七
黄色いステンレスの電車が入ってくる。乗りこむ。座れた。思ったほど混んでいない。
「ここから約十八分です」
ソテツがぴったり腿を寄せてくる。コンクリートの柱列が素早く動くだけの窓。久世に、
「東山線はどこからどこまで走ってるの?」
「中村公園から藤ヶ丘まで十九駅です」
「ぜんぶ言えそうだね」
「はい。中村公園、中村日赤、本陣、亀島、名古屋、伏見」
その伏見に停まる。地下鉄の駅はへんに明るくて殺風景だ。
「栄、新栄町、千種、今池、次は……あ、池下だった。古川美術館があります」
「覚えにくい名前だね」
「はい。それから覚王山、本山、東山公園、星ヶ丘。菊里高校は星ヶ丘駅から歩いて五分です。東山公園を挟んで反対側に名古屋大学があります。星ヶ丘の次は、一社(いっしゃ)、上(かみ)社(やしろ)……ええと、本郷、藤ヶ丘」
久世の横顔を見つめる。ちんまりした鼻、短い睫、桜色の頬。去年の春、高校を出たばかりだから、たぶん十九歳。
「久世さんの家はどこ?」
「亀島一丁目です」
浅野の家のそばかもしれない。
「ファインホースまで一キロほどなので自転車でかよってます。通学のときは亀島駅から乗りました」
ソテツが車内広告をめずらしそうに見上げている。
「沖縄にも地下鉄はあるんだよね?」
「地下鉄どころか、電車もありません。地面に爆弾が埋まってるとかいう理由で、アメリカが禁止したそうです。名古屋に出てきて、電車を見たときには驚きました」
栄。人がドッと乗り降りする。子供が寄ってきて、
「神無月だ!」
母親が手を引いて無表情に連れていった。久世が緊張した顔で、
「だいじょうぶです。この先はどんどん降りますから」
新栄町、今池、池下。たしかに続々と降りる。覚王山、本山。
「次ですよ。星ヶ丘だと植物園寄りになります」
「私、名古屋の動物園の歴史を予習してきたんです。大正七年に鶴舞公園に開園した動物園が狭くなったので、昭和十二年に新設された東山公園に移転して東山動物園と名前を変えて開園、今年で三十三年目になります」
「それだけ?」
「いいえ。入場者数は上野動物園に次いで二位」
「ほかには」
「モノレールがあります。十年間やってたゴリラショーはおととしでやめました。去年ロサンゼルス動物園と姉妹動物園になりました」
久世について3番出口から地上に出る。
「ここから歩いて三分です」
親子連れが何組も歩いている。わんさというほどではない。
「ウィークデイでよかったですね」
右折して、緑の木陰の道を真っすぐ進むと、たちまち動物園の正門入口が見えてきた。積み石の大きな門の上空が高く青い。
「近いなあ!」
「はい」
人混みに紛れて幅の広い緩やかな石段を昇る。二百円の入園料を払って入る。久世がまとめて払った。切符もそうだったが、菅野のお達しだろう。正面に噴水が上がり、左右がトイレと喫煙所になっている。周囲に小池が巡らしてある。左手にモノレールの発着所がある。レストランがあるが無視。みんなで小便をしておく。
三人並んで右に左に視線をやりながら金網仕切りの空間を順に見ていく。貧弱な造りの畜舎だが、どの動物も溌溂としている。サイ、バク、象、鹿、オランウータン、カンガルー、シマウマ、小池にはフラミンゴ、ペリカン。階段を昇って高台に出ると、私の大好きな虎が檻の中で右往左往していた。愛らしいが、手を伸ばせばひとたまりもなく食いちぎられるだろう。虎の檻から離れて、熊、キリン、ダチョウ。コンクリートの岩と草地を設えた区画にライオンが何頭か寝そべっていた。完成間近に見える工事中の一角がある。
「四月半ばに完成予定のバードホールですね。人と鳥との間に障害物を置かないユニークな施設です。森や池を作って、大型小型の鳥を放し飼いにするんです」
