六十五

 小牧空港の到着ロビーに菅野とカズちゃんが待っていて手を振った。私も振る。菅野と握手。
「お帰りなさい。お嬢さんに電話のことを言ったら、昼休みもそこそこに、すぐいきましょということになって」
「そう、ほんとによかったのに」
 カズちゃんは私の顔をじっと見つめ、
「やっぱり黒い雲! だめだめ、そんなへんな雲、明るいセックスして吹き飛ばさなくちゃ。途中のどこかの物陰でしましょ。菅野さん、ちょっといい場所があったら停めてもらうわね」
「了解!」
 菅野が目の前の五階建ての駐車場から下ろしてきたセドリックに、ダッフルとともに乗る。カズちゃんは助手席。殺風景なアスファルト道を走り出す。名古屋の快晴の空。タイメックスは気温五・九度。
「県道448号です」
 菅野の楽しい呟きが始まった。風がある。とき折り見かける民家の木の葉がそよいでいる。
「さっそく左手に小さな林がありますよ。鎮守か何かの森じゃないですか」
「ほんとね。あたりに家もなさそう」
「いってらっしゃい。ここに停めて待ってます」
 車を降り、二人手を取り合って急ぎ足でいく。カズちゃんは小さなバッグを持っている。人気のない辻で立ち止まって、カズちゃんの具合を調べる。
「いざゆかん、でしょ? キョウちゃんは? どれどれ、あ、キンキン」
「カズちゃんに触っただけでこうなる」
「うれしい!」
 木立の茂みに着く。農家の遊ばせ森のようだ。竹柵を抜けて、奥へ入りこむ。風が届かない薄暗い木の下があった。カズちゃんはバッグを足もとに置いてすぐにスカートと下着を脱ぎ、木に手を突くと大きな白い尻を向けた。私は桃のように初々しい尻に近づき、ズボンを降ろす。
「はい、ギュッとお乳をつかんで。オマメちゃんに少しだけ触ってくれればすぐイクわ。そのほうが興奮するでしょ?」
「うん」
 弄(いら)って数秒で、カズちゃんはウッと声を上げて達した。すべらかに挿入する。
「ううん、キョウちゃん、愛してる、あ、イク、イク!」
 絶妙の軟らかさと狭まりで締めつけてくる。ゆっくり往復しながら、二度、三度と射出感に襲われる。この世の膣ではない。私に危機の気配が迫るたびに、カズちゃんは強いオーガズムに達する。何という呼応だ。
「カズちゃん、愛してる―」
「私もよ! ああ、キョウちゃん、きたわ、もうすぐね、いつものようにとても大きくなった、キョウちゃんのいちばん好きな女にしっかり出して、いっしょにイクわ、最高に強くイクわ、あ、あああ、私のキョウちゃん、好きよ、死ぬほど好きよ、この世でいちばん好き、うーん、イクイクイク、イーックウウウ!」
 痛いほどの射精をした。乳房を固く握り締める。カズちゃんは何度も腹を絞る。膣が波打って蠕動する。残らず搾り取る。硬さの解れていく暖かい腹をさすりながら抜き取る。
「イク……」
 カズちゃんはもう一度腹を収縮させる。しばらく股間から精液を滴らせる。小陰唇の微妙な動きにしばらく胸を打たれて見つめる。私を愛し尽くす装置。
「キョウちゃん、バッグ取って」
 拾い上げて手渡す。カズちゃんはバッグからティシュを出して秘部に当てると、そっとこそぐように拭き取り、畳んでバッグにしまった。パンティを穿き、スカートを穿く。それから私の前にしゃがみ、丁寧に、どこまでも丁寧に汚れを舐め取る。パンツとズボンを上げ、ベルトまで締める。
「さ、いきましょ。楽しい気持ちになったでしょ?」
「うん!」
 二人手をつないで車に戻る。カズちゃんは今度は後部座席に座る。タバコを吸っていた菅野に、
「思う存分愛し合ってきたわ」
「わかります。神無月さんもお嬢さんも顔色が明るくなりました」
 煙草を消して走り出す。幸田の信号を左折。名古屋まで八キロの標示板。
「空港線、すなわち国道1号線です。そろそろ三時半ですか。腹へってませんか」
「私はすいたァ」
「ぼくも」
「夕飯前なので、麺類にしましょう。庄内川を渡った先の、黒川あたりで」
 庄内川を渡ると、町筋がガラリと賑やかになる。菊井町の交差点に似ている黒川の交差点を右折。
「もうここ、環状線ですよ。名古屋市道名古屋環状線。名城公園が近いです」
