六十二
「今年近鉄にいった伊藤竜彦さん、どうなってます?」
江藤に訊くと、
「パッとせんごたるな。オープン戦にも出とらん」
「口をかけたのは三原監督だったんでしょう?」
「やっさもっさした年はしょむなか。クビ斬られんと、野球ができるだけましたい」
「外山さんと松本忍さんですね」
「金(きん)もたい。クビになったやつのことば考えると、義理の悪か」
中が、
「野球に喰らい意地が張ってないと、栄養失調になる。自業自得だよ」
選手たちがあわただしく料理テーブルを往復し、ウェイターやウェイトレスたちが右に左に動き回る。あっという間に食事の時間が過ぎていく。紫煙がほうぼうで上がる。監督コーチマネージャー連が腰を上げた。本多二軍監督が、
「上下別なく和気藹々とした食事会だったが、次の試合からは、二軍調整選手の帯同はない。この八試合に帯同した選手のうち、二軍調整に回るメンバーが決まった。ピッチャーは渡辺司、松本幸行、若生、土屋、竹田。野手は高木一巳、金山、三好、堀込、伊熊、竹内。帯同組と決まったのは、ピッチャーは川畑、佐藤、門岡、水谷則博、大場。これらは主として打撃投手をやってもらう。野手は新宅、千原、江藤省三、西田、坪井、日野、井手、以上」
むごい発表だ。日野と井手にはどんな使い途があるのだろう。水原監督が、
「そろそろわれわれは退散します。みなさんはゆっくり飲んで食べてってください。四日後の川崎でお会いしましょう。なお、先発は川畑くんです。彼ばかりでなく、帯同する全投手陣、しっかり体調を管理してください」
「オース!」
江藤や小川たち五、六人が手を振って夜の博多へ繰り出していった。腹がくちて少しアルコールが入ったとなれば、そのあと考えることは決まっている。色街へいくか、さらに飲むかだ。太田は色街のほうだろう。ほかの者はわからない。たぶん、江藤が連れていく気の置けない飲み屋で、朝寝できる程度の酒を飲み交わして帰ってくるだろう。江藤の口からキャバレーミナミと名前がチラッと出ていた。私はすぐ部屋に戻ることはせず、バーラウンジで八時少し前までコーヒーを飲んだ。
†
ノックされたドアを開けると、ポニーテールの童顔が立っている。私はわざと全裸で立っている。久しぶりの逢瀬に臨む女をくつろがせるためだ。奈緒はたちまち緊張がほどけて破顔し、下半身の一点を見つめた。私も笑い、何も言わず手を引いて導き入れ、口づけをした。ブラウスの上から胸を揉み、スカートの上から陰部を揉む。奈緒は私のものをつかむ。あえぎはじめたからだをベッドに押し倒し、スカートと下着を剥いでそこに口づけする。埋もれていた陰核が隆起し、強いオーガズムを得た下半身が硬直する。一潮が去って濡れそぼったおちょぼ口が私を受け入れる。ごく自然に交わる。抱き合い、腰の動きだけで挨拶し合う。高潮が数度訪れたところで抜き、衣服をすべて脱がせ、後ろから交わる。
「ううん、神無月さん愛してる、イックウウウ! わ、私、もうだめです、だめだめ、お願いします、おねが……」
往復を止めてくれという意味だが止めず、奈緒の閾値の高みがやってきたのに合わせて抜き去り、背中に射精する。奈緒は動物じみたうなり声を上げ、極限まで痙攣する。精液がポニーテールに二度、背中に一度、最後にポニーテールにもう一度かかった。奈緒の背にかぶさり、喜悦の痙攣を胸と腹全体に受ける。両乳をつかむ。
「愛してます……逢いたかった」
「ぼくも。……八カ月も待たせたね」
「そのくらいなんともありません。いつもいっしょにいますから」
財布の写真と部屋の壁の写真を思い出す。
ふるえが落ち着くのを待って、粘つく背中からゆっくり離れ、ティシュで背と髪に飛んだ精液を拭ってやる。
「ありがとうございます。いつまでもやさしい人……少しも変わらない」
「大吉は元気?」
「はい。祖父母のおもちゃになって楽しくすごしてます。保育所の送り迎えも二人のどちらかがしてます。このあいだは園児たちの音楽発表会にみんなでいってきました」
「つつがなく暮らしてるんだね」
「はい。私たちのことは心配しないでくださいね」
「うん、お節介はしない。困ったときは援助する」
「必要ありません。一人ひとり自分の生活に責任を持たないと」
「……精液が髪にべっとりついたよ」
「なんだかうれしい。愛してもらった証拠。……シャワー浴びましょう」
「うん。濡れ髪で帰ってだいじょうぶ?」
「平気です。会社のお風呂に入って帰ることはしょっちゅうですから」
湯を溜めながら、二人でシャワーを使い、洗髪する。大きな大理石風呂に抱き合って入る。
「豪華なホテル―」
「レギュラーだけスーペリアルの部屋なんだ。控え選手は相部屋。残酷な世界だよ」
「どの世界も同じです。実力だけがものを言います」
奈緒の前に立ち上がり、性器を示す。奈緒は素直にキスをし、できるだけ深く含もうとする。唇がカリにかかり、安堵の表情を浮かべる。しごくようにして唇を離したので私は湯に沈んだ。