クジャクや熱帯の鳥が浮かんだ。
「巨大な屋内回廊が必要だね」
階段を降りて、人垣の背後からアザラシ、オットセイ、ペンギンを眺める。少しくだると豹の檻があった。階段を昇って、大きな池に浮かぶスワンボートを眺める。一人でボートを漕いでいる人もいる。すべてをひたすら眺める。頭上高くモノレールが池を見下ろすように巡っていく。また昇り階段がある。
「いってみよう」
階段を昇り、下方の周回路に架かる陸橋を渡って平らな区画へ入る。柵で仕切られた砂地や、檻に囲われた空間の中に見慣れた動物たちがいる。タヌキ、キツネ、リス、ヤマネコ、ヤギ、カモシカ。彼らの中心に位置する岩山にニホンザル。見やると、この区画に接して植物園が拡がっている。カモシカのすぐそばのバラ園から始まり、色とりどりの花が群なして咲いている。遠くにピンクの森が見える。ソテツが、
「あれは何ですか」
「シャクナゲだね。花まみれ。いってみる?」
「はい」
花壇に沿った道を進み、シャクナゲの森の手前の花園橋という橋を渡って、階段を降りる。右も左も桜、ツツジ、チューリップ、花、花、花。飽きてきた。樹林を背に簡易レストランがある。子供たちが群がっている。
「休憩」
「はい!」
女二人、満面の笑みを浮かべる。小さな丸テーブルに向き合って、コーヒーとフライドチキン。ソテツが、
「素朴で、いい味」
「ソテツさんはおいくつ?」
「十七歳です」
「それで料理のプロ。天才っていいですね」
「天才じゃありません。頭も悪いです。もともと料理が好きなだけなんです」
「神無月さんのためのお料理でしょう?」
「はい、この数年はそればかりです。おいしい料理で神無月さんの健康を保てたらいいなっていつも思ってます。久世さんの菊里高校は、愛知県の十本指に入るってお嬢さんが言ってました。頭がいいんですね。ファイン ホースは頭のいい人たちが動かしてるって旦那さんも言ってます」
「名門高校や名門大学なんて、才能ある人の前ではぺしゃんこです。私は才能あふれる神無月さんのために少しでもお役に立てればと思ってがんばってるだけです」
「才能と言うより、魅力あふれるでしょう?」
「……はい。私、そろそろ失礼します。仕事が滞ってしまったらいけないので。帰りはだいじょうぶですね」
私は、
「だいじょうぶ」
「この下の水晶宮と、北園のゴリラたちを見ながら正門まで戻ればいいです」
水晶宮? 目の下に、鉄骨ガラス張りのドームを三つ連ねた建物が見える。熱帯植物を見せる温室のようだ。見ないで帰ろう。
「じゃ、私、いきます。神無月さん、さようなら。またファインホースにお顔を見せてくださいね。ソテツさん、がんばって。神無月さんへの気持ちがひしひしと伝わってきました。ときどき厨房をお訪ねしますから、料理のコツを教えてくださいね。きょうはおじゃましてごめんなさいね」
「とんでもない。わざわざありがとうございました」
「じゃ、これで、さようなら」
「さようなら」
「さよなら」
水晶宮のそばを通り抜け、モノレールを見上げながら足早に帰っていった。
「久世さん、さびしそう。いつか彼女に打ち明けられたら……」
「もう打ち明けられたも同じだよ。でも家庭の人は遠慮する。さ、北園の動物を見て帰ろう。おやつの予定は立ててる?」
「はい。栄で」
バタバタと四、五人の子供と数人の若い女が寄ってきた。
「サインお願いします!」
間髪置かずソテツは、
「お子さんだけにしてください。きょうは神無月選手、ほんとにたまの休暇なんです。ゆっくりさせてあげてください」
若い女たちは不機嫌に引き揚げていった。子供たちに丁寧にサインした。カバとチンパンジーとゴリラ、それからアメリカバイソンを見てから正門を出た。