 カズちゃんがうなずいている。この種の話にかかると、私にはサッパリ感覚がつかめない。細道を左折。天神西通りのような住み腐(くた)したトタンの家並の中に『カレーうどん・城乃家』というファサードが揚げてある。角地の店だ。繁盛しているだろう。
「ここのカレーうどんは天下一品と聞いてます」
「ほんとかしら? でも食べてみましょう」
 またもやカレーだ。あしたは黄色い便が出るだろう。時間帯のせいか待ち客はいなかったので、紺の暖簾を弾いて入る。客は七、八人。カウンターに白衣を着た三人の中年の店員がいる。一人は壁側の客に品物を運んでいる。
「いらっしゃい!」
 食い物屋はどこも同じしつらえだ。長いカウンターにいくつかのテーブル席。ところがここはちがった。カウンターが厨房側に一枚、壁側に一枚。牛のように、一人でも多く同じ方向に並べて食わせる方式だ。壁には木簡の品書きがズラリと並んでいる。カレーうどん(二百五十円)、トンカツ、カツカレー、うどん各種、ラーメン、お茶漬け、うどん替え玉、味噌汁、ライス……。私たちは厨房側の簡易椅子に雁首を並べて坐り、菅野がカレーうどんを注文する。茶が出る。そのとき、店員の一人がギョッとして私を見据えた。すぐ目を逸らす。厨房側の客たちもジロジロ見はじめる。カズちゃんが、
「いいのよ、遠慮しなくて。ちゃんと見てあげて。いい男でしょ。中日ドラゴンズの神無月郷よ。さっき福岡から帰ってきたところなの。お腹すいちゃってここに寄ったわけ。サインはしないわよ。サインは球場の外でしたらいけないことになってるの。ゆっくり食べさせてちょうだいね」
 座が和んだように見えたが、じつは白けたのだ。これで親しげに話しかけてくることはない。彼女のユーモアをてらった高圧的な態度は、物見高い人間を追い払ういい対処法だと思った。
「へい、お待ち!」
 つるりとした黒い鉢に入ったカレーうどんが出てくる。豚肉、かまぼこ、長ネギ、麺はきわめて太い。すすると、うどんはもっちりが強すぎ、熱がいきわたっていない。スパイスは効いているようだがカレー粉そのものの味がする。うまくない。カズちゃんが一味唐辛子をかけながら、
「片栗粉じゃなく、小麦粉でとろみをつけてるのね」
 と、味と関係のないことを言うと、不精髭生やした頭領らしき男が、
「はい。鶏ガラと香味野菜で取ったスープに、鰹節のスープを加えてあります。そこへ白醤油で溶いたミックススパイスを混ぜ合わせてます」
「それで、ダシと香辛料の効いたカレーになってるわけね。勉強になったわ」
 ソテツたちに教えるつもりではなく、ただその場しのぎのお世辞を言って紛らしているだけだ。菅野の表情にも表れているとおり、うまいうどんではないからだ。食い切れないとわかったので、半分ほど残して立ち上がった。
「疲れがピークだ。めしより先に睡眠が必要だ」
 カズちゃんと菅野も立ち上がった。カズちゃんはカウンターに千円を置き、
「ごちそうさま。お釣りはいいわ」
 三人あとも振り向かずに車に戻った。
「粉っぽくて、ぬるくて、ちょっと無理」
「先代が引退したようですね。評判どおりでないので驚きました」
「ソテツちゃんを超える味にはなかなか巡り合えないわね」
「あ、きちゃった!」
 股間がふくれ上がっている。俄然、ふだんの引いた物思いとは別物の精力が湧いてきた。
「久しぶりにすると、神無月さんはこれだ」
 久しぶりではない。昨夜も奈緒としている。その効果がカズちゃんに出たのだ。
「もう一回必要ね。それで落ち着くでしょう。私はもうじゅうぶん満足したから、百江さんとしてあげて。遅番で出勤前だからまだいるはずよ。素ちゃんも呼んであげましょ。こういう〈応急〉のことは、ムッちゃんや秀子さんやトモヨさんとはいやなはずだから」
 見抜いている。睦子とはカズちゃんと同じように純度の高い交わりをしたいし、ヒデさんは快楽の相手としてよりも何か特別な存在として愛でてやりたい。二人とも貪欲でないので、交わる時期はいつでもいい。性欲の強い千佳子とキッコ、節子とキクエ、文江さんやメイ子や優子や厨房の女たちに対しては、臨機に何人かまとめてしたり単独でしたりして、精力を小出しにしながら対応できる。トモヨさんは、持ちかける前にサインを出してくれるので安心していられる。
