八十
適当なところでガードへ曲がりこむ。偶然道の突っ先に芦屋竹園のてっぺんの平べったい部分が見えた。けたたましい音を立てて列車が通過した。みんなで立ち止まって耳を塞ぐ。マンションと古民家が向き合って並ぶ上品な道筋を歩く。マルイガス器具店、芦屋甲陽幼稚園。芦屋山手教会という壁字の横に十字架が貼りつけてある。掲示板には、奇跡の出どころ・××牧師。教会の経営する幼稚園だ。城内幼稚園と同じくらいの大きさ。並びの建物に大原集会所・芦屋図書館分室とある。人通りが繁くなってきた。カタカナ文字のレストランや商店が並ぶ。駐車場、鮨屋、数軒のクリニック、薬局。
イチョウ並木の広い通りに出る。目の前に六階建ての竹園旅館がそびえている。玄関の反対側はこんなふうに地上からそびえていたのか。二階が玄関ロビーで、フロントのある一階は貸店舗の集合体になっているわけだ。国鉄芦屋駅口へ回り、歩廊への階段を昇る。カメラマンたちは玄関までついてきた。
「ありがとうございました。私どもは神戸新聞のスポーツ部です」
「うちは朝日新聞です。同行をお許しいただいてラッキーでした」
「一言半句メモいたしましたので、芦屋の天馬一党というテーマでコラムを書かせていただきます」
「お三かたの言葉とともに、一連の写真を朝日グラフに掲載いたします。謝礼金は球団本部にお三かたあてで送付させていただきます」
「ぼくたちは好きに歩き回っただけです。それについてきたあなたたちこそ労働したわけでしょう。もしそんなお金が出るなら、あなたたちの収入にしてください」
「そういうわけには―」
「規則がそうなっているなら、当事者同士でうまくやってください。球団本部が判断して処理するでしょう。菱川さんたちもそれでいいですね」
「もちろん!」
「こちらの時間をあえて提供する場合は、謝礼の件は一考します。それ以外の取材はその手のことで心を痛めないでください」
「マスコミ嫌いとも聞いておりましたが……」
菱川が、
「だからデマだって。人間同士と思うだけで、ほかには何とも思ってないってこと。そちらに下心さえなければね」
カメラマンたちは深く頭を下げて帰った。太田が、
「さ、テレビでも観て時間を潰そうかな」
菱川が、
「じゃ、六時半に」
あと二時間か。テレビは退屈だ。仮眠をとるしかない。
†
かなり深く眠りこんだように感じたが二十分も眠っていなかった。下腹に確かな感触を覚えた。ジャージが足首までずり下げられ、自分のものが口中に含まれている。心の底で期待していたことだったのですぐに尋いた。
「ハツ?」
「はい。そのままで。すぐ終わりますから。ああ、うれしい、硬くなった」
ミディスカートをまくり上げて跨る。
「ああ、神無月さん、愛してます、毎日苦しいほど思ってました、あああ、愛してる、ううう、気持ちいい! すぐイキます、あ、イク、イクイクイク、イクウウウ!」
痙攣して前後する尻をスカートの上からしっかりつかむ。
「ああ、やっと逢えました、うれしい! あ、またイク、イクイク、イクウウウ! も、もう一度、あ、あああ、イクウウウ!」
ドサッと覆いかぶさり、蝶の陰唇にぴったり包みこみながら、トシさんのように自動的に腰を前後させる。
「ハツ、イクよ!」
「はい! いっしょに、あああ、イグ! イッグウウ!」
あとは発声を殺し、私の律動のたびに苦し気な声を絞って全力で痙攣する。廊下や隣部屋にも聞こえそうな声だと思ったのだろう。背中をしっかり抱き締めてやる。七、八回も痙攣したあと、からだ全体の重みを預けてきた。首に脂汗をかいている。シャツの背中も湿っていた。
「今年も甲子園にくるたびに逢えるよ」
「はい。きょうはお休みの日だったんですけど、出勤にしてもらいました。あしたお帰りになってしまうので」
ようやく大きく笑うと、ティシュを股間に当てスカートをまくり上げたまま横たわった。
「この一月に夫はとつぜん脳卒中で亡くなりました。遺言書もなく、家と土地の処分をしてスッキリ身軽になりました。いまはのすぐそばのマンションに暮らしてます。2LDK」
「子供が何人かいたでしょう?」
「はい、三人。みんな独立してる子供たちです。それもあってこの二、三カ月はなんやかやの手続でたいへんでした」
「形見分けとか財産分与なんかだね」
「はい。家がほしいと言う子はいませんでしたし、だれも私と同居したいとは言いませんでした。ほんとにスッキリしました。竹園旅館の定年は六十五歳ですから、あと十二年。それからはご隠居暮らしです。習い事でもしながらのんびり暮らそうと思ってます」
「ご主人には気の毒だけど、ハツにとってはいいことだったね」
「はい、とても」
ハツはトイレにいき、ベッドに戻って、スカートのポケットから出した下着をつけると、
「これ、マンションの電話番号です」
枕の下に忍ばせた。
「ご用のときはお電話くださいね。それから、お泊まりの日が試合日だったときは、お電話くださっても私は参りません。神無月さんのおからだを第一に考えますので」
「わかった」
「これからもどうか末長いお付き合いをお願いいたします。心から愛しています。もういきますね。じゃ、会食のときに」
