七十四

 三十分ばかり野球をやったあと、直人を千佳子とキッコにまかせ、グローブとスパイクを磨く。ダッフルに入れて整理しているとき、ヒデさんに誘われて部屋を見にいく。とんでもない整い方だ。調度は届いたばかりの机、コーヒーテーブル、大きな書棚、いくつか慎ましく化粧品が載っているかわいらしい鏡台、押入に入れない蒲団がカーテンの下に畳んである。部屋の隅にこじんまりとした箪笥が一つ。
「きちんとしてる。ヒデさんそのものだ」
「ムッちゃんには敵いません。本の散らかし方まできちんとしてます。和子さんとムッちゃんは私の理想です」
「あとの人たちは?」
「すばらしい先輩たちです。立派な模範です。四月一日から牛巻坂がいよいよ連載開始ですね。お父さんはもう河北新報を一年分予約しましたよ。三部。神無月さんに送られてくる分も二部あるので、ぜんぶで五部です。切り抜いたうえに、回し読みしないですみます」
「少しでも読むに値する文章だといいね。書く人間は夢中だから価値のあるなしはわからないし、関心はそんなところにはない。書きたいと思うことを、その思いの焦点に向けて書けるかどうかだけだ。その焦点に共感する人間は関心を抱くし、共感しない人間は二束三文だと判断する。どちらも正しい。ヒデさんにとって前者だといいね。後者でも一向にかまわない。文章ではなく、ぼくを愛してくれてるから」
「後者でも、愛があればいいんですか?」
「そう、愛があれば何も言うことがない。ヒデさんの気持ちはわかるよ。ぼくの書くものは価値のある文章だと言いたい気持ちがね。でも、あの森から助け出されるまでのぼくは、ただ、ボールを打ちたい、文章を書きたいという、自分の欲望だけの人間だった。それができなければ死んでしまいたいとまで思いつめる人間だった。それができないことは死にたいほどの苦痛だったからなんだ。……でも、ぼくが欲望を持つことについては、欲望が果たされないことについては、ぼくを愛する人には何の罪もない。ぼくが死んだらぼくを愛する人はどれほど悲しむだろう。ぼくを愛する人にとっていちばん大事なのはぼくの命だ。ぼくが死なないことだ。悲しみなどという罰を受けるのは理不尽だ。それに気づいてからぼくは、きちんと考えるようになり、きちんと疑うようになった。ぼくを愛する人にとって大事なのは、ぼくがボールを打ち、文章を書くことなんだろうかってね。ぼくにとって大事なことは、欲望に頓着しないこと、愛する人を悲しませないことなんじゃないかって。ぼくは愛する人を悲しませようとは思わない。彼らの悲しみはぼくの命を根こそぎ奪う。死にたいほどなんて生やさしいものじゃなく、即座に奪うんだ。―だから、ホームランや文章の価値なんかどうでもいいということになったんだよ」
 ヒデさんは私を固く抱き締め、
「郷さんがいろいろな文学的勲章を拒否する理由がわかりました」
「うん、そんな芸術的覚悟のない文章家に、芸術家の称号を与えちゃいけない」
「与えられる愛に拘りながら、勲章と関係なく書きつづけてください。拒否する理由は〈芸術家的覚悟〉などという安っぽいものじゃないってわかったんです。郷さんの文章には価値があります。その価値を信頼しすぎて、愛のある人たちをないがしろにしてはいけないって〈人間的覚悟〉をしたんだと思います。……たしかに文章の価値は曖昧です。自分はすごいと悦に入って、ごまかして書いてる人も多い感じがします。その人たちに並べられるのもいやだったんでしょう。でも、ホームランは目に見える価値があるんです。とりわけ郷さんのホームランには、だれの心も捉える価値があります。私の愛する郷さんは、人間でもあり、野球選手でもあります。そしてまちがいなく芸術家でもあるんです……。そのぜんぶが私には大切なんです。欲望を持ちつづけてください」
「ありがとう。打てるかぎり打ちつづけるよ。書けるかぎりも書く。さ、楽しいめしだ」
「はい!」
 階段を降りながら、
「ホームランを讃えられたり、文章を褒められたりすると、そりゃあうれしいんだ。ぼくは皮肉れ者じゃないからね」
「わかってます。……郷さんのぜんぶぜんぶ、愛してますから。ああ、名大に受かってよかった。毎日こんな会話をして暮らせます」
「毎日は疑わしいぞ。ときどきならね」
 実際のところ、私には自分の欲望が何なのかわからないのだ。何を求め、何を失う痛みに苦しんでいるのかわからない。どこが痛いのかわからずに血を吐く人間のようなものだ。人に痛みの所在も、こうしてくれとも告げられない。
 座敷のみんなが笑って食卓に迎える。菅野が、
