十六
四月四日土曜日。七時起床。重苦しい曇り空。背景の建物がないと見えない程度の霧雨が降っている。ルーティーン。体調よし。ジムトレ二十分。室内素振り百八十本。三種の神器。腕立て百回、腹筋百回。背筋を五十回に減らす。ジムトレで十分とする。一升瓶三十回ずつ。翼ダンベル十キロ二十回ずつ。
焼鮭、大根おろし、ひじき、板海苔、納豆、ワカメと豆腐の味噌汁。どんぶりめし。夕方までこれでじゅうぶん。八時、いつもより三十分早く菅野がきて、ランニング開始。大鳥居まで。霧雨がうるさいので、少しスピードを上げて走る。
「東大の黒田さんからこちらを訪ねたいという電話がありました。四月十九日の日曜日です」
スピードを緩める。
「どうして?」
「四月中に訪ねると約束してたそうです。去年バトントワラーたちを連れてここにきたときに」
「そうだったかな」
「オンワード樫山に早期内定したので、その報告も兼ねてということでした」
「その日は試合じゃないの」
「はい、土日に川崎球場で大洋戦です。そう言ってお断りしました」
「で、またの機会にということになったわけね?」
「いえ、十八日の夜にニューオータニのほうに伺うと」
「なるほど……めしでも食って帰します」
「球団広報から少年野球教室の打診がありました。六月十九日の金曜日ですが、どうします? 露橋公園グランド。梅雨どきだということで、昇竜館室内練習場に変更することもありとなってます。いずれにしても午前十時から」
「去年はみんなを引っ張りこんじゃって迷惑かけた」
「水原監督を含めて、ほとんど参加しません。ただし、神無月さんが参加するなら江藤さんたち何人かはくるそうです」
「やめときましょう。彼らのトレーニング計画に狂いが出る。去年は浮かれてました。二軍選手たちにまかせます」
「了解」
ふたたびスピードを上げる。少し雨粒が大きくなるがすぐ霧雨に戻る。時間の感覚がなくなる。いまがいつで、何を終えたあとで、これから何をすべき時間だろう。何月何日何曜日、午前午後を絶えず確認しなければいけない。たくみも予定もない時間。空の色 と、目の前に展がる景色だけだ。
北村席の数寄屋門に到着。ランニングのあとなので午前だ。八時三十七分、霧雨、タイメックスは十・五度。
「直人を送ってきます。じゃ私はここで」
「夕食で」
「昼は則武ですね。ソテツに言っときます。ちょうどよかった。私もファインホースを半ドンで上がって、女房と秀樹を連れて食事に押し出すことになってます。習字道具やら文房具屋らいろいろ買ってやりたいものもありますんで。六日が始業式なんです」
「ときどきいいパパさんを振舞わなくちゃ。奥さん孝行もね」
「がんばってます。神無月さんみたいに毎日だと、荷が勝ちすぎます」
「若さで凌いでるから。じゃ」
「じゃ」
則武に戻って何をするということもない。しかし戻る。のんきにブラブラ遊び回って、酒をガブカブ飲み食らい、コテッと寝てしまう人生というのはどういうものだろう。私はなぜそうしないのか。―遊び回らずに野球をとことんまでやりたいし、酒を飲んで晴らしたい憂さもないし、そもそも酒に弱いからだ。ガブガブ飲めないし、少し飲みすぎただけで吐き気と嘔吐に苦しめられ、コテッと寝ることなどとてもできない。
「ただいま」
「お帰りなさい。コーヒーを作って机に置いてあります」
「ありがとう。でもすぐには書かないよ。シャワーのあと、居間で少し落語を聴く。きのう途中で寝ちゃったから」
「そうですか。じゃ居間に宇治の高級玄米茶をお持ちします。香りがよくておいしいですよ。私は洗濯物を洗面所に干したら、十一時から中番のお手伝いに出かけてきます。土曜日は三割引きの日なので、ふだんより混むんです」
「アイリスも?」
「はい。でもアイリスは飲み物が主なあつらえものですから、いまの人手でなんとかなります。アヤメのような食べ物商売は、客の回転も速いし、品出しする人手がけっこう要るんですよ」
「百江は献身的な人だね。みんなの役に立ってる」
「神無月さんほどじゃありません」
「もう五十を過ぎたんだから、いいかげんにコマ鼠はやめてね」