「いまの久世さんにしても、信子たちにしても、むかしの節子にしても、女というのは身を引くことが美徳だと感じるの?」
「……そういう高い気持ちを感じる前に、嫉妬とかイライラとか怒りという低俗な気持ちでやられてしまうことが多いんです。次に……自分のせいで安定してたものが壊れてしまうという道徳観です。でもそれは建前で、 別に相手の安定を守りたいんじゃなくて、自分が責められることが怖いんです。結局、世間道徳で自分の見映えをよくして安心したいだけです。それがいちばん相手を苦しめるということを、私は神無月さんの周りの女の人たちから学びました。そういう話を節子さんがお嬢さんにしていたのを聞いたことがあります。お嬢さんは、愛情にも欲望にも素直に生きること、そしてその素直さを理解の深い人たち以外には明かさないこと、理解できない人に責められても自分を曲げないこと、それが人間としていちばん大切なことだと言ってました」
「墓まで持っていきたい秘密なんて格好いいものは、人間にはないからね。人を責めるのが趣味という人もめったにいない。人を殺したり、人生歴を偽ったり、人を騙したり、色に狂ったり、聞いてみればなァんだということばかりだ。ぜんぶのっぴきならない事情があってのことばかりだからね。ヒットラーのような偏見に満ちた大罪を秘密として抱えている人間は、何億人に一人だ」
町の緑に別れを告げ、地下への階段を降りる。切符を買い、電車に乗る。並んで座る。
「神無月さんも腹を立てることはあるんでしょう?」
「むかしは自分にされたことで腹を立てたことはあったけど、いまは人が不当なことをされると腹が立つ」
「自分を捨てたんですね」
「捨ててない。愛してくれる人のために捨てられない。ただ、気にならなくなった。目の前のことに熱中することで忙しい。自分のことなんか気にしていられない」
「じゃ、いまは?」
「ソテツのこと」
「……ありがとうございます。お父さんが栄の料亭蔦茂(つたも)の予約をしてくれました。仕出し弁当を店内で食べられるように都合をつけてくれたそうです。二時か三時は腹が減るから、天丼御膳という弁当を頼んでおいたって」
「そのあとで則武へいこう」
「はい! かわいがってください」
栄で地下鉄を降りる。テレビ塔に向かって歩く。人通りは少ない。
「まだ二時だ。テレビ塔に寄ってく?」
「いいえ、つまりません」
しばらく広小路通を西へ歩くと、朝日神社があった。ひっそりたたずむ石灯籠と石鳥居の上に鬱蒼と樹木が茂っている。高いビルの狭間の神社で、周囲とちがった空気がただよっている。
「寄ってく?」
「はい」
境内へ入っていく。右手に手水舎、社務所。左手の小屋には神輿が納められている。くだり框に浄財箱の据えられた十五段の階段を昇ると、目の前が小ぶりな本殿だった。行き止まり。ここにも〈奉納〉と書かれた賽銭箱。二人で十円を放り、二礼柏手一礼。由緒書きの立て札を見ると、名古屋城を築いた際に清州から移築されたとある。子供の無病息災を祈る厄除け神社のようだ。
「神無月さんにぴったり」
八
広小路七間町の信号を左折して、七間町通に入る。住吉町のアーチ看板。
「ここを二筋いった先にあるそうです」
「今年から日曜歩行者天国が始まったそうだね」
「栄の交差点から矢場町の松坂屋までです」
「ただそこを歩いてみたくて大勢集まってくるんだろうね」
「はい、お祭りですね」
右も左もビルと食い物屋と駐車場。もう一つのアーチ看板をくぐった先に〈料亭つたも〉の屋根つき木製の箱看板があった。巡らした黒板塀(檜とヒバのようだ)の途中に切られた門口から玄関につづく石畳に踏みこむ。樹木の緑が覆いかぶさる。
「老舗のようだね」
「大正二年ですって。六十年近いですね。戦前は旅館だったそうです」
