四

 座敷へいくとヒデさんが、
「母も父もこないことになりました。入学式前後はあわただしいだろうと気を利かせてくれました。夏休みの時期か年末にゆっくりくるそうです。六日から郷さんが野辺地に帰省すると話したら、ぜひ寄ってくださいということでした。兄も帰省するそうです」
「チビタンクとは五年ぶりだ。ぜひ会わなくちゃ」
 千佳子が、
「あしたのソテツちゃんのデート、私たちついていきません。小姑みたいについていったんじゃデートにならないし、履修登録票の確認もしなくちゃいけないので」
「了解。ソテツと動物園を楽しんでくる。レコード屋もね」
 ―俺は百本打ちこまなきゃダメなんだ。
 木俣の言葉がとつぜん浮かんだ。私もやろう。イメージだけではだめだ。実球を三十本でも五十本でも打って、衝突を捉える手のひらの感触を忘れないようにしないと。
「菅野さん、あさってから四日まで、ランニングで戻ったあと、昇竜館まで乗せてってくれませんか。バッティング練習をしたいので」
「いいですよ。帰りは?」
「走って帰ります」
「四日の夕方は大瀬子橋ですね」
「はい、よろしく。翌日五日の五時前に迎えにきてほしいんです」
「わかりました。目と鼻の先の酔族館に飲みにいくなんて言えませんからね」
「はい」
「やっぱり大瀬子橋にいくの?」
 カズちゃんは含みのある表情をした。私は訝しみ、
「どうかしたの? いくことになってたよね」
「そうね、いってらっしゃい」
 千佳子がヒデさんに〈大瀬子橋〉の説明をしている。ヒデさんは微笑しながら聞いている。やがて眉を曇らせ、
「……年に二回……お気の毒に」
 カズちゃんが、
「ヒデちゃん、キョウちゃんに目を向けてもらって、気の毒なんてことは口が腐っても言えないことよ」
「はい、わかってます……私は自分が見つめていさえすれば最高に幸せな人間ですから」
「雅江さんももとはそういう人だったの。女の鑑だって思ってた。キョウちゃんもいつも気にかけて訪ねてあげてた。でもいつも苦しそうだった。……何をしてもらうにも、それはキョウちゃんの志がなければ出てこない結果だから、雅江さんは感謝こそすれ不満はなかったはずなのよ。冷たい言い方だけど、世の中には十年も二十年も男なしで暮らす独身女もいるわ。それを考えれば、一年に一度でも二度でも訪ねてもらえるだけ幸せのほうよ。それがいやなら、いつだってやめることもできるんだしね。キョウちゃんはだれも拘束しない人だから」
睦子が、
「雅江さんと同じ環境の女は掃いて捨てるほどいます。親兄弟がいて、安定した結婚を望み、子供を望み、世間との和睦を望む。どの女もそこから出発するわけでしょう。ネックはどこですか? 親や自分がそのレールをあきらめきれないことです。あきらめるあきらめないということを問題にしないで、最初からそのレールが眼中にない女もいます。和子さんや、素子さん姉妹や、優子さんや、メイ子さんや、キッコさんや、ヒデちゃんや、私です。眼中にはあるけど、あきらめることに幸福を求めようとする女もいます。ソテツさんやイネさんです。百江さんや幣原さんは、苦労の多い人生の中でレールを走り終えてようやく愛を得た人なので、揺るがないものがあります。じゃ雅江さんは? 何もあきらめてません。捨ててません。郷さんさえもあきらめてません。でも遠くない将来、郷さんを捨てると思います。今度訪ねるときかもしれません。雅江さんは両親に対する感謝の念が強くて、ご両親はわが子に対する愛着が強いからです。郷さんが苦しそうだったのはそのせいだと思います」
 カズちゃんが、
「ムッちゃんも感じてたのね。じつは、四月四日にキョウちゃんが訪ねますという電話を雅江さんの家にしたとき、お父さんが出て、とても言いづらそうに『まことに申しわけない。娘が見合いをすると言ってきかないんです。それが娘の幸福ならば親としては承服するしかないが、神無月さんが娘の本音を訊いてやって、いちばんの望みを引き出してくれれば、娘も思いとどまるかもしれない』と言ったの。キョウちゃんが人の気持ちをストップさせるはずがないじゃないの。ありきたりの安定を得るのにキョウちゃんの承諾を得たいということでしょう? 無礼者と感じたわ」
「それは、また、驚いたな―」
