五十一
五時五分前、数寄屋門に帰り着く。カズちゃんがハイエースを一台、駅前のトヨタレンタカーに返しにいく。主人や菅野たちとぞろぞろ庭石を歩く。睦子と千佳子と池の金魚を見にいく。元気に泳いでいる。
幣原がジャッキにめしをやっている。散歩から帰ってきたばかりのようだ。ヒデさんとしゃがんでジャッキの背中をなぜる。トモヨさんが、
「郷くんは離れで着替えてください。それから軽く食事してお出かけですよ」
幣原がヒデさんに、
「どうでした? 初めての中日球場は」
「野球場も選手も目が醒めるほどきれいでした。テレビとぜんぜんちがいます」
「よかったですね。私もサンフランシスコ・ジャイアンツ戦を奥さんと直ちゃんと観にいきます」
「今年は中日球場に何度もかよいます」
ヒデさんが千佳子たちと浮きうき二階に上がる。離れにいってユニフォームを脱ぐついでに、手っ取り早く交接をすませ、二人でシャワーを浴びてから、彼女の好みのブレザーに着替える。
「そろそろ妊娠が危なくなります。来月あたりからは、きちんとタイミングを計ってお情けをいただくことにしますね」
「うん。四、五年は気をつけないとね」
「はい」
キスをして座敷に出る。女将やかよいの賄いたちのほかはみんな正装している。賄いたちが全員にきしめんとおにぎりを出す。トモヨさんが、
「お帰りになったら、きちんとご用意します」
直人がめずらしがって睦子たちの服をつまんだり引っ張ったりしている。まだよちよち歩きのできないカンナは女将に抱かれた格好で同じことをしている。
「やまぐちしゃんはきょうくるの?」
幣原が、
「きますよ、夜遅く。みんなでお迎えにいってきますからね。直ちゃんはあしたの朝に会えますよ。ちゃんとおねむをして待ってるんですよ」
「うん」
菅野が、
「そろそろ出ましょう。二十分で着きます」
女将が、
「きょうの朝九時半から万博の開会式があったんよ。今夜七時半から一時間、NHKが録画放送するわ」
賄いの一人が、
「式典で天皇陛下が出るんです」
主人が、
「しっかり観とけよ。そのうち再放送があるやろ。じゃいってくるわ」
「いってらっしゃい」
「いってらっしゃいませ!」
ジャッキの吠え声に送られて五時半に出る。先発する菅野の運転するハイエースに、主人、私、睦子、千佳子、キッコ、優子、ソテツが乗り、カズちゃんの運転するハイエースに、素子、ヒデさん、メイ子、百江、幣原、イネ、千鶴が乗った。睦子が、
「きょうはベンチ前で円陣を組まなかったですね」
「うん、初回裏の攻撃に出るときに、ベンチ後ろの階段下で手を重ね合って、エー、イグゾ! という声出しだけですませたんだけど、それも今回かぎりにしようということになった」
菅野が、
「またどうしてですか」
「ベンチ前のグランドがごちゃつくのは観客から見て心地よくないし、プロともあろうものが高校生のような幼い雰囲気を出すのは感心しない、強い中日がやれば多くの球団がまねしだして、いよいよプロのにおいが消えていく、と水原監督に言われたからです。そのとおりだとみんな納得した」
主人が、
「ダンディの水原さんらしい言葉や。プロ野球はプロのにおいが大事という考えが徹底しとる」
下広井町から左折して新洲崎に出、新洲崎橋を渡り、白川公園を左に見て過ぎ、若宮神社、政秀寺等いくつかの寺院の並びを通過して、若宮大通りに出る。堀留、栄五丁目、丸田町まできて右折。ビル街を抜け、松ヶ枝の交差点を左折。名大病院を右折して鶴舞公園に到着。公園口を入ってすぐに駐車場。目の前に大学の建物のような名古屋市公会堂。
「すごーい!」
「すてき!」
石段を昇って玄関ロビーに入る。係員に切符を渡して、演目の書かれた小さなパンフレットを受け取る。一階大ホールのノブ式の分厚いドアを開けて会場に入る。全員その広さと豪華さに目を瞠る。一階、二階、三階に列なす赤い座席。一、二階に人がギッシリ座っている。三階はまばらだ。舞台にはカーテンが引かれている。菅野が、
「一階八百席、二階四百席、三階三百席です。八分の入りですね」
千佳子が、
「ビーチボーイズもベンチャーズも、ボビー・ソロ、レイ・チャールズ、ニニ・ロッソ、アダモもここで公演したんですよ」
キッコが、
「CBCが録画するそうやよ」
めいめい指定された席に座る。一階席の前部なので二階席の床天井も欄干壁も見上げられる。二階の客席は脇桟敷しか見えない。やがて、ざわついていた客席が静まり、館内が暗くなった。固唾を吞む感じになる。場内スピーカーから声が落ちてくる。
「本日は、世紀の天才ギタリスト、山口勲のデビューリサイタルにお越しくださいましてまことにありがとうございます。周知のように山口勲は、昨年夏、弱冠二十歳にして世界最高峰と言われるイタリアのピッタルーガギターコンクールにおいて優勝いたしました。それ以前の国内の主要なコンクールにおいてもすべて優勝を成し遂げております。名実ともにいまや日本ギター界の星でございます」
山口の略歴がざっと紹介され、途中、私と親友であることにもひとこと及んだ。
「祝電は開演前に内容を省いて、お名前だけを発表させていただくことにいたします。これは本人のご要望でございます」
二十ほどの名前が読み上げられた。中にレコード会社がいくつかあり、音楽家らしき名前がいくつかあり、戸山高校学友一同、中日ドラゴンズ監督水原茂、中日ドラゴンズ選手一同があり、東京大学吹奏楽部というのもあった。馬車と太陽の模様のきらびやかな緞帳が左右に開く。舞台中央にスポットライトが当てられる。ライトの中に百花を挿した大きな花瓶が一つ、椅子一つ、譜面台一つ、足置き台一つ、集音マイクが椅子の前に等間隔に三つ。
「それでは山口勲さんのご登場です」
