七十七
バッター菱川。あと三人で平松を打ち崩す。菱川の狙い球は外角カーブかスライダー。思いどおりには投げてこない。セットポジションからの初球、外角スライダー。大きく曲がりすぎたので見逃す。ボール。二球目、内角低目へ高速シュート、引っかけてサード左へファール。一塁スタンドから、
「菱川ァ、色が白くなったぞ、一皮剥けたなあ!」
ドッと笑い。たしかに打てる雰囲気がある。野球には雰囲気というものがあって、観戦の際の非常に大切な要素だ。菱川はスタンドに向かって手刀でサンキューの身振りをして構え直した。左足を少しオープンにしている。狙いを変えたようだ。三球目、内角、腹へ曲がりこんでくるシュートを巻き上げた。杉山コーチが怒鳴る。
「オーッシャー!」
打った途端に場外とわかる打球だった。菱川は長谷川コーチとのタッチも忘れ、こぶしを突き上げながら高速でダイヤモンドを回る。水原監督とドシンと抱擁。場内に笑いが渦巻く。私たちともドシン、ドシンと胸をぶつけ合う。五対三。平松降板が告げられる。
「ピッチャー平松に代わりまして、池田、ピッチャー池田、背番号15」
クセ球の池田重喜だ。
「タコ、二者連続!」
一枝がプレッシャーをかける。太田は自分の仕事を忘れない。ノーアウトランナ―なしの状況では、塁に出ることが第一の仕事だ。その結果がホームランなら、まあよしとされる。まだたった二点差だ。
平松が降板するとは思っていなかった池田はまだ肩ができていなかったようで、太田をフォアボールで歩かせた。
「一枝さーん、お願い、うちの池田にも三振してあげて!」
おととしの江夏の新記録のことを言っている。笑いはなく、かえって池田は緊張して連続フォアボールを出してしまった。小川が、
「俺が五点差にしてくるわ。初球ストライクだから」
ホームランを打つという意味だ。宣告どおり、小川は初球の棒球を高々とレフトスタンドに打ちこんだ。水原監督の突き出した手のひらにパンチを入れておどけ、飛び跳ねながらホームインする。今年は彼の最良の年になる。まちがいない。
八対三。まだワンアウトも取られていない。攻めどころだが、小川の肩を冷やすのはまずい。小川本人もめずらしくブルペンへ出ていった。一番中。楽々と右中間二塁打。ピッチャー交代。
「池田に代わりまして、間柴、ピッチャー間柴、背番号48」
「だれ?」
サウスポーの投球練習を観ながら太田に訊く。太田は、球場正面口からもらってきたパンフレットを尻ポケットから出し、
「滋賀の比叡山高校からきた新人です。ドラニ。百七十七センチ、八十一キロ。これといった特徴はないですね」
球速はふつう。あまり切れないカーブとシュート。たやすく捉えられると思ったが、高木、江藤、私と凡打に打ち取られた。投球練習よりもカーブが落ち、シュートが浮き上がってきて、微妙に芯を外されたからだ。私は詰まったファーストフライだった。次打席ではカーブの曲がりぎわをレフトへ打つことに決めた。
四回裏。五番松原、手打ちの空振り三振。六番大橋、ヘッドアップして豪快に三振。六番近藤昭仁、キャッチャーフライ。
五回表。木俣セカンドフライ。菱川セカンドフライ。めずらしい。太田、カーブを叩いて当たり損ねのセンター前ヒット。一塁ベース上で首をひねっている。うまく芯に当たらないのだ。一枝、シュートにこつんと当ててセカンドゴロ。
五回裏。米田、私への浅いフライ。シングルキャッチ。間柴、三振。重松、私への定位置のフライ。
六回表。小川に代わってピンチヒッター日野、ショートゴロ。中、ボテボテのファーストゴロ。高木、サードライナー。間柴を攻略できない。
六回裏、速球ビュンビュンの渋谷登板。中塚、セカンドゴロ。長田、三振。江尻、セカンドゴロ。鉦太鼓が止んでいる。
「どげんかせんといかん!」
七回表。江藤がベンチを飛び出していく。一枝が、
「打ちにいくとやられる。打たんと三振だ。バントだな」
聞こえていないはずの江藤が、間柴が振りかぶったとたんバントの構えをした。間柴は驚いて、外す必要などないのに外角に外してきた。江藤はヒッティングに切り替え、強振して一塁の頭を抜いた。二塁打。ようやく鉦太鼓が戻ってきた。歓声が高まる。新人の間柴はたちまちそわそわしはじめた。内角に浮き上がるシュートで私をファーストフライに打ち取ったことを忘れている。サードの松原が駆け寄る。肩を叩いて落ち着かせる。