 菅野があごを落とした。私はカズちゃんに、
「早いうちに、見合いの話を進めるように電話してあげて。お父さんはようやくその言葉を言えたんだよ。長年の嵐が止んで、安心したんだ。ぼくがわざわざやっていって説得などしないことがわかってるんだ。心の底は、説得などしにきて波風立てないでほしいという意味だよ。そりゃお父さんやお母さんとしては、ぼくと会って少しは話したい気持ちもあるんだろうけどね。八年越しの知り合いだし、これきり縁が切れるというのもいやだろうしね。四日にはいかないことにする。……ああやっと雅江もこれで長年の重荷を下ろせるな。ホッとした。ぼくに義理を立てて節子に関心を持ち、母に関心を持ち、康男に関心を持ち……たいへんだったろう。まじめな人間が関心を持ったら運の尽きというようなやつがいるんだよ、ぼくみたいな」
 直人が黙々とパズルをやっている。賄いたちが厨房や廊下で立ち働いている。ときどき裏庭に出ていったりする。
「ご両親が陰に日に、雅江さんの心の安らぎを望んでいたということでしょう。それに雅江さんが応えてあげたんですね。もちろん、雅江さんがご両親の心の平和を願ったということもあったでしょうけど」
 幣原が言うと、女将が、
「どちらも自分より相手の立場なんやね。聞こえはええけどな。そんなきれいごとやないと思うよ。要するに神無月さんとの愛情をとるより、世間の目と妥協したゆうことやないの。簡単なことや。みんなでどうのこうの詮索することやないと思うわ。和子、あしたにでも電話したり。それでええ。四日にいったら、神無月さんも何をどう説得すればええかわからんやろう」
 素子が、
「蒸し返すようやけど、雅江さんはキョウちゃんと自分のために、悪い脚を鍛えたんやろう? そのときまでは、キョウちゃんとの愛情に賭ける気持ちがあったんよね。いつ変わったん?」
 菅野が憤懣やるかたないという顔で、
「いつというより、神無月さんの足が遠のいて、ジワジワ変わっていったんじゃないかな」
「むかしから遠のいとったやろ。自分から近づかないならあたりまえや」
「そうだね。節子さんやキクエさんみたいに、頃合を見計らって、あっけらかんと明るく訪ねてくるという人でもないしね。雅江さんと男女の関係になってからも、神無月さんは表敬訪問めいた形をとってたけど、神無月さんにしたら精いっぱいのところですよ。何より、いつも心にかけてたというところがすごい。お嬢さんの言うように、感謝してしかるべきです」
「ええ子やったのになあ。もったいないなあ。うちやったら、小学校からずっと惚れてた男と離れられんわ」
 女将が、
「あんたらの頭で人間ぜんぶを考えたらあかんよ。自分がないがしろにされても、好きな人をずっと待っていたいと思わん人もおるの。いつか言ったやろ。男も女も神無月さんに心底惚れる人は一握りやって。たいていの人は自分の気持ちよさが大事。振り返ってもらえんさびしさを埋めるために人を利用するんよ」
 百江が思いついたように、
「さびしさを埋めることが一大事だとすると、その気持ちにサヨナラして、新しい希望を持ちたいということですね。だとすると、せいせいして身軽な気持ちになったとしても、雅江さんは、見合いもしないし、結婚もしないかもしれないですよ。それは建前で、この先も独りでいると思います。どう考えても新しい希望なんてないでしょう」
 メイ子が、
「信子さんたちと同じ。虚しさという意味ではね。……彼女たちには雅江さんのような家族はいませんけど」
 主人が、
「神無月さんもホッとしたんやから、めでたしやないか。人は会ったら別れるのがふつうやろう。まごうかたなき真理というやつやな。あんたらは真理おかまいなしのおかしな人たちや。有能とか無能ゆうんやなく、人間がえらいんやな。えらい人とおると元気になるわ。ワシもすっかり取りこまれてまった。愉快やわ」
 直人の脇に寝そべってパズルのはまり具合を見つめる。二百ピースもあるだろうか。
「たくさんのピースをやるようになったね」
「うん、たくさん」
じつにスムーズにはめていく。私も一片を取り上げて絵模様との適合を調べるが、容易には見つからない。どういう頭の構造をしているんだろう。私のような粗悪な細胞からこんな精密な細胞が生まれるとは思えない。トモヨさんの細胞か。菅野が、
