五十五 

「優子、北村席を出ていった女の人たちはどうなった?」
「三上さん、木村さん、近記さんの三人は、入居してすぐ大門のアパートを引き払ったらしいです。丸さんの消息はハッキリとはわかりませんけど、県内にはいないようです。愛人のお子さんとうまくいかずに、仕方なく別れたと聞きました。その後の噂も入ってきません」
「……ぼくに腹を立てたばっかりに、気の毒だな。……こんな男に遇わなければ、北村席で平和に暮らしてたのに」
「あれが平和だったと思いませんが、たとえ平和だったとしても、それを自分で勝手に乱しただけのことで、神無月さんが乱したわけじゃありません。神無月さんに振り返ってもらえないから出ていくなんて、結局自分がかわいかっただけのことでしょう。自業自得です」
 千佳子が、
「振り返るとか、振り返らないとか、そんな気持ちとはいっさい関係なく自由に生きている人を刺激して余計な反省をさせるなんて、愛していたらできることじゃないわ。甘えたり、辛抱したり、それだけですむことでしょう」
 ヒデさんが、
「私もそう思います。和子さんやトモヨさんたちも、何の苦労もなくそうしてます。ほんとに自然に。だって、いつもそばにいられて、それ以上望むことがないからです。千佳子さんや睦子さんもそうです。私も最初からそういう気持ちでいましたから、北村席にきてすぐわかりました。幸福から不幸へあえて身を投げこんでいくことはふつうじゃありません。青森高校を捨てなければいけなかった神無月さんには、ふつうでない事情がありました。その女の人たちには自分の不満以外に何の事情もなかったはずです」
 睦子が、
「からだの不満のことですね。四六時中抱いてほしくて神無月さんのそばにきたわけじゃないでしょう。そばにいればたまに抱いてもらえることがあるというだけです。神無月さんが望んでるのは、女のからだじゃなく、女の〈人間〉です。それも、子供のように天真爛漫な人間です。神無月さんはそういう女としか、心もからだもうまくやっていけないんです。そしてそれが神無月さんの自然な生き方です。人間として正しい生き方だと思います。私たち、子供時代、からだのことばかり考えてたかしら?」
「ほんとにそうね」
 優子がうなずきながらおしぼりで直人の口を拭いてやった。私は、
「心もからだもさびしかったんだよ。人は底なしにさびしい生きものだからね。それはいつも忘れちゃいけない」
 直人はホットケーキを二枚とバナナジュースを半分ほど残したので、女たちで平らげた。女店主にごちそうさまを言って、驚くほど安い勘定をすませ、店をあとにする。直人を肩車して太閤通に出、笈瀬通の電停の脇を竹橋町へ渡る。笈瀬川筋に入り、安宿の並ぶ辻を左折して福屋ホテルのほうへ。牧野公園。直人を肩から降ろす。
「はい、お散歩終わり」
「ぶらんこ」
「よし、いってこい」
 三時半。もう少しだけ直人を牧野公園で遊ばせことにする。女たちが寄り添う。テント、小屋がけキンシの立て札が入口に針金で結わえ付けてある。さびしい耳鳴りが聞こえる。胸に悲しい波が寄せる。
 ―〈世の中〉はどこにあるのだろう。
 おまえは世の中をわかっていないと、ことあるごとに母に言われた。わかろうにも、どこにある? 道か、空か、家か。はっきりと所在を示せ。それとも、人か。とするなら女たちに囲まれてブランコに揺られている直人か。人生の艱難を越えてきた優子か。これから艱難を背負いこむにちがいない睦子やヒデさんや千佳子やキッコか。公園の生垣の向こうを過ぎる見知らぬ老若の人びとか。私のはらわたにメシアとして食いこんでいる山口やカズちゃんか。遠方から不意にやってきた縁者のように私を引き受けた北村席か。たった一つの才能を大げさに珍重して拾い上げた中日ドラゴンズか。
 世の中はもっとちがうところにあるだろう。もっと見えないところにあるだろう。永遠に近づけないところにあるだろう。ひょっとしたら正体がないかもしれない。ただ、かくも理解しがたい世の中をわかっていなければ、いっぱしにさびしいなどと感じるのは不遜だということだろう。悲しいなどと言う前に、所在の知れない世の中を理解し尽くさなければいけないのだ。テメエの感情など安易に口に出してはならないのだ。そのことをしっかりと心に留めて生き延びる覚悟をしなければならない。