初球、すっぽ抜けてキャッチャーがジャンプする。今度はキャッチャーが駆け寄る。木俣のようには叱りつけない。これではだめだ。彼らの心は決まった。五点差をさらに広げないように敬遠でくる。私はその失投を狙う。二球目、外角ド高目、またキャッチャーがジャンプする。次だ。間柴はキャッチャーが捕れる範囲のクソボールへ軌道修正しようとするだろう。三球目、ボールが間柴の手を離れたとたん、大橋がキャッチャーボックスを出ようとする。外角遠い高め。少しジャンプすれば届く。踏みこみ、左足を蹴って飛び上がる。抜刀するように払う。弱いが、芯は食った。高く舞い上がる。方向は? レフトポール。あとは距離だ。一塁を蹴る。長谷川コーチの声が背中を追いかけてくる。
「足りる、足りる!」
捕られるか入るかだ。全力疾走。手沢線審の背中を見る。右手を見る。どうだ? 丸いからだの長田がジャンプ。よし、届かない。九十メートルをわずかに超えた。手沢線審の右手が回った。こんなに小さいホームランがこんなにうれしいのは初めてだ。ショートの米田から声がかかる。
「これから何百年も見れへんものを見たで!」
サードの松原が、
「何百年じゃない。野球がつづくかぎりだ」
水原監督と固く握手。ガッチリ抱擁。三塁スタンドがドガチャカ囃し立てる。
「私は命がつづくかぎり、金太郎さんのすべてを見守るよ」
「はい!」
尻をポーン。みんなと握手、抱擁。
木俣、外から中へ落ちてくるカーブを叩きつけてレフト上段へホームラン。菱川、ライト前へ痛烈なゴロのヒット。太田、三遊間深いところへ内野安打。ノーアウト一、二塁。一枝、三塁ベースをかすめて抜けるかという当たりを松原が好捕、ベースを踏んでセカンドへ送球、ダブルプレー。一枝は一塁に残る。松原はからだが硬いのか柔らかいのかわからない。硬そうに見えてあれだけの身のこなしができるのは、関節が柔らかいということなのかもしれない。渋谷、がんばったがピッチャーゴロ。十一対三。
七回裏。大洋は五番松原から。人のよさそうなオヤジ面。入団九年目、二十六歳、百八十四センチ、八十一キロ。ドロンとした固い動き。足が遅い。ホームランはけっこう打つ。ファーストとサードを交互に守っているが、ドロンとして柔らかいからだならファーストのほうが向いているだろう。
オ、すごい打球が転がってきた。腰をしっかり落として捕球する。こねるような硬い動きでここまでの打球が飛ばせるのは、やはり関節が柔らかいからだ。適度な量のホームランを打てる秘密がわかった。しかし、柔らかい関節と筋肉の硬さがアンバランスだとすると、年間を通して打てる本数にかぎりが出る。せいぜい三十本だろう。
六番大橋。つづけて私の前にいい当たりのヒット。松原が二塁を少しオーバーランしたので、高木へ強い送球をすると松原はびっくりして二塁へ足から滑りこんで戻った。二点ぐらい取られそうだ。
七番近藤昭仁。渋谷は内角のストレートとシュートでせっかくツーナッシングまで追いこんだのに、外角に無意味な外し球を投げて一塁線を抜かれた。松原生還。ノーアウト二塁、三塁。十一対四。ここで米田か。少し怖い。頭を抜かれないようにバックする。定位置のフライなら、足の遅い大橋を殺せる。太田が少し守備を浅くする。あれは正しい。ライトは打球の落ちる位置が定位置よりも左右にズレただけで二者が生還する。浅い位置で打球を抑えれば、三塁ランナーをホームで殺せる。レフトは頭上か左中間を抜かれないかぎり、二者は生還しない。定位置まで走ってフライを取れる位置に後退していれば、どうにか三塁走者を殺せる。ゴロでヒットが転がってきたら、三塁ランナーをあきらめる。
初球、キャッチャーへフライが上がる。木俣が追いかけたがバックネットにボールが接触した。二球目、センターフライが上がった。これは一点だ。しょうがない。大橋生還。中のするどいセカンド返球で、近藤昭仁は二塁に留まった。ワンアウト二塁。十一対五。
間柴に代打が出る。ベテラン、江夏殺しの林健造。渋谷は殺せず、ショートゴロ。ランナー二塁のまま。一塁スタンドがうるさい。盛んに何か野次っている。腑甲斐ない大洋の攻撃を見て、イラ立ちが頂点に達したようだ。一番に戻って重松。また代打が出た。佐藤一誠。だれがだれやら、もうどうでもいい。三振。
八回表。大洋のピッチャーが森中千香良に代わる。一番中から。打ちやすいピッチャーというわけではないが、もうだれもあえて考えて打とうとしない。自分の最高のスイングでホームラン狙いになる。中、右中間へセンターライナー、高木左中間前段へソロホームラン、江藤レフト上段へライナーのホームラン、私ライトへ場外ホームラン、木俣左中間二塁打、菱川ライトライナー、太田センター大飛球。
八回裏、戸板登板。中塚、長田、江尻と三振。
