第四部


四章 開幕前・閑居




         一

 三月三十一日火曜日。七時半起床。快晴。七・七度。もうみんな起きてキッチンでガタガタやっている。一階に降りて、うがい、排便、シャワー。便の状態が気にならなくなってきた。何ごともいまあるがまま。新品のジャージに着替える。
「おはよう!」
「おはようございます!」
「一膳だけでも食べておきましょう」
 おろし納豆とキャベツの味噌汁。めしはどんぶりにした。
「昼近くにちょうどいい具合にお腹がすきますね」
 食事がすむとカズちゃんが立ち上がり、
「じゃ、素ちゃん、ハイエース取りにいこう」
「うん。十時出発やからまだ早いよ。お重のお手伝いもあるでしょう」
「ほうやった」
「私たちもあと片づけをしたらいきます」
「キョウちゃん、久保田万太郎の句集、居間に置いといたわ」
「あ、サンキュー」
「九時半ごろに席にくればいいわよ」
「わかった」
 二人が出かけ、百江とメイ子がシンクに立つ。スカートの尻が異様に艶めかしい。にわかに勃起している。どうしたものか迷う。
「溜まってるようでしたらってお嬢さんが―」
 メイ子が振り向く。私はジャージを脱いで椅子から立ち上がり、下半身を曝す。
「……やっぱり」
百江が振り向き、それを見たとたんスカートと下着を脱いだ。屹立させたまま近づいていくと、メイ子がひざまづいて含んだ。背中をさすったとたん一度腹を縮めた。二度、三度と腹を縮める。
「ああ、イッちゃいました。百江さん、入れてあげて―」
 百江はシンクの縁に手を突いて尻を向ける。たぼを左右に広げ、黒く濡れそぼった性器に挿し入れる。
「あ、神無月さん、愛してます、気持ちいい……」
抽送しているあいだに回復したメイ子も、あわててスカートとパンティを脱ぎ、キッチンテーブルの上のティシュ箱を手に百江に並びかける。百江の絶頂が数度つづいた頃合に抜き取り、メイ子に挿入する。
「ああ、うれしいィ!」
ティシュ箱を取り落とす。たちまち全身が引き攣り、高らかな声がつづけざまに上がる。抽送がままならないほど締めつけてきた。迫る。
「わ、ふくらんじゃった、だめ、神無月さん、私きょうはあぶ……百江さん、お願い!」
 そう言いながら尻が離れない。放出を受け止めたいのだ。しかし、私の怒張がさらに増した瞬間、メイ子は伸び上がて激しくアクメに達しながら無理やり離れ、ストンと腰を落として横たわった。腹を伸び縮みさせて悶える。私はすぐさま百江に挿入し、やにわに始まる緊縛の連続の中へ思い切り迸らせる。
「いただきますゥゥ!」
 後頭部が反り上がり、陰茎の律動に合わせて胴が収縮する。大きな胸をつかみ、しっかり吐き出す。
「神無月さーん、強くイキますゥゥ!」
 しばらく痙攣をつづけたあと、一分ほどじっとしている。膣の収縮が間歇的になっていく。背中が安らぎ、呼吸が落ち着いてくる。床に横たわっていたメイ子も落ち着き、手をさまよわせてティシュを抜き取り百江に渡す。百江はそれを股間に当て、私がそっと抜き取るのに合わせて、余韻の胴ぶるいで中身をティシュに搾り出した。椅子に座るとすぐメイ子がやってきて、まずティシュで丁寧に拭い、それから口で清めた。
「ごちそうさまでした」
 百江が下着とスカートを整えながら、
「やっぱり二、三日で溜まるんですね。二十歳そこそこですものね」
「二人のお尻が誘ってるようだったから」
 笑いながらパンティとスカートを穿き直したメイ子が、まぶしそうに私を見つめ、
「元気よくてすてきです。おかげでからだがすっかり調子よくなりました。さ、きょうはお花見。旦那さんが飲み過ぎないようにしないと。菅野さんは抑えるでしょうけど」
 百江が、
「厨房の子たちが飲みそうよ。名大組も案外いっちゃうかも」
「ムッちゃんとヒデちゃんはだめでしょう。ひょっとしたら千佳ちゃんも飲めないんじゃないかな。ぜったいいけるのはキッコちゃんね。飲めないのは神無月さんと優子さん」
「運転する三人は飲まないでしょう。五升もお酒いらなかったわね」
 メイ子が、
「私たちはいただきましょう」
「もちろん」
「二人はいつも準備万端で待ってるの?」
 百江が、
