四

 ヒデさんが、
「ホームランという絶対的に美しいものを作り出せるのに、どうしてここまで悩まなくちゃいけないんですか。勉強というのは才能が要りませんから、だれでも自分にだってできるという気持ちがあるので、たくさん得点していい成績をとる人はやっかまれてガリ勉と言われますけど、ホームランをたくさん打つことは飛び抜けた才能がなければできないでしょう? ガリ振りとかまちがっても言われません。自分にできないことにふるえるからです」
 かが
「難癖をつける人たちには嫉妬の団結力という権力があるからやっかいだけど、無視すればすべて終わりよ」
 睦子が、
「賛成。ほんとにおかしいですよね。歌がうまくても、楽器がうまくても、うますぎると言われないのに、いいえ、足が速くても、守備がうまくても、肩が強くても、やりすぎだと言われないのに、どうしてホームランだけはやっかまれるんでしょうね。わからないわ」
「キョウちゃんの言う宿命だと思って、わからないままでいましょ。川上監督は長嶋とウマが合うけど、王とはしっくりいってないそうよ。まさかと思うけど、川上監督も長嶋もやっかむ側で、王はやっかまれる側なのね。すごいものや美しいものをやっかむ心理は学問的に研究されてないし、本質的すぎて研究しちゃいけないことなんだと思うわ」
 主人が、
「タブーだから宿命か。なるほどな」
 トモヨさんとイネが戻ってきて茶に加わった。食事を終えた賄いたちが皿鉢を手に台所へ退がる。彼女たちのおさんどんをしていた百江とメイ子がコーヒーをいれる。素子が、
「東奥さんは、キョウちゃん関係の仕事をしとらんときも忙しいんやろう? ふだんどんな仕事をしとるん」
 九時。キッコがチャンネルをコント55号の野球ケンに替える。この一年よほどテレビに飢えていたのだろう。
「県内のスポーツに関する取材をして、と言っても得意分野というのがありますから、もっぱら野球の記事を書いてます。試合観戦、選手へのインタビュー、野球関係の最新の情報や知識を身につけたり、それに関連するニュースや記事に目を通したりします。プロですから細かい独学が必要です」
 恩田が、
「さっきのホームランの話をぶり返しますけど、もちろん嫉妬というのもあるでしょうが、見くだされてるように感じるために苛立つということもあるんじゃないですかね。テレビコマーシャルに、隣の車が小さく見えます、というのがあるでしょう。車を持つこと、つまりホームランを打つこと自体ふつうの人間には羨ましいことのわけなのに、それに輪をかけて、隣の車が小さく見えると言われると、どれほど大きな車に乗ってるやつだ、どれほどたくさんホームランを打つやつだとなって、羨ましさが苛立ちや怒りに変わるわけです」
 主人が、
「明解やな。それも宿命やろう」
 菅野が、
「いろいろなことを言っても、結局みなさん、強くて美しいものに人気のないことが口惜しいんですよ。私も口惜しいです。でも神無月さんはぜんぜん口惜しくないんです。いっしょに口惜しがってもらいたいでしょうけど、叶わぬ願いですよ」
女将が、
「こらこら、いいかげんなところで切り上げて、お風呂入って寝りゃあよ。あしたは大事な仕事でしょう」
 千佳子が、
「はーい、仕事はありませんけどお風呂に入ります」
「私どもはそのあとでいただきます」
 名大生たちが立ち上がると、田代がデンスケを切った。キッコは腰を落ち着けてチャンネルを国際バレーボール大会に切り替える。千佳子が、
「キッコちゃんお風呂いくわよ」
「うん、あたし最後に入る。きょうはテレビを観るわ。あしたからびっしり読書してくつもりやさかい」
 睦子が、
「十二時まで付き合うわ。お風呂入ってくるから待ってて」
「うん、ゆっくり入ってといで」
「じゃ、私たちも帰ろか。おかあさんもトモヨさんも何してるの。さっさと寝なさい」
 二人は笑い合い、
「うちらは居間で『時間ですよ』を観るんよ。な、トモヨ」
「はい。水曜日の必見番組です」
 イネも幣原もいっしょにうなずく。主人が、
「ワシらは十時から見回りや」
「だいたい一日三回、六時間ごとですね」
 私が言うと、
「時間は決めとらんです。一回のこともあるし、三回のこともあるしな。ヤングとシニアの面接が週に一度はあるんで、こまめに顔出さんわけにはいかん。ワシらがいくと松葉さんが引き締まるし、松葉さんが引き締まると従業員が引き締まる」
「私はその足で帰ります。11PMを観て、ご就寝。ゴマ煎餅何枚かもらっていっていいですか」
