第四部


三章 サンフランシスコ・ジャイアンツ




         一

 三月二十五日水曜日。八時十五分起床。寝床に私一人。カーテンを開けると小雪がチラついている。一・一度。音楽部屋にも花ござが敷いてあることを確かめる。追加注文をして手に入れたのだろう。あと四十五分で菅野がくる。まず排便。軟らかい。シャワー、歯磨き、最後に脱衣場の洗面台でうがい。廊下からカズちゃんが、
「キョウちゃん、いってくるわよ。朝ごはん用意してあるから」
「オッケー」
「ミステリー小説はアイリスの帰りに買っとく」
「ありがとう」
 中番の百江が残り、コーヒーを用意する。
「昨夜はありがとうございました。ランニングから戻ったら食事なさってください」
「うん」
 ジム部屋で三種の神器だけ三十回ずつやっておく。キッチンでコーヒーをすすりながら中日スポーツ。二十日に来日して、二十一日からの三日間、下関球場のダブルヘッダーを含め四戦して一勝三敗のジ軍の戦績が載っている。二十一日東京球場巨人戦5―6αで巨人、二十二日同東京球場ロッテ戦3―4(十二回サヨナラ)でロッテ、二十三日下関球場第一試合ロッテ戦6―3でジ軍、同第二試合大洋戦2―4αで大洋。惨憺たるものだ。
 写真は二つ、二十日夜の帝国ホテルでの歓迎会の様子と、東京球場での来日第一戦の試合開始前の様子。レセプションの写真には、ともに身長百九十三センチのマッコビーとアルトマンが手にグラスを持って談笑している姿が写っている。説明書きに〈右側はオリオンズの主砲助っ人アルトマン、左側は昨年四十五HR、百二十六打点で二冠王、チームが二位にも拘らずMVPに選ばれたマッコビー〉とある。

 アルトマンはシカゴ・カブス時代に、永久欠番14の四番打者アーニー・バンクスの五番を打ったほどで、年に一試合しかないオールスターに二度出場してHRまで打っているのだから、マッコビーと並んでも貫禄負けしていないように映るのはうなずけるところである。アルトマンのコメントが胸を打つ。
「日本には人種差別がない。私は大リーグで十一年間プレイしてきたが、人種差別の悲哀をいやというほど味わってきた。アットホームな気持ちでプレイしたことは一度もない。その点、人種差別のない日本では思い切りプレイできる」


 もう一つの写真。試合前の挨拶をするホスト主永田オーナーの後方、プラカードガールを先頭に、高校野球と見まがうようなたたずまいで、ロッテ、ジ軍、巨人の選手たちが整列している。場内を行進したのだろう。なんだか悲しい。

 今回認識を新たにしたのは、第一戦が巨人戦であったということである。ふつうなら招待資金を出したロッテにその資格があるというところだろうが、意外なことに巨人だった。これまで巨人がいくら申し入れても頑として東京球場を貸さなかった永田にしてみれば、これは本意ではない。関東地区におけるプロ野球中継の九割は巨人絡みという状況下で、永田が忸怩たる思いで開幕試合を譲ったであろうことは想像に難くない。
 とは言え、日米オープン戦全戦がテレビ中継されるということは、野球ファンにしてみれば東京球場をたっぷり堪能できるというわけで、わけても第二戦、もっとも脳裡に焼きついたのが偉大なマッコビーの放った右翼場外へ消える一発で、これは野球愛好家の至福な記憶となったし、不調なチーム事情に悩まされているとは言え、大リーガーの底力を示す象徴的なできごとともなった。
 あすはいよいよ、日本国の頼もしき金剛力士神無月に率いられる神軍中日ドラゴンズが出陣してジ軍を迎え撃つ。ドラゴンズには大リーガーをはるかに凌ぐ野球神神無月郷がいる―そう思うだけで胸が大きくふくらむ。ジ軍も必死で抵抗するだろう。しかしいまのジ軍の調子では、とんでもない大量被弾に悩まされることになりそうだ。

 

 小雪の中を菅野と凌雲寺へ。雪はアスファルトを濡らすだけだ。
「今年も広島移動がいちばんたいへんですね」
「はい。名古屋や大阪から広島まで飛行機が飛んでないので厄介です。羽田に戻って飛行機に乗るとしても、広島行にうまく接続できないときは待ちぼうけを食わされることになります。結局名古屋から新大阪へ新幹線で向かうしかない。在来線の二度か三度の乗換えも含めて八時間近くかかるので、名古屋を午前十時に出たとしても午後の六時ぐらいになります」
