七十一

 三人はみずから示唆したとおりの愉悦に浸った。幣原もトモヨさんも短い時間にアクメを重ねて反応を失ったので、結局百江と長く接することになった。百江はいつものように高い歓びの声を上げ、膣を収縮させて快楽の証を伝えながら精を吸い取った。 
 脱力から回復したトモヨさんと幣原は、百江の安らいでいる様子を見て微笑み交わした。
「郷くん、ごちそうさまでした。今月も生理がきて、からだがもとどおりになっちゃったので気をつけなくちゃいけないんです。安全なときにしっかり中に出してもらいますね」
「私ももうしばらくは〈女〉がつづくようなので、これからもご迷惑をおかけします。きょうはありがとうございました。……好きです」
 百江がむっくり起き上がり、
「すみません、大きな声を出してしまって。思ってたより長くしていただいたので、気持ちよすぎて、つい―」
「こちらこそ、恥ずかしいくらいの乱れ方だったでしょう? 女ってこればかりは不調法になっちゃうのね。最高の愛の瞬間だから、出産のときと同じくらい大きな声が出てしまう」
 そう言って、私のものを口で清潔にすると、幣原を誘って風呂にいった。和やかな笑い声が聞こえた。
 たがいを心遣う情にあふれた、真率で、力強い人たち。心をかけた者から暖かく力強い視線を逸らそうとしない人たち。鉄は同質の鉄によって磨かれると言うけれども、人間は真直(しんちょく)で多情な強者によって磨かれる。けっして同質の者によっては磨かれない。そう信じるべきだ。複雑にしておかなければすまない人の世をスッパリ裁断して、単純明快な真実の断層を見せてくれる心やさしき隣人たち。情のゆたかな、切れ味するどい剛刀によってあやまたず示される真実の断面というものは確実にある。そう信じて生きるべきだ。
「コーヒーポット二つね」
「はい」
 私は百江の用意した下着とジャージをつけ、書斎部屋に上がった。机に向かい、牛巻坂第八章に入る。浅野家からの通学、母と見上げた大瀬子橋の花火、逃走の決意、そのあたりまで書けるかな。いや、通学の描写で終わるだろうな。
 階下からトモヨさんのやさしい声が上がってきた。
「郷くーん、そろそろ直人を迎えにいく時間なので帰ります」
 幣原のうるんだ声。
「ありがとうございました。じゃ夕食のときに」 
「はーい、五時すぎくらいにいきます」
         †
 主人夫婦がカズちゃんと素子と居間で茶を飲んでいる。菅野はファインホースから戻っていない。ヒデさんとキッコが、パズルで遊ぶ直人の前に膝を折って、大きなバッグとカーディガンを愛撫していた。トモヨさんがカンナをあやしながら、二人の肩口から覗いている。カズちゃんと素子がやってきて、バッグの底を点検する。それを見た直人が頭を突っこむ。
「くしゃい」
 キッコが、
「ええにおいやろ。高級品やで」
 カズちゃんが、
「二人ともやっぱり黒のバッグにしてよかったわね」
 ヒデさんのバッグは黒、キッコのそれは少し灰味がかった黒だ。睦子と千佳子が新品のカーディガンをはおって二階から降りてきて、女たちの感想を尋く。睦子は白、千佳子は濃い藍色。ヒデさんが、
「とっても似合います!」
 睦子が私に、
「私たちのバッグも注文してもらったんです。濱野のラージバッグは三つしか置いてなかったので」
 千佳子が、
「私はダークブルー」
 睦子が、
「私は焦げ茶色」
 ヒデさんはピンクのカーディガンを、キッコは浅黄のカーディガンをはおって見せた。
「初々しいね。登校が楽しくなるだろうな」
 素子が、
「うちは春物のグリーンのワンピースと灰色のコートを買ってもらった。ついてってよかった」
 キッコが、
「みんな文房具も買ってもらったんよ。革の筆箱、パーカーのシャープペンシル」
「来月はソテツちゃんと千鶴ちゃんにも同じものを買ってあげるわ。私服も買ってあげないと」
 ソテツと千鶴が聞きつけて厨房からやってくる。カズちゃんが、
「学生カバンはだいじょうぶね?」
 ソテツが、
「はい、キッコさんにもらいました」
 千鶴が、
「私は千佳ちゃんに」
「文房具一式はちゃんとしたものを買ってあげる」
 千佳子が、
「大学ノート、筆箱、鉛筆、赤鉛筆、消しゴム、鉛筆削り、シャープペンシル、ボールペン……」
「それ、メモしといて」
「はい、ホッチキス、クリップ、セロテープ、まだあるかしら」
 睦子が、
「手帳も必要じゃない? 下敷きも」