「一袋持っていきゃあ」
「ありがとうございます。大好物なんですよ」
 浜中が、
「定期的に北村席さんにお送りしましょう。来月さっそく送ります」
 私は立ち上がり、
「じゃ、あしたお会いします」
「よろしくお願いします。試合もしっかり拝見させていただきます」
 全員で頭を下げる。
「じゃ菅野さん、きょうはゆっくり睡眠をとるので、あしたはランニングはなしということで」
「ほーい。フリーバッティングは十時四十五分からですから、ここを十時に出ますよ」
「わかりました」
 いつもの夜道にホッとする。カズちゃんに、
「毎週面接やってるんだね」
「そう。上り坂の業界だから。月に三、四人は面接しにくるの」
「その中から一人くらい?」
「多くて二人ね。一種の救済雇用だから、ほとんどシニアね。四十歳から六十歳くらい。若い子は二、三カ月に一人ね。辞めていく子がほとんどいないのでたいへん。いまだいたい若手が八十人、シニアが三十人」
 素子が、
「あれが好きでくる人はおらんのやろ?」
「自分のことを考えみればわかるわ。素ちゃんはセックスそのものより、キョウちゃんがしてくれるセックスが好きなだけでしょ?」
「うん。ほかの男は虫唾が走るわ」
「それがあたりまえよ。みんな好きでもない男とするセックスは虫唾が走るけど、苦しい生活の事情のためか、愛する人や支えてくれる人がそのとき何かの都合でいないかのどちらかで、仕方なく仕事を探してくるの。素ちゃんもそうだったはずよ。だからセックスが好きでこの仕事に就く人は一人もいないはず。相手はだれでもいいからセックスをしなくちゃいられないという女は、〈ニンフォマニア〉と言って、性欲亢進症という立派な病気なの。そういう生活をつづけていると、いずれ健康を害するから、仕事も長つづきしないわ。そんな女が職場に長居すると同僚に迷惑をかけるので、なんとか面接でふるい落としたいんだけど、なかなか見抜けないの。となると職場の者同士の噂で確かめるしかないから、おとうさんたちもああやってちょくちょく顔を出すわけ」
 メイ子が、
「その手の女は、お客さんにも会社にも迷惑かけます。お金を度外視してあいだを置かずに求めますから、どんなに絶倫のお客さんもすくみ上がっちゃうんです。そういう女はなんとか見つけて辞めてもらえばすみますけど、ほかの女の人もつね日ごろちゃんと教育しなくちゃいけません。しっぽりした出会いを望んでやってくるお客さんがほとんどなんだって」
「むかしはそんな女一人もおらんかったけどな。いややけど仕方なくやっとる女がぜんぶやった。どうなっとるんやろ」
「いまも、その、ニンフォ……なんとかという人はほとんどいないんですよ。だからこそこの商売が成り立ってるんで、そんな人が一人でもいると、噂を聞いて好奇心だけでやってくるお客さんが増えて、ほかの女の人に無理な注文を出すようになります。それに嫌気が差して、まじめな、ふつうの女の子がどんどん辞めていくことになるでしょうね。旦那さんたちのしてることはある種の魔女狩りですけど、大切な仕事です」
「自分のことを振り返ると、なんだか恐ろし気な話だけど、そういう女たちとぼくはどこがちがうのかなあ」
「自分から探し求めないところよ。女のニンフォマニアにあたる男はサチリアージスと言うんだけど、カサノバ型とドン・ファン型があるの。どちらもニンフォマニアと同じように頭の中はセックスでいっぱいで、女を自分から探し求めて移り歩くわ。自分よりも女の快楽を重視するのがカサノバ型だけど、この型の男は次々と女を探して快楽を与えようとするの。キョウちゃんとは似て非なるものじゃなく、まったく別物ね。ドン・ファン型は一人の女を集中的に愛して快楽を共有するけど、愛の集中力に欠けるせいで飽きっぽいから、これは理想の女じゃないとすぐに見かぎって、浅っちい愛を求めながら次の女へ移っていくの。キョウちゃんはこれにも当たらない。どちらの型も、自分の意志で次々と女を探し求めようとするという点で共通してる。キョウちゃんはぜんぜんそういうことをしない。相手からの求めに応じるだけ。つまり、類型にまったくはまらない人種よ」
 百江が、
「神無月さんのそういう本質は、一般の人には区別がつきませんよね」
「そう。区別がついてるのは親しく関わった私たちだけ。だからこそ、秘密にしなくちゃいけないの」
「東奥さんもようわかっとるね」