「一日仕事だなァ」
「グッタリ疲れるので、ぜったい前日にいって疲れをとらなくちゃいけない」
「本を読んだり、寝たりしながら、ですね」
「目をつぶってラジオカセットを聴くというのがいいんですが、持ち運ぶのにかさばるし、片耳イヤホンは長時間は聴けないし、イヤホンを外せばあたりに迷惑ですからね。……車中の読書は疲れますけど、結局、それしかないのかな」
 人が出歩いていないので走りやすい。いつもより発汗する。寒いが湿度のあるせいだろう。
「出会ってたった一年で、いろいろな人がいなくなります」
「浜野が最初でしたね」
「はい。島谷、田中勉、葛城さんがいなくなり、松本忍と外山博は見かけなくなりました」
「ひっそり退団したようですね」
「徳武さんと吉沢さんは二軍コーチになりましたし、小野さんと小川さんは来年いなくなります」
「その分新しい人も入ってきましたね。戸板、谷沢……」
「渋谷、渡辺司、松本幸行、川畑、佐藤。杉山コーチ、井上コーチ」
「そういう去就には、あえて無関心にならないと、五年十年、プロ生活はつづけられないかもしれませんね。神無月さんのいいところは身の周りを気にして、大所高所からものを見ないことです。日米野球なんかもあまり関心がないでしょう」
「たしかにないですね。日米日米って騒いでますけど、日本にしてもアメリカにしても一部すぐれた個人がいるだけで、野球そのものには差がない。長年、アメリカが日本に野球を教えにくるという色合いが強かったけど、もともと教えられる技術なんかないです。打ち方投げ方の技術は個人独自のものだし、一定のパワーがあれば、あとは技術の独自性を高める鍛錬しかない。日米野球は娯楽的な外交手段でしょう」
 シネマ・ホームタウンの工事が一階ホール部分にかかっていた。周囲に比べれば小ぶりなビルだが、丁寧な造りになるだろうと感じた。
 数寄屋門前で菅野と別れ、則武に戻ってシャワー。百江のおさんどんで朝食。アジの開き、目玉焼き、納豆、板海苔、ナスの味噌汁。百江もいっしょに食べる。
「きょうは洗濯物を部屋干ししますから、少し湿っぽくなります」
「気にならないよ。いま、世の中はどうなってる?」
「蒸気機関車を写真に撮るブームだそうです。鉄道の電化が進んで汽車ポッポが走らなくなるんですって」
「ふうん、ほかには?」
「早稲田大学の文学部を革マルという暴力集団が牛耳ってるという記事が、毎日新聞に載ってました」
「……革命って何だろうね。日本帝国主義打倒、マルクス主義、左翼、右翼か。ぼくには一生わからない。高校生まで騒いでいるというけど」
「旭丘高校で学生たちが集会を開いて、制服制度を廃止させたそうです」
「制服に象徴されるものが日本帝国主義なわけ? 学生服やセーラー服のデザインは、とても美しいと思うな。流行に乗って騒ぐのも個人の趣味だからとやかく言うつもりはないけど、糾弾される側にかならず理解者が現れるという構図がいやだな。文化人というやつら。……少し書く」
「はい。ポットを机に用意しておきました」
 牛巻坂第九章にかかる。夏休み、野球部の夏季練習、節子に逢う算段。思想や風潮と関係のない虚構に虚構を重ねていく。節子と康男と加藤雅江、浅野と母、そして飯場の社員のみ。カズちゃんの存在は抹消する。大切すぎて、畏れ多くて、書けない。彼女のことは、いつか別の物語を設定して書く。
 十一時半。百江といっしょに出る。雪が霧雨に変わっている。
「ちょっと散髪していく」
「はい。四時半ごろ席にまいります。東奥さんにお会いするの楽しみです」
         †
 散髪から戻ると、名大生たちが一眼の高級そうなカメラを手渡し合いながら談笑している。早番から上がった優子と、カンナを抱いたトモヨさんも加わっている。
「カメラ買ったんだね」
 千佳子が、
「四人でお金出し合って買いました。いままでのインスタントものだと、固定焦点の広角レンズで、原始的な自動露出なのでよくブレるんです」
「……よくわからないけど。それは?」
「ニコンF。ピント合わせが正確にできるし、視野率パーセントだし、ほかにもいろいろすごい機能がついてます」