 北村席に戻る。ジャッキの出迎え。こいつや草花が世の中なら、多少は〈感覚〉できる……。賄いたちが広縁に蒲団を投げ入れている。そこからそれぞれの部屋へ女たちが運んでいく。毎日全員干すわけではないので、四、五組の蒲団だ。下着などの洗濯物は睦子たちも裏庭へ取り入れにいく。女将はカンナを抱きながら帳場で客に応接し、主人は居間で雑誌を読んでいる。菅野はファインホースへいっていて姿がない。
 直人にねだられて本を読み聞かす。三匹のくま。すぐに彼は眠くなり、トモヨさんが夕食前のおねむに離れへ連れていく。座敷に寝転がって、女たちと雑談。睦子がカズちゃんに、
「むかし遊郭でよくあった総揚げってどういうものですか?」
「芸者や遊女を集めて飲めや歌えのドンチャン騒ぎをすること。この十年はなくなったわね。売防法が出された三十三年ごろ、日本一の規模を誇ってたのはこの駅裏、中村遊郭だったの。大正十二年に政府命令で大須から移転させられて日本一になった。東京の吉原を抜いてね」
 ものめずらしい話にヒデさんが膝をのり出す。
「そのころの大門は田んぼのど真ん中だったんですって」
 主人が雑誌を置いて話に加わってくる。
「総面積は三万二千坪。昭和十二年がピークで、和子が三歳ぐらいのときやな、妓楼が百三十八軒、遊女が二千人余りおった。一番の格式を誇ったのは、いまの料亭稲本、むかしの稲本楼や。今年の十一月に直人の七五三をそこでやる。東京の吉原で名を馳せた稲本楼にあやかって同じ名前をつけたんやな。七百坪の敷地に、中庭を囲んで、大小の座敷が並んどる。あと十年、二十年もしたら文化財になるんとちがうか」
 客を送り出した女将も聞きつけてやってきた。
「十一月にみんなでいこまい。立派な部屋ばかりやよ。傘張り天井の伊吹の間、こんまい炉を切った山家(やまが)の間、真っ赤な絨毯を敷いて、紫檀でできた象を椅子にこしらえとる休憩室もあるで。大広間はすごいわ。柿色の壁、金屏風がズラッと並んどる。そこが総揚げした場所や。名古屋じゅうの太夫、廓(くるわ)芸者、太鼓持ちを集めて飲めや歌えやのお祭り騒ぎをしたんよ」
 素子が、
「めっちゃくちゃお金かかったやろうな」
 主人が、
「うちは置屋やからそういう騒ぎと無縁やったが、聞いた話では昭和の初めのころの金で百円、いまの金に直せば四百万。それで稲本の大広間は散財部屋と呼ばれたんや。三十三年に稲本は旅館になった」
 千佳子が、
「元禄時代の紀伊國屋文左衛門や奈良屋茂左衛門でもそういう話は有名ですけど、どうしてそこまでしたんでしょうね」
 主人が、
「世間の口を恐れずに言うとな、総揚げができるゆうのは男の甲斐性なんですよ。夢なんやな」
 キッコがキョロリと目を回して、
「そういうのも日本が生んだ立派な文化やと思うで。バーッと遊ぶ、男を磨く、せっせと働く、稼いだ金は世間さまに返す。粋やと思うわ。いまの世の中ではできん」
 ここでも世の中だ。現代にやっぱり世の中はないのだろうか。理解できる世の中があったのは粋なむかしだけ……。カズちゃんが、
「チマチマした世間が性に合わないというんじゃなくて、日本人はもともとそうした気質を持ってたのね。気質がしきたりになった。それがいつの間にか品のない金の使い方になり、負け犬根性の世の中になったということよ」
「しきたりって、文化と言い換えられるんですね」
「そう。気質に基づくしきたり。しきたりという文化がなくなってきたの。これほど悲しいことはないわ。文化って、きちんとしきたりのある金遣いのことだと思うから」
 女将が、
「お座敷遊びには、金のしゃちほこ踊りゆうのがあるんよ。両手と顔で体重を支えて、からだを反り上げるんや」
 主人が、
「粋やろ。脚さばきしだいで裾がめくれてアソコが見える。明るいお色気というやつやな。名古屋の芸者には必須の芸や。江戸時代以来らしいな」
 優子が睦子たちに、
「稲本を見たければ、駅西銀座からいけますよ。少し遠いですけど、散歩にはいいんじゃないかしら。インペリアル・フクオカというトルコから右手の道を見ると、ちょっと先に大門のアーチが見えます。それを左に曲がると松岡旅館、その向かいに稲本です」
「あしたいってみます」
「ベンガラ塗りの赤い塀なのですぐわかるわ」
 私はカズちゃんに、