「愛して、親しく関わってるからよ。キョウちゃんが理解されない人だってわかってるの。山口さんも、私のおとうさんもおかあさんも、名大生の女の子たちも、ドラゴンズの人たちも。―それはとても強い支援の力になるわ。私たちと同じくらい」
 メイ子が、
「理解されると思って支援する人もいます」
「弱い支援の力ね。まかりまちがうと一般のほうへ染まる危険があるわ。よしのりさんを思い出してね。……理解されないと思ってる人しかだめ」
 素子が、
「やっぱり則武に引っ越すわ」
「そうよ。部屋はたくさん空いてるわ。なるべく早いほうがいいわね。だいじょうぶよ、業者に頼むから心配しないで」
「朝と夜がさびしいでいかんわ」
 素子とアイリス前でさよなら。
 則武の生垣のキンモクセイがきれいに剪定されている。
「スッキリ間引きされてるね」
「さすがプロね。キンモクセイは生命力が強いから枝が四方八方にビッシリ伸びちゃうのよね。この時期は花芽のついた枝を切らないようにしなくちゃいけないから難しいの。素人じゃできないわ。次の剪定は花の散り終わった十一月ごろ」
 秋にオレンジ色の香りのいい花が咲く。楽しみだ。
 郵便受けから夕刊数紙を取り出し数寄屋門を入る。砂利畳の右手にこれも剪定されたモクレンが芽吹いて立っている。左に石灯籠。玄関から六畳のタイル土間に入る。式台から延びる中央廊下の右に十畳の和室(衣裳部屋兼支度部屋になっている)、十帖の風呂と並び(二階はそれぞれ十畳の和室で、奥の一つを私が寝室に使い、もう一つは百江が寝室に使っている)、式台の左は土間に接して十帖のキッチンと便所、脇廊下を隔てて十二帖の食堂兼居間、その隣に十二帖の音楽部屋(二階はそれぞれ十二畳の客部屋と私の書斎)と並ぶ。一階の中央廊下と直角に横切る細い廊下(メイ子の離れに通じている)の右に十二畳の和室が二つ並び(一つはカズちゃんの寝室、もう一つは女たちの物置、二階にも同じ間取りの未使用の和室が二つ並んでいる。たぶんこの一つにもうすぐ素子が越してくるだろう。その外にコンクリート敷きの物干しベランダが設えられている。下着等の小物しか干さない)、左は二十帖のジム(二階は屋根つきの物見ベランダになっていて、大テーブルと籐椅子が置いてある)と、広い便所。―ミニ北村席。
 居間でココア。
「あしたのアイリスは午前中だけよ。おとうさんたちは十時にセドリックとバン二台でいくから、私たちは十二時過ぎにクラウンでいきましょう。百江さんも優子ちゃんも休みをとるのでオーケーと。さ、寝ましょ。キョウちゃん、お風呂は?」
 私はソファに凭れたまま、
「あしたの朝。ラジオ聴きながら寝る」
「ラジオ?」
「うん。いい眠り薬になるよ。お休み」
「お休みなさい」
 みんな自室に去り、私はテレビを点けた。たまたま〈永易心境を語る〉というダメ押しのような番組が映し出されたので、二分ほど彼の悪あがきの言説を聞くともなく聞いたあと、歯を磨いて二階の寝室に上がり、枕もとにトランジスタを置く。深夜放送を流している東海ラジオにダイアルを合わせる。すぐに眠りこむ。
 深夜に目覚めて、森山良子のさびしげなバラードをうとうと聴いた。『恋人』と紹介されていた。いい曲だと感じた。囁くようにしゃべりつづけるレオというパーソナリティの声にイラ立ち、スイッチを消してもう一度深く眠った。


         五

 三月二十六日木曜日。七時半起床。晴。一・一度。朝勃ち。小便を屈んで出す。どうにか萎んでくれたので、ついでに排便。形のある軟便。体調よし。うがい、シャワー、歯磨き。脱衣場で爪切り、耳クソ取り。準備万端。新しい下着とジャージを着る。
 食堂にいき、三人にキスをし、テーブルにつく。隣にカズちゃん、前に百江とメイ子。キスをきっかけに前がふくらんでしまっている。無視。ママと遊ぼうピンポンパンを流しながら、ステーキの切り身三切れとスクランブルエッグ。めしは軽く。
「お昼はロッカールーム?」
「うん、十二時十五分。相手の守備練習中。小さなおにぎり二個、ソテツに頼む」
 私の下腹を見つめ、
「それ、治まらないみたいね。球場でそうなったら恥ずかしいでしょ。きょうは私だいじょうぶ。出しちゃいなさい」
 スカートとパンティを脱いで風呂場にいく。私もジャージとパンツを脱いであとを追う。浴槽の縁に手を突いて私に向けた豊満な尻に挿入する。
「あ、感じる、愛してるわ、愛してる、ああ……イク、イク!」
 柔らかく強くじょうずに連続でアクメに達してくれるので、私もたちまち射精する。
「愛してるゥ! 最後までしっかり出して、うううん、イックウウウ!」
 腹をさすりながら耳たぶを咬む。