 カズちゃんが、
「万年筆は?」
 千佳子が、
「使いません。ボールペンですみます。男の持ち物ですね」
 ソテツが、
「メモをいただければ自分で買います」
「キョウちゃんのプールだから、心配しないの。こういう節目だけなんだし」
 幣原がジャッキを連れて散歩から帰ってきた。
「直人、そろそろめしだ。野球やって腹をへらすぞ」
「うん! はらをへらすぞ」
 プラスチックのバットとゴムボールを持って芝庭に出る。ジャッキも飛び出してくる。
「ほら、思い切り振れ」
 しょっぱなから当たって池のほうへ飛んでいく。ジャッキが走っていってボールを咥えてくる。
「お、利口だな。よしよし」
 頭を撫でながら、千年小学校の校庭のシロを思い出した。あの時代を思い出すと朝霧が晴れ上がるように視界がクリアになる。
 直人はそれから十本もつづけて振って、空振りはたった二つ、当たり損ねも二つだった。才能がある。
 ―野球をやってくれるだろうか。頭を使うもののほうが好きなようだが……。詩を書く労働者、職場でも家庭でも同じように汗して働く。激しく燃える魂の男で、しかも知的だ。
 ……愛する者をむさぼってはならない。記憶の欠如、子供の欠如、光の欠如。
「もう十本!」
 高くフライが上がると、ジャッキは空中で飛びつく。ライナーもちょくちょく出て、並でない動体視力を感じる。菅野が門からやってきた。
「お、すごいな、直人。天馬二世だ」
「てんまにしぇい!」
 しばし、大きなジャッキと寝転がってじゃれ合う。菅野もじゃれる。トモヨさんと幣原の声。
「ごはんですよ!」
「ジャッキもごはん!」
 二人と一匹で走っていく。私は金魚を見にいった。少し大きくなっている。睦子が餌らしきものを持ってやってきた。顔を合わせると、愛してます、と第一声に言う。
「ぼくもものすごく。カズちゃんと同じくらい」
「うれしい!」
 麩を砕いたような餌をパラパラまきながら、小声になって、
「今夜はキッコちゃんですね。だいじょうぶな日ですって。私と千佳ちゃんは、甲子園から帰ってきたらお願いします。どちらもだいじょうぶな日です」
「わかった。でも、一人ひとりにしよう。きちんと出したいから」
「はい。千佳ちゃんにもそう言っておきます。私もうれしいし、千佳ちゃんも喜ぶと思います」
「睦子とは、道を散歩しながらしたいんだ。事務的なセックスじゃなく、アオカン。二度も三度も道端でして、最後は北村席の芝に寝転がってする。射精はそのたびにする。ティシュをうんと持ってってね」
「はい!」
「グロッギーになったら、おんぶしてあげる」
「なりません。なっても、その場で回復してから歩きます」
 百江も優子も混じって総出で皿を運んでいる。今夜は魚がメイン。さんまの蒲焼、サバの味噌煮、鮭のムニエル、白身魚のフライ、タラの胡麻味噌ホイル焼き、それぞれ三人前ずつ作ってある。その中から自由に選ぶ。私はさんまの蒲焼、直人はサバ味噌を選んだ。カンナは鮭のムニエルを少々。ほかに、ソラマメとベーコンのポテトサラダ、ごろり野菜のコンソメスープ、ホウレンソウとニンジンの白和え、アスパラのナムル、けんちん汁も用意されている。めずらしく主人が率先して箸をとり、けんちん汁をすする。
「今年はオープン戦を二十試合以上やるチームもあるみたいですよ」
「日米野球のせいですか」
「いや、サンフランシスコ・ジャイアンツはロッテと五試合、巨人、大洋、南海、中日と一試合しかやらんので、影響があるのはロッテだけです。二十試合以上は阪神だけで、ほかのチームは十八試合前後です。阪神はすでに十二試合戦ってます。中日はぜんぶで十二試合で、極端に少ないです。ただ、他チームは四月五日まで日程を組んでるんですよ。少しでも球場収入を増やしたいんでしょう」
「ホームランはどうなってます?」
 菅野がホイール焼きをつつきながら、
「王が四本、阪神のカークランドどバレンタインが一本ずつです」
「バレンタイン?」
「今年助っ人できた右投げ両打ちの大男です。大した選手じゃありません。王は七、八本に収まるでしょうし、阪神の二人もせいぜい四、五本でしょう。八試合で十四本というのはケタちがいで、比較外です」
「小川さんのことが載ってる週刊ポスト、読みましたか」
「はい、でたらめですね。ことを好む連中の作り話です。勘ちがいして話を作るより、わからないまま放っておくほうがずっとましだと気づかないんですねえ。とにかく小川さんには静かにこの一年間をまっとうしてほしいです。最後ヨシにはなりませんでしたが、天才らしい野球人生でしたよ」
