四十六 

 私は太田に、
「寒い日に校舎の壁に手を突いて、何人か後ろにつながって、順々に跳び乗っていく遊び、何て言ったっけ」
「ウマノリでしょ。寒い日じゃなくてもやりましたよ。どうしたんですか、とつぜん」
「一度もやったことなかったんだ。だから、なつかしいからじゃなくて、あれは何だったんだろうって」
 秀孝が、
「ウマ側とノリ側で戦うゲームです。尾瀬ではよくやりました。ウマを一人でもつぶせばノリ側の勝ち、ノリが一人でも落ちればウマ側の勝ち。両方ともいろいろな技を使って戦いました。落ちて前歯を折ったやつもいたな。けっこう危険なゲームでしたよ」
「……無心な遊びですね。いいなあ。……野球ほどじゃないけど」
「ハハハハ、金太郎さんにとってはどんな遊びも野球ほどやなかろう」
 十時六分。名古屋着。ホームに主人と菅野とカズちゃんが迎えに出ている。カメラの姿はない。主人が進み出て、
「お帰りなさい、みなさん。大活躍でした!」
 カズちゃんが、
「ご苦労さまでした。お元気そうでなにより。そちらが戸板さんですね。今後ともどうぞよろしく」
 戸板は照れくさそうに頭を下げた。菅野が江藤に、
「お寄りになりませんか」
「いや、帰ってすぐ寝ますけん。あさっての試合に備えます。あしたは朝から練習です」
 カズちゃんが、
「十四日の夜は山口さんのリサイタルなんです。名古屋公演。いずれ記録ビデオができるでしょうから、テレビで放送があるときに観てくださいね」
「わかりました。山口さんによろしくお伝えください」
 改札を出る。この時間に帰ってくることは知られていないので、報道陣もファンもまったくいない。太田が、
「俺たちはタクシーで帰ります。じゃ神無月さん、あさって中日球場で。十時からフリーバッティングです」
「了解」
 秀孝と戸板が最敬礼する。私たちに気づいた通行人が寄ってくる。菅野が彼らを押しのけて江藤たちの行く手を空けた。見物の人びとはただ立ち止まっていただけのようで、私たちが右と左に分かれるとそれぞれの家路についた。菅野が私のダッフルを担いだ。西口のロータリーに北村席一家が立っていた。トモヨさんとソテツたちが、
「お帰りなさい!」
 カンナの添い寝役のイネはいない。睦子と千佳子が、
「お疲れさまでした!」
「ただいま」
 歩き出しながらキッコが、
「神無月さんのお母さんて、炊事婦やったやんな」
「うん」
「ルー・ゲーリックと同じやわ。打撃王て映画、午後の奥様劇場でやっとったで」
「そんなやつはいくらでもいるよ。浜野百三もそうだ」
「いややわ」
 ソテツが、
「あした秀子さんが帰ってきます。きょう秀子さんの実家から、リンゴと冷蔵便の豚肉が届きました。あしたはおいしいカツと豚汁を作ります」
 千鶴が、
「遠征先にそれぞれ女がおるんやろ? 船乗りみたいに〈港の恋人〉ってやつ」
「ホームグランドにしかいないよ」
「嘘や」
 カズちゃんが、
「どこに何人いてもいいじゃないの。かならず名古屋に戻ってくるんだから」
 素子が、
「うちの見たところ、おるにはおっても臨時雇いやな。気持ちはいつも名古屋や」
 カズちゃんは、
「いまのこんな自分の姿を想像できなかったでしょう? あなたたちは、あなたたちの小さな世界をむかしいた場所に置いてきたの。野球選手の生活はちがうわ。まるで別世界。春夏秋に試合をして、その合間に野球の話をする。生活のすべてが野球よ。私たちはそれに紛れこんで暮らしてるの。大好きな人の話し相手としてね。すばらしいでしょ、野球以外のすべての時間をキョウちゃんとすごせるんだから。そういう女が何人いようと、キョウちゃんの野球生活が揺らがなければそれでいいじゃない。できればそういう女が遠征先にいてほしいと思うくらいよ。でも、キョウちゃんは折り紙つきの出不精だから、そういう人は東京の人たちと名古屋の私たちだけでしょうね」