「高かったろう」
 睦子が、
「七万九千三百円。これから何年も使うことを考えたら廉いものです。援助しないでくださいね。うれしさが半減しますから」
 主人が、
「ワシも菅ちゃんもニコンFや。完全自動絞りやから、視野が明るい」
「シャッターが極薄のチタン幕なんですよ。素人が使う最高級機です」
 雪が上がり、庭にカッと日が照りはじめた。賄いたちが洗濯場へ急ぐ。洗濯機を回して厨房に戻ってくる。ヨシダさんとかシドさんと呼び合っている。志度と書くのだろうか。キッコに、
「賄いさんてぜんぶで何人いるんだっけ?」
「十一人です。住みこみが三人、かよいが四人」
「八人くらいだと思ってた」
「ソテツちゃんたちのほかは目立たない人ばかりやさかい」
 千佳子が、
「私も住みこみの人しか名前を知らないわ。志村さん、シドさん、吉田さん」
「シドってめずらしい名前だね」
 キッコが、
「支えるの支に温度の度。支度さんはきれいやわ」
 主人が、
「直美が? ほうか? 茶屋に出とったころはいっこうに売れんかったで」
 女将が、
「大倉千代子に似とるな。小っちゃくて、控えめな顔しとる」
「それ、だれですか」
「無声映画のころの女優や。なにわエレジーゆう映画で、山田五十鈴の妹役で出とった」
 トモヨさんが、
「双葉山の愛人として有名ですよ」
 ヒデさんが、
「昭和十年ごろの映画ですね。母が観たと言ってました。私は観てませんが、浪華悲歌は溝口健二の傑作と言われてます。思うんですけど、昔の女優って華がありました。妖しく輝く存在感……。貴重な存在だったから華が出やすかったんだと思います。いまは手軽にテレビに出たりするので身近になって、神秘性がなくなっちゃったんですね」
「女優でない北村の女性たちにも、女優以上に妖しく輝く存在感があるよ」
「はい、そう思います。私も含めて」
 キャッキャと笑い合う。睦子が、
「外人と京マチ子を足したような和子さんがいちばんですね。それからトモヨさん」
「異議なし!」
 トモヨさんが恥ずかしそうに台所へいく。畳を這いずり回っているカンナを優子が抱き上げる。何者かと思うほど愛らしい顔をしている。思わず近寄って唇を寄せると、その唇をつかまれた。主人が、
「二年後は七五三やな」
「今年じゃなかったんですね」
「男の子は五歳と決まっとるでな。再来年の十一月や」
 女将が、
「二年なんてあっという間やよ」


         二 

 昼食になる。豚玉のお好み焼きとソース焼きそば、明石焼き、豚汁、ライス。
「縁日ふうだね。うまい!」
 チャイムが鳴り、幣原が門に出ていく。やがて発泡スチロールの箱を抱えて戻ってきて、
「竹園旅館からビーフシチューが届きました」
「ぼくはいい。みんなで食べて」
 さっそくレンジでチンをしたビーフシチューが食卓に加わる。主人が、
「こりゃうまい!」
 みんなでうまいうまいを連発する。ソテツが、
「それで三人前です。一袋に二人前くらい入ってるので」
「厨房でも分け合って食べてね」
「はい、二袋くらいいただきます」
 一時。陽射しがさらに強くなってきた。主人と菅野が一回目の見回りに出る。女将とソテツと幣原が帳場に入る。賄いたちがまた洗濯場に急ぐ。千佳子が、
「私たちのもチャッカリいっしょに洗ってもらってるんです。干し物の取りこみは自分でしますけど。……わ、ムズムズしてきちゃった」
 キッコが、
「あんたら、もう相当あいだ空いとるんやない? いいかげんがまんせんとき。ええやろ? 神無月さん」
「うん、いいよ」
 睦子がニッコリ笑って、
「私はあしたの夜にしてもらいます。まだがまんできますから。千佳ちゃん、いってらっしゃい。がまんしないのが千佳ちゃんのいいところよ」
「うん。図々しいけど、神無月くん、お願いします」
 二階の千佳子の部屋にいき、五分ほど丁寧に愛撫し、一潮迎えたあと三分ほどで行為を終えた。千佳子は十二分に満足し、私と腕を組んで座敷に降りた。睦子に、
「私、なんだか恥ずかしい」