「去年の夏より、少し大きくなりました」
そう言っておのずと跨ってくる。二度目の交合。逢瀬は二度交合して初めて心が落ち着く。風呂場は声が響くと思ったのか、奈緒は喉を絞って四、五回達すると、
「もう、もう限界です、ググ、イク!」
苦しそうに抱きついた。引き攣るからだを強く抱きしめる。私は一度目の交接でじゅうぶん満足しているので射精に未練はない。
「神無月さんといると、心が子供に戻ります。小学生のような気持ちで神無月さんのことが大好きだってわかるんです。何もかも忘れてしまう。仕事のことも、家族のことも」
「つらかったむかしのことも」
「はい」
「子供はむかしが短いし、先のことにも大志を抱かないから、いまの瞬間だけに生きられる。ぼくは一生子供でいるよう生まれついたガキだ。ラッキーだった」
「そういう神無月さんに遇えて、私もラッキーでした。マツダやミズノのコマーシャルを観てると、ほんとうに純真な子供だってわかります」
奈緒は口づけをすると、名残惜しげに離れて湯殿で陰部を洗う。それから脱衣場でからだを拭き、ドライヤーを使った。乾き切らない髪をポニーテールに結び直す。私はジャージをつけながら、鏡越しにその様子を眺める。
「ガイドはもうしてないの?」
「たまに観光バスに乗ります。ほとんど教導と事務仕事です。観光勧誘のセールスもやるんですよ。今年は六月か七月に東京出張があります」
「そのときに逢おうね」
「はい。ぜひ」
奈緒が服を整えると、廊下に出た。だれにも遇わない。ロビーのバーラウンジに降りる。
「ここは十二時までやってる。ゆっくりしよう」
「はい、あと三十分くらいしたら帰ります。みなさんお出かけなんですね」
「そう。中さんや小野さんのような超ベテラン以外は飲みに出てる。次の試合は四日後だから。お腹すいてる?」
「いいえ、何もかもいっぱいです」
信用せずに、ナポリタンを一人前頼んだ。私はコーヒーとミックスサンド。遠くの席にポツポツ一般客がいる。奈緒はぺろりと平らげた。
「やっぱりお腹へってたね」
「はい。フフ」
「これも食べて」
サンドイッチの残りを差し出す。
「神無月さんのお腹が……」
「夕食で腹いっぱいだ」
奈緒はそれも平らげた。心なしか少し肥って頬がふくらんだ気がした。
「きれいだね。うれしいよ」
「私も。神無月さんの好きな顔で生まれてうれしい」
九時半。ボーイにお辞儀をされて、二人で玄関を出る。
「ボーイさんたちも私たちをいやな目で見ませんね。神無月さんの行動をぜんぶあたりまえに思ってる感じです。……テレビのコマーシャルのときもそうですけど、神無月さんがぜったい愛想笑いをしないからです。笑うときは心から笑う。毅然としてるんです。純真な子供はそういうものですから」
天神西通りから国体道路を歩く。市電道の上を横切っていく大牟田線の電車を見上げる。左手を眺めると天神博多の高架駅が見えた。西日本新聞社と大丸のある渡辺通り四丁目の交差点に立ち、南へ渡辺通りを見通す。のどかな景色だ。ワイシャツの襟を大きく広げた男たち、ラフなミニスカートにローヒール履いた女たちが、車や市電といき交いながら夜の街をいく。奈緒は紺のタイトスカートにローファだ。
「この西日本新聞は、屋上に飼ってる伝書鳩で写真フィルムの運搬をしてるんですよ」
「ふうんロマンチックだな」
ビルの屋上を見上げる奈緒の横顔を見つめてさびしくなる。人はあっという間に五年、十年逢わなくなる。それを直観するからだ。
「できるだけたくさん逢おうね」
「はい」
市電が追い抜いていく。自転車が何台も走る。
「会社帰りのサラリーマンです。残業がふつうですから。でも渡辺通りは中洲とちがって映画館も屋台もないので、男の人たちにとってはつまらない帰り道ですね」
「―この町で暮らしてきたんだね」
「はい、大学を出てからはずっとこの景色といっしょに。……そろそろ、一丁目の交差点が近いです。賑やかなので人目が多くなります。……私、神無月さんのこと、死ぬほど好きです。けっしてご迷惑かけたくないんです。このへんでお別れしましょう。送ってくださってありがとうございました。東京にいったらかならず連絡します」
目を見交わしながら長い握手をして別れた。
ビルのほとんどない、二階建て民家と商店の家並を戻っていく。リヤカーを牽く頬っかぷりした老爺が通る。町並みに溶けこんでいる。彼の傍らを車や市電が通り過ぎる。路地裏に入る。民家のあいだに喫茶店がある。ジャズ喫茶JAB。Jはジャズだろう。あとはわからない。薄暗い店内を覗きこむと、膨大な数のレコードを納めたラックに三方を囲まれた数人の客が、うなだれてサックスのソロを聴いている。うなだれるのも無理はない。ヴォーカルのようにサックスを奏でるジョン・コルトレーンの『セイ・イット』。彼の『バラード』という絶佳な抒情曲集のしょっぱなの曲だ。御殿山でよく独りで聴いた。これほどの名曲は他人といっしょに聴きたくない。立ち去る。四丁目交差点に戻る。