玄関先にきわめて古い石灯籠が立ち、頭に子蛙を載せた石蛙が鎮座し、使われなくなった井戸に簀子の蓋がしてある。重鎮らしい一重太鼓帯の仲居が出てきて、
「戦火を生き延びた石灯籠でございます」
玄関戸間に入ると、蔦茂旅館の暖簾が壁に貼りつけてある。
「昭和三十年あたりまでは料亭を兼ねた旅館だったんですよ」
淡い青緑の涼しげな長暖簾が並んで垂れている。その左手の大理石板に〈料亭蔦茂〉とある。その壁の左手が引き戸になっていて、仲居がカラリと開けると、四十格好の女将らしき二重太鼓帯締めた女が、
「いらっしゃいませ。北村さまよりご予約いただいた神無月さまとキャンさまですね、お待ちしておりました」
「北村席はご存じですか」
「はい、寄合などでときどきご利用いただいております。置屋をなさっておいでのころは、よく芸妓のかたがたを派遣していただきました。さ、どうぞこちらへ」
赤絨毯の敷かれた広い中廊下を通って、障子を立てた六畳間に案内される。縁の外に片廊下を巡らし、手摺は年季の入った竹筒だ。部屋全体が鯉を放った池に面している。女将は伏して礼をし、
「神無月さま、キャンさま、ようこそいらっしゃいました。きょうは特別に当店の仕出し弁当をご賞味なさりたいとのこと、板場一同腕によりをかけてお作りいたす所存でございます。どうぞお楽しみくださいませ。神無月さまには、名古屋市に大きな利益をもたらしていただき、市民一同心より感謝しております。遅ればせながら、名誉市民賞受賞おめでとうございます」
「ありがとうございます。これ、裸で失礼ですが」
五千円札を畳に差し伸べると、
「それはお納めください。きょうの午前中に菅野さまよりじゅうぶんなお心づけをいただいております。それではごゆっくりどうぞ」
「生ビールの小を二つお願いします」
「かしこまりました」
私は五千円札をソテツに握らせ、
「これでストッキングや下着を買って」
「いりません」
「男は出したものは引っこめられないんだ」
「……そういうものなんですね。いただいておきます」
大事そうに畳んでバッグにしまった。すぐに仲居の手でビールが運ばれてくる。
「十五分ほどでお弁当をお持ちします」
ソテツと乾杯。ソテツは気持ちよく飲み干し、
「夢のよう。きょうのこと、一生忘れません」
私は笑いかける。
「きれいになったね」
「そんな……」
「北村席のきれいな大黒柱だ」
「沖縄の両親に、ずっと神無月さんをお世話したいので、結婚はしませんて手紙を書きました」
「思い切ったね」
「ふつうです。イネちゃんも、千鶴ちゃんも、ムッちゃんも、千佳ちゃんも、秀子さんもみんなそれがふつうだと思ってます。それに、私、姉が二人もいるので気がラクです」
「家族のこと、聞いたことがなかったな」
「そんなことどうでもいいです。那覇市に両親がいて、五人兄弟。私は三女。家は豚肉専門の肉屋さんをやってます。隣り合わせに食堂もやってます。それでぜんぶです。家業は兄と姉たちが受け継ぐでしょうから先の心配はいりません。私は仕送りする必要がないんです。でも、中学生の弟が一人いるので、姉らしく学費を月々二万円送ってます」
「えらいね。賄いの給料には満足してるの」
「満足どころじゃありません。私とイネちゃんは十三万円、幣原さんは十二万円、千鶴ちゃんは十万円、ほかの賄いさんは八万円もいただいてます。食費と部屋賃は合わせて一律一万円です。信じられない高給です。去年の春から半年ごとに五千円も上がるんです。神無月さんのプール金とかいう貯金のおかげです」
「お待たせしました」
六つに仕切られた重箱が運ばれてきた。手前の二つの区画には、左の大きいほうに、蓮根、サツマイモ、海老二本、ナス、カボチャ、しし唐、三つ葉の天丼、右の小さい区画には、紅白なます、しば漬け、野沢菜醤油漬け、上の三つの区画には、左から煮物餡かけ、卵焼き、真ん中に紅鮭塩焼き、煮物、柚子こんにゃく、青菜辛し和え、右の小さな区画にはわらび餅が三つ並んでいた。