舞台左袖の暗がりに靴音が響く。黒ワイシャツに赤いネクタイを締め、深緑の背広を着た山口が、ギターを片手に提げてスポットライトの中へ歩み出てきた。割れんばかりの拍手が上がる。ひときわライトの明るさが増す。山口は客席を正面に見据えて深く辞儀をすると、椅子に腰を下ろし、譜面台を脇へ押しやり、片足を台に乗せ、抱えたギターの棹に耳を寄せながらペグをひねって調弦しはじめる。ひとこともしゃべらない。まったくの静寂だ。とつぜん山口の指が踊り、音が流れ出す。花瓶の花よりも美しい音の花。プログラム冊子を薄明に透かし見ると、マウロ・ジュリアーニ作曲『大序曲』となっている。十分ほどで演奏が終わった。大拍手。山口は譜面台に載せてあったマイクを手に取ると、いつものとおり淀みなくしゃべりはじめた。
「ええ、みなさんこんばんは。ギタリストの山口勲です。オーバーな先触れで紹介を受けましたが、きょうそこにきている(私を指差し)親友神無月郷の言に倣(なら)えば、星などという分不相応なオカタではなく、ひたすらギターを愛する一介のギター小僧にすぎません。小さいころからギターは好きでしたが、ギタリストになろうと決意した理由は、青森高校時代神無月にベタ褒めされたことと、彼の詩に魂をふるわすほど感動して、その詩想を音で表したいと念じたこと、その二つです。いまも変わりません。私はいつも彼に褒められた自分の腕前を信じ、彼の詩想を代弁するつもりで弦をはじいています。きょうは休憩を挟んで第二部に入った最初に、彼の天上から降ってくる奇跡的な歌声で一曲唄ってもらうつもりでいます。東京三鷹の路上の少女詩人の詞に私が手を入れ、作曲した『きみの待つ部屋』という歌です。昨年この曲ができたとき、彼は気に入って即日暗記してしまいました。いいか、神無月」
私は手を挙げてうなずいた。
「一年近く前のことなので歌詞を憶えていないだろうから、譜面台に載せてやる。では、第一部最後の曲を弾きます。これも十八世紀から十九世紀にかけてウィーンで〈名人〉と呼ばれたナポリ王国のギタリスト、マウロ・ジュリアーニが作曲した『ギターのための華麗なソナタ』から、全三楽章」
さらにきらびやかな、それでいて清楚な花がこぼれ落ちる。首筋に泡が立つ。微風に少しずつ散る桜のように長い演奏が終わった。拍手が波になって寄せる。山口は立ち上がって辞儀をし、舞台の袖に去った。やがて拍手が静まり、場内が明るくなる。三十分の休憩に入った。七時を回っている。一時間があっという間だった。どんな経験も楽しい。両隣に睦子と千佳子がいる。その隣にキッコとカズちゃんがいる。私たちの後ろの席には主人と菅野、その隣にソテツと千鶴と素子とヒデさんがいる。百江やメイ子、幣原、優子、イネは二階席だ。みんな同じように至上の時を経験しているだろう。
飲み食いできない規則になっているらしく、ロビーに売店はない。主人たちは西のドアを開けて、テラスの喫煙所へタバコを吸いに出た。ほかの者たちは何人かトイレへいった。私はギターの音色の余韻に浸っている。千佳子が、
「山口さん、ちがう世界に住んでるみたい。神無月くんと同じ」
「だれだってみんな住む世界がちがう。こうやってときどきそれを確かめ合うんだ。友情の絆を強くするために」
カズちゃんが、
「この会場でキョウちゃんの声がどんなふうに響くのかしら。楽しみ」
睦子が、
「山口さんが言うとおり、高い天上から降ってくるんだと思います」
キッコはキョロキョロ周りや二階を見回している。私は小便をしに後部ドアからロビーに出た。映画館より殺風景な回廊を歩いて、満員のトイレに入る。ごくふつうの造りなのがうれしい。
三十分の休憩が終わる。パンフレットを確かめる。テデスコ作曲『ソナタ・ボッケリーニ讃歌』全四楽章、ポンセ作曲『ソナタ・ロマンティカ』全四楽章の二曲だ。館内が暗くなり、椅子にスポットライトが当たる。靴音。ギターを提げた山口がライトの中へ出てくる。山口が私に手のひらを差し出す。
「お待たせいたしました。第二部の開始でございます。世界に冠たる神無月郷選手と、これまた世界に冠たる山口勲が、高校以来の親友同士であるというのは何という奇遇でしょう。またこれからのお二人の活躍と成長を見守ることができるというのは何という国民的幸運でしょうか。いまその二人の再会の場に臨席し、二人のパフォーマンスを目の当たりにできる私たちは最高の幸運児であると言えます。この幸運に感謝したいと思います。では、神無月郷さま、舞台へお上がりくださいませ」
盛んな拍手の中、私は立ち上がり、ステージの裾へいって短い階段を昇った。ライトの中で山口からマイクを渡される。楽譜台を前に置かれる。
「憶えてるよ」
台を脇へ押しやる。
「そうか、この世の肝心なことは覚えないくせにな」
「肝心なことはからだが決める」
二人のやり取りに会場から明るい笑いが上がる。
「準備、OK?」
「オーケイ」
「それでは『きみの待つ部屋』。神の声、神無月郷が唄います。曲の途中で拍手や歓声をお控えください。神無月は萎えてしまいます。彼は全力で唄うので、この一曲で力尽きます」
去年の夏のように、からだが冷えびえとするほど透き通った前奏が始まる。山口が私を見上げたタイミングで唄い出す。
すんでのこと 閑古の夕日は灰となり
足なみさえも 強いられる
冷えた四畳に だれか待っている?
待っている その人は神
もう 考える毎日に疲れ果てた
魚にこころがあったら 殺さないとか
夕星(つづ)の夜が 長すぎるとか
息を呑んでいる静寂が会場にゆきわたる。山口が深くうなだれている。涙がひとしずく落ちた。私の眼球も痛みはじめる。間奏のあいだじゅう客席でハンカチが動き、処々から嗚咽を洩らす声が聞こえてくる。
中央線の遠い音
耳にゆかしい遠い音
だれか待っているかしら?
待っている その人は神
すんでのこと 閑古の夕日は灰となり
足なみ励ます 根こぎの枯れくさ
道に小止(おや)みして ため息ばかり
旧街道の遠い音
耳にゆかしい遠い音
だれか待っているかしら?