九回表、一枝レフトライナー、戸板セカンドゴロ、中、ライト中段へ突き刺すソロ。高木ショートゴロ。
九回裏、秀孝登板。江尻、松原、大橋と三振。三時四十四分ゲームセット。十四対五。勝利投手小川、敗戦投手間柴。
「本日は最後までご観戦いただきまして、まことにありがとうございました。当球場での次の試合は、あす二十三日……」
インタビューはベンチ前で十分。監督と小川が受ける。私たちはロッカールームで待機。ここの狭くて汚い風呂に入る選手もいるらしいが、ドラゴンズには投手陣のほかにはいない。途中降板したピッチャーがシャワーを浴びる程度ということだ。風呂場の横に落とし便所と小便器がある。それはやむを得ず利用することはある。ただ、球場従業員の女子便所の一つがこの廊下沿いにあるので、出くわした女性たちも選手どもも気まずい思いをすることがままあると小川や英孝から聞いた。何の関心もない話だが、とにかく汚くて不便な球場なのだ。
ロッカールームでの水原監督の説教。
「きょうも八回から力を緩めたね。野球はボクシングとちがって、テンカウントKOでサヨナラというわけにはいかないんです。観客は才能ある者たちが九回を、ときには十五回を全力で戦う姿を見たくて球場にきてるんです。敵に情をかけるのはその観客を裏切る行為です。点差が何点開こうと開くまいと、彼らは全力で戦い終える姿を見納めて家路につきたいんです。あしたを生きる活力を得るためにね」
「オス!」
「八回、九回に、合わせて四本のホームランが出たではないか、全力でやったんだときみたちは言うかもしれない。あれは打席ごとの探求心を捨てて、ただホームランを狙っていただけだ。見ればわかります。顔とスイングに油断があった。いいかい天才たち、天才の使命はその才能を愛でる人たちに才能を全快して示すことです。ゼロ封されてもいいんです。才能を全開した結果ならば。もちろん五十点取ってもいいんです。才能を全開した結果ならば。たしかに全力でやれば疲れるでしょう。しかし、全力をフルに出し、疲労することは才能を持って生れてきた者の宿命なんですよ。……もうひとこと。控えとして登用される選手の全開ぶりがいかにも腑甲斐ない。三振したからじゃない。凡打したからじゃない。その仕方なんだ。見どころがあったのは谷沢くんと江島くんだけです。七回までのレギュラーたちの奮闘ぶりを見ましたか? 日本プロ野球界が誇る奮闘ぶりです。だからこそ、八回以降の油断が目についた。今後いっさい、同情や油断はやめてくれ。私はきみたちの野球にいつも胸躍らせていたいんだ。私の心臓を死ぬまで熱く打たせてくれ。わかったね!」
「はい!」
「やります!」
「すみませんでした!」
「千原くんと省三くんは、名古屋に戻って日米戦まで毎日打ちこみ二百本。日野くん、坪井くん、西田くん、井手くんは、名古屋に戻って、開幕まで基礎体力をつける特訓をすること」
「はい!」
「わかりました!」
「じゃ、本多さんと井上さんはあしたの午前、彼らといっしょに戻ってやってください」
「ほいきた!」
七十八
バスの中で江藤が、
「鼻の穴と耳の穴はよう掃除しとけよ。川崎にきたときは真っ黒になるけんな」
「工場群のせいですね」
「おう、伸びた鼻毛も小バサミで切っといたほうがよか」
太田が私に、
「名古屋いきを命じられた連中の理由は何ですかね」
「千原さんと省三さんは、ボールをとらえる確度、あとの三人は振りそのものの弱さだね。……モノになるのは省三さんだけだろう。バットの軌道が安定してるのは彼だけだから」
「身贔屓でなかばってん、ワシもそう思う。千原は三年前に、本多さんの強力な推薦で打者に転向したばってんが、伸びんかったな」
「上半身だけで打つのでスイングが揺れます。ボールを正確に捕らえられないのはそのせいです。長年のものに思えますので治らないでしょう。太田はアッという間に治ったんですがね」
「ピンポン球連射でしたね」
太田が頭をさすった。一枝が、
「井手を水原さんが切らないのは、金太郎さんに気を使ってるのかもしれんな。東大出身のたった一人の同僚がいなくなったらさびしくなると思って」
「まったくさびしくならないです。努力以前に才能のない人はプロにきてはいけません。悲哀感がただよいます。観客にそんな気持ちを抱かれたらいたたまれないでしょう。東大は一種の売りなので、なかなかクビにならないんじゃないですか」
高木が、
「売りがホームランというのは、だれでも持てる名誉じゃないよ。金太郎さんが大秀才で通してきたという事実を知ってるやつはほとんどいないからね」