箸を平等に動かしながら、滞りなく〈楽しんで〉いく。
「おいしい!」
「ほんとにうまいなあ、どれもこれもうまい。はい、海老天一個あげる。替わりに柚子こんにゃく一つもらうよ」
ソテツは箸でつまんで私の口に入れた。幸せそうだ。
「さあ食べ切ろう」
女将が緑茶を持ってきた。年輩の男を連れている。
「いかがでしたか」
「どれもこれも驚くほどの美味でした」
「料理長の××です。北村席の厨房頭のキャンさんのお口に合いましたか」
「まねできないお味です。とてもおいしくいただきました。天つゆは特に」
「ありがとうございます。秘伝の丼つゆです。創業以来変わらない味でございます。ときに、今年もドラゴンズは好調ですね。期待しています」
「今年は各チームに研究されて一筋縄ではいかないと思いますが、なんとか八十勝以上はしたいです。もちろん優勝を狙います。期待してください」
女将が、
「神無月さんに引っ張っていただければ安心です。水原監督も金太郎さんはやさしい親亀だとおっしゃってました」
「監督もこちらにくるんですか」
「はい、折々オーナーや経済界の人たちとごいっしょに。金太郎さんは実の子よりかわいい。私のかぐや姫だよと常々おっしゃってます」
「ぼくも、実の父と思って慕っています。北村席のご主人は義父、奥さんは義母、菅野さんは長兄ですね。賄いのかたたちは全員姉妹と思ってます」
「さびしい子供時代だったと監督から伺ってます。それが栄養になってとてもやさしい人間に育った、少し人間嫌いのところはあるが許してやるべきことだって。もしよろしければ、ホームゲームのあるときは中日球場に弁当をお届けしましょうか。かさばらない那古野という弁当があるんですよ」
「中日球場までは遠いでしょう」
料理長が、
「ここから十五分もかかりません。岐阜や三重までも出張することがありますから」
「じゃ、ときどきお願いします。ふだんはこのキャンさんが弁当を作ってくれてます」
「それじゃ、間に合ってますね」
「でも、キャンさんも忙しいことがありますし、試合前の食事を考えるのはけっこう面倒なんです。短時間で食べなくちゃいけませんので」
ソテツが、
「ついついおにぎりですませてしまうことも多くなります。栄養バランスがうまくとれません。仕出し弁当はありがたいです」
「ほかの選手たちの好みを尋いて、ときどき注文させてもらいます。サンドイッチに拘ってる選手もいますから。いちおう球団本部の足木マネージャーというかたに話を通しておいてください。そちらから一括して支払われると思いますし、選手個々の給与明細を作成する人なので」
「わかりました」
「じゃ、帰ります。ごちそうさまでした」
女将が料理長と並んで平伏し、
「きょうはご来店いただいて、ほんとうにありがとうございました。タクシーお呼びしましょうか?」
「いえ、市電で帰ります」
料理長に玄関まで見送られる。女将と何人かの仲居は門先まで見送りに出た。
広小路本町から市電に乗り、名古屋駅前に向かう。舗道のイチョウ並木が美しい。
「弁当は作ってね」
「はい、作ります。でも夏場はなるべく仕出しをとってください。作りたてのほうが安心ですから」
伏見通、納屋橋東。
「デートはまた来年だね」
「もう胸いっぱいです。こういうことは何回も経験したくありません。お嬢さんは伊東、千佳ちゃんは新宿御苑、ムッちゃんは南阿佐ヶ谷の道、ヒデちゃんは荻窪。二度デートしてるのは、素子さんと百江さん。私が一度でもデートできるなんて―信じられないくらいの幸せです」
「レコード屋はどうしようか」