「そういうわけじゃないんですよ、ね、メイ子ちゃん」
「はい、神無月さんから声がかかると、わあっとあふれてくるんです」
「そうなんですよ。ふだんはカラカラ。お嬢さんから声がかかったりしたときも、わあっときます」
「ある意味、典型的な貞女だね」
 メイ子は、
「みなさん、そうですよ。愛する人がいる女というのはそういうものです。だから神無月さんもその気になるまでは、何週間でも、何カ月でも、余計な心配をしないでデンとしててくださいね」
 優子のプレゼントの空色のセーターを着て、綿パンを穿いた。尻ポケットにアクロイド殺人事件を入れ、手に久保田万太郎句集を持つ。読む暇はないだろうが、いつ退屈な時間が紛れこむかわからない。マフラーは暖かい日和なのでしなかった。
百江とメイ子が片づけを最後まですますのを待って、三人で北村席へ出かけていく。下駄を履いた。二人の足もとを見ると革製の高級そうなサンダルを履いていた。お揃いだったので、カズちゃんの心遣いがわかった。
         †
 優子が私のセーター姿を見て、手を叩いて喜んだ。
「すてき! とっても似合います」
 女将が寄ってきて、グルッと全身を見た。
「味やね。ぜんぜんキザに見えん」
本は要らない。水屋の棚に置く。賄い何人かとジャッキは留守番。三段重箱が三つずつバン三台に積みこまれた。ビール二ケースは素子のバンに、酒三本はカズちゃんのバンに積んだ。五本は多いとなったようだ。菅野のバンの助手席に主人が座り、その後ろに直人を膝に載せた私、その後方に名大四人組、素子の車には、助手席にソテツ、その後ろは幣原、イネ、千鶴、ファインホースの男三人、カズちゃんの車には、助手席に優子、その後ろに女将、カンナを抱いたトモヨさん、百江、メイ子、ファインホースの女三人が座った。
 駅裏通りを走って外堀通りに出、右折して亀島のガードをくぐる。直人がはしゃいで主人の膝に移った。
「たかい、たかい!」
 直人は並木の葉群れを透かすようにして見上げる。たぶん中日球場へいく道では見かけなかったような背高のビルがポツポツ現れるのに驚いたのだろう。広小路通よりは空が広い。則武新町、輪ノ内町、菊井町。いつもランニングしている道と交わる。ようやく市電と出会い、胸が弾む。直進。ビルの背が低くなり、古い民家が目立ちはじめる。市電が往来する。明道(めいどう)町交差点赤信号。菅野が、
「西区のこの町は、菓子の問屋街です」
 睦子が、
「江戸時代に下級武士が手内職として駄菓子を作ったそうです。それでお菓子の町として栄えたんですって」
 菅野がうなずき、
「明道町という町名は存在しないんですよ。交差点の名称として残ってるだけです」
 信号を直進。菅野が、
「千佳ちゃん、外堀通りの本名は?」
「県道200号」
「正解。これをいくとどこに出る?」
「景雲橋を渡って、丸の内。そこを左折すれば名古屋城の正門に出ます。正門の前に大駐車場がありますけど、名城公園から遠いので、大津通まで出て、公園に近づいていけば左手に大きな駐車場があります。その駐車場から園内に道が通ってます」
「正解」
 菓子問屋の家並がつづく。やがて小坂にかかり、問屋街が途切れる。景雲橋。市電の速度が緩む。堀川を渡る。両岸の緑が濃い。直人が後部座席に戻ってきて、電停に停まっている市電に手を振る。何人か振り返す人がいる。ひそかな連帯だ。直人は大満悦。左手に愛知県図書館。丸の内の交差点を左折する。
「伏見通です」
菅野が右手の大きなビルを指差し、
「これは中日新聞名古屋本社。丸の内と言うだけあって、この右手の一筋向こうの敷地には公官庁が多いんです。地方裁判所、家庭裁判所、高等裁判所」
 名古屋城前を直進して大津通に出、左折して大駐車場に入る。二台の後続車も入ってくる。
「着きました!」
 みんなドヤドヤと降りる。ヒデさんと睦子が直人の手を握って降りる。カズちゃんと千佳子が園内へ通じる道へ女将や女たちを誘導する。直人を連れたヒデさんと睦子がつづく。カンナを抱いたトモヨさんと、重箱を持ったソテツたちもつづく。菅野の周りにファインホースの六人が集まり、残りの荷下ろしをする。菅野が大きな声で、