 主人が、
「これからは中日が負けたときのピッチャーは根も葉もない疑いをかけられるやろう。気が腐るわ。今年もダントツ優勝するしかないな」
 疑われる程度の困難は娯楽にできる。考えたら、小川さんも小野さんもたとえ一年でも野球ができるのだから、そういう苦悩はロマンチックな苦悩にすぎない。身から出た錆とは言え、生涯にわたって野球ができなくなり、楽しい物語を作れなくなる人の苦悩はどれほどのものだろう。
 野球をしているかぎり、純真さはけっして失われない。純真さがあれば、開放的で熱意のある男になれるし、同時に、町外れにある井戸のような物静かで満ち足りた男にもなれる。どちらにもなれる。それは人間が紡ぐことのできるすばらしい物語だ。その物語から見離されることはどれほどの苦悩だろう。予期しない惨事に巡り会うような、ひどい恐怖を感じるだろう。野球は一筋の光だ。それを奪われたら闇しかない。
「一年後には、小川さんも小野さんも煩いごとからは解放されますけど、野球ができないという深い苦悩に襲われますね。野球は光ですから」
 私は黙々とめしを食う。カズちゃんが、
「自分に重ねて考えないようにしてね。キョウちゃんそのものが光なのよ。キョウちゃんが野球に光を与えてるの。野球がどこで途絶えようと、キョウちゃんの仕事はただ輝くことだけ」
「うん。めし食い終わったら、直人、風呂入ろう」
「パズル!」
「そうか、じゃそのあとにしよう。キッコお姉ちゃんと秀子お姉ちゃんにおめでとうを言ったか?」
「ううん、どうして?」
「二人はね、きょう名古屋大学というすばらしい遊園地に入れる切符を四年分もらったんだよ。千佳子お姉ちゃんと睦子お姉ちゃんは去年もらった」
「おとうちゃんももらったの」
「東京でもらった。野球が忙しいのでと言って、一年だけ遊んで途中で出てきちゃった。じいじもばあばもおかあちゃんも、賄いのおばちゃんたちも、毎日の仕事で忙しかったから切符をもらう暇がなかった。和子お姉ちゃんはもう四年分の切符を使い果たして、また忙しい仕事に戻ったんだよ」
「ぼくももらえる?」
「もらえるよ。あと十六年経てばね。十八歳にならないと、切符をくださいって申し込めないんだよ。その前に、幼稚園、小学校、中学校、高校と階段を昇って、ちゃんと齢をとって、そのとき仕事が忙しくなかったら申し込めるんだ。それまで待とうね」
「うん、まとうね。キッコしゃん、ひでこしゃん、おめでとう」
「ありがとう!」
 二人は立ってきて、幼児椅子にいる直人を抱き締めた。


         七十二

 直人と名大生たちがパズルを始めると、賄いたちが私たちと交代で食卓についた。テレビが点く。八木治郎のクイズその手にのるナ! 男二人のビールが始まる。カズちゃんたち則武組はトモヨさんを中心に茶話に興じ、女将はソテツとイネを率いて帳場へ。私は優子と話をする。
「すっかりさびしくなっちゃったんじゃない?」
「いいえ、北村席の雰囲気がとても引き締まったものになってきて、私も何かがんばってみようという気になりました。で、女将さんの帳簿づけの手助けがしたいと思って、今年に入ってから、簿記三級の資格を取るためにコツコツ勉強してます。学校にいく必要がなくて、本屋に売ってるテキストの勉強だけですむんです。試験は二月と六月と十一月で、合格率は五十パーセント以上です。三カ月独学すれば受かると言われてますけど、私はまったくの素人なので、十カ月やって十一月の試験を受けようと思ってます。この話は、百江さんにしかしてません。アヤメの番をいっしょに合わせてもらって、たまにお茶を飲んだりして励ましていただいてます。『私は朝から晩まで神無月さん一筋だし、齢もとってるから、習い事や資格なんて考えられないけど、あなたは若いんだからがんばってね』と言ってくれました」
「……みんな、すごいな。簿記は帳簿直結だから、それはまちがいなく北村席の役に立つよ。女将さんにも打ち明けて、ときどき実地訓練させてもらったら?」
「あと二、三カ月したらそうしようと思ってます」
「千佳子なんか、同系列の勉強してるんじゃないの」
 チラとパズルのほうを見て、
「千佳ちゃんは、法律や経済の勉強には興味が持てないから、二年生が終わったら文学部に転部すると言ってました。日本文化を総合的に勉強したいって」
