十三
四月三日金曜日。八時起床。明け方からしとしと雨。九・一度。菅野に電話し、ランニングは思い切って中止。排便し、シャワーを浴び、三人の女を送り出す。百江が、
「朝ごはんは?」
「まだいい」
江藤と太田がくるほか、一日の予定なし。ひさしぶりに圓生の落語を聞こうとして、ラジオカセットの電池が切れているのに気づく。おととし東京で買って、秋にドラゴンズに入団してから名古屋で一、二度聴いた切り放置していたせいだ。傘を差して駅西銀座のキタジマ電気にいく。百江を同伴する。
「キタジマは昭和三十三年に開店したんですよ」
「長嶋茂雄と売防法の年だね。駅西銀座もそのくらい?」
「いいえ、もっとずっと古いです。私の生まれた大正八年ごろに中村遊郭ができて、そこへ遊客がかよう賑やかな道が駅西銀座になったんです。昭和の十年ごろには駅西銀座のアーチ看板はあったと覚えてます」
「電気屋に寄ったあとで、ちょっと銀ブラして帰ろうか」
「はい」
赤ひげ向かいの椿神社から歩きはじめる。歩道を覆う山吹色と深緑の市松模様のアーケード屋根。脚が塗り直されているが、相当古そうだ。もちろん建物も古い。
「ここから則武本通までの四百メートルか。この道筋はほんとに迫力があるね。遊郭目当ての客を当てこんだ商店街という位置づけだったんだろう。名古屋駅から五分でこの場末感はすごい」
「あんまりですよね。何だここは、って感じ」
「〈やれた〉雰囲気が大好きだけどね」
「このへんの地名は、中村区則武と竹橋町に跨ってます。むかしの笹島ドヤ街の生活圏だった地区です」
梱包用品のミヤキ商店。いつもこの看板を見上げて走り出す。
「この店からふだん使うゴミ袋をまとめて買ってます」
中華料理平和園。
「ここは深夜までやってます。コース料理もあります」
コインランドリー、戦後かと思わせるような懐古的な食堂、いかにもオッサンの溜まり場になりそうなホルモン屋、串カツ屋、ラーメン屋といった飲食店群が軒を並べる。荻窪のアーケード街によく似た、看板建築風味の三階建ての店舗兼住宅。むかしながらの店構えの婦人子供洋品、おさかなの店吉田屋などが惰性で店を開けているが、買い物客はいない。
「この商店街にはむかしは着物店や呉服店が多かったので、真夏にこの通りで浴衣祭りがありました。いまも細々とつづいてます」
「なに、それ」
「八月中の土曜日の一日だけ、浴衣や甚平で買い物にきたお客さんに割引サービスをするんです。今年は八日ですね。玉喜屋が、予約した女性二十人に浴衣の無料レンタルと着付けをします。浴衣で来店したお客さん百人のポートレート写真を作って進呈します。 午後四時から七時まで交通を止めますから、屋台や子供たちが遊べる空間を作れます。ジジババチンドン屋一座が練り歩きます。ささやかなお祭りです」
「三時間の縁日か。いいなあ。きてみよう」
「その日は、後楽園の巨人戦です」
「残念」
例の〈うば車〉と〈大人のおもちゃピンク〉の看板が連なっている。中途半端に歩道のアーケードが取りつけられていて、あちこち歯抜けになっている。たこ焼ライオン堂、向かいに緑屋根の洋館ふう鬼頭不動産屋。
「ライオン堂は、タクシーの運転手が車を停めてよく立ち寄ってます」
理容六浦、純喫茶千成。キタジマ電気到着。
「こんにちは」
雑然とした店内にあるじが出てきて、
「おおお、神無月さん! いらっしゃい! お、百さんも。ご随伴ですな」
「単一の乾電池五本ください」
「はい、お代は要りませんよ」
ファンクラブの一員の丸眼鏡の店主がすかさず言う。神無月と聞いて、家族も奥から総出で顔を出す。春休み中らしい高校生もいる。
「それはいけません。買いたいのは電池だけじゃないんです。新しいラジカセはないかと思って。いま使ってるのは重くて」
「あります。二月に発売されたばかりのソニーの新製品です。軽いし、いい音ですよ」
棚から箱ごと下ろして中身を見せる。チューナーが上面についているだけで、そのほかの操作ボタンもほとんどナショナルと変わらない。ただ重量が二キロなので軽い。ラジオをかけてもらうと、たしかにふくらみのあるやさしい音だ。これを枕もとに置き、いままでのラジカセをキッチンに置こう。二万三千五百円。