「はい。まだまだ元気です。いつでもお相手できます。きょうはアチラはだいじょうぶですか?」
「ほんとはだいじょうぶじゃないけど、セックスのイメージを汚したくないんだ。しっかり禁欲しないと」
「お気持ち、わかります」
「じゃ、机に向かうね」
「はい。無理なさらないでくださいね」
「うん」
二階に上がる。百江はしばらく階下でゴトゴトやっていたが、やがてカラリと玄関戸を開けて出ていった。牛巻坂、きのうの推敲。十章完成。茶封筒三つ、足もとに積む。
二時。下駄を履き、傘を差して笈瀬川筋に出る。人の生き方について定見を持った人びとにとって、私という存在がよんどころない障りだった時代……。高々五年前だ。ときの歩みがのろい。亀島の浅野の家までの道のりを確かめるように歩く。清正公通り、中村郡道と進んでいく。浅野の家は発見できたりできなかったりするが、きょうも〈炭〉の看板は見つけられなかった。
机に戻り、端座する思いで『大学』を開く。語義注と全訳がついているので、労せず読める。大学章句とある。大学章句とは、の細ごまとした解説が書かれている。孔子の伝え遺した書物で、初学者が道徳へと進むための入門書だと書いてある。これにつづく書物は論語と孟子である、とあるので、その順で紐解いていくことにする。広大な分類や、朱子までの伝承人物の系譜などどうでもよいから、聖書のような雑読に入る。もちろん現代語訳部分だけ。
学問の仕上げとしてなすべきことは、自らの生まれつきの立派な徳性を発揮することであり、それによって俗習になずむ民衆を新鮮にすることであり、かくして最高の境地に踏み止まることである。
止まるべきところがわかってこそ目指す目標が定まり、目標が定まってこそ平静になれ、平静であってこそ安らかになれ、安らかであってこそものごともよく考えられ、よく考えられてこそ止まるべきところに止まる という目的も達成できる。
人の善の部分だけを見る理想論の極北であるとわかった。理想論は心が洗われる。しかし私のような人間に理想論は無力だ。それでも読んで血液を清潔にしたい。
少年のころからよく考える。自殺を。私など消えたほうが世のためだと思う。でもあの日、人騒がせなつまらないデモンストレーションは金輪際するまいと決意した。目立たず生きること。私のような者が生きていていいなら、私より倫理的な人びとは当然生きるべきだ。その人たちに心洗われながら、ときどき善き人たちの痛みと孤独に感銘し、まれにじぶんのそれと遊びながら、彼らの陰でひっそり生きればいい。
大学は年数を経て読むこととし、子曰くの論語から読もうと決める。野辺地行のボストンバッグに入れる。雨の中を北村席に出かけていく。
†
夜九時、カズちゃんに言われてみんなより早めに則武に戻り、節子とキクエを迎える。二階の褥ですぐに行為に及んで手早くすませ、シャワーを浴び、居間でくつろぐ。二人の仕事話に耳を傾ける。水頭症のかわいい男児の話には胸が痛んだ。牛巻病院や西高の話も出る。聞き役でいることが快い。十時過ぎにカズちゃんたちと合流した二人は、あれこれ茶飲み話をしたあと、十一時を回ってから帰った。
†
四月五日日曜日。六時起床。快晴。四・二度。小便。昨夜の性交のせいで勃起が治まらないので、隣部屋の百江の蒲団に忍んでいき、やさしく一交。百江は大喜びし、口を枕で塞ぎながら存分な愉悦に浸った。百江の限界を見切って、射精せずに一階のカズちゃんの部屋にいき、口で愛撫をしたあとじゅうぶん長い交接をする。
「愛してる」
「百倍も」
連続のアクメの最中に、背中を指先で叩く危険信号があったので、汗の浮いた美しい胸の上に吐き出す。カズちゃんは体液ごと私を抱き締め、五度、六度と痙攣を伝えた。
「お風呂入りましたから、どうぞ」
ドアにメイコが声をかける。
「みんなで入りましょう」
メイ子は二階の百江と一階の素子を風呂に誘う。
「日曜の朝風呂、高円寺以来やが」
五人で湯殿に入り浮きうき全身を洗い流す。
「毎日こうしたいけど、早起きが大変ね」