「ぼくの売りは〈親不孝者〉です。プロ野球にそんな選手は一人もいないですから。ホームランが売りの選手はたくさんいます」
「ワシらを親やと思っとるんやろう?」
「はい」
「ほなら、最高の親孝行者たい。売りはやっぱり〈打てばホームラン〉やのう」
中が、
「鉄砲肩も守備も足も、ぜんぶ売りだよ」
駐車場に蝟集するファンに拍手とフラッシュで迎えられる。中が、
「ぼくと親分たち中年どもは鮨にいくよ。あした帰るコーチや選手といっしょに」
江藤が私や菱川たちに、
「舟屋はやめて、たまにはちゃんとステーキ食わんか。アーケード階の『リブルーム』に六時にいっとるけん。予約とっとく」
太田が、
「オス。六時にいってます」
部屋に戻ってシャワーを浴び、帽子を洗い、耳の掃除をする。それほど汚れていなかった。鼻毛も伸びていない。ユニフォームとシャツとストッキング類を小型の箱に詰め、ジャージを着てコーヒーをいれる。カーテンを開け、ソファに座る。ローテーブルに東京中日スポーツの朝刊が置いてある。中日の文字が朱色だ。夕刊フジも置いてあった。その見出しに、
天馬驚愕の返球スピード一六三・七キロ
三塁側記者席から光電式装置で速度計測
松原のオーバーランを見て返球した際のスピードのようだ。弓なりに浮き上がったと書いてある。ジャンプして打ったホームランのことも二面に長々と書いてある。飛び上がる姿が紙面半分を使って大写しされていた。東京中日スポーツには、ドラゴンズは日米戦で記録的な大差勝ちをするだろうという予想が書かれていた。
二階のロビーに降り、フロントの配送テーブルに小箱を差し出す。とき折りフラッシュが光る。一階のアーケード階へ降り、リブルームにいく。ショーウィンドウに五つの生々しい肉チョップが飾ってある。黒毛和種牛の表示板の下に、左から順に松阪牛、近江牛、神戸牛、赤毛和種牛の下に、熊本牛、高知牛が並べてある。
中央に洋酒棚を据えた広くて薄暗い店内に入る。カウンターもテーブルも椅子も天井もすべて焦げ茶色だ。すでに江藤、小川、一枝、太田、菱川、秀孝、戸板の七人が四人掛けテーブルに向かい合って座っている。ビールをやっている。挨拶して、江藤と小川と一枝三人の卓につく。
「どの夕刊も金太郎さんのジャンピングショット一色ばい。手首返しとらんごたるな」
「薙ぎ払っただけです。ああいうことは一か八かでしかできません。ランナーがいなければ敬遠で出ます。……一回でも敬遠を減らそうと思って」
「減らんやろう。ばってん、ワシもこれからは打てる球は打つばい」
グラスにビールをつがれる。小川が煙草をふかしながら、
「ワインもあるよ」
「いいです」
肉の焼き方を聞きにくる。私はウェル、江藤と菱川はミデイァムレア、ほかの全員がミデイァム。私は味わい分ける舌はないので、知っている地名という理由だけで神戸牛のサーロインステーキ百五十グラムとライス、江藤と太田は熊本牛のボルケーノ(山の形をしたステーキ)百七十グラムとライス、ほかの五人は松阪牛か近江牛のヒレステーキ二百グラムとライスを注文した。全員の皿に添えられる付け合わせはベイクトポテト、フライドポテト、旬野菜のグリル。一枝はグラスワインを頼んだ。小籠を持った黒服がやってきてつぐ。男が去ると、
「このグラス一杯二千円だよ」
「ヒェー!」
「新進気鋭のワイン、アルテミス。クラシックを聴きながら飲むと最高だよ」
気取りもなく、ぐいと飲む。
「金太郎さん、オープン戦が終わったら、第二弾を送るからね。学校で聴いたことがあるような、ごくごく古典的なところを選んで送る。退屈しながらでもせいぜいくつろいでくれ。通らなくちゃいけない道だからさ」
「ありがとうございます」
「モーツァルトとかショパンのようなすごいところは自分で漁るんだな」
「はい」
うまい肉だ。ポテトも野菜もうまい。小川が、
「女にも聴かすのか」
「いや、ヨイショヨイショとやるだけ。味気ないもんだ。音楽は味気がある。慎ちゃんはラテンだったな」
「おお、ラ・マラゲーニャだけでなかぞ。ラ・バンバ、チコチコノンフーバなんてのもよかばってん、ラテンポップスがいちばん好きやのう。アマポーラ、コーヒールンバ、べサメ・ムーチョ、シェリト・リンドなんかな」
戸板が、
「みんなすげな。オラだっきゃ流行歌ばりだ。ほかになんも知らね」
私は、
「それでじゅうぶんですよ。くつろげるものを持ってる人は、みんなと仲よく暮らせる。星野さんも漫画があります。いや、何もなくていいんですよ。いちばんくつろげる野球がありますから」
太田が、
「俺は正真正銘、野球だけです。それと野球の雑学かな。あとは神無月さんの観察。大きなくつろぎです」