そっとドアを開けて出ていった。五時五十分だった。シャワーを浴び、新しい下着をつけ、ジャージを着る。テレビを点ける。ニュースをやっている。ぼんやり眺めていると電話が鳴った。
「明石の西海さまからお電話が入っております。お受けになりますか?」
「はい、お願いします」
「どうぞお話しください」
「はい。……もしもし」
「あ、神無月さん? 西海つららです。おひさしぶり」
「ひさしぶり。元気だった?」
「はい、変わりなく。いつも新聞みようる。神無月さんもお元気で何よりです」
「明石からということは、きょうはこれないんだね」
「はい、約束破ってすんまへん。逢いたくてどうしようもあらへんねやけど、三月から私のシフトが、土曜日半ドン、日曜日お休みになってもて」
「甲子園の阪神戦で土日というのは、すごく少ないよね?」
「新聞折りこみのセリーグのスケジュール表を見たら、今年の阪神戦で土日に当たっとるのは四回しかあらへんねや。五月二日三日、七月四日五日、八月二十二日二十三日、九月二十六日二十七日です」
「一年に四回、均(なら)すと三カ月にいっぺんか。仕方ないね」
「人生最後の青春を懸けとるけえ、何でも辛抱できる。その四日はかならずいきます。きちんと部屋をとりますからご心配なく。ご迷惑を掛けんように、日曜日の午前に竹園を出ます。いっしょに食事をしたりデートしたりはせん」
「そうだね。……来年明石でたっぷりデートしよう」
「はい。まとめて楽しみます。ほなら、以上ご報告まで」
「ありがとう。明石から芦屋までどれくらいかかるの?」
「三宮乗り換えで四十五分くらいです。日曜日は芦屋でショッピングでもして帰ります。気がおかしゅうなるほど好きです。愛しとる。じゃ、さよなら」
返事をする前に電話が切れた。テレビが点いている。
―本も読まなくなった。テレビも観るのをやめよう。
一瞬のうちに決意した。迎えにきた仲間たちといっしょに三階のコスモスの間にいく。
大きな楕円テーブルが二卓。一卓は、水原監督と宇野ヘッドコーチを上座に、時計回りに、足木マネージャー、中、高木、江藤、私、木俣、菱川、太田、一枝、小野、小川、星野、谷沢、戸板の十六人。
もう一卓は、杉山コーチと長谷川コーチを上座に、時計回りに、太田コーチ、森下コーチ、吉沢コーチ、伊藤久敏、水谷寿伸、江島、田辺、川畑、佐藤、門岡、若生、渋谷、新宅、高木時の十六人。計三十二人。おしぼり、ビール瓶、グラス、酒肴の類がどんどん運びこまれる。足木マネージャーがマイクを持って立ち上がり、
「マネージャーの足木敏郎です。会場係のかたがた、チームのみなさんにビールをおつぎください。みなさんもチビチビやりながらお聞きください。―ええ、ただいま九試合戦って九勝です。とにかく強いです。あしたから五連敗しても、まったく強さの印象を失わせない有無を言わさぬ強さです。これは、個性と才能ある戦士個々の凝集力と、とりわけその凝集を可能にした名将水原茂の統率力の賜物です。と、まず建前を申し上げておきます。ええ、一昨年、最下位だった中日ドラゴンズが三顧の礼をもって迎えた水原茂氏は、歴代四位の通算千五百八十六勝を挙げられたまごうかたなき名将であります。その名将をマネージャーとして支えよというのが、フロントから私に課せられた任務でした。支えられるはずがありません。支えるのは明らかに個々の選手たちですから。それでも私は何かしなければなりませんでした。そこで私は、ひたすら水原氏の言動、付き合う人、食べるもの、着る服から下着にいたるまで、ことごとくを観察し、記憶しました。いつ水原氏から問われても答えられるようにしたのです。つまり彼にまつわる環境を可能なかぎり記憶したわけです。ところが、いっこうに問われることもなければ、答えるチャンスもありませんでした。……ただ、彼の言行や日々のありようを懸命に記憶することで、彼の精神に寄り添うことはできました。……氏の好む言葉があります。『梅耐寒苦発清香(うめ、かんくにたえ、せいこうをはっす)』。梅は苦しい寒さに耐えたからこそ、清らかな香りを発するという意味です。この言葉は最下位から優勝を果たしたドラゴンズばかりでなく、いま華々しい香りを発しているすべての選手に当てはまります。氏の精神に寄り添った結果、私は周囲の人びとの寒く苦しい状況に思いをいたせる人間となりました。ひとり水原茂氏ばかりでなく、周囲のほとんどの人の艱難に目配りできる人間になったのです。ええ、しかしながら、そういう人間になり得たからと言って、進んで救済の手を伸べる人間になり得たということではありません。私はキリストでも釈迦でもなく、一介の人間です。人の窮状を見つめられる人間になったというにすぎないのです。しかしそれは私にとって革命的な認識でした。つまり、そういうにおいを発している人間がそばにいることこそ、支えるという真の意味ではないかと認識したんです。そしてあらためて周囲を見回しました。なんと、ドラゴンズの選手たちはすでに、たがいに それを実践していました。しかも無意識に実践していました。……支える人間は強い。強い人間が強い結果を残すことは理に合っている。建前など存在しなかった。水原氏は統率などしていなかったんです。ただ抱擁して選手たちを支えた。選手たちもただ抱擁して彼を支えた。私はそれを思い、寝床に入ってよく涙を流しました。水原氏を筆頭にあなたたちはたがいを支え合っている。水原氏一人を支える意味を考えあぐねているうちに、あなたたちが自然にたがいを支え合っていることに気づき、ようやく私はあなたたちの仲間入りができました。どうか仲間として歓迎してください。長々と失礼いたしました」