「ほんとにかわいそう。いつも心を優先して生きてる人が、生理的なものにいっときでもいじめられるわけだもの……。私はキョウちゃんをかぎりもなく愛してるから、おかしくなるほど長く放っておかれたり、つづけてからだを求められたりしても、ちっとも苦痛じゃない。一生自分一人でも喜んで相手できる。でも、私と変わらないほどキョウちゃんを愛してる子がほかにたくさんいるとわかった以上、その子たちにもキョウちゃんのぜんぶを分けてあげたくなるの」
「お嬢さんはそうやって、やさしく笑ってすましてますけど、ふつうの女は耐えられないんじゃないでしょうか。しかしたしかに一人二人の女じゃ対処できないですね。私なんぞ相手がたった一人ですから、適当な間隔で性欲が湧いてきて、相手のリズムにも合ってるということになるんですが、神無月さんの体力を考えると……。もし野球をやってなかったら、ほぼ連日ということになるでしょう。少なくとも若いあいだはね」
「そうなるのが自然だとしても、接しない期間が長すぎるのは諫めてあげないとそのリズムに慣れちゃうのよね。ふつうの男よりもすぐれてる体力を一途に野球に注いでるからこそ、禁欲が長いとそうなっちゃう」
 環状線から江川線に出て、浄心、天神山経由で帰る。則武でカズちゃんと降りる。
「夕食までには北村にいくわ。おとうさんたちにそう言っといて」
「ほい」
 玄関を入るとカズちゃんは、百江さーん、と呼びかけた。
「はーい」
 二階から降りてくる。細かい拭き掃除をしていたようだ。
「キョウちゃんの相手をしてあげて。いまピンとなってる状態だからさっそくね。すぐ素ちゃんもよこすわ。始めてていいわよ」
「はい!」
「アイリスの客の運びを見てから、北村にいってます。アヤメは少しくらい遅刻してもいいわよ」
「わかりました」
 カズちゃんが玄関を出ると、二人裸になって風呂場にいく。浴槽の縁に坐らせ、小便をさせたり、胸を愛撫したり、陰核で気をやらせたりしながら、素子がくるまで時間を調整する。
「こんにちわー!」
「ここです。もうしてます!」
 全裸の素子が飛びこんでくる。すぐに百江の後背位から〈始め〉た。素子が胸の愛撫を手伝う。いつもの連係プレイだ。百江の快楽は激しく、何ほどもしないうちにグロッギーになってしゃがみこむ。すぐさま素子が後背位を代わる。素子は出し抜けに達し、かわいらしく片手を宙に伸ばしながら悶え狂う。強く緊縛しながら五度、六度とあいだを置かずに達するせいで、私にもすぐ迫る。
「もう、あかん!」
 素子がみずから離れたので、湯殿に仰向いている百江に挿入して吐き出す。百江のからだが限度を超えて痙攣する。それでも私は律動を与える。百江の目が白くなった。私はあわてて離れ、仰向けになる。
「キョウちゃん、最後のおつゆ……」
 素子がよろよろ這ってきて跨る。射精したばかりの亀頭がするどく刺激されたので、もう一度律動がくる。とたん素子は高い声を上げ全力で痙攣して覆いかぶさった。ひくつく膣の中でようやく萎んでいく。


         六十六

 百江と数寄屋門の前で別れ、素子と格子戸を入る。庭の模様がよくなっている。樹木が散髪したての頭のように涼し気だ。この数日で相当大がかりな剪定が行なわれたようだ。勧請(かんじょう)稲荷の祠と小さな赤鳥居と一対の石狐が隅々まで塵を払われ、石灯籠も水磨きされている。赤鳥居の下に稲荷寿司が供えてある。ジャッキの散歩に出ようとして幣原が玄関から出てきた。
「お帰りなさいませ。お疲れさまでした。博多のお餅、みなさんとおいしくいただきました」
 私はしゃがんでジャッキの頭を撫でる。素子が幣原に、
「お稲荷さんて、何のために祀るん?」
「商売繁盛、家内安全、交通安全のためです。農業の神さまでもあるので、農家はほとんど祀ってます」
 幣原はジャッキといっしょに門のほうへ歩いていった。トモヨさん母子が出てきた。
「おかえりなしゃい、おとうちゃん」
「ただいま」
 抱き上げて額にキスをする。目の中が清く澄んで、ますます利発そうな顔になっている。
「素子さん、いい顔色よ」
「はい、思し召しをいただいたで。スッキリやわ」