五人で湯船に浸かる。ほてったものを素子に握られてたちまち回復し、素子とメイ子に座位で心ゆくまで快楽を与える。亀頭が多少麻痺していたのでりきんで射精しようとすることを避けた。二、三時間もすれば回復する。離れると、素子はカズちゃんに、メイ子は百江に身を預ける。いつもながら不思議な図に感動する。
「きょうは酔族館よ」
「あまり早く到着しないほうがいいな。適当に混んでくる時間帯にいって、ほかの客に紛れたほうがいい。ぼくに注目しないようにと法子に電話しといて」
「オッケー。騒いだり、シラケたりされるのはごめんだものね」
「シラケる人がおるん?」
「そりゃそうよ。そっちのほうが多いでしょ」
百江とメイコが風呂掃除にかかり、カズちゃんと素子は朝食の支度にかかる。テレビを点ける。NHKのニュース。ただのニュースがショーアップされて、よど号一本になっている。
「午前中に羽田に帰ってくるみたいね。水族館、案外のんびり飲めるかも。私と素ちゃんは飲まないから、運転は心配ないわよ」
メイ子が、
「私はやっぱり遠慮します。お手伝いしちゃいそうだから」
「そうね。くつろがないわよね。私たちとムッちゃんたち四人だけだから、ハイエース一台、クラウン一台でよしと」
「お父さんもいくの?」
「うん。ご祝儀渡したいって言ってたから。一時間ほどで菅野さんと帰るって。私たちも十時までには帰りましょう。今夜は節子さんとキクエさんが則武に泊まることになってるけど、いい?」
「だいじょうぶ。きょうは体力がみなぎってる」
「みなさんが帰るまで、私が節子さんたちのお相手をしてます。神無月さんは飲みすぎないでくださいね」
メイ子が微笑む。朝食ができた。ハムとスクランブルエッグ、厚切りトーストでひさしぶりのパン食。私には小さなステーキが一枚ついた。
「ランニングのあとで文江さんのところに寄ってくる。昼めしを北村で食って、酔族館に出かけるまでゆっくりするよ。そのあいだに〈リクエスト〉があったら、できるだけこなすようにする」
「無理しないで文江さんまでにして。……でもキョウちゃんはえらいわねえ、ぜったい文江さんのことを忘れない」
カズちゃんの言葉に、三人の女がしみじみとうなずく。
自分の実力以上の歓びを与え、多少の見返りを得る行ないがもたらす罪悪感など、贅沢の極みだ。七転八倒しながら悪事を重ねているほんとうの罪人に申しわけがない。彼らよりも少しでも善良に、忙しく生きることが私の仕事だ。一日に五回や十回の性交渉など負担のうちに入らない。愛情のグラデイションが胸苦しいだけだ。しかしそれも、最近ではカズちゃんを除いて気持ちの上で明確に段階づけられているので、苦しさの負荷は少ない。ただ、段階づけるというゲスばった行ないからは早く解放されたい。去ってほしいと願う女は一人もいないけれども、去ってもあきらめられる女はすぐ指を折れる。たまさか出会い、求愛の行動が切実でなかった女たち。ギブアンドテイクの考えはさらさらないが、なつかしい思いもよぎらず、哀切な思いも湧かない女は、去られて悲しいと思わない。なんと冷えた心だろう。
女たちはきょうは出勤しない。二店舗とも休日だからだ。私に休日はない。菅野に電話する。
「小金中学の道路向かいの広い空き地で、三種の神器をやりましょう」
「了解。あそこは空き地じゃなく、日吉公園と茶ノ木公園が合わさったものです。米野公園という名前で統一整備する計画だったんですが、何十軒もの家が立ち退かないので、空き地として放置されてるんです」
「そうですか。整備される前にうんと利用しておきましょう。素振りも、ダッシュもできそうだ」
百江たちが掃除洗濯にかかる。
十七
八時半に菅野がやってきた。バットを持って出発。太閤通へ出て、笈瀬通の電停から太閤通三丁目の電停に向かって走る。
「道路に斜めに面している建物が多いでしょう?」
「あ、ほんとだ」
「ハスカイと言います。ここいらの米野の田畑の地区には、北から南に向けて斜めに流れる農業用水が何本も流れていたので、それに沿って家が建てられたせいなんです。戦災も受けなかったので区画整理が行なわれませんでした」