待っている その人は神
ぼくは断じて帰さない!
後奏が終わるまで保たれていた静寂が一気に崩れ、広い会場が嵐のような拍手に満たされた。それは私が辞儀をし、マイクを切って譜面台に置き、山口と握手して抱き合うまで止まなかった。
五十二
「いかがでしたか、みなさま。私は落涙滂沱たりで、演奏が危うくなりました。奇跡のホームラン王が奇跡の声の持ち主でもあることをみなさまに知っていただけて幸甚です。照れ屋がしきりに照れています。この場から飛んで逃げたいことでしょう。褒められることが苦役になる性分なんです。苦役を課した私は許されます。親友ですから。彼を解放して席に戻してあげましょう。神無月、ありがとう。きょうのリサイタルにこれ以上ない美しい花を添えてくれた」
「そんなことを言ったら、あしたのお客さんが気の毒だぞ」
「だな」
花と言われ、私は花瓶の花の中からカサブランカの大輪を一茎折り取って、ブレザーの襟穴に挿した。もう一度握手する。
「いつも見守ってるからな。口を利く機会は少なくなったが、思いはいつもそばにいる」
「おたがい好きなことをやれる幸運の中で生きてるんだ。全力で命を使おうな」
「承知。今夜は飲めるんだろ」
「飲む」
「先に帰っててくれ。ファンにお礼の挨拶をしたあと駆けつける」
拍手の中を私は席に戻った。女たちから抱き締められた。
「ほんとに声が空から降ってきたわ」
「降ってきて、目に突き刺さりました」
「それではギター演奏に戻ります。あの美しい歌声を聞いたあとでは、あだやおろそかな演奏をすることはできません。では、セゴビアに『世紀にわたる変奏曲』を作曲して贈ったことで有名な二十世紀の作曲家マリオ・テデスコのソナタ、ボッケリーニ讃歌」
言い終えたとたん、両手の指が踊り、音が雪崩れるようにあふれ出した。山口の長髪が揺れる。
†
帰りの車で千佳子が、
「あの声、音、耳の底から離れません。……花束を忘れちゃいましたね」
「山口はそんなもの期待してないよ」
主人が、
「野球も音楽も神がかりですな」
キッコが、
「お嬢さん、ウッ、ウッて泣いとったわ。あんな姿初めて見た」
睦子は私が渡したカサブランカの花芯を見つめながら、
「人間は偉大ですね。いつも人間の偉大さに触れていたいです。……人間には、どう否定しても、血筋、身分、階級、貧富、才能、肩書などの差があります。そういうことをすべて忘れさせてくれる人は偉大です。和子さんも私たちも、人間の偉大さに触れると涙を落とします」
市電と並走し、市電と別れ、市電といき当たる。市電の走っていない若宮大通を走って白川公園を過ぎる。新洲崎橋を渡る。二十分もすれば帰り着くが、だれも寄り道をする気はない。ゼブラ縞模様の信号機にいくつも巡り会いながら家路を急ぐ。市電の走らない下広井町線に入る。小規模でまばらなビル街。下広井町で水主町に向かう市電と出会う。
「ほんとにこの市電がなくなるんですね」
「昭和四十九年、一九七四年の四月一日から全廃です。日本初の市電ワンマンカーは昭和二十九年の下之一色線です。たった十七両でした。ワンマンカーがいきわたったのはこの一、二年です」
「下之一色線に今度乗ってみよう」
「野立築港線とともに去年の二月に廃止されました。田んぼの中を走る軌道で、ローカルムードにあふれてたんですがね。惜しいことをしました。今年は今月いっぱいで鶴舞公園から平田町までの公園線と葵町線が廃止されることになってます。来年はもっとひどいですよ。去年私たちが乗った菊井町から上飯田までの路線がすべて廃止されます」
「……時代に、いや、時代の金儲けに合わないということで、あらゆるものがひとまとめに棄てられる。馬鹿にされるということです。姿も、歴史も、非効率性も、美観も、欠点として馬鹿にされる。たとえ市電が何度生まれ変わっても、すべての欠点は直せない。彼らを命あるものとして、欠点をそのまま抱擁すべきです。……ぼくにはそういう欠点は貴重な長所に思われます。現代においては笑いたくなるほど足りない資質です」
北村席に帰り着いて、コーヒー。九時半を回っている。私と山口の話で持ち切りになる。とりわけソテツやイネや千鶴たちがかしましい。キッコが、
「口じゃどうも言えんようなものを聴いてしもうたわね」
幣原が、
「山口さんのギターもとんでもないものでしたけど、神無月さんの歌声が……何と言ったらいいのか、もう」
百江が、
「山口さんがポタポタ涙を落としながらギターを弾いて、客席からもはっきり見えました。忘れられません」
女将が、
「無理やり飛び入りさせられたんやな。どんなときも神無月さんは全力で唄うもんなあ。お客さん度肝抜かれたやろう。で、山口さん、くるの?」
カズちゃんが、
「十時半までにはくると思う。トモヨさん、何かできる?」
「はい、みなさんで食べられるように準備ができます。鶏肉とアスパラの生姜焼き、蒸しキャベツの麻婆豆腐かけ、ソーセージとレタスのスパゲティもできます」
ソテツたちがお手伝いしますと言って台所へいった。
やがて山口がタクシーで乗りつけた。ギターケースを提げている。玄関でみんなと握手。久闊を叙し合い、リサイタルの成功をかしましく祝われる。座敷のテーブルに料理の皿が並び、ビール瓶が何本も並んだ。女将が主人と私たちにビールをつぎながら、
「万博の開会式派手やったよ。大阪府吹田市千里丘陵、千里ニュータウン、なんべんも言っとったな。天皇夫妻、皇太子夫妻が列席してな、世界各国の女の人がその国の服を着て、ファッションショーみたいな長い舞台、あれ何て言うのかな」
メイ子が、
「ランウェイですね」
「そう、そこをズズッと進んできて、その国の言葉でこんにちわって言うんやがね。天皇陛下が開会の辞のあとに、薬玉が割れて何千羽の鳩が飛び出してな。あのへんてこな太陽の塔やら、モノレール、ロープウェイ、電気自動車、動く歩道、ジェットコースターなんかが紹介されていくんやが。水の滑り台もあったな」