「落語のカセットテープはありませんか」
「出店のほうに歌謡曲やら浪曲やら商品カセットを何百本か置いてますが、その中に二十本以上はあります」
出店にいって圓生を五本、金馬を二本、助六を一本選ぶ。
「ラジカセも入れて、これぜんぶください。無料はいやですよ」
「そうですか。……じゃ、録音用カセットてーぷ十本と電池も十個おつけして、一万円でけっこうです。神無月さんが買い物にきたら、店の裁量で売ることになっとるんです。小物はただで、大物は大出血でね」
爺さん婆さんがニコニコ笑っている。女房が色紙を二枚差し出した。
「ファンクラブを結成したころから、ずっとこの子に頼まれとってなァ。一枚はこの子の部屋に、一枚は店の壁に飾らせてもらいます」
高校生がペコリと頭を下げる。すらすらとサインした。一枚は〈はじめくんへ〉、一枚は〈キタジマ電気さまへ〉。今度は夫婦がしきりにお辞儀をした。
「まいど! またいつでもお越しください」
そのまま則武本通のほうへ歩き出す。傘を差す。私がラジカセの紙袋を持ち、百江がカセットテープと電池の紙袋を持つ。
「顔見知りだったんだね」
「北村席に勤めてからです。電球とか蛍光管とか、席の電気の小物をちょくちょくお使いで買いにくるようになってからお馴染みになりました。それまではこの商店街はほとんど歩いたことがありませんでした」
店舗がなくなり、一般家屋と化した一画に、これまた例の〈新幹線駅前商店街〉の看板がぶら下がっている。名古屋の人にとって新幹線は強烈なインパクトがあるのだろう。駅裏には〈ホテル新幹線〉という怪しげなボロ宿もある。喫茶すず。家の側面に〈喫茶と軽食すず〉、店前には青地に赤の〈コーヒー〉というスタンド看板のみ。ドア脇の長方形のショーケースがさわやかだ。
「このお店は、神無月さんが生まれた昭和二十四年にできたんですよ」
「へえ、不思議な縁だな。朝めしを食っていこう」
「はい」
傘を畳んで入ってみると、学生街にでもありそうな板壁のちんまりした店内だ。カウンターは品出し用のみになっていて、四人掛けテーブルが二卓。一卓に三人の客が埋まっている。夫婦らしい三十あと先の男女がカウンターで立ち動いている。奥の壁の棚にテレビが載っている。渡し板をくぐって水を持ってきた女に、イタリアンスパゲティ定食というのを注文する。三百八十円。スパゲティの定食はめずらしい。福神漬を添えたライスと赤だし付きだ。カウンターの男が、
「名古屋ではナポリタンのことをイタリアンと言うことが多いんです」
しばらくして、鉄板イタリアンと赤だしが出てくる。アツアツだ。鉄板に卵焼きが敷かれている。粉チーズとタバスコをかける。
「あの、神無月選手……ですか」
注文品を運んできた女が尋く。
「そうです。先走ったことを言うようですが、代金サービスはしないでくださいね。いまもキタジマさんでそういうご厚意をいただいて心苦しく思ったところですから」
女房は少し考えて、
「……そういうかただとファンクラブの会長さんから聞いてます。則武・竹橋のヒーローとして神無月さんはこの商店会に大きな貢献をなさってます。ファンクラブからの援助金もお断りになったそうで、それでは一方的に私たちが恩恵を受けるだけで申しわけないということなんです。飲食店は無料とする、そのほかの店は自己裁量でという会規則に従わせていただきます。やきとり竹橋さんが、あとで気づいて、シマッタ、と言ってました」
「ああ、竹橋。一度みんなで夜に押しかけたことがありました」
「ですってね」
マスターが、
「神無月選手の恩恵はそれだけじゃありません。この商店街もあっち系のグループが一掃されて、ただみたいな場所代になりました。聞けば、これも神無月選手のおかげだということで、一同心から感謝しております」
私は黙って頭を下げた。女房が、
「ところで、イタリアンスパゲティはうちの看板メニューで、主人が東京で修業して戻った四年前にメニューに加えたんですよ。ほかにインディアンスパゲティというカレースパゲティもあります。オムライスもおいしいですよ」
百江が、
「ご主人の留守のあいだ、あなたが一人でこの店をやってらしたの?」