「ああ、キョウちゃん、ごちそうさま。また少しアタマが大きくなったわ。その分、キョウちゃんも私たちも早くすむから、時間の不便がなくなるわね」
 シャワーを使って自分と私のものを清める。
「焦ってないときは?」
「私たちが覚悟しなくちゃ」
 二人で下半身を曝したまま、食堂に戻り、脱ぎ捨てたものを拾って身なりを整える。百江が、
「ますます立派になりましたね」
 メイ子が、
「ほんと、太くて短い巨大カリの張り形みたい」
 カズちゃんが大きく笑いながら、
「入りにくいけど、入ったらたいへんよ。イキまくっちゃう。二人きりのときは覚悟しなくちゃね」
「します」
「します」
 再び箸を使いながらカズちゃんが、
「子宮口までの膣の長さは平均八・五センチ、すごく長い人でも十センチ。キョウちゃんのオチンチンはむだに長くなくて、短いと言っても十三、四センチあるわ。カリが巨大だからすぐにオマメちゃんの裏側でイカせてくれる。それだけじゃなく、それ以上の強さで子宮口の連続イキをさせてもらえるの。自分じゃ平均以下だと思ってるからちっとも威張らないので、キョウちゃんに抱かれたことのある女だけの秘密にしていられるわ」
 百江が、
「子宮口ってそんなに強くイクんですか?」
 メイ子も箸を止める。
「あなたたちがいつも経験していることよ。何度もイキつづけて気を失いそうになるくらい気持ちいいでしょ?」
「はい」
「子宮口はポルチオと言って、やさしく押しつづけることでしかイカないの。オチンチン長い人はそこを逸れた上や脇を突いちゃうか、直接強く当てすぎちゃう。キョウちゃんは長さ四センチくらいのお団子みたいに大きなカリでソフトに押しつづけるから、私たちはあんなふうに乱れちゃうの。これ以上の快感は要らないって叫びたいくらい。じつは、オマメちゃんやオマメちゃんの裏側のオーガズムは、浅く感じる深く感じるのちがいはあるけど、瞬間的で、持続も十秒前後。ポルチオは一回イクと、あとは自分の意志と関係なく連続でイキつづけるの。最低二、三分はつづくわ。途中で抜いて止めたくなるのはそのせいよ。いまみたいにキョウちゃんが二、三分でイッてくれると、途中で抜かなくていいし、後味も最高ね!」
「ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
 三人の若やいだ明るい笑い声が上がる。中年女のいやらしい笑いではない。メイ子が、
「素子さんは膣が短いんでしょうか」
「ふつうだと思う。何もかも敏感にできてるのよ。ちゃんと花開いたのはキョウちゃんのおかげね。あら、きょうは少し遅くなったわよ。片づけは百江さんにまかせてすぐ出ましょう。じゃキョウちゃん、しっかり準備して出かけてね」
「うん」
 カズちゃんとメイ子はあたふたと出ていった。百江が、
「洗い物終わったら私たちもすぐ出ましょう」
「そうだね。出発まで一時間しかない」
         †
 門前や牧野公園に十人余りの記者やカメラマンたちがつどっている。
「きょうはフル出場ですか?」
「たぶん」
「マリシャル対策は?」
「その場で立てます」
「勝利の意気ごみを」
「がんばります」
「最初からホームランを狙いますか」
「打てる球は打ちます。どの試合も同じです」
 ユニフォームを着た直人が着飾った女たちの中で、小さなグローブを手に座敷を走り回っている。男たちはコーヒーを飲んでいた。浜中が、
「おはようございます。体調は?」
「グッドです」
 ソテツがコーヒーを持ってくる。
「アサリの佃煮と昆布で小さなおにぎり二つね」
「はい。たくあんもつけておきます」
 菅野が、
「マリシャルはよくコントロールされた百四十キロ半ばのストレート、キレのいいスライダーが武器です。リバーガーは調べられませんでした」
「マリシャルだけでじゅうぶんです。ありがとう。きょうの留守番は?」
 幣原が、
「女将さんとトモヨさんと私と、賄いさん七人です。もちろんカンナちゃんもお留守番。ソテツちゃん、イネちゃん、千鶴ちゃんは観にいきます。がんばってください。テレビで応援してます」
 主人が、
「和子たちは試合開始前に球場にくるんやな」
 百江が、
「はい。お嬢さん、素子さん、それからメイ子さんと私です。クラウンでいくそうです」
 菅野が、
「百さん、お嬢さんに切符渡しといて。はい、四枚」
「郷くん、そろそろ支度して」
 トモヨさんに促されて納戸部屋へいく。直人がついてくる。ユニフォーム一式と帽子が畳に延べてある。彼の前でピシッと着る。直人の目が輝く。