「あしたのランニングは八時から」
「八時半から」
「はい、一度戻って車でいくと、堀越へは九時半くらいになりますね」
「……ちょっと待ってください。たしかバッティング練習の空間て、センター返ししかできない構造ですよね」
「たぶん……そうでしょうね」
「それじゃ平凡な素振りと大差ない。昇竜館へいくのはやめます。実際の球場でやらないと掌の感触が狂います」
「じゃ、ランニングだけということで」
「そうしましょう」
 厨房の物音が少し賑やかになってきた。洗濯物の取りこみが始まる。勝手口から背広の客が一人きた。女将が帳場に入れて応接する。主人が菅野に、
「寮の設備点検にいこか。やっとかめやな」
「二カ月ぐらいいきませんでしたね」
 二人で出ていった。名大生たちがステージ部屋で山口のレコードをかけながら、歓談を始めた。私は水屋の棚からアクロイドと久保田万太郎を持ってきて、直人に尻を向けるように縁障子ぎわの畳に寝転ぶ。アクロイドを開く。カズちゃんたちは庭を眺めながら四方山話。
 アクロイドのストーリーを忘れかけている。栞を挟んだページを開けると、アクロイド家の小間使いのウルスラの名前があった。ラルフの女房がウルスラだと知れたというのだが、どういう展開でそうなったかわからない。ポワロが新聞社に頼んで載せた、ラルフが捕まったという偽記事のせいらしいが、この女が現れるだろうと予測したポワロの先見の根拠もわからない。ウルスラの出自と現在の事情が長々しく語られる。彼女が犯行時刻の解明のキーパーソンになるらしいのだが、わけのわからないまま真犯人の発表のほうへ心が動く。結局ここでも解決は見られなかった。探偵小説は最後に読者を急ぎ足にさせるので、文体は必要でなくなる。
「きっと雅江さん、訪ねてくるで」
 素子が言っている。百江が、
「まだ二十歳でしょう。まだ十年はのんびりしてもいいですよ。何も見合いなんてこと言い出さなくてもいいのに」
 カズちゃんが、
「お父さんお母さんの山を乗り越えていたらねえ……」
 ポワロを中心にもう一集会がある。よく集まる人たちだ。ポワロが強制的に集めた容疑者は七人。セシル夫人、フロラ嬢、ブラント少佐、レイモンド氏、ウルスラ(ラルフ、パトン夫人)、パーカー、ラッセル嬢。集会の途中でラルフ登場。この物語の狂言回しであるシパード医師が、ポワロにも空とぼけながらラルフを精神病院にかくまっていたと知れる。アクロイド氏の殺害時刻前の声はテープレコーダーの声だったと知れる。テープレコーダー! この会合でも真犯人が明かされなかった。ポワロが真犯人を明かすと言って催した会合だったのだ。どうしてくれようか。
一人残ったシパード医師とポワロとの対話が始まる。そして……犯人は物語進行役のシパード医師だったと知れる。何をか言わんや!
「天才って、挫折しないのかしら」
 いつのまにかトモヨさんが輪に加わっている。カズちゃんが、
「野球そのものの挫折は、一打席、一守備ごとに、本人しかわからない形で繰り返されてるんじゃないかしら。キョウちゃんの人生そのものは挫折のしまくりよ。ただ、天才タイプの人には才能にあぐらをかいて怠けるような輩はほとんどいなくて、天賦に欠ける人より貪欲で、向上欲も激しいの。深く悩んでガラスのような脆さをつい出してしまうこともあるけど、反省する情熱が人の何倍も強いので、割れかけたガラスを岩に変える精神力はすごいものがあるのよ」
 メイ子がカズちゃんに、
「女は男とちがって、仕事の能力とか蓄えた知識では男を評価しないですね。好きかどうか、それだけです。好きでない男は毛嫌いします。傲慢で自己中心的な男はその最たるものです」
「女のサガね。でも、仕事の才能にも暖かい目を向けてあげないとだめよ。たとえキョウちゃんが重視してないとしてもね」
 優子が、
「神無月さんがここまでなれたのは才能のせいでしょう?」
「プロ野球選手ならだれでも才能を持ってるわ。だから先天的なもののせいでここまでこれたというのは正解じゃないわね。いわゆる〈成功〉した理由は、まず野球選手になりたいと願いつづけた情熱、逆境のときに楽天的でいられた精神の寛さ、いざというときの決断力、他人のために徹して行動するやさしさ、過去と現在と未来をきちんと見る力、現状に満足しない貪欲さ、独創性、私たちのようないい協力者に運よく恵まれたこと、そういうものかしら」