「日米戦が近づいてきたので、門のあたりがうるさくなってきましたよ」
「いちばんうるさくなるのは、二十六日の夕方ですよ。覚悟してください」
「いっそ庭に入れちまったらどうや」
 カズちゃんが、
「いいわね。インタビューもしやすいでしょう」
 メイ子が上品にビールをついで回っている。酔族館で覚えた作法なのかもしれない。まねをして千佳子と睦子もついで回る。料理の皿が並べられていく。海老とカリフラワーのタルタルサラダ(直人とカンナは真っ先にこれを指差した)、ニンニクがプンプン香るマッシュルームの唐揚げ、手羽中と野菜たっぷりの中華スープ、ゴボウのサラダ、野菜コロッケ、小松菜とちくわのお浸し、レンコンとニンジンとシメジの入った鶏団子の味噌汁。「いただきます!」
「名大の入学式の日に、父と母と兄がくると言ってました。父兄は入れないと断ったんですけど、建物だけでも見たいし、北村さんにぜひご挨拶したいって」
 ヒデさんが言うと女将が、
「ええやないの、めったにこれんのやから。四月の何日?」
「五日です。日曜日。その前日にくると思います」
 睦子が、
「私の母も、千佳ちゃんのお母さんといっしょに七月ごろくるらしいです」
 素子がケラケラ笑って、
「父兄参観ラッシュやな。キッコの父兄は?」
「冗談。大学にいったことも知らせとらんわ。遠のむかしに厄介払いしたってせいせいしとるさかい、刺激せんほうがええ」
「しげきせんほうがええ」
 直人が鸚鵡返しに言う。主人が、
「浜野が大洋戦で試し登板したそうや。三回無失点二安打。いつの間に一軍に上がったんやろな」
「どうでもいいです」
「ハハハハ、中日戦には投げさせられませんよ。みすみす負けるようなもんやから」
 菅野が、
「はい、新幹線の切符とグリーン券。七時四十三分のひかり。品川に九時三十五分に着きます」
「あと一時間以上ありますね。ゆっくり食べましょう。臼山の『きょうの一言』はつづいてますか」
「十四日のヤクルト戦で書いとりましたな。必要とされることの重要性と和の関係、というコラムやったかな。もう切り抜いて貼っといたわ」
「いつかまとめて読みます」
 メイ子が、
「二月で私が辞めてから、東京の酔族館からミドリさんというかたがきたんです。法子さんの片腕だったかた。銀座のほうから代わりの責任者をスカウトできたので、飛んできたと聞きました」
「ミドリさんか。荻窪酔族館のリーダー的存在だった三十代前半のしっかりした人です。これで法子もますます安心だろう。そうだ、千佳子、日本シリーズでつけてたスコアブックを見て、今年の対策として何か言っておきたいことある?」
「ありません。神無月くんにはこれといった欠点がないんです。強いて言うと、内角高目の直球を少し打ちずらそうに振りますが、打てないというわけじゃありません。凡打は八割方が真ん中から外の縦に落ちる変化球です。凡打の八割方というだけで、そのコースの変化球が打てないというのじゃありません。そのコース縦変化のボールを総合すると凡打六割、安打四割で、打率は高いんです。全球そこに投げられても四割打者です」
 菅野が、
「真ん中から内は七割以上打ってるというわけか。なんせ六割打者だから。日米戦に備えて、マリシャルやリバーガーのことを調べておきますよ」
「よろしく。球種は知らないより知ってたほうがいいですから」
         †
 ほとんどの人が箸を離したのを見て千佳子が、
「久しぶりに青高校歌を唄わない?」
 睦子が、
「賛成!」
「いいね。合唱でいこう。美しい校歌だ。直人もカンナも聞いてる」
 ヒデさんが、
「いきますよ、サン、ハイ」

  あづまね いわァきね 八ァッ甲田山(さァん)
  ひいづる山ァ並 青ォ垣なしィて
  めぐらす陸奥湾 碧波をたァたァむ
  自(しィ)然の息吹ィに 人ォ清ォく
  まことに築き いそしみ勤め
  和協ォの大道 ひらァきゆくゥゥ
  おおお伝統ォの 白ゥ亜の学びや
  永劫のォ時ィの流れにィィ うちィ刻ァみィィ
  かざさむかざさむ 無ゥ限のしィるしィィィ

 直人の拍手。座敷じゅうの拍手。主人が、
「いい歌やなあ!」
「とても澄みわたった歌……」
 カズちゃんたちが静かに涙を流している。キッコが、
「小さな、小さな思い出を積み重ねて、いまの神無月さんができ上がっとるんやなあ」
 この一瞬も思い出だ。人間が思い出を積み重ねて生を終える過程は、死を待つことではなく、死が近づく中で生きることなのだ。
 子供椅子に座っている直人を胸に抱く。
「直人、愛してるよ。みんなに愛されてることを、いつも忘れないでね」