 数寄屋門の前にジャッキが腰を下ろし、その脇に女将と幣原と百江とメイ子がたたずんでいた。
「お帰りなさい!」
「ただいま」
 背伸びして私の胸に前脚を置くジャッキをなぜる。
「大きくなったなあ」
「ウォフ!」
 前になって庭石をいくジャッキについてみんなで玄関に向かう。ポケットからミルキーの袋を出してカズちゃんに渡す。
「わ、なつかしい」
 包み紙を剥いて舐める。菅野が舐める。トモヨさんが、幣原が舐める。
「おいしい! この味、なつかしい」
「もうおしまい。今度、大袋で買っておくわ」
 女将と幣原は居間に入った。座敷にほかのみんなでくつろぐ。トルコ嬢が何人か夢中でテレビを観ている。女将が居間に入った理由がわかった。細うで繁盛記。今年の正月から始まった大阪物商魂番組だ。一度も観たことがない。倍賞千恵子が主演した『霧の旗』の脇役だった新珠三千代が出ている。ソテツが、
「きしめんか何か?」
「いや、帰って寝る」
 夢中でテレビを観ている女たちの雰囲気を壊したくない。主人もそれを察したようで、
「居間でコーヒーでも飲んでから」
「はい」
 みんなで居間に入る。女将が幣原といっしょに歌番組を観ていた。コーヒーが出る。女将が、
「すごかったねえ、巨人戦。二本とも照明灯に当てたがね。松坂屋のネオンが壊れてまったが」
 睦子が、
「賞金百万円と、副賞がホンダのスクーターだそうです」
「乗れる人いるの?」
 菅野が、
「普通自動車免許を持っていれば、技能講習三時間を二日間、学科教習一時間をその両日のうちのどちらかで受ければ免許がとれます。二万円から三万円くらいです。自動車の免許を持っていない場合は、技能講習三時間を四日間と、学科教習一時間をほぼひと月です。五万円くらいかかります。そんな暇な人いませんよね」
 みんなうなずく。結局スズキのディーラーに引き取ってもらうことになった。コーヒーをすすり終え、立ち上がる。菅野に、
「あした九時から走りましょう」
「オッケイ。朝めしは食ってきます。神無月さんも食っといてください」
「了解。じゃ、お休みなさい」
 居間のみんなに頭を下げる。
「お休みなさい」
 みんなが応える。ジャッキを撫でて玄関を出る。睦子と千佳子が送ってきた。夜道を七人で歩く。カズちゃんが、
「キョウちゃん、すっかり元気になったわね。この四年と半年で……」
「あの森からだと四年半か。島流しからだと五年半だ。とにかくぼくは一度死んで生き返った。もう死なない。元気になる一方だ」
 睦子が、
「そう郷さんが信じられるのは、生き返って、臆病でなくなったからだと思います。シェイクスピアの戯曲に『ジュリアス・シーザー』というのがあります」
 私は、
「ブルータスおまえもか、もはやシーザーもここまでか。……それしか知らないけど」
「はい、それです。四百年も前に書かれたものです。伝承としてその言葉はシェイクスピア以前にもありましたが、はっきり書き残したのはシェイクスピアです。その戯曲の第二幕にこんな言葉があります。臆病者は死ぬまでに何度も死ぬ思いをする。勇者は一度だけだ。臆病者のあいだ郷さんは、生きるのも死ぬのも怖かったはずです。思い切って死んでみて、死が怖くなくなりました。すると、生きるのまで怖くなくなったんです。死にたいという気持ちは勇気ではありません。恐怖をごまかしてるだけ。郷さんの心から、ごまかしが消えてなくなりました。生きたいというほんとうの勇気に変わったんです。勇気というのは、現実に抗わずにそれを受け入れることです。抗ってもいいですけど、希望を抱いて、平常心をなくさずに抗うんです。……言葉遊びじゃありません」
 百江が、
「ええ、言葉遊びじゃないとわかりますよ。睦子さんの真心から出た言葉だってわかります。死を忘れて、平穏ややさしさを学べば、強く生きていきたくなります」
