駅舎のたたずまいは思い出せない。木造の瓦屋根だったような気がする。いまは鉄筋平屋根だ。タクシーやバスが出入りする。
雨が大粒になってきた。いつもの道を歩き出す。住商混在の商店街。長靴が雨でテラテラ濡れる。松浦商店、寿し蔦屋、何の思い出もない。野辺地簡易郵便局、カズちゃんの勤めていた鳴海旅館、中野仏壇・仏具。
「野辺地の人はみんなここで仏具を買うの?」
「ンだ、こご一軒だふて」
民家が目立つ。松山旅館、ミカミヤマデンキ、千葉美容院、種市石材店。
「墓石もここ?」
「ンだ」
クラスメイトの瀬川のクリーニング店、ガラス戸の中は覗かなかった。中谷米穀店。与田川橋を渡る。民家の列。高校生のころ、このあたりには旅館が一軒、新聞配達所が一軒あった。清川という同級生の鍛冶屋と、朝鮮から帰化した金という女子生徒の邸宅もあった。清川という背骨をスッと立てて歩く男、金という頬っぺたの赤い女―いま思い出した。清川も金も消息は知らない。
鳴沢橋までほとんど民家の並びになる。藤川旅館、鳴沢橋交差点、十和田タクシー。右へいけば野辺地病院。
「じっちゃが転んだとぎ、そごさいちんち入院したの」
「入院!」
「なんたかた帰るってへて、次の日十和田タクシーさ乗って帰ってきたの。おどなしぐしてねんだじゃ」
「一日だけでだいじょうぶだったの?」
「ケツ骨さヒンビへったらしのよ。医者の言うこど聞かねで、動かねば治るてへって、こんじょ曲げでまって。……ほんに動かねで囲炉裏さねまってるだけだすけ、腰も曲がりはじめだじゃ」
「二人とも元気でいてくれないと、帰ってくる張り合いがなくなるんだ。今度何かあったら無理やり入院させてね」
「できねべおん」
「ほんとにじっちゃには困ったもんだな。散歩でもすればいいのに。……たしかにじっちゃには出歩くのは似合わないけど、程度問題だ。ちゃんとした杖を買って帰ろう。杖を突くのが楽しみになって、少しは散歩するかもしれない」
野辺地川を見下ろしながら鳴沢橋を渡る。右手に、鍵・SUZUKIオートバイ金原修理、左手に道の肩に半分埋まりこんだ民家二軒、向かいにも一軒、左に謎の鈴木理容所の廃屋、こちら隣にも朽ちかけたモルタル家があるのに気づく。
「なんで道より低く造られてるんだろうね」
「戸が開がなぐなるすけ、庇の下が低く作ってあるのせ。坂の下の下町は雪が吹きこむんだでば」
このあたりから喫茶店や飲み屋も多くなり、町の中心部らしい密集感のある町並になってくる。平尾精肉店。
「屠殺は種畜場でするの?」
「三沢の食肉処理場さ運んでやるのせ。処理した肉を業者に卸し、そごがら小売りに卸されるんだず。その一部を種畜場が受げ取るの」
総合衣料クボタ、トンボ学生服。野辺地の学生服もここが一手に引き受けているのだろう。見上げると、陸奥鶴の大きなネオン看板。水晶米黒石米穀。こんな店があったか。
「おめのあごど後ろこんど、大吉さんにそっくりだな。……大吉さん、何してるんだべな。いいふとだったすけ、あんべいぐ暮らしてればいたって」
私は笑うだけで応えない。後ろこんどというのは後頭部のことだ。ヤマザキパン。ここで岡田パンが荷の積み下ろしをするのを見かけたことがあった。岡田パンの名前はいまもって知らない。トケイメガネやなぎや、隣に蕎麦屋。野一旅館。もっと坂下のほうだと思ったが、ここか。浜中書店。見逃していた。ここいらが坂のいただきだ。本町に入る。ほとんどがビル構えになる。建築中の建物もあって、嘆かわしい。右にメガネのふじや、左に大湊屋製菓、電波塔の立つ電電公社、その向かいにストウ写真館。
「ここからは見慣れてる」
青空が見えてきたが雨脚は強い。五十嵐商店、向かいに青森銀行、隠れるように佐藤製菓。向かいにパチンコハッピー、シャッターが下りている。縦貫タクシー。うさぎやに戻ってきた。ここまで趣のない数十の店の看板を読まなかった。
「ここのようこちゃんはどうしてる?」
「婿取って、ワラシもいるこった」
味噌蔵から寂れた道を大万旅館へ向かう。寂れたと言うのは家の密度から感じることで、たいていの民家や商店が四角いモルタルに変貌している。
「和子さんとそごのダイマルで米買ったな。あれがらふと月にいっぺん、ちゃんと精米して届けでけでる」