―カズちゃん以外の女に深く心を寄せることができない。カズちゃんとほかの女はどこがちがうのだろう。歴史? そういう堆積物ではない。彼女に性欲を感じたことをなつかしむほど歴史を重ねたとしても、けっして揺らがない愛。彼女が生きているから私も生きているという確信。
グランドホテルから遠ざかるように国体道路を右折する。高低のある建物を目に焼きつけながらトボトボ歩く。保土谷の夜道をおのずと思い出したが、こちらのほうがずっと明るい。
那珂川の支流に架かる三光橋を渡り、西中洲に入る。二十四時間営業弥太郎うどんという空色のファサードを掲げた立ち食いふうの店がある。
―十時を回ったか。小腹がすいた。
覗いてみる。仰天した。立ち食いふうなどではなく、竹と板でしつらえたみごとな店内だ。窓のカーテンも竹スダレでできている。向こう鉢巻の店員が何人か左側のL字カウンターの中で威勢よく立ち働き、彼らの前にネクタイ締めた勤め人ふうの客が三人坐っている。土間を挟んだ右側に、厚板ごしらえの二人掛け卓が四枚造りつけてある。それぞれの卓には丸太椅子を向かい合わせに置いてある。裏切らない味のうどんが食えそうだ。引き戸を開けて入る。
「へい、いらっしゃい!」
「おーい、金太郎さん!」
奥の卓で手を挙げる客がいる。
「あ、江藤さん! お早いご帰還ですね」
赤い顔をした菱川と、隣の卓の秀孝と戸板も手を挙げる。私は空いている卓の丸太椅子に腰を下ろした。
「ここまでふらふら歩いてきたんか、天然散歩人」
「はい。江藤さんたちはキャバレーへ繰りこんだんでしょう?」
「おう。渡辺通りのミナミへな。女やら音楽やらギャーギャーうるそうて、ほんなこつ酒のまずか」
戸板が、
「体育館みてに広いんだでば。ガンガン音がうるせくて」
客の一人が戸板の訛りを聞きつけてかすかに顔を動かした。
「ほやけん一時間もせんと出て、居酒屋で少し入れてから、食い物屋ば捜して中洲のほうへさまよってきたばい。健太郎と太田はまだミナミで飲んどるやろう」
菱川が、
「いや、さすがに河岸を替えたでしょう」
「谷沢さんたちもいっしょですか」
「やつはハナからワシらと別行動たい。会食のあと、利ちゃんと小野親分に連れられて中洲の例の店にいきよった。モリミチと木俣と修ちゃんもついてった」
「老松ですね。そう言えばオールスターのときに中さんが連れてってくれた料亭でしたね。中さんも小野さんも部屋に戻って寝たんじゃなかったんだ」
「親分は今年かぎりやけん、さびしかろうもん。利ちゃんが気ば利かしたんやろう」
「なるほど、そうでしょうね。それ何食べてるんですか」
「卵とじうどんたい」
軟らかそうな麺をふわりと卵でとじてある。塩タレのようだ。小鉢にゲソ巻と大根のおでん、別皿で五目おにぎりとタクワンが添えてある。多すぎる。菱川が、
「このセットで五百円ですよ。安いでしょ」
私は竹組みの壁に掛けてある一枚板の品書きを上げ見ながら、
「ゴボウ天うどんだけをください。うどんは大盛りで」
「へーい」
秀孝が麵をすすりながら、
「ここで会うなんて偶然すぎますね」
「ほんとですね。引き合う運命なんでしょう。マスター、生ビールの小五つ」
「へーい」
江藤が、
「それと、静かにしてくれとるそちらのみなさんに、瓶ビール三本」
三人の客が振り向いて、どうもと江藤に辞儀をする。
「うっちゃっておいてくれるお客さんはめずらしかけん。心づけでなかよ、お礼たい」
六十三
ゴボウ天が出てきた。さっそくすする。予想どおりの美味。ゴボウの歯触りがいい。菱川が客たちに訊く。
「きょうの公聴会、どうなりました」
「ひどかもんですばい。宮沢ちゅうコミッショナーが、議員のだれやったかに井原事務局長の発言ば追及されて、そんなことを井原はひとことも言うとらん、あんたがたの聞きまちがいじゃちゅうて、とことんとぼけおった」
戸板が、
「どんな発言だったんですか」
「細かくほじくると永易の命が危なかちゅうやつです。そっからは言った言わないの押し問答ばい」
「与野党の議員たちもびっくりしてもうて、同じような質問ば繰り返しおったが、とぼけとおされて結局埒が明かんかった」
江藤が首を振り、
「国会議員を巻きこんだ猿芝居とは思えんのう。プロ野球のおえらがたは球界の恥を曝さんように必死なんやろう。金絡みのことがいろいろ出てくるにちがいなかけんな」
「夕刊フジに載っとりましたよ。この国会をきっかけに大手新聞の社会部がいっせいに動き出して、警察に本腰を入れさせることに決まったて」
「中日さんとは関係のなか話ですばい。田中と遊びにいったちゅうだけであれこれ突っつかれて、大エースの小川が辞めるてケツまくるごつ身持ちのよかチームですけんね」