「恥ずかしくなんかないわ。自分の欲望に素直なだけ。ときどき私も見習ってるのよ。……でもセックスは、私にとってはとても神聖なものなの。郷さんは私が神聖だと思うことをしょっちゅう手軽にやってる人じゃない。そういう人だと誤解されたくないの。大勢の女の人とセックスをすること自体、ぜったい悪いことじゃない。それが男の人の本能だから。反対に一人の愛する男を選んでセックスをするのは女の本能よ。大勢の女の人をエコ贔屓しないで愛することのできる郷さんにとっても、郷さんだけをエコ贔屓して愛する私たちにとっても、いまの状態は理想に近いことだと思う。ただこの世界は理想郷じゃないから、多情だと思われたら辱めを受ける人はたくさんいるわ。いいとか悪いとかじゃなく、それが現実なの。郷さんには現実に苦しめられてほしくない」
 優子が、
「もっとこっそり秘密にやらなくちゃということですね」
「そう。おたがいに現実に曝される機会を減らすということです」
「わかったわ。ごめんなさい、神無月くん。してもらったあとで虫がいいけど、これからは十分気をつけます」
「ぼくはどうでもいいよ。いやなときはちゃんと断るから」
 ヒデさんが、
「郷さんは断りません。だからこそ私たちが自重しないと」
 キッコが、
「私も迂闊やったわ。ごめんな千佳ちゃん、けしかけるようなことして」
「ううん、何も考えずにいい思いをして、ほんとに恥ずかしい」
「だれも反省する必要はないよ。ぼくは人を喜ばせようとして躍起になってるところがある。野球と同じようにね。女の人を相手にするとき、唯一の口実は、こういうことをするのは自分の性欲が相手よりも強いせいだというものなんだ。高校の一時期以来、自発的に性欲が発動されることはまったくと言っていいほどないけど、愛する女に求められると、喜ばせたいという気持ちが湧き上がって性欲がすぐに発動する。結局ぼくもいい思いをするわけだ」
 睦子が、
「いいえ、私たちが満足したのを見届けると射精をしないで終わることもよくあります。いい思いをしてるのは私たちのほうです」
 優子がうなずいている。
「そういう場合もたまにあるかもしれないけど……。ぼくがすまないと思うのは、ほとんどぼくのほうからセックスを持ちかけることがないことなんだ。強姦魔になれるほどの面も持った男じゃないと、男女のセックスのバランスはとれないんじゃないかな。でも、一方的な性欲を押しつけるのは人間として恥ずかしいことだ。愛し合ってるなら恥ずかしさは分け合わないと。これからは、ぼくのほうからもどんどん持ちかけるようにしようと思う」
「そうやってあたしらを救ってくれるんやな。もうこの話はやめにしよ。神無月さんがあたしらを責めんさかい、きりがないわ」
 台所からやってきたトモヨさんが畳からカンナを抱き上げ、
「きょうは早めに直人を迎えにいってきます。帰りに日赤で耳垢を取ってもらってきますから、帰るのは三時を回ると思います。―聞いてましたよ。千佳ちゃんのような女がいて、ムッちゃんのような女もいる。ああいう女がいて、こういう女もいる。それが郷くんの喜びなんですよ。何ごとも郷くんのコンディションにまかせたらどうかしら。ときどきムッちゃんのような自制心を持ちながらね」
 カンナを優子に預けてトモヨさんが出かけると、千佳子が、
「フィルムとカメラを買うので予定外の時間を使っちゃったから、いまからサークル紹介にいってこようか」
 睦子が、
「そうね、早いうちにすることをしておかないと、あとが詰まってくるわね。帰りに大須観音に寄ってくる? ヒデちゃんまだいってないでしょう」
「はい、映画館街というのも見てみたいです」
 話が決まるとみんなで風のように出ていった。テレビを点けると、CBCで日米野球をやっている。カンナを畳みに遊ばせ、優子と二人で観る。大阪球場のダブルヘッダーのようだ。第一試合のロッテ戦が終盤にかかっている。
 七回裏、ロッテの攻撃。日米戦はむかしからホームチームである日本が後攻をとる。ここまで二対ゼロでジ軍リード。先発の成田が三番のメイズと五番のディーツ適時打を打たれ、それ以降を平岡が抑えている。ジ軍のピッチャーは三年前にサイ・ヤング賞を獲ったサウスポーのマイク・マコーミック。榎本三振、ロペス三遊間内野安打、醍醐ショートフライ、平岡セカンドゴロ。
 八回表。一番ボンズ三振、二番ハントレフトフライ、三番メイズセンターフライ。おいおい、平岡ごときに? 