「ビニールシートは、きのうの深夜に敷いてありますから。御深井(おふけ)池のほとりの真ん中へんです。今朝も確認してきました」
主人と私も一升瓶を一本ずつ持つ。すたすた歩く連中の背中についていく。とつぜん大ぶりの池の周囲の満開の桜に紛れこむ。ソメイヨシノと山桜が覆いかぶさるように咲いている。急な岸辺に密な木柵が巡らしてあり、こちら側が芝の平地になっている。水際の灌木はほとんどツツジで、咲いている桜は枝垂桜が多い。百江が、
「公園ぜんぶで二千本近いって話ですよ」
この何千本という話は桜の名所ではかならず聞く。遠景の森の末から、空に向かって名古屋城の緑青(ろくしょう)色の天守閣が突き出している。青空に映える。主人と柵に近づいていく。
「日本晴れや! めったにないええ日にきましたな」
カンナを抱いたトモヨさんと女将が並びかけてきて目を細める。噴水二基の平たく噴き上げる形が美しい。カンナは大きく目を見開いて数羽のカモを眺めている。水辺にアイリスらしき花が咲き、水中には亀や鯉の姿もある。
「風もないしな。ほんと、ええ日やわ。この池は五月にはショウブが咲くし、夏には蓮の花が咲くんよ。冬にはコブ白鳥がおるし」
「コブ白鳥?」
「くちばしにコブのある白鳥やが。稲を餌にすることが多いんで害鳥て言われとるが、愛知県だけは保護鳥にしとる」
「冬には冬桜ゆう目立たん花も咲くで」
夫婦で長く親しんできた公園のようだ。腕時計を見ると、十二・二度。もうすぐ十一時になろうとしている。風がないので肌寒くは感じない。菅野たちは何十もある大小のビニールシートの中からわが陣地に重ね敷いた三枚を発見し、ファインホースの社員たちを分けて坐らせる。大きな六帖シート三枚。軽く二十人は坐れる。割り箸で挟んだボール紙が端の二箇所に立ててある。北村席と書いてあった。見回すと、桜の屋根の下を確保し損ねて、ふつうの木の根方に敷いてあるシートもある。席取りのためか、帽子を顔に寝そべっている人もいる。彼が乗ってきたらしき自転車が横たえてある。
シートの一角にファインホースの男三人と菅野と私、女将と幣原、睦子、ヒデさん、キッコ、ソテツ、メイ子が坐り、少しあいだを置いた一角に主人とカズちゃんとカンナを膝に坐らせたトモヨさん、素子、千佳子、百江、イネ、千鶴、優子、ファインホースの女三人が坐った。そのあいだを渡り歩くように直人がチョコチョコ駆け回る。周囲のあちこちのシートが埋まりはじめる。遊歩道に近いので自転車や乳母車までやってくる。
紙コップが配られるが、直人が走り終わるまでビールをつげないので、男たちは遊歩道のベンチへタバコを吸いにいった。シートで吸ってもかまわないのに、火を落として穴を開けるのが怖いのだろう。重箱を開けて直人を釣ることにした。幣原と優子とソテツの三箇所でいっせいに開けられる。叫び声を上げて直人がソテツの重箱に駆け寄ってくる。
豪華絢爛という表現がぴったりの中身だった。一の重にチラシ寿司。シイタケ、ニンジン、レンコン、キュウリ、菜の花、卵焼き、サーモンなどが散らしてある。二の重は唐揚げ、ウインナー、かまぼこ、煮シイタケ、煮ちくわ、いなり寿司。仕切りつきの三の重は餡かけ肉団子、サバの塩焼き、春巻き、厚揚げ、がんもどき、ソーセージ、ウズラの卵、お新香。直人の指差したものが中皿に盛りつけられる。唐揚げ、いなり寿司、肉団子、がんもどき。名大生たちが世話係。カンナにはシラスとトウモロコシのおじや、細かい具のけんちん汁、鶏ささみのトマトソース煮、リンゴと小松菜のサラダが用意されている。幣原とメイ子が世話係だ。
ようやく紙コップにビールがつがれる。直人はオレンジジュース。乾杯! いい陽射しだ。いなりずしを頬張りながらビールを飲む。かまぼこを齧る。サーモンをよけてチラシ寿司を盛る。コップ酒を一杯だけチビチビすする。塩サバをつまむ。煮ちくわ、がんもどきをガブリとやる。女将が、
「神無月さんがそんなにたくさん食べとるの、初めてやね」
 赤い顔をした名大生たちもうなずき、
「ほんと、初めて見た」
「ぼくも初めてだ」
 菅野が、
「どんぶりめしはよく見ますけど、こんなにいろいろと箸をつけるのはたしかに初めてですね。酒もけっこういってます」