「どうしてオオモンて言うんだろう。ふつう、ダイモンて読んじゃうよね」
「ダイモンと読ませるのは神社仏閣にかぎられてるから、オオモンと呼んで庶民の暮らす場所と使い分けしてたのよ」
 主人が、
「へえ、知らんかった」
 もちろんだれも知らなかった。ファインホースから菅野が帰ってきた。
「こともなし。目新しい報告はございません。ただ、二十六日の日米戦の試合開始前、バックネットかベンチの前で、マッコビーと並んだ写真を撮らせてほしいと新聞社が何社か電話してきました」
「了解」
 幣原とジャッキが散歩に出た。イネがジャッキの帰宅後の食事をあらかじめ準備しておく。直人が起きてくる。テレビが点く。万博盛況のニュース。イモ洗いの人だかり。異形の太陽の塔やエキスポランドをはじめとして、各館の出し物が紹介される。アメリカ館はアポロ12号が持ち帰った月の石、ベーブルースのユニフォームとバット、ソ連館は宇宙船ソユーズ、フランス館は、ドイツ館は、××館は、××館は……。女将が浮き立って、
「千佳ちゃん、ムッちゃん、うちらは三カ月後やよ」
「はい」
「オープンしたばかりの千里阪急ホテルに予約入れたでな。外国の客やコンパニオンが大勢泊まるで少し落ち着かんかもしれんけど、豪華な設備のホテルやよ」
「楽しみですね。いくのは私と千佳ちゃんと……」
「キッコ、千鶴、それから文江さんや。六月九日から十一日まで二泊三日。ご一行さまゆう感じやな」
 直人はテレビに目もくれず、睦子と千佳子に買ってもらった大判の絵本『おおきなかぶ』を開く。睦子が読む。日本人画家の手になるダイナミックな挿絵に目を惹かれ、千佳子たちといっしょに見入る。トルストイ作のロシア童話。
 お爺さんの植えたかぶが大きく育つ。一人では引き抜けないのでお婆さんと孫が手伝う。千佳子と並んで覗きこんでいたヒデさんが、
「うんとこしょ、どっこいしょ、という有名なかけ声はこの本から広まったんです」
「そうなの!」
 それでもかぶは抜けない。孫は犬を呼び、犬は猫を、猫はネズミを呼んできて引っ張るが、やはり抜けない。その流れがわかっていても直人は大喜びだ。最後にお爺さんがひと踏ん張りしてかぶが抜ける。直人は満足そうに絵本を閉じ、うんとこしょ、どっこいしょと言いながら私の足を引っ張りはじめた。ビクともしないので、睦子に命じてもう一方の足を引っ張らせる。私は動くまいとがんばる。
「すがのしゃん!」
 睦子が菅野に代わったので、私はズルッと動いた。直人が歓声を上げる。
「いい絵本を買ってあげたね」
 私は睦子と千佳子に笑いかける。幣原が玄関に戻ってきた。ジャッキがさっそく餌皿にかぶりつく。
「ごはんですよォ」
 トモヨさんの声がし、賑やかな夕餉が始まる。ソテツが、
「きょうは牛肉メインのお料理です」
 五つ、六つ、七つと皿が運びこまれる。牛肉とジャガイモのバター醤油炒め、牛肉と麩の煮物、牛肉とマイタケの卵炒め、定番のビーフシチューとローストビーフ、牛スジの煮こみ、サッパリと小松菜のお浸し、豆モヤシの中華サラダ、キュウリとワカメの酢の物、切り干し大根とシメジの味噌汁。笑顔が光のように食卓を取り囲む。楽しい現在。しだいに薄れる過去。死ぬこと以外は定まっていない未来。
 死に向かうことは楽しく生きている人間には似合わない。
 ―死が訪れるまで自分の心と苦しく話すこと。
 たしかにそれは決められた終点に向かうすべての人間に似合っている。ただ、苦しみだけでは退屈この上ない。他人と交わす楽しい会話こそ退屈を癒す甘露になる。苦しい心の薄皮をその楽しさの中に浸して生きること。


         五十六

 七時を過ぎた。直人がいつもならコックリを始める時間なのに、テレビの前で粘っている。トモヨさんがお風呂と言うのも無視して、アタック№1が終わるのをじっと待っている。次の番組のムーミンを観たいからだ。トモヨさんは仕方なく彼を膝に抱いてテレビの前に坐る。私も坐る。このきわめて前衛的な北欧のアニメーションを子供が理解できるとは思わない。いや、大人でも無理だろう。訴えてくる一コマはある。小説らしきものを書こうとしているムーミンパパが、題名はおろか、本文を一字も書き出さずに、ノンブル1と記した原稿用紙を丸めて捨てる場面だ。