 幼子はうなずき、
「うん、なおともあいしてるよ」
 畳に腹這っているカンナの抱えて胸に寄せる。
「愛してるよ」
「アー」
「じゃ、そろそろいきます」
 納戸部屋でトモヨさんに手伝ってもらってブレザーを着、廊下に出る。
「私たちもみんな郷くんを愛してます」
「うん、疑ったことはないよ」
 人の言葉はよく聴かなければならない。それが最後の言葉になるかもしれないから。
 主人と菅野が立ち上がる。
「見送りはワシらだけでええわ」
 上がり框に腰を下ろして沓脱石の上で革靴を履く。ダッフルを担ぎバットケースを提げる。ジャッキがまとわりつく。背中を撫でる。
「じゃ、二十四日の夜遅く帰ります。いってきます」
「いってらっしゃい!」
 ソテツたちも廊下框に立ち、
「いってらっしゃいませ!」
 男三人で玄関を出る。ジャッキと名大生たちが門まで見送る。門前で牧野公園のほうからフラッシュが光った。菅野が歩きながら、
「川崎から甲子園移動は?」
「ニューオータニに一泊して、二十三日の午後に新幹線で新大阪、そこから阪神バスで芦屋の竹園旅館」
「一着目のユニフォームはニューオータニから送り返したほうがいいですね」
「うん。持ち歩くのも面倒だからね。平松と江夏か。腕が鳴るな」
「相当研究を重ねて、危ない球も多くなると思いますから、じゅうぶん気をつけて」
「うん、三割を目指すよ」
 主人が、
「謙虚な物言いやなあ。これまでの苦しかった人生がいつもそういう言葉を吐かせるんやろう。この一年もたいへんやったもんな。これからも外に出れば苦しいことばかりやと思う。……ようやく神無月さんが手に入れた北村席をしっかり守りますよ」
 私だけが苦しいのではない。彼らも苦しいのだ。久住先生! と譫言(うわごと)を発した浅野も苦しかったはずだ。苦しみは生きている証だろう。苦悩とともに生きていき、苦悩とともに人生に別れを告げる。そんな人生を分かち合える人びとがいれば、苦しみは軽くなり、受け入れる勇気が出る。おたがいの苦悩を知り、分かち合うこと。それが生きているかぎり消えない苦悩の最後の処方箋だ。
「そうそう、池のそばに四阿を兼ねた藤棚を作りかけとりましたが、この三、四日で仕上げます」
 菅野が、
「滑り台の脇にブランコもね」
「年々大きい滑り台をプレゼントするってオーナーが言ってましたね」
「いまのでじゅうぶんですわ。牧野公園にもあるで、直人もあんまり遊ぼうとせん。ブランコは落ちたら危にゃあで、低いのを一個作ればええが」
 新大阪からやってきたひかりがホームに滑りこんでくる。入場券を買ってホームまで送ってきた男二人と握手する。
「ラジオで聴いとります。がんばって」
「はい、いってきます」


         七十五

 九時三十五分品川着。五・三度。タクシーに乗り、行き先を告げて目をつぶる。十時六分ニューオータニ着。二階のフロントでチェックイン。ボーイにダッフルを預け、五階八号室の鍵を受け取る。五階は日本庭園に向いた一号室から十号室まで背番号順にレギュラー選手が泊まっていると教えられる。背番号が二桁になるレギュラーは、六号室、七号室に小川と小野が泊まり、十号室には木俣が泊まっていると言う。廊下の向かい側の、玄関スロープを見下ろす部屋には、そのほかのレギュラー選手とマネージャー、トレーナー陣が泊まり、六階は控え選手とフロント陣が泊まっていると聞かされる。ラウンジのソファに腰を下ろす。サツキからコーヒーをとって飲む。少し離れたソファに千原や省三や則博といった帯同組がいたので頭を下げる。私は、
「ちょっとビールでもやりますか」
 省三に横手のバーを指差しながら声をかけると、
「いや、兄貴や一枝さんたちが飲んでますから」
「そうですか」
 コーヒーを飲み終え、預けてあったドリップセットを受け取って五階に上がる。届いている荷箱を開け、ブレザーを脱いでジャージに着替え、いつもの作業にかかる。すぐに段落がついて、テレビを点ける。夜のビッグヒット。流しながらフィルターコーヒーをいれる。再放送のナポレオン・ソロに替え、ゆっくりコーヒーを飲む。よくわからないコミカルな国際スパイ物。これを観ながらトロトロ眠れそうだ。
 十一時を回ってドアが小さくノックされた。川崎球場―ネネ。それがすぐにわかってドアを開けた。
「逢いたかった!」
 胸に飛びこんでくる。口づけより先にベッドに押し倒し、服を剥ぎ、胸を吸い、股間を吸う。
「ああ、逢いたかった!」
 私も全裸になって並びかけ、性器を握らせながら問いかける。