マイクを置いて礼をし、着席した。大きな拍手と喚声が湧き上がった。水原監督が足木マネージャーのコップにビールをついだ。宇野ヘッドコーチが、
「さあ飲んで食べて。あしたは十一時からフリーバッティングだ。ここを十時半、阪神バスで出発。甲子園まで二十分。それまでに酒が抜けていればいいから、どんどんいっちゃって」
二時間にわたって料理が断続的に出された。刺身、焼魚、煮魚、ステーキ、すき焼き、各種天ぷら、酢の物、生野菜、煮野菜、炒め野菜、めし、味噌汁、漬物。足木マネージャーはちょくちょく二つのテーブルを回ってビールをついでいた。ハツがどこにいるのかはわからなかった。足木マネージャーが席に戻ってふたたびマイクをつかみ、
「あしたの試合は四時半までには終わると思います。試合後、チームインタビューを受けてからバスでここに戻ることになります。各自夕食をとるなどしたあと、当日帰名予定の人は、八時に阪神バスが新大阪に向けて出ますので、それを利用してください。あしたはそれ一台しか出ません。新大阪までは五十分ほどです。九時台のこだまが九時三分と三十六分にあります。十時台は六分のこだまのみです。ひかりはありません。あした出発のかた挙手を願います」
バラバラと十人ほど手が上がる。足木は顔を確認しながら手帳にメモしていく。
「もう一泊する予定のかたは、翌朝の九時と午後二時に阪神バスが出ることになってます。ひかりは午後八時台まで一時間に二本あります。こだまはたっぷりあります。その他の交通手段で帰られるかたは、あとで私に連絡ください。二十六日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦は午後二時からです。フリーバッティングは十一時から。なお、始球式は権藤博氏が投げることになってます。ジ軍はその日のうちに東京に戻りますので、試合後の懇親会はございません」
そう言うと、トイレか何かに立っていった。中が、
「足木さんはだれもが知る記憶力の人だ。ドラゴンズの生き字引。その能力を見せびらかさない。だから話を盛らず、自分が見聞きしたことを正確に人に伝える。広報、マネージャー、通訳、渉外担当、あらゆる役職で足木さんは、チームのメンバーや交渉の相手を見てきたんだ。だれが何を話し、どう振舞ったかを記憶するだけじゃなく、なぜそうしたかを考えてきた。たとえば、水原さんについても、足木さんが私たちに伝えたのは、超一流品で身を固めるという水原茂の美学。シルエットを美しく見せるためにユニフォームの下に鹿皮のパンツを穿くとかね。そういう話を聞くと、私たちも水原さんの美学の一環だってわかるんだ。超一流品として選ばれた自分に誇りが持てるようになる」
菱川が、
「二流の人間も一流に引き上げようとして常に努力してます。……最終的に精神的な美にとどめを刺すようですが」
木俣が、
「野球を超えたところを睨んでるんだな。仙人の金太郎さんに率先して感じ入った自分の姿を俺たちに見せたのは、結局そういうことだろ。俺たちの人間性も一流だと信頼してるわけだよ」
一枝が、
「きびしい信頼だな。二流の人間を去らせて淘汰するわけだからさ」
江藤が、
「美しかエコ贔屓たい。やけん、贔屓の輪を広げる努力ば怠らんっちゃん」
八十一
努力して最後の果物まで平らげた。すでに監督、コーチ、マネージャーたちは同じ階の貸し会議室に引き揚げている。試合前日の定例のミーティングだ。私たちは八時半をかなり回ってから自室に戻った。私はすぐに木俣の部屋を訪ねた。
「お、どうした。またクイズか」
「いえ、監督コーチのミーティングて何をするのか知りたくて。うちは反省ミーティングをやりませんから。スタッフミーティングが長くなる理由は何ですか」
「知りたがりだな。まあ座れ」
パックの緑茶を二人分いれる。すすりながら聞く。
「まず打順だな。バッティングコーチがだいたい決めて、メモをヘッドコーチに渡す。ヘッドと監督が話し合う。それか、ヘッドコーチが決めて監督と話し合う。決まった打順を翌日選手に知らせる。試合前のウォーミングアップが終わったときに教えるチームもある。おととしまでうちもそうだった。バッターの控えどころをほとんど名古屋に帰したので、あしたはレギュラー一本だな。中さんと慎ちゃんの代わりに江島と谷沢を出すかもしれない。監督は最初に挨拶するが、あとは聞き役で、コーチが次々に今後の方向性を発表していく。作った書面でね。監督以外にも、コーチだけじゃなく、球団関係者、フロントのおえらいさんがいることもある。政治家の政策発表会みたいなものだ。じゃ次にピッチャーだな。先発、中継ぎ、抑え、一、二軍の入れ替えみたいな話から入る。ピッチングコーチが決定書面を出して監督と話し合う。いまはまだオープン戦だから緻密じゃないけど、中何試合がいちばんで、次に相手チームとの相性、現在の好不調、キャッチャーにだれをつけるか、となっていく。結局は理想論。実際、いざ試合になったら何が起こるかわからないし、そこから先がコーチの腕の見せどころだったりする。現場の投手起用には監督の判断もあるしね。俺も一度出席させられたことがあるけど、あれは一種の監督コーチの茶話会だね。フロントの和を確かめるためのね。ピッチャー起用には、観客を集められるかという要素もあるけど、水原さんは考えないな」