         五

 百江が、
「独創性というのは?」
「アイデアのことよ。屁っぴり腰打法を思い出してみて。得意コースを簡単にホームランすることに満足しないで、高いレベルの打法を編み出したわ。オーソドックスな打法そのものについても飛び抜けた技術を持ってるけど、ほかの選手の持っていない得意技をあえて鍛錬して身につけたの」
「……アイデアを努力で定着させるということですね」
「そう。キョウちゃんには独創性を支える鋭い感性があるの」
 ステージ部屋から睦子たちが会話に加わりにやってきた。睦子が、
「直感で判断して、決行する力のことですね」
「そう。バッターボックスを見てると、一球一球、感覚と先見で切り抜けてるのがわかるわ。どっしりした〈型〉で待ち構えようとしないの。臨機応変」
 ヒデさんが、
「常識を持たない……」
「そのとおりよ、直観が囁くかぎりね。だから、たとえば、ボールを打つなという野球の鉄則はキョウちゃんには当てはまらないの。失敗を生かせとよく言うでしょう? キョウちゃんの変わってるところは、失敗したことに拘って計画立てて克服しようなんて思わない点。失敗したことにはもう手を出さないの。失敗しないことをしようと頭を切り換えちゃう」
 キッコが、
「ふだんの生活もぜんぶそうでんなあ」
 優子が、
「じゃ、雅江さんも……」
「思い直して訪ねてきても、だめだと思う。……雅江さんのお父さんが嘘を言ってたとわかったときだけは、もとどおりになるでしょう」
 千佳子が、
「わが子の幸せが何かいちばんよく知ってるお父さんが、おまけに神無月くんのことを気に入ってるお父さんが、嘘は言わないと思う」
「そうね。雅江さんの決意でしょう。とても自然な形に落ち着いたわ」
「北村席で私がいちばん危ない女だったけど、両親も手紙をくれて、おまえの望むとおりに生きなさい、だれにも迷惑をかけず、助け合って、悲しみの少ない人生を歩みなさいって……」
 キッコが羨ましそうに、
「ええ親でんなあ」
 カズちゃんが、
「あなたみたいに放っておかれるのがいちばんでしょう」
「ほやほや」
「できた!」
 直人の二百ピースのパズルが完成した。『巨人の星』だと一目でわかる。中日球場で黒人選手が星飛雄馬と対決している構図だった。みんなで直人の周りに集まって、つくづく見入る。
「よくできたなあ!」
かわいい頭を撫でる。
「オズマとひゆうま」
「壊すのもったいないね」
「こわしちゃう」
くしゃくしゃかき混ぜて箱にしまう。睦子に、
「買ってあげたの?」
「はい。おとといみんなで直ちゃん連れてメイチカにいったとき、これこれってほしがったので。五、六歳児用ですって」
「えらいな、直人」
 もう一度頭を撫でる。
「こんど、みずはらかんとくと、ほしいってつ、かうの」
 キッコが、
「ベトナム帰りのオズマが中日に入団するのと同時に、水原監督が星一徹を中日のコーチに誘うんよ」
「詳しいね」
 睦子が笑いながら、
「このごろよく二人で再放送を観てるんですって」
「夕食前に直ちゃんがあたしの部屋に飛びこんでくるんよ。キッコしゃん、巨人の星始まるよって」
「キッコしゃん、ごじ。はじまるよ」
「ほんとだ。ここで観ましょ」
「うん」
 カズちゃんたちはまた歓談。トモヨさんはカンナを抱いて風呂へ。私は久保田万太郎句集。しょっぱなに、

  ゆく春の耳掻き耳になじみけり

 なんだか耳が痒くなり、
「優子ォ、耳お願い」
「はーい」
 厨房から声がする。手伝っていたようだ。小走りにきて膝を畳む。用心に膝の上に座布団を一枚載せる。素子たちがクスクス笑う。優子もはずかしそうに、つつがなく耳を掻き終わる。あまり垢は出なかった。また小走りに台所に戻る。素子が、
「うちもたいへんやけど、優ちゃんもたいへんやな。キョウちゃんにもっと手間かけてもらいたいけど、どうもならんわ」
 メイ子が、
「みんな同じですよ。神無月さんに手間をかけさせる人なんて北村席にいるんですか?」
