十九
法子は少し先のテーブルを通りかかった小夜子に手を挙げ、
「あ、お姉さん、少し代わって。私、お客さんの様子を見てくるから」
小夜子がやってきて、法子と交代する。
「法子の姉の小夜子です。チーフホステスをしてます。このたびはおおきにお世話になりました。おかげさまでこんな立派なお店をやっていけることになりました。母はノラのほうを張り切ってやってます。神無月さんとのご縁でこうして暮らしていけることを不思議にもありがたくも思ってます」
「あなたたちのがんばりの成果よ。キョウちゃんはこうしてボーッとしてるだけ。福の神の飾り物だと思えばいいわ。でも、飾り物でもいつも大事にしてあげてね」
「はい、それはもう」
みんなにビールをつぐ。主人が、
「立教大学のご出身らしいですな」
「はい、これといった勉強もせずに、昭和三十年に卒業しました。長嶋より年上で、今年三十七歳になります。立教時代の親友が母のノラを長いこと手伝ってます」
千佳子が、
「神無月さんとはどういうご縁だったんですか」
「法子が中一のとき、片想いだった神無月さんを無理やりノラに連れてきましてね、それから私たち一家の運がトントン拍子に開けたんです」
カズちゃんが、
「法子さんの情熱と努力が加わったせいね。キョウちゃんを追いかけるにはその二つが必要だから」
ヒデさんが、
「ほんとうに情熱と努力だと思います。郷さんは難しくでき上がった参考書みたいな人ですから、開いて一生懸命勉強しないと何も身につかないんです」
「みなさん、神無月さんを尊敬してるんですね」
睦子が、
「心から尊敬してます。とても正直で、ある意味メチャクチャです。障害の多かった人生を嘆きもしないし、取り繕いもしない。胸に刺さります。ほんとに出会えてよかった」
キッコが、
「ずっとそばにおりたい男やが」
店内が混み合ってきてほぼ満席になり、ステージに薄く明かりが点いた。主人が、
「お、始まるぞ」
淡い茶色のブレザーに黒ズボン、リーゼント髪のフランク永井がスポットライトの当たるステージに現れてお辞儀をしたとたん、伴奏の楽曲が流れた。ピアノ、シロフォン、ドラム、ギター、ベース、サックス、すばらしい音響だ。有楽町で逢いましょう、こいさんのラブコールと、じつに美しい低音と高音で立てつづけに唄う。感嘆の拍手。菅野が、
「こりゃすごい」
「ようこそおいでくださいました。フランク永井でございます」
客席から、イエイ! の声。湧き上がる拍手。ボーイが、ソフトビーフジャーキーと砂肝のスモークを持ってきた。法子が戻ってきて小夜子といっしょに減りかけたグラスにビールをつぐ。今度は睦子たちも少しずつグラスを傾ける。
「えー、いつも申し上げることですけれども、どうぞ、騒然とした世情のことは忘れて、きょうもお宅にいらっしゃるようなくつろいだご気分でお遊びくださいませ」
ものすごい低音に驚く。好みの語り口調ではない。デビュー十五年目、三十八歳。台湾興行時に受けたインタビューの話になる。
「あー、フランク永井さん、あなだは初めで台湾にきだ。それでは、台湾の印象をちょどゆうでください。私、答えました。おー、台湾のひどだちとても心があっだかい。オッホッホ、釣りこまれるというのは恐ろしいものでございます。翌日の朝、内輪同士で会ったときも、あー、おはよございます、なんてことになっちゃってるんです」
しゃべりの間が絶妙で、澱みなく、小噺ネタの質も上々、しかも素直に笑わせてくれる男だ。また二曲歌う。俺は淋しいんだ、節回しに惚れぼれする。夜霧の第二国道、カズちゃんが激しく拍手する。法子も小夜子も、私たちも惜しみなく拍手する。またトーク。女の耳もとにする囁きについて。
「きょうのお昼は何? いっしょに社員食堂へいこうか。これだけで女性が陥落するというんですから、なんとも男女の仲は不思議でございます」
ふたたび笑い。彼には勝手知ったる反応のようだ。どことなく好色な雰囲気がする。最初の印象に翳りが出はじめる。
「その調子で、今夜はひとつ陽気にいきましょう」
法子と小夜子が見回りにいく。百江が法子の背中を眺めて、
「生きいきして……並の女ではぜったい務まりませんね」
「天性のものだよ」
二曲唄う。霧子のタンゴ、あいつ。狂いのない、はらわたに沁みわたってくる歌唱の技術だ。歌声は文句ない。しかし、ふたたびトーク。こっちのほうが長い。前座のステージで唄っていたデビュー時の苦労話をする。冗談話なら笑ってすませられる。でも身の上話には嘘と誇張が混じる。醤油を混ぜて炊いためしの香ばしさ―毎日炊くわけではないだろうし、おかずが買えなかったということでもないだろう。勤め先の知り合いのホステスに三十円のコーヒーをおごってもらって、二十円の電車賃を浮かした話―これも毎日できることではないので、常習的に浮かしたわけではなさそうだ。日給がタクシー代で消えるので仕方なく深夜喫茶で夜明かしした話―電車で通っていたのでなかったか。家に帰らなかったという意味か。いろいろ疑問は残るが、訥々とした口調にやられる。デビュー前のダンプ運転手時代の話は出なかった。それがいちばん聞きたかった。私は菅野に、
「なんか嘘くさいね」
「たしかに」
また二曲連続で唄い上げる。東京午前三時、夜霧に消えたチャコ。美声に聞こえなくなってきた。釣られて拍手。この映画に淡いさびしい記憶がある。筑波久子、葉山良二。
―あの人のことが死ぬほど好きだったのよ!