「いえ、そのときにここにお嫁入りしました。主人はすずの二代目で、先代は主人のお母さんです」
スパゲティの具材はタマネギ、ピーマン、赤ウィンナー、ロースハムという構成、ケチャップの濃さも麺の硬さも申し分ない。大きめに切られたタマネギがうまい。
「うまいなあ。しょっちゅうかよってきそうだ」
「どうぞどうぞ、ご遠慮なく。朝七時から夜の八時までやってます。朝の十一時までモーニングは無料です。もちろん神無月さんはすべて無料です。二階にもお席があるので、いつでもいらしてください。土曜日は朝七時から十一時までの半ドンです」
テレビを観ていた三人の年増の客が私に笑いかけ、中の一人が、
「いつもこの道を走ってるでしょ。人間でないみたいにきれいやわ」
「もう一人の男の人も、けっこう男前やよ」
「マネージャーの菅野さんです。彼のおかげで選手生活をつつがなく送れます」
食後のコーヒーが出てくる。酸味の少ない口当たりのいいコーヒーだ。豆菓子がついている。女房に、
「この商店街は何店舗くらいあるんですか」
「いろいろ出入りがありますが、三十から四十です。十年前はもっとたくさんあったんですけど、閉店する店がつづいて……。神無月さんのおかげで去年から再興期に入りました」
「これからも繁盛なさることを願ってます。ぼくもがんばりますから。じゃ、きょうはこれで失礼します。ごちそうさまでした」
「ありがとうございました!」
傘を差して店を出る。
「冷や汗ものだ。みんなに感謝されて」
「あたりまえですよ。これでもまだまだ足りません」
話題に出たばかりのやきとり竹橋、みやじま電気、金時湯。則武本通に近づくと、ふだんは気づかなかったが、廃屋と化した商店兼住宅が多くなる。一ブロックまるごと廃墟という区画もある。いずれ撤去されて、マンションか何かが建つのだろう。交差点両角地の新しそうな喫茶店も繁盛している様子がない。そろそろという感じがする。
「ご臨終が近いね」
「いえいえ、盛り返しますよ。名古屋の喫茶店と風呂屋はこんなふうな感じで、三十年、四十年とつづくんです。金時湯も四十年を超えました」
「金時湯の裏手は純然たる下町住宅街だけど、内風呂があるほど裕福ではなさそうだ。あの町の人たちがよく利用するなら、金時湯は潰れないね」
「あのあたりの町並はもと遊郭の外周り地区で、豆タイルびっしりの家が多いので文化財的に価値があるんです。なかなか再開発の手が伸びません。金時湯も重要文化財にしようという話が出てます」
「歴史文化的に抜かりがないわけだ。……開発されないことを祈るよ」
雨が強くなった。椿神社へ戻っていく。往路で見落とした店は洋傘卸小出商店、クツ野口、中国料理富士の三軒。
「富士は平和園と並ぶ老舗です。駅西銀座には中華料理店がその二軒しかありません。二軒ともおいしいことで有名です」
「さすが地元民。いろいろと細かいことを知ってるなあ」
「ふつうです」
十四
則武に戻り、机に向かう。百江がポットを一つ用意する。牛巻坂十章のつづき。タクシーで東海橋へ。康男との別れ。節子と神宮前の旅館へ。ここまで。
二時。百江と傘を差して北村席へいく。豊橋ちくわ、熱田神宮のきよめ餅、甘辛手羽先、鬼まんじゅう、ういろ、いもケンピ。江藤たちを迎えるおやつの準備ができている。主人が新聞を押してよこす。
「金田の引退試合のことが載ってます」
名大生たちも覗きこむ。
四月二日午後二時から行なわれたオープン戦の巨人対ヤクルト戦で、日本プロ野球史上唯一の通算四百勝を達成した金田正一(かねだまさいち)の引退試合が行われた。巨人軍では、昭和三十七年三月二十日の別所毅彦以来二人目である。
六回表、三人目として登板した金田は、六番武上四郎を遊飛、七番中村国昭を投ゴロ(ライナーだったがグラブで叩き落として処理)、八番久代義明を三振に斬って取り、全十一球でみごと三者凡退に抑えた。試合後のセレモニーで両チームの選手が並ぶ前で三万五千人のファンに挨拶。場内には蛍の光が流れ、金田は初めてグランドで涙を流した。
「三万五千人も入ったんだ。よかった」
菅野がファインホースから戻ってきて、
「泣く泣くの引退だったんですよ。四百勝の胴上げが終わったあと、金田おめでとう、四百勝できたんだし、もういいだろう、引退だな、と川上に言われて、寝耳に水の引退勧告と受け取ったらしいです。怨んでますよ、川上を」