 案の定、ムーミンが始まって五分もしないうちに直人はあくびをし、つらそうな様子になる。トモヨさんは直人を立たせ、手を引いて風呂場へ去った。幣原もカンナを抱いてついていく。賄いたちの食事が始まる。いつもと同じ流れになる。厨房のメインどころがまず食事をすませ、サブどころがテーブルにつく。アヤメの遅番組が帰ってきて加わる。主人と菅野が店回りに出、女将とソテツと幣原が帳場に入る。しばらく歓談し、二階組が二階へ上がると、則武組が腰を上げる。
 夜道に五人の平和な靴音が響く。
 自分に対して無性に怒りがこみ上げてくる。からだじゅうを切りつけたくなる。切りつけて血を流したくなる。そうすれば怒りが鎮まると思うからだ。野辺地から古間木、古間木から横浜、そして名古屋、ふたたび野辺地、それから青森へ移り、ふたたび名古屋へ立ち戻り、さらに東京へのぼった。そうやって移動してきた自分が自分であるような気がしない。苦悩や悲しみや倦怠や諦観さえも怒りの裏返しだとすると、私はひたすら怒りにうなされて動き回ってきた。動きが沈滞することを幸福だと信じこんできた。しかし、ときどきこうして怒りの発作がやってくる。
 いったい何に怒っているのだ。癒されて平和な自分に対してであるはずはない。もちろん、私を癒し幸福にする人たちに対してでもない。私を苦しめた人たち、私を憎んだ人たち、私を利用し迫害した人たちに対してだ。あるときどこからかやってきて、脅し、引き回した人たち。いまでは彼らの存在は架空のものに思えるけれども、けっして忘れることはない。
 青森の書店で手に入れた聖書の一節に(マタイの福音書だったか)そういう人たちのために祈れと書いてあった。そんなことができたら、私はこれまで直面してきた一つひとつの課題を難なく克服していただろう。なぜ自分に悪さする人たちのために祈るのか、それはたぶん何か〈絶対物〉が私たちに望む真理だからということかもしれない。祈りというのは、この世に命と愛が存在することを確信するための儀式だからだ。しかし……私は絶対物を信じていない。私は儀式を必要としない人間を信じている。しかし、人間を信じることがほんとうに〈信仰〉なのだろうか。幼いころから積み重なってきた怒りの補償作用でないのか。
 ―集中する。左肘を緩めて。イチ、ニ、一瞬の間をおいて腰をひねり、サンで手首を絞る。フォロースルー。
 それが私の信仰ではないのか。少なくとも怒りの補償作用ではない。
「あしたは歯垢取りか」
「待合で騒がれるのがいやなんでしょう? だれもついてってあげられないわよ」
「わかってる」
 百江が、
「私、遅番ですからついていけます」
 素子が、
「百ちゃんのかわいい赤ちゃんやからな」
「はい」
         †
 三月十六日月曜日。七時起床。雨。十・八度。枇杷酒でうがい。カズちゃんが、
「うがいは嚥下機能を衰えさせないのよ。年をとったら特に効果的なので、北村ではみんなやってるわ。則武もね」
 と言う。自分はいいことをしているのだなと思い、ほのぼのとした気持ちになる。
「最近ご無沙汰してるでしょう。自分を奮い立てなきゃ衰えるわよ。どんなからだのき脳も同じ。ムラッときたら遠慮しないで声をかけなさい」
「うん。……だれがしばらくしてないかなって考えちゃう」
「そんなこと考えなくていいの。女はいつでもできるんだから。……そう言えば、女の子のほうも最近自重してるみたいね」
 百江が、
「ソテツちゃんとイネちゃんが、そんなこと言ってました。声をかけたいけど、ちょっと気が引けるって」
「一時期キョウちゃんは激しかったから、急に落ち着いてきて、逆にそうなっちゃった気持ちもわかるけど。結局恥ずかしいのね、下着を脱いですることだから。……優子ちゃんも遠慮してるみたいだし。あんまり気を使わないようにみんなに言っておくわ」
 排便。ふつうの軟らかさ。シャワー。朝飯は後回しにしてジムトレ。器械を操作しながら考える。
 人と関わればいろいろなことがある。関わることで失う自由や、つどって繰り広げられる楽しい宴、おのずと交わす肉体の歓び。忘れてはいけないのは、いいときもあれば悪いときもあるということだ。自明のことなのに、ちがう価値観の持ち主が多い。悪いときを嫌うという信念だ。何もかもマイナスを嫌うという信念だ。それが彼らの不満の源になる。人生は幸福でないことが基本だ。悪いことは生涯つきまとう。それに幸福を見出し、それを共有することを喜び合わなければ、人生そのものに価値がなくなる。甘く見てはいけない。人生は具合が悪く、危険だ。それこそ価値だ。