         二

 ファインホースの苗村が周りの面々を見回し、
「北村席の名大生が四人になったそうですね」
 私は、
「はい、めでたく二人増えました。二年後にもう一人増えますよ」
 キッコが、主人やカズちゃんと坐っている千佳子を見やりながら、
「来年は一人、南山に移りまっせ」
 睦子が、
「千佳ちゃんは、法律とか経済にはどうしても興味が湧かなくて、語学をやりたいって言ってるんです」
 ヒデさんが、
「生きていくには政治や法律や経済に関わる教養も、専門技術的な知識も必要でしょうけど、人間らしい情緒が満たされることも重要です。どちらかを重視するんじゃなくて、情操的な面に触れるチャンスの多い勉強をしたいんだと思います」
 苗村はビールを一口含み、
「人間的な面を重視される人というのは、がんらい圧倒的に能力の高いかたが多いです。それでいて何かを吹っ切っている。競争に関心がなく、教養や知識といったことにもったいぶって拘らない。神無月さんはじめ、北村席のかたがたを見ていて感じます。どうすればそんなふうにできるかということじゃないんです。位置のエネルギーというか、それが生来高いということなんですね。人間のちがいです」
 菅野が、
「どう人間がちがおうと、目指した道は進まなくちゃ。苗村さんは将来大学に残って研究なさるんでしょう?」
「研究能力を認められれば、そうしたいと思ってます。いま進めている修士論文テーマはスポーツビジネスと地域振興です。博士号をとるまではさまざまなテーマの論文を書かなければなりません。修士課程二年、博士課程三年。五年後に博士号をとって初めて目途が立ちます。そこから助手、講師、助教授、教授というふうにランクアップしていくわけです。……長い道のりです。講師になるころには四十代、教授になるころには還暦が近いというのがふつうです。でもスポーツと経済の関係にいろいろな面からライトを当てることに興味があるので、やりつづけようと思ってます。ところで睦子さんは万葉集に入れこんでるそうですが」
「貴族から庶民まで国民の歌が編纂される時代というのに驚いたので。まだ研究テーマはぼんやりしてます。歌の解釈や、歌われている草花や事項の確認といった知識的なことに終始してます。恋愛歌に興味がありますけど、もともと研究するよりは手放しで共感するものだと思ってますから、学問的に研究するなら、歌人たちの愛や性から離れた日常生活といったところでしょうか。あとは万葉時代の遊びと娯楽ですね」
「……すばらしい」
「研究には書く情熱が必要です。その情熱を生きるテンションのちがう神無月さんからいただいてます」
「野球をして、ものを書いて。……とんでもない人ですからね」
「そういう万能ということじゃなく、坦々と、自分の決断に従って意欲的に生きているという点です。神無月さんは生きる参考にする人ではなくて、尊崇して糧にする人です」
 ヒデさんが、
「糧がなくなれば、死ぬしかないですから」
 堰を移動してきた菅野が、
「簡単な理屈ですよ。逆に神無月さんの糧も私たちです。私たちはそのことをとことんわかってます。あの子さえもね」
 池の柵を握って水面を覗きこんでいる直人を目で示した。見守る幣原の背中が温かい。向こう岸に沿ってジョッガーが走っていく。私立高校の元教員の生駒が、
「人間の糧はこういう食べ物じゃなくて、人間だということですね」
 中京大学野球部出身の富田が、
「神無月さんにあこがれていまの職場に採っていただいたんですか、あこがれているだけではわからないことをたくさん学びました。細かいすごさと言うんでしょうか、とにかく想像を絶してます」
 ソテツとメイ子がウインナー、春巻、厚揚げ、煮シイタケと、男たちの皿にどんどん盛り分ける。だれ彼となくいききしてビールをつぎ合う。カズちゃんや素子やファインホースの女たちまでいそいそとつぎにきた。いつの間にかビールケースが三つ目にかかっている。酒も三本目だ。女たちの声が高いが、適量なのだろう酔いしれているというほどではない。遠いシートからラジカセの音や、黒田節が聞こえてきたりする。私はコップの酒をちびりとやり、ときたま落ちてくる花びらを眺める。
「そもそもこの場所はどういうものだったんですか」
 ビールをつぎにきた主人に尋くと、睦子たちも耳を寄せる。
「お城の北の沼地やったんですよ。江戸時代に少しばかり整地されて、おふけの庭と呼ばれる庭園になった。明治のころは、陸軍の練兵場として使われとった。戦後、都市計画で造成が始まったときはまだ一面の草野原で、ひばりがピーピー鳴いとった。掘られた池は浅くて、カエルの棲み家ですよ。伊勢湾台風のときは災害救助の基地になって、自衛隊のヘリが飛び交ってましたよ」
 ヒデさんが赤い顔でコップを傾け、
「でき立ての公園なんですね」
「ほうよ。そのころは名古屋まつりの花火が打ち上げられる場所にもなっとったが、だんだん野球グランドとかランニングコースが作られて、名古屋女子マラソンの招待選手が本番前の練習なんかしよった。いまの形に整備されてから七、八年も経っとらんな。池深く掘って噴水上げて、木植えて桜も植えて、いつの間にかこんなに立派になった」
 いつの間にかという変化は、かならず、楽しい大切なものを失ったあとの姿だ。もっとさびしい池のほとりにきて、なつかしい色合いの草原に茣蓙を敷いて、自生するめずらしい花を見つけたり、隣近所のドンチャン騒ぎを見つめたりしながら、せいぜい数十本の桜の下で花見酒を飲みたかった。……しかし抗わず呑みこまれていこう。
 重箱の隅にミョウガの一手間が残っていた。私はそれを箸でつまみ、甘い酢の味を嚙みしめた。
「ソテツ、おいしいよ」
 睦子たちもつまんだ。
「おいしい!」
 私はソテツにビールをついでやった。ソテツはクイと半分飲んだ。キッコが、
「ソテツちゃん、うれしそうやな」
「うれしいです。神無月さんが私のことを忘れてないから。……神無月さんはいつもだれのことも忘れませんけど、私もその一人でいるのがうれしいんです」
 ファインホースの男たちが目を見開いてソテツを見つめたが、ヒデさんが、
「私たちも忘れられてないのでうれしいです」
と言い、直人の手を引いて戻ってきた幣原が、
「私たちおばちゃんもぜったい忘れないんですよ。いつも声をかけてくれます」
と言うと、ホッとしたように視線を下ろした。主人が、
「さ、神無月さん、歌いこう!」
「はい、それじゃ、橋幸夫のすっ飛び野郎を唄います」
「いよ、拍手!」
 主人たちに釣られて、何ごとかと拍手が上がる。