人生最初のショッキングな科白だった。そんな言葉は死ぬほど言いたくても言えないだろうと直観した。
「盛大な拍手、ありがとうございます。もう三曲唄って今夜のステージを終わらせていただくことにいたします。大阪ろまん、君恋し、東京ナイト・クラブ。このラストソングを松尾和子さんの代打として、お客さまのお一人にステージに上がって唄っていただきたいのです」
中年女性客の黄色い笑い。
「ただし、男のかたはいけません。と申しますのも、なぜ泣くの、睫毛が濡れてる、好きになったの、もっとフンフン……これを男同士でやりますとどうも気色が悪い」
爆笑。私は笑えない。肝が冷えるほどの技能の持ち主に、細かく巧(たく)んだウイットは要らない。なるほど芸能人侮るべからず。
「ですから女性にかぎるわけでございます。歌詞はちゃんと用意してございます。あなたの出番のパートに線を引いてございます。いかがでしょうか、東京ナイト・クラブ、お相手をお願いしたいんですが。私が二曲唄っているあいだにお考えくださいませ」
カズちゃんたち一同が顔を見合わせる。
「唄うつもり?」
「まさか。フランク永井の声は聴けるけど、あの顔を見て、もっと抱いてとは言えないわよ。あっちの席のだれが手を挙げるのかなって」
中仕切りのほうを見やる。素子が、
「最初から決まっとるんよ。うちは、あの三番目のテーブルの肥った女やと思うわ」
「法子さんはどうでしょう?」
ヒデさんが訊くと、菅野が、
「それはぜったいないですよ。彼女は神無月さんイノチですから、かりそめにもそんなまねはしません」
腕時計を見る。九時二十分。みごとな時間配分だ。つまらない歌が駆け足で二曲つづく。それでも拍手が上がる。睦子が、
「なんだか急ぎだしましたね」
「歌の質も落ちた」
私が言うと菅野が、
「へんに世間受けした曲ばかりになっちゃったな」
主人が、
「ワシは、公園の手品師をじっくり聴きたかったがや。しかし神無月さんにはかなわんな」
どんなに喉がよくても、メロディが陳腐ならばカスだ。三曲目の茶番になる。素子の予想していた女とはちがう、もう一つの大テーブル席にいた痩せた女がステージに招かれて耳障りな音痴ぶりを披露する。フランク永井と見つめ合ったりするが、この図のほうがよほど気色が悪い。歌い終わったあとも、××さんありがとうございました、とひとこと言ったきり、握手もせずに素っ気なくステージから降ろした。
「楽しんでいただけたでしょうか。本日はほんとうにありがとうございました」
拍手の中、フランク永井は一礼して舞台裏に退がった。追いかけるように法子と能勢が舞台裏へ急ぐ。報酬を渡すためだろう。周囲の客たちが〈健康な〉ざわめきを取り戻した。くつろがなかったのだろう。カズちゃんが、
「法子さんもたいへんね。もっとまじめな芸能人を呼ばなくちゃ」
「マシなほうやったんやないか。歌もしゃべりもうまかったしな。ただ、最後に素人を引きこんで東京ナイト・クラブはないわな。さ、ミコシを上げるか」
小夜子といっしょに法子が戻ってきた。
「すみません。ちょっとシラケたでしょう。お酒とお話だけを楽しんだほうがよかったみたいですね」
「何言ってるの、法子さん、すごく楽しかったわよ。今夜はありがとう。ただ、やっぱりふつうの楽団のほうがいいわね」
「これからは少し考えます。これに懲りずに遊びにきてくださいね」
「もちろん機会を作ってちょくちょく飲みにくるわ。とても繁盛してるみたいで安心した。ホステスさんの質も、おつまみの味も最高ね」
私は、
「歌は沁みた。トークはちょっと……」
能勢が静かにやってきた。名大たちが頭を下げ、
「きょうはごちそうさまでした」
「おいしかったです」
「いいコックを入れてますから、当店自慢の味です。たまには酔族館を大学のコンパで使ってやってください」
「はい!」
主人が能勢の横顔に、
「なんだか浮かない顔ですな」
「いやあ、出演料の交渉に手こずりました。最初の約束よりかなりふっかけてきましたんで、ちょっと本人も含めてプロダクションのやつらを叱ってしまいました。こういうことは店の経営にも響きますからね。会のほうに報告します。今後は、神無月さんのよう なあるいは山口さんのような歌も演奏もハイレベルの、人間が汚れていない素人さんに声をかけるようにします」