睦子が、
「ウォータースライダーですね。いろんな館も紹介したんでしょう? アメリカ館とか」
「ほうよ。日本館、アメリカ館、ソ連館なんかな。百八十三日間やるんやて。お客さんの数は五千万人、六千万人になる言うとるが」
カズちゃんが、
「いま日本の人口は一億人だから、赤ちゃんと老人を除いたほとんど全員ね」
山口がニヤニヤ聞いている。私は、
「一億人もいるの!」
千佳子が、
「昭和四十二年に超えました」
箸がしきりに動き、ビール瓶がやり取りされる。優子が、
「山口さんは、神無月さんのどんなところに惚れてるんですか?」
「言葉の意味を正確に言えるところだな。聞いた言葉ぜんぶに意味を与えられる。そしてそのとおりなんだ。こいつはバカバカしい話をしない。バカバカしい話をすると大切なものを見失う。もちろん沈黙すべきでないときにはきっちり話す。……それから、好意を持ってる人間にしか反応しないところだな。人間的に純潔だからだよ。こいつの敵は嫉妬深い人間だけだ。だけだと言っても、それが人間のほとんどだから、およそすべての人間を敵に回してることになる。それを防御するのは、愛だけだね。……つまりだな、こいつは永遠に防御されてるということだよ。俺たちが死なないかぎりね。死なないように覚悟して生きなさいよ。こいつを愛して覚悟して生きてると、自分の道もおのずと開ける。俺みたいに―」
菅野が激しく拍手した。
「ぜんぶ惚れてるということですよ。ぜんぶ惚れてれば、自分のぜんぶで覚悟しなくちゃいけないですからね」
山口がギターを取り出して、『ひみつ』を弾きはじめた。
「俺たちの腐れ縁を結んだ曲です」
自分で唄いはじめる。しばしみんなで耳を傾ける。ヒデさんが思い余ったように、
「私、すばらしい世界に飛びこみました! 北村席を終の棲家にしていいですか」
主人が、
「ええに決まっとるが。ここを実家にして、お婆ちゃんになるまでおりなさいや。山口さん、トロンとしてきたがね。疲れたやろう。きょうはもう風呂に入って寝たほうがええ。話はあしたに回しましょう。あしたも公会堂やろう」
「はあ、風呂はあしたの朝にします」
十一時を過ぎている。主人夫婦とトモヨさん、ソテツたち賄い連中が腰を上げた。お休みなさいを言って引き揚げる。菅野も、
「私も帰って寝ます。神無月さん、あしたは?」
「たまには夕方から走りましょうか」
「了解です。じゃ、お休みなさい。山口さん、きょうのステージ最高でした。一生忘れません」
「数年したら名古屋に定住します。名古屋公演が頻繁になりますよ。一つひとつ忘れていきます」
「いえ、その一つ一つも忘れません。じゃ、お休みなさい」
「お休みなさい」
菅野が去ると、睦子と千佳子がコーヒーをいれた。山口は私に、
「小笠原、オープン戦から使われてるみたいだな」
「高橋明が西鉄に移籍したんで、そこを埋める程度に使われるんじゃないかな。年間七、八勝ぐらいを見積もってね。そのうち、三、四番手ぐらいになれるだろう」
「おまえのおかげでテルヨシもいっぱしの男になった」
「自力だよ。早稲田を中退して肩を休めたのはえらかった。あのまま四年間いってたら潰れてた」
「秀子さんも、いっぱしの女になった。あのころから美しかったが、目覚ましい成長ぶりだ。鈴木と木谷も大変身したけど、それ以上だな。女は愛情があるのが基本だが、知性が備わると見ちがえるほど美しくなる」
「あたしは?」
「キッコちゃんはもともと女商売してきたから、そっちは満点だよ。最近は頭のよさが滲み出るようになって、ほんとにきれいになった」
「おおきに!」
素子やソテツやイネや千鶴も、うちは? 私は? オラは? と小首をかしげる。
「みんな満点だよ。百江さんもメイ子さんも優子ちゃんも幣原さんも。なんせ、神無月の女だから、みんな和子さんとそっくりになっていく。畏れ入る」
カズちゃんが、
「おトキさんもきれいになったでしょう」
「うん、俺の女だからね」
一座が明るく笑う。
「さ、山口さんもみんなもきょうはお休みなさい。私たちも帰るわ」
「じゃ山口、ゆっくり寝ろよ。あさっての新幹線は何時だ?」
「送らなくていい。マネージャーやスタッフたちと合同の移動だ」
「マネージャーはおトキさんじゃないの?」
「やっぱり音楽関係者じゃないと無理だな。おトキさんにはキッチリ家を守ってもらう」
式台までみんなで私たちを送ってくる。ジャッキの頭を撫で、手を振って別れを告げ、五人で庭石を歩いて門の外へ出る。百江がだれにともなく、
「……ゾッとしますね」
素子が、
「何が?」
「神無月さんに遇ってなかったら、今夜のことも、いいえ、何もかもなかったわけですから」
「ほんとや。楽しくなかったどころやなく、生活に疲れてそのへんの道端に倒れこんどったかもしれん」
カズちゃんが、
「私も三十ぐらいのときにそう感じたわ。キョウちゃんに遇ってなかったら人生ゼロだったなァって。だからキョウちゃんが死んじゃったら……」
メイ子が、
「ゼロに戻るってことですね」
「そう。そこから生きようと死のうと、同じゼロ」
素子が、
「そんな話、したらあかん。いつだったか、うちらが先に死ぬほうがええて話したことがあったやろう? あれもあかんわ。いっしょに死ぬのもあかん。死なないように覚悟して生きろって山口さんが言ったやろ。あれはうちらだけに言ったんとちゃうと思うよ。キョウちゃんにも言ったんよ。しっかり生きて、あとは天にまかせようって」
私は少し大きな声で言った。
「そのとおりだ」
「そうね、素ちゃんの言うとおりね。みんなでしっかり生きましょ」
アイリスの隘路へ素子が明るく手を振って去り、私たち四人も明るく則武へ帰った。
五十三
三月十五日日曜日。七時半起床。曇。二・三度。うがい、歯磨き、軟便、シャワー。ジムトレ二十分。バーベル百キロを三回。ラクに上がる。体調良好。