「うーん、おらんな。みんな即効型や」
 帳場から出てきた女将が、
「ふつうの女は時間がかかるもんやし、男はせっせと時間をかけるもんや。むかしから決まっとる。だから何人も相手にできん。それで、たくさんの女と時間かけてできる男を豪傑と言うんやがね。でも、神無月さんは豪傑やない。サッとすませてまう。女が手間かけさせんからや。神無月さんの立派な持ち物のおかげやな。あんたたちはほんとにピッタリいっとる。幸せやわ」
「立派でないです。小型のものが少し変形してるだけです」
「それを立派と言うんやがね」
「これはどうあっても褒められますね。ありがとうございます」
 一句目に留まる。

  竹馬やいろはにほへとちりぢりに

 この一句で満腹になった。見るからに有名な句のようだ。いろはにほへとは成長の階段を示しているだろう。色は匂え―青春期を想起させもする。人は場所から散り、青春から散る。そんな通念を学んでもしょうがない。しょうがないものは名を残す。
 幣原がジャッキの散歩に出るのと入れちがいに、主人と菅野が帰ってきた。夕食のテーブルが整いはじめる。きのうと同じきょう。天から与えられたアナザデイ。
         †
 食後のテレビにハイジャック事件の続報が流れている。赤軍派メンバー九人とかよど号とか世界同時革命などと言っている。睦子に、
「赤軍とか世界同時革命とかって、何?」
「連合赤軍の中の過激団体のことを特に赤軍派と言ってます。共産主義者同盟赤軍派。世界同時革命というのは、資本主義国家はいずれ経済が停滞して没落していくから、革命を起こして共産主義社会を形成する必要があるという考え方です。亡命してもむだです。民主主義を隠れ蓑にする軍事的なファシズム国家ですから」
「ちゃちい革命思想なんか簡単に丸めこまれちゃうし、へたすると命を取られるのがオチだね」
「はい。反日感情が強い近所の国というだけで亡命先に選んだんでしょう。赤軍派は去年から各地でいろいろ暴力的な騒ぎを起こしてますけど、後進国を洗脳して世界革命戦争の根拠地にするという計画に変更したようです。独裁国家は上下関係をきびしくして国内での権力固めにあくせくしてますから、国際革命なんか眼中にないです。見こみちがい。大失敗しましたね」
「大上段の思想なんか、いつも聞かされてたら飽きちゃう。学生運動家というのはほんとに根気がいいね」
 菅野が、
「挫折の青春とか言って、世間ではモテはやされてますからね」
「されどわれらが日々ですね。俺たちは思想的に有意義なことをやってる、しかし挫折した、これこそ青春だって。甘やかな錯覚でしょう」
 トモヨさんが、
「青春に挫折はないと思うわ。成功も失敗もごちゃまぜの青春そのものが華だから」
 カズちゃんがトモヨさんと握手する。縁の畳で寝そべってパズルをやっている直人に、
「直人、歯磨きよ」
「はーい」
 トモヨさん母子のお休みなさい。残りの者たちでクイズグランプリ、スター千一夜。ソテツたちの夕食。男三人のビール。主人が、
「神無月さん、そろそろ女にも飽きてきましたか」
「まさか。味なことをやるにも、粋を効かすにも、術策尽きて悩んだり……わしわし食ったり、さよならの手を振ったりするにも、女がいなければつまりません」
 菅野が、
「うまいこと言うなあ。でもその割には、あっちのほう、最近暇をつけてませんか」
「誤解です。相当活躍してます。……ただ天然に振舞うのが少し恥ずかしくなってきたようで」
 主人は手を拍って、
「そうですか! ホッとしました。どんどん天然にお願いします。女は甘酒ですよ。清酒よりは少しえぐいですが、アルコールはほとんど入ってません。いくら飲んでも酔っぱらわない、人間社会の伝統飲料ですよ。飲むのが人間のしきたりです」
 女将が、
「何えらそうなこと言っとるの。ちゃんとしきたりも守らんと」
 女たちが大きな笑い声をあげた。勉強家四人も高らかに笑う。カズちゃんが、
「お母さんたちがいちばん天然よ。北村家のヌシがその調子でいてくれて、こっちこそホッとするわ。さ、帰りましょう」
 勉強家四人のまたあした。幣原たちのまたあした。主人と菅野がグラスを掲げる。ソテツとジャッキが門まで送ってくる。