カズちゃんが、
「声も演奏もハイレベルだったわよ。聴きたかった夜霧の第二国道を唄ってくれたし。そこまで気にしなくてもいいと思うけど」
「気になります。ときどき神無月さんやみなさんの目がギリッと光ったりしたんで、はらはらしとりました。見抜いてしまうんですな。法子ママは途中からあわててました。品がない、神無月さんたちは品のないものを嫌うって。神無月さんや北村席のかたたち は、このひどい世の中で特別です。じっと目立たんようにして、世間と闘っとる強いかたたちです。いっしょにおると私らも強くなれる。生きる力になります。えらいことをしとるかたたちなんですよ。きょうも目立たんようにひっそりしとってくれたですね。ほんとの目的を持って生きとるからです。だからこういうささやかなことにも、法子ママも私も命懸けなるんです。少しでも失敗すると泣けてくるんですわ。これからはガッカリさせません」
二人のホステスが風呂敷包みを提げてやってきた。百江と優子が受け取る。法子が微笑む。
「気を取り直して、おいしい食べ物を持って帰ってくださいね。きょうお出したお料理を詰め合わせたお重です」
能勢が、
「わざわざ大切な時間を使ってお越しいただいて、ありがとうございました」
「能勢さん、オールスターの前後に茶飲みにお訪ねすると牧原さんにおっしゃってください。康男や光夫さんにも会いたいですから」
「それはおやめになったほうがよろしいかと。組長が心配します」
主人が、
「ワシらがいけば問題ないやろ」
「は、それは」
「そう伝えといてください。いくときは前もって連絡しますから。お茶一杯で引き揚げるで、お気遣いないようにと」
「そのように伝えます」
「康男は出世しましたか」
「まだ蛯名や時田と同じ組長の兄弟分ですが、神宮前あたりをまかされていいシノギをしてますから、この何年かの内には事務局長になるでしょう」
「事務局長……」
「幹部グループの一番下役で、大出世です。それから十年、二十年かけて、舎弟頭、本部長、若頭補佐と上がっていきます」
よくわからないので、私は曖昧にうなずいた。ともかく康男はつつがなく階段を昇っているようだ。みんなでレジに向かう。無理やり押し止められるのもかまわず、主人は財布から三万円を抜いて払った。
「キッチリするところはキッチリせんと、長い付き合いができん」
法子と能勢と小夜子は深く辞儀をした。
二十
四、五人のホステスやボーイも加わって灯火のある駐車場まで見送りにくる。法子がみんなの手を握る。
「ほんとにありがとうございました。神無月くん、水原監督や選手のかたがたにもよろしくおっしゃってください。酔族館は立派にやってるって。みなさんのおかげだって」
「言っとく」
カズちゃんが法子の尻をやさしく叩き、
「北村にもたまにはきてね。身が持たないでしょ」
法子はうれしそうに、
「開幕前にお伺いしようと思ってました。そのときはよろしくお願いします」
車を交代してハイエースを千佳子が運転し、クラウンを素子が運転する。クラウンにキッコと百江と優子が乗った。商店の連なる道へ二台の車が出、みんなで手を振りながら遠ざかる。能勢が直角に辞儀をしていた。
七里の渡しの向こう、大瀬子橋のシルエットを眺めやりながら内田橋を渡り、伝馬町を通って、右手に熱田神宮の杜を過ぎる。御陵の坂をくだり、熱田駅の駅舎の明るみを視界によぎらせながら左折する。まだ市電が走っている。
「神無月さんの知り合いは、ことごとく守られますね」
菅野が助手席にいる主人の背中に言う。
「ありがたいことやが。つくづく思うわ」
「大きな世界……」
睦子が呟く。ヒデさんが、
「ほんとに大きすぎてびっくりします。初めて野辺地で郷さんに遇ったときも、ただよわせてるムードの異様さに驚きましたけど……。和子さんは、能勢さんのような人たちをむかしから知ってるんですか?」
「うちの商売柄、小さいころから知ってたけど、怖い人たちと思わなくなったのは最近のことよ。二、三年前キョウちゃんと熱田の松葉会を訪ねてから」