「今夜あたり私もいただこうかしら。あしたは郷くんキッコちゃんたちで忙しいでしょうから」
「おかあちゃん、なにをいただくの」
「おとうちゃんのやさしい気持ち。直人がいつもいただいてるものよ」
「ぼくはおかあちゃんよりいただいてる?」
「もちろんよ」
 素子が私から直人を抱き取り、
「ほんとにかわいらしい子やね。おばちゃんからもいただいて」
「うん、いただいてあげる」
 式台に女将とソテツたちと睦子たちが出てきた。
「お帰りなさい!」
「ただいま。そうやって並ぶと、さすがに目にいいね」
 女将が、
「遠い旅やったねえ」
「はい、いちばん遠いところです。庭がきれいになってびっくりしました。お稲荷さんもサッパリして」
「みんなでやってくれたんよ。ときどき手入れしたらんと縁起に障るでね。トルコだけやなく、アイリスもアヤメも客足が悪うなってまう。女の子たちの貰いも悪うなるわ」
 厨房の下ごしらえの音を聞きながら、座敷に落ち着く。障子が貼り替えられている。
「お父さんは?」
「菅ちゃんと見回り。きのう中日新聞から連絡あったで。五百野の売り上げがものすごいらしいわ。今月中に十万部、今年中に百万部はいくやろうって。八百五十円で売り出しとるで、印税は八千五百万円やて。税金引かれても六千万円以上やろう」
「ファインホースのプール金にして、運営費にしてもらいます。菅野さんにそう伝えてください」
 睦子が、
「新美南吉文学賞の授賞式は、五月五日の午後二時に半田市の住吉公民館で行なう予定でしたけど、神無月さんの北陸遠征の日に当たっていたので、菅野さんが申し入れて五月七日の木曜日に延期してもらいました」
「新美南吉って半田出身なの?」
「はい。市を挙げてそのことを宣伝してます。授与されるものは楯と賞状と五万円、出席者は中日新聞の文化部長と婦人部長と聞きました」
「婦人部長って?」
「さあ、婦人関係の記事の責任者じゃないでしょうか」
「よくわからないね。形式的な出席だろう。とにかく生涯に一度の文学授賞式だ。正装していってくるよ」
 千佳子が、
「菅野さんが乗せていくって。一時間二十分くらいでいくみたい。電車でも一時間前後かかるから、車でみんなでいくほうが楽しいだろうって。私たちも古いクラウンでいきます」
 キッコとヒデさんの姿がない。
「キッコは緊張して籠もっちゃったのかな」
 トモヨさんが、
「三時ごろ秀子さんに誘われて駅前の松竹にいきましたよ。アッと驚く為五郎」
 イネとソテツがやってきて、
「ヒデちゃんて親切なんだでば。わだしも心配、なんてへってせ」
 ソテツが、
「神無月さんを迎えにいきたがってましたけど、キッコちゃんのほうが心配だったんですね。そろそろ帰ってきますよ」
「キッコの人生を考えたら、自信を持てと言うほうが無理だけど、彼女はキレモノだから受かるよ。入試は合格最低点を取れれば受かる。最高点や最低点が何点になるかわからないけど、最高と最低の幅は狭いものだって気がする。キレモノの範疇だからね。そこはクリアしてるだろうっていう雰囲気をキッコは持ってるんだ。ヒデさんほど濃い雰囲気じゃないけど。その雰囲気は受験勉強中からずっとあった。ぼくはそれを信じるよ。キッコはまちがいなく受かる」
 中番の優子が帰ってきて、素子といっしょに厨房に入った。幣原が散歩から戻り、ジャッキの夕食になる。カズちゃんとメイ子も帰ってきた。トモヨさんが、
「お湯沸いてます」
「ありがとう、すぐもらっちゃう」
 素子と優子もいっしょにいった。千佳子が直人にせがまれ、縁側の畳に寝そべってパズルをする。素子と睦子も加わる。カンナがじゃまするように這いずり回る。睦子が抱き上げる。食卓が整いはじめたころ、キッコとヒデさんが帰ってきた。
「為五郎おもしろかった?」
「すごーく。けっこうシリアスな映画でした。小さいころから不幸つづきだった為五郎が兵隊にいって負傷したり、軍病院で原爆に遭ったり、玉音放送にビックリしたりして、何ごとにも驚かない人間に変わってしまうんです」
 キッコが、
「ほんでもって高利貸しになるんよ」
「同類いじめになるのか。設定からしておもしろいね。その高利貸しの心の底にはじつは同類に対する人情があふれていた、と」