 八回裏。千田ライトフライ、山崎セカンドゴロ、池辺レフト前ヒット、有藤三振。
 九回表。ロッテのピッチャー八木沢に交代。四番ヘンダーソンピッチャーゴロ。五番ディーツ三振、六番フエンテスサードゴロ。なんという試合だ。
 九回裏。榎本ファーストゴロ、醍醐ショートゴロ、ロペスセンターフライ、二対ゼロのまま試合終了。
 新聞の番組表を見ると、三時二十分から第二試合南海戦となっている。観ても胸が躍らないとわかっているが、チャンネルを番組表どおり東海テレビに切り替える。スターティングメンバーを発表している。ジ軍一番からセカンドメーソン、ショートヘイズ、センターゴスガー、レフトハート、ライトテーラー、キャッチャーハイアット、サードギャラガー、ファースト鈴木弘。こいつか。二メートルもあろうかという特徴のない大男。ピッチャーはロン・ブライアント。ほぼ全員二線級だとわかる。ロッテのスタメンは、センター島野、セカンド青野、サード富田、ファーストジョーンズ、レフト柳田、ライト門田、ショートゴロ藤原、キャッチャー柴田、ピッチャー皆川。こちらもまちがいなく二線級だ。
 試合が始まり、一回の表裏両チーム無得点。優子は音楽部屋でカンナのおむつを取り替える。それからもう一度畳に遊ばせる。賄いたちも何人かやってきていっしょに遊ぶ。
 二回の裏に二塁打で出た藤原を置いて柴田の適時打で一点入った。皆川三振、島野センター前ヒットでワンアウト一、二塁。青野ショートゴロゲッツー。
 三回表。ギャラガーライト前ヒット、左バッター鈴木弘ノロリと三振、ブライアント三振、メーソンセンター前ヒット、ヘイズサードゴロ。
 三回裏。富田セカンドゴロ、ジョーンズ、柳田、門田、藤原と連続単打で二点加える。そこへトモヨさんと直人が帰ってきた。もう観たくないのでテレビを消す。
「こんなおおきなのがでた」
 直人が両手を広げる。
「ほんとに大きかったんですよ。ズルッと出ました」
「持って帰った?」
「その場で捨てられてしまいました」
 主人と菅野が帰り、テレビを点ける。ゼロ対四になっている。
「弱いですねえ、アメリカ」
「二軍は日本のほうが上か」
「あしたの興味は神無月さんのホームランだけですね」
「最強メンバーをぶつけてくるやろ」
 四時半過ぎに東奥日報の四人がやってきた。私と菅野が門に出て迎える。南部煎餅の紙袋を提げた浜中、肩にカメラの恩田、肩にデンスケの田代、手に大きなビデオレコーダーをぶら提げた丹生。久闊を叙し合いながら一人ひとりと握手する。庭を走って飛びついてくるジャッキの頭や腹を四人で交互に撫でる。
「立派な秋田犬ですね」
「雑種です。ジャッキという名前です」
「その名前、五百野に出てきませんでしたか」
「はい、書きました」
 玄関に並んだ一家が挨拶する。
「いらっちゃい!」
 直人も彼らに飛びついてきた。四人で交互に抱き上げる。恩田がさっそくシャッターを切る。
「ビール、ビール」
 主人の催促に、座敷のテーブルにビール瓶が並び、枝豆が盛られる。優子や幣原たちがビールをついでいく。みんなグラスを合わせ、
「おひさしぶりです。カンパイ!」
 四人と直人にビーフシチューが振舞われる。カンナにはソースだけ。大きなジャッキにも散歩前にシチューに混ぜた大盛りの冷めしが与えられた。食い終えるのを待って幣原が連れて出る。
「あしたの予定は?」
 浜中はうまそうにシチューを口に運びながら、
「まず試合前のジ軍のベンチインタビューです。社会部から清水目という英語を話せる記者が球場にくることになってます。主にマッコビーとメイズとマリシャルに日本の野球について質問します。それから試合終了後、手短に印象を聞きます。清水目がジ軍の広報とチャーリー・フォックス監督に了解をとりました。そのほかはずっと神無月さんに密着して撮影したり、取材したりします。もちろん仕事のじゃまをしないようにいたしますのでご安心ください」
 恩田が、
「日本でいちばん早くスカウト活動を行なったのは、サンフランシスコ・ジャイアンツです」
 菅野が、
「そうなんですか。知りませんでした」