中村区役所の木造二階建て庁舎と、四階建てビルのツノダ自転車営業所に挟まれた十字路を左折。
「ツンツンツノダのテーユー号か」
「名古屋が誇る自転車メーカーです。本社は小牧にあります。この通りは黄金通り、反対側は則武通りと言います」
なつかしい木造の民家の軒並を走る。戦前からの木造建築。浅野の家に似た二階家も多い。大切に住まっている民家には、大屋根に立派な鬼瓦がそびえている。所有者の世代交代があったのか、樹木が生い茂るままに放置されている家もある。左手に工場の体裁を構えた巨大なクズ屋がある。足を止める。有・太田商店。トタン塀に手書きの看板が貼りついている。産業廃棄物、廃品回収、不用品処分、引越し。
「なぜか町なかにマッチしてますね」
「むかしからある廃品回収の業者です。戦後の叩き上げですね。けっこう大きな会社です。空き缶や段ボールを持ってくると処分してくれますし、清掃もやりますよ」
「人に歴史ありって番組、インテリばかり採り上げずに、こういう人たちを紹介すればいいのに」
走り出す。黄金通二丁目の交差点。左手に低い木柵だけで囲った広大な空き地が見えてきた。処々に入口が開いている。気まぐれなまだら模様の土と芝。桜を主に種々の樹木が数百本植わっている。
「昭和十年に作られた日吉公園です。この奥にある熊野社に秀吉の懐胎を祈願したことで有名です」
「日吉丸……」
「はい」
「道路を隔てた少し狭い空き地が茶ノ木公園。遊具がポツポツあるので、子供の遊び場になってます」
日吉公園の正面入り口の門柱が独特で、橋の親柱のような形をしている。三十五年経った門柱だ。
「真ん中の森のようなところが熊野社です」
「まず運動いこう」
「はい」
入りこみ、各自ストレッチ。私がバットスイングしているあいだ、菅野は園内を周回する。二周するうちに百八十本のスイングを終えた。
「うわあ、広いですわ。一周五百メートルはありますね」
二人で三十メートルダッシュ三本、五十メートルダッシュ二本。菅野のあごが上がったので、十分間休憩する。
「帰りに文江さんのところに寄ります」
「……神無月さんはすごいなあ。何か超越した境地なんでしょうね。だれもまねできない」
私は笑うだけで応えない。
「きょう家にいてくれればいいけど」
「師匠はたしか、十一時から河合塾の日曜教室です。お嬢さんが前もって電話してますよ」
「まだ九時だ。たっぷり時間がある」
芝地を選んで三種の神器。五十回ずつ。菅野に合わせてゆっくりやる。
「熊野社へいってみましょうか」
「うん、いいね」
二基の灯籠のあいだを緑の中へ入っていく。短いものさびしい参道。
「小さな社殿しかないね」
「日之宮と言います」
社殿の隣に大きな石碑があって、由緒ある神社だとわかる。石碑の題字は〈日吉丸生母祈願の址〉。
「秀吉のお母さんが、むかしここにあった日吉権現に日参して、子供が授かるようにと祈ったんです。それで生まれたのが豊臣秀吉で、願が叶った感謝をこめて日吉丸という幼名をつけたということです。ここの境内を拡張して日吉公園が作られたんです。当初は 吉野桜が六、七百本も植えられて設備が充実していて、公会堂、四阿、公衆便所、国旗掲揚の柱、滑り台、ブランコ、鉄棒、たくさんのベンチ、藤棚、芝生なんかが整備されてたんですが、いまは藤棚くらいしかないですね」
そんなことを知っておく意味は? 意味などない。それが知識の本質だ。
黄金通に戻り、黄金中学校を覗いて帰る。通用門の多い学校だ。どの門脇にも棕櫚などの樹木が何本も植わっている。
「昭和二十五年に笈瀬中学校から分かれて開校した中学校で、今年が二十周年ですね。陸上競技が強いです。図書室がないと聞いてます」
正門の石柱が厳めしい。校庭に入る。明日の始業式の準備のためか、男女の教師たちが校舎を出入りしている。立派な三棟の鉄筋二階建て校舎だ。昭和二十五年にできた中学校とは思えない。プールも体育館もある。木造部分は一箇所もないが、どことなくたたずまいが名古屋西高に似ている。北村席へ走り戻る。数寄屋門の前で、