菱川を見て、
「菱さんには意外な趣味があるんですよ。野球選手のスケッチ。目で記憶したものを寮に帰ってから画帳に描くんです。部屋じゅう画用紙だらけです。レギュラーのスケッチは全員あるのはもちろん、他球団の主要選手のものもほとんどあります。精密で、すごいです」
「思い出す訓練だ。描いたことそのものを思い出すんじゃなく、どんな印象を持ったせいで描いたかを思い出す。こいつは流し打ちがうまい、こいつは引っ張り、このピッチャーのシュートは切れる、ストライクを早めにとってくる、コントロールが悪い、などなど、現場に戻ったとき考えなくてもすぐに思い出せるようにしてるんだ。そういうことに関しては、ドラゴンズのだれもぼんやりしていない。俺はスケッチで印象を焼きつけるようにした。絵を描くことも一種の楽しみだしね」
「なるほど。ワシはメモやな。金太郎さんは?」
「素振りです。出会ったピッチャーをイメージしながら振ります。それから現場の守備です。守備についてるとき、相手バッターの長所や欠点を記憶します。そういうことは野球をするうえで役に立つ〈鍛錬趣味〉と言えますね。野球に役立つことだけが有効な趣味じゃありません。音楽や映画や読書もまったく野球に不必要に見えて、じつは野球に役立ってます。役立てようと思わなくても役立ってます。それをやることで毎日の心持ちがゆったり保てるので、結局プレイにも響いてくるからです。精神的に余裕を持てるような趣味なら、野球ばかりでなく最終的に人生にも響いてきます。クラシック、ラテン音楽、歌謡曲、野球知識、スケッチ、漫画、散歩、趣味はいろいろ変化して発展します。それが人生を彩るんです」
秀孝が、
「こういう会話も人生を彩るんじゃないですか。尾瀬の山奥から名古屋に出てきて中日ドラゴンズに入団し、初めてこういう会話に触れました。こういう話を聞いたりしたりすることがぼくの最高の趣味になったんです。楽しい野球をして楽しい会話をする。信じられない生活です」
小川が、
「おととしまで菱川は何もしゃべらなかったんだぜ。しゃべってたのは慎ちゃんと俺と修ちゃんだけだ。野球選手は黙ってサッポロビールだったんだ。わかるな? しゃべらせてくれる人間がドラゴンズにやってきたんだよ。水原さんと金太郎さんだ。無口だった菱川もモリミチも達ちゃんも小野親分もしゃべるようになった。金太郎さんの言う、仲よく暮らすというやつだ。団結などという堅苦しいものじゃない。精神的余裕からくる仲よし状態なんだ。そしてしゃべるやつだけでドラゴンズが鬼軍団になった。名古屋に帰されたやつを見てみろ。俺たちとしゃべらないやつばかりだ。省三だって兄貴に敬礼ばかりしてるありさまだ。やつだけでも引っ張りこんでやれ」
「わかった!」
江藤が大声を上げた。小川はしゃべりつづける。
「今年で親分も俺も辞める。水原さんと金太郎さんとしゃべるやつを集めてスクラムを組まないと、五、六年もしないうちに、鬼軍団が人軍団になるぞ。慎ちゃん、修ちゃん、頼んだわ。水原さんや金太郎さんは理を通すことにきびしくても、究極のところ人間的におとなしい。失望するとケツをまくって去っていくタイプだ。気に入って近づいてくる人間にしか心を開かないから、俺たちぐらいしかその真価と輝きがわからない。ドラゴンズの無口なやつらに二人の貴重さを教えてやってくれ。やつらが二人を中心に集まってしゃべるようになったら、十連覇も夢じゃない。秀孝、戸板、おまえたちの存在は重要だ。少しぐらい才能がないと思っても、バカにしないで仲よくしてやれ。それで何人か救えるかもしれないぞ」
「はい―」
私は〈しゃべり〉だした。
「幼いころを振り返って考えても、ぼくに野球をやる必然性はなかったんです。ただ野球がうまかった」
菱川が、
「いや、天才でした!」
「ありがとうございます。……で、ぼくはそのことがうれしかった。すると、自分がうれしがってるだけじゃなく、ぼくに野球の道に進んでほしいと願う人がたくさん出てきました。それをぼくの幸福だと考える人がチラホラ出てきたんです。飯場時代にそれがピークに達しました。無名のぼくを有名にしたいと願う人たちです。チラホラが目立った数になっていきました。……ぼくの中に野球の能力に対する誇りが芽生えました。その誇りのままにぼくもその道に進みたいと願うようになりました。ぼく自身の人生ですから誇りを持って進もうと願ったんです。でも、プロなんてとんでもない、挫折する可能性がほぼ百パーセントだ、挫折するとわかっててなぜ進むんだと、その誇りを潰そうとする人たちもいました。