「あしたよろしくお願いします。神無月さんも東山動物園は知らないからウロウロしちゃうでしょうということで、ファインホースの久世さんがついてきてくれることになりました。動物園を一通り見たら、私たちを置いて先に帰るそうです」
 カズちゃんが、
「二人で植物園にはいきかけたことがあったんだけど、景色だけ見て途中で帰ってきちゃったの。動物園はいったことないわね。久世さんなら地元だし、だいじょうぶでしょう」
「じゃ、あした十時ごろから出かけようか」
「はい! お休みなさい」
「お休み」
 ジャッキを抱き締め、何度も頭を撫でる。顔をべろべろ舐められた。彼の顔を両手で挟んで、じっとつぶらな目を見つめる。
「おまえはかわいいなあ。野辺地のジャッキと西松のシロの混血だから、かわいいはずだ」
 ―この犬の十年そこそこの記憶の中にしっかり生きてやらないと。
五人で夜道を歩きはじめる。カズちゃんに、
「ジャッキの去勢はしないでね」
「しないわ。不自然な生き方になっちゃうもの。でも、発情中のメスのにおいをかがないかぎり、オスは交尾欲が出ないのよ。それも自然な生き方。散歩中によく気をつけるように幣原さんに言ってあるからだいじょうぶ」
 百江が、
「去勢するとホルモンバランスがくずれて肥ってしまうんです。それは犬にとってたいへんな負担です。飼い主の都合だけで犬の生き方をねじ曲げちゃいけません」


         六 

 赤ひげ薬局の前の看板を通りかかる。
 
  すぐに効く 今夜間に合う精力剤 中折れ・早漏防止

 指を差し、百江に尋く。
「中折れって何?」
「神無月さんとは無縁のことですよ。……してる途中で萎んじゃうことです」
「そんなことが……。最初から勃たないということはあるけど」
 百江の説明を聞く私の背中を見つめていたカズちゃんが、
「人間は精神性が高いから、犬より厄介ね。……その後ろ姿、ジャージがとても似合うけど、もったいないって感じね。ほんとに似合うのは、スーツとユニフォーム。キョウちゃんは、着るもの履くものにぜんぜん頓着しないから、買ってあげるだけじゃなくて、今度からちゃんと着せて履かせてあげなくちゃ」
 百江が、
「神無月さんはマネキンみたいにきれいな人ですから、何を着ても野暮ったくなくてとっても見映えがいいんですが、いつも同じものを好んで着るので一張羅の感じがしてしまいます。多少好みでない服も、私たちがどんどん着せるようにしないと」
「北村にテーラーと靴屋さんを呼んでオーダーするわ。高木さんなんか百着も持ってるんでしょう? それは持ち過ぎだけど、せめて則武に五着、トモヨさんのところに五着ぐらい揃えないと。靴もあと五足はないとさびしいわ。さっそくあしたの夜注文ね」
「ワンタッチもネクタイもあと十本ぐらいあったほうがいいと思います」
 素子が、
「ベルトも五本くらい」
「あしたはきちんとオシャレしていってね。トモヨさんにちゃんと着せてもらって。納戸部屋じゃなく、かならずトモヨさんのお部屋で着替えるのよ。わかってるわね」
「うん。……パリッとした服装をしたら、街なかで目立ってしまうかも」
「考えたこともないくせに。もともと目立ってるからいいの。四日の夜は節子さんたちがくるわ。ひさしぶりだからかわいがってあげてね」
「わかった。二人のことは大好きだし、どんなことでも忙しくしていたいから」
「そういう考え方もあるのね。小さいころから忙しい人生だったから。じゃ、今夜は」
「今夜も」
 その夜、素子が忍んできて、数分もしないうちに苦しいほど満足し、また数分かけて回復すると、長い口づけをし、ゆっくり足音を立てずに戻っていった。ほかの三人の仲間に気を使ったのだろう。これも彼女の麗しい天然だ。私は射精まで遠かったので、カズちゃんの寝室に降り、豊かな胸に迎えられ、ゆっくり時間をかけて暖かい密室の中へ快く吐き出した。カズちゃんと睦子とヒデさんの中へ射精するときは、快美感を超えた特別に深い愛を感じる。そのままカズちゃんの布団で眠った。
         †
 四月一日水曜日。七時半に百江に起こされた。晴天。九・二度。うがいをし、軟らかい排便をし、シャワーを浴び、新しい下着をつけてジャージを着る。事務部屋で二十分トレーニング。百キロバーベルを二度、百三十キロバーベルを一度挙げた。目玉焼き、納豆めしをどんぶりで。