「則武でお借りします」
「それでいいの?」
「はい。スメタナはありますか」
「ある。モルダウ」
「それを貸してください。夜に聴きます」
名駅で降り、コンコースを通り、則武に急ぐ。則武の玄関に着くと、私はズボンとパンツを脱いで前方に放り投げた。
「濡れてる?」
「すっかり」
玄関土間ですぐに下着を引き下ろし、ミニスカートの尻と交わる。胸を揉みながら往復する。ソテツは甲高い声を上げて、立てつづけに達する。異様に緊縛してくるので、私もにわかに高まった。
「出すよ」
「ください! 愛してますゥ!」
後ろ髪に頬を寄せ律動する。離れると、腹部の痙攣がつづいているのに、よほど強く吸引したのか精液が下りてこない。式台に仰向けに寝かせてやる。キッチンテーブルのティシュを抜いて股間を塞ぐ。
「ありがとう、神無月さん。生き返りました」
ようやく下りてきたようで、ソテツはそっと拭った。すぐに行為に及んだことを謝ると、ソテツは心地よさそうに腹式呼吸を繰り返しながら、
「すぐしてほしかったんです。前菜に三十分もかける食通は信じられないって、お嬢さんが言ってました。セックスの準備を長々とやるなんて女をバカにしてます」
まだ私が隆々としているのを見て、
「もう一度ください」
私が仰向けになると、ゆっくりと跨った。
「ああ、愛してます、イク、イクイク、イク!」
覆いかぶさってきて、唇を吸いながら、尻を前後させて心ゆくまでアクメを重ねる。
「あああ、死ぬほど愛してますゥ! イクウウウ!」
私は抱き締めて彼女の腰の動きを止めようとするが止まない。排泄感がふたたび迫ってきて、あっという間に吐き出した。ソテツは唇を離して反り返り、局部を密着させた。私の律動を陰阜ですべて感じ取ろうとしているようだ。亀頭がひりひりする。ソテツの動きが確実に落ち着いてから離れる。縁辺が赤く腫れている。
「真っ赤!」
「つづけてするのは難しくなってきたね。まだ若いのに」
「ごめんなさい。調子に乗りすぎました」
「いいんだよ、つづけてできるのは女の特技だし、長所でもあるから。ぼくももっと鍛えないと」
「鍛えなくていいです。いままでのままでいてください」
九
ソテツは下着を土間から拾ってトイレにいく。私は風呂にいってシャワーで局部の付け根を浄め、食堂の床に落ちていた下着とズボンを穿いた。音楽部屋からスメタナを持ってくる。
「はい、モルダウ。あげるよ」
「ありがとうございます! 何度も聴きます」
二人で笈瀬通に出ると、夕暮れが迫っている。
「名古屋にきてちょうど一年が過ぎたね」
「……たった一年。不思議な気がします」
「高校にいったら、三年、四年は瞬く間だよ。一生懸命勉強してね」
ソテツはふと私の顔を見上げ、
「はい。わあ、なんて素敵な顔!」
「黄昏どきの光のマジックだね。この顔が最低の人間だったら?」
「記憶喪失にでもかかったんですか? だいじょうぶです。神無月さんの顔には、名誉と真実と誠実さがあります」
「すごい単語の羅列だな。それは最高の人間じゃないか。だれのことだろう。少なくとも極度の権威軽視野郎のことでもないし、単なるスケベ野郎のことでもないな」
ソテツは思わず笑いだし、
「もう、いいかげんにしてください。私も席のみんなも、どんな神無月さんであろうと大好きなんですから」
式台に菅野が出迎えた。
「久世が喜んでました。動物園は楽しかったようですね」
「楽しかった。蔦茂の手配ありがとう。おいしい店だった」
主人が出てきて、
「あそこの女将とは長い付き合いです。ときどき仲間のみなさんと利用してやってください」
トモヨさんが、
「ソテツちゃん、楽しかった?」
「楽しかったです! 百点」
「よかったわね」
賄いたちも出てきて笑いかける。
「着替えてきます」