  すっ飛び すっ飛び すっ飛び野郎  

 空に声が尖って昇り、ウオーという歓声とともに手拍子が始まる。

その先ゃ言うなよ わかってる
  旅のカラスでスーイスイ
  若くて強くて いい男
  鉄火娘もころりと惚れる

 みんなで声を合わせる。

  身軽で気軽で 腕が立つ
  やるなら何でも 命懸け
  あ、すっ飛びすっ飛び あ、すっ飛び野郎

 拍手。周りの花見客からも拍手。トモヨさんも拍手、直人もかわいい拍手をしながら私の膝に甘えかかる。
「はい、次お父さん!」
「おいきた」
二番を主人が渋い声で唄いだす。

  すっ飛びすっ飛び すっ飛び野郎
  人情にゃお弱い タチなんだ
  それも承知でスーイスイ
  道中合羽に 三度笠
  刀千本 降ろうとままよ

 みんなで張り上げる。

  身軽で気軽で 腕が立つ
  やるなら何でも 命懸け
  あ、すっ飛びすっ飛び あ、すっ飛び野郎

「三番、菅野さん!」
「おしゃ!」

  すっ飛びすっ飛び すっ飛び野郎
  隠密街道 七変化
  投げる手裏剣スーイスイ
  連続投げても 身をかわす
  勝負一本 待ったはなしさ

 いい声だ。名大生以外はみんな知っている歌だ。声を合わせる。

  身軽で気軽で 腕が立つ
  やるなら何でも 命懸け
  あ、すっ飛びすっ飛び あ、すっ飛び野郎

「いよう!」
「ナイスゥ!」
 大拍手。ほうぼうから指笛が飛んでくる。三人のすっ飛び野郎にビールをつぎにくる男がいる。ありがたく受ける。四囲のシートで歌声が上がりだした。睦子がその喧騒を楽しそうに眺めながら、
「花見のときにドンチャン騒ぎをするのは、田の神さまが桜の木に宿ってるからだと言われてます。古代の日本人は田植えの時期を桜の開花のころに決めていました」
 ヒデさんが、
「そうなんですか!」
「はい。田の神さまが降臨して桜の花を咲かせると考えていたんです。だから桜の木の下に酒や食べ物をお供えして神さまを歓迎する儀式を行ないました。儀式が終わるとお供えをみんなで飲んだり食べたりしたんです。飲めば楽しくなって、当然ドンチャン騒ぎになります。田のことをサと言います。サ苗のサです。苗を植える女性たちをサ乙女と言うでしょう? クラは神さまの座る場所。高天原(たかまがはら)の天孫の座のことを天、磐、座と書いてアマノイワクラと読みますし、天皇の位のことを高、御、座と書いてタカミクラと読みます」
 苗村が、
「それでサクラですか! なんかぼくも、田の神さまと桜に深い関係のある家系のような気がしてきました。きょうここにいるのは必然ですね」
「はい。苗村というのは天智天皇から賜ったとされている氏で、神主さんの家系です。苗字由来辞典で見たことがあります。珍しい苗字なので憶えてました。どんな苗字もだいたい清和天皇か桓武天皇から賜った氏ということになっていて、あまりあてになりませんけど、神無月という苗字は全国に数人しかいませんでした」
 メイ子が睦子に、
「静かに花見をしている人たちも多いですよね」
「はい。飲んで歌って騒ぐことをしない花見は、貴族の桜狩が起源です。千年以上のあいだに、それが入り混じってしまったんですね。どちらの花見もすてきです」