「はい。人情と反権力です。去年の一月に天皇陛下をパチンコ玉で撃った奥崎健三さんが髣髴としました」
「あれはモロだったね。反権力の相手は?」
「天皇や国家でなく、ヤクザなんです。ヤクザが金絡みの悪人に描かれてしまうのが残念でした」
「仕方ないよ、国家皇族に匹敵する権力だから」
 幣原とソテツがお櫃についた。カズちゃんたちが風呂から上がってくると、トモヨさんが、
「直人、ごはんよ」
「はーい」
 みんなで食卓につく。きょうは豚肉料理。ポークケチャップ、豚味噌大根、さつまいものおかず煮、マッシュポテト、ゴボウとカブの葉のサラダ、白菜とカニカマの即席漬け、豚汁。直人の好物ばかり。カンナはまだきちんとした副菜として食べられない。型通りのプレート食に、少し刻んだポークチャップとマッシュポテトを載せてもらう。
 直人のいただきます。トモヨさんに抱かれたカンナのいただきます。私たちのいただきます。主人と菅野が帰ってきてビールになる。
「月末はいよいよ花見やな。おトク、端唄(はうた)でもいこまいか」
「やりますか」
 女将が三味線を手にする。みんな箸を止めずに見守る。私は、
「端唄って何ですか」
 三味の調弦をしながら女将が、
「江戸の流行歌やがね。梅は咲いたかって知っとるでしょ」
「ああ、あれですか。よくは知りません」
 バチ弾きが始まる。主人がビールを一口含む。  

  梅は咲いたか 桜はまだかいな。
  柳ゃ なよなよ風しだい
  山吹ゃ浮気で 色ばっかり
  ―しょんがえな(女将のお囃子)

 ゆったりとした調子で唄う。メロディと言えるほどの抑揚はない。風趣だけの歌。女将が、
「もともと、しょんがえ節ゆう歌やったんよ。芸者や遊女たちに流行った歌やったの。二番にアサリやハマグリが出てくるけど、わかるやろ、女のあそこの意味やよ。はい、二番」

  アサリ採れたか ハマグリゃまだかいな
  アワビくよくよ片想い
  サザエは悋気(りんき)で 角(つの)ばっかり
  ―しょんがえな

 ソテツに促されて菅野が箸をとった。
「むかしの表現はえぐいですね」
 睦子が女将に、
「一番の梅や桜にも意味があるんですね」
「ほうよ。まだか、ゆうのは、男ができたかゆうこと。若い梅はまだか、年上の桜もまだか、ヤナギ姐さんは移り気で、ヤマブキ姐さん浮気性で実を結ばん、しょうがないなあ」
 主人が
「じゃ、小唄もいこまい」
 私は、
「端唄とはちがうものなんですか」
「端唄を速いテンポで唄ったものや。現代の歌謡曲のもとと言われとる。バチは使わんと爪弾きをするのがふつうやな。じゃいくで。夜桜や」
 三味線がメロディアスな伴奏を始める。

  夜桜や
  浮かれカラスが 舞々と
  花の木陰に たれやらがいるわいな
  ぼけしゃんすな
  芽ふきヤナギが風にもまれて
  えぇぇ ふんわりふんわりふんわりと
  オーサ そうじゃいな そうじゃわいな

 私たちは思わず拍手した。主人は調子を上げて、
「ついでに都々逸(どどいつ)いこ。君と寝やろか」
「唄い方は端唄といっしょで、えろう短い恋の歌が多いんよ」
 女将が注釈を入れる。睦子が、
「七、七、七、五調ですね。おまえ百まで、もそうでしょう?」
「ほうよ。ハ!」

  君と寝やろか 五千石とろか
  ままよ五千石 君と寝よ

 大拍手。じつに短かったが、趣深い歌だった。この家が明治大正のころから代替わりしながら、ごくしっとりとした暮らしをしてきたことが偲ばれた。
「五千石の旗本が遊女に惚れて、五千石捨ててもおまえといっしょにいたい、そう言って心中したゆう事件を種に作られた歌らしいわ。宮宿(みやじゅく)は宮の渡しのそばに、神戸(ごうど)ゆう町があるんです」
「はい、石田孫一郎という中学時代の友人が住んでるところです」
「なら場所はわかっとりますね。あのあたりはむかし花街やった。伊勢から流れてきた民謡が、女郎の唄いやすいものに変えられて流行したんです。それが神戸節。江戸まで伝わっていって、都々逸坊扇歌(せんか)ゆう寄席芸人が改良したものが都々逸ですわ。ドドイツ、ドイドイ、浮世は、サクサク、と囃子を入れる生粋の名古屋発祥の歌ですわ」