 カズちゃんが、
「ムッちゃん、ありがとう―」
 素子が、
「ありがと」
 メイ子が、
「神無月さんが帰ってきたとたんにこれですから―」
「生きるのは刺激的で、やめられないわね」
「はい」
「キョウちゃんのような人と一週間も話をしなければ、思考力が停止するわ」
アイリスの前にくる。
「素子も来月から学校だ」
「うん。北村席が勉強一家になるがや」
「がんばれよ。たった二年間だ」
「がんばる。ソテツちゃんたちは四年間だからつらそうやわ」
「登竜門のための勉強じゃないから楽しいはずだよ。つらいのは素子だ。卒業したあとで資格試験が待ってる。目指した道だ。区切りがつくまで努力するんだ」 
「うん、わかっとる。じゃ帰るね。お休みなさい」
「お休み」
「素ちゃん、またあした」
 みんなで手を振った。素子の背中が隘路に消えるのを見届け、千佳子と睦子も踵を返す。カズちゃんが二人に、
「あした秀子さんは?」
 千佳子が、
「午後一番の便で帰ってきます。菅野さんといっしょに迎えにいきます」
「よろしくね」
 睦子が、
「月曜日は、夕方歯医者さんにいって、虫歯がないか診てもらうことになってます」
「そう。きれいな歯をしてる子だけど、見逃してる虫歯があるかもしれないわね。山口さんからは連絡きた?」
「はい。土曜日の夜に北村席に泊まって、日曜日の午後に二日目の会場に戻り、翌日新幹線で京都に発つそうです。夜に打ち合わせがあるとかで」
「山口さんもたいへんね。一年、二年はあわただしいでしょう。じゃ、あした、夕食で」
「はい、お休みなさい」
「お休みなさい」
 則武に戻り、焼きそばを夜食に11PM。たまらなく眠くなり、そのまま居間に床をとってもらって就寝。


         四十七

 三月十三日金曜日。七時五十分起床。曇。一・六度。強い耳鳴り。カズちゃんが襖を開けて顔を出し、
「起きた? いびきすごかったわよ。よっぽど疲れてたのね。お風呂に入ったらごはんにしましょ」
「うん」
 うがい。歯磨き。下痢に近い軟便。シャワー。洗髪。からだを長めて湯に浸かる。耳鳴りが小さくなる。首の凝りが消え、体調が回復する。走ればもっと血が循る。風呂の蓋をして出る。清潔な下着とジャージを着る。
 ハムエッグ、焼きたらこ、白菜の浅漬け、味海苔、ナスの味噌汁、どんぶりめし。
「きっと二年目で疲れが出たって感じだろうね」
「名古屋に帰ってきてホッとしたからよ。疲れは毎日溜まるの。早く回復するからだを作るためにコツコツ鍛えないと」
「それしかないね」
「きょう百江はなに番?」
「中番です。十一時十五分に出ます。来週は遅番なので、四時十五分に出ます」
「走って帰ってくるまでにコーヒーのポット用意しといてね」
「はい」
 メイ子が、
「秀子さんはお昼ごろに帰ってきますし、直ちゃんは三時には帰ります」
「わかった」
 カズちゃんとメイ子が出かけた。百江と緑茶を飲む。百江はモジモジしながら、
「あの……」
「わかってる。東京の五十三歳と六十四歳はすごい性欲だったからよくわかってる。半年に一度ということもあったけど、毎日でもできる勢いだった。思わず百江と文江さんはだいじょうぶかなって思ったほどだった。二人とも一週間に一度はしないといけないね。幸い受け役が何度も回ってくるから、それを利用してね」
「はい、すみません」
「三分もかからないですむんだから、遠慮しちゃだめだよ」
「はい……昨夜はひどくお疲れのようだったので言い出せませんでした。できれば、いまお願いできますか? 菅野さんがいらっしゃるまで少し間がありますから」
「わかった。テーブルに手を突いて」
「ほんとうにすみません。きのうの夜から疼いて……」
「すぐ入る?」
「はい、しっかり濡れてますから。神無月さんは?」
「ぼくもだいじょうぶ。百江の切実な様子を見て、ちゃんと勃った」