焼き辛子明太子、ししゃも、とろろ、マイタケとこんにゃくの甘辛煮、ホウレンソウの胡麻和え、キュウリとナスの糠漬け。ジャガイモとタマネギの味噌汁がうまくて三杯お替りする。どんぶりめし一膳半。
「キョウちゃん、あしたは歯垢取りの日よ。二時から菅野さんと。忘れないでね」
「了解」
「北村席は、かよいや住みこみの賄いさん以外は全員終わったわ。歯がボロボロで生きていくのもその人なりの人生だけど、人と関係して生きていくからには、なるべく人目にもきれいで、からだの中身も健康に暮らしたいわね」
「はかない人生だからこそ、そうやって生きたいね」
みんな納得したように微笑した。
「書斎の椅子の下に花ござ敷いておいたわ。草薙の近鉄戦から帰ったときにリクエストしてたでしょう。福岡の専門店から取り寄せたのがきのうの昼に届いたの。あとで見といて」
「ああ、花ござ。そうだった」
女三人で掃除、洗濯にかかる。私は二階に上がって花ござを確かめる。千佳子が織ってくれたスタンド敷きのような青と白の市松模様の茣蓙が椅子の下に敷いてある。二畳ほどの大きさだ。イグサの輝きが目に快適に飛びこんでくる。椅子に座り机に向かってみる。キャスターが動きすぎないので姿勢が安定する。大いに気に入った。
ジャージ姿に下駄を突っかけて北村席へ出かけていった。庭石を直人がジャッキに先導されてチョコチョコ走ってくる。ジャッキが私の胸に飛びつく。すぐに直人に胸を譲る。抱き締める。
「きのうはおかあちゃんにウルトラマン買ってもらったか?」
「うん、ちいさいおにんぎょう、たくさん」
二人と一匹で金魚の群れを覗きこむ。
「池の水がきれいだねェ」
「むねちかのおじちゃんが、おそうじしてる」
ときどき水上の藻を取ったり、底の泥や葉っぱを浚っているのだろう。そうしてやらないと、卵を食う水生生物や、稚魚を食うカマキリやカメムシがいるので、金魚が繁殖できなくなる。
玄関にトモヨさんが出迎える。座敷では山口を中心に一家で食後の茶を飲んでいた。ギターはケースにしまって座敷の隅に立ててある。
「おはよう。カズちゃんたちは掃除洗濯が終わったらくるって」
女将が、
「きのうのリサイタルの記事が毎日新聞に載っとるよ」
「もう? 朝刊の締め切りって何時なんだろう」
山口が、
「新聞社によって夜九時から夜中の一時までの幅がある。夕刊の締め切りは午前十一時から午後一時の二時間らしい。楽屋に出入りする新聞記者から聞いた」
新聞を渡されて記事を見る。
山口勲聴衆を魅了
名古屋公演 中日ドラゴンズ神無月郷が共演
イタリアはピッタルーガにおけるクラシックギターコンクールで、みごと優勝を果たし、昨秋鮮烈な国内デビューを飾った山口勲さん(20)の初公演が十四日、名古屋市鶴舞の名古屋市公会堂で開かれた。世界への進出もしきりに囁かれている山口さんは、この三月一日から横浜を皮切りに国内デビューリサイタルツアーに着手した。名古屋公演のあとは、京都、大阪、神戸と移動していく。
舞台袖から靴音を響かせて現れた山口さんは、舞台中央のスポットライトの中で一礼すると、椅子に座り、前触れもなくギターを抱えてすぐさま演奏に入った。ジュリアーニ作曲『大序曲』。魔法のように縦横に動く指先から流れ出す美しい旋律が会場を包んだ。一曲弾き終えたところで山口さんは、なんと高校時代以来の刎頸(ふんけい)の友神無月郷選手(中日ドラゴンズ・20)について語りはじめた。自分の音楽は神無月選手の書く詩想を目指している、といったじつに胸を打つ話だった。神無月選手は客席で山口さんをじっと見つめていた。
話の中で山口さんは、神無月選手の歌声を賛美し、〈天上から降ってくる声〉と表現した。後半に入る前に唄ってもらうと言う。神無月選手は予測していなかったような戸惑った表情を浮かべたが、快くうなずいた。かつて神無月選手に一度だけ聴かせたことのある、山口さん作曲の『あなたを待つ部屋』という曲だった。
神無月選手が唄い出して、会場が驚嘆した。うまいとか、美声などといった言葉で表現できるものではなく、まさに宙空から降りてくる神声だったからだ。だれもが天高く昇って地上へ舞い降りる彼のホームランをイメージした。ほとんどの曲を聴いたら忘れないという神無月選手の評判は聞いたことはあったが、声質の評判は聞こえてこなかった。彼の声を聴いたいまとなっては不思議な気がするが、歌声の評判など立てる気持ちになれないほどの超絶なホームランバッターだと考えれば理解できる。山口さんはギターを弾きながら落涙していた。聴衆も落涙した。それにつづく山口さんのこれまた超絶な演奏が、私たちの感涙を爽やかに鎮めた。
筆舌に尽くせないすばらしい演奏会だった。山口さんはもう一日名古屋で演奏する。将来は名古屋に定住するつもりだと彼は話すが、それまでは当分、この名古屋は通り抜け公演になる。神無月選手との共演も突発的な僥倖であり、二度とないかもしれない。それでも名古屋市民は、日本が生んだ世界的ギタリスト山口勲の魔法の音色を常に心待ちにしている。
「山口は外国のリサイタルはやらないの」
「なかなか招待がかからない。腕のいい、高い峰のような連中が軒並みいるからな」
「山口より?……。ま、いいや。バリオスの『大聖堂』を弾いてくれないか」
「そんな曲を知ってたのか」
「いつだったか、バリオスの『森に夢見る』という曲をここで弾いてくれたことがあったろう? それでちょっと調べた。直人に聴かせてやりたい。強烈な思い出になるだろうから。原初的な記憶というやつだ」
「憶えてないと思うぞ。七分もある。退屈する。ソテツちゃん、直人が動き出したら抱いてて」
「はい」
山口はケースからツヤのあるギターを取り出すと、あぐらの膝に抱えた。繊細な調弦をする。主人も女将も湯呑茶碗を卓に置いた。