「格好いいか」
「うん、かっこいい」
 手を引いて座敷に戻る。ソテツが小さな手提げ袋を渡す。千佳子が、
「わあ、二人並ぶと油絵みたい」
 恩田のフラッシュが光る。主人が人数を確認している。
「菅ちゃん運転のほうは、神無月さん、ワシ、直人、ヒデちゃん、ソテツ、イネ、千鶴の八人、千佳ちゃん運転のほうは、ムッちゃん、キッコ、優子、浜中さん、恩田さん、田代さん、丹生さんの八人か。ハイエース二台ですんだな」
「言ったとおりでしょう」
 菅野が鼻をふくらませる。女将やトモヨさん、幣原、ファインホースの従業員たちに見送られ、正十時に出発。主人が、
「直人、車の中ではいい子にしとりなさい。急に止まったり、急に発車したりすると危ないからな」
「はーい」
 それでもみんなの膝を渡り歩く。助手席の主人の膝まで渡り歩いてから、最後にイネの膝に落ち着いた。
 十時二十五分、中日球場の一般駐車場に到着。ダッフルとバットケースを荷台から下ろす。人垣に遠巻きにされる。
「見て見て、かわいい!」
「神無月選手とそっくり。お子さんかしら」
「まさか、親戚の子でしょ」
「神無月ィ!」
「がんばれよー!」
「四本いけ!」
 直人が反り返るようにして球場の側壁を見上げる。
「大きいだろう?」
「おおきい」
「中はもっと大きいぞ」
「おとうちゃん」
「ん?」
「がんばってね」
「おお、がんばるよ。よく見てるんだぞ」
「うん!」
「じゃ、お父さん、ヒデさん、直人をよろしくお願いします。菅野さん、彼女たちをよろしく」
「まかしといて!」
「インタビューが長くなると思うから、みんなで先に帰っててください。ぼくは寮バスで名駅まで送ってもらいますから」
「わかりました。お嬢さんにも伝えておきます」
 猛烈な人だかりの正面ゲート入口で彼らと別れる。私は一塁側関係者専用口へ。ここでも人混みに囲まれる。触られても叩かれても私は反応しない。
 ロッカールームに主要選手の姿はなかった。水原監督もコーチ連もグランドに出ているようだ。残っているのは控えピッチャーとバッティングピッチャー、それと小野さん、田辺、渋谷、若生、松本幸行。松本は二軍から呼ばれたのか。
「小野さん、きょう登板予定ですか」
「いや、開幕までは授業参観。肩の調子も九分どおり取り戻したし、シーズンに入ったらかなり使ってもらえそうだ。十勝は挙げて、置き土産にしないとね」
「小野さんと小川さんの試合には倍の努力をします」
 若生が、
「俺たちには三倍の努力をお願いします」
「がんばります」
 松本がフンと横を向いた。第二の浜野か。やはりこういう人間はあとを絶たない。ダッフルから取り出したスパイクを履く。グローブにパンパンこぶしを叩きこむ。バットを二本ケースから抜き出す。
 ―よし、いくぞ!
 ベンチに入る。数十人の報道陣がグランドをのろのろ歩き回っている。江藤たちが熱心に残りわずかな選手たちの打撃練習を見つめている。カメラマンや記者たちといっしょにバッティングケージを取り囲んでいる人びと。その中に高木や中や背広姿もいる。私はベンチの最後部に立って眺める。ほかの選手に比べると上背のない細面の黒人が打っている。当たり損ねの内野フライか外野フライばかりだ。すぐに片手が離れるのは、バットコントロールができていないからだ。サンフランシスコ・ジャイアンツ。清潔な淡灰色のユニフォーム。胸のロゴは大活字でSANFRANCISCO。太田が江藤に話しかける。
「メイズは三十九歳です。さすがに精彩がないですね」
「あすはわが身たい」
 前列の端に座る。スタンドが一望できる。少年たち。型破りなことは何もしたことがなく、野球だけを夢見る少年たち。私に気づいた恩田がさっそく走ってきて、ベンチの外からカメラを構えて撮る。何枚か撮り終えると、三塁ベンチの前にいる浜中のほうへ走っていった。浜中が通訳をつけてマッコビーにインタビューしていた。百九十三センチ、九十五キロ。そびえるほどの大男だ。さらに大きなひょろ長いサウスポーと、私と同じくらい背の丸顔の右ピッチャーがブルペンで並んで投球練習をしていた。中が、
「あれがマリシャルだ。ノッポのほうはマコーミック。どっちかが先発だろう」
 江藤が、
「うちは健太郎、秀孝の順番やろう。向こうも右、左の順番でなかね。しかし江夏や秀孝ほどの伸びがなかねえ。調子の悪かっちゃん」
 調子の具合とは思えなかった。菱川が、
「メッタ打ちですか」