「一時間ほどで戻ります。庭でキャッチボールをやりましょう」
「ほいきた」
†
玄関土間で文江さんが飛びついてきた。すぐ居間の畳に押し倒し、ジャージと下着を下ろして股間に顔を埋める。快い芳香が鼻をくすぐる。
「香水ふったんよ。ええにおいやろ」
「うん、おかげで、こんなになっちゃった」
私もズボンを下ろして屹立したものを示す。すぐに含んでくる。唾液でぬれた亀頭を陰核にこすりつける。少し時間がかかったが、確かなアクメに達した。挿入してからは掛け値なしの激しいアクメの連続になる。目が白く返りはじめた頃合を見て射精した。文江さんはふだんのバネのような反射をせずに、腹筋を自動的に小刻みにふるわせる。そこだけ別物のようだ。
「何が何かわからんほど気持ちええ、何度も勝手にイッとる、そのまま入れといて」
私は蠕動をつづける膣の中できちんと律動する。
「ああ、たまらん、信じられん、死ぬほど好きなキョウちゃんのものをお腹にしまいこんで天国におる、ありがとう、キョウちゃん」
ふるえる腹に腹を預けて口づけをする。離れるとき、浅い膣から精液が弱々しく流れ出た。文江さんはすぐにティシュで塞いだ。気づいたように起き上がり、私のものを口で清める。
「じゃ、キョウちゃん、これから二階で化粧して、着物を着て出かけるから、ここでごめんね。また寄ってちょ。待っとるよ」
口づけをすると文江さんは便所へいった。私は下着とジャージをたくし上げ、
「またね」
廊下に声をかけて外へ出た。カラリと戸の開く音がして、振り返ると、細い隙間からスカート姿の文江さんが胸の前で手を振っているのが見えた。
北村席にいき、グローブと硬式ボールを用意して庭で待っていた菅野とキャッチボール。彼といっしょにボール転がしをしながら待っていた直人が、ジャッキを従えて私たちの周りを走り回る。
「十球ほど五割の力でいきます。菅野さんはコントロールできるかぎり全力で投げてください」
私は生垣が背になるように移動する。十球のつもりが、四十歳の菅野が意外に真剣になって長引き、様子を見に出てきた名大生たちもはしゃいで拍手する。投球がまともに胸に集まるようになったので、
「グッド! このへんにしましょう」
五、六十球で切り上げて座敷に上がる。スーツ姿の四人がトーストを頬ばっていた。睦子と千佳子がヒデさんとキッコに、
「豊田講堂まではヒールなしのパンプスでいって、バス停のベンチでヒールつきに履き替えるの。入学式が終わったら、またヒールなしに履き替えてね。私たちはベンチで待ってるから」
「はい」
「それでも靴擦れするかもしれないから、絆創膏をバッグに入れておいてね」
「はい」
「式のあとでオリエンテーションはないんでしょう?」
二人うなずく。
「じゃ終わったらさっさと帰ってきましょう」
厨房はトモヨさんとソテツをかしらに優子も立ち混じって昼めしの支度で忙しく、主人はテーブルに新聞を広げて天眼鏡で『牛巻坂』を読んでいる。
「格調高い文章ですなあ、背筋が伸びますよ」
「ほんとですか?」
「お世辞は言わんがね。河北新報さんもヤッタと思っとるやろう」
ヒデさんが、
「谷内六郎さんの挿絵もすてきです」
キッコが、
「五百野は発売三週間で十七万部やて。夏までに百万部いくやろうって話でっせ」
「だれがそんなこと言ってるの?」
「新聞の広告欄です」
睦子が答える。
「眉唾だね。売れゆきは中身と関係ない。小中学生の作文だと知れわたったら、そのうち騒がなくなるよ。せいぜい騒がれているうちにプール金を増やそう。人のために利益を使わなくちゃ駄文の存在価値がなくなる」
千佳子が、
「卑下しすぎです。本気で言ってるからジレッたいわ。自分をふつう以下みたいに貶(けな)して楽しんでるみたい」
「千佳子、ぼくはふつう以下じゃないけど、ふつうの男だよ。ふつうでないと思いたがってた時期もあったけど、やっぱりどう見てもふつうだ。感情的で頭の回らない平均的な人間。ものを書くのもふつう以上になりたいからじゃなくて、ただ時間が充実して感じられるからなんだ。センチで知性のない作品は、庭の落ち葉のように枯れ朽ちていく。文学界という庭でね。それはそれで庭のいい模様になるけど、なにしろぼくはそういう作品しか書けないんだよ。どうしても僕の作文を文学と言いたいなら、最高に見積もって児童文学だ。……千佳子たちのようなセンチメンタリズムを愛する好事家が喜んでくれれば、それで百パーセントの価値を持つものだよ」