「ワシもそうや。神無月さんといっしょに熱田にいってからやな」
菅野がうなずき、
「そのとき私もごいっしょしたんですが、その種の社会にまったく無知でしたので首がすくみました。神無月さんがこわもての男たちから下にも置かぬもてなしをされてるのを見て空恐ろしくなりましたよ。そういう場所でも、神無月さんは北村席と同じように自然体で振舞ってるんですから。秀子さんの言うように異様な感じともとれますが、生まれつき備わってる空気がちがうと言うんですかね、とてつもなく広くて大きい。会の人たちを呑みこんでました」
「ワシらが呑みこまれるのも当然やな。北村席で、松葉会にいったことがあるのはトモヨとおトクか。ほかはだれもいっとらん。わざわざいかんでも、あんたらもきょうの能勢さんを見て多少様子がわかったやろう。こないだまでおった大門の蛯名さんもそうやが、遠くからこっちを見とってぜったいベタベタ寄ってこん」
「夕暮れの空に浮かんで生きてる人たちです。茜雲のようになつかしい」
カズちゃんが私の言葉にうなずき、
「隙のない怖い感じは着ている服で、中身はとてもきれいな人たちよ」
ヒデさんがカズちゃんに、
「お客さんのだれも郷さんに気づきませんでしたね」
「気づいてほしかった?」
「はい。野辺地では、気づかれても敬遠されるか無視されるかするので、少し悔しい思いをしてましたから」
「へんに騒がれないように法子さんが従業員に口止めしてたからよ。キョウちゃんは球場の外では騒がれたくないの。神無月だって気づいたお客さんもいたでしょうけど、お忍びだからそっとしといてくださいとでも言ってくれたのね」
「郷さんの気持ちをよくわかってるんですね、法子さんは」
「そうよ、キョウちゃんイノチ。操も堅いのよ。パンティ二枚の上にガードルを穿いてるの。どんなに安全そうに見えても、お酒を扱うきわどい仕事ですものね」
千佳子が、
「夏は大変でしょう」
「能勢さんが命懸けと言ったでしょう。汗疹(あせも)ぐらいテンカ粉でどうにかなるわよ」
高倉から金山へ。遠くネオンが固まりはじめる。夜の道を車が行き交う。
「ヘッドライトとネオンがきれいだな。夜の都会は大好きだ」
みんなでビルのネオンを見上げる。カズちゃんが、
「キョウちゃん、夜霧の第二国道、唄って」
「うん、ネオンにピッタリの歌だ」
つらい恋なら ネオンの海へ
捨ててきたのに 忘れてきたに
バックミラーに あの娘の顔が
浮かぶ夜霧の ああ第二国道
カズちゃんが私に抱きつき、
「すてきィ!」
菅野が、
「すばらしい。欲求不満がぶっ飛びました。第二国道というのは五反田から横浜までの第二京浜道路のことです。東京と大阪をつなぐ国道1号線の一部です」
主人が、
「ヨ、博士!」
「夜霧の第二国道は、フランク永井の歌の中でもすぐっていいものです。ヒット曲というのは悪いものをすぐる傾向がありますから、これはめずらしい部類に入ります」
睦子が、
「フランク永井って、もっと不器用な人だと思ってたら、案外人馴れした気取り屋なのでちょっとさみしくなりました」
「あの風采じゃしょうがないと思わなくちゃ。大御所芸能人の体裁ってものがあるでしょう? これは作り話だなってわかるとシラケるけど、そうする気持ちを理解できるから戸惑っちゃうわね」
「人を傷つけるわけじゃないですものね」
千佳子がハンドルを操りながら、
「入学式、退屈だったでしょう」
「はい、最初は緊張してましたけど、すぐウトウトしてしまいました」
ヒデさんが答える。睦子が、
「新歓コンパはいつ?」
「クラスコンパは四月半ばから五月にかけてとなってますけど、私は出ません。北村席にいたほうがいろいろ楽しいことが多いし、それにお酒の席で見知らぬ人と会話なんかしたくないし。特に男子学生がタフランケみたいなのばっかりで、近寄りたくもありません」
菅野が、
「何ですか、タフランケって」
「ノータリンてことです」
「そうよね。青森高校と大ちがい。東大よりもひどい」
千佳子が、
「映画サークルの新歓にもいかないの?」