「ありがとうございます」
 百江は食卓にティシュの箱を置き、スカートと下着を脱いで尻を向けた。私はジャージをパンツごと下ろし、彼女の尻をつかんだ。みごとに滑らかに入る。そしてすぐにうねりはじめる。ゆっくり往復する。
「あ、うれしい、ああ気持ちいい! 愛してます!」
 往復を速やかにする。三回、五回、七回と連続的にアクメがつづく。快適に締めつけるので、私もすみやかに射精する。私の放出とともに百江はまた数度のオーガズムを繰り返す。乳房を強く握りながらしっかり律動を終える。固く収縮している百江の腹をさすってやる。
「ああ、神無月さん、愛してます」
 これは愛だろうか。すぐには見つからないと言われている愛と幸福だろうか。カズちゃんも百江も向こうからやってきた。見つける必要がなかった。いや、おそらくこれは百江の口にするとおり、愛そのものにちがいない、愛は見つけ難いかどうかではない。愛と認識して愛しつづけるかどうかだ。
「ごちそうさまでした。今月はもうだいじょうぶです」
 柔らかくなった腹を私にさすられながら、百江はティシュを当てて離れ、ひざまずいて快楽の源を清潔にした。愛しそうに下着とジャージを引き上げ、自分の下着とスカートを拾い上げるとトイレへいった。
 やがて菅野がやってきた。
「じゃ、百江、いってくるよ」
「いってらっしゃいませ。机にポットを二つ用意しておきます」
 凌雲寺を目指す。予想以上に足が重い。きょうは徹底して休息しよう。凌雲寺周辺の道路がマンション建設工事で塞がっていたので、太閤通をそのまま引き返す。
「土手沿いの道が絶たれるということだね」
「そのようです。どんどん自然の道がなくなっていきます」
「これじゃせっかく遠出した意味がないので、これからは日赤と西高だけにしましょう」
「アイアイサー」
 市電に出会うことだけを退屈しのぎにしながら竹橋町へ戻っていく。相変わらずトタンの遮蔽塀に覆われたシネマ・ホームタウンを横目に牧野公園へ。三種の神器。これだけはサボらずやっておく。数寄屋門で菅野と別れ、則武に帰る。十時五分前。
「ただいま!」
「お帰りなさい。疲れたらすぐ仮眠をとれるように、机の脇に寝床をとっておきました」
「ありがとう」
 机に向かう。牛巻坂七章。強制下宿からあとのできごと。念入りに。この章を書き終えると物語の半ばを越えることになる。百江の立ち働く物音が聞こえてくる。やがて、
「いってまいりまーす」
 という声が下から上がってきた。
「いってらっしゃーい」
 声を投げ下ろす。静寂が訪れる。夢中で鉛筆を進めるうちに二時になる。七章を書き終えるにはあと二日は必要だ。一気に筆が進むときもある。先を急がないことにする。北村席へ出かけていく。耳鳴りがかすかなサーに戻っている。
 数寄屋門を入るとジャッキが飛んできた。胴を抱き締めるようにして撫でてやる。名大生二人とヒデさんとソテツも走ってきた。
「お、ヒデさん、お帰り!」
「ただいま! あさっての日曜日に荷物が届きます。母が夏までにはお訪ねすると言ってました」
「そう。すべて了解がとれたんだね」
「はい。兄はいずれ獣医免許をとったあとは、しばらく大学の研究室で種畜の勉強をしてから、野辺地に戻って父といっしょに働くつもりだそうです」
「万々歳だね」
 千佳子が、
「本が届きましたよ!」
「本て?」
「ま! 五百野ですよ。三冊。あさってが全国発売日です」
 みんなで居間に入ると、北村夫婦と菅野が、いつか見た覚えのある表紙の本を撫でたりめくったりしていた。そのそばで幣原がカンナを抱いている。
「神無月さん、でき上がりましたよ。立派なものですなあ」
「はあ」
 私もあぐらをかいて、本の表紙を撫でたり、ページをめくったりした。美しい。
「たしかに立派ですね」