 八時半から菅野と西高までランニング。天神公園からいったん環状線に出て、八坂荘の横の美濃路に入る。電線が連なるなつかしい道。あさかんタンス、岩瀬商店、八坂荘につづく細道、そろばん塾はなくなり、低層マンションが建っている。それへ崩れ落ちそうな民家が並びかける。駐車場の無機質なコンクリートの敷地。清水板金加工所、内藤理容、商家がよほど消えてなくなっている。替わりに新築の民家やアパート、マンションがはまりこむ。ポテトサラダを買った肉屋は消えてしまった。並びにあった八百屋も魚屋も総菜屋も消えた。礼服の杉東、二十メートルほどの二階長屋、その一階の一角に〈手焼きおかきや〉、向かいに角田石材。電気屋も雑貨屋も消えた。
「五割方、商店が消えてますね。西高のころから五年も経ってませんよ。もともと廃屋がポチポチあった通りでしたが……ああ、廃屋は廃屋のままですね」
 菅野がさびしそうにうなずく。ヘアサロンブルーム、清光園菓子舗、仲川商店、名西産業、印刷西春堂、村武技建、高岡陶器、港屋商店、ゴマ油カメタマ、食品若松屋、萩の湯まできた。向かいの花屋に立ち寄る。マスターが品出し口から顔を覗かせ、
「お、神無月さん、菅野さん、いらっしゃい。オープン戦全勝優勝、そして三冠王、おめでとうございます」
「ありがとうございます。今シーズンもよろしくお願いします」
 お婆さんが、
「忘れずきてくれてありがとね。今年もがんばってね」
「一生懸命やります」
 女将が、
「ここの商店街でファンクラブを作ろうって言っとるんですよ。八坂神社さんも加わってな。高校のころ神無月さんが神社の前に暮らしとったのも、何か深い縁があったからやろうって言ってな」
「ありがたいです。でも団体で応援されるより、みなさん一人ひとりがテレビを観たりラジオを聴いたりして一喜一憂してくれるほうがずっとうれしいです」
「なんも、神無月さんの節目節目に贈る景品を相談し合うくらいのクラブやから。神無月さんには面倒かけんよ」
「そうですか、ほんとうに感謝します」
 マスターが、
「金太郎丼いく?」
「いえ、コーヒーをいただきます」
 お婆さんが、
「今年も百本打ってくださいな」
「それは保証できませんが、ホームラン王はかならず獲ります」
常連客たちの拍手が上がる。老人が多い。コーヒーを飲んだあと、二、三分ほど彼らの求めに応じてサインする。色紙やハンカチ。色紙は花屋が用意した。
「じゃみなさん失礼します。またときどき寄らせていただきます。ぼくの打撃が低調になったら、この壁の食べ物の売り上げに響きますね。そうならないようがんばります。」
 また拍手が上がる。二人前のコーヒーの代金を支払おうとすると女将が、
「ほんとに神無月さんは堅いねえ」
「当然のことです。当然でないことをされると心苦しくて。ふだんから野球で得ている不当な利益には泣き寝入りしてますけど」
 客たちに笑いかけると、やさしく笑い返した。
 萩の湯の前から市電道へ出て、ゆるゆる走り出すと菅野が、
「私の給料も不当ですよ。このあいだもアップして、三十万円もいただいてるんです」
「正当がうえにも正当です。仕事量を考えてみてください。……花屋の通りの商店街は何という商店街ですか」
「八坂商店街とも榎商店街とも言います。私が榎小学校に通っていたころに比べればはるかに寂しくなってきてます。もっと寂れていくでしょうね」
「西高に通ってたころよりも、錆びついたトタンの家が多くなってます。ファンクラブなんか作ってる余裕はありませんよ」
「マンションにやられたんじゃ、商店街が復活しようもない。いずれ花屋も銭湯も再開発に持っていかれるでしょう」
「再開発……か。見映えを一律にしてだれに見せようってんだろう」
         †
 ソテツがミニスカートでおしゃれしていた。頭は高校生ふうのストレートヘアを真ん中で分けている。濃い眉が整っているのは、優子にでも剃ってもらったのだろう。寄り添う久世も薄っすらと化粧している。髪はポニーテールだ。ソテツとちがって小さく整った目鼻立ち。私にぺこりとお辞儀をした。
「きょうはお供させていただきます」