その代表が身内である母でした。そういう人たちにとって優秀な企業人が社会のトップだと認識されてました。……疑問を持つかどうかは願いの強さに比例します。疑問を持たずに威嚇に従って願いを放棄するのもある種の美徳でしょう。思考放棄という名の究極の従順さは社会人の美徳とされてますから。しかし彼らの常識が正しいかはわからない。正しいかどうかわからない人たちにただ従えばいいのか? 自分の思いこんだ道を進もうとすることは、まちがいなく、社会的な美徳を打ちひしぐものです。でもそれこそ勇気の正体でしょう。誇りの貫徹という勇気です。誇りがあるから人は夢中で突き進むことができる。誇りが人間を決めるんです。その人間の行く手を決めるんです。大切なものを守りつづける人間には、誇りと勇気が備わっている。そう気づいて以来、不思議なことにぼくの前に現れる人たちはかならず、勇気を持って誇りある行動をしろと言う人ばかりになりました。……しかしそこまで励まされながらようやくプロ野球人になれても、もし野球がうまくなければ、ぼくも小川さんの言うような〈無口なやつら〉になっていたかもしれません。ぼくにも起こり得たことです。でもそうならなかった。野球がうまかったことを神に感謝しています」
いつものように江藤が目を潤ませながら私を抱き締めた。一枝が、
「神が神に感謝する、か。胸にくるよ」
小川が、
「これがしゃべり合うということだよ。仲よしということだ。鬼軍団になるはずだ」
全員食後にコーヒーを注文した。周囲を見回して、宿泊客たちがいたことにようやく気づいた。
†
ネネは約束どおり九時にきて十一時に帰った。夢に見たとおり濃密に交わり(彼女のからだはつつがなく健康に反応した)、夢に見なかったやさしい会話を交わした。
七十九
三月二十三日月曜日。七時起床。晴。三・四度。独りで清水谷公園三周。三種の神器。
うがい、軟便、シャワー、歯磨き。乾いた帽子をダッフルに入れる。江藤や木俣たちが誘いにきたので、舟屋へ。和食バイキング。鮭、卵焼き、ウインナー、納豆、ひじき、タケノコ煮、味噌汁、どんぶりめし。食い終わると、江藤や高木たち五、六人はトレーニングルームへ。
朝のロビーは帰名組であわただしかった。私は本多二軍監督と井上コーチといっしょに立っている省三と千原の前に進み出て握手した。
「陳腐ですが、初心忘るべからず。練習は試合と思って全力でやること。限界だと思うまでやらないこと」
「はい」
「千原さん、ボールを上半身で迎えにいかずに、腰で迎えにいってください」
「はい」
「プロの道に進むのは簡単じゃありません。でも進めたからには、残されているのはそれまで以上の努力だけです。未来は自分にさえわからない。ただ懸命にやりつづけるだけです。大切なのは長打じゃありません。安定したスイングでボールを捉えることです」
「はい」
水原監督と吉沢コーチと木俣が並んでやってきた。
「省三くん、千原くん、よかったね、金太郎さんに声をかけてもらって。将来の保証書をもらったようなものだよ。二人ともまだ二十八歳だ。これからが勝負だよ。日米戦まで名古屋でがんばりなさい」
「はい!」
木俣が、
「俺、二つ年下です。遠慮なくこき使ってください」
省三が、
「プロは年齢じゃ……俺プロ入り四十一年ですから」
「千原さんと俺は三十九年で同期なんだ。ドラフト一年前。まあ、仲よくやりましょう」
水原監督が笑って去っていった。本多二軍監督と井上コーチがかすかに私に頭を下げた。吉沢コーチはほかの帰名組四人のほうへ歩いていった。吉沢は彼らといっしょに帰名せず絶えず一軍に帯同する。ブルペンキャッチャーが必要だからだ。
木俣といっしょに五階へ上がる。
「よく声をかけてくれたね。省三さんはいつも兄貴から声をかけられてるだろうけど、千原さんは……だれも……毎年正念場で苦しい思いをしてたから……サンキュー」
「とんでもない。靴屋に引き取られて修業するよりは、腰の技術をマスターするほうがやり甲斐があるでしょう」
「一人でも気に入った選手がいれば、ファンは球場にきたくなるからね。プロ野球選手なら少しでも気に入られる努力はすべきだよ」
十号室に去る木俣の背中を見送り、部屋に戻って忘れ物の点検。十一時半まで仮眠。
歯を磨き、ブレザーに着替え、ダッフルとバットケースを担いでロビーに降りる。ほぼ全員がファンたちに囲まれ、しばしサインをする。