 単なる作文原稿がここまで凝った美しい装丁を施されるのは、表彰楯やトロフィーと同様一種のコケ脅しのように思われた。睦子が涙ぐんでいる。ヒデさんが、
「私はあさって五冊買って、種畜場と北海道と奥山先生に送ります。自分の分は二冊。書きこみ用と読書用」
 ジャッキの鳴き声がし、直人とトモヨさんが帰ってきた。直人は、
「おとうちゃん!」
 と叫んで、抱きつく間もなく、
「テルしゃん、おやつ」
 と言う。だれのことかと思ったら、幣原のことだった。彼女が照子という名前だったことを思い出した。幣原はハイハイと応え、カンナをトモヨさんに預けると台所へいった。
「イネちゃん、直ちゃんに明石焼き二十個くらい、薄めの醤油ダレでお願いね。私、洗濯物の取りこみのお手伝いをしてきますから」
「はーい」
 うまそうな明石焼きが皿に盛られて出てくる。私は一つ、二つつまみ食いする。
「おとうちゃん、だめ」
「ヘヘヘ」
 そこへキッコが二階から降りてきて、一つつまもうとしたので、
「キッコしゃん、だめ」
 縁側のガラス戸の外にとつぜん強い雨が降りだした。春先の冷たいにわか雨だ。私は戸のそばにいって寝転び、空を見上げた。重く大きい真っすぐな雨だ。液体の空が流れ落ちてくる。五分、十分、たちまち雨が上がった。庭の緑が輝きはじめる。何ごとだったのだろう。菅野がやってきて、
「二十五日に東奥日報さんがきますよ。今年はオープン戦からじっくり追いかけてるようですね」
「浜中さんは初めてぼくを新聞記事に取り上げてくれた人です。北の怪物という評判が立ったのは彼のおかげと言っても過言じゃありません」
「その評判は神無月さんが打ち立てた記録からきていると思いますけど、評判に先鞭をつけたのが彼だったことはまちがいないでしょうね。大事な人です」
「いまの雨は何だったんですかね」
「春時雨(しぐれ)です。いっせいに花が咲きだす兆しです。予報だと、あしたは快晴で、二、三日天気が崩れ、その先は今月末まで晴ということでした」
 私は座敷を見回し、
「また、トルコの人たち、減りましたか?」
「はい、新入りの三人以外全員出ていきました。みんな四十前後なので、シニアコースのほうへ回されたからなんですよ。北村でぬくぬくと暮らしてきた分、そういうのが耐えられなかったんでしょうね。そのコースで喜んで勤める女が十人と言わずいます。お客さんの中には八十過ぎの人もいますから、面倒見のいい女は奇特です。女はどんなに齢をとっても若い男を相手にしたがるもんです。その道でアネさん風を吹かせたいんですよ。面倒見のいい女はぜんぜんちがいます。そういうことで、シニアコースの面接がいちばんたいへんです」
「ここを出た人はほかの店へ移ったんですか」
「それは無理ですね。齢をごまかして大須あたりのトルコに勤めたかもしれません。住みこみで」
 顔も記憶していない女たちだったので、それ以上問う気にならなかった。新入りの女たちの名前と顔も再確認したいと思わなかった。
「結局、いま北村席に寄食してるのは、住みこみの賄い十人くらいと、千佳子、睦子、キッコ、優子、ヒデさん、それからその新しく入った三人ですか」
「はい、スッキリしました。社長もこれ以上増やすつもりはないようです。部屋数も一階二階合わせて二十五、六なので。再来年のミヨちゃんという子で終わりですね」
 睦子たち四人が、入学前の万葉小旅行について話し合っている。睦子が、
「愛知県を徹底させたほうがいいと思う。歌碑が一宮市、春日井市、豊明町に固まってるから、今年は一宮市ね。二泊くらいして」
 千佳子が、
「古いクラウンを一台借りていくわ。最初いっしょにいく予定だった神無月くんは、やっぱり連れ回せないわ。開幕前に疲れが溜まったらたいへんだから」
 ヒデさんが、
「女だけの旅ですから、かならず昼間に行動しましょうね。夜歩きは控えて」
 キッコが、