睦子が、
「郷さんは卑下してるんじゃなくて本気なんです。そういう気持ちがないと、あんな透明な文章は書けません。郷さん、自分がどう思おうと、郷さんの文章はほんとうにすばらしいものですよ。それじゃ、いってきます」
四人で腰を上げ、玄関土間へ出ていった。
「いってらっしゃい!」
座敷と厨房から声がかかった。直人も私といっしょに式台に立ち、
「いってらっちゃい!」
と大声を上げた。幣原とジャッキが門へ送っていく。
「直人、お昼ごはんまで本を読んであげようか」
「うん!」
「きょうは何がいいかな」
「ももたろう!」
直人は居間の水屋を探ったあと、離れへ走っていって、大判の絵本を持ってきた。桃の紋のついた陣羽織を着、腰に刀を差して、白鉢巻、丸々と太った武者顔の子供がデンと描かれた表紙だ。直人を膝に抱いて読みはじめると、カンナを抱いた女将もトモヨさんも寄ってきて取り囲んだ。主人と菅野が煙草を吹かしながら、私たちを眺めている。
「一つ先にビールいこか」
「いいですね」
「千鶴、ビール」
「はーい」
千鶴が瓶ビール一本とグラス二つを用意する。
十八
むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがすんでいました。
おじいさんは、やまへしばかりに、
おばあさんは、かわへせんたくにゆきました。
あるひ、おばあさんが、かわでせんたくをしていると、
かわかみから、ももが、つんぶく かんぶく つんぶく かんぶくとながれてきました。
「かわかみって、なあに」
「川の上のほうだよ。山のほう。川は高い山から低い平野へ流れるからね」
「平野って?」
「ぼくたちが住んでる町がある平べったいところ」
おばあさんがひろって、たべてみると、
なんともかとも おいしいももでした。
直人は、老婆が桃に手を差し出し、掬い上げて食う絵を指で押さえ、
「ばあばのほうがきれい」
「おや、ほうかい、うれしいわ。ありがとう存じまして」
女将はニッコリ笑う。優子が、
「さすが神無月さんの子ね。本能的に女心を心得てるわ」
女たちが和やかに笑うと、主人や菅野にも笑いが伝染した。
「なんともうまい ももっこだ。おじいさんにも、もってってあげたいが……」
そうおもって、おばあさんが、
「うーまいももっこ、こっちゃこい。にーがいももっこ、あっちゃゆけ」
というと、おおきいうまそうなももが、おばあさんのほうへ ながれてきました。
「これはまた うまそうなももっこだ」
と、おばあさんはひろって、うちへもってかえり、
だいじに しまいこんでおきました。
ばんがたになって、おじいさんが、
やまからどっさりしばをせおって もどってきました。
「おばあさん、おばあさん、いまもどった。のどがかわいてかなわん。みずをいっぱいもらえんかなあ」
というと、おばあさんは、
「おじいさん、おじいさん、みずよりよいものをかわからひろってきたで、それをおあがり」
といって、とだなからおおきなももをだしてきました。
老婆が大きな桃を腹に抱えて歩く姿。遠くから老爺が芝を担いでやってくる姿。老婆が老爺に報告している図。話の展開がまだるっこい。主人と菅野がしきりにビールを酌(く)み交わしている。
ふたりがももをわろうとすると、
ももが じゃくっとわれて、
なかから かわいいおとこのこが、
ほおげあ ほおげあっといって うまれました。おじいさんとおばあさんは、
「いややぁ、これはたいへんじゃ」
と、おおさわぎをしました。それから、
「このこは、ももからうまれたのだから、ももたろうと なをつけよう」
と、ももたろうと なづけました。
「はい、きょうはここまで。桃太郎がどうなるか、次回のお楽しみ」
「じかいのおたのしみ」