「そうもいかんばってん、七、八点は取るっとやろう」


         六

 バッティングケージの後ろで、足木マネージャーといっしょにフォックス監督と話していた水原監督が戻ってきた。
「足木くんの英語は流暢だね。メジャーリーグのプライドを懸けて竜と戦うと言ったそうだよ。学べるところは学びたいって、きれいごとを混ぜてね。さ、ドラゴンズのバッティング練習だ。いってきなさい」
「オス!」
 菱川と太田がケージに入り、残った者たちはフェンス沿いのランニングに出る。ゴーと上がる喚声。バッティングピッチャーは若生と松本。菱川は数本置きにスタンドに放りこむが、太田は松本の投球間隔に手こずっている。当たり損ねのゴロが外野に転がる。三塁ベンチのジ軍選手たちが凝視している。あれでは打撃投手の役割を果たせていないのではないかという表情だ。太田は三球で練習をやめた。菱川は十本打つ。
 一周し終え、江藤と並んでケージに入る。私は若生から軽いスイングで二本、ライトスタンドへホームランを打った。突然やる気が失せ、ケージを出た。江藤も松本から二本、ショートフライとレフトフライを打って見切りをつけた。長谷川コーチが水原監督に何か強い口調で言われて、松本を大場に代えた。松本はベンチから姿を消した。
 中、高木、一枝、木俣と打っていく。打球の行方に注意を喚起する下通の涼やかな声が流れる。私は外野へいって、五十メートルダッシュ三本、三種の神器、片手腕立てを黙々とやる。十人以上のカメラがフェンス沿いに控えて撮る。中に蒲原がいた。たがいに手を挙げ合って挨拶する。一塁ベンチ横に戻って素振り九コース。屁っぴり腰で二十本。ジ軍ベンチの熱い視線を感じた。
 東奥の通訳が江藤と私にバックネット前にきてほしいと言いにきた。マッコビーのリクエストだと言う。ネット前にいくと、東奥日報以外の記者たちも機材を持ってぞろぞろ移動してくる。蒲原はいなかった。江藤、マッコビー、私と三人バットを肩に担いで記念撮影。つづいて握手。ほかの関係者たちも大勢走ってくる。マッコビーが私に早口でしゃべりかける。もちろん聞き取れない。通訳が、
「幼いころ私を希望の星と思い定めてくれてありがとうございます。こんな名誉なことはありません」
 私は森徹のことは話さず、
「あの日があるので、今日(こんにち)の私がいます。この中日球場で見たあの場外ホームランは衝撃的でした」
 と応えた。通訳がマッコビーに伝え、マッコビーに語らせる。
「きょうも同じようなホームランを打ちたいと思います。あなたのホームランの打球スピードと飛距離はアメリカじゅうに知れわたっている。あなたはとっくにベーブ・ルースやロジャー・マリスの峰を越え、未来にかけて大勢のホームランバッターが目指す峰になりました。その峰は何百年も、だれ一人越えられないでしょう」
 彼は江藤を見つめ直し、
「ロジャー・マリスを越えたあなたの七十本塁打は、ワンジェネレーションの高峰になりました。私には当然越えられない峰です。二人の偉大なホームランバッターを擁する日本野球界は、いずれ世界の野球界に君臨するようになるでしょう。できれば一年でもいいから、二人でサンフランシスコ・ジャイアンツにきていっしょにプレイしてほしい。どうですか? いや、断るとわかっているから答えなくていいです」
 江藤と私が笑うと取り巻きも笑った。
「きょうは精いっぱいやらしてもらうばい」
「アイル・ドゥ・マイ・ベスト」
 と頭を下げた。マッコビーも、
「アイル・ドゥ・オール・アウト・トゥ」
 どうにか聞き取れる英語を言って、ぎこちなく頭をさげた。ふたたび握手。激しくフラッシュが光る。
 サンフランシスコ・ジャイアンツの守備練習。ロッカールームでソテツのおにぎり。うまい。特にアサリは絶品だ。五分ですませてベンチへ。大男たちのプレイがドタついて見える。十年前と何かがちがう。大リーガーたちがごくふつうの野球選手に感じられる。
 ドラゴンズの守備練習。一枝―高木の併殺プレイと、私のバックホーム二本に三塁ベンチが拍手喝采をした。ある意味、見下しているのだろう。拍手せず真剣な面持ちで腕組みをしている選手たちの中にマッコビーとメイズがいた。この二人にはやられる予感がした。
「ふだんどおりやれば、大差で勝てます」
 そう言って水原監督はメンバー表交換にいった。パンパンにすし詰めになった観衆に向けて、下通が先発メンバーを発表していく。