 富田が菅野に、
「こりゃすごいなあ。所長は毎日楽しいでしょう」
「底なしにね」



         三

 トモヨさんはカンナのおむつ替えにおおわらわだ。有志で遊歩道を一周することにする。主人夫婦とトモヨさんとソテツとイネと幣原がシートに残った。私は菅野と左右から直人の手を引いた。優子が並びかけ、
「ほんとにすてきなセーター。こんなに似合うとは思いませんでした。この冬は、紺のセーターを編んでみます」
「時間がないんじゃない? 簿記の勉強もあるし」
「勉強の時間なんかいくらでもあります。神無月さんのために使う時間がないほうがつらいです」
照れくさくなり、菅野に、
「一周どのくらいですか」
「千三百メートルです」
 おふけ池の端から色とりどりのツツジの咲く遊歩道に出る。かなりの賑やかさだ。ぶらぶら歩く人、自転車に乗る人、散歩する老人、ランニングする人、家族連れ、ベンチでボーッとしている人。芽吹きのヤナギ、鮮やかな黄色のレンギョウ、白の眩しい雪柳。足もとにタンポポがたくさん咲いている。百江が、
「名古屋でいちばん最初に咲く桜はオオカンザクラです。紅の濃い桜です。三月半ばが満開なので、観られなくて残念でしたね」
私は道端の梢を指差し、
「いや、あれも同じような色の寒緋桜だ。寒椿も少し残ってるよ」
 みんなで立ち止まって見つめる。
「あっちにはサンシュユの花が満開だし」
みんなで黄色い小花を見上げる。処々にチューリップの花壇があり、過剰な色を発散している。ハクモクレンの木が立っている。千鶴が、
「きれいなモクレンだがや。真っ白!」
「おとうちゃん、あっちもまっしろ」
「コブシだよ。ちっちゃくてきれいだね」
「あ、おおきいとり!」
 コブシの枝にからだを真っすぐ立てて止まっている。
「ヒヨドリ。三十センチもあるのに、スズメの仲間なんだ。椿の蜜が大好物でね、椿に寄ってくるほかの鳥を追っ払うんだ。飛ぶときは、こう、波を打つように飛ぶよ」
手まねをしてやる。緑陰に覆われた道に入る。少し奥まったところに野球場があったが立ち寄らない。道沿いの藤棚がすっかり色づいている。カズちゃんが、
「今年は少し早いわね」
「三尺藤か。早咲きの藤だ」
 幻想的な紫の滝をみんなでうっとりと見つめる。白やピンクの藤棚もあり、リレーのように次々と眺めていく。滑り台とブランコを備えた子供用の空き地があるが、直人は近づかない。イネが、
「背中押してやるすけ、あんべ」
 と言うとチョコチョコ走っていった。五分もしないうちに飽きて戻ってくる。大きな公衆便所があったので、どやどや入る。直人のズボンを下ろして小便をさせる。空き地の柵にネモフィラの花が咲き揃っている。すがすがしい水色に目を洗われながら、桜の下の陣地に戻る。
「そろそろ帰ろまい」
女将が主人に言う。
「ほうやな」
二時を回っている。酒は余っているが重箱が空になった。女たちがあと片づけにかかる。主人が、
「おーい、腰降ろして。松の木小唄で〆るぞ」
 みんなでひとかたまりに坐る。松の木小唄? 知らないな。手拍子だけ合わせよう。
「一番と三番と六番、いきます」
菅野が音頭をとって唄いだす。