         六十七

 睦子が、
「熱田宿は五十三次の四十一番目、人口一万人余り、東海道で最大の宿場ですね。港町で門前町。芭蕉もたびたび立ち寄ってます。江戸とちがって、芭蕉に羽振りよく振舞ってくれる豪商が何人かいたみたいで、その一人の岡田野水(やすい)という人は栄のテレビ塔のところに住んでたようです。もう一人、林桐葉(とうよう)という俳句仲間は、熱田神宮正門前のあの蓬莱軒がある場所に住んでいたらしくて、彼らのおかげで芭蕉は名古屋に何度も訪れ、知人を増やし、何日も名古屋でぶらぶらすごせたという記録があります。宮の名をつけた学校は、郷さんのかよってた宮中学校ただ一つで、芭蕉が桐葉宅を訪れたときに宮中の運動場付近の白鳥山の法持寺で、あたりの景色を眺めながら一句詠んだことで有名です。何とはなしに何やら床し菫草(すみれくさ)。その句はのちに『野ざらし紀行』の中で改作されて、山路来て何やらゆかしすみれ草となってます」
 カズちゃんが、
「さすが古文学者さん、すばらしいわ。港や熱田神宮で栄えた宿場の花街には人もお金もたくさん集まったから、人寄せの芸も大いに発達したんでしょうね。都々逸は名古屋節とも呼ばれたのよ。宮中は牧水で有名な中学校とは知ってたけど、芭蕉でも有名だっことを初めて知ったわ」
 ヒデさんが、
「牧水って、五百野の……浅間下の水屋に入ってたお父さんの写真……」
「うん、奇妙な縁だよね、ぼくが宮中にいくなんて。校歌の三番の唄い出しに牧水の歌がそっくりそのまま入ってるんだ。うす紅に葉はいちはやく萌えいでて咲かんとすなり山桜花
 睦子が、
「凛とした叙情歌ですね。校歌の歌詞に若山牧水の短歌が詠いこまれてるなんて、すばらしい」
「昭和三年に牧水は若くして死んだけど、奥さんの喜志子さんはそれから四十年、八十歳まで生きた。奇遇を感じた牧水のことは旅の途でだいぶ調べた。ぼくが宮中に入学した昭和三十七年の春、喜志子さんは東京からわざわざ宮中を訪ねて、朝礼の演壇に立って牧水のことをしゃべったように記憶してる。七十三歳のときだね。校歌の中に牧水の歌が入ってることを感謝してるという内容だった。宮中が開校したのは昭和二十二年で、開校十年後の三十二年に校歌ができたと彼女が言ってたと思う。どういう経緯で校歌の中に牧水の歌が挿入されたのかは知らない。とにかく校歌ができてから五年後に喜志子さんが謝礼の挨拶にきたわけだ」
 睦子が、
「尊い思い出ですね。横浜と名古屋の牧水」
 直人がいつの間にかパズルに戻っている。千佳子が箸を置き、直人に寄っていく。代わりに優子と千鶴が卓についた。
 イネが目を細めて、
「神無月さんて、しゃべる姿も聞ぐ姿も、ものを食う姿も、野球をする姿も、なんもかもきれいだニシ。ふるいつぎたぐなるじゃ」
 菅野が、
「男もそうですよ。特に野球は美しい。神無月さんはどんなプレイをしても、たとえ屁っぴり腰打法をやっても、どこかこうハナがあって、観客に見せるところを考えてる気がするんですが、いいところを強調するように工夫してるんですか?」
「強調する気はありませんけど、不格好にならないように、とだけ考えてます。全速力で打球を追うとか、カバーリングをサボらないとか、迷いグローブをしないとか、山なりの返球をしないようにするとか、ドタドタ走らないとか、屁っぴり腰打法にしてもバランスを崩さないように振るとか、ね。その結果がハナに見えるのかもしれません」
 千鶴が、
「グランドに立っとる格好からしてハナやがね。立っとるときも不格好にならんようにて思っとるん?」
「そうだね、動かないときにいちばん強く意識するかもしれないな。しゃべるときや話を聞くときは意識してないよ」
 優子が、
「立ち姿が優雅な選手ってほとんどいませんよね。でも中日には神無月さん、江藤さん、菱川さんの美しい三羽烏がいて、ほかの人も不格好じゃありません。巨人でハナがあるのは長嶋さん一人です。王さんは筋骨隆々でお寺の阿吽(あうん)像みたいだし、黒江さん、土井さんなんかはチンチクリン。ほかのチームの有名な選手でも、江夏さんはじめ、ブッとした人ばかり。野球選手だからどうにか贔屓目に見られてるだけです」