「先行はサンフランシスコ・ジャイアンツ、一番ライトボビー・ボンズ、背番号25、二番セカンドロン・ハント、背番号33、三番センターウィリー・メイズ、背番号24、四番ファーストウィリー・マッコビー、背番号44……」
 意識がぼんやりしてカタカナの名前が耳に入ってこない。
「……九番ピッチャーホアン・マリシャル、背番号27。後攻は中日ドラゴンズ、一番センター谷沢、背番号14、二番セカンド高木守道、背番号1、三番ファースト江藤慎一、背番号9、四番レフト神無月、背番号8」
 喚声の轟音。ドラゴンズチームも喚声を上げる。土のグランド、四つのベース、外野の芝生、球場のにおい。
「五番キャッチャー木俣、背番号23、六番サード菱川、背番号4」
 信頼できる聞き慣れた名前と背番号。グローブのにおいをかぐ。
「七番ライト太田、背番号5、八番ショート一枝、背番号2、九番ピッチャー小川、背番号13」
 江藤の予想どおり小川だった。審判は全員日本人。巨漢たちに威圧されてすくんでいる日本人。それでいい。球審露崎さんのパフォーマンスも、ライト線審目玉のマッちゃんのパフォーマンスも彼らの目には留まらない。彼らは敵の選手しか見ていない。回が進めば審判団も私たちの優勢に気づき、すくみは消える。しばしのがまんだ。
「ただいまより、愛工大名電高校吹奏楽部によるアメリカ日本両国の行進曲を演奏いたします。同校は幾度も全国大会優勝の栄誉に浴する吹奏楽の伝統校です。星条旗よ永遠なれと君が代行進曲を演奏しながら、場内を一周いたします」
 ライトポール脇の通路からバーンと管弦の響きが突き上がり、詰襟の学生服とセーラー服の吹奏楽隊が足並みも整然と歩み出てきた。たちまち胸が締めつけられ、目の裏に痛みが走る。静まり返った観衆に見つめられながら、整然とした確かな足どりでフェンス沿いにレフトポールへ向かって進んでいく。高らかな管楽器の音調とハーモニー。レフトポールを過ぎ、三塁ファールグランドで数秒の小休止をする。君が代に移る。大太鼓の間歇的な鼓動、小太鼓のスタッカート。狂いのないみごとな演奏だ。口をあんぐりと開けているジ軍ベンチからバックネットへ、そして一塁ベンチへとやってくる。こらえ切れず涙がこぼれ落ちた。タオルで顔を覆う。水原監督がふるえ声で、
「こういうのは原始的に刺してくるね。ああ、だめだ」
 タオルをあわただしく使う。江藤が叫ぶ。
「泣けるくさァ!」
 ライトポール下から通路へ戻っていき、しばらく小太鼓の連打。フェイドアウト。賞賛の喚声。
「まことにすばらしい演奏でございました。中日ベンチのほとんどのかたがたが顔にタオルを当てておりました。愛工大名電高校吹奏楽部のみなさん、あなたがたの演奏は水原監督、神無月郷選手、江藤慎一選手はじめドラゴンズ選手たちの涙を絞りました。ありがとうございました!」
 満場の拍手。ややあって、
「それでは、オープン戦の中で本日のみ予定されていた始球式を執り行ないます。投球していただくかたは、生きながら伝説の人となられた、もと中日ドラゴンズのエースピッチャー権藤博さまです。昭和三十六年、三十七年と三十五勝、三十勝を連続で挙げ、周知のとおり〈雨雨権藤雨権藤〉とまでその超人ぶりを謳われた不世出の天才ピッチャーでございます。昨年退団なされたのちは東海ラジオの野球解説者をなさっておられます。では権藤さま、よろしくお願いいたします」
 割れるような拍手の中、私たちが守備位置に散った直後、ワイシャツ姿の瘦せ身の男が一塁ベンチ脇の通路から現れ、一塁塁審の平光に付き添われて小川の立っているマウンドに登った。バッターボックスにジ軍のこれまた痩せ身のボンズが向かう。キャッチャーは木俣。権藤は平光からボールを手渡され、露崎のプレイのコールを待ってグローブなしの格好で振りかぶる。さまになっている。投げ下ろす。肩を庇うような様子は否めない。それでも百二十キロ前後のやや山なりのボールが木俣のミットに収まり、振り遅れるようにボンズがスイングした。盛大な拍手。権藤が四囲のスタンドに手を挙げる。ボンズがウエイティングサークルに走り戻り、素振りを始める。権藤はマウンドに集まった内野陣と握手をすると、背広を着た球場係員二人といっしょにベンチ脇の通路へ去っていった。
「権藤博さま、ありがとうございました。それではただいまより、サンフランシスコ・ジャイアンツ対中日ドラゴンズのオープン戦を開始いたします」
 小川の投球練習。ボールに力をこめていない。打ちこまれて接戦にしたいという気持ちが表れている。それがチーム全員に伝わった。私は谷沢に声を投げた。