「木俣さんは、ピッチャーの大切な要素は何だと思いますか」
「金太郎さんの〈打たれてしまえ〉から学んだよ。金太郎さんが投げてもらえない球を投げる勇気。ど真ん中のストレートを投げる勇気だな。じつはそれが、ほとんどのバッターがいちばん打ち損じるボールなんだ。金太郎さんとて例外じゃない。けっこう打ち損じてる。たまたまそこを打たれたら、打たれて当然と思って投げたんだから、反省する必要はない。ど真ん中を投げたはずが少し逸れたり変化したりして打ち取れたら、ナルホドでこれも反省の余地なし。どだい、ど真ん中なんて狙って投げられるものじゃない。少しぶれるのがあたりまえなんだよ。そういう勇気の連続が野球の戦い方だ。金太郎さんは土屋に戦い方を教えたんだよ。やつはものにできずに、いまだにコースを狙って投げてる。プロを辞めるべきだな」
「もう少し見守りましょう。勇気と制球力がつくまで」
「そうだな。あの重いボールなら、打たせて取るコントロールさえつけばもう少しやれるかもな。じゃ金太郎さんはピッチャーにとって大事なことは何だと思ってる?」
「ぼくは浜野百三を反面教師にして学びました。彼の逆ならすべていいです。過剰な対抗心を持たないこと、自信を持ちすぎないこと、肩肘の強いこと、考えて投げること、敗北に不機嫌にならないこと、権威的な態度をとらないこと」
「最後の二つはすべての野球選手に言えることだな」
「はい」
会話の礼を言って木俣の部屋を辞し、五〇八室に戻る。九時半。ベッドに入り、床頭のラジオを点ける。NHK第二。小さい音で通信高校講座を流しっ放しにする。フロントに電話して、あしたの弁当にローストビーフサンドを頼む。ラジオを聞きながらうとうとする。やがていつの間にか寝入った。
†
三月二十四日火曜日。五時半起床。消し忘れていたラジオを消す。歯磨きからのルーティーン。やや硬めの軟便、尻シャワー。芦屋川沿いへランニングに出る。すこぶる体調がいい。晴。〇・九度。阪神本線芦屋駅までいって引き返す。体感では四キロ前後。
シャワー、ナショナル、手足の爪切り、耳掃除。ユニフォームをソファに延べ、グローブとスパイクとバットの乾拭きをする。
七時。一階の食事もできる喫茶店で、鮭と卵焼きがメインのオーソドックスな和食膳をしたためる。最上階のカフェバーにいき、お替り自由のブレンドコーヒーを飲む。二杯目のコーヒーをいただくとき、自家製チーズケーキを食う。これで朝は万全。
一階に戻り、精肉店あしや竹園で、特製但馬牛シチュー十袋セット七千円を注文して北村席に郵送する。まだ九時。出発まで一時間半。部屋にいてすることがない。ミステリー小説にでも手を染めてみようかとふと思う。謎解きが興味の中心になるので、厳密には文学書と言えないので、読みづらい哲学に害されることがない。名古屋に戻ったら何冊か買ってみよう。
兵庫県だけを放送対象としているラジオ関西をつける。しゃべりが適当にあり、神戸地区のニュースがあり、なつかしのメロディなどという番組もある。NHKよりはこっちのほうがいい。聞きながらゆっくり三種の神器。耳鳴りが高くなったのでやめる。三十分ほどベッドに横たわって目をつぶる。ユニフォームを着、ズック靴を履き、帽子をかぶる。ダッフルとバットケースを担いでロビーに降りる。サンドイッチを受け取る。歩廊下の街路に停車しているバスに乗って出発。隣に座っている江藤に、
「江藤さん、推理小説は読みますか」
「読むばい。松本清張やら黒岩重吾やらな。笹沢佐保なんかも読む。よほど暇なときばってんが」
「外国物なんかは」
「読まん。洋物は久敏がよう読んどったい。おーい、伊藤」
後部席へ呼びかける。
「はーい」
「おまえ外国の推理小説よう読んどるやろ。ハヤカワなんとかちゅう」
「ええ、まあ―。なんでしょう」
「金太郎さんが何か聞きたかて」
私も振り向いて、
「お薦めのものがあったら読んでみたいと思いまして。まだそのジャンルは一冊も読んだことがないんです。部屋の時間を持て余してしまって。……文学書は当分読まないと決めたもので」
テレビのことは言わなかった。
「五百野の作者にお薦めなんておこがましいけど、ウイリアム・アイリッシュの『幻の女』は傑作だと思う。ハヤカワ・ポケットミステリ」
「わかりました。ありがとうございます」
一枝が、
「暗記したの」
「はい。ウイリアム・アイリッシュ、幻の女、ハヤカワ・ポケットミステリ」
「さすが」
「映画やテレビドラマみたいに、意外な犯人、陳腐な動機というのがいやで、いままで読まなかったんですが、それでもちょっとした時間は潰せますから」
「伊藤、聞こえたね」
「はあ。そこは当たってるかもしれないです」
「かならず読みますから、ほかにもいろいろ教えてください」
「わかりました。あとでメモしときます」