 九時。合羽を着て菅野と日赤を往復する。
「飛島の飯場を憶えてますか」
「ハッキリと」
「あの母がぼくを愛していたと思いますか」
「……そう思います。私も親なので……神無月さんと同じようにね。……抗えないものがあります。愛もその一つです」
「名言だけど、彼女を許す理由にはならないな。幸運にもプロ野球選手になれたとき、ぼくの心の中で復讐は終わってる。妨害がなければもっとスムーズにことが運んでたという問題じゃないんだ。ぼくの直観が許そうとしない」
「寄り道は気の毒だったと心から思います。でもそういう問題じゃないんですよね。……どこかで親子関係がズレちゃったんでしょう。もう憎しみを消すことはできないんじゃないんですか。憎しみと折り合いをつけていっしょに暮らすしかないと思いますよ」
「そうだね」
「ところで、サンフランシスコ・ジャイアンツ戦が終わったら、世界から引き抜き攻勢がかかりますよ。小山オーナーや白井社主になんとか持ちこたえてほしいですね」
「ぼくは世界を旅したくないんだ。身近な人間と幸福を共有し合うという信念は、狭い場所でしか貫けない。そのことをハッキリ言うよ」
「小さな集団を愛することに徹する神無月さんを誇りに思います。腹の底から尊敬します。そういう神無月さんに腹を立てる人もいると思いますが、誠実すぎる神無月さんを見ればその腹立ちも鎮まるでしょう。……神無月さんと私たちは似てます。私たちも神無月さんと同じで、世界を旅しないでしょう」
「キャッチボールは?」
「は?」
「走るだけじゃなく、きょうからキャッチボールをやりませんか」
「私とですか?」
「はい。脚だけじゃなく、手や腕も鍛えましょう。ランニングから帰ったら十分くらい庭でやるんです。ミズノから去年届いたグローブが一つ余ってますから」
「やりましょう。楽しそうですね」
 霧に変わりかけている雨空を見上げて応えた。
 霧雨の中、芝庭で菅野とキャッチボール。硬球でやる。ジャッキが二人のあいだに腰を下ろしてボールの行方を追いかける。菅野は、この数年のランニングで体力がついたせいか、いつか秀樹くんといっしょにキャッチボールをしたときよりも力のあるボールを放ってくる。私は最小の力で投げる。ボールがグローブのキャッチングポケットに収まるときの衝撃が強いと、掌がおそろしく痛むからだ。しかし菅野は微妙にポケットを避けて網に近い部分で受けた。
「うまい。その調子です」
「もう少し速くてもいいですよ」
 強がりではなさそうなので、手首を使って投げてやる。じょうずに捕球する。
 百江が門を入ってきた。
「お昼には雨が上がるそうですよ」
 言ったとたん、激しい雨脚になった。三人と一匹は走って玄関に飛びこむ。イネが、
「風呂、風呂!」
「オッケー!」
 ジャッキが胴ぶるいする。主人が、
「当分天気悪いそうやぞ」
 トモヨさんが、
「下着置いときます」
 菅野とシャワーを浴び、湯に浸かる。
「なかなかのスローイングですよ」
「お恥ずかしい。四十の手習いですよ」
「三種の神器をやってますから、肩はできてます。なるべく手首を意識して投げてください」
「はい」
 襷(たすき)掛けした幣原と首輪を外したジャッキがひょっこり入ってくる。ジャッキは湯船を覗きこむ。頭を撫でてやる。
「すぐ終わります」
 動物用のシャンプーを塗りたくり、泡立て、毛を揉み洗いする。首と頭も同じようにする。ジャッキはおとなしくしている。シャワーをかけながら丁寧に洗い落として終了。胴ぶるいする前に抱いて脱衣場に出る。バスタオルで水気を取っているようだ。私たちは湯殿に出て頭とからだに石鹸を使う。
「幣原さん、手慣れたもんですね」
「ジャッキは幣原さんの直人みたいなもんですよ。ジャッキのほうも信頼し切ってます」
「直人は、保育所、あと何年だろう」
「今年と来年ですね。再来年は幼稚園です」
「その三年後は小学校」
「はい。カンナは二つ下ですから、直人が幼稚園に入る年に保育所です」
「不思議だね」
「不思議です」
「秀樹くんは今年から中二か。勉強はどう?」