「あんなに引退の噂が流れていたのに、本人にはそのつもりはなかったんですね。もっと現役をつづけたかったんだ。失礼なことをしてしまった」
「長嶋がきのうのセレモニーで、金田さん、いやきょうはカネさんと呼ばせてください、と対等な口を利いたらしいですが、何をしゃべったんでしょうね。セレモニーの最後に正力亨から、34番を巨人軍の永久欠番にするという発表があったそうです」
ヒデさんが、
「金田ってどういう人だったんですか?」
「弱小球団国鉄の四割以上の勝ち星を挙げた人。投げるボールは速球とカーブだけ。どちらも一級品。あらかじめ知っておかないと捕れないボールです。尾崎とほぼ同じスピードと言われてましたからね。球種が二つしかないのでキャッチャーがサインを出すと相手にバレる。そこで金田がサインを出して投げることにしてたようです。口を結ぶと速球、口を開けるとカーブ。大の苦手は百六十五センチの吉田義男、阪神の名ショートです。二割九分も打たれてます。ホームラン八本。あの川上でさえ二割三分、ホームランゼロです」
私は、
「長嶋は?」
「三割一分三厘、十八本です。金田の最多被本塁打です」
「さすが」
「王は二割八分三厘、十三本。そうしてみると、吉田の二割九分、八本はすごい。吉田がカーンと打ってセカンドへいく。胸を張っている吉田に、チビ! この野郎! と球場じゅうに聞こえる声で怒鳴る。スタンドは大喜びでしたよ。おう、雨が強くなってきましたね。直人を迎えにいきましょう」
トモヨさんと菅野が出ていく。ややあってチャイムが鳴った。来客がだれかわかっているので、私は傘を差して門へいった。ジャッキが濡れるのもかまわずついてくる。
「おお、ジャッキ、大きくなったな」
「江藤さん、太田、お帰りなさい」
傘を差した丸い武将顔と四角いひょっとこ顔が笑う。二人とも紙袋を提げている。
「福岡空港で落ちおうて、飛行機できた。しっかり骨休めばしたっちゃん」
玄関へ歩き出す。
「お父さんは名古屋にくることになりましたか」
「折々な。弟二人もおるけん、安心ばい。無理強いはせん。仕事もしとらんけん、楽しんで家の整理ばして、一年もしたら出てくっとやろ。年内に東山の家に爺さん婆さん用の離れば建てるけん。熊本の家は、手入ればして別荘に改装するつもりたい。取り壊すのは惜しか」
「お母さんはこのまま名古屋ですね」
「定住たいね。女房も娘たちもそのほうがホッとするやろう」
式台に一家が出迎える。
「いらっしゃい!」
「おじゃまします!」
幣原がジャッキのからだを拭く。男二人に頭を撫でられる。ソテツが、
「お腹すいてませんか」
「だいじょうぶです。飛行機に乗る前に食ってきました。直人くんは?」
太田が尋くと女将が、
「菅ちゃんとトモヨが迎えにいったわ。もうすぐ帰ってくる」
江藤が紙袋を差し出し、
「これ、ふくやの明太子です」
太田も自分の紙袋を差し出し、
「大分但馬屋の荒城の月です」
主人が、
「ま、上がってください。ソテツ、お土産のお菓子もお出しして。ビールもな」
「はーい」
百江も手伝ってビールを運んでくる。幣原やイネがコップについでいると、直人が帰ってきた。
「あー、えとうしゃん、おおたしゃん!」
「おお、直ちゃん、元気やったか」
「うん! げんき」
「愛らしか!」
トモヨさんが、
「いらっしゃいませ。雨の中、ご足労さまです。菅野さんもファインホースに顔を出したらすぐにまいります」
手を洗って戻った直人が鬼まんじゅうを握って齧る。名大生たちが真っ赤な明太子と真っ白い荒城の月を運んできた。太田が、
「黄身餡を淡雪で包んだお菓子です。餅じゃありません。口に入れるとジュワッと溶けます。淡雪と黄身餡が混ざり合った味は絶妙ですよ。コーヒーに合います」
直人が鬼まんじゅうを途中にして荒城の月を齧る。
「おいちい!」
女将や名大生たちも手を出す。
「わ、おいしい」
「おいしいな」
男たちは明太子をつまみにビール。直人は食べかけの鬼まんじゅうを握って縁側に去り、千佳子とパズルをいじりはじめる。菅野がやってきた。