「いきません。観たい映画があったら、部室の上映会にだけはいきます。毎週月曜日と金曜日の午後六時。キッコさんは毎週金曜日の午後五時から七時まで、クラブで決められた課題本を読むようです。ところで郷さん、野辺地に帰ったら種畜場には寄りますか」
「うん、顔を出そうと思ってる。無理にチビタンクを北海道から呼び寄せないでね」
「はい。先月の末に帰省して、二日間いて帰ったそうです。お母さんとはちゃんと連絡とってますから、私のことを報告する必要はありません。時間があったらお茶でも飲んであげてください。忙しければいかなくていいです。山田一子さんは町役場でがんばってるようで、すっかり勤め人になって落ち着いたと聞いてます」
「そう。母子草として生きていこうと決めたんだね。実際のところ、帰省して何をどうしていいかわからないんだ。奥山先生を訪ねたら、やれ西沢先生だ相馬先生だと義務感でいっぱいになっちゃうだろうし、ボッケに会えば、やれガマだ杉山四郎だと話がつながって、飲み会になるかもしれない。それは気が進まない。結局、ばっちゃに親戚の家を連れ回されて一日、二日は経っちゃうだろう。せいぜい散歩の道で知り合いに会って、コーヒーを飲むくらいのところだと思う。そのほうがいい。新道を歩いて、海を見て、野中のグランドを見て、商店街を歩き、烏帽子岳を眺めながら農道を歩く。種畜場にはばっちゃといっしょにいくよ。帰りぎわに、白百合荘の羽島さんとミヨちゃんには会っていこうと思う」
古渡町の交差点を左折して山王橋へ。堀川を渡る。山王通を走って名鉄山王駅に出る。右折。菅野が、
「開幕戦の始球式は青田昇らしいですよ」
「よく聞く名前ですが、どういう選手ですか」
「戦後、昭和三十四年まで、巨人、阪急、巨人、大洋と渡り歩き、百七十センチ、六十九キロの小さなからだで、巨人時代に二回、大洋時代に三回ホームラン王を獲ってる選手です。五度目のホームラン王は三十二年で、三十三年のホームラン王は新人の長嶋茂雄です」
「新旧交代の橋渡しみたいな選手ですね」
主人が、
「長嶋は三十三年と三十六年にホームラン王、翌年から四十三年まで七年連続ホームラン王の王へ橋渡し、王は四十四年からの神無月さんに橋渡ししたわけですな」
日置橋。中川運河を渡る。六反から下広井町。笹島。高層ビルの灯りの中へ入らずに左折して太閤通へ。帰ってきた。十時半。
「おかえりなさい!」
女将と幣原、ソテツ、イネは寝ている。メイ子、千鶴、ジャッキが迎える。素子とキッコが、お土産お土産、とはしゃぐ。百江と座敷のテーブルに土産の重箱を拡げる。優子が皿に取り分ける。メイ子が、
「法子さん、元気にやってました?」
「元気、元気」
「お店も繁盛」
優子が、
「フランク永井も聴かせました」
ヒデさんが、
「ああいう場所は初めてだったので、興奮しました」
女たちが重箱をつつきはじめる。菅野は茶を一杯すすると、
「じゃ社長、私はこれで。神無月さん、あしたは走らないでおきましょう。きょうはゆっくり休んでください。十時過ぎにここを出ます。飛行機の予約は、エンジン音が小さくて、座席や荷物入れの広いファーストクラスにしたかったんですが、青森行にはその サービスがなかったのでエコノミーです。青森からの便も」
「いいんじゃない。いままでもそうだったんだから。そんなの贅沢だよ」
「三千円追加するだけなんですけどね。出発前に専用ラウンジで待てますし、別の搭乗ゲートから優先的に案内されます。機内サービスの飲食物は無料で、降りるときも前のほうの席なのでサッサと動けます。からだの大きい神無月さんにピッタリだと思ったんだけどなあ。残念です。小牧空港に着いたら予約カウンターですよ。カウンターまでいっしょにいきますけど、帰りのために覚えておいてもらわないと」
「心配しすぎですよ。一度経験してるので心得はあります」
「心得はあっても、神無月さんはボンヤリがヒョイと顔を出しますから」
「そうなんだよね。万事呑みこんでお手のものにするということができないんだなァ」
素子が、
「あっちに着いてからも心配やわ」
みんな不安そうな顔になる。カズちゃんまで首を傾けた。