レコードを小脇に抱え、ミニスカートを揺らして自分の部屋へ小走りにいった。座敷に顔を出すと、直人と名大生たちがパズルにいそしんでいる。
「星一徹と水原監督か」
「三百ピースなの。少したいへん」
千佳子が見守る目の先で、欠けている空白に直人がピースを入れようとしている。イネと千鶴が男三人にコーヒーを持ってくる。幣原がジャッキを連れて帰ってきた。ソテツが平服で戻ってくる。私はパズル連中に、
「科目登録はどうだった?」
睦子が、
「私と千佳ちゃんだけすませました。新入生はガイダンス。登録はあしたです」
ジャッキを見にいく。ジャブジャブ食っている。頭をなぜて庭に出る。暮れかかる藤棚の下に坐る。主人夫婦と菅野も出てくる。主人が、
「牛巻坂第一回を読みました。引きこまれましたよ。芸術家ですな、神無月さんは。人物が目の前で動いとるように生きいきしとる」
菅野が、
「五百野でもそうでしたよ。特に老人の描写がすごかった。年寄りをもっと年寄りの見せるのが芸術じゃない。年寄りをもっときれいに生きいきと見せるのが芸術というものでしょう。神無月さんは芸術家です」
女将が、
「人は年寄りになって初めて若々しく生きとるありがたみがわかるんよ。神無月さんはいつも年寄りにええことしとるわ」
菅野が、
「極端に言うと、死んで初めて、若さのありがたさや、生きてるありがたさがわかる、ということですね?」
主人は、
「ほうや。それがわからんと死んでまうのは悲しいがや。もしそれがわかって墓に入った者が生き返ったら、死ぬまでよりももっとええふうに生きるようになるやろな」
カズちゃんたちが帰ってくる。手を振る。
「きれいな藤ね。野辺地へいくまで、しばらくそんなふうにのんびりしてなさい」
「うん。百江と優子は?」
「きょうも遅番」
主人夫婦が立ち上がる。
「めしにいきましょうか」
「はい」
女将が、
「きょうは私の好物やが。鶏南蛮のつけそうめん」
菅野が、
「脂が浮いてうまそうですね」
カズちゃん、素子、メイ子たちについて玄関へ入る。賑やかに食卓が整えられる音がしている。料理を待つ人たちの弾んだ声もする。
―私の故郷はどこだろう。生まれた村か? 育った町か? 大切な人びとが住む場所か? 死に場所か?
旅の道々で何度もしてきた質問だ。野辺地への帰郷はただの気休めかもしれない。しかし、ごまかしではない。年々歳々、祖父母と空と海が頭から離れなくなっている。父(ちち)母(はは)のことはこれ以上探ろうと思わない。彼らの別れの真相などもうどうでもいい。
そうめんを盛った小どんぶりが十と言わず並ぶ。つけつゆがどんどん出てくる。脂の散った醤油つゆに、鶏肉、長ネギ、練ったユズ胡椒が浮かんでいる。直人のつゆにはすでにそうめんが浸されている。カンナはまだまだプレートごはん。ソテツが、
「前菜と思って食べてください。きょうのメインはトンカツと豚汁です。生野菜サラダはたくさん食べてね。直ちゃんは薄切り肉のカツ丼よ」
「ワーイ、だいすき」
「そうめんも短く切っておいたから、ちゃんと食べるのよ」
「うん」
幣原がニコニコ顔で、
「きょうは四月バカですよ。みなさん何か嘘をつきましたか」
「つかなかった!」
「忘れてた!」
直人が、
「しがつバカってなーに」
トモヨさんが、
「毎年四月一日だけ嘘をついてもいいって言われてるのよ。人を傷つける嘘はだめよ。楽しい嘘でなくちゃ」
よくわからないようなので、睦子が、
「直ちゃんごめんね、星一徹のピース一つなくしちゃった」
「えー! いっしょにさがそう」
「ウフフ、嘘よ。こういうのが四月バカ」
直人はキャハハハと笑ったあと、
「いたい、いたい」
上半身を屈めてお腹を押さえる。キッコが、
「どないしたの、そうめん食べすぎたの?」