トモヨさんが、
「あしたの晩ごはんのあと、おかあちゃんが読んであげる。さ、ごはんよ」
賄いたちがすみやかに食卓を整える。キュウリともやしの中華風サラダ、ホウレンソウとベーコンの卵炒め、きのこと油揚げの混ぜごはん、ミートソースのスパゲティ、麩とネギの味噌汁、そしてカンナのプレート。ソテツが、
「昼ごはんらしくサッパリと」
途中でカズちゃんたちもやってきてテーブルに交じった。カズちゃんと素子は幣原にミートソースをこて盛りで頼んだ。私は菅野に、
「あしたの飛行機は何時の予約ですか」
「それですが、青森直通の便が午前七時二十分と十一時二十五分しかないんです。十一時台のほうにしました。帰りの直行便も、十一時二十五分と午後二時五分の二本しかありませんのでまだ予約してません」
「九日の二時五分の便で帰る」
「了解です。青森空港のほうに予約を入れときます」
無為で退屈な四日間が始まる。言葉をひねり出す必要のないじっちゃやばっちゃに会うのはうれしい。しかし、もしかしたら出会う人びとではなく、いつ会おうかと気遣う人びとと顔を合わせるのは気が重い。浜の阪本、合船場の分家の連中、種畜場のお母さん とチビタンク、山田三樹夫の妹の一子、佐藤善太郎の娘は何という名前だったか。佐藤製菓のボッケ、村上タイルのガマ、四戸末子、奥山先生、葛西家の主人と奥さん、青高の西沢先生や相馬先生や石崎先生。
道で遇うかもしれない学友たちは話しかけてこないだろうから、気遣うに足らない。ユリさんには会おう。ミヨちゃんがいたら彼女にも会おう。二人はなつかしい。
†
夕食を終え、トモヨさん母子がお休みをして去ってから、酔族館へ出発。菅野のクラウンに主人と私、カズちゃんのハイエースに名大生四人と、則武組二人と、優子が乗る。メイ子は女将やソテツたちと北村席で留守番。
「どのくらいかかりますか」
「三十分弱ですね。八時少し前に着きます。下広井町から江川線で名駅南三丁目に出て、水主町、西大須、あとは伏見通を道なりにひたすら南へ下ります。金山を通って、高倉、旗屋、熱田神宮、内田橋と」
「七時からNHKでよど号の特番を二時間やっとるから、客はあまりおらんやろう。ゆっくりできるで」
「フランク永井は、八時半から九時半までのワンステージです」
「三十何年かにデビューしたんやったな」
「たしか三十二年です。それまでは進駐軍でトレーラーの運転手をやったり、弘田三枝子みたいにキャンプの専属歌手をやったり、のど自慢大会を荒らして回ったりしてたようです。それでビクターに引き抜かれてデビュー」
「西松の建設現場のダンプ運転手をしていたという話は知りませんか」
「さあ、知りませんね。アルバイト生活をしてたころには、そういうこともあったんじゃないでしょうか」
四角い城のような酔族館に到着する。二階の壁の上方に薄緑の〈酔族館〉のネオン。文字の周りに魚のネオンが散らしてある。二十台は収容できそうな脇手の駐車場に車を停める。車を降りて眺めると、ガッシリとした幅のある建物の全容が見て取れた。
「ちょっとしたビルやな」
主人の嘆息にみんながうなずく。厚ガラスの入口は五段ほどの石段を昇って入るように造られていた。入ってすぐ左手にボーイを一人置いたクロークがあり、右手が待合室兼レジの一角。そこに身なりのきちんとした小夜子が立っていた。
「いらっしゃいませ! 神無……」
深緑のドレスを着た法子が飛び出してきて、
「ようこそいらっしゃいました。どうぞこちらへ。いちばん奥のテーブルです」
グリーンハウスとよく似た大ぶりのステージの前の、十五、六人も座れそうな大テーブルにいざなう。ステージはまだ暗い。周囲を見回すと、薄明りの中に、ソファつきの角テーブルや丸テーブルが三、四十卓、壁沿いに長いカウンターバーが一枚。それらの半分に客が埋まっている。店内の真ん中が通行用に分断された洒落た中仕切りで二分されている。それぞれの一区画の前に大テーブルがある。東京の酔族館とちがって、芸能人や経営上層部らしき人たちの気配はなく、中堅からヒラまでのサラリーマンふうがほとんどだ。現場作業着のままの建設社員らしき男たちもチラホラいるが、品よく飲んでいる。二割がた女性客の姿もある。立ち働いているホステスは二十人ほど、ボーイはその半分くらいか。