 主人が、
「立ち姿の美しさゆうのは特別なものなんや。森徹も、桑田も、藤本、徳武もひどかったし、ひとむかし前の川上も大下も別当も藤村も青田もひどかった。いまの中日の選手のきれいさは異常やな。星野も戸板も谷沢もパリッとしとるし、高木も太田も平均以上や。中と木俣と一枝はちょっとな」
 カズちゃんが待ったを入れる。
「あら、魅力的よ。木俣さんなんか足柄山の金太郎みたいでかわいらしいわ。中さんも小さいなりに均整がとれてるし、高木さんも一枝さんもスマートよ」
「ぜんぶええと言いたいんやろ。神無月さんの友だちやからな」
「そうよ。ただ三羽烏はほんとに美しいわ。精神が入りこんだ造形美ね。ほかのチームでは、大洋の平松さん、広島の衣笠さんは立ち姿がきれいね」
 女将は帳面の締めくくりにソテツとイネを連れて帳場に立ち、トモヨさんと幣原は直人とカンナを連れて風呂に去る。おさんどんに回った優子と千鶴を控えさせて、私たちの箸が動きつづける。
「ああ、幸せだな。教養という脅し文句にいじめられない会話を心置きなくできる。いままでもそういう会話をして生きてきたんだけど、かならず番人みたいな人たちがいて監視されてた気がする。もっと教養をつけて大人になれよって。……番人も目付もいない環境で、こうやって一生すごせるなんて夢のようだ」
 睦子が、
「私もまだ番人付きです」
「目標が学問と決まってるから、番人はあらまほしき人たちだろう。彼らは学問のじゃまをしないから。ぼくの目標は野球だったからね。低能が野球だけやってるんじゃないぞ、と叱る番人たちが陰に日にかならずいた」
 キッコが、
「高校まで?」
「大学まで。精神的な陰の最たるものだったね。ほんの数カ月属しただけだったけど、大学の教室と教科書は怖かった。ぼくに通じない言葉をふつうに使ってる人びとに悩まされた。何という名前の教授だったかな、〈教養について〉という講義にたまたま出くわしたことがある。学術用語の竜巻だった。リベラルアーツの効能、百学連関、全方位的な知識のポジティブな意味合い、エンチクロベディ、英語でカルチャー、ラテン語でクルトゥーラ、そう言いながら黒板にラテン語で書くんだ、専門知識に閉じこもるのではなくちがう視点の知識を持て、キケロは心を耕すと言った、などなど。……視点がたくさんあったら藪睨みになる、熱と深度がなくなる、と気持ちが反発したから、途中で教室を出た。学生たちの会話にしても、知らない著者や書物の羅列、前衛映画や思想映画の羅列、個人的な過去の恥と言えばすむのに黒歴史と言ったり、民族差別と言えばすむのにレイシスト、女性蔑視と言えばすむのにセクシストと言ったりする。そんな言葉の連打だった。北村席やドラゴンズの屋根の下にいれば、風は凪いでる。でも、いったん外に出たら嵐の真っただ中になる」
 カズちゃんが、
「そういう言葉遣いをしない人間は恥ずかしい半人間だと言いたいわけよ。教養は恥知らずになることを阻止してくれる、つまり教養がなければ恥知らずだ、バカだ、と小難しい言葉で言ってるわけね。そんな人たちの中にいたらたしかに嵐だわ。嵐は避けなくちゃ」
 睦子が、
「神無月さんはそれを巨大なテーマにして悩んできたんでしょうけど、それはだれにとっても巨大なテーマなんですけど、テーマと捉えて悩んだことのない人にとっては、教養は人間の目指す善そのものなんです。人間、教養をつけることは人生の王道まっしぐらなんです。高校にいくのも大学にいくのも、いい会社に入るのも、肩書をつけるのも、賞取り競争をするのも、学者になるのも、政治家になるのも、芸術家になるのも、芸能人になるのも、金持ちになるのもぜんぶ王道です。王道をいく人たちにとっては、王道を歩まない人間は恥知らずということになるんです」
「教養というのは恥を曝さないための道具なんだろうか」
 菅野が私に身を乗り出し、
「恥とは何ぞや、がまず問題ですね」
「ひとことで、百の方向のものを知らないということでしょう。それは世間常識から始まります」
「つまり、たくさん知らないことが恥なんですね」