十二時。ホテルバスで羽田に向けて出発。水原監督、足木マネージャー、鏑木トレーニングコーチ、池藤トレーナー、宇野ヘッドコーチ、杉山コーチ、長谷川コーチ、森下コーチ、中、高木、江藤、私、木俣、菱川、太田、一枝、新宅、小野、小川、秀孝、ほか数人の控え選手、投手陣、打撃投手。ブルペンキャッチャーは高木時コーチと吉沢コーチの二人(どちらかが出場するときは一方がブルペンに入る。有力なキャッチャーが求められているがなかなか育たない)。
別の交通手段で前後して帯同する球団職員というのもいる。広報数人(レギュラー以外のバッティング投手をコーチと協力してやることもある)、用具係数人、現場スコアラー一人、先乗りスコアラー数人、配下トレーナー二人、マッサージ師一人。彼らは会食には参加しないし、どこに宿泊しているかもわからない。
航空会社やバス会社とのやりとり、宿泊するホテル、選手の家族からの要望や苦情への対応は、足木マネージャー一人では処理し切れない。広報の職員がそれをやる。ファンの集団を掻き分けて進路を開く役回りにも彼らが加わる。試合に遅れるという事態をけっして作ってはならないからだ。去年のシーズン半ばになってやっと、試合開始前にグランドをうろついている背広姿たちの正体を知った。
「ヤッヤッヤーヤはやめましょう」
私が言うと江藤が、
「あ、ヤクルト戦ではやらんかったの」
「ぼくも忘れてました。ベンチ前の景気づけなんか素人野球じみているので、やはりやめたほうがいいと思います。つららない提案をしてすみませんでした。ドラゴンズに景気づけは必要ないですよ」
「点差が開いて負けてる試合でときどきやらんね」
「そうしよう。ときには必要だ」
高木が賛成してスンナリ決まった。
一時に羽田を発って、二時五分伊丹着。天候快晴。六・六度。国道171号線。竹園旅館が雇った阪神バスで芦屋に向かう。ここから一時間弱。田園地帯ではないアスファルトの田舎道。バスの後方に遠い山並。マンションや事務所や商店の混じった紛れもない住宅街なのだが、閑散として居心地が悪い。甲武橋。武庫川を渡る。広すぎる空。閑散の度合いが増す。みんな目をつぶっている。私も目をつぶる。
神戸線のガードをくぐり、家並は低いが少し都会色の濃い2号線に出る。上宮川の信号を右折。ケヤキ並木の見慣れた景色の中を走る。国鉄東海道線のガードをくぐって上宮川橋を左折、国鉄芦屋駅前から右折して、なつかしい竹園旅館を囲む歩廊の下に出る。バスを降りる。降りるときは監督コーチから、乗るときは控え選手からになる。
ここの群衆はものすごい。歩廊の下のビルの入口にわんさと群れつどって、ひっきりなしに声援し、仕切り縄を気にせずにサイン帖を突き出す。ただ、阪神ファンとちがって行儀がよく、ぜったい触ってこない。ビルは通路の役目しか果たしていないが、得体の知れない店飾りを施してある。その入口付近に洋服の男女が姿勢よく立っている。フロントロビーの従業員たちだ。彼らに導かれて階段を昇り歩廊に出る。くねくねと歩き、赤いマットを敷いた館の玄関に着く。白シャツに黒スカートの老若の女たちが最敬礼で出迎える。設楽ハツの顔もある。二人にしかわからない柔らかな視線を交わす。
三時を回っている。チェックイン。中央に大花瓶が置かれ、膝高の平ソファが整然と並び、壁に書の額が何枚か飾ってあるきりの簡素なフロントロビー。世羅別館とちがって、館内からファン、報道陣は締め出されている。足木マネージャーが、
「六時半から三階の宴会場で会食です。経営フロントはきません。監督発案で、日米戦に向けての一足早い激励会だそうです」
五階八号室、シングル。ニューオータニと同じ部屋番号順。それぞれ自室に入って三時間の待機になる。ジャージにズック靴で玄関先に出る。歓声。フラッシュ。背広が二人飛び出てくる。松葉会の組員だ。手のひらで押し留める。設楽ハツともう一人の女も出てきて、
「お散歩ですか?」
「はい。芦屋川を上流のほうへ」
ハツも去っていなかった。世羅別館の勢子も同じだろう。ハツの丸い腰を見て、蝶の小陰唇と激しいアクメを思い出す。彼女も同じようなことを思い出しているだろう。旅館を見上げる。周囲がたちまち人だかりになる。ハツの相棒の細面が、
「昭和二十八年に開館して以来、この旅館は巨人さまのご愛顧のおかげで有名になりました。阪神さんや中日さんも定宿にするようになってからはすっかり人気も定まって、修学旅行のお客さんもどんどんいらっしゃるようになりました」
まるで観光ガイドだ。ジャージ姿の太田と菱川も出てきた。ふたたび歓声。フラッシュ。菱川が、
「付き合います。桜を見ましょう」
太田が、
「みなさん、ゆっくり散歩させてください。これも試合前の調整の一つですから」