「なんとかなるよ。何かわからなくなったら、ちょっとものを伺いますが、でいくから。見知らぬ人に手数をかける図々しさがあれば、何だって乗り切れる」
主人が、
「そういうことや。心配せんでええ。なら、ワシは風呂入って寝るわ。じゃ菅ちゃん、あしたは空港から帰ったらめし食って出かけよ。二時から二人、面接があるで」
「了解」
主人は離れへ、菅野は玄関へ去る。ジャッキに別れを告げる声がした。カズちゃんが、
「……やっぱり心配ね。私が……」
「よちよち歩きの赤ん坊じゃないんだから、ほんとにだいじょうぶだよ。東京、広島、福岡にだって一人でいってるじゃないか。みんな予定があるんだ。この数日予定がないのはぼくだけでしょ。じっちゃやばっちゃが倒れたりしたら、真っ先に駆けつけなきゃいけないのはぼくなんだ。駆けつけて、とことんケリをつけなきゃいけない。今回だって、その予行演習のつもりでいる。長旅ぐらい慣れておかなくちゃ」
「ケリをつけるのはお母さんの仕事よ」
「がんばっていってきてや!」
キッコが背中をドヤした。優子が、
「くれぐれもお気をつけて」
「なんだかなあ。出征兵士じゃないんだよ」
睦子が、
「とにかく青森空港に着いたときと、こちらに向かう飛行機に乗るときは、北村席に電話を入れてくださいね。チームで遠征地へいくのとわけがちがうんですから」
「アイ、ガット、イット」
十一時を回りかけている。ようやく名大生たちと優子が二階へ上がった。百江とメイ子がテーブルを片づける。
二十一
なぜか私たちのそばを去りかねている幣原にカズちゃんが、
「幣原さん、うちにくる? だいじょうぶな日でしょ?」
「はい、ありがとうございます」
私の顔をチラリと見て、
「……神無月さんがよろしければ」
「まだ力があるよ」
素子が、
「キョウちゃんはどんなときも力を出せるんよ」
「……それでは、こちらでしていただいてもいいでしょうか。朝が早いので」
「そうね、五時起きだものね。キョウちゃん、客部屋にいってらっしゃい」
「うん」
幣原と二人で玄関脇の客部屋へいく。幣原は一枚布団を敷き、スカートと下着を脱いでに仰向けになった。脚を拡げると、ほどよく濡れている。ズボンとパンツを脱いで、スムーズに交接した。幣原は襲ってくる快感を素直に口にしながら、全力でオーガズムを 繰り返す。膣のシンプルな強い反応に、私にもすみやかに高揚がやってくる。射出のとき、大きな嬌声が上がった。幣原は私の律動に合わせて痙攣しながら、
「愛してます」
と幾度も口にする。これだけの時間で、幣原はふだんの気苦労やからだのコリから解放される。上着の上から薄い胸をさすり、ひくついている下腹をさする。幣原はその手を握り、
「愛しい人……。いつまでもおそばで見守ってます。……もう、いらしてください。あしたに障ります」
「うん、また来月ね」
「いつでも待ってます。ありがとうございました」
ズボンを持って廊下に出ると、温めたタオルを用意して待っていたカズちゃんが、やさしく陰部を拭った。パンツとズボンを穿かせる。玄関の外で、素子たちの明るい話し声がした。百江が、厨房と座敷の灯りを消した。ジャッキを抱き締めてからだをさすり、 玄関戸を閉めて出る。
「これで四日間乗り切れるやろ」
素子が伸びやかな声で言う。
「昨日の朝からたっぷり連続でやったから、ぜんぜん心配なかったのに。テル子じゃなく、ぼくの心配をしてたの」
メイ子が、
「両方です。神無月さんは四日分の心配ですけど、幣原さんはひと月分、ふた月分の心配です」
門を出て夜道を歩きだす。カズちゃんが、
「ときどき言ってるでしょ。心配は心配でも、そういう禁欲の心配とはちがうって。あいだが空くとか空かないとか、何日禁欲したかとか、そんな差し引き計算は、自分の欲求不満を解消するためにキョウちゃんを利用してるってことになるのよ」
「うち、いつもそれを後ろめたく思っとるわ」