「おひさしぶりです。いよいよ開幕ですね。あしたから練習ですか」
「きょうからたい。夜から打ちこみば始める。ビールで口を浸したら、寮の晩めし前に帰るっちゃん」
「送っていきます。―唐突ですが、金田さんはまだ投げられたと思いますか」
「思わんな。五、六年、肘ばダマシダマシ使うて、あと三十勝。それは金田にとって〈投げられる〉と言わんやろうもん。ばってん、貫禄で敵ば威圧して、要所要所の試合で出場して、ファンばたっぷり呼べれば、球団の利益になったと思うけんが」
「きのうも三万五千人ですからね」
「ほうよな。……上に嫌われたんやろのう。利益はいらんちゅうほどな」
「上と言うと?」
「川上と、だれとは特定できんが大御所選手どもたい。その気持ちが、そいつらを大事にしとるフロントに伝染したんやろう。……大御所ちゅうても、王ではなかと思うけんが」
言いたいことは明確だった。座のみんなが考えこんだ。太田が、
「どんな社会でも、しっかり頂上に立てない目立ちたがり屋が悪人になりますよ。悪人はどんなにいい格好をして取り繕っても、心根は悪いままです。上等な背広を着てニヤけても、だれも騙されない。一目で強欲なさびしい人間とわかります。神無月さんも江藤さんも頂上にいるから目立ってるだけで、目立ちたがり屋じゃありません。王さんも同じでしょう。……彼もいずれ巨人を追われると思う。すごい人は凡人が自分を守るための餌食にされるんです」
女将が、
「長いものの質がよければ、巻かれてあげてもええんやけど、質が悪かったら巻かれ損やなあ。まあ金田さんは立派に名を残したんやから、少しぐらい損をしてもええがね」
私は、
「とにかく、巨人軍にいるとくだらない謀りごとにやられる確率は高いです。うちはそんな気配すらない。これほどの幸運はないです。素朴に喜びながら野球をしましょう」
「そうたい!」
「江藤さん、シーズン中の試合開始前の弁当ですが、ぼくは栄の蔦茂からときどき仕出し弁当をとることにしました。まあ、おにぎりを食いたい日もサンドイッチを食いたい日も球場の食堂めしを食いたい日もあるでしょうから、その気になった日は、球場入りしたときに足木マネージャーに言ってください。試合開始一時間前に届けてもらえます」
「わかった、そうするばい」
「太田もね」
「はい」
コップ三杯ほどのビールを空けたあとで二人は腰を上げた。
「ぼくも野辺地にいかないで打ちこみに参加しようかな」
「金太郎さん、人に引きずられたらいけん。好きにせんば。もう少し身勝手にせんとな」
睦子が、
「そう思います。郷さんも私たちも身勝手の釣り合いがとれていて、理解し合って暮らしてますけど、それでもやりすぎには胸が痛みます。年に一度もない帰省を取りやめるなんてやりすぎです。人の都合に合わせることを優先すると、人に同調するばかりで自分を後回しにしますから、そのうち自分のことが面倒になって自分を見捨てたくなります。自分を見捨てた人は、最後には人にも見捨てられます。……だれもいないところで、ただ死ぬんです。もちろん郷さんには起こるはずのないことですし、江藤さんがそんなオーバーな話をしてるんじゃないこともよくわかってます。江藤さんは郷さんにもっと伸びのびと振舞ってほしいだけなんです。そうする資格のある人ですから」
「そげなこったい。金太郎さんはワシらの大将やけん、自由に動けばよか。ワシらももう縛らんごとする。野球ばかりでなかよ。人生ひっくるめてついていく男やけんな。まじめさも、やさしさも、自由さも模範にしたか」
太田が、
「神無月さんのまじめさも、やさしさも、自由さも、見せかけじゃないです。それとはぜんぜん逆の……じつに不思議な魔法です。まともな人間ならみんなかからなくてはいけない魔法ですよ」
主人が、
「まったくそのとおりやなあ」
百江が立ち上がり、
「それじゃ私、出勤します」
江藤が、
「アヤメね?」
「はい」
「いつか寄らせてもらうばい」
「お待ちしてます。一年間、がんばってください」
「ありがとう。今年も燃え尽きますけん」
主人と菅野も立ち上がる。
「すまんね、菅野さん」
「いえ、社長と見回りついでですから」
「えとうしゃん、おおたしゃん、さよなら」
直人がパズルから振り返って手を振る。