私はすすり終えたうどんの鉢を置き、ビールに口をつけながら、
「いやしくも暴力団と呼ばれる人たちは、素人を殺めることはしません。野球賭博なんてチンケなこともしません。きちんとした賭場を持ってますから。やるのはヤクザ気取りの巷のチンピラです。永易は球団命令で身を隠してるだけでしょう。高飛びして落ちのびてくれというやつです。そのことをコミッショナーは知ってるので、冤罪をかぶって腹を立てたヤクザが実際に乗り出してきて大ごとになるのを避けたいんです。それで必死でとぼけてるんですよ。これで警察沙汰になったとしたら、ほんもののヤクザは頭にきますよ。永易を見つけ出して焼きを入れるかもしれない。そんなチンケなことをしたのはどこの組の者だ、潰したる、ついでにおまえもいてもうたるって」
ビールを半分飲む。
「まあ、警察が動いて大ごとになりそうになったら永易も渋々出てきますよ。ただ、田中勉と同じように最後っ屁をひるでしょうね。チンピラの正体を明かしたうえで、自分だけを責めるな、ほかにもいるんだというくさい屁です。いずれにせよ、ほんものの暴力団は顔を出しません。過去においてだって、素人同士のいざこざに一度も顔を出したことがない。暴力団同士の抗争か、政治関係で顔を出すだけです。とにかく、八百長をしたり、八百長を持ちかけられたり、八百長を疑われたりする選手が多いとわかった時点で、その球団の信用はがた落ちになって商売があがったりになります。それがとぼけとおす理由です。ヤクザに殺される云々じゃないんです。そんなの根も葉もないことで、とぼけの一つの手段です。小野さんや小川さんは球団の信用の失墜を心配して、中日ドラゴンズに迷惑をかけないように身を引いたんです。小野さんは元パリーグだったというだけで金棒引き連中に疑われ、小川さんは田中勉とオートレースにいったというだけのことで、マスコミや近所となりに疑われて、潔く身を引きました。どこまでも中日ドラゴンズの評判をクリーンに保つための心遣いです。俠(おとこ)の中の俠ですよ」
私たちはビールを飲み干し、こぞって腰を上げた。客の一人が、
「実に納得のいく話やったばい。中日さんは恐ろしか神軍団ばってんが、ホッとさせるんよね。いつも人目を気にせんと抱きおうとるし、真剣に声かけおうとるでしょ。神さま同士わだかまりなく抱きおうて声かけおうとる。ワシらにはでけんハイレベルのスキンシップやとわかるけん、ほんなこつホッとするばい。いくら踏んだり蹴ったりの勝ち方ばしても、憎うならん。相手のチームも同じやなかやろうか」
もう一人が、
「ほんなこつそぎゃんことやと思いますよ。甲子園にいっても、広島にいっても、平和台にきても、ファンが罵ったり暴れたりせんでしょ。人間の奇跡ば見とるごたる気持ちなんやろうと思いますよ」
最後の一人が、
「何がすごかちゅうて、ドラゴンズの一人ひとりが強さに甘えんと、えろう鍛錬して、よか野球ば見せることに一心になっとるところでっしょ。ズーッと勝ちつづけてくれんね。応援ばしますけん」
「ありがとうございます!」
全員で辞儀をした。お客さんの分もと言って、江藤は五千円札を出し、釣りを受け取らなかった。三人の客はわざわざ立ち上がって私たちと固く握手しながら頭を下げた。
風のある国体道路を歩く。江藤が、
「金太郎さんは理屈がようわかっとるな」
「ドラゴンズは汚れてないと言いたかっただけです。もう黒い霧に関心を持つのはやめましょう。ぼくたちに関係ないことです」
戸板が、
「こたらにスッキリしたことはながったじゃ。ドラゴンズは潔いふとたぢばりだ。太田さんにいろいろ話コ聞いで、危ねぐ見える選手はどんどん外さ出すということも知りました。ドラゴンズさ入れでいがった!」
秀孝が、
「神無月さんが水原監督に推(お)したんですよ。神無月さんに見こまれたら、そこで運が開けたも同じです」
菱川が、
「神無月さんがいるからドラゴンズにきてよかったんだよ。神無月さんがいなかったら、こういうドラゴンズだったかどうかわからないぞ。俺なんか危なそうな選手の筆頭だったのに、神無月さんに救い上げられたもん」
秀孝が、
「ぼくもチームに貢献できないという意味で危ない選手でしたからね。江藤さんに目をつけられて、それを神無月さんが後押ししてくれたんです。それがなかったら、いまも二軍でくすぶってましたよ。クビになってたかもしれない」
「ワシもごたごたと仲間の足を引っ張る男やった。……みんな生き返ったの」
ここにもあかひげ薬局がある。みんな指差して笑ったが、私は目を伏せながら歩いた。彼らといっしょに笑い飛ばせない忸怩たる思いがある。渡辺通りと交わる四丁目の大交差点。ここからネオンの多い繁華な街筋になる。それでも東京や名古屋よりはよほど慎ましい。大丸を見上げる。伝書鳩の西日本新聞社を見やる。伝書鳩の話はしない。それをきっかけに奈緒との関係を打ち明けることになるかもしれないからだ。打ち明けて気持ちのいい話ではないし、彼らも愛想を使って笑おうとすれば神経を痛めるだろう。女の話は北村席止まりにしておかなければならない。