「私たちみんなそうよ。相手を思いやるしっかりした恋愛感情がないと、自分の性欲のほとぼりを冷ますための手軽なセックスになっちゃうもの。こういう男女関係って、独占欲の強いふつうの女だと、恋愛からほど遠い不道徳で機械的なものって考えちゃう。恋愛は独占だと思ってるからよ。でも独占こそ不道徳の最たるものでしょ? 思いやりのない者同士のセックスのほうが不道徳で機械的よ。けど、キョウちゃんと関係した女は、キョウちゃんの心とからだの健康を考えるどっしりした愛情を持ってるから、セックスから得る歓びは、愛する人の健康管理をすることにくっついてきたボーナスみたいなものだって感じるの。だから抱いてもらえることは、自分をいつまでも思ってくれる人に対する感謝にしか結びつかないのよ。……たとえ何年あいだが空いてもね」
素子が、
「お姉さんのその理屈、耳にタコができとるけど、いつも新鮮やわ。青森にもひさしぶりの人がおるんやろう?」
「いるわよ。白百合荘の管理人の羽島さん。わざわざ呼び立てることをしないで、遠くからキョウちゃんに思われることだけで生きてる人。あれから五年経つから、もう五十二になるはず」
百江が、
「私と同じくらいですね。……待ってるでしょうね」
「キョウちゃんは、青森にいったらかならず彼女のところに寄るの。すばらしい情の深さだわ。私はそういうキョウちゃんが誇りなの。……いつもキョウちゃんのそばにいられる私たちは幸せね。せっかく幸せなんだから、切り出しにくいでしょうけど、あなたたちもからだが限界になったらキョウちゃんにおねだりしなさい。体調がよければ、きっと応えてくれるから。女の限界は気持ちしだい。ほんとに限界だと感じたときだけじゃないとだめよ」
みんなでまちまちに素直な返事をする。
郵便受けに、則武・亀島地区の水道配管清掃を報せるチラシが入っていた。メイ子が、
「きょうの午後の十一時からあしたの朝の五時までですって。朝はしばらく水を出してから料理にかかればいいですね」
「お風呂と脱衣場と、庭の水道もね。トイレはいいわ」
私が居間のテレビを点けると、女たちがコーヒーを入れ、茶菓子を用意する。柿ピーと草加煎餅。金田のチャンピオンズゴルフ。今年は金田まみれだ。板東はいっさい出てこない。百江がカズちゃんに、
「いつ訪ねてくるかわからない人を待つ……。何をやるにも、勇気ですね」
「そうね、勇気というのは怖がらないことじゃなくて、怖くてもやることだから。それがどうにかうまくいく条件は、周りに変人が多くいてくれること。世界には同時にたくさんの変人がいるって私は感じてる」
カズちゃんはどんな問いかけにも当意即妙に回答する。テレビを消した。
「ほんとにテレビはくだらない。寝るわよ。百江さん、野辺地のお土産は何?」
「重くならないように、ういろう三本入りの箱四つです」
「身の回り品は?」
「大きめのボストンバッグですから、下着三組、ワイシャツ二組、洗面道具、枇杷酒一合瓶と、ナショナル髭剃りと、爪切り、綿棒。靴下やタオルなんかも詰めておきました」
私は、
「縄跳びのロープも入れといて」
「わかりました」
「本は何持ってくの?」
「論語。カズちゃんの本棚にあったやつ」
「退屈なものよ。倫理学、特に上に仕える役人の倫理」
「襟を正すという気持ちで、暇が潰せればいい」
「それ以外の使い途はないわね。何に襟を正すの? みんなキョウちゃんに襟を正してるのよ。キョウちゃんが正す必要はないわ。じゃ、お休みなさい」
「お休み」
四人散りぢりに自分の部屋へ戻っていった。私はもう一度テレビを点け、ぬるくなっコーヒーを飲みながら、競馬のダイジェストをぼんやり観る。邦画が始まった。さすらいのトランペット。昭和三十八年の映画だと紹介される。野球に夢中だった中学二年生のころにこんな映画があったのか。高橋英樹、浅丘ルリ子、二谷英明、松原智恵子。監督野口博志? 知らない。原作配島桂次郎? 知らない。裕次郎のいない日活映画。