「クラスの五、六番というところです」
「やるね」
「西高を目指してます。どうしても入りたいって」
「その前に書道でしょう」
「はい。滝澤さんが名古屋でも名の通った人になってきましたから、秀樹もやり甲斐があるようです。今年じゅうに初段をとると言ってました。あしたの福岡行の飛行機、十一時五十分の予約をとっておきました。そのあとは五時半になってしまうんで。到着は一時三十五分です」
「ありがとう」
「プロペラ機のころは二十分くらい多く時間がかかってましたが、今年からジェット機が乗り入れたので多少早くいけます。福岡からこちらへはほとんどプロペラ機のようです」
「あしたはランニング中止」
「はい、そうしましょう。北村を十時半に出ればいいですね。あしたの午前は荷物の準備に当てると」
「そうだね。十九日に戻って、二十二日は川崎、二十四日は甲子園か」
「はい、それから名古屋に戻って、二十六日はサンフランシスコ・ジャイアンツ戦です」
「二十九日の西宮で終わり、と」
「はい」
 もう一度湯に浸かって出る。座敷に遅い朝食が準備されている。菅野が、
「食ってきましたから私はいいですよ。じゃファインホースに出ます。そのあとで歯医者にいきましょう。社長、見回りどうします?」
「きょうの昼は蛯名さんに頼んどいた。夜はワシらでいこ。夜に雨がきたら女の子の送り迎えしてもらわんとあかんし」
「はい」


         五十七

 ソテツと百江のおさんどんでめし。十一時。居間で主人は新聞、女将は茶。厨房は昼食の準備。睦子たちはきょうもステージ部屋で万葉旅行の計画を練っている。強い雨だ。食事を終えると、私は傘を差して則武へ帰った。
 牛巻坂七章のつづき。一時四十分まで書いて、北村席へ戻る。菅野と百江と水野歯科へいく。菅野より先番でしてもらった。三十分ほどかけて終了。歯根の脇までガリガリやられて痛かったが、口中がサッパリする。先に帰っててくださいと菅野が言うので、百江が清算して歯医者を出た。北村席への帰り道で、
「このまま則武に帰る。優子とソテツとイネに声をかけといて」
「はい。ソテツちゃんがだいじょうぶと言ってますから、彼女に出してあげてください」
「わかった。きょうはもう北村席にいかないから、夕食が終わったら、千鶴と幣原さんにくるように言って」
「はい。……秀子さんはかわいそうですね」
「だいじょうぶ。こちらにきてから一度抱いてあげたから。彼女はこだわらない性格だから、あいだが空いても気にしないと思う。したくなったら自分から言いだすよ」
「そうですね。何人かとするのは気の毒ですしね。ほんとは睦子さんも……」
「二人ともそういうことでは気の毒と思わない。カズちゃんにしても、素子にしても、百江やメイ子にしてもね。だれにしても、大切にされている感じは伝わってると思う。ただヒデさんはまだこういう生活リズムに慣れていないから、とつぜんそういうことになるとビックリするだろうね。ぼくもビックリさせたくないし、ふだんはなるべく一人きりでしてあげて、やむを得ないときにだけ睦子や千佳子から持ちかけてもらおうと思う」
「すべて女の側の節制の心がけが大切なんですけどね」
「心がけはおとなのものだけど、からだはいつまでも子供だからね。子供の感覚を抑えるとロクなことにならない」
「いつもホッとすることを言ってくれますね。私、このまま遅番で出ます。十時までには帰ります」
「それから何か軽く作ってね」
「その前にお嬢さんとメイ子さんが用意すると思います」
 門の前で別れる。
 三時を回ってソテツとイネと優子がやってきた。つつがなく彼女たちの心身に満足を与えることができた。〈慣れ〉は生活のすばらしい潤滑油になる。たとえ異様な生活でも。
 三人を帰してから机に向かう。花ござが快適だ。浅野の家の描写にかかる。かなり根気が要った。八時、牛巻坂七章終了。カズちゃんとメイ子が帰ってきた。コーヒー。
「ダッフルにユニフォーム一式とタオル類を詰めておいたわ。グローブ、スパイク、帽子はあした詰めてね」
「うん」
「千鶴ちゃんと幣原さんは十時過ぎにくるようよ。素ちゃんもくるって言ってたから、仲間に入れてあげて」
「もちろん。何の手間もないよ」
「少し手間をかけてあげてね」
 メイ子が口に手を当てて笑い、