「受からんでも連れてってくれはる?」
 千佳子が、
「もちろんよ。と言うより、受かるに決まってるじゃない。それより、旅館代だいじょうぶ?」
「うん、ぜんぜん」
 私は聞きつけて、
「プールからいくらでも使って。カズちゃんに言えば一発だから」
「だいじょうぶでーす」
 私は主人に、
「あしたのリサイタルを観にいくメンバーは決まったんですね」
「決まりました。おトクとトモヨ親子とかよいの賄いが留守番や。羽衣とシャチの従業員はいかん。あとは全員いく。ハイエース二台やな」
 背広格好の客が四人きて、主人と女将と菅野が帳場に引っこんだ。幣原がジャッキを連れて散歩に出た。


         四十八

 夕食の席に宗近棟梁が招かれ、映画館工事の進捗状況を報告した。工事のひそかな見回り役を買って出てくれていたからだ。
「さすが一流の工務店だけあって、手抜きなくしっかりやっとりますよ。地下基盤はほとんど終了しましたな。四月に一階の入場フロア部分、五月六月にメインの二階部分、七月に三階の蓋部分、整理工事を入れても八月の手前から八月中旬までには完成でしょうな」
 菅野が、
「五月あたりから配給会社等と交渉に入ります。神無月さんの名声と区長の顔のおかげで中日本興業の社長まで動いてくれましたし、そのほかにも協力者が多いので、トントン拍子にいくでしょう。最終的に、上映企画をやってくれる中小会社を一つ雇わなければいけないでしょうけど、ま、それも専門筋の人たちの力でどうにかなります。きょうもその関係で銀行屋がきてたんです。自費でやるのもけっこうだが、付き合いで多少は借金してくれと言うんですよ。無利子に近いものにするなんて言ってね。利子は利子ですから借りはしませんがね。代わりに預け入れを多くしてくれとねだられました」
「この時代に七、八千万の金が動くんですから、ハイエナも寄ってきますよ。業者はみんな信用できる会社ばかりですから、不正決算はないでしょう」
 心強い話をしているので安心する。きょうの夕食は、豚丼(めしの上に味つけしたこま切れ肉、玉ねぎ、ニンジン、ピーマンが載っている。大人たちの主食。直人も私もジャッキも少し食べる)、鶏肉とキャベツの塩ニンニク鍋(主人と菅野の酒のつまみ。私のめしの主菜)、海鮮餡かけ焼きそば(直人やカズちゃんたちの好物)、えびチリ(みんなの好物)。
「そろそろ、ジャッキに狂犬病の予防接種をさせる時期ですよ。動物病院で年に一回、四月から六月です。ちょっと値段が張りますが、ジャッキのためです。混合ワクチンはもう二回打ってありますからだいじょうぶ。一歳くらいになったら三回目を打って、それ以降は二、三年にいっぺんでいいでしょう」
 棟梁が言う。私は、
「棟梁、今度テレビかクーラーの商品が出たら、もらってください。倉庫に置いておけないんで。スクーターも処理に困ったので、ディーラーに引き取ってもらうことになったんですが、要りますか?」
「それはいただきたいですな。原付の免許を持ってますから。しかし、いいんですか」
「どうぞどうぞ。ガレージに届いてますので、早速持っていってください。ガソリンは少し入ってます」
 菅野が、
「あしたの午前中に廃車手続をして廃車証明書を棟梁の家に届けます。名古屋のナンバープレート付きですから、譲渡手続は簡単ですよ」
「ありがとうございます。そうしていただければ名義変更もスムーズにできます。すぐ区役所でやっときます。これで一人でお得意を回るのがラクになります。クーラーやテレビは北村席さんでお使いください。ほしい人はたくさんいるでしょう」
 女将が、
「クーラーをみんなで点けたら電気代がワヤやわ。もしまだ持っとらんのやったら、もらってちょうだい。テレビはうちの子たちで使わしてもらうで」
 主人が、
「どっちもまだ手に入っとらんけど、いずれ手に入るから予約してもらっといたほうがええわ。フハハハ」