前列の水原監督が振り返って、
「いつまでも好奇心冷めやらずの人生だね、金太郎さんは。……それでいて、野球だけを愛して、野球だけの人生を送ってきた。涙が流れるね」
タオルを目に当てている。杉山コーチが、
「じゃ、スタメンいくよ。一番中、二番高木、三番江藤、四番神無月、五番木俣、六番菱川、七番太田、八番一枝、ピッチャー伊藤久敏。番手は渋谷。そのあとは監督裁量」
国道43号線をひたすら走って、十時五十分甲子園球場前に到着。茶褐色の路面電車が走っている。左手に甲陽学院の立派な校舎を見やり、電車道を右折。松林を眺めながらコンクリートの大アーチをくぐる。露店の賑わい。人だかりが思ったほど多くないのは開場を早めたせいだろう。正門ゲートから二百メートルほど先に駅がある。高木が、
「阪神甲子園駅だ。ふだんはどうってことのないふつうの駅だけど、試合がある日は劇場みたいな雰囲気になる。駅の西側に楠の大木が立ってる。樹齢五十年だそうだ。駅ができる前から立ってたということだね。駅前の売店は、経済新聞からタイガースグッズまで客層も商品もバラバラ。ああいうのはめずらしいな」
森下コーチが、
「甲子園球場が開場したのは大正十三年の八月一日。今年で四十六年目や。開場と同じ日に阪神甲子園駅も開業した。ビックリやな」
バスを降り、蔦(つた)に覆われた巨大な球場を見上げる。幼いころ、甲子園球場は大阪にあると思っていたが、この球場があるのは兵庫県西宮市だそうだ。しきりにそれを主張する人もいるそうだが、どちらにせよ摂津の国なのだから、大阪だ兵庫だと目くじらを立てることもない。
ロッカールームへつづく廊下をみんなと歩く。途中で監督、コーチと別れる。別れぎわに水原監督が、
「百歩なお百歩。百歩いってもなお先があります。きょうも勝敗に拘らず全力でいきましょう」
「オース!」
私は太田に、
「正式には、ホーム、ビジターのバッティング練習は一時間十五分ずつで、守備練習は十五分ずつ。一時間半ずつの練習が試合開始四十分前に終わるように決められてて、三十分前からスタメン発表ということだよね」
「正式にはそうですけど、オープン戦に入ってからは、バッティング練習一時間ずつ、守備練習十分ずつになってますね。公式戦に入ったらもとに戻ると思いますよ。おととしまでは守備練習のほうが先だったそうです。いまのスケジュールは定着するでしょう。守備練習のあとでグランド整備して、そこへガラガラバッティングケージを運んでくるのは見ていてへんですもんね。ケージを片づける間に少しグランド整備をしてから守備練習をするほうが理屈に合ってます」
「なるほど」
スパイクの紐をギシッと締め、三塁ベンチを通ってグランドに出る。阪神のバッティング練習が終わりかけている。遠井吾郎が打っていた。信じられないほど広大な球場。焦げ茶と緑のコントラスト。スタンドからこぼれ落ちそうな観衆。ライオンの照明灯内外野二基ずつ、鉄傘の上に取りつけられた投光器二基。手書き式スコアボード。四本の旗がホームに向かって強くはためいている。打球が逆風を切るイメージを思い浮かべる。ラッキーゾーンまで九十一メートル、スタンドまで百十メートルなので、ラッキーゾーンはかなり広い。中堅はたしか百二十メートル弱、左右中間百二十メートル強。この球場の場外に打ち出したことをあらためて思い返す。信じられない。バックネット裏中段に、開放型の放送席と記者席。その後ろにも観客席がある。それを含めて両ベンチ上部まで銀傘が覆っている。
バッティング練習開始時間になる。監督、コーチ、カメラマンや記者たちが集まってくる。門岡相手に中が打っているあいだ、まず全員でフェンス沿いを一周。谷沢と太田が先頭を切る。微妙なざわめき、野次。
「いまんとこようやっとるぞー!」
「がんばりすぎやでェ!」
「打ってんじゃねえぞ!」
「呼吸困難なっても介抱したらんぞ!」
打順で五球ずつのバッティング練習に入る。私はグローブを持って外野へ球拾いに。ついでに柔軟とポール間ダッシュ。鏑木コーチが五十メートルのタイムを計る。
「五秒七七。球界一、二だと思います」
「高校時代はもっと速かったんですけど」
「オリンピックで十秒前後で走る選手でも、五秒五程度です。手動測定は速くなりがちです。いずれにせよ正確じゃないので、五秒九ぐらいだと考えておいてください。それでもずば抜けて速いです」
門岡、大場相手に高木、江藤が打ちはじめる。軽々とスタンドに放りこんでいく。彼らが終わるころに走り戻って、木俣とケージに入る。大場に外角カーブだけを要求して、流し打ちを十本。投球練習のじゃまにならないラッキーゾーンの真ん中あたりをライナーで狙う。出入り階段に四本、ラッキーゾーンに二本、金網フェンスに四本。ベンチの奥の椅子に座って仲間のバッティングを見つめながら、ローストビーフサンドを食う。
阪神の守備練習。ショート藤田平とファースト遠井がうまい。華麗さはない。中日の守備練習。セカンド送球二本、サード送球一本、ファースト送球一本、ホーム送球一本。セカンド以外はパフォーマンスと思ってやる。中日の外野はこれが板についた。ファースト送球は意外に思うかもしれないが、右翼手にも中堅にもサード送球があるからには、左翼手がファースト送球をやってもおかしくない。しかもオーバーランした選手を刺すことができる。