「このあいだは東京に四日間もいたのにこなかったね。北海道に引っこんじゃったのかと思った」
「息子からそうするようにと持ちかけられてますけど、定年まで働いてから考えると言ってあります。神無月さんをあきらめて生きていけるものですか。ちょうどインフルエンザで寝こんでたんです。十日過ぎには回復したんですけど、まんいち神無月さんに移したらいけないと思って。治りかけが危ないというでしょう?」
「そうか、ありがとう。気を使ってくれたんだね」
 ホッとした顔で私のものに屈みこむ。いとしそうに含み、舐める。
「今度逢えるのは五月のヤクルト戦のときですから、二カ月近く逢えません」
 跨って、私に唇を合わせ、懸命に尻を使いはじめる。早急に達したいようだ。
「ああ、この感じ……神無月さん……」
 たちまち達して尻をガクガク痙攣させる。また動き出すが、ゆっくり味わうように調節している。しかしすぐにやってくる。
「あああ、またイクウウ! 愛してます、愛してます、ああ、この感じィ! イックウウウ!」
 私のほうは彼女の膣の感触を忘れている。正常位ですると痙攣が止まなくなるので、最後は上から覆いかぶさり胸を合わせながら鎮めていくという〈形〉しか覚えていない。このホテルで一度だけ交わった遠藤というインストラクターのことは、いっしょに食べたルームサービスの料理も含めて何もかも忘れてしまった。顔すら思い出せない。
「神無月さん、もう少し……あ、あっ」
 ネネが貪欲に腰を動かしている。とにかく摩擦のスピードを速めてオーガズムを重ねさせる。
「ううう、もういっぱいィ! だめえェ!」
 戦い終了の合図だ。安心して抱き締めながらきちんと射精した。私の律動に合わせた高波が何度もしぶきを上げる。
「うーん、気持ちいいィ!」
 ネネの動きが数分のうちにようやく静かなものになり、ねっとり汗の浮き出した腹と胸がしばらく細かいふるえを伝えてよこすだけになった。満足したようだ。射精の解放感を得ただけの私は満足していない。なぜすぐさまベッドに押し倒したのか訝しく、何かしっくりこない。ネネが望んでいると思ったからなのはまちがいない。カズちゃんはじめ、名古屋の女たちに対してはけっしてそんな振舞いに及ばないだろう。
 男と女の逢瀬に交接が加わらない意味を考える。交接は最も肝心な愛情行為ではないけれども、加わらなければ親愛が薄れていく証拠と捉えられて恐怖を引き起こす。頻繁に逢瀬を重ねていれば、交接は健全な性欲に司られているものとおのずと感じられるので、たまさか逢瀬にそれが加わらなくても恐怖を引き起こさない。そのことを理解し合えるようになれば、逢瀬は頻繁でなくても、恐怖感を抱くことはなくなるし、しゃにむに交接に走るということもなくなる。逢瀬が頻繁でないことが性急な交接欲を引き起こすのだ。
 それを理解する女はかぎられている。頻繁に逢瀬を繰り返せる女。一般の結婚生活を送っているのと同等な性生活を送ることのできる女。偕老同穴の根本はそこにある。そういう性生活が不可能ならば、女に並々ならぬ度量を期待しなければならない。カズちゃんたちがいかに度量が広いかを痛感する。相手の恐怖感に、セコい性欲と〈理解〉をもって応えるなどという詐欺まがいの慈善心にかぶれていると、自分はおろか、最愛のカズちゃんを筆頭に深く理解し合っている女たちの魂が冒涜され、いずれたがいの関係がにっちもさっちもいかなくなる。
「―ネネ、ぼくたちはもうおしまいにしよう」
 私の口が生涯言うはずのない常套句が出た。
「え!」
 ネネが息を呑んだとたん、ハッと目が覚めた。テレビに砂嵐が映っている。勃起も射精もしていない。立っていってチャンネルを回す。中央競馬ダイジェスト。消す。ベッドに入る。こんな陳腐な言葉を発しないよう、私は精神を養ってきた。ことを計ってあっちを軽んじ、こっちを重んじることをしないように精神を養ってきた。その涵養が挫折したとは、たとえ夢の中でも信じがたい。逢瀬の頻度とか、偕老同穴などと内省をてらった世迷言では糊塗し切れない精神の荒廃だ。
 おそらくネネはもう川崎球場にはいない。私の予想どおり息子のもとに身を寄せたのであれ、私に見放されたと悟ったのであれ、いま見た夢のとおり、厄介払いをしたいという私の心底を見抜き、先んじて私を厄介払いしたのにちがいない。丸信子、三上ルリ子、近記蓮、木村しずか、みんなその伝だろう。芦屋竹園の設楽ハツも、世羅別館の園山勢子もその類だ。たとえもとの場所にいつづけたとしても、彼女たちの心はもうもとの場所にはいない。私が彼女たちを命の拠り所にしていないと見抜いたからだ。