「よろしく」
直人を保育所に送って帰ってきたばかりのトモヨさんに、
「離れで着替えるよ。適当に見つくろってくれる?」
「はい」
 いそいそとついてくる。快楽の気配を感じている。私の背中に、
「ひさしぶり。きょうはだいじょうぶですよ」
 と囁きかける。寝室に入ると蒲団の上で全裸になり、尻を向ける。
「最初から深く入れて、奥へ出してください。感電するぐらい痺れますから。苦しくてお尻が離れそうになったときに、お願いします」
 トモヨさんは挿入したとたんに激しく達し、間歇的にアクメを繰り返しながら、愛してますを連呼した。彼女の尻が離れていかないうちに私のほうが危うくなったが、どうにかこらえて、彼女の限界と思える瞬間に合わせて奥深く射精した。
「あああ、もうだめェェェ!」
トモヨさんはバタンと飛び離れ、うつぶせのまま激烈に痙攣した。私はすぐにティシュを彼女の股間に押し当てた。ここまで時間にして五、六分。私はすっかり早撃ちになった。汗もかかない。早漏は悩むことではない。じょうずに交われば双方が満足する。
トモヨさんは一分ほどで回復した。起き上がり、念入りに私のものを口で清める。かなり汗をかいたようで、シャワーを浴びて戻ると、きちんと服をつけ、私の着るものの物色にかかった。その間に私もランニングの汗を流した。
「しっかり選びました。派手にならないように」
ほんの少し水色を感じるワイシャツ、ベージュの二つボタンのスーツ、カンガルー革の灰色のベルト、ベージュの靴下。
「よし、いい男!」
 私の両肩を捕まえて姿見に向かせ、にっこり微笑む。座敷へいくと睦子たちが、
「カッコいい!」
 手のひらを胸の前で合わせる。キッコが、
「ここで腕組んどき」
「はい!」
 ソテツが私に腕を組み合わせ、頭を寄せる。千鶴が、
「羨ましいなあ。うちともいつかデートしてくれる?」
「喜んで。名古屋にはまだまだいったことのないところがたくさんある」
「名所見物やなく、ちゃんとうちに注目してデートしてほしいわ」
 睦子と千佳子がクスッと笑い合う。
「ソテツちゃん、朝一番でパーマ屋さんにいってきたのよ。少しウェーブがかかってるでしょ?」
 トモヨさんが言うと、ソテツは照れくさそうに髪をなぜた。膝丈のタイトスカートを穿いた久世がまじめな顔で、
「ファンがサインを求めてきたら、どうしますか」
「子供にはするよ。でも、まず寄ってこない。不思議なことにね」
 主人が、
「図々しいやつもおるで、二人でうまくよけたらんとな」
 女将が、
「早くいかんかね。ソテツも久世さんも、ちゃんと見とらんと、神無月さん迷子になるでね。目離したらあかんよ」
「はい」
「はーい」
 菅野が、
「久世くん、きょうは二人と別れたあとは、映画でも観て帰宅しちゃっていいよ」
「いえ、事務所に戻ります」
「そう、ありがとう。神無月さん、ほんとに車でいかなくていいんですか」
 キッコが、
「じゃまじゃま。せっかく両手に花やのに、フイになってまうがね。電車にのんびり揺られていくのがええねん」
「ほいほい」
 メフィストの底の軟らかい靴を履いた。焦げ茶と黒の二足を持っているが、焦げ茶のほうを履いた。
「いってきまーす!」
 ソテツが明るい声を上げる。女たちが式台で、
「いってらっしゃーい!」
 久世が先に立ち、ソテツが私に寄り添う。それも名古屋駅のコンコースの入口まで。駅の玄関へ出て、幟自転車のオヤジが間近に見える出入口の階段をくだる。地下街にもつづいている階段だ。東山線の改札口まで歩く曲がりくねった回廊で早くも迷いそうだとわかる。切符を買ってもらい、女二人の背中について地下二階のホームに降りる。一番線。下り栄方面藤ヶ丘行。久世が、
「二百メートルもあるんですよ、このホーム」
人びとが混雑し、目の前に巨大な広告ボードが連なっている。その中に混じる壁面駅名標が目に涼しい。
「ハイジャック、どうなったの」
 関心のないことを訊いた。悪い癖だ。
「北朝鮮でなく南朝鮮に着陸したらしいです。なんか人質解放のことですごくもめてて、北へいくのは長引きそうだってことでした」



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