「お嬢さん、気を使いすぎです。神無月さんがしてくれるというだけで、何の手間も要らないんです。勝手にからだが燃え上がります」
「わかるけど……」
 オムレツ、厚揚げの肉味噌炒めと、キャベツの味噌汁が出てくる。めし大盛り一膳。
「食べておかないとね」
「うん」
 月曜ロードショーを観ながら居間で食う。カズちゃんたちはコーヒー。
 昭和三十四年のイギリス映画『三十九階段』。だいぶむかしのヒッチコックの政治ミステリー『三十九夜』の焼き直しか。何年か前の『知りすぎた男』程度の二流作品。ただカラーなので、イギリスの農村風景の美しさを楽しめる。主人公が逃避行先で飛びこんだのがたまたま講演会場で、即興で講演してしまうというのはよくあるパターン。それが大成功したり大失敗したり。失敗したのでは『第三の男』がある。たしかジェームズ・ジョイスに関する講演だったと記憶しているが、私が詐欺文学扱いしている〈意識の流れ〉を飛びこんだ男が説明できなかったのではなかったか。一人称と三人称をゴタ混ぜにした文章技法にどんな意味があるかを説明できる御仁がいたらお目にかかりたい。著者の複雑な心理のせいでわかりにくい前衛文学ではなく、著者の心理をわからせまいとする詐欺文学は世界で絶賛される。ともあれ、この映画も結局は万年繫栄するスパイ物。
 食後にイチゴが出る。イチゴを食うと種が健康な歯間に挟まる。いずれポロリと取れるけれども、挟まっている感じが嫌なので噛みしめないようにして食う。メイ子が、
「あ、百江さんの声。みなさんきたみたいですね。お嬢さんとメイ子さんと私は、この映画を観たあと百江さんの部屋で寝ますから、神無月さんたちは離れでお休みください」
「ぼくたちもこの映画を観るよ。どうせ十分、十五分くらいのことだから、11PMでも観てて待ってて。彼女たちが帰ったら今夜は三人とぼくの部屋で寝る」
「だめだめ。きょうはぐっすり寝なさい。六人も相手にして何言ってるの」
「そうですよ」
 メイ子がうなずく。百江は、
「神無月さん、ごはん食べました?」
「うん、満腹」
 すぐに台所にいって食器を洗う。ごめんくださいと言いながら女三人が居間に入ってきて、いそいそとソファに座る。千鶴がカズちゃんの肩に凭れる。カズちゃんは千鶴の肩を抱いてやる。素子が、
「お姉さん、うちお風呂もらうわ。危ない日やでビッショリや」
「私も危険日です、年甲斐もなく」
 千鶴が、
「うちに出せばええわ。安全日やで」
 メイ子が、
「素ちゃん、少し温めて入って」
「ほいほい」
 姉が風呂にいくと千鶴がカズちゃんに、
「ムッちゃんたち、キッコとヒデちゃんが合格したら、一人ひとりご相伴で抱いてもらうんやて」
「慎ましいわね。キョウちゃんがスーパーマンじゃないってわかってるからよ」
「うちらも見習ったほうがええかな」
「キョウちゃんが疲れてると思ったら、そうしたほうがいいわ。きょうはだいじょうぶそうよ」
 素子が風呂から上がると四人で離れへ。ここもつつがなくことが運んだ。素子は地のとおりでじゅうぶんだったが、千鶴も幣原もふだんより素早く昇り詰めて、私の負担を軽減してくれた。三人分の満足感を私の射精を受けた千鶴がいつもよりも長い余韻でしっかり伝えた。何にせよ感覚の鋭い人間は人びとを種々の意味で救済する。
 四人でシャワーを使い、居間へ戻る。離れへいってから二十分しか経っていなかった。カズちゃんが三人に、
「スッキリした?」
「はい!」
「よかった。キョウちゃんは責任感でいっぱいの人だから、そう言ってもらえるのが最高のご褒美なの。キョウちゃんも少しだけスッキリしたはず。それもささやかなご褒美ね。でもキョウちゃんの快楽なんて、あなたたちの十分の一、百分の一だということは知っておいてね」
 幣原が、
「よくわかってます。見ればわかります。私たちとぜんぜんちがいますから」
「じゃ、十回、百回がまんしてから求めないと、キョウちゃんに対して申しわけないということになるわ。これからは、ほかの女の子と何回かしてから自分の番に回ってくるというスケジュールをよく考えてキョウちゃんに求めなさい」
「はい!」
「はい!」
 カズちゃんはニッコリ笑って、