 荒廃した精神のいき場所を失った私は、これからは、私を哀れと思う女としか共生できない。彼女たちは自分が私の拠り所になっているとわかっている。だから見放せない。私を寄辺ない存在だと見抜けない女は、しばらく私の身辺に寄り添い、自分の直観を見定めたあと、まちがいないと確信して去っていく。こいつは自分がいなくてもやっていける強い人間だと納得して去っていく。喜ばしいことだ。見放される前に見かぎることは、心の安定に資する。考えすごしかもしれないが、予想どおりであってほしい。私の疑懼の正否がどうあれ、彼女たちはもう満杯だ。
         †
 三月二十二日日曜日。七時起床。曇。一・七度。うがい、歯磨き、スムーズな軟便、シャワー。髪が伸びた。耳の後ろに触れる。手と足の爪を切り、耳垢を取る。ナショナルを柔らかくあてる。
 女たちに出くわしたら夢で見たようには扱わない、みんなカズちゃんだと思おうと決めている。ジャージを着て廊下に出る。
「よ!」
 木俣と出会い、いっしょにエレベーターでロビー階に降りる。
「きょうの先発はだれですか」
「川畑。継投は健太郎さん。三回までは俺たちレギュラーは待機だ。じゃ、バスでな。九時半出発」
「はい、失礼します」
 泉岳寺、品川、大森を通っていく一時間の道だ。エレベーターを降りたところで木俣は左のサツキへ、私はフロントでなだ万弁当を注文してから、右廊下奥のガーデンラウンジにある舟屋へ。
 数日ぶりに仲間たちの顔に会う。江藤、小川、一枝、太田、菱川、秀孝、戸板。中と高木と木俣はサツキのようだ。
「よう、こっちこっち」
 江藤の隣の席が空けてある。
「おはようございます、いまいきます」
 トレイに、卵焼き、ウインナ、ベーコン、生野菜、牛乳、クロワッサン二個を載せ、江藤のテーブルへいく。
「パンか。また小食に戻ったんやないやろな」
「いえ、昼はなだ万弁当ですから」
 小川が、
「きょうは俺、番手。川畑が潰れなければラクしちゃう」
 太田が、
「平松の攻略が問題ですね」
 菱川が、
「俺はシュートを捨てる。バットがもったいない」
 一枝が、
「俺はシュートを狙う。今年大枚はたいて五十本仕入れたから、いくらでも折ってやる」
「ぼくは内角から真ん中なら、何でもいきます。半歩前に出て」
 江藤が、
「まあ、三回までは無得点やろう。ヒットが出ても、谷沢か江島くらいかのう。球筋ばよく見とかんと。カーブ、スライダーもよかけん、始末に悪か。達ちゃんはサツキね?」
「はい」
「川畑とサインの打ち合わせやな」
 小川が、
「川畑は右の本格派だな。いろんな球種をまんべんなく投げられるのはいいんだが、スッと甘いところへ投げる癖がある。ロッテに四年いて五勝一敗か。あまり使われなかったんだろうけど、悪くない。ガタイもスタミナもあるし、配球のポカがなければ今年だいぶやれるんじゃないか」
 秀孝が、
「去年、イースタンで最優秀防御率獲ってます。この二、三日、長谷川コーチがつきっきりで投げこんでましたよ」
 各自部屋に戻って出発待ち。少し走っておくことにする。清水谷公園を三周。三種の神器五十回ずつ。
 シャワーを浴び、ユニフォームに着替える。ロビーで受け取った弁当をダッフルに詰め、地下駐車場へ。水原監督たちに挨拶。足木マネージャーが、
「あしたは羽田一時発のJALで伊丹まで飛びます。そこから阪神バスで竹園旅館まで一時間弱。三時過ぎに到着です」
「会食ですか」
「その予定はありません。会食のないときは部屋食になりますが、出かけてもけっこうです。その場合は領収書を忘れずに」
「ウス」
 九時半出発。退屈な一時間の道が始まる。名古屋の街のほかは、新しく触れた街でなければ目を凝らして眺める気がしなくなった。空を見上げる。空と樹々の緑と人の言葉には飽きることがない。海と山と夜空からイメージされる広大な宇宙には飽きた。市電には飽きない。ネオンにも飽きない。神社仏閣にも飽きない。野球には、何度生まれ変わっても飽きない。女体には……条件付きになる。交接の動作には飽きた。水原監督が、
「大洋漁業の本社は東京の丸の内にあるんだよ。十年前の優勝のときは、何台ものオープンカーが川崎球場から市役所前を通って本社までパレードしたんだ。と言っても当時も巨人の時代だから、市役所を過ぎるとほとんど人はいない。一気にスピードを上げて丸の内を目指し、本社のそばで二度目のパレードだってさ。近藤昭仁くんが言ってたよ」
 江藤が、
「近藤昭は優勝の年に入団したんやった。ワシの一年あとばい。馬場が風呂場で気ィ失って倒れたの最初に見つけた男だったげな」