「バイバイ。またくるけんな」
トモヨさんが、
「きょうはほんとにありがとうございました。今年もよろしくお願いいたします」
と頭を下げる。
「金太郎さんンことはまかしといてくれんね。じゃ、女将さん、みなさん、また寄らしてもらうばい」
「さよなら」
「ときどき球場にいきます」
一家で四人を玄関に見送った。百江が傘を差して一足先に歩いていく。太田が見返って傘を振り、
「開幕戦の後楽園は六時半からのナイターですよ。当日ニューオータニに入ればいいですからね」
「了解。練習中のケガに気をつけて」
「おお、金太郎さんもな」
江藤も傘を振った。
十五
四時半。夕食前の雨の午後がポッカリ空いた。トモヨさんの膝もとで、アーウー、バババなどと発しながら這いまわっているカンナを抱く。顔を叩かれる。いないいないばあをすると、意外な大声を上げて喜ぶ。膝に坐らせて、からだを左右にうねらせてみる。 ひどくうれしがる。思いついて、直人のゴムボールを畳に転がしてやると、ハイハイで追いかける。ヒデさんが、
「郷さんは子供のあやし方がじょうずですね」
トモヨさんが、
「もともと身についたものね。すばらしいわ」
キッコが、
「やや子だけでのうて、人のあやし方がうまいねん。野球のボールも、うもうあやしてるんちゃうん?」
一座が明るく笑う。千佳子が、
「登録科目の時間割合わせと、通学の曜日合わせをしましょ」
そうしましょ、それ悩んどったわと応えながらみんなで二階へ上がっていった。休憩部屋にいた賄いたちが活動を始める。直人はさっきから居間で午睡。雨の日でなければ保育所で昼寝をし、おやつを食べてから帰ってくる。
「則武に三時間ほどいってきます。夕食は遅くなるかもしれません」
帳場で客人を相手にしていた女将に言う。
「ゆっくりいってきや」
帳場から声が返ってくる。ソテツが、
「きょうは神無月さんの好物のチキン南蛮とポテトサラダです。百江さんが帰るまでにきてくださいね」
「オッケー」
幣原の渡した傘を差して出る。ジャッキも犬小屋で午睡をとっていた。めずらしい。フォッ、と気づいてあとを追おうとしたが、
「雨だよ、寝てなさい」
と手で制すると、引き戸の前に腰を下ろした。
―私はみんなに、まじめでやさしくて自由な人間と思われている。事実無根だと言ってもだれも信じない。身勝手で、威圧的で、怒りを抑えられない人間だと言おうものならますます信じないだろう。この〈やさ顔〉の下はめちゃくちゃで、すべての感情が紙一重のところをさまよっている。
だれでもそんなものだ、それでいいじゃないか、おまえを変える気はない、もっといろいろなおまえを見せてほしい、などと彼らは慰めるかもしれない。正体を知られずに肯定されることは苦しいけれども、ささやかな幸福は感じる。彼らは慰めることで私との運命的な共存を願っている。私は願わない。ただ正体を知られずに生きているあいだは、彼らとすごしたい。なぜ? 生れたときからずっとこの幸福な日々を待っていたからだ。
……この日々の永遠でないことを願う。長居は彼らのためにならない。死ぬときは一人で死にたい。人柱はいらない。
則武の机で合船場へ葉書を認める。帰省の知らせ。六日から八日。
牛巻坂つづき。神宮前の旅館、半ばまで。涙が流れる。
八時十分、北村席へ出かけていく。
†
トモヨさん母子の姿はすでになく、主人と菅野がビールをつぎ合い、カズちゃんたちがコーヒーを飲み、賄い連中がテレビを観ながら食卓に向かっている。仲間に入る。千鶴がおさんどんをする。タルタルソースのかかったチキン南蛮はもちろん、もやしサラダ、野菜たっぷりのトマトスープもうまい。カズちゃんが、
「あした丸一日ゆっくりでしょう。きょうはこっちに泊まっていく?」
「いや、いつもどおり。則武でゆっくり寝て、あした走る」
菅野のほうを見る。菅野がうなずく。
「一人ずつでも、どれだけあいだを空けてもいいから、かわいがってあげてね」
「忘れてないよ。だれ一人ね。ただ、一人ひとりに求めるものがもっと深くなってきただけなんだ。彼女たちも同じ気持ちだと思う」