「おかあちゃん、おふろはいって、おねむ」
「はいはい、そうしましょ」
「おとうちゃんも」
「よしきた。いっしょに入ろう」
 トモヨさんがからだを洗っているあいだ、カンナを抱いた幣原と直人を抱いた私が湯に浸かり、子供二人の歯を柔らかいブラシでやさしく磨いた。それから私と幣原はトモヨさんと湯船を交代して湯殿に出、幼い兄妹のからだを洗う。素子が睦子と千佳子とキッコを連れて湯殿に入ってきた。寒い寒いと賑やかに言いながら股間を洗い、トモヨさんと肩を並べて湯に浸かる。幣原が、
「みごとな美女揃いですね」
 と言って、洗い終えたカンナをトモヨさんに渡し、直人の髪をシャンプーでやさしく洗う。トモヨさんも受け取ったカンナの髪を湯で濡らしながら素洗いする。トモヨさんは女たちをにこやかに眺め、
「ほんとにつやつやしてる。いっしょにお湯に浸かっているだけで若返りそう」
 素子が、頭のシャンプーを流した直人を幣原から抱き取り、胸に抱える。幣原がようやく自分のからだに石鹸を使いだす。素子が直人をギュッと抱き締めながら、
「ああ、若返るわ。リトルキョウちゃん」
 みんなが笑う。
「だめ、おとうちゃんと!」
 直人がきつく言うので、素子は、
「わかりました、プリンス!」
 私は女四人と交代して湯に入り、直人を抱いて首まで浸かる。幣原が湯船に入ってくる。女四人がからだを洗いはじめる。トモヨさんが、
「私が抱いて浸かっても嫌がるんですよ。おとうちゃん子なんだから」
「お父ちゃん子と言われるとうれしいな。でも、ハートは大きいけど脳味噌は豆粒というところは似ちゃだめだぞ。脳味噌も大きくならなくちゃ」
 トモヨさんはクスクス笑いながらカンナを抱いて湯から上がった。睦子が抱き取って頬にキスをする。キッコと千佳子も同じようにする。彼女たちの石鹸がカンナにつく。
「じゃ、お先に上がってみなさんのコーヒーの用意をしてますね。直人、のぼせないうちにおとうちゃんと上がりなさい」
「はーい」
 トモヨさんはカンナのからだについた石鹸を流し、片腕に抱いて風呂を出る。キッコが、
「マリアさまみたいやわ。和子さんと区別がつけへん」
 私は幣原と肩を並べて、女たちの清楚であでやかな裸体を眺めた。
「ほんとにきれい。若いからと言うんじゃなくて、生まれつき〈造り〉がちがうという感じですね。見ていて自分が恥ずかしくなります。サッサと上がって、直ちゃんたちのおねむの支度をしましょう。さ、直ちゃんいくわよ」
「おとうちゃんと」
 幣原が笑いながら湯殿に上がった。胸が小さいだけで、それほど四人に見劣りするとも思えなかった。
「じゃ直人、上がろう」
「うん」
 私は直人を抱いて湯殿を出る。お先にと言って、幣原と脱衣場へ出た。女四人の和んだ話し声が聞こえる。幣原が直人のからだを拭き、パジャマを着せる。私は自分のからだを拭き、下着をつけジャージを着る。幣原を残し、直人を腕に抱えて座敷へいった。
 カズちゃんとヒデさん、主人夫婦、菅野が、百江やメイ子とコーヒーを飲みながら歓談していた。トモヨさんは眠っているカンナを胸に抱いている。直人がきたので、
「さ、おねむよ」
「うん。みなしゃん、おやすみなさい」
「お休みなさい」
 主人が、
「お休み。あしたは土曜日や。保育所はいくんか?」
「ううん。おかあちゃんとばあばとメイチカいくの。パズルや、ごほんや、ウルトラマンのおもちゃをかってもらうの」
「そうか。たくさん買ってもらいや」
「うん」
 上気した顔で戻ってきた幣原といっしょに、親子三人離れへ去った。素子たち四人が戻ってきた。ソテツとイネがコーヒーを出す。イネに尋く。
「このごろは幣原さんが子守役?」
「まんずな。だども奥さん、そろそろカンナちゃんのベビーベッド取っ払って、兄妹で寝せるべてへってらった。ときどぎ親子三人で寝でるこった」