「すいていてよかったです。よど号のおかげ。もうすぐ混んでくると思います。あらためてみなさま、いらっしゃいませ」
主人が、
「さっそくで不躾やが、これ、開店祝いや。些少ですまんけど、受け取っといて」
茶封筒を渡す。厚みからして四、五十万円か。
「ありがとうございます。ご昵懇のおしるしとして、遠慮なくちょうだいいたします。末長いご贔屓をお願いいたします」
「こちらこそ」
「どうぞ、おくつろぎください。すぐにお飲み物とおつまみをお持ちします」
法子が去り、ボーイ長がやってくる。三十代半ば。立ち居にキレがあり、底に秘めた落ち着きは素人のものではない。目もとが涼しく穏やかなせいで、一見してその筋の者と感づかれることはない。
「北村席ご一家さま、神無月さま、いらっしゃいませ。私、長年寺田若頭のもとで務めております能勢と申します。役職は本部長です」
「光夫さんは若頭になったんですか」
「は、若頭にはいつもかわいがってもらっております。今後お見知りおきのほど、よろしくお願いいたします」
主人が、
「こちらこそ、重々よろしゅうお願いします。牧原さんにはほんとうに感謝しとるとおっしゃってください」
「は」
私は声を落として、
「この店の面倒見のほど、おまかせしました」
「どうぞご安心ください。客筋がいいのでまず危ないことは起こらないと思いますが、万一のときは身をもってお守りするよう言われております」
能勢が去ると、ボーイ三人と、四人のホステスがビールとつまみを持ってきた。若い女が一人、二十代後半以上の女が三人。安心できる混ざり具合だ。いらっしゃいませ、と辞儀をしてビールをつぎ、無駄な自己紹介や機嫌とりはいっさいしない。それでいて気取ったふうはまったくない。つまみは、アーモンドチョコ、ドライみかんチップ、辛子レンコンチップ。
「料理がくるまで間に合わせにどうぞ」
そう言ってボーイたちはすぐに去った。ホステスがビールをつぎ、乾杯。百江と優子は飲み干したが、キッコ以外の名大生たちはこわごわ口をつけて、テーブルに置いた。それを見た女の一人が、すぐコカコーラ三人前を注文した。主人と菅野が煙草に火を点けた。ここでも女たちは押しつけがましくマッチを擦ることはなかった。たぶん促されれば擦るようにしているのだろう。
法子が戻ってきて、くつろいだふうにカズちゃんの手を握った。ホステスたちが去る。法子はキッコとヒデさんを見つめ、
「キッコさん、合格おめでとう。メイ子さんから天才とは聞いてたけど、定時制の一年生から名大に受かるなんて正直驚きました。がんばってきた人生のご褒美ですね」
「すばらしい環境を作ってくれた周りのみんなに感謝しとる」
睦子がコーラを飲みながら、
「だれよりもがんばったキッコさんの手柄よ。これからもがんばってね」
「わかっとる。そやないと、すぐ地が透けるわ」
「そちら、青森の秀子さんですね。合格おめでとうございます」
「ありがとうございます。六年越しの恋が実りました。いま最高に幸せです」
「おみそれしましたと言いたいところだけど、私は十年越しなのよ。でもほんとにおめでとう。これからも仲よくしてくださいね。同じ気持ちの変わり者同士―」
「はい、フフフ」
追加のビールと、ソーセージ、スペアリブ、チーズ盛り合わせ、ピザが運ばれてくる。ふんだんな肴に全員大喜びだ。百江が、
「料理人さん、一流の腕のようですね。肉もピザもすばらしいでき上がり」
法子は百江をやさしく見つめ、
「百江さん、いつまでも和子さんの右腕でいてくださいね」
「はい、生きてるかぎり。北村席が死に場所ですから」
「女菅野さんね。心強いわ」
菅野が百江にビールをつぐ。
「百さん、いまのままがんばって。忙しくしてるのが若さの秘訣ですよ」
「はい」
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