メンバー表交換。スタメン発表。球場にこだましながら穏やかな声が流れる。
「本日はご来場いただきましてまことにありがとうございます。間もなく阪神タイガース対中日ドラゴンズのオープン戦を開始いたします。タイガースはここまで十四戦して九勝五敗、ドラゴンズは九戦して九勝ゼロ敗。現在オープン戦二位と一位の戦いでございます。声援のほどよろしくお願いいたします。両チームのスターティングメンバーを発表いたします。先攻中日ドラゴンズ、一番センター中、背番号3……」
三番にファースト谷沢、四番にレフト江島、五番にキャッチャー新宅が入った。バスの中の通達とちがっている。
「王様と飛車角落ちかよ!」
「馬鹿にしとんのか!」
一塁側の内外野スタンドで激しい罵り声が上がる。水原監督が楽しそうに笑っている。
八十二
「つづきまして後攻阪神タイガース、一番レフト藤井、背番号19、二番セカンド安藤、背番号9、三番ショート藤田、背番号6、四番センターバレンタイン、背番号39、五番ライトカークランド、背番号31、六番キャッチャー田淵、背番号22、七番ファースト遠井、背番号24、八番サード後藤、背番号3、九番ピッチャー江夏、背番号28。審判は、球審田中、塁審は、一塁久保田、二塁竹元、三塁鈴木、線審は、ライト手沢、レフト太田、以上でございます」
トンボが入る。江夏の投球練習が始まる。ストレート、外角シュート、カーブ、ストレート、外角シュート、ストレート、キャッチャー田淵二塁へ送球。一球だけ投げたカーブの曲がりを見定める。小さなスライダーと思えばいい。大きく踏みこむ必要はない。あれがチーム全員の狙い球の最右翼だ。中がバッターボックスに入る。
「プレイ!」
一球目から内角低目へシュート。
「ストライー!」
二球目、内角高目ストレート、見逃す。ストライク。三球目、内角低目シュート、一塁線へゴロのファール。振らなければ三振だ。四球目、外角高目ストレート、ボール。
「次よ、次」
「フルスイング!」
五球目、速球が真ん中から外角低目へわずかにスライドした。パチーン! 猛烈な勢いでサード後藤の頭を越える。スライスした低い打球が白線を削った。
「ヨシャヨシャ、斬りこんだァ!」
レフトの藤井がクッションボールを捕りに走る。中が一塁を蹴ったあたりで、
「人殺しィ!」
という野次が一塁スタンドから飛んだ。中スタンダップダブル。
「サービスやで。これで打ち止めや」
三塁ベンチの上からも飛んでくる。球場全体が阪神ファンなのだ。二番高木、外角シュート、空振り、外角シュート、ファールチップ、内角ストレートで空振り三振。谷沢、高目のストレートのみできりきり舞いして三振。江島、初球の内角ストレートにバットを折ってサードゴロ。野次がぴたりと止んだ。江夏と当たって気の毒に、ということだろう。
一回裏、藤井、サウスポー伊藤久敏のカーブを引っかけて、一、二塁間へ渋いヒット。外野スタンドがドンチャンやっている。二番安藤、伊藤の速球にタイミングが合わず、セカンドフライ。三番藤田、外角カーブを打ってショートへ痛烈なゴロ。滑るような打球を一枝が掬い上げて高木へ送球。6―4―3のダブルプレイ。
二回表。水原監督がコーチャーズボックスへ小走りにいく。五番新宅。全球ストレート。食らいつくように振るが、あえなく三振。これで四者連続。
六番菱川、外角シュートを待って、三球目をガシ! バットの先なので伸びない。しかしライト前に落ちた。
七番太田、外角ストレート、シュート、ストレートでツーワン。すべて見逃し。太田は打ち球を決めている。内角ストレートだ。四球目、内角高目マッスラ(直球に見せかけたスライダー)、見逃してボール。五球目、同じコースの釣り球ストレート、振り切る。詰まった。フラフラとショートの頭を越えた。ワンアウト一、二塁。
八番一枝、ツーナッシングと追いこまれた三球目、外角シュートをしっかり捉えてファースト左へ痛打、遠井のグローブを弾いた。安藤の横へ打球が転がる。遠井が一塁へ戻る。安藤トス。一枝の足が一瞬早く、セーフ! 杉山コーチが、
「きたきたきたー!」
「打ち止め言うたやろうが! 何べんサービスしたら気ィすむんや!」
ワンアウト満塁。伊藤久敏、内外角低目の剛速球で三球三振。ツーアウト。
一番中。何かやる。ツーアウトになったので、内野はホームゲッツー狙いを解いてやや後退した守備位置をとる。江夏がしきりにロジンバッグに手をやる。初球、内角高目のシュート。抱えこむようにドラッグバント! 一塁前へゆるい打球が転がる。遠井がドタドタ突っこんでくる。江夏が一塁へ疾走する。遠井捕って振り向きざま一塁へ素早く送球する。中と江夏が交錯する。セーフ。菱川生還。一対ゼロ。
「吾郎何やってるんや! もたもたしよったら鬼が出てくんねんで!」
ツーアウト満塁のまま。江夏が肩で息をしている。高木の構えがピタッと決まる。真ん中から内側の速球ならすべて放りこむ。江夏は察してか、あえて内角高目のストレートを放ってきた。少し苦しいコースだ。見逃す。ストライク。二球目も同じコースだろう。二球目、田淵が腰高になる。同じコースに少し曲げてきた。
―アッ!