「六年前、東京オリンピックの年に、ジ軍の極東担当スカウトだったキャビ―原田という日系アメリカ人が、野球留学中の村上雅則を南海ホークスから獲得しました。また今年の正月、大東文化大の長身の大型一塁手鈴木弘とマイナー契約を結びました。鈴木は今回も帯同してきているはずです。サンフランシスコ・ジャイアンツだけじゃなく、ミルウォーキー・ブルワーズとトロント・ブルージェイズは常に日本にスカウトを送りこんでます。特にブルワーズは日本で妻帯してスカウティングしているレイ・ポイテビントという人物がいます。小山オーナーも強い拒否の姿勢に出てますし、三年前に結ばれた紳士協定がありますから深い心配はしていないんですが、ひょっとしたことでそんなやつらの作戦に引っかかったらたいへんだと危惧してます。神無月さんに対しては金に糸目をつけないでしょうから」
「だいじょうぶですよ。いやがってる人間をさらってはいかないでしょう」


         三

 百江が帰ってきて台所に入った。活気のある人声や物音が聞こえてきた。浜中が、
「五百野の出版おめでとうございます。感涙にむせびながら読みました。読み終えた日は社を一日欠勤して寝てました。中日新聞さんに連載されていたときにも読んでおりましたが、一冊の本として一気に読むと感動もひとしおでした。……四月からの河北新報さんでの牛巻坂連載開始、期待しております。河北新報さんと中日新聞さんはうちの提携紙ですが、小説は提携掲載できません」
「がんばります。すべてこしらえものです」
 丹生が、
「事実と真実の見極めは大したことじゃないと思います。要は作品の完成度です。五百野はすばらしいものでした」
 浜中が、
「ついては、わが社にも一本、いつでもよろしいですから、小説の連載を考えていただけないでしょうか」
「来年以降なら、いつからと決められませんけど書けます。文章を書くことで日々の時間の使い方が定まるので、生き延びる糧になります」
「約束をいただけただけでじゅうぶんです。神無月さんの文章は心を洗いますから」
 幣原とジャッキといっしょに名大生たちが帰ってきた。
「おお! 華やかですね」
 睦子と千佳子が、
「こんにちは、おひさしぶりです」
「あ、どうも」
 四人が同時に頭を下げる。ヒデさんが、
「野辺地の種畜場の中島秀子です」
「ああ、去年取材にいきましたね」
「はい、今年名大に入りました。北村席さんにお世話になることになりました」
 キッコが、
「トルコ嬢上がりの大胡季子です。あたしも今年から名大生になりました。大出世やよ。ごっつう勉強したわ」
 千佳子が、
「定時制入って、大検とって、たった何カ月か勉強して受かった天才」
「二人の家庭教師がよかったさかい」
 恩田が、
「また瞠目ものの話がここには転がってますね。丹生、早く慣れろよ」
「何年経っても慣れません」
 私はヒデさんに、
「クラブ決まった?」
「はい、映画サークルです。五月から金曜日の上映会だけ参加することにします」
「あたしは文芸サークル。月に一回の読書会だけに参加することにした。これからは自分でどんどん本を読むわ」
 女将が東奥日報の記者たちに、
「みなさんおいくつになったの」
 浜中が、
「三十六です」
 恩田、田代、丹生がそれぞれ、二十七、三十、二十四と答える。浜中が、
「丹生以外は全員家庭持ちです。私と田代は子持ち。私は一姫二太郎、田代は一太郎です」
 田代が、
「これまで独身とウソをついてたかもしれませんが、悪しからず。余計なお気遣いをしてほしくなかったもので。みなさん気持ちの細やかなかたばかりですのでね。だから家庭の話はここまでです」
 菅野が、
「住所をお聞かせください」
「ほら、そういうふうにね」
「いや、処理し切れなくなった景品を送るだけです」
 彼らは苦笑いしながら住所を告げた。丹生だけは浅虫寮、ほかの三人は青森市内の社宅だった。直人のリクエストで、テーブルに南部煎餅が出る。直人は砂糖煎餅に飛びつく。 五時半に近く菅野がもう一度テレビを点けると、七回表ツーアウト、ゼロ対九で南海の勝ちが決まりかけていた。南海のピッチャーは村上雅則だった。中継が打ち切られた。トモヨさんがチャンネルをパーマンに切り替える。直人が煎餅をぺろぺろ舐めながら画面にかじりつく。
 夕食のテーブルが整いはじめたころ、カズちゃんたち三人が帰ってきた。
「あ、いらっしゃい。遠路ごくろうさま。あしたよろしくお願いしますね。きょうはゆっくりしていってください」
「ありがとうございます。そうさせていただきます」
「はいキョウちゃん、お昼に買っといたわ。じっくり読めば一年もつんじゃない? ただ推理小説はどうしても途中で飽きちゃうから、そのときは無理しないで栞を挟むことね」
 直人を連れてカラスの行水にいく。丹生が、