  松の木ばかりが まつじゃない
  時計を見ながら ただ一人
  いまかいまかと 気をもんで
  あなた待つのも まつのうち

 女たちの声が浮き立つ。三番、六番を知っている人はほとんどいない。お座敷唄なので、主人夫婦、トモヨさん、優子、幣原、メイ子、それに菅野が声を合わせる。

  いやよいやよと 首を振る
  ほんとにいやかと 思ったら
  いやよいやよにも 裏がある
  捨てちゃいよと すがりつく

 名大生たちがケラケラ笑う。

  だめよだめよと 言ったけど
  きになるあなたの 顔の色
  出したその手を 引っこめて
  帰りゃせぬかと 気にかかる

「気にかかっても帰りますよォ」
 一同の笑い声で〆られる。五、六人の小学生たちが駆け寄ってきて、サインをねだる。
「バレてたの?」
 利発そうな子が、
「最初からわかってました。人間嫌いだけど、子供だけにはサインしてくれるってお父さんが言うから。さっきビール瓶を持ってきたでしょう?」
「ああ、あの人ね。そういうふうに言われてるの?」
「常識です」
「うれしい常識だなあ」
 ふたたび笑い声が上がる。すらすらと書いて渡すと、子供たちは喚声を上げながら走り戻っていった。父や母たちが遠くから辞儀をする。直人を腕に抱え載せる。ファインホースの男や女たちがシートを畳む。ソテツたちが風呂敷に包んだ重箱を提げる。主人と私と菅野はビールの空ケースと酒瓶とゴミ袋を持つ。足どりも軽くみんなで引き揚げた。
         †
 北村席に帰り着くと、ファインホースの面々は事務所に戻った。トモヨさんが少し声高に、
「ハイジャックですって! いまテレビでやってます」
 みんなでテレビの前に集まる。福岡板付空港に駐機している日本航空のジェット機がただ映し出されているだけだ。いつごろのフィルムかわからない。アナウンサーが聞き取りにくい声でゆっくりしゃべっている。
「今朝七時三十三分、羽田から福岡板付に向かった日本航空351便が武装グループによってハイジャックされました。同機は八時五十九分に板付空港に着陸し、そのまま北朝鮮のピョンヤンに向かうよう命令されましたが、燃料不足を理由に……交渉が行なわれ……石田機長の説得により……同意し……午後一時三十五分、人質の一部を解放することが合意に達し……女性や子供など二十三人が無事解放されました」
 そのときの映像が流される。
「同機は一時五十九分に北朝鮮に向かうべく飛び立ちましたが、犯人グループの人数およびその後の行方はわかっておりません。続報はのちほど夕方のニュースでお伝えします」
 みんなテレビの前を離れる。私はセーターと綿パンをジャージに着替えてから、直人を庭に連れ出し、ジャッキといっしょに芝でゴロゴロ戯れる。それから、菅野とランニングに出た。再開発に取り残された風通しのいい道を縫ってジグザグに走る。
「花見の宴会は初めてだったんでしょう?」
「はい。北村席は初めてです。私はタクシー会社で何度も経験ずみです」
さいとう外科内科、杉浦建設、奥村組、宗近工務店、やきとり竹橋、金時湯、いつもの環状線。もうどう走っても、どの道にも見覚えがある。
「神無月さんに喜んでほしくて、みんな必死です。すっ飛び野郎で喜びが最高になりました」
「ファインホースの人たちは、ぼくとソテツたちのことを知らないの?」
「何もかも知ってます。直人やカンナのことも、ムッちゃんたちが北村席に集まった理由も。神無月さんのことをよく知ってもらったうえで緘口令を敷いてあります。あなたたちが潰さなくても、周囲には神無月さんを潰したい人まみれだ、だからあえて加担するなと言ってあります。まあ、そんなことをしなくても、彼らは神無月さんの超人ぶりに腰を抜かしてますから、どんな事情も取るに足らないものに感じてるでしょう。東出は既婚者なので浮いたことは言いませんが、久世と日高は、私もお手付きにならないかしらと言ってるくらいです」
「もうだれにも手を付けませんよ」
「わかってます」