セーフティバント! 後藤があわててダッシュしたが、あきらめた。太田ホームイン。二対ゼロ。
「せこいことすな! 金棒(かなぼう)持った鬼軍団がやってええんかァ!」
「鬼はアタマ使わんと、金棒使え!」
怪しい雰囲気になってきた。水原監督が満を持した面持ちで球審のもとに歩く。
「中日ドラゴンズの選手交代を申し上げます。谷沢に代わりましてバッター江藤、背番号9」
ワーという歓声。少数派の喜びの雄たけびだ。三塁ベンチの後方で遠慮がちに鉦太鼓が鳴りはじめる。
「見てみい、ごっつい鬼が出てきてもうた」
「江夏ゥ、次は鬼の大将が出てくんねん。ここは辛抱やでェ」
五三振も取っているのに江夏の影が薄い。杉山コーチが、
「金太郎さん、次いって、お掃除よろしく」
「はい」
ウェイティングサークルに出て、素振りをする。江夏がしきりに足もとのロジンバッグに指をつけている。胸を張ってセットポジションに入る。江藤が前屈みに構える。鉄の剛直なバネのように江夏のからだがしなる。初球、真ん中高目の速球。チップファール。キャッチャーの胸にドンと当たる。
―あれ? ボールの上をかすった?
二回にして球威が落ちている。キレない。江夏は助かった。もとのままの球威ならホームランになっていた。江夏が一瞬落胆の表情を浮かべた。息が上がっているようには見えないので、握力が落ちたか、きょうにかぎって指のかかりが悪いにちがいない。ストレートは見せ球になる。勝負はコースを突く変化球だ。シュートの多投でくるだろう。対決の楽しみが減った。二球目、予想どおり外角シュート。江藤はクロスに踏み出し、スムーズにバットを振り出す。真芯。右中間一直線。あっという間に抜けていく。一枝と中が連続して生還、江藤は二塁へ滑りこみ、高木は三塁へ滑りこむ。四対ゼロ。
だれも江夏に声をかけにいかない。球界ナンバーワンの実力者だと信じているからだろう。その風采からくる威風を信じている。江夏は確かに平松や松岡と並ぶ実力者だが、いまの球界ナンバーワンは秀孝だろう。
バッターボックスに歩いていく私に水原監督からパンパンパンの檄が飛ぶ。歓声は三塁スタンドの片隅からしか上がらない。去年の甲子園はこうではなかった。声援の多寡はどうあれ、ホームランを打つ喜びに変わりはない。ホームランを打つことだけに集中しよう。
―打つのは外角。長打になる可能性の高い真ん中から内は投げてこないはずだ。
田淵が内に寄る気配を見せるが、フェイクだろう。初球、内角胸もとのストレート。ボール。フェイクではなかった。精妙なコース取りでホームランを避けながら凡フライや凡ゴロに打ち取るつもりか? いや、やっぱり見せ球かもしれない。もう一球見(けん)することにする。二球目、内角低目シュート。ストライク。見せ球だろう。こんな簡単な配球でいいのか。内角を意識させようとしても、自分の得意な内角を意識するはずがない。意識しなくても打てる。三球目、内角高目ストレート。ボール。ワンツー。
―どうなってる? 内角しか投げないと思わせたいのか。
そうか。試合前のバッティング練習だ。江夏はあれを見ていたのだ。しかし、だからこそ勝負魂を発揮してかならず外角へ投げてくる。あまり曲がらないパワーカーブでかならず勝負してくる。パワーカーブでなく渾身のストレートかもしれない。四球目、内角高目のシュート。ひっぱたく。明らかなファール。私もそのつもりで振っている。ただ、できるだけ恐怖感を与えるように、しっかり芯を食わせて大ファールを打った。
ツーツー。五球目、きた! スピードがある。少しでも外へ逃がそうとするマッスラだ。ふつうの歩幅で踏みこんで腰を強く回転させ、素朴に手首を絞る。
―よし、いった。
風を切ってグングン伸びていく。敵味方を区別しないホンモノの歓声が上がる。私も彼らも見たかった軌道だったのだ。レフト中段通路より上のスタンドに突き刺さった。長谷川コーチとタッチ。空を見上げながらダイヤモンドを回る。水原監督と抱き合う。
「金太郎さんの見上げる空を私も見上げたよ。空は未練と別れを一瞬のうちに感じられる。すばらしい」
「はい」
背中をポンポン、尻をパーン。仲間たちの中へ飛びこんでいく。村山監督と田中球審が江夏の傍らに立つ。江夏が肩を揺すりながらマウンドを降りていく。七対ゼロ。これで試合は決まった。