「角鹿から買わないから、愛想なくされてるんじゃない?」
「なもよ。玄米と麦と餅米は角鹿がら買るすけ」
「あ、じっちゃの杖!」
新町へ戻り、和田電機の向かいのいさみや雑貨店で、楓材の高級杖を買った。先が硬いゴムを装着してあるので滑りにくく、安定感もある。七千六百円を七千円にまけてくれた。
「高げくて、十年も売れなかったもんだ。善吉さんは五尺六寸べっこあるべ。この杖ァ三尺よりわんつか短けぐれだすけ、ちょんどいいこった」
六十代の女店主は杖を包みながら、
「ハギさん、このふと郷ちゃんだべ?」
「ンだ」
「ワイハ、立派におがって。めんこい顔してガラ大っきいすけ、アメリガの人形(じんじょ)おんた」
ばっちゃは身を屈めて笑う。
「テレビ観だよ。文部大臣がら表彰されるツケ。おめでと。野辺地のほごりだじゃ」
「ありがとうございます。ばっちゃ、土偶の頭のついてる土鍋と、その大きな四角い買物籠買ってこう」
「籠はあるすけ」
「底のカドが破れかけてたよ。それもください」
ぜんぶで六千五百円を五千円にまけてくれた。ばっちゃはその場で竹編みの買物籠を手に提げた。店主は、
「いだわしねぐジェンコ使うごだ。ありがてたって」
「むかしからばっちゃはぼくにそうしてくれてますから。さ、ばっちゃいこう。じっちゃが心配してる」
女同士ぺこぺこお辞儀し合う。
二十七
十時をだいぶ回っている。雨脚は弱まらない。合船場に戻ると惣助さんの家のかっちゃがきて茶を飲んでいた。台所の板間に何本か束ねて縛った大根が置いてある。
「じさまが茶をいれでけだのさ。めンずらしこどもあるもんだでば」
私は頭を下げ、じっちゃの下座にあぐらをかき、包み紙を解きながら、
「じっちゃ、杖買ってきたよ。これを突いてたまには散歩してね」
じっちゃは目を輝かせて杖を手にとり、
「こらいいもんだなァ。危らしねぐ歩げるじゃ。ありがとさん」
ばっちゃが包みを開いて、
「ワはこれせ。土鍋。把手がしゃれてらべ。それがら大っきた籠」
「郷ちゃん、いっぺんにじじばば孝行して、じつのワラシもかなわねでば。おめんども育(か)でできた甲斐があったニサ」
「どどもねじゃ(大げさだ)。オラんどはめしかへだだげだ。へずねぇ思いしてきたのは郷のほうだんだ」
「ふンだな、十五でへっちょ吐ぐ苦労したんだおん」
イモ菓子が出る。
「おいや、佐藤菓子でねの。これ六十円もすっちゃ。贅沢だな」
「朝ま、文雄が届げでけだのよ」
「郷ちゃんは野辺地の名士だすけな」
「どどもないですよ」
私が言うと、みんなウホホッと笑う。
「標準語で野辺地弁しゃンべられると、おがしなよんた。晩げは同級生どがあづばるんだべ」
「いえ、文雄くんとめしを食うだけです。ガマがくるかもしれません」
「ガマて、村上タイルの幸雄な?」
「はい」
「あれは暮れに結婚して、半年もしねうぢに、デラッとした嫁ッコがニガたなって歩ってらった」
「は?」
「赤んぼ抱いて歩いてたの」
「ふうん、まじめなドラマだな。ガマも父親か。めでたいですね。タイル屋は繁盛してるんですか」
「まんず繁盛してるこった。あだらしい家バンバン建ってるすけ」
「タイル専門は村上しかねはんでな」
かっちゃはばっちゃにつがれた茶をすすり、菓子を齧る。
「山田医者、近藤病院さ土地売ったずよ」
首がすくんだ。ばっちゃはさして驚きもせず、
「いづよ」
「去年の暮れだず。うぢのとっちゃがしゃべってらった。今月の末に立ぢ退ぐらしじゃ」
「親子して、どさいぐのよ」
「はて、どさいぐんだが。わったり金入るすけ、野高のそばのちゃっけ一軒家でも買るんでねが」
母子草の未来に吹く風の冷たさが定まったように感じた。とつぜん末子のことが気になりだした。
「四戸末子さんの噂は入ってこないですか」
「浜の四戸が?」
「はい。同級生です」
「たすか、とっちゃが海で死んだうぢだべ。かっちゃが漁協で働いでる……。ワラシが何人がいだったな」
ばっちゃがうなずき、
「いぢばん上っかが末子よ。めんこい顔した」
「あぃ、あれが。大した美人だっきゃ。たすか城内(じょね)でバーだがスナックだがやってるんでねがったが。下は何してんだが、聞いたこどねな」
末子の店のある城内の道筋はまだ歩いていなかった。歩いていたらさびしいことになっていた。