大牟田線の高架をくぐる。今泉一丁目。警固神社前で市電に追い抜かれる。明るく灯る窓が目に涼しい。長崎ちゃんぽん、接骨院、不動産屋、質屋、時計店、工務店、マンション、ラーメン屋、トンカツ屋、建設中のビル、ケンタッキーフライドチキン……。
「どんな街でも暮らせますけど、市電がなくなったら、出歩きたくなくなりますね」
「熊本も福岡も市電のある街やけん、その気持ち、ようわかるばい」
「尾瀬は市電がなかったので、ぼくはめずらしいだけです」
「青森も市電のねェ県です。そたら県て、よそにねべ」
菱川が、
「青森、宮崎、徳島の三県だと聞いたことがあるよ。市電と本屋と喫茶店は文化だと神無月さんがいつか言ってたけど、そのとおりだと思うな。人間て、文化をなくして文明を栄えさせたがる生きものなんだね。国民性なんてのはその傾向が強いか弱いかだけのことで、日本人は特に強いというわけだ」
みんな考え、感じている。私は、
「文化というのは、思い出の中でも、リアルタイムでも、なつかしいものですからね。巨人が宮崎にいきたがる気持ちがわかってきました。気候という理由もあるので、市電だけで判断するのは早計だと思いますが、気質の問題です。文化のないことを息苦しく感じないで、文化的なものをを文明生活の余計な飾りに感じる気質じゃないかな。戦いで言えば竹槍より爆弾をよしとする。しかし、戦争は正真正銘文明の戦いですからそれでいいとしても、野球は竹槍の戦いです。竹槍勝負で文明気質の輩には負けたくないですね。爆弾持ち出されたらお手上げですけど」
「野球の爆弾は何やろのう」
「わかりません。文明の極致はすぐれた機械道具でしょう。先進的に道具化された野球というのが思いつかないのでわからないんです。バッターや野手はロボットを置けないでしょうから、ピッチャーだけそのチーム独自のピッチングマシンを使うというようなね。まあそうなると、科学技術にいくら金をかけたかの争いになって、人間が秘術を尽くすという争いではなくなりますね。観衆がいなくなって、野球は滅びます」
秀孝が、
「神無月さんの言いたいのは、文明人的な気質の人間には屈したくないということでしょう? そりゃそうですよ。人間をなつかしまないのに、なんで野球をやってるんですか。そんなやつに負けたくないです」
天神西通りに入る。家並がぐんと低くなり、住み腐(くた)された民家や、年季の入った町工場や商家やアパートが多くなる。ほとんどの家に明かりがない。寝てしまったのだろう。戸板が、
「大名小学校を見物していぎませんが。ホテルの窓がらでっけェ小学校が見えるんですちゃ」
みんなで賛成する。明治通りの一本前の辻を曲がり、鄙びた住宅街に入る。ホテルの表通りの喧騒を忘れさせるような空間だ。列をなすほどではない街灯がいくつか点っている。すぐに小学校のレンガ塀が始まる。塀沿いに生い茂る樹木。塀と同じレンガ造りの四角い門柱の前に立つ。官庁のような鉄筋コンクリートの構えの立派な小学校だ。
「これだけじゃつまらん。中に入らんね」
門柱のあいだに鉄格子はない。赤松が五、六本植わっている。恐るおそる門を入り、正面玄関を眺める。横に走る廊下の奥に石造りのモダンな中央階段が設置されている。ほかの階段は廊下の両端にあるようだ。石庇の上方を見上げると、最上部の三階に三連のアーチ窓と半円の明かり取りが穿(うが)たれている。明かりはない。玄関の脇の通用口らしきものは上端が台形の印象的な形をしていて、白い扉が美しい。玄関ポーチにはきちんと剪定された高木や低木が植えられている。
「裏にもいってみましょう」
校舎の裏手に回って広大な校庭に出る。ポツポツ窓明かりの灯る西鉄グランドホテルが校庭の向こうに見える。ホテルの建物の下方に水面の輝きがある。おのずと足が向く。校庭の敷地の外れに造られた大きなプールだった。
「ほう、おもしろか」
プールの土台になっているコンクリートの壁の一部に、レンガが埋めこむ形で積まれている。レンガ一つひとつが丁寧に彫ったレリーフだ。彩色されずに魚や海藻や船や少女が彫られている。全体を眺めると、一幅の抽象画になっている。
「去年、四年生の子が一人で彫ったずじゃ」
「天才だ」
校舎を振り返る。シンメトリカルなシルエットの中央に出入口があり、それを覆うように巨大な棕櫚の木が立っている。名古屋西高のソテツより背が高い。棕櫚に寄り添う樹木を背景に、左に国旗掲揚ポールが立ち、右に真っ白な百葉箱が据えてある。千年小学校の朝礼台の背後にもあった。ポールの左手には八段の肋木(ろくぼく)が平たく突っ立ち、そこから塀沿いに桜並木が延びている。並木の途中に二宮金次郎の石像がデンとある。満開の桜が夜目に明るい。