と乗ったふりをする。
「うそ! しがつバカ」
と大笑いしながら立ち上がる。
「ワァ、騙されてもうた」
カンナもアーアーとうなりながらからだを前後に揺する。千佳子が、
「笑ってる! かわいい!」
主人が、
「テーブルに手ェ突いて立とうとしとるやないか」
トモヨさんが、
「つかまり立ちね」
「小っちゃい椅子買ったらんとあかんな」
直人が、
「ぼくのあげる。もういらないから」
ヒデさんが、
「四月バカ?」
「ほんとだよ」
ヒデさんの胸に抱きつく。ソテツが、
「もうすぐトンカツが上がりますよ」
ひとしきりそうめんをすする音。女将が、
「私はそうめんをもう一盛りでええわ。カツ食い切れんようになってきた」
「二切れぐらい食べてください。サラダといっしょに」
カズちゃんが、
「脂ものを食べられなくなるのは、運動不足で筋肉が減ってくるのが原因よ。嚙む力や飲みこむ力まで衰えてくるから、喉詰まらせて死んじゃう危険もあるわ。動き回ってるのがいちばんいいの。おとうさんや菅野さんが元気なのは、あちこち動き回ってるせいね。菅野さんは朝もランニングしてるし」
幣原が、
「あしたの夕方からジャッキといっしょに散歩しましょう。椿さんまでですから、すぐですよ」
「そうよ、万博へいくまで鍛えなさい。会場で倒れたらたいへんよ」
女将が少しまじめな顔になった。
「去年日赤で検査してもらったときはなんともなかったんやけどな」
「筋肉までは調べられないでしょ。とにかく一日一回でも散歩しなさい」
「はいはい」
ソテツが、
「はい、直ちゃん、カツ丼よ」
直人がパチパチ拍手する。パーマンの再放送が終わった頃合で、テレビから関心が離れる。カンナはひさしぶりにトモヨさんの乳を含んでいる。つづいて私たちに熱あつのトンカツと豚汁が出てくる。まず千切りキャベツにウースターソースをかけて食う。菅野が醤油をかけたカツをうまそうに齧りながら、
「御池さんから、仲間たちと開幕戦を観にいくという連絡がありました。山口さんもいっしょだそうです。ツアーが終わったようですから。おトキさんもいくんじゃないですかね」
カズちゃんが、
「菊田さんたちもいくでしょうね。日曜日だし、年間予約席をとってたはず」
「中日球場の一塁ベンチ上の優待席は、今年から五人になりましたよ。球団事務所からパスが送られてきました」
「それを使うのは十四日の阪神戦からね。私たちは土日しかいけないから、せいぜい名大組や賄いの子たちで使いなさい」
「やったー!」
ここにいる彼らが私のすべてだと思うと肩の荷が軽い。おたがいに愛着を抱き合う人びと……。私は大勢の認知というヴェールで隔離される職業人になった。それは、私との関係に愛着を抱かないかつての知己からは好都合な隔離として、躊躇なく、後腐れなく、絶縁できる口実になったことを意味している。
―あいつの晴れ姿はあいつのための場所と時間に設けられたものであり、自分はそこにいるべきではない。
旧知には旧知にしかわからない感情がある。……彼らは幻のしがらみだったということだ。目をつぶって思い返すと、彼らはまるで蜃気楼のように揺れ、正体がつかめない。
―でも、おたがいに愛着を抱き合っている人びとは、いずれかならず巡り合って邂逅を果たすことができる。
「何うなずいてるの? 口を結んじゃって」
カズちゃんに声をかけられる。
「なんだか近いうちに、クマさんに遇えそうな気がしたんだ」
「キョウちゃんの言うことは当たるから」
「クマさんはきっと長野以外の土地でバスの運転手をしてるんだろうな。あるときぼくは偶然そのフロントウィンドーを見かけるんだよ」
菅野が思わず目頭を拭った。
「すがのしゃん、ないてる」
「いい話だからね。菅野しゃんも、クマさんに会いたいな」