人群れが玄関に留まり、背広が一人、腕章をつけたカメラマンが四、五人ついてくる。菱川が、
「そんなこんなでよっぽど繁盛したんでしょう、十年くらいのあいだに一度改装して、三階建てから五階建てになったらしいですから。俺が入団してからも一度改装して八階建てになってます」
彼は旅館を振り返って、
「八階の上にちょこんと突き出てる平べったい建物があるでしょう。六甲山系を眺めるために作られた大浴場です。大浴場と言うほど広くないですけどね」
「一度入ったんじゃなかったかなあ、みんなで」
「あそこでしたっけ」
背広もカメラマンたちも振り返って見上げる。シャッターの音がする。近隣の景色に溶けこまない高層建築物だ。駅前通りを川のほうへ歩いていく。一定の距離を置いて背広もついてくる。カメラマンに訊かれて、警備会社の者だ、選手たちも了解している、と答えている。
ビル造りの食い物屋と飲み屋の多い商店街が延びている先に、ビル造りの住宅街が現れる。戦後二十数年で木から石へ変わった街。日本中がこれだ。この世への未練を断ち切ってくれる大きな要素だ。駅前通りの終点、大正橋に出る。堰石に縁取られた細い芦屋川沿いの桜並木が七分咲きだ。松の緑も混じっている。散歩者が多い。祖母に手を引かれる男の子の姿、バッグ片手に白いブラウスに紺のミディスカートを穿いた女の姿、たまに往来するバスや乗用車の姿。この川岸だけは見覚えのある古い日本のようだ。
「いいなあ」
「いいですね」
「こういうところは、市電がいなくても見れるね」
カメラマンの一人が、
「見ごろは四月の上旬です」
「いまもじゅうぶん見ごろです。地面に花びらが一片(ひら)も落ちていない。清潔な静けさがあたりに滲みわたってます。少しくらい雨が降っても落ちないんじゃないですか。命の盛りですから」
太田が、
「風はヤバいですね」
「風はね」
橋の中央に立って上流を眺める。遠くに六甲の山並がある。麓に市街が広がっている。上流へ向かって岸辺を歩きだす。松ノ内町。横丁へ入ってみる。瓦屋根、古びた板塀、緑の木群れ、電線。処々に桜が咲いている。連続するシャッターの音。川辺に戻る。月若橋を渡って向こう岸の散策にかかる。瀟洒な住宅がつづく。羽織外套をはおり襟巻を巻いた老女の団体が観光バスから降りてきて、ガイドに連れられて歩きはじめる。学生服を着た大学生らしき二人連れが前をいく。阪急芦屋川駅へ入っていった。大利昭文堂という古びた煙草雑貨雑誌店。自販機が据えてある。ガードをくぐる。左の細道に興をそそる長い板塀が見えたが、入りこまずに直進する。
豆腐や油揚げを売っている店があったり、坂道があったりして、なかなか趣深い道になってきたが、見下ろすと、河原の手入れが雑になってきているとわかったので、開森(かいもり)橋を渡って引き返す。子供らしいチェックの半オーバーを着た小学生たちが、芦屋神社参道⇒という標示板の立てられた路上で遊んでいる。
「あ、中日ドラゴンズの神無月だ!」
「太田と菱川もいる!」
走り寄ってきて見上げる。
「どうしてここにいるの?」
「あした阪神と戦うんだよ」
フラッシュが何発も光る。
「阪神に負けるよ」
菱川が、
「負けないようにがんばるんだ。応援してね」
「阪神を応援する。でもがんばってね」
太田が、
「うん、がんばるのがプロ野球選手だからね」
「まだオープン戦や。負けても気にせんでな」
「プロ野球選手っておっきくてカッコええなあ」
一人ひとりと握手する。
歩き出す。巨大な保育園。福岡の保育園に輪をかけて巨大だ。芦屋の幼児を一手に引き受けているのだろう。蘆屋川駅に突き当たって左折し、線路沿いに歩く。一瞬樹木が途絶える。左側に住宅群が現れ、緑が復活する。ところどころガードがあるが、くぐらずに直進する。太田がカメラマンに向かって、
「神無月さんにくっついて散歩しているうちに、人がどこにでも住んでいるってわかったんです。人の周りには人しかいないって。たいていあんまり人に遇いませんけど、人を感じながら歩いてるんですよ。都会を散歩するのが少ないのは、モロに目の前に人がたくさんいると、人を感じる喜びがなくなるからです」
「じゃ、人嫌いというのは……」
菱川が、
「デマだね。神無月さんぐらい人間が好きな人はいないよ。下心のある人間は人間でないと思ってるから、根本的な人間嫌いじゃない。もし無差別に人間嫌いだったら、あなたたちだってこんなに長くいっしょに歩きたとは感じないでしょう。写真を撮りたいというだけじゃない、あなたたちの下心でない部分が神無月さんに反応するんですよ」
松葉会の背広が微笑して聴いている。