「百年前に建てられた学校ですちゃ。国旗掲揚台の石は、福岡城の堀跡の石垣が発掘されたときに移して使ったず。ホテルのフロントのふとの話だど、五十年前にいまの鉄筋コンクリートに建で替えられて、日本でもめずらしい近代ふうのデザインになったず」
江藤が微笑んでいる。戸板の新たな一面を知った笑顔だ。私たちも笑った。
正面玄関に戻り、見咎めて出てくる人の気配もないので、許可なく入ってみることにする。石造りの階段の手すりも石造りで、そのあいだの胴部分が欄間のような鉄の透かし模様になっている。青海波ではないが、グランドホテルの玄関の鉄の透かし彫りと同じ造りだ。石はずっしりとして深みがある。真っ暗な二階へいくのは遠慮して、非常灯の点る一階の廊下を歩く。敷板のツヤが尋常でなく美しい。職員室らしき部屋を覗く。向かい合わせの机が何列か整然と並んでいる。教師たちがいてもいなくても、職員室はどこか間が抜けている。人間万々出世を旨とする頓狂な雰囲気に満ちているからだ。
教室に沿った廊下をいく。非常灯のすぐそばの教室を覗くと、薄闇の中に黒板や机が清潔に光っている。休日であれ、放課後であれ、生徒のいない教室は圧倒的なさびしさがある。生動する活気がない。学童はくすんだ家からさっさと出て、仲間と教室につどって生気を与え合うべきだ。教師は生気を打ち据えるまじめさを準備する職員室にわざわざ烏合する。自宅から直接教室にかよってくれば、そんなくだらない作法に冒されずに充実した授業ができるのに。
それにしてもこの小学校は何ものだろう。清潔すぎる。人が巻き上げる埃や、衣服やポケットや履物から落ちる塵芥が見当たらない。
「すごかのう。こぎゃんきれか小学校は初めて見たばい」
「んだっきゃ」
「よか見もんやった。戸板、ありがとう」
「なもよ。今度は昼間にきてみたいニシ」
「来年くることがあったら、そうしよう」
廊下の端の階段から二階へ上がらずに、玄関を出る。用務員や宿直の教師に出会わなかくてよかった。都会の人とは言え、このあたりの住民は野辺地と同様早寝の習慣があるのだろう。
六十四
ホテルに戻り、バーラウンジを覗く。すでに後始末にかかっていた。
「寝るばい。あしたは菱川連れて熊本にいくけん、いっしょに帰れん」
「はい、勝手に帰ります」
「朝めしはどうすっと?」
「それも勝手に」
「わかった。太田たちにも言っとくけん。じゃ、川崎でな」
「はい。秀孝さんと戸板さん、あしたは?」
「朝一番の飛行機で帰ります」
「投げこみですね。がんばってください」
「はい。じゃ、川崎で」
フロントで鍵を受け取り解散した。深夜の十一時半を回っていたが、私はバーラウンジの店員にコーヒーを一杯いただきたいと所望し、快く叶えてもらったので、窓際の椅子に座り、内庭を眺めながら閉店までいた。
部屋に戻り、ラジオを聴く気分でなかったので、二時くらいまでテレビを観ながら起きていようと決める。ドア口にダッフルバッグを置き、ブレザーをソファに延べる。ホテル付きの小瓶のネスカフェをスプーンで掬ってカップに入れ、湯を注ぐ。小瓶ごとき持ち帰られてもOKということだろう。カップを手にベッドに横たわる。さわやかな暖房が利いている。
RKB毎日『拝啓天皇陛下様』。渥美清は苦手だ。このチャンネルは十一時五十分からスポーツニュース、十二時十分から映画『荒鷲の翼』。KBC九州朝日は十二時三分から邦画『裸の町』。宍戸錠か。いまいちだな。NHKで十一時五十分までつなごう。十一時五分からニュース、二十分から五十分まで特派員報告。教養のない私にはニュースも解説番組もサッパリ理解できない。ぼんやり眺める。
ふと、私がこんなことをしているとき、奈緒はおざなりに扱われた今夜の経験を至上の幸福として思い返し、未来の生活の覚悟を決め、安心して大吉を愛撫し、あしたの仕事のために床に就いているという考えがよぎった。苦しく、やるせなくなった。肉体の扱いはおざなりでなかったという自信がある。しかし―。
十二時五十分だ。手が自動的にチャンネルをRKB毎日に替える。西鉄が惨敗した試合内容はうっちゃっておき、結果だけを放送する。他チームの結果も夢中で観る。もう奈緒のことを考えていない。
―おざなりでない言動というものがあるのだろうか。常に万事心得て、気強く、真剣味に満ち、怖い相して、血のぼせしながら力み返って会話をし、ことを行なう。そういう言動ができればすばらしいけれども、私にはできない。
映画が始まるまでにミズノの宣伝が一度入った。純真、か。侘びしくなる。