「パラグァイのアウグスティン・バリオス・マンゴレは、一八八五年の五月五日に生まれた。生涯にわたって放浪しながら詩を書いた。いろいろ神無月に似てるな。五十九歳、心臓麻痺で死んだ。第一楽章、プレリュード、副題郷愁」
力のある静かな音調がしばらくつづく。さびしい短音が鼓膜を貫く。直人は左右の人びとの顔を見ては、山口に視線を戻す。
「第二楽章、アンダンテ」
和音の重々しい響き。それに終始する。力強いタッチに魂がえぐられる。直人が落ち着かなくなってきたので、ソテツが抱き取った。
「第三楽章、アレグロ」
素早い曲調。トレモロの遠い地鳴り。主旋律が低く流れる。ため息が洩れる。両手の指の自在で華麗な乱舞。ふたたび直人が山口を注目する。人間がやっているとは思えないと驚いている視線だ。しっかりと印象づけられた。これほどの才能に彼が巡り合うことは当分ないだろう。女たちが胸の前で固く手を組んでいる。厨房から賄いたちが出てきて廊下に膝を折った。
演奏が終わって私たちが激しく拍手すると、彼もかわいい手でパチパチ拍手した。山口が直人にニッコリ笑いかけて辞儀をする。
「直人も音楽の美しさがわかるようだね」
「ありがとう、山口。いい情操教育になった。人の才能に驚くことはなかなかできることじゃない。小さいころからその習慣をつけておかないとね」
「これをきょうの最終曲にするよ。サンキュー」
賄いたちが腰を上げ、午前の掃除にかかった。裏庭から洗濯機が響きだす。十時。菅野がやってきた。
「お、菅野さん、せっかく早くきたのなら、いまから走りましょうか」
「いきましょう」
菅野はさっそく納戸部屋でジャージに着替えてきた。
「軽く大鳥居までに流しましょう。山口、ちょっと大門のほうまで走ってくるよ。四十分くらいで戻る。お父さんたちと話でもしてのんびりやっててくれ。ギターをケースにちゃんとしまってね」
「おお。飽くなき鍛錬だな」
「そういうこと。直人をよろしく」
ヒデさんと優子が直人に両腕を差し出して呼び寄せ、千佳子と睦子がパズルを用意する。数寄屋門を出るとき、こちらにやってきた則武の三人と出会う。
「大鳥居までいってくる」
「いってらっしゃい。〈おやつ饅頭〉さんで小倉餡と栗餡をいくつか買ってきてくれる?」
いつかいったあの角店の大判焼のことを言っている。私に三千円を渡す。予算の三倍はある。
「わかった。おトキさんに送る土産も考えて、ほかにも何か和菓子を買ってくる」
「お土産なら〈とう吉饅頭〉がいいわね。大門通電停のそば、大宮町」
町名などほとんど知らない。知ってもすぐ忘れる。これだけは知っている竹橋町の信号から走り出して、太閤通を直進して区役所通りを渡ると、すぐ右手におやつ饅頭が見えてくる。
「帰りでいいでしょう、とう吉饅頭も。まず鳥居まで走りましょう。ところで、七月のマツダカペラの撮影の件、中介さんから連絡ありました。二十一日のオールスター第三戦が広島球場なんですが、二十四日から中日球場でヤクルト戦なので、二十二日の午前十時から広島の二、三箇所で撮ることになりました。去年とちがって、カーマニアの衣笠選手とのコンビです。ふだんの試合日に広島球場の正門ゲート前で偶然遇ったという設定でシナリオを書くらしいです。たぶんドラゴンズにちなんでのことだと思いますが、最初は竜王公園というところまで走り、引き返す足で相生橋付近で衣笠選手と原爆ドームを背景に車といっしょに撮るそうです。ちなみに今年のオールスターはホームラン競争はないということでした」
「そうですか。細ごましたことは直前に頭に入れます。衣笠さんは楽しみだな」
大鳥居から引き返し、大門通のアーチ看板を少し過ぎたあたり、太閤通を挟んでこれも多少知っている名楽町の反対側に渡って、大宮町へ入る。閑静な住宅地を走る。千成瓢箪のエンブレムを貼りつけたレンガ造りの茶色いビルの前に立つ。〈手造りの味・御菓子司とう吉饅頭〉の重々しい看板。
「名古屋は少し路地に入らないと、こういう店にはぶつからないね」
大きなガラス戸を引いて店内に入ると、『あんこ作り一筋』の扁額が目に飛びこんできた。野辺地のボッケの店にあるようなショーケースがなつかしい。
「いらっしゃいませ。あ、神無月選手! ほうよね?」
「はい」
「ようこそいらっしゃいました」
客も店員たちも振り向く。握手を求められる。私は応える。菅野の手を求める人もいる。菅野も応える。店主の女将が、
「ここは道一本入ったとこにある店だで、いつきてくれるんかしらんと思っとったわ。太閤通をいつも走っとるのは知っとったでね。ありがとうございます」
カステラとドラ焼き十個のセットを買った。菅野が五個入りの豆大福を勧めたので、それも買った。女将がもう一箱サービスでつけた。
「ようきてちょうした。またきてちょうよ」
女将や客たちに見送られて道へ出る。紙袋を脇に抱え、片手を振って走り出す。
「酒というのは、どうやって飲むものですか」
「弱いことを気にしてますね。気にしないほうがいいです。胃や肝臓の強さは先天的なものですから。一つだけ飲み方のコツを言えば、すぐに喉へもっていかないで、含んだら少し口の中で休めてから呑みこむんです。舌の周りと、頬っぺたの内側に置いておく感じです。それからつまみをたくさん食べることですね」
道を渡って、おやつ饅頭へ。
「小倉餡、栗餡、十個ずつください」
「へい」
出店で今川焼を作っていた老爺が、
「ほ! 神無月選手。きょうで二度目ですよ。いつぞやは失礼にあたると思ってサインをお願いしませんでしたが、きょうはお願いします」
店内のテーブルに導かれる。壁に〈定休日は水・日・祝です〉の貼り紙。店の隅にカラーテレビ。老婆が色紙を持ってくる。サインは一枚も貼ってない。この店の一枚目になると思い、張り切って書いた。老婆は、
「ありがとうございました。そちらの荷物もまとめて紙袋に入れましょうわい」