 高木が、
「それより日本シリーズMVPで有名でしょう」
「ほうやったか。忘れたっちゃん」
 大洋漁業などの工場群を縫って川崎球場到着。人波。低い白壁に赤っぽい四文字で〈川崎球場〉。その下の鉢巻壁にじつにシンプルに、

   22日 ロッテ―中日 一時

 と掲示板が渡してある。穴場には、二万六千人満員御礼・外野席少しあります、の表示紙。宇野ヘッドコーチが、
「平均八千人しか入らない球場が、おととしまでは巨人戦でだけ満員だった。去年からは中日戦も満員になるようになった。かなり経営を盛り返したらしいよ」
 水原監督が、
「きみたちのいくところ、どこの球場もそうですよ。便所が汲み取り式のこの小さい川崎球場でも、二万五千人近い満員となると、球場売り上げは一千五百万円もあります。巨人と中日がビジターでくるだけで年間四億円。その他もろもろの波及効果を考えたら、あごが外れます。中日球場は三万五千人収容の中規模球場ですが、一試合平均二千百万円、年間十二億六千万円の収入です。球場収入だけでですよ。その他の商業活動を鑑みたら、やはりあごが外れます。すべてきみたちが稼ぎ出しているんです。誇りを持ってください。今年その見返りはきみたちにもあったはずです。さあ、きょうもぶち負かしましょう」
「オォォース!」


         七十六

 なだ万弁当を食ったあと、十五分の守備練習で腹ごなし。別当監督と水原監督のメンバー表交換。両チームスターティングメンバー発表。
 中日のスタメンは、一番センター江島、背番号12、二番セカンド江藤省三、背番号28、三番ファースト谷沢、背番号14、四番レフト千原、背番号43、五番キャッチャー新宅、背番号19、六番サード坪井、背番号60、七番ライト井手、背番号36、八番ショート西田、背番号39、ピッチャー川畑、背番号30(去年まで島谷がつけていた背番号だ。戸板は徳武コーチの11番をもらっている)。観客は去年からこの手のオーダーに慣れているのでざわつかない。
 いっぽう大洋のスタメンは、一番センター重松、背番号6、二番ファースト中塚、背番号2、三番レフト長田、背番号7、四番ライト江尻、背番号19、五番サード松原、背番号25、六番キャッチャー大橋、背番号8、七番セカンド近藤昭仁、背番号1、八番ショート米田、背番号34、九番ピッチャー平松、背番号27。審判は、主審原田、塁審は、一塁佐藤、二塁松下、三塁大谷、線審は、ライト太田、レフト手沢。
 ネット裏最上端にズラリと各放送局のブース、フジテレビ、NHK、TBSテレビ、TBSラジオ、ニッポン放送、文化放送、ラジオ日本、一段高く突き出たテレビ朝日。いつものいびつなライトスタンド。王ネットが仰々しい。少し広めのダッグアウト、ボールボーイ、場内放送ブース。一時一分。
 一回の表、ドラゴンズの攻撃、江島がバッターボックスに立つ。
「プレイ!」
 三塁ベンチ上の鉦太鼓が初回からかしましい。スタンドは超満員。杉山コーチが、
「この球場は昭和二十九年のドラゴンズが優勝した年に、プロ野球公式戦観客動員数最少記録を作ってる。百人。しかし観客数は下駄を履かせるのがあたりまえ。実際計った記録員によると二十五人という話だ。いまは夢だろう」
 江島初球、外角スライダー、ストライク。ギュンとベースをかすった。二球目、胸もとシュート、備えていたようでブンと振る。空振り。いいスイングだ。三球目、内角低目ストレート、ボール。よく見逃した。打っていたら自打球だ。水原監督のパンパンパン。四球目、もう一球胸もとシュート、強振、どん詰まりの打球がサード松原の後方へ。ひょろ長いからだがヨロヨロバックする。ジャンプしたグローブの先へポトンと落ちる。森下コーチが、
「オッシ! もらった!」
「ヨ!」
「ホ!」
「ヨーオ!」
 二番省三、ストレートに一球もかすらず三球三振。兄が頭を搔く。鉦太鼓。省三はベンチの最後列へ。私はたって省三のそばにいき、
「ヘッドアップしてません。次はだいじょうぶです」
「ありがとうございます」
 三番谷沢、初球外角高目シュート、見逃し、ストライク。いける。目がついていっている。江藤が、
「健一、オッケ、オッケー!」
 二球目同じコースへシュート、チップファール、ネット越え。水原監督パンパンパン。三球目内角低目カーブ、ボール。杉山コーチが、
「よく見たァ!」
 四球目、真ん中高目ストレート、顎を引き締めてファール、ネット越え。私は、
「谷沢さん、いけます!」