 ふと聞こえたのか、千佳子が振り向いて、
「転部はとても難しいので、来年受験し直します。南山大学の日本文化学科にいくかもしれません。とにかくもう一年名大法学部を楽しみます。以上」
 睦子が、
「南山の日本文化学科はとても幅広い勉強をするんです。文化、文学、語学、日本語教育の専門知識を教えてもらえます。男百人、女三百人も採るので、千佳ちゃんは百パーセント受かります。以上」
「今度は腰を落ち着けられそうだね。学費は心配ないよ」
「はい、今度はお世話になりそうです」
 もうれつア太郎が始まった。直人はパズルを放り出し、テレビの前に坐った。モノクロの漫画だ。
「直人、あしたはお休みなのね」
「うん、たんじょうかいもないの」
「おかあちゃんとカンナはお風呂入って寝るから、おとうちゃんとお風呂入ったら離れに連れてきてもらいなさい」
「うん」
「幣原さん、直人の着替え、お願いしますね」
「はい。パジャマを着せて、私が離れへお連れします」
 幣原に、
「土曜日に誕生会が当たると保育所はあるんだね」
「はい、毎月最終土曜日が誕生会なので登園します。今月は二十八日です」
 ア太郎音頭が流れ、直人が風呂を誘いにくる。幣原が従ってくる。直人は脱衣所の棚のウルトラマン人形をいくつか握って浴槽に放りこむ。私は首の周りに人形を浮かべながら湯に浸かる。幣原は服を着たままの格好で手早く直人のからだを洗い、髪を洗い、シャワーの温度を調節し、円形の波型の帽子をかぶせて石鹸を洗い流す。腋を抱えて湯船に立たせる。
「慣れたもんだね」
「はい。男の人には面倒でしょうね。去年シャンプーハットが発売されてから、とってもラクになりました」
 直人が私と肩を並べて湯船に沈むと、幣原は安心したように湯殿を出ていった。直人はフィギアをつまみ上げて、先回したように一つひとつの名前を言う。
「ウルトラマン、ゾフィー、ウルトラセブン、セブンじょうし(上司?)……」
「もーれつア太郎の人形はないの?」
「ないの」
「今度見つけて買ってあげよう」
「ニャロメも」
「よし、ニャロメも」
 抱き上げて、湯殿に出す。
「幣原さーん!」
「はーい!」
「直人、お願いします」
 幣原は直人のからだをよく拭き、下着とパジャマを着せて離れへ連れていった。座敷に戻ると、主人と菅野が酒に区切りをつけて見回りに出るところだった。女将が、
「これ、蛯名さんたちのお手当。かならず受け取ってもらうようにしてや」
「おいよ、最近は素直に受け取ってくれよる。牧原さんが、上納金はいらん、出してくれるなら年一回十万でも二十万でも形だけでええ、北村席を商売の相手と見とらんて言うてくれてな。大門あたりの商店会のミカジメにしても、去年から水商売は月二万、商店は月五千円と、これまでの五分の一にしてくれたわ」
「椿商店会も去年から松葉さんのシマになったんやろ」
「中村区はほとんどな。区長のワシの肝煎(きもいり)でな。うちやら塙やらトルコ連中は、おととしまではあっちこっちの組に払って年間百万円以上取られとったから、夢見とるようなもんや。みんな神無月さんさまさまや言うとる」
 千佳子が、
「そればかりでなく、ペナントレースや日本シリーズの優勝で中日ドラゴンズが名古屋市にもたらした経済効果は計り知れませんね」
「ほうよ、小川さんや小野さんのことを悪う言うたら罰が当たるで。じゃ、いってくるわ」
「いってらっしゃい」
 女将がまた帳場に去ると、カズちゃんたちや賄いたちで座が賑やかになった。茶話組とテレビ組に分かれる。テレビは今週のヒット速報とクイズ・アクションからの選択になり、ヒット速報に決定。メイ子を中心にソテツやイネたちが画面に集まる。私はソテツにコーヒーをいれてもらい、テレビ組に入る。キッコが並びかける。遇えないことも、遇うことも、すべて怖い。しかし遇ったら、引き返せない。いずれにせよ確かなことがある。キッコはすばらしい人間だ。だからこそ遥ばるやってきて、ここにいる。
ドリフのズンドコ節、藤圭子女のブルース、内山田洋とクールファイブの遭わずに愛して、菅原洋一の今日でお別れ、森山佳代子の白い蝶のサンバ、青江三奈の国際線待合室、森進一の花と涙……あくびが出る。
「そろそろ帰りましょう」
 カズちゃんが促す。キッコが手を握る。女将が帳場から出てきて、
「神無月さんが東京に出かけるのは、あしたの夜やな」