「私は出会ったときからずっとそういう気持ちで抱いてもらってきたわ。私一人だけだった時期は、なるべくキョウちゃんの禁欲がピークになったと確信できるときに合わせて抱いてもらうようにしてた。キョウちゃんの快楽が大きくなるからよ。自分の大きすぎる快楽が申しわけなかったのね。でもそんな芸当いつもできるわけじゃないから、〈なるべく〉の話だったけどね。女がたくさんできてからは、自分だけ抱いてもらってたときより話が簡単になったわ。だって禁欲期間を置かないキョウちゃんの快楽が大きくなることは望めないから、ほかの女の人とする回数を足し算して自分の一回分と同じくらいになったなと思うときに抱いてもらうようにしたの」
 素子が、
「それでお姉さん、このごろ、じれったくなるほどキョウちゃんに抱かれなくなったんやね」
「そうね。でも最近のキョウちゃんは、いろいろ忙しくて、あまりセックスしなくなったから、それだけ禁欲の期間が長引くことになって、一時期よりはけっこうたくさん抱いてもらえてるわ」
 そう言って、もう一度ニッコリ笑い、
「キョウちゃんがあいだを置けば置くほどおたがいの歓びは大きいってこと。キョウちゃんのセックスメイトは、名古屋だけで私を入れて十五人くらいいるはず。名古屋以外には、そうねェ、五人はいないと思う。その人たちは一年にいっぺん、半年にいっぺんでしょうから、キョウちゃんが適当なあいだを置く数には入れないとして、私たち名古屋の女ができるだけキョウちゃんがあいだを置くように努力すれば、キョウちゃんが三、四日にいっぺんすると考えて、ちゃんとした計算はできないけど、たぶん二カ月も待たないうちに一度は抱いてもらえるでしょう。でもあんなに感じさせてもらえるんだから、二カ月くらいがまんしましょうよ」
「はい!」
「はい!」
 百江やメイ子までうなずいている。私はひそかに安堵するが、自分の中の〈何か〉の衰えを隠蔽しているようで後ろめたくなる。
 11PMが終わるころに、三人の女は帰っていった。カズちゃんが、
「私が口出しすることじゃなんだけど、……見かねちゃって」
 百江が、
「女のからだが……心じゃなく、からだが貪欲なんですよ。心で抑えつけないと」
「ロマンチックな心でね。……愛ね」
         †
 三月十七日火曜日。八時四十分起床。寝過ごした。雨。一・六度。百江がいる。
「おはよう」
「おはようございます。北村でお着替えなさいますね」
「うん。いっしょにいこう」
「はい。ごはんは?」
「向こうで軽くきしめんでも食べていく」
「電話しておきます」
 耳鳴り確認。小さい。うがい、便の具合よし、シャワー、歯磨き、洗髪、爪切り、耳掃除。ジャージを着る。長靴を履き、傘を差して、百江と北村席へ。
「九州は降ってないそうです」
「問題はあしただな。降っても弱い雨なら野球ができる」
 北村席で天ぷらきしめん。直人も別腹で半分食って、雨の中をトモヨさんといっしょに菅野のセドリックで保育所へ。
「福岡から帰ったら、いよいよ発表だね」
 キッコに言うと、
「だんだんアカンゆう気になってきたわ」
 ヒデさんが、
「だいじょうぶよ。何度も答え合わせしたじゃない」
「いつもあきらめてることが肝心だよ。吉と出る試験結果はすべてマグレなんだ。マグレと知れば、合格しても冷静でいられる。そうすると、合格するのがほんとうの目的じゃなかったとわかってくる。合格して勉強をつづけるのが目的だったとね。目的を理解した人間は周囲の人間を喜ばせる」
 主人が、
「深いですな。あきらめが基本ですか」
「はい、あまり気の利いたものではないですけど」
 菅野が戻ってから、ブレザーに着替える。
「いってきます」
 みんなが、いってらっしゃい、と応える。主人が、
「気の荒い土地柄ですから、へんに興奮して乱闘に捲きこまれんようにな」
「高見の人でいますよ」
「ケガせんように」
 上がり框で女将が切り火を打ちかける。自分が康男のような勇みの稼業の人のように思えてくる。両の脛(はぎ)に力が入る。十時半、ダッフルとバットケースを担ぎ、スポーツバッグを提げて門を出る。セドリックの助手席に乗る。後部座席に睦子と千佳子とヒデさんが乗る。キッコと百江とソテツたちが手を振る。名古屋小牧空港に向けて出発。


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