作りたてのおやつ饅頭といっしょに大きな紙袋に入れる。ポケットを探ると老爺が、
「いついらっしゃってもお代はいりませんよ。私らが死ぬまでな。名古屋の街を盛り上げてくれる功労者ですからね。ありがとうございました」
「こちらこそありがとうございました。失礼します」
重い紙袋を交代で持ち合いながら走り戻っていく。
五十四
門にジャッキ、玄関にトモヨさんと直人のお出迎え。
「おとうちゃん、おかえりなしゃい」
「ただいま。はい、お土産、おやつ饅頭。みんなで食べるんだよ」
「うん」
トモヨさんに、
「とう吉饅頭のほうはおトキさんに送ってあげて」
「はい。あの店は大正時代からある古い店なんですよ」
「あんこ作り一筋って書いてあった」
山口が出てきて、
「どこまでも気を使いやがって」
「カズちゃんの命令だよ」
カズちゃんが座敷から、
「命令なんかしてないわよ」
トモヨさんからイネが紙袋を受け取り、
「すぐ太閤通の郵便局さいってきます」
カズちゃんが、
「そのままじゃ送れないわよ。ちょっと待って。小包にして住所を書くから」
居間の水屋の抽斗から茶色い紙を取り出して手際よく小包を作った。
「差出人は山口勲、と。速達便にしてね。はい、五百円。お願いします」
幣原もイネといっしょに出ていった。ソテツが、
「おやつ饅頭食べたら、そろそろお昼にしますよ。チャーハンと豚汁です。ちょっと辛めのカツオのたたき丼もできます」
山口が、
「俺、そっち」
「ぼくはチャーハン」
「ぼくはチャーハン」
直人が笑顔でまねをする。山口が直人の頭をなぜ、
「いい子だ。おとうちゃんが大好きなんだな。せいぜいまねして生きるんだぞ。……神無月、おまえどうしてホームランを打ちたいんだ? 自己達成とか、人を喜ばせるとか、理屈はどうでもいいからさ」
「……漁師が大漁を願うみたいなものかな。それしかできないから、その世界の最高の成果を願うんだろうな。これも理屈か、ハハハ」
「はい、それ納得。俺もそうだし、人間みんなそうだな」
食卓が整い、全員箸をとる。トモヨさんの膝のカンナと直人はスプーンをとる。カンナはプレートのごはんとおかず、直人はチャーハンと豚汁。主人が、
「山口さん、今年はいっしょに花見できんかったね」
「はあ、残念でした。そのうち機会がありますよ。今年はこのリサイタルツアーが終わったら、西荻の一家とおトキさんと井之頭公園でやります」
「ワシらは、三月三十一日にやる予定ですわ。神無月さんが西宮の阪急戦から戻ったら」
「その前のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦は、ニュースのダイジェストでしか観られませんけど、しっかり観ておきます。シーズンに入ったら、後楽園にもときどきいこうと思ってます」
カズちゃんが、
「今年はツアーが多いんでしょう?」
「そう。ひと月置きに地方ツアーがある感じだね。北海道、東北、四国、九州……。テレビ出演もポツポツあると思う。来年はかなり落ち着くだろうな。ほとんど関東圏になるんじゃないかな。適当にギター教室も開けるようになる。再来年くらいに、おトキさんと名古屋に戻ってくるよ。この近所に一戸建ての家を借りて、作曲をやりながら、定期不定期にギター教室を開く。年に一回ほどリサイタルをしながらね」
箸を置き、ゆっくり茶をすする。直人といっしょに納戸部屋へいき、背広を着て直人といっしょに戻ってくる。
「演奏会でラフな格好をしないのはいいことだな」
「Tシャツにメンパンなんてやつもいるけど、身構えて聞いてくれる客に失礼だ」
「これからの予定は?」
「京都、大阪、神戸と回って、三十日に東京に帰る」
電話が鳴った。幣原がとる。山口にだった。
「ほい、演目とリハね。一時間もいらないな。三時から市長とお茶? わかりました。花束贈呈? 三人も! はいはい、了解。適当にしゃべります」
私よりもはるかに忙しいスケジュールで生きている。
「たいへんだな、山口」
「好きな道だ。文句は言えんさ。じゃいくわ」
ギターケースを手に提げ、主人夫婦とカズちゃん、トモヨさん、ソテツたちに頭を下げる。
「ごちそうさまでした。最高の息抜きができました。名残惜しいですが、きょうはこれで失礼します」
「送りましょう」
菅野が言うと、
「いや、市電に乗りたいんで、お気遣いなく。ここで失礼します」
座敷にいる人びとに、一括して、じゃ失礼します、と言って頭を下げる。直人が、
「やまぐちしゃん、さよなら」
「お、さよなら。また会うときまで元気でいろよ」
「げんきでいろよ」
「秀子さん、キッコさん、果報は寝て待て。連絡待ってますよ」
千佳子が、
「二十日に私たちがおトキさんに電話入れます」
主人たちが式台まで送って出る。
「ここでけっこうです。駅の電停までぶらぶら歩きたいので。じゃ」
菅野が、
「鶴舞公園までの経路と乗り換えわかってますか」
「人に尋きながらいきます」
「それは不安だな。知らない人もいるから」
「そっか。面倒くさがる人もいますしね。聞いておきます」
「二度乗り換えます。まず駅前から栄町線で広小路を栄町までいって、熱田線に乗り換えて上前津に出、そこで公園線に乗り換えて鶴舞公園前までいきます。合計、えーと(指を折り)……十二個目の駅です。三十分かかりませんよ」
「ご教授ありがとうございます」
山口はガラリと玄関のドアを開けて出ていった。私はやはり彼のあとを追った。睦子と千佳子とヒデさんと優子もついてくる。門を出て、握手し、
「じゃな山口、軌道に乗るまでがんばれよ」
「ああ、がんばる。俺は鍛錬でもっと高みを目指す。おまえは天与の神眼でホームランを打ちつづけろ。おたがいこれしかない男だからな。じゃ鈴木、木谷、秀子さん、また会おう。神無月から離れるんじゃないぞ」
「はい!」
「優子さん、熱くていい目になりましたよ。その目で神無月を見守ってやってください」