「へば、ワいぐじゃ。昼めしの支度しねばなんね。郷ちゃん、まだこっちさきたら寄ってけさまい。野球がんばってけへ」
「がんばります」
ばっちゃがイモ菓子と十府ヶ浦餅をいくつか包んで持たせた。
「こんだ、夕顔持ってくべ。善吉さん、たまには惣助さんにも顔見せてやってけんだ」
じっちゃはにこやかに頭を下げた。ばっちゃはかっちゃを玄関まで送って出た。
ホタテ尽くしの昼めしになった。貝焼き、大根の千切りを敷いた刺身、天ぷら。ヒモの天ぷらがうまい。じっちゃが、
「野坂歯医者は腕がいな。ヒモがちゃんと噛めるじゃ」
「野辺地の代官の子孫だて話だべ。院長先生の姿勢がバリッと決まっちゃしの」
昼めしが終わると、じっちゃは口を漱ぎながら茶を一杯飲んで、
「だば、ワはわんつかねまるじゃ」
ヨイショと立ち上がり、寝間に引っこんだ。
「野坂歯科ってどこにあるの」
「城内幼稚園の隣、ガマの実家のななめむげ」
「末子の店のすぐ近くだね」
ばっちゃが気の毒そうな表情になり、
「おめが末子を気にしてらってごと、恵美子がら聞いでだ。何年が前、東大の夏休みでおめが帰ってらったとぎ、浜でいぎ会ったべや。さっきたしゃべらねがったばって、恵美子の話だば、末子の店はこの二月につぶれだずよ。去年ヨゴハマの定時制卒業して、十一月にどうにが初級公務員試験さ受がったすて、末子のバーさ飲みにいって祝ってもらったず。そのとぎそたら話コされたず。かっちゃといっしょに野辺地漁協の市場で働ぐてじゃ。弟(おんず)ど二人は漁師やめで関東のほうさいったこだ」
「彼らの学費は末子が稼いだんだよね」
「ンだ」
「恵美子は町役場に就職することが決まったの?」
「三月の末がら見習いしてるず」
「末子はかわいそうだね。……ちょっと漁協市場にいってくる」
「いってこい。坂本から先さしばらぐ歩った右っかわだ」
十二時半。雨が粘りつくような小糠雨になっている。濡れたアスファルトの地面だけを見て歩く。坂下から末子の家の前を過ぎ、ノリの養殖の棒杭が突き立った海を眺めながら歩く。坂本の家には七、八分で着いたが、そこから十分ほど歩いた。市場とは名ばかりで、路傍に張った青いビニールテントの下に、魚介の入った板の荷箱が並べてある青空市場だった。アネさんかぶりモンペを穿いた中老の女たちが道ゆく人に声をかけている。雨模様とは言え、けっこうたくさんの客がいる。ホタテと北寄貝の売り場に末子がいた。
「四戸さん、こんにちは」
末子は私を振り仰ぎ、大きな目を輝かせて、
「あいー! 神無月さん! 四カ月ぶり」
正確だ。指折り数える日常の習慣がにおう。
「ばっちゃに聞いてきた。店閉じたって」
「はい……ちょっと待ってけへ」
隣にいた老婆に耳打ちで断って、氷を敷いた荷箱のあいだを抜けてくる。傘を差しかけてやった。売り子たちの声が聞こえてくる。
「おいや、神無月選手だじゃ。うだでなオーラだでば」
「いい男だニサ。バリッとしてらい」
「末子の同級生だってが」
「ふとりこ野中からセイコさいったツケ」
「合船場の郷ちゃんだべ。アガモン出てプロ野球さへったずよ」
アガモンは出ていない。声を避けて道を渡り、小さな空き地に二人でたたずんだ。
「逢いたがった!」
ぼくもと言えない忸怩とした気持ちがある。しかし、ぼくも、と明るく言った。
「十二日からシーズンが始まりますね」
「よく新聞読んでるね」
「もうスクラップブックで本棚がいっぺになりました」
「ありがとう。お母さんは?」
「漁協の事務のほうやってます。市場を手伝うことはめったにねくて」
「出世したんだね」
「そうですね。長いすけ」
「城内のバーは残念だったね」
「あれだば仕方ないです。商売(しょうばい)ヘタクソで。こたら仕事が分相応です」
「弟たちは漁師にならなかったって」
「はい、埼玉の上尾てへる街さ二人して出ていきました。いぢおうスカウトされで。トヨタの大っきた修理工場です。かっちゃと二人きりの生活になって、かえって肩の荷が下りました。嫁さいけって言われることもまんずなくなるし。……かっちゃに神無月さんのこと、ボロッと話してまって。したら、うだで喜んでくれて。子供ができたら生んで自分で育てればいいって」
「そんなところまで」
「はい。男と女が抱き合っていれば、ふつうに起こることですから」