「乱打戦になりますよ!」
「オッケイ!」
 グローブを振つてくる。ボンズが打席に入る。
「一回表サンフランシスコ・ジャイアンツの攻撃は、一番、ライト、ボンズ、背番号25」
「プレイ!」
 小川振りかぶって初球、スローボール。ボンズ唖然と見逃す。露崎の一度突き。
「ストーライ!」
 スタンドの喜びのざわめき。二球目外角高目へパワーカーブ。ミートできず、一塁スタンドへフライのファール。典型的な〈前体重移動〉のダウンスイングだ。三球目、スピード豊かなシュートが内角に突き刺さる。見逃し、三振。
「ストラッキー!」
 跳び上がり三度突き。派手な空手パフォーマンスに場内が沸く。ジ軍連中はキョトンとしている。
「二番、セカンド、ハント、背番号33」
 初球、真ん中のスローボール。苛立つように打ってボテボテのショートゴロ。快打させるつもりが打たせて取るになっている。遠く谷沢と顔を見合わせた。
「乱打戦、撤回!」
 グローブを振ってくる。
「三番、センター、メイズ、背番号24」
 守備位置を後方にとる。初球、内角速球。いつものキレるボールだ。メイズは体重を後ろ足に残し、芯を食わせて掬い上げる。ものすごい勢いの打球が左翼ポールに向かって飛んでいく。大喚声。かなり逸れて内外野の中間通路に立つ照明灯の胴体にぶつかった。緊張の解けたどよめきが上がる。大リーグの力を見せつける大ファールだ。とうてい三十九歳の打球と思えない。右手の離れが早くなかったら、切れずにホームランだったかもしれない。二球目、外角スローカーブ、のめって引っかけたが打球が速く、一、二塁間を抜けていくライト前ヒット。スタンドから和やかな拍手。
「四番、ファースト、マッコビー、背番号44」
 野球愛好家たちの大きな拍手。太田と中がバックする。私は左中間の浅い位置へ守備をとり、マッコビーのフォームを観察する。右肩をショート方向へひねり、背番号をピッチャーに向ける〈突っこみ〉の構え。バネを絞る態だ。木俣が内角高めにミットを構える。そこを突かれてもマッコビーはその格好のままからだを回転させるだろう。初球、内角高目ストレート。力あるボールだが、それ以上に力強くマッコビーの上半身が回転した。踏みこみはわずかだった。両手を離さない
「レベルスイングから弾き出された打球があの日の軌道を描いた。
「ウォー!」
「キャー!」
 ひたすら一直線に上昇していき、ライトの看板を越えて場外に消えた。谷沢が両腕をだらりと垂らして打球の消えたあたりを眺めている。巨体を揺すりながらマッコビーがダイヤモンドを回る。三々五々、少年たちが立ち上がって拍手している。遠いあの日の私の分身だ。五、六人の選手がホームに出迎える。軽くタッチ。マッコビーは約束を守った。私も守らなければならない。
 五番ヘンダーソン、スローカーブを見せつけられたあと、速球に詰まってセカンドフライ。チェンジ。ベンチで小川が、
「すげえ一発だったな。あっという間に消えていきやがった。とにかく景気つけたぞ。暴れてくれよ。あと三点くらい取られて秀孝に交代するから」
 やっぱりそのつもりだったのか。キレのいい球も打ちやすいコースに投げたのだろう。
「一回の裏、中日ドラゴンズの攻撃は、一番、センター、谷沢、背番号14」
 期待と不安の入り混じった拍手。まだファンから信頼されていない。マリシャルのフォームを観察する。噂がしきりの左足の上げ方は、ガニ股ふうで、反り返る動作に溶けこまない。高く上がると言っても田辺ほどは極端でない。腕を振り下ろした途端、からだが一塁側へよろめく。あれではショート側のピッチャーゴロは百パーセント捕れない。不気味にコントロールはいい。
「谷沢さん、ブンブンいっちゃおう!」
 初球内角スライダー、見逃し、ストライク。キレがいいが、スピードはない。二球目、外角高目シュート、空振り。よく曲がる。三球目、真ん中高目カーブ、ボール。鉦太鼓がチラッと始まる。
「直球を投げてこないなあ」
「打たれるとわかってるんだろう」
 中が叫んだ。
「次、ストレート!」
 四球目、内角低目きわどいコースにストレートがきた。痛打。マッコビーの逆シングルのグローブの下をくぐり抜けていく。長打コース。ライトのボンズが素早く追いつき、二塁へ矢のような送球をする。間一髪セーフ!
「ケンイチ速いなァ!」
 森下コーチが感心する。谷沢の新しい面を見た。



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