「はい、そんなことも知らないのか、ということです。……ぼくは、全能になろうとする時代は無知蒙昧の時代だと思ってます。抜け出さなければいけない時代だと思ってます」
 千佳子がパズルから振り向き、
「私もそう思う。一方向に長けようとすることこそ、教養ある有能者の証だわ」
 主人が自分と菅野のコップにビールをつぎながら、
「千佳ちゃんの言うように、教養って本来一方向のものやないか? ビジネスマンの教養とか、音楽の教養、文学の教養なんてことをよく言うわな」
 ヒデさんが、
「教養としてのワインとか、教養としての美術史とか」
「ほうや。そういうものなら、なくなったらちょっと惜しいという気がするわ」
「お父さんの言うような、なくなったら惜しいと人に感じさせるものというのが、教養というものじゃないでしょうか」
 ヒデさんが談論を楽しんでいる様子がうれしい。風呂から上がったトモヨさんと幣原が二人の子供を連れてお休みなさいを言いにくる。みんなで子供たちの頬を突いたり、キスをしたりしてお休みなさいを言う。夜に一区切りつく。
女将たちが帳場からソテツとイネといっしょに戻ってきた。千鶴が、
「お父さん、お母さん、そろそろごはんにして」
「はいよ」
 千鶴と優子がめしを盛る。主人夫婦が箸をとった。ソテツとイネが私たちのテーブルにコーヒーを用意する。キッコが、
「自分がバカやなあって思っとったころ、と言ってもつい二、三年前なんやけど、柄にもなく『教養の衰退』という本を読んだんや。少しでも安心したかったさかい。こんなことが書いたった。教養という言葉はいやらしい面を持っとる、スノッブなところとか」
 ソテツが、
「スノッブって?」
「インテリ気取りということらしいわ。で、スノッブなところとか、立身出世主義、旧制高校から受け継がれた男性社会の偏見といったものがある。それが嫌われて、教養が軽視されてきたって書いたった。でもいまの話聞いとったら、本物の教養ってそういうものちゃうし、ぜんぜん廃れとらんな。廃れたらいかんものや。神無月さんをイライラさせとるものは、教養やないんよ。教養人ぶっとる人たちや、教養人ぶる風潮や。本物の教養ってもっとまじめなものやと思う。自分を外に打ち出すものやなく、自分を高めるものやと思う。そういう教養はぜんぜん衰退しとらへんわ。ムッちゃんの古典や千佳ちゃんの法律はもちろん、だれもイライラさせん教養そのものやし、お父さんとお母さんの経営能力、菅野さんのいろいろな知識やマネジメント、ソテツちゃんのお料理のアイデアと技術、トモヨ奥さんの大らかな子育て、お嬢さんの自然なリーダーシップ、神無月さんを大切にするためのうちら女たちの協力の輪、神無月さんの野球―ぜんぶ一方向のまじめな教養ちゃう?」
「野球も教養?」
「立派なからだの教養でっせ。そういうものぜんぶが、みんなの中でしっかり生きようゆう気にさせてくれるわ」
「すてき!」
 ヒデさんが胸の前で手を組み合わせた。カズちゃんが、
「キッコちゃん、グッド。おかげで教養とは何ぞやがきちんとわかったわ。自分だけじゃなく、他人も元気に生きさせる力ね。いやらしい自己顕示とは無縁のものね。私たちみんな、広い意味での教養人ということね。ほら、キョウちゃんが安心した顔してる。日々鍛錬を欠かさないキョウちゃんが私たちの中の筆頭よ。相手もあろうに、よくぞキョウちゃんを無教養人と言えるということ。そう言うのは度胸が要るわ。めくら蛇に怖じず。ここにいない人たちのことだから、だれとは言えないけど」
 主人と女将がカラカラと笑った。イネが、
「目ェかげでもらって、後ろさ回ったふとも無教養人だべ。てめかわいさに協力の輪をぶっ壊したわげだすけ」
 カズちゃんが、
「事情があって教養を捨てた人のことは責められないわ。幸せじゃなかったんだから。だれだって幸せになりたいもの。協力できるのは、協力することで幸せになれる人たちだけよ。人は幸せじゃなければ、教養を持とうとなんかしないってこと。……悪口を言うよりは、嘘で慰めてあげなさい。正直でいるより思いやりが大切よ」


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