「はい、八時ごろの新幹線でいこうと思ってます。甲子園へ回って、こちらに帰るのは二十五日の昼です」
 ソテツが、
「荷物はニューオータニのほうへ、きょうの午前に送ってあります」
「ありがとう。ユニフォームは二着だね」
「はい。コーヒーの挽き豆はあちらにまだ残ってますよね」
「うん。でも甲子園の分も一回分あったほうが……」
「入れておきました。ぬかりなく」
「キッコ、あしたのこと忘れてゆっくりかわいがってもらうんよ。大手柄上げたんやからね」
「はい」
「そうよ、キッコさん」
 ヒデさんたちが何のわだかまりもない微笑みを投げる。
「菅野さんに、あしたのランニングは九時からと言っといてください」
「はいはい」
 睦子がジャッキといっしょに門まで送ってきた。
「二十六日はいよいよサンフランシスコ・ジャイアンツですね。みんなで応援にいきます。直人くんはユニフォームを着ていくそうです」
「三回までは控え選手で戦うから、よく説明しといてね」
「はい。サンフランシスコ・ジャイアンツはあしたの巨人戦から二十九日まで九試合します。中日は七試合目で対戦します」
「史上最弱の訪日チームと言われてるけど、いやしくも大リーグなんだから全勝で名古屋にきてほしいな」
「そうですね。でも巨人戦に負けたら期待できないと思います」
「メロメロになっちゃうかもね。ぼくはマッコビーに会えればいいや。じゃお休み」
「お休みなさい」
 手を振り、カズちゃんたちと歩き出す。キッコが腕を組んでくる。
「よくがんばったね。定時制一年で、大検までとって、大学合格。鬼のアタマだ」
「二十二歳やもん、ふつうや」
 カズちゃんが、
「落ちてたらね。でも受かっちゃったでしょう。鬼のアタマね」
 百江が、
「きょうは私の出番はありませんね」
「一人でだいじょうぶや。お母さん、ゆっくりしてこい言うたけど、朝お嬢さんたちといっしょに出て、自分の部屋の掃除をするわ。机と本棚の整理もしたいさかい。お父さんに買うてもろた立派なやつや」
「テレビは持ってるの? みんなとあんな番組観てられないでしょう」
「ラジオで足りとる。テレビなんてあんなもんやろう。みんなで楽しめばええんよ。まじめな内容の番組ならムッちゃんや千佳ちゃんの部屋で観ればええ。観んけどな。まじめふまじめ関係なく」
「ムッちゃんたちはテレビ持ってるの」
「二人とも十四インチの白黒テレビを持っとる。ほとんど観んさかい、埃たかっとる。ムッちゃんは小さなステレオ持っとって、ジャズゆうのをよう聴いとるわ。ヒデちゃんは家から二十一インチのカラーテレビが送られてきた。深夜映画ばっか観よる」
「千佳ちゃんもムッちゃんも読書派ってことね」
「千佳ちゃんは文学やな。日本文学。いちばん本を読むのはムッちゃんや。鼻っ先にぶら下げられたニンジンは何でも食べちゃう主義や、て言うとった。ヒデちゃんが読むのは五百野だけや」
「うちもそうや。ほならお休みなさい」
 そう言って素子は手を振りながらアイリスの隘路へ去っていった。カズちゃんが、
「少しテレビでも観ながらラーメン食べて、寝ようか」
 メイ子が、
「そうですね。キムチラーメンでも食べましょう」
 百江が、
「キムチはちょっと。オーソドックスなものにしてください。下地はサッポロ一番の醤油ラーメンでしょう? メンマを入れて、チャーシューを入れて、ゆで卵、サヤエンドウとネギでも散らせば立派なラーメンです」
「おいしそう。その具材は全部あるわ。まず〈あんなもん〉のテレビを観ましょう。メイ子ちゃん、金曜日の番組は?」
「九時半からザ・ガードマン、十時半から蝶々・雄二の夫婦善哉」
「理想的じゃない。ガードマン終わったらラーメン作りましょ。キッコちゃん、まだだいじょうぶでしょ?」
「うん。神無月さんになら、何時間待たされても平気でっせ」
         †
 則武の居間の二つのソファに五人で落ち着いてテレビを点ける。メイ子がコーヒーをいれ、百江がカーテンを引くと、ザ・ガードマンのオープニングテーマが流れた。キッコがおもむろに語り出した。
「……お嬢さん、今夜も大目に見てくれておおきに」
「何よ、あらたまって。きのうきょうのことじゃないでしょ。大目に見るなんて、そんな大それた気持ちは私にはないわ。お祝いでしょ」
「きのうきょうのことやないから言ってまんねん。お祝いならもうちゃんとすんどるやろう。……神無月さんに惚れとる女の代表がしゃべっとる思って聞いてな」