映画に関心を移す。第二次大戦中のアメリカ海軍航空隊で活躍したパイロット〈スピック〉の生涯を描いた『荒鷲の翼』。ジョン・ウェインとモーリン・オハラ、監督はジョン・フォード。『駅馬車』のコンビか。モーリン・オハラ? たしか同じ監督の『静かなる男』や『長い灰色の線』でもジョン・ウェインと共演していた。顔が長四角で目鼻の大造りな女優だ。好みではない。好みでないというのは、裸体とその感応に興味がないということだ。この法則を否定する人間はいないだろう。洋の東西を問わず、女優という種族にはこの類が多い。そういう女を選(すぐ)って登用するからだ。マネキン。一生服を着せておけ。
映画自体は―飛行機がプールに突っこんだりする冒頭のハチャメチャ以外は、シットリした恋愛もの。きっかけは主人公が階段転落事故で半身不随になること。これがつまらない。たしかに不幸は唐突にやってくる。しかしそれは人生のテーマではなく、装飾音符でなければならない。おそらく実話に基づいた映画なのだろうが、奇想天外な人生がかならずしも妙味のある人生というわけではない。ついに最後は癌ときては……。大きすぎる不幸は人生を彩らない。
最後まで見切れず、一時過ぎ就寝。
†
三月十九日木曜日。九時五分前起床。晴。三・〇度。うがい、軟便、シャワー。三種の神器。いつもどおり百回ずつ。倒立腕立て五回。もう一度シャワー。ブレザーを着て革靴を履き、一階のグランカフェのバイキングにいく。ビーフカレーの大盛りと野菜サラダ。見回すと、みごとにだれもいない。昨夜のうちに引き揚げた連中も含めて、控え選手、二軍連中、寮生の顔はない。中や小野、高木、木俣、一枝たちは遅い朝めしを食ってからゆっくり帰るようだ。熊本へいく江藤と菱川の出立時間はわからない。もう出たのかもしれない。
もう一度部屋に戻って忘れ物がないことを確認をしてから、フロントに降りる。スーツのホテルマンに鍵を渡しながら、
「福岡から名古屋の飛行機の時間を教えてください」
「承知しました。ええと……名古屋ですと四便ございます。JALは名古屋まで飛んでおりませんのでANAのみです。午前十時十分のANAはもう間に合いませんから、十一時三十五分、一時、三時と、それ以降も数便ございます」
「一時の予約をとりたいんですが」
「少々お待ちください」
福岡空港に電話する。
「……あ、そうですか、はい、ジェットは大阪か東京まで、はい……プロペラ機だと直通で、それです、はい、一時ですね……一名です……神無月郷、かみ、なし、つき、ふるさとのさと、二十歳……はい、そうです、中日ドラゴンズの選手です……はい、国内線ターミナル一階ロビー、ANA予約カウンターですね、はい……はい……わかりました。よろしくお願いします」
私に振り向き、
「予約いたしました。国内線ターミナル一階ロビーへ出発三十分前までにいらして、ANA予約カウンターで搭乗券を受け取り、搭乗カウンターでチェックインしてくださいとのことです」
「どうもありがとう」
「では、チェックアウトの記入をお願いいたします」
書式に書き入れて押しやる。
「ほかの選手たちはどうなってます?」
「ほとんどのかたが十時十分の便に合わせて、八時半ごろにチェックアウトなさいました。江藤さまと菱川さまは九時にチェックアウトなさいました。水原監督ご一行さまは今夜羽田へ発たれる予定です」
「そうですか。またこちらにくることがありましたら、よろしくお願いします」
「心からお待ちしております。どうぞお気をつけてお帰りくださいませ。ご宿泊ありがとうございました。……あの、ご迷惑でなければ」
スーツ姿の男二人、女一人が色紙を差し出す。文江サインをして日付を入れる。男二人が深々と辞儀をし、女は飛び跳ねて喜んだ。一般客が何ごとかとこちらを見ている。
十時二十分。私はカウンターの三人と握手し、ダッフルを担ぎ、眼鏡をかけて、天神西通りにあるタクシー待機所へいった。白髪の猫背の運転手。
「福岡空港へ。その途中で老舗の喫茶店か食い物屋があったら降ろしてください。待っていてくださればありがたいです。搭乗は一時です」
「はい。三十分前までに着かんといけんですね。いま十時二十三分。あと二時間か。空港まで三十分、一時間半ぐらいの寄り道がでくるところやね。うーん、喫茶店も食い物屋も老舗は中洲に集中しとる。そこで途中下車してウロチョロするより、手っ取り早く空港までいったほうが安心ですばい。国内線ターミナルの一階のチェックインカウンターの前に、イースタンゆう喫茶店があります。昭和三十六年に日空が乗り入れて以来つづいとる一番古い店ばい」
天神西交差点のS字カーブから天神の電停に向かって走り出す。
「よか体格しとりますな。野球選手やろう」
私を知らないようだ。助かった。
「球団随行員です。スコア係ですよ。この車、市電といっしょに走っていきますか」
「はい。福岡市内線て言います。千代町ゆう駅から三方に分かれ、そこから北へ貝塚、東へ九大前、南へ吉塚駅前を終点に走るばってんが、ワシらは吉塚駅前まで市内線といっしょに走ります。そこで線路はおしまいたい。市電に興味があるんかいの」