「はい」
四人と握手する。福屋ホテルの辻の向こうへ山口の姿が消えていくまで見送った。山口は一度振り返って手を振った。
座敷に戻り菅野に、
「市電は乗り換えが面倒ですね」
「この数年の廃止路線も絡んでますので、相当面倒です。市電はあてもなく乗るのがいちばんいいですね。神無月さんが市電を愛してるので、山口さんも少し影響されたんでしょう。ふらりと乗ってみようかと。でもきょうの場合は目的地にたどり着くのが先決ですからね」
「それで乗り換えを詳しく教えたと」
「はい。ちゃんと乗り換えればたどり着けると安心しておいたほうが、市電に乗るのも楽しめますから」
「名古屋の交通の達人菅野さんらしいや。持つべきものは先達なり」
睦子が、
「北村席に集う人たちは達人だらけです。通人も含めて野球の達人、料理の達人、社会的知識の達人、書道の達人、看護医療の達人、演奏そのものも含めて音楽の達人、文章の達人、色事も含めて男女の道の達人、要するにみなさん人生の達人です。私たち大学生も学問の達人になって、みなさんの仲間入りをしないと」
千佳子が、
「やる気が出てくるわ。ね、秀子さん」
「はい。学問を究められるかどうかわかりませんけど、とにかくしっかり勉強します」
主人が、
「達人しかやる気を出させてくれんわ」
菅野が、
「このところ続々とシーズン頭の届き物が集まってます。まずユニフォーム、ホームとアウェイ合わせて六式は納戸部屋に、替えのアンダーシャツとストッキングの類はミズノから二十組、これも納戸部屋に、久保田さんから送られてきたバット五十本のうち三十本は納戸部屋と玄関下駄箱に分けて置いてあります。残りの二十本は中日球場のコーチ控室に送られてるそうです。スパイクは高円寺の富沢さんから二足、ミズノから三足、これは玄関下駄箱に、特殊眼鏡は東大の鈴下監督が退官されたので、彼の口利きで福岡の眼鏡屋さんから一つ届いたのを居間の水屋の棚に置いてあります。グローブは今年はなしです」
「去年カズちゃんのグローブを補修したから、まだ五年は使える。遠征のときはミズノを使う。中さんなんか愛用のグローブを十五年も補修しながら使ってるよ。カズちゃん、富沢マスターや鈴下監督に、それから久保田さんにもお返しを送っといてね」
「そういうことは抜かりがないから、ご心配なく。東京遠征のときにいつでもいいからフジに顔を出してあげて」
「うん。寿司孝や大将にもいってみる。さ、直人、散歩しようか」
「さんぽ!」
台所の裏から御用聞きの声が聞こえてくる。ソテツと千鶴が応対している。郵便局から帰ってきた幣原とイネの声が混じる。睦子、千佳子、ヒデさん、キッコ、優子、直人の六人と散歩に出る。ジャッキがついてきたので門の内へ帰す。
「ジャッキはお留守番」
素直に玄関へ引き返した。昼下がりの二時。牧野公園で少し直人を遊ばせてから、竹橋町の信号へ。どこへいくというあてもなく信号を渡り、古いアパート街を歩く。町工場や小さな飲み屋があったりする。優子から交代して直人の手を引く。
「だっこ」
二の腕に腰掛けさせるように抱く。千佳子が、
「松本幸行という人が二軍スタートだそうです。ほかに、渡辺司、土屋紘、水谷則博、竹田和史という人も二軍スタートです。松本って、ロッテ戦で一人だけ投げた人ですよね」
「うん」
「落ちこむことなく、焦らずいきますって書いてありました」
「彼は投球間隔が反則くさいので、矯正しなくちゃいけないんだ。渡辺はドラ二で入った新人だけど、ボールに力がない。いずれバッティングピッチャーになるのかな。則博はそのうち上がってくると思うけど、土屋は気が弱いから芽が出るのに時間がかかるな。竹田というのは、入団式で顔を合わせてるはずなんだけど、よく知らない。二軍スタートと言っても、しょっちゅういったりきたりするから、結局のところ自分が何軍なのかわからない選手が多いよ」
柳街道に出る。床屋、クリニック、駐車場、あとは古びた民家しかない街道を歩いていく。直人を乗せる腕を替える。ヒデさんが、
「機関車が一生懸命走ってる時間と、駅に停車してる時間。その両方を味わえる幸せにいま浸ってます。駅までいって機関車に乗らないと、この幸せは味わえません」
睦子が、
「私も毎日、窓の景色に胸躍ってます」
笈瀬川本通に出て、うどん・きしめんのいせやの角を曲がる。細道に『モック』が見えたので直人を降ろす。千佳子が、
「あ、ソーダ水の店」
「うん、休憩しよう。直人、おやつ食べたい?」
「たべたい」
アーチ形の窓とドア。光の具合で螺鈿(らでん)のように輝く細かいタイル壁。ドアベルを鳴らして入る。革張りの椅子も板造りの下壁も焦げ茶で統一されている渋い店内だ。客は老人夫婦のほかに、頭の禿げ上がった中年が一人。
「いらっしゃいませ」
キッチンカウンターは奥にあり、女店主がコーヒーを立てている。先回は男性の店主だったが、彼女は女房なのかもしれない。直人がコーナーの席にチョコチョコ走っていく。
「ま、かわいらしい」
老人夫婦が思わず声を上げる。純粋な褒め言葉はどんな年齢の人間も手玉に取る。直人が上機嫌で飛びこんだ席の上壁はレンガ造りの黄土色、下壁はベージュの板材だ。天上から下がる照明のインテリアが淡いオレンジ色に灯っている。黒いレースのカーテンがめずらしい。かなり広い空間だが、巣に籠もっているような落ち着いた閉塞感がある。壁のシックな木製メニュー板から選ぶ。直人はバナナジュースとホットケーキ。私たちはソーダ水とミックスサンドを二皿。ピンク、ブルー、グリーンのソーダ水が出てくる。革のコースター。めずらしいものばかりだ。五人で適当な色を取る。私はブルーを取った。睦子が直人のホットケーキを切ってやる。バターを塗り蜂蜜をかける。やさしい目。こういう瞬間だ。この人間の人生を蚕食しているとつくづく感じるのは。