 谷沢はこちらを見やり、バッターボックスを出て二本素振りをした。五球目内角をえぐるスライダー、あごを引いて振り出す。芯で捉えた! 振りの角度から一瞬中塚の左を抜く長打コースと見えたが、打球が上がった。
「え、ええ?」
「お、おお!」
 切れずに真っすぐポールに向かっていく。ベンチから飛び出した太田や菱川の〈切れるな〉のジェスチャーが始まる。
「いったー!」
 ポールすれすれに飛びこんだ。長谷川コーチのバンザイ、水原監督のバンザイ。谷沢は顔を皺くちゃにして一塁ベースを回る。平松がピッチングプレートをこそぐように蹴った。
 ―長打のほうがよかった。この回は二点止まりだ。
 谷沢が水原監督と抱擁している。鉦太鼓、球団旗がはしゃぐ。出迎えがはしゃぐ。鏑木ランニングコーチが、
「初ホームランですか!」
「はい!」
 二対ゼロ。平松のまなじりがきつく定まった。四番千原、初球真ん中パワーカーブ、打ち上げて浅いライトフライ。五番新宅、初球真ん中ストレート、空振り。二球目内角カーブ、空振り、三球目外角スライダー、空振り、三振。
 一回裏。一番重松、早打ち、井手へ深いライトフライ。二番中塚、早打ち、ファーストゴロ。三番長田、フォアボール。四番江尻、早打ち、セカンドゴロ。川畑の投球はほとんど真ん中から外の変化球。大洋打線の杜撰ぶり〈健在〉。
 二回表、六番小兵坪井、去年富士製鐵名古屋からドラフト外で入団。ようやく今年一軍キャンプに合流して名前を覚えられた。熱意はあるが、打てない、走れない。しばらくはレギュラーの疲労取りのためのみに使われるだろう。見逃し三振。
 七番井手。なぜプロ野球にいるのか謎。球団と密約があるのかもしれない。どん詰まりのキャッチャーゴロ。
 八番西田、坪井より少し目立つ程度。こういうふだんどこにいるのかわからない幽霊選手には声援をかけにくい。空振り三振。観客は、こういった選手たちが試し使いされていることを知っているので、どんな結果にも嘆息することはない。
 二回裏、五番松原。筋肉カタカタ男。オープン戦ではまったく打てないことで有名。空振り三振。六番大橋、初球のカーブをライト前ヒット。つかまった。次の近藤昭仁しだいでなし崩しになる。七番近藤の初球、スライダーが遠く外れてワイルドピッチ。大橋二塁へ。二球目、外角ストレート、するどく一塁線を抜かれた。井手がもたもた。大橋ホームイン。近藤は三塁へ。八番米田、上背はないがかなり長打力あり。二球カーブを見逃し、ツーナッシングのあと、甘く入った外角ストレートをライトスタンドへライナーで打ちこむホームラン。二対三。一塁スタンドが大騒ぎになる。
 小川登板。三塁スタンドが狂喜乱舞。絶大な信頼感だ。小川はグローブを振ってスタンドに応え、飄々と投球練習をする。ストレートが速い。高木が、
「健太郎、遊ぶなよ!」
 九番平松。いいバッターだ。初球からスローボール。空振り! スタンドの大笑い。平松も笑っている。二球目内角ストレート、三球目真ん中ストレートで空振り三振。大きな拍手。一枝が、
「柴田のおばちゃん、入院してたそうだ」
「え!」
 江藤が、
「きょうはきとる。盲腸だったげな」
「いつごろからですか」
「足木さんの話だと、今月初めに腹痛で二、三日休んだあと、医者にいったら即入院、手術となったらしい。齢なので、大事をとって一週間入院してから退院して、二、三日家で静養して、先週あたりから出勤してるみたいだね」
「金太郎さんに会いたがっとったぞ。いってやれ」
「はい。次の回にいってきます」
 一番重松、センターフライ。チェンジ。給湯室へ急ぐ。いつもは開いているドアが閉まっている。ドアを開けると、流しに屈んで洗い物をしていたネネが振り向いた。心なしか色白になっている。
「ネネ!」
「神無月さん!」
 抱き締める。口づけ。
「いろいろ考えちゃったよ。北海道にいっちゃったんだろうか、インフルエンザで寝こんでるんだろうかって。いま一枝さんたちから事情を聞いた。たいへんだったね」
「もうすっかりだいじょうぶです。ただ、あのとき、お腹をギュッと絞るでしょう? そのとき傷が痛んだら、神無月さんに申しわけないと思って」
 すぐにスカートに手を入れ、陰核を探し当てて愛撫してみる。
「あ、気持ちいい、久しぶり……」
 やさしく弄(いら)いつづけて高めさせる。少し心配だ。
「ああ、も、もうすぐ」
「イケそう?」
「はい、もうイキ……」
「イッてみて。怖がらずに」
「はい、あぁぁ、イキます、ううん、イク!」
 ストンと腰が落ちる。抱きかかえて痙攣させる。
「だいじょうぶ?」