中村区役所前から道を渡ってしばらく走ると、早川模型、河合タバコ店、宝来ビリヤードと過ぎ、大門商店街にぶつかる。突っ切って、中村八幡社から鳥居通に出る。角の木村タバコ店から大鳥居に向かう。あとは太閤通を走り戻るだけだ。
「映画の配給の話はうまくいってますか」
「順調です。中日新聞社と中日本興業の肝煎りなので、何の問題もありません。館内従業員の紹介もしていただけることになっています。生川(なるかわ)建設さんの話では、当初の予定通り六月下旬には館と設備が完成するので、機材の組みこみ工事も含めて、上映開始までふた月はかからないでしょう。八月上旬の記念上映は松竹系のリバイバル映画をかけることになってます。中日本興業は松竹とトヨタが主要株主になってますんでね。たぶん、仲代達也の『人間の條件』です。二部抱き合わせで一週間上映して、三週間で六部完結まで」
「小林正樹なら、切腹と怪談でもいいな。しかしそこまで具体的な話が進んでるんですね。安心しました。配給関係者とぼくが対面する必要はありませんか」
「すべてファインホースで取り計らいます」
「よろしくお願いします」
 ランニングから帰ると、トモヨさんが、
「さきほど河北新報の戸館さんから、牛巻坂があしたの朝刊から連載開始という連絡がありました。二面の下段だそうです」
「そうだった、四月一日か。何度も思い出して、何度も忘れてた。新聞小説って挿絵はどこに書くの?」
「真ん中です。単行本化されると省かれます」
 菅野が、
「谷内六郎さんにはお礼の葉書を書いておきましたが、そうですか、単行本になると忘れられちゃうのか」
 主人が、
「しっかり切り抜かんとあかん」
 菅野とシャワーを浴びる。直人が飛びこんできたので、菅野が先に上がった。直人と湯船に浸かる。
「きょうは楽しかったか」
「うん、たのしかった。ごはん、ジュース、たくさんたべた。てるしゃんとべんてんばしいって、おさかな、すっぽんみた」
 おふけ池に架かっていたいた小橋のことのようだ。
「ひよどり、おおきかった」
「そうだったね。大きくてかわいかった」
 直人は私の下あごのホクロを触りながら、
「にんげんぎらいって、なに」
「人を嫌うこと。おとうちゃんはちがうよ。人間が好きだ。意地悪をしたり、不機嫌な人はいやだなって思うけど、そうでなければみんな大好きだよ」
「ぼく、いじわるしない」
「ああ、だれにも意地悪しない、とってもやさしい子だ。おとうちゃんは大好きだな」
「ぼくもおとうちゃんだいすき」
 湯を掬ってそっと髪を洗ってやる。幼児の髪を洗いすぎてはいけないと聞いている。湯殿に出て、直人の一日の汗を手のひらで流す。くるくると巻いたオチンチンがかわいらしい。愛しい子だ。おまえがいてくれてうれしい。
直人、生きていると、気に入ったことばかり起こるわけじゃない。仲よくしたいと思う人たちは、矛盾だらけで、非情なことが多いので、おまえを戸惑わせる。戸惑う自分を責めて、肩肘張って強がり、つらい目に遭うこともある。でも、つらい目に遭ったことにガッカリして、自分を見離しちゃいけない。ぜったい見離しちゃいけないよ。自分を見かぎってしまったら、もう人を愛するエネルギーがなくなるんだ。心から愛せる人はとても少ない。その人に遇えなくなる。人生で最高にうれしいことは、砂の中にダイヤを発見することだ。愛する人こそダイヤなんだよ。ぼくは一生懸命自分を見離さなかったから、運よく何粒かのダイヤを見つけることができた。おまえはその中の大きな一粒だ。おまえを見つけることができてうれしい。
「さ、上がってパズルでもやりなさい」
「うん」
 トモヨさんを呼ぶ。すぐにやってきて、直人のからだを拭く。パンツを穿かされた直人は座敷へ走っていく。トモヨさんは私のからだを拭きながら、
「きょうはご苦労さまでした。みんなを盛り上げていただいて、ありがとうございました」
「もっとドンチャンやるものなんだろうけど、勝手がわからなくて」
「いいえ、自然体で引っ張っていただきました」
「ぼくも少しは役に立ったんだね」
「役に立つなんて。……それ以上です。いつもみんなを救ってます」


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