「どうしたの、思いつめた顔して」
「お嬢さんがあたしらを自分と同じように思って、やさしい気持ちで見守ってくれとることはようわかっとんねん。でもあたしは、心の底では申しわけないゆう罪の意識を感じとるんです。神無月さんはお嬢さんの大切な人やさかい……ただ、それ以上にあたしは神無月さんのことが好きで好きでたまらんのです。どうしても何日かすると抱いてほしいゆう気持ちが募りまんねん。どうか許してくれへん」
 百江とメイ子がかすかにうなずきながらうつむいた。カズちゃんは慈母のような表情になり、
「うれしいこと言ってくれてありがとう、キッコちゃん。あなたたちがそういう気持ちでいてくれるからこそ、あなたたちはキョウちゃんの喜びの素になるのよ。キョウちゃんだって、いつも私にすまないという気持ちで、私以外の女の人を抱いてるのよ。私にはわかるの。でも、私じゃない女の人を抱いたとたんに、私に対するのと同じくらいその人たちを好きになるの。不思議でしょ? キョウちゃんにもわかってないと思うわ」


         七十三

 カズちゃんはコーヒーをすすり、語を継いだ。
「なぜかと言うとね、大事なところをくっつけ合ったとたん、その人たちが私と同じくらいキョウちゃんに全力で応えるからよ。私に申しわけないと思う気持ちが、私になって応えようとする気持ちに変わるからなの。そうするとキョウちゃんは、ああ、この女はカズちゃんと同じように応えてくれる、それは自分がカズちゃんに対するのと同じ愛のある行動をしたからだ、この女に人間としていいことをしたからだって思い直して、ほんとに気持ちよくグンて出すの。もちろんそのときはおたがいただ気持ちいいだけで、そんなことは忘れて夢中になってるんだけど、心の底にはその気持ちが流れてるの。私はそれがとてもうれしいの。だってキョウちゃんが抱いたのは、私とそっくり同じ反応をする女だったんだもの。つまり、キョウちゃんの最初の女の私だったということ」
 百江が、
「口惜しい気持ちはないんですか?」
「ないわ、ぜんぜん。あなたたちの気持ちよさは私の気持ちよさだからいろいろ詮索する必要もないし、こんな変人に人生懸けて惚れるわけだから、私とあなたたちが同じ愛情とからだを持ってるってわかるしね」
 メイ子が、
「いつも一心同体と言ってますね」
「そう。私が私に嫉妬するはずがないでしょ。あなたたちだっていままで私に嫉妬したことはないでしょう? あなたたちは私のわけだもの。だから、私に申しわけないと思うこともぜんぜんないわ。私とあなたたちのちがいは、キョウちゃんに遇った順番が最初かあとかだけ。これは何年も前に気づいたことよ。ただね、キョウちゃんはいくら強く慕われても、私と同じような反応をしない女はないがしろにするの。性欲が湧かないし、愛情も感じないから。だからあなたたちはキョウちゃんに選ばれた女だってことね。逆に、キョウちゃんはあなたたちに選ばれた男ということになるわ。安心して抱かれてね。私たちは私たち同士なのよ。……でも、こういう共存感覚は、キョウちゃんを愛する女だけの異常なものよ。これまで何度も言ってきたけど、外に漏らしちゃダメ。考えず、悩まず、ただ鼻を利かせ、長いものに巻かれる、そう人に漏らしたら命取り。ぜったい自分だけの心にしまっておかなくちゃいけないわ。はい、もうこの話は一生終わり」
 ガードマンのストーリーが見えなくなっていた。それでもみんな心から安堵して画面を見つめている。百江が、
「……一心同体とは別の話なんですけど、少しあいだが空くとお嬢さんが心配するのは神無月さんの健康を思ってのことですね」
「ええ。女なんて、少しぐらいあいだを置いても性欲が高まるくらいのもので、健康に悪いなんてことはないけど、男は生理的に厄介なことになるの。溜まったものを出さないと射精する機能が弱まって、不能になるという危険があるのね。受け入れるだけの女に不能はないわ。男は不能になると、精神的にもやられてしまう。それにキョウちゃんはもともと、こちらで誘ってあげないとその気にならないというぐらい性欲が淡いの。いざとなったときの機能はすごいんだけど、おおもとの性欲が淡い。一日に五回も十回もというのはそれこそ健康を害するけど、適当な間隔を置いて刺激してあげることは大切よ。いつも同じ顔や、胸や、尻や、あそこの具合だと、誘う効果も弱くなるから、敏感な十人ぐらいで相手をしてあげるのがいいのね。私もその一人。さ、キッコちゃん、そろそろいってらっしゃい。はやくいかないと、私たちがしちゃうわよ」