「ピッチャー江夏に代わりまして、山本重政、ピッチャー山本、背番号56」
十五点超えは必至かと思ったが、近鉄から今年移籍してきたこの山本というのが縦割れと横滑りのカーブを操る技巧派で、それから二回り十八人、八回ツーアウトまで一人も出塁できずまんまと封じこめられた。おかげで不穏な空気が徐々に和らいでいった。私はファーストフライとセカンドゴロだった。私のところで八回ツーアウトになった。そこまで阪神は、バレンタインのソロホームラン、藤田平の二点適時打で三点返していた。
八回表ツーアウト、バッターは木俣。ここまで十八人、引っ張って凡打を繰り返している。ボールが遅く、ホームベースのかなり前方から曲がりはじめるので、曲がり鼻を捉えられない。ここでこそバントをということで、一枝が試みたが、芯に当てられないのでキャッチャーの小フライになってしまった。私は杉山コーチに、
「五球に一球ぐらいストレートの外し球がきますから、それを狙ったらどうでしょう。それまでは、スリーストライク目をファールで粘るようにして」
「おし、わかった」
杉山コーチはタイムをかけてホームに走っていき、木俣に耳打ちした。
「おとなしゅうしとかんかい!」
「もう仕事せんでええねん!」
カーブ見逃しでたちまちツーナッシングになった。三球目、バットの届かないアウトコースの外し球。四球目外角カーブ、かろうじてファール。五球目内角をえぐるカーブ。かろうじてファール。
「この作戦、だめかもしれませんね」
六球目、内角低目、脛と足首のあいだにストレートを投げこんだ。クソボール。しかしバットが届く。木俣は目にも留まらぬスイングで掬い上げた。宇野ヘッドコーチが、
「オッケイ! 突破!」
木俣の打球がフックしてポールを巻いたとたん阪神ファンが、
「アホ、ボケ、死ね!」
これは貴重な一打になった。外し球のクソストレートを打つ―トップレベルの変化球ピッチャーを打ち崩すためのトップレベルの苦肉の策だ。実際に変化球を攻略しなければ打ち崩したことにならないが、苦肉の策としては最善のものだろう。
六番菱川。木俣と同じ方法で外し球を打とうとしたが、バットの届くところには一球もこなかった。セカンドゴロ。八対三。
八回裏。戸板登板。打者四人、被安打一、三振二、凡打一。八番後藤三振、九番山本三振、一番藤井私の前にヒット、二番安藤の代打鎌田セカンドゴロ。
九回表。太田、ホームベースの前に平行スタンスで立ち、カーブが曲がり切るあたりを目検討で叩く作戦でセンター前ヒット!
「つまり、太田はみんなふだんやっていることをやっただけですね。ボックスの前に立たなくても、変化球ピッチャーの変化球をふつうに叩けばいいということです。ぼくも手のつけられない変化球投手にはその方法でいくことにします」
八番一枝。太田と同じ方法で当たり損ねの打球を右へ打ち、ファーストゴロ。ランナーを進める。ワンアウト、二塁。九番戸板、カーブにかすらず三振。すっかりスタンドの歓声も拍手も野次も止んでいる。
ツーアウト、二塁、一番中。四打席目。何をやるのだろう。
「あー」
「やっぱり!」
「中さんの原点」
なんと中はここでアコーディオンをやりだした。ボックスの奥に立ち、カーブが落ち切る高さに合わせてピョコピョコやる。ストライクをボールに見せるためだ。胸板がドクドク動いた。最後の最後まで全力だ。そしてみごとにフォアボールで出た。ベンチじゅうが拍手の嵐になる。
これを見て高木が発奮しないはずがない。ツーアウト一、二塁。バッターボックスの真ん中に立つ。太田のやり方と同じだ。球を捉えたときのパンチ力は太田に劣らない。振り出すときの直観も太田より冴えているだろう。
初球から振りにいった。カーブを捉えられず、三塁線ファールが三球つづく。遠い外し球、ストレート、ボール。落ちるカーブ、ネットファール。滑るカーブ、一塁スタンドへファール。内角外し球、ストレート、ボール。ツーツー。八球目、頭の高さから落ちるカーブ、ついにジャストミート! サードへ低いライナーが飛ぶ。ベースに当たって撥ね上がる。フェンスへ転がっていく。太田ホームイン、中一挙に三塁へ。高木は二塁へ滑りこんだ。九対三。