「子育てはたいへんだよ。大っぴらにできないし」
「はい、覚悟してます。野辺地にはそういう子供がけっこういます。野辺地の人は大らかで、そういうことは悪ぐ言わねんです。横山のよしのりさんも、ガマさんもそんでしょう? だども、わだしは子供を作るために神無月さんを愛してるんでねんです。そたらのアダマにねえです。かっちゃはただ心構えを言っただけで。まんいぢ子供ができても、神無月さんには迷惑かけねということです」
「今夜八時、ボッケとガマと蔦屋でめしを食う。お母さんに言って、出てこれない?」
「いぎます」
「じゃ、佐藤製菓の前、七時四十五分にはいってる」
「わがりました。へば」
「じゃ」
さりげなく露店を眺めながら、トビウオ一尾、クロソイ二尾、巨大なアマエビのような海老を三匹、あしたの朝めしのためにアジの開き三尾、ツブ貝の醬油煮一袋、野菜も売っていたので、白菜、じゃがいも、ナスも買う。売り子の女たちが釣銭を渡すたびに私を陶然とした表情で眺める。こんな表情で眺められるのもあと数年かと感じる。
片手に二袋になった。重いので、傘を閉じ、袋を両手に持って歩く。共同の水場を左に見て浜坂を登っていく。右に小さな鳥居だけがある豊漁稲荷神社、ばっちゃと一度訪れたことがある。じっちゃと柴を取りにいった謎の細道を左に見て過ぎる。右も左も、何の交流もない家々。そしてただ往来するだけの坂道。思い出の中だけで輝いている坂道。
踏切を渡って振り返る。四カ月前東奥日報の車を停めた空き地の傍らに建っていたボロアパートがきれいに取り壊され、更地になっている。空き地を貸してくれた地主の家は新築され、二棟の四角いモダンな建物に変わっている。たった四カ月で! アメリカから訪れた君子叔母が洗濯をしていた共同井戸、無秩序に群がり立つ大木の下に朽ちかけた田島鉄工所。無人家のように見える。和田電機とその倉庫。土やコンクリートの空き地、見知らぬ角張った家々、空き地、家々、帰宅。
「ただいま。いろいろ買ってきたよ」
「何買ってきたど」
「魚と野菜」
二つの袋を見て、
「ややや、そたらにが。こえかったべ」
「軽い軽い。晩めし分と、あしたの朝昼分」
「いだわしねジェンコ使って」
柱時計が一時四十分を指している。あと一時間もしたらじっちゃが起きてくるだろう。
「末子に会えだのが」
「うん。ホタテの売り場にいた。元気だったよ。弟たちは埼玉のほうにいるらしい。かっちゃは漁協の事務のほうに勤めてるって」
「いがったな。末子もラグになったべおん」
「遊んでる子供が一人もいないし、紙芝居がきそうもない町になっちゃったね」
「むかしはきてたってが」
「うん、銀映の横の空き地にね。そこがブランコとシーソーのある小さな公園みたいになってて、よくみんなメンコやべーごまや、ビー玉してた。それがなつかしいわけじゃなくて、そういうものが似合わない町になっちゃったってこと。たとえば、運動会の白足袋とか、交通整理の警官とか、配達の瓶牛乳とか、単品の商店とか、駄菓子屋とか、風呂屋の番台とか、貸本屋とか、野外映画とかね」
「ほんに、いぎなりなくなってしまったな」
「ばっちゃも思い出せるものある?」
立て板に水でしゃべりだした。
「いぐらでもあらい。お手玉、おはじき、赤ん坊おぶってるめらし、重でアイロン、飛行機が撒くチラシ、水色の扇風機、玉子屋、金魚売り、豆腐納豆売り、カキ氷を売る店、馬車、男の中折帽、トンビ」
「トンビ?」
「男が着物の上さはおる二重回しよ」
「ああ、インバネス。太宰の写真で見たことがある」
「へがら、旅回りの一座、ゼンマイ蓄音機、リヤカー、盥の洗濯、靴磨き。あだらしいとごでは、ダッコちゃん、フラフープ、パーマ屋」
「パーマ屋はまだあるんじゃない?」
「いまみてに電気ゴテ当てるんでねくて、大っきた電熱カブトかぶるパーマ屋よ」
「ああ、とんがり兜か。数え上げたらキリがないね」
「ンだな。いまあるものはいづがなぐなるもんだべ」
「……そう思って、ぼくはいつもものごとを見てるんだ」
「おめはおがしすぎるでば。この世を見納めるよんた目でもの見でる。じゃわめぐじゃ(怖いよ)」
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