 三人で明るく笑った。
         †
 キッコと一戦交えて戻ると、三人でせっせとラーメンを作っているところだった。いい香りがする。蝶々と雄二のこてこての大阪弁。キッコのそれより聞き苦しい。二人の掛け合いもどこか緊張感があって聞き苦しい。
 五人でラーメンをハフハフすする。キッコがぽろぽろ涙を流している。メイ子が、
「どうしたの?」
「おいしくて……」
 カズちゃんが、
「わかるわかる」
 百江が、
「きょうのうれしさがいっぺんに湧いてきたのね」
 テレビを消し、五人で風呂に入り、背中を流し合い、からだを拭き合い、もう一度コーヒーを飲んでからお休みなさいを言う。キッコといっしょに私の寝室で寝た。三十分ほどのあいだに一回交わった。キッコは行為のあと、しばらく背中を向け脇腹をふるわせていた。やがてふるえの治まった背中が独り語りをする。
「おおきに、しょうもないからだを何度もかわいがってもろて。お嬢さんの気持ちもほんまにうれしかったけど、とにかくあたしは、死ぬほど神無月さんを愛してまんねん」
「それに甘えるぼくは、いつか罰が当たると信じてる。そのときのシュミレーションは欠かしたことがないよ」
 独り語りに応え、二人語りになる。
「あたしも、お嬢さんたちもムッちゃんたちも、いつもそのシュミレーションをしとると思う。なんでなら一心同体やさかい」
 すぐに安らかな寝息が聞こえてきた。きょうもセックスで一日を締めくくることになったけれども、いつにも増して充実感を覚えた。愛する者たちに何もかも明け渡したような思いだった。
         †
 三月二十一日土曜日。七時半起床。快晴。マイナス二・一度。すでにキッコは起きてキッチンにいる。百江の姿はない。うがい、歯磨き、軟便、シャワー。体重計に乗ると、八十五キロになっていた。よし。庭で素振り百八十本。一升瓶十回ずつ。食卓につく。カズちゃんが、
「夜中に冷えこんだから、一度起きて蛇口を緩めてチョロチョロ流しといたの。凍らなくてよかった」
 ニコニコ顔で箸を動かす。メイ子が、
「ファインプレーですね。今朝のラジオで、マイナス四度ぐらいまで冷えこんだと言ってましたから」
 キッコが、
「きょうヒデちゃんの机が届いて、引っ越し完了や」
「こっちで買ってもよかったけど、愛着のある机のほうがいいわよね」
「トモヨさんの離れに置いてあるぼくの机を譲れば話が早かった。思いつかなかったな」
「それはだめ。トモヨさんの部屋で書けなくなっちゃうでしょ」
「みなさん洋机ですよね。私は文机。百江さんもそう」
「西洋机は長丁場の勉強をする人のものでしょう。私みたいに過去の勉強の遺物というのもあるけど」
「西洋と言えば、ビートルズがもうすぐ解散するそうです。ポール・マッカートニ―が脱退して」
「音楽の方向性のちがいとか、メンバーが不仲だとかいろいろ言われてるみたいけど、結局、オーノー・ヨーコでしょ」
 キッコが、
「オーノーっておもろいわ」
「トンボ眼鏡も彼女の影響みたいですね」
「いやに大きな眼鏡かけて、カーキ色の上着やワンピース着てね」
「サファリルックと言うんだそうです」
「ミニスカートまではかわいらしいからがまんできるにしても、全身茶色はゾッとするわ。万博会場なんてそんな若者たちの洪水になるんじゃない?」
「まだまだミニが主流やと思うで」
 メイ子が、
「万博の入場料っていくらぐらいなんですか」
 キッコが、
「二十三歳以上八百円、十五歳から二十二歳が六百円、子供四百円」
「高いですね!」
「私もヒデちゃんもお母さんについてくことになったんやけど、お母さんにばかり負担かけんと、いろいろ自分でふところ痛めんとあかんわ」
 女三人は食器を下げて洗い、軽く化粧をし、八時半にこぞって出かけた。通学する小学生たちの歌声が聞こえてきた。

  たで たで がきつ
  いーるま いーるま いるまんま
  ンぼのような がきつ

 なつかしい。〈出た出た月が〉を不器用にひっくり返した歌だ。青木小学校の帰り道でときどき下校仲間と唄った。〈ンぼ〉をチンボと唄うやつもいた。
 玄関から通りに出て、コメダ珈琲の角を曲がっていくランドセル姿を見送った。
 九時にやってきた菅野と走り出す。すでに気温は三度を超えている。文江さんの家の前を通って則武のガードへ。