アイボリーと焦げ茶のツートンカラーの車体が揺れながら近づいてくる。
「たたずまいが好きです。ところで福岡空港のジェット機とプロペラ機はどういう配分の飛び具合になってるんですか」
「配分はようわからんばってん、お客さんを飛行場までよう乗せますけん、だいたいのところはわかっとります。昭和四十年に初めて日空のジェット機が福岡と羽田をつないだっちゃん。銀座号てゆうたな。それからプロペラの大韓航空が乗り入れ、キャセイ・パシフィックが乗り入れ、ジェット機とプロペラ機がごちゃまぜになりおった」
「名古屋まで直通はプロペラ機だそうです」
「国産のYS―11やな」
かなり飛行機に詳しそうだ。
「アテネから東京に聖火を運んできた飛行機たい。ジェット機以外はすべてYS系統ですばい。何年か前に三菱重工のお客さんを乗せたことがあって聞いたんやが、YS機は頑丈で精密でトラブルのほとんどなか飛行機として有名で、百年でも飛べると言われとる名機らしか。国際線でもバンバン飛んどるし、海外にもどしどし輸出しとるて」
私はうなずき、
「なるほど。飛行区間によってどっちになるかは、あなたまかせなわけですね」
「ほうよ。長所短所に大した差はなかげな。プロペラ機のほうがちょっと飛行時間がかかるちゅうことと、風切り音がバタバタうるさかちゅうことぐらいで、エンジンのそばに座ったときはジェット機のほうがはるかに轟音やと言うとりました。ばってん、ゴーちゅう途切れのなか音やけん気にならん、落ちれば死ぬのはどちらもいっしょやて笑っとった」
千代の交差点を右折。妙見、吉塚駅前。ここで市電とお別れ。
「名古屋は市電がそろそろ廃止されます。福岡はいつまでも残してほしいなあ」
「三、四年前から累積赤字が大きゅうなっとるんです。十年もたんやろと言われとります」
「え……」
絶句した。
「あと四、五年で路線半減ですよ」
「知らなかった」
いずこも同じか。もう市電の話はしたくなくなった。
空の高い気持ちのいい景色になってきた。道は広いが標示板がないのでたぶん県道だろう。建物が途切れはじめ、道の両側に緑があふれる。
「これ、県道ですよね」
「はい、吉塚通りです。いまから渡るのが宇美(うみ)川。よう氾濫する川ばい。洲で二本に分かれとる」
堅田橋という橋を渡る。洲に架かる橋だ。洲の終わるところにある二又瀬橋という橋を渡らずに、手前を右折する。景色が田畑と工場と荒れ地に変わる。民家は全くない。おとといこんな道を通ってきたっけ? 記憶にない。するどい音を立てて飛行機が空を横切っていく。工場に遮られて日が翳り、建物の間隙で日が解放されて野を輝かせる。光のまだら模様が延々とつづく。
―オ、子供がいる。
右手に園庭も校舎も大きな鉄筋二階建ての大松保育園。赤文字の大看板が屋上に掲げられている。飛行機を指差している子がいる。どこからこんなに子供たちが集まってくるのだろう、と思ったとたん、保育園を境に密集した住宅街が現れた。アパートやマンションが立てこんでいる。保育園が人里のランドマークだったようだ。
「ちかっぱ園児の多か保育園で、往復三時間も歩かせる遠足で有名ですばい。自然教育とか言うげな。ばってん、飛行機がうるさかけん、市内では人気がなか。そろそろ福岡空港ですばい」
工場群がまた現れる。炭鉱町や工業団地と同じ仕組みだ。種々の工場の労働者のために通勤不要の住宅群が建設され、そこで生まれた子供たちが通うための保育園が建てられる。小中学校は空港から離れた遠いところにあるにちがいない。そこへ通学するための訓練が長時間の遠足だろう。
稲城と標示のある交差点を抜け、遠くに見える空港の建物に近づいていく。六階建ての大駐車場。巨大な空港の建物の外縁を回って空港玄関に到着。道中運転手は黒い霧の話を全くしなかった。野球を知らないだけでなく、身辺のこと以外の世間情報にほとんど関心のない人間だったのかもしれない。ついていた。
「千百三十円です」
二千円差し出す。
「お釣りはどうぞ。ためになる話、ありがとうございました」
運転手は辞儀をして去った。国内線ターミナルの一階ロビーへいき、教えられていたとおり予約カウンターから搭乗カウンターを回ってチェックインをすませた。ダッフルは軽量と判定され、機内持ちこみになった。数人の子供たちにまとわりつかれたので、快くサインした。北村席に電話する。空港バスで帰るから迎えにこなくていいと伝える。
チェックインカウンターの目の前にあるイースタンに入って、片隅の席に座り、眼鏡を内ポケットにしまう。ほぼ満席。空港職員らしき人たちが一つの大テーブルを占めてカツカレーを食っていた。この店の名物と思い、きょう二度目のカレーを食った。チキン南蛮カレー。甘辛い唐揚げがめしに載っている。福神漬がうれしい。チキンはうまかった。ルーは辛さに欠けていた。
ロビー内の書店に思わず入りかけたが、踵を返して待合のソファへいく。仮眠。