「言ってることは潔いし、私もそのとおりだと思うけど、いつも心はここになくちゃいけないわ。おたがいさびしくなるほどスキンシップの間隔を空けちゃだめ。老人でない〈男〉に翳りが差しちゃだめ。若い人生が劣勢に傾いちゃいけないの」
「うん。心配しなくていいよ。求める人にきちんと応える。それはカズちゃんが青高時代に教えてくれたことだったんだ。やっと教えがわかった。やっと愛し方を知った」
「もう一つ言わせて。金田さんのこと。残念がってるだけじゃ物足りないわ。陰湿な人たちには全力でぶつかって、是が非でも勝とうとしてね。劣勢は許されない。陰湿でない人たちには、全力で戦った結果なら負けてもかまわない。―勝負の世界に住んでる神無月郷、もうすぐ二十一歳、もと野心家、有能で世間知らず、短気で攻撃的、強い心、それでいて繊細、臆病、愛情乞食。……勝つのが正しいと教えられ、自分もそう直観して勝ちつづけてきたけど、不幸の連続のせいで、勝つのはいいことなのか、負けるべきじゃないのかと疑いはじめた。で、とてつもない成績を残しながら疲労困憊しちゃった。でもそれを決めるのはキョウちゃんじゃないのよ。私たち見物人。たしかに勝つことそのものが正しいわけじゃないでしょうね。だとしても、キョウちゃんという人間が劣勢に打ち勝つことで、私たちは何か説得されるものがあるの。キョウちゃんが正しい判断を下した結果として受け入れられるの。ふだんどおりでいてね。いざというとき、どうすればいいかはキョウちゃんだけが感じることだから。……聞いてるわね?」
「聞いてる。だいじょうぶ、ふだんどおり生きるよ」
素子が、
「すごいなあ、お姉さん、最高の励ましやわ」
千鶴のおさんどんにソテツが加わり、
「お替わりどうぞ」
主人が、
「目が熱いわ。菅ちゃん、見回りいこまい」
「ほい」
百江が帰ってきて、私たちは女将にお休みなさいを言って腰を上げた。ソテツが百江にチキン南蛮とポテトサラダを持たせた。幣原とジャッキに門まで見送られる。
きょう江藤たちがした金田の話を振り返りながら百江が、
「大人物の最後はああしたものですね。その人の葛藤と勝利の人生を正確に表現できないんです。金田さんのことは一本の筋が見えるのでなんとか表現できそうですが、神無月さんに関しては無理です」
カズちゃんが、
「私もそうよ。入り組みすぎてるから、この道一筋の大人物なんて枠にくくれないし、だからこそ、悪だくみなんかにやられないっていう確信がある。……愛が強すぎるせいかもしれない」
「はい。……神無月さんほど愛した人はほかにいません。離れているときもいつも愛してます。数少ない女の一人に私を選んでくれたときは、自信を持てました。だれもがそういう人を探して人生を送ってます。何が起きても乗り越えられると教えてくれる人を」
メイ子が、
「……私もそうです。神無月さんは教えてくれました。過去の苦しみは贈り物だって。和子お嬢さんほど親しくしてもらってるとは言いません。でも神無月さんの境遇を思うと、どんなふうに扱われてもぜんぶ受け入れられます」
素子が、
「どっちにせよ、うちらはキョウちゃんという太陽に照らされたんよ。そしてキョウちゃんのあったかい光から大事なことを学んだんよ。キョウちゃんが大切にしてきたんは、勝つこととか克服した障害なんてちっちゃなことやない。一生懸命照らすのが自分やと思う心なんよ。ホンモノのえらい人やと思うわ」
カズちゃんが、
「素ちゃん、いいこと言うわね。キョウちゃんは大人物じゃないけど、えらい人。情熱があって、打たれ強くて、頑固で、痛々しいくらい博愛の人。付き合うには厄介な人よ。自分だけを照らしてくれる〈いい人〉を妥協して選ぶほうがラクでしょう。……でも私たちは知ってるの。太陽に広々と照らされたとき、背を向けるのは愚かだって」
素子がカズちゃんの腕にすがりついた。とうとう私は、あまねく地上を照らす太陽にされてしまった。でも、彼女たちにならそう思われても苦しくはない。気持ちよく微笑んでいられる。彼女たちがこよなく愛する心で見る幻だから。
「キョウちゃん、まごついた顔しとるがね」
「うん、太陽となったら、目に見えない神よりも威力があるからね。格上げされすぎだ」
「野球で神さま名乗らされとるんやから、うちらのあいだでは太陽でええんよ」