矢崎プロダクションの看板スター高橋英樹は社長二谷英明の札束攻勢の売りこみで、マスコミの寵児となった。しかし高橋は矢崎のやり方に反発してプロダクションを飛び出し、北国の寺に仮寓して労働に精出す。家出人の北国行にすぎないのに、よくおあつらえむきに受け入れ先があるものだ。あれこれあって、寺の和尚の娘松原智恵子にもう一度トランペットを握ってもらいたいと励まされる。いい齢をした女が、適齢期に寺に残って何をしているのだ。矢崎の妹浅丘ルリ子からレコードが届くが依怙地に聴こうとしない。いつもの陳腐な展開だ。だいたい寺の住所はどうやって知れたのだ。高橋は村祭りの太鼓の素朴な音にハッと目覚め、上京を決意する。浅丘がリサイタルの企画をまとめる。はいはい都合よすぎ。いいかげんにせい。ワンパターンに虫唾が走るが、悲しいかなつい見入ってしまう。高橋は上京したとたん、二谷の喧嘩騒動に巻きこまれて指を痛める。ミュージシャンが手を痛めつけられるというのは、日活アクション映画の常套だな。嵐を呼ぶ男の二番煎じ。その後二谷は徹底的に淪落し、きっかけを作った高橋を逆恨みする。このあとは観なくてもわかる。しかし観る。リサイタルは成功し、高橋と二谷は仲直りする。毎度の〈なんのこっちゃ〉。しっかり観た自分が情けない。
一時半。テレビを消し、歯を磨き、二階に上がって寝床に入る。圓生。盃の殿様。最後まで聴き終わって目をつぶった。
†
四月六日月曜日。八時起床。快晴。九・二度。やや寝不足の感じ。動悸が胸を打つほどなので、ジム部屋にはいかず、バットも振らない。中学三年生のころからマレにこういうことがある。肋骨を突き上げるほどの感じだが、たいてい数分で治まる。階下に降り、うがい、歯磨き。食事中の女たちの賑やかさが心地よい。
「おはよう」
「おはようございます!」
「そろそろ私たち出かけるわよ。朝ごはんは北村でお願いね」
「百江は早番なの?」
「そうです。気をつけていってらっしゃいませ」
「いっしょに出るよ。直人が保育所にいく前に、ちょっと桃太郎を読んでやりたいから」
中身を確かめたボストンバッグを提げ、ジャージに下駄で出る。カズちゃんたちとアイリスの前で別れ、百江とは数寄屋門の前で別れた。緑鮮やかな庭でジャッキと戯れながら玄関に入る。居間で二人の背広男と話し合っている主人夫婦に挨拶し、座敷に入る。 菅野はファインホースにいるようだ。
「直人、桃太郎のつづきを読むよ」
「やった!」
トモヨさんが直人に園児服を着せながら、
「十五分くらいしかありませんけど、お願いします」
「睦子たちは?」
「早くから大学にいきましたよ。教科書を見るか買うかするって。お洋服は納戸部屋に用意しておきました」
直人が嬉々として居間から取ってきた絵本を畳に拡げる。
「よし、じゃきのうのつづきだ」
おじいさんと おばあさんは、
ふたりして、おかゆをたべさせたり、
さかなをたべさせたりして、ももたろうをそだてました。
ももたろうは、いっぱいたべると いっぱいだけ、
にはいたべると にはいだけ、
さんばいたべると さんばいだけおおきくなる。
いちをおしえれば、じゅうまでわかる。
だんだんおおきくなって、それはそれは ちからもち。
そのうえ、なんともかとも かしこいこになりました。
「かしこいって?」
私は直人の頭をなぜながら、
「直人のように頭のいい子だよ」
うれしそうにまた絵本にうつむく。山と積んだ芝を担ぐ桃太郎の絵が描いてある。
おじいさんと おばあさんは、
「ももたろうや、ももたろうや」
と、かわいがって かわいがっていました。
あるひのこと、いちわのからすが、ももたろうのうちのにわへきて、
―おにがしまの おにがきて、あっちゃむらで こめとった。があー があー
こっちゃむらで しおとった。があー があー
ひめを さろうて おにがしま。があー があー があー となきました。
「さろうて?」
「連れていっちゃったんだね。どこのお姫さまだろうね」
「カンナ?」
「そうかもしれないね」
それをきくと ももたろうは、おじいさんおばあさんの ところへいって、
ちゃんとすわって、りょうてをついて、
「おじいさん、おばあさん。わたしも おおきくなったので、おにがしまの
わるいおにを たいじしにゆきたいとおもいます。
どうか、にっぽんいちの きびだんごを こしらえてください」
とたのみました。
「はい、きょうはここまで。あとはおかあちゃんか、お姉ちゃんたちに読んでもらいなさい」
「うん。ももたろうは、どうなるの?」
「どうなるんだろう、楽しみだね」
(次へ)