「何ですか? 僧正殺人事件、幻の女、マルタの鷹? ああ、たしかにこれはぜんぶ飽きます。謎解きが荒っぽいですからね。私からも紹介しときましょう。もっと緻密でおもしろいですよ」
 すらすらと手帳に書く。破って渡した紙に、〈アクロイド殺人事件、アガサ・クリスティ、出版社多数〉と書いてあった。西高時代に読んだような気もしたが、礼を言ってポケットにしまった。カズちゃんたちと直人が十分かそこらで戻ってきた。男たちがビールを切り上げる。竹園のビーフシチューが、味つけを変え、嵩を加えて、食前スープのようにみんなに振舞われる。こっちのほうがずっとうまかった。ソテツが、
「これで最後です。一応みなさんのお口に入ったので、神無月さんもうれしいでしょう」
 刺身、煮魚といった海のものを中心に、いつもどおり豪華な食卓になった。キンメの煮魚は子供たちの好物だ。私は煮くたしたショウガが好きだ。浜中に、
「野辺地や青森のインタビュー記事は一段落したんでしょう?」
「はい、夏ごろに。それからは追跡特集記事を断続的につづけてます。発行のつど、東京の飛島寮のお母さん宛てに三部送ってます。次回の特集は日米野球です。折々の音声やビデオは青森放送、青森テレビで放送されます。四月一日から青森放送で日本初のローカルワイドニュースが始まりますが、主にそこで流される予定です。うちの発信する放送の一部は関東、東海、近畿、中国地方にもネット受けされますので、独自制作の神無月さんの情報が全国に流れることになります」
 田代がそっとデンスケのスイッチを入れる。カズちゃんが、
「律儀ねえ、東奥日報さんは。キョウちゃんのお母さんは読まないと思うわよ。社員の人たちは読むでしょうけど」
「私なりに、神無月さんを世間並の孝行息子にしておきたいと思うからでしょうね。時間が経つにつれて、少しお母さんが哀れになってきましてね」
「わかるけど、キョウちゃんも精いっぱいお母さんのことを思いやってる気がするの。もうかけらも怨んでないみたいだから。……思いやると言っても、哀れに思うほど心を寄せることはないでしょうけど」
「ここまでの神無月さんの道のりを考えると、怨みは消えないと思うんです。ただ私は、お母さんのような人たちは、神無月さんが大きな度量で克服しなければいけない人たちと捉えてます。ずっと忘れないようにすべき人たちだと思ってます」
 浜中が言うと恩田が、
「この一年、日本一の著名人である神無月さんが群衆に囲まれたという記事や映像がほとんど飛びこんでこないのが不思議です。きっと、たとえ他人でもお母さんのように神無月さんを毛嫌いしてる人が多いからだと思うんです。私どものように神無月さんを心から好きな人間にはその気持ちは不可解です。解明できない気がします。でも、神無月さんはそんなことにごくあたりまえのように耐えていく人なんだと思うと、なんだか寒けがするほどうれしいんです」
「たぶん深い意味はないですね。大勢の人びとと反対に、もてはやされることが性に合わないからです。ほとんどの野球選手ももてはやされたいと思って生きてます。それと反対の雰囲気をただよわせたら、人はバカらしくなってもてはやしません。そんなわけで野球選手としての人気度も低いです。となると庶民の代表のマスコミにも徹底して軽んじられることになります。そう言えば、浅井慎平という目立ちたがり屋の売れっ子カメラマン、東京の受賞会場にくると言ってましたが、見かけました?」
「いえ、見ませんでした」
「ね、そういうことです。心を痛めることはありません。軽んじられれば、ちょっかいを出されることもない。日々とてもすごしやすいですよ。あしたの朝は記者たちがたむろします。イベントですから。ぼくを軽んじる以前に、大衆はお祭りが大好きなんですよ。その参加者には少々声をかけてあげないと、ということです。声をかけた結果のぼくの答えなんか気にしてないです。だから答えはただ一つでいい。―がんばります」
「もてはやさないのに、無言で見守る人たちも大勢います」
「そうです。愛のある人はもてはやしません。ひたすら信じて励まします。おっしゃるとおり、見守ってくれてる人の数はもてはやす人の数に引けを取らない。もちろん、だからこそぼくは心丈夫に生きていけるんです。その数の出発点は北村席です」
 賑やかにおさんどんが進む。浜中が、
「蒲原雄介さんというカメラマンが、このキャンプのころからときどきわが社宛てに〈貴紙の一ファン〉という差出人名で、神無月さんの写真を送ってくれてます。かならず寸志をお送りしてましたが、四、五度目からは謝礼不要と書いてきました。ひょっとしてご存じですか?」