則武に戻ると、メイ子が百江のために味噌汁を作った。カズちゃんがチキン南蛮とポテトサラダを盛りつけて居間に運ぶ。素子が私たちにコーヒーをいれた。テレビを点ける。百江はおいしそうに食べる。レンジで温めた一膳めし。タマネギと豆腐の味噌汁。ザ・ガードマンが終わりかけている。『天国と地獄』の山崎努が出ている。
「十時半から金田が出るよ。長嶋も王も出る」
素子が新聞の番組欄を見て言う。見ると、カネやんの歌うナイター新番組。ゲスト長嶋茂雄、王貞治、江利チエミとなっている。番組紹介欄にこうある。
四百勝というプロ野球史上初の金字塔を樹立した《やったるで男》の元巨人軍投手金田正一がホストを務める歌謡ショー番組。ゲストに歌手や映画スター、テレビタレント、文化人など四百人を迎えようという趣向で、カネやんの異色タレントぶりが見もの。
ゲストの歌や、カネやんの悪友を紹介する「悪友コーナー」、土日に行なわれるプロ野球や競馬を予想する「カネやんのズバリ予想コーナー」、視聴者の希望の品を贈呈する「プレゼントコーナー」など、バラエティーに富んだ三十分。
なお、アシスタントは徳光アナウンサー、クラブのボーイ役はコメディアンの折田一郎(だれだ?)、カバーガールは歌手のユミ・ハビオカ(だれだ?)。
第一回の今夜は、長嶋茂雄、王貞治、土井正三、プロボクサーの西条正三(シンデレラボーイと言われてるやつか?)、江利チエミ、ピンキーとキラーズ、ザ・スパイダーズら豪華なゲスト陣が、カネやんのスタートを祝う。
当意即妙の会話ができない野球選手同士の番組は悲惨なものになるだろう。メイ子が、
「三人、仲がよかったのかしら」
「江藤さんや菅ちゃんの言ったことのほうが当たりだと思うわよ。金田さんはそこはかとないユーモアがあるから番組の進行役だけやって、長嶋と王はそこにいるだけで何もしゃべらないんじゃないかな」
カズちゃんが首を振る。四人は皇室アルバムにチャンネルを替えて、それをバックグラウンドにアイリスやアヤメの話題に移る。私は新聞の広告を眺める。ヤングレディ、九十円、講談社。
・三月三十一日福岡空港日航機乗っ取り事件恐怖のドラマ。後ろ手に縛られトイレにもいけないスチュワーデスと心痛を語る彼女らの母!
「もうハイジャックの記事が載ってるよ」
「あ、それ、きょう生中継されとったよ。山村ゆう政治家が身代わりになるゆうことで、人質全員と飛行機の乗務員も全員解放されたが」
百江が、
「きょうみんな福岡空港に戻ったようですね。今夜の六時五分に飛行機は金浦空港を飛び立って北朝鮮に向かったということです」
「詳しいことはいつか山口に訊いてみよう」
・衝撃の告白。扇ひろ子を引退させた『レズ』の相手は私です! 彼女が最後まで明かさなかったナゾの部分・同性愛―そのカギを握る問題の〈男性〉山本浩二さんが本誌に語る(紛らわしい名前だな。広島の山本浩司も迷惑するだろう)。
・京都の恋人が求婚! 高田恭子が悩む結婚問題。
・夫二十二歳妻三十七歳一児あり 夜間中学生同士のさわやかな《愛》。
「夜間中学校ってあるの?」
「戦後すぐからあるわよ。いろいろな事情で小中学校時代をまともに送れなかった人たちのために、少ないけどいくつかの県に作られてるわ。子供から老人まで、中卒でも高卒でも入学資格があるの。愛知県は一校もないわね。その種のボランティア団体はあるみたいだけど」
「その団体を見つけて、少しでも支援金を送っといて」
「はい。菅ちゃんに言っとく」
・松山容子がマンガ家との愛を告白。スピード婚約本誌連載棚下照生氏
・ちょっと家出してみた妻の収支決算。
・ペアで楽しむジーンズファッション。
・カラーグラビア美智子さま・愛されるプリンセスのこの一年。全公開皇太子ご一家の24時間。感激の御成婚から十一年。
「講談社って、群像を出してる会社だよね」
「そうよ」
「ふうん。こういうくだらない雑誌部門もしっかり抱えてるんだ」
「どの出版社もね。大きな資本源だから」
四人が風呂にいき、私は二階に上がってラジカセの説明書を開いた。スイッチや切り換えのボタンをひととおり覚え、圓生の落語を聞きながら寝る。百川。百兵衛の頓馬ぶりに笑っているうちに、いつの間にか寝入った。