 名無しの道路の電信柱から青高時代に街頭で聴いたミスター・ロンリーが流れてきた。
         †
 十一時半に帰ってきた百江は、すぐにポットにコーヒーを詰め、チャーハンと味噌汁を用意して私に食わせたあと、掃除と洗濯と干し物にかかり切った。
 四時までかけて、牛巻坂の八章を書き切った。途中で小便に立ったとき、洗濯機に屈みこむ百江の尻に初めて悲しみを感じた。どうしていいかわからなかった。
 百江と北村席へ出かけていく。
「百江、ぼくから離れないでね」
「もちろんですとも」
 百江は気のない返事をしたことがない。ほかの女たちもみんなそうだ。
 押美さんから長い手紙がきていた。

 啓白神無月郷さま。ほんとうに長らくご無沙汰しております。いつか北村席に伺ってお目にかかりたいと思いながら、新人スカウトとしての忙しい日常に紛れ、その機会を失してしまい、忸怩たる思いでおります。
 いま中国地区の担当をしており、島根の江津工業高校の三沢淳というピッチャーの獲得に向け腰を据えて動いています。スカウトの仕事というのはかなりハードなもので、狙った選手の試合をチェックすること、ドラフトで指名するようフロントに進言すること(ドラゴンズは十人ほどのスカウトがそれぞれ三人、計三十人余りの選手を推薦しますが、スカウトフロント協議の結果最終的にドラフトにかかるのは十人前後です)、ドラフト後チームにきてもらえるような関係性を築く勧誘活動を絶やさず行なうこと、他球団の条件を考慮したうえ納得した形で入団してもらうこと、入団後選手を精神的に支えることなどです。他チームの低い評価を乗り越えて大きく化ける選手を見つけるのは、非常にやり甲斐のある仕事です。三沢はまだどのチームにも注目されていません。私はもとプロ野球人でないだけに細かい目配りに欠け、選手獲得に成功するかどうかは心もとないものがありますが、多方面のスポーツの分野に関係してきたこれまでの経験を生かして、なにくそという気持ちでがんばっています。  
 あなたが十二歳のとき西松建設事務所でお会いして以来(あのころ私は二十八歳でした)、はや十年になんなんとしております。一段と偉丈夫かつ美丈夫に成長なさったあなたの目覚ましいご活躍を日々目にすることができ、心からうれしく思い、感慨並々ならぬものがあります。よくぞここまで艱難を乗り越えてこられたものだと感服いたします。あなたにお会いしたことで私の人生は、あなたと同様徐々に好転してまいりました。感謝の念に耐えません。この幸運を生かすべく、あなたに劣らぬ努力と精進をつづけていく覚悟です。
 今年も滑り出し好調ですね。鬼神の活躍を見て、二年目のジンクスの気配もないことに安堵しています。スカウト業に奔走しながらいつも念頭を去らぬのはあなたのことです。恋心に近いものがあります。水原監督もオーナーも、友人の榊さんも同じようなことをおっしゃっておりました。
「野球選手としても巨大だが、人間としてさらに巨大だ。巨大なものは崇め、愛さずにはいられない」
 私もあなたの足もとから見上げ、尊崇し、遠く恋しながら見守ってまいりたいと思います。
 ご母堂の消息には常に目を離さぬよう二、三カ月に一度は東京の社宅を訪ねております。社員たちに信頼されながら、愛犬のシロともども元気にすごされていらっしゃいますよ。ご安心ください。相変わらずスポーツ関係の記事を読まないおかたで、あなたの活躍をお耳に入れても何のことやら要領を得ない感じで、ただうなずいていらっしゃいます。親不孝者とよくおっしゃいますが、以前ほど険しい表情はお見せになりません。加藤雅江さんというかたが去年一度訪ねてきたと話しておりました。シロは老いましたが、足腰はまだしっかりしています。十二歳だそうです。
 今日はこれで失礼いたします。いよいよご健康でご活躍のほどを。敬白。
 神無月郷さまへ                       押美慎吾


 彼の名前を初めて知った。読み終えた手紙を主人夫婦や名大生たちに示すと、一人残らず涙を流した。
「俠やなあ、押美さんは」
「お母さんはいくつになるん?」
「今年の九月で四十八です」
「お師匠さんよりも年下やがね。女盛りなのに、気の毒にな」
「おとうちゃん、やきゅう」
「よし、やるか」



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