「あなたたちと同様、いつもぼくを見守ってくれてるフリーのカメラマンです。中日球場の外野グランドで柔軟体操をしていたとき、ひょっこり近づいてきて、横たわりながらぼくを撮ったんですよ。それがきっかけで知り合いになりました。詳しいことは知りませんが、主に中日新聞にいろいろなスポーツ写真を送って生計を立てているようです。高輪にもきてくれたと記憶しています」
 主人が、
「折があったら、今度呼んだげよまい」
 賄いたちが奥のテーブルについた。百江とメイ子がおさんどに立つ。歌謡番組の途中で直人のコックリが始まった。浜中がトモヨさんに、
「直人くんはそろそろ三歳ですね」
「はい。カンナは八カ月」
「神無月さん、お子さんを見てるのはどんな感じですか」
「愛らしさを尊敬します。精神よりも姿かたちの。……血族とか他人という感じを超越してます。女愛、友人愛、子供愛は一括できない別物です。女には好感の持てる女がすべて含まれますし、友人愛には親しい仲間のすべてが含まれますし、子供愛には好感の持てるすべての子供が含まれます。そしてそれぞれが別の範疇の愛情です。好感の持てない個人はすべての範疇の愛の対象から除かれます。ぼくには家族愛のような理屈抜きの博愛がありません。好感という理由が必要です。そのことを子供を持って初めて痛感しました。女にはない情緒だろうと思います」
 トモヨさんが、
「私も子供も郷くんから愛されているということね。人間冥利に尽きます」
 直人を子供椅子から抱き上げ、
「ちょっと歯を磨いて寝かせてきます」
 イネもカンナを抱いて離れへついていく。キッコが東海テレビのクイズグランプリにチャンネルを替えた。丹生が、
「あ、これ、青森放送でもやってます。クイズグランプリ、スター千一夜とつづくんですよね」
 男連中がビールに戻り、しばみんなでしテレビに興じる。カズちゃんや睦子たちも少しビールを相伴する。ホタテバターと枝豆がつまみで出る。浜中が、
「今回の日米野球は盛り上がってないようです。初日の東京球場こそ二万六千人でしたが、二日目の東京球場は一万九千人、おとといの下関球場は一万一千人、きょうの大阪球場は一万人を切りました。でもあしたの中日球場は三万五千人を超えると予想されてます。ロッテ主催ということもあるんでしょうが、長嶋プラス王のインパクトより、天馬率いるドラゴンズ軍団のインパクトのほうがはるかに大きいということを証明してます。神無月さんは野球をホームラン中心の本来の姿に戻したんです。王がその気配をプッシュしてきたんですが、まだまだ打率重視の時代がつづいてましたからね」
 千佳子が、
「甲子園野球こそ本物だという人たちは姿を消さないと思います」
 菅野が、
「あえてそう主張する人は少なからず存在しつづけるでしょうね。野球場に内野安打やバントやスクイズを観にいく人。現実だと信じて華々しさを楽しめばいいのに、人間がそんなに能力があるとは思えないんですよ。彼らは華々しいことに対しては眉に唾をつけますからね。それで作戦でいこうとなる。興味が勝ち負けにしかないんです。華々しいものは相当強力でないかぎり作戦に弱い。弱ければ負ける。ほらおまえのほうが弱いだろうということになる。中日ドラゴンズは〈相当強力〉なチームとして出現したんです。適当に王のようにホームランを打って、あとは作戦で勝ち進むというチームじゃないんです。チマチマした作戦を蹴散らしてしまう。そりゃ作戦で生きてきた人間はシャクでしょうね」
 私はまじめに、
「遠くへ打つ、猛烈な打球を飛ばす、速い球を投げる、目覚ましい変化球を投げる、そういう野球本来の喜びを幼いころから実感してこなかったからです。三角ベースのころでさえ、ただ投げて打って走るだけだったでしょう。そこへ徐々に才能が加わって、四角ベースになる。才能ある者はだんだん三角ベースから切り離されていく。残された人たちの最も憎むものは才能です。四角ベースへ選ばれて進んでいった才能ある人は、それを宿命と思って受け入れないと」
 睦子が、
「手放しで喜んでくれる人だけを見つめて生きればいいということですね」
 カズちゃんが、
「そのとおりよ。才能を示し合い、協力し合って、思うとおりに野球をすればいいの。十人のうち七人はそういう野球を楽しんでるから」



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