「はい、だいじょうぶです、ぜんぜん痛みません、あああ、すごく気持ちいい、ありがとうございました」
 スカートから出した私の指を咥えて舐める。私はもう一度ふくよかなからだを抱き締め、
「今夜これる? 九時ごろ」
「もちろんいきます」
「ゆっくりしよう。五階、八号室」
「はい。十一時にはかえりますね」
「うん、じゃね」
 引き返そうとする背中に、
「神無月さん」
「なに」
「愛してます。ほんとうに……」
「ぼくも。いつまでも元気でいてね」
「はい。いつまでも。私……川崎を離れませんから」
 廊下を戻りながら、ハツも勢子ももとのままだろうと思った。やさしい気持ちになった。
 三回表の攻撃の途中だった。太田に訊くと、小川がツーワンからショートフライ、江島がショート後方のポテンヒット、省三はファールで粘ったが三振。そして、いま谷沢がツーツーだった。次のボール、外角腰の高さへ目覚ましいキレのシュート。空振り三振。
 三回裏。ドラゴンズの守備が小川を除いてそっくり入れ替わる。ウグイス嬢が長々と放送する。断続的に平太鼓が鳴る。レフトスタンドのすぐ外にある競輪場の打鐘(ジャン)の音が聞こえてくる。
 二番中塚、外角低目ストレートを流し打って三遊間のヒット。ボールの感触を確かめながらゴロを捕球する。楽しい。三番長田、内角ストレートで三振。四番江尻真ん中低目シュートを打ってセカンド強いゴロ、高木から一枝へのバックトス、4―6―3のゲッツー。
 やんやの喝采。
 四回表。私からの攻撃。大歓声が上がる。外野が全員バックする。私はボックスの前にいざる。大橋がその足を見つめている。小柄なキャッチャーだ。ガタイはいい。期待されて巨人に入った新人捕手だったが、ライバルを蹴落とすことにしゃかりきな森の卑劣な讒言に遭って、大洋にトレードされたと仄聞した。交換相手は桑田だった。大橋を追い出すためにだけお愛想で獲った桑田は、巨人ではほとんど使われなかった。大橋は大洋で水を得た。
「大橋さん、汚い人間を跋扈させる球団はいずれ滅びますよ」
「は?」
「森が主導している巨人は早晩滅びます」
「はあ、お心遣いありがとう。やけんど、もうどうでもええんや。しかしその立ち位置で、よう速球が打てるね。聞きしに勝る動体視力や」
 初球、外角低目シュート、ぎりぎりストライク。二球目、左足のスパイクを狙って落とすパワーカーブ。ストライク。これで私がストレートを狙っていると思ったはずだ。三球目、外角かなり高めにストレート。ボール。
「ピクリともせんね。何を狙うちゅうが」
「どちら出身ですか」
「土佐や」
 原田主審が、
「なるべく、会話禁止」
 四球目、内角高目ストレート、ボール。微妙に打てないところへ投げてくる。ツーツー。空振りをしないとだけ心に決める。投げるボールがなければ初球に戻る。球場が一瞬静まり返った。五球目、平松の手首がわずかに遅れる。外角低く速球が飛びこんでくる。シュートだろう。深く踏み出し、わずかに腰を落とす。切れはじめたところを打ち据える。真芯か。ショートの頭から左中間へ伸びていく。抜けた。走る。肩のいい江尻がクッションボールを捕った。三塁はだめかも。しかしスダンディグダブルにしないで二塁ベースを駆け抜ける。いけ! 中利夫のイメージを浮かべて両脚を繰り出す。振り返らずサードベースに滑りこむ。一瞬遅れて、中継からワンバウンドの送球が松原のグローブに吸いこまれた。歓声、鉦太鼓、拍手。水原監督と握手。
 五番木俣。大声援。初球、真ん中低目ストレート、見逃す。ストライク。外野フライを打つつもりなので仕方ない。水原監督パンパンパン。二球目、同じコースへカーブ。一塁ベンチ上へライナーのファール。三球目、外角低目へスライダー、叩きつける。高いバウンドのセカンドゴロ、私は猛然と突っこむ。平松がキャッチャーの後方目指してカバーに走る。近藤昭仁がジャンプして捕って送球する。大橋が斜に構えて捕球し左膝でブロック態勢に入る。その直前、ほんのわずかにホームベースの角が見えたので、マット運動前転の要領で飛びこみざまに掌を触れる。大橋の追いタッチを逃れるようにそのまま転がっていく。
「セーフ!」
 木俣が二塁に向かっている。大橋はあわてて二塁へ送球する。木俣が頭から滑りこむ。塁審松下がセーフのジェスチャーをする。歓声に次ぐ歓声。三対三。振出しに戻った。ベンチ仲間と握手しながらグランドを見つめる。別当監督が一度出てきて、平松続投を承認する。ノーアウト、ランナー二塁。



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(つづく…)