 キッコに、
「ウルトラマンて、直人が生まれる前の番組だよね」
「うん、三、四年前やな。おととしも去年もずっと再放送やっとったで」
 ソテツが、
「今年は月曜から金曜まで再放送してます。CBCで五時から三十分。直ちゃん、ときどき台所の休憩部屋で観てます」
「すたれないんだな。不思議な魅力があるんだろう」
 日大の田中の〈ジョワッチ〉を思い出した。ウルトラマンの出身大学は上智大学か。宇宙人のスーパーヒーローが地球の大学出というのが微笑ましい。猫も杓子も大学を目指す風潮を皮肉った高級な洒落だろう。
 主人と菅野が見回りに出た。カズちゃんとヒデさん、百江、メイ子が風呂へいく。女将が帳場に入った。幣原とソテツとイネが食卓につく。住みこみの賄いたちが三人のおさんどんをし、かよいの賄いたちがすでに下げられた食器を洗って片づけ、挨拶をして帰っていく。住みこみの賄いたちの食事はもう少しあとだ。
 テレビが点いた。鞍馬天狗、クイズ・アクション、今週のヒット速報、プロレス、金曜邦画劇場。バックグラウンドになるのでヒット速報に落ち着く。睦子が、
「中日ドラゴンズの一人ひとりの選手のことをもっと詳しく教えてほしいんですが」
「そうだね、観戦するとき、もっと楽しい気持ちで目を配れるね。打順で紹介していこうかな。千佳子、おとうさんの水屋からドラゴンズ三十年史持ってきて。一時間ぐらい話したら帰るよ」
「はい」
 千佳子が持ってきた大冊子をめくる。それをチラチラ見ながらしゃべる。
「一番センター中。よく知られてるアナウンスだ。中利夫三十四歳、ドラゴンズ初優勝の翌年の昭和三十年に入団した。杉下と西沢が活躍してた時代だよ。監督は野口明。中さんを語るのは、この十五年のドラゴンズの歴史を語るのと同じことになるね。中さんは群馬県の名門受験校かつ男子校前橋高校のエースで中軸打者だった。中学校のとき校舎の屋根を越えるホームランを打ったと、地元の人が思い出を書き残した文章がある。長距離打者だったのだ。ドラゴンズにテスト生で入ったかスカウトで引っ張られたかは知らない。高校時代、甲子園には出ていない。県の記録を作るほどの足で誘われたという話はある。小柄だよ。百六十八センチ、七十キロそこそこ。プロの球は速く見えないと言ったことで有名だ。プロ入り初ヒットは代打でセーフティバント。それで広島の松山昇というピッチャーのノーヒットノーランを潰してる。中さんらしいね。初年度からさっそく外野手として使われて、最多三塁打を五回も記録し、入団十五年目の去年までに百十本以上のホームランも打ってるスラッガーでもある。三十三年の天地新体制のもとへ森徹が入団するまでは、ドラゴンズは貧打に悩まされる球団だった。金田正一に完全試合を食らったりしてね。雨の日も練習できるようにと、中日スタジアム株式会社が日本初のピッチングマシンを開発したくらいだ。しかし、その昭和三十年も、大屋根博臣、中島俊丈(としたけ)、児玉泰(こだまやすし)、伊奈努の投手四羽ガラス、森徹、井上登、岡嶋博治、中さんの打者四羽ガラスでがんばったけど二位に終わった」
 睦子が、
「そして昭和三十四年、伊勢湾台風の年ですね」
「うん。ぼくが名古屋で再出発した年。ドラゴンズも心機一転再出発した。監督杉下茂。天地俊一ヘッドコーチ。江藤さん、板東さん、川村保彦が入団した。ぼくの記憶もだんだん鮮明になってくる。一番サード岡嶋、二番センター中、三番セカンド井上、四番ライト森、五番ファースト江藤、六番レフト本多、七番ショート前田、八番キャッチャー吉沢。岡嶋以外はいまのチームメイトだ。高木さんも木俣さんも一枝さんも菱川さんもまだいない。高木さんは三十五年、木俣さんと一枝さんと菱川さんは三十九年の入団だ。オリンピックの年、島流しの年。菱川さんは三十九年は一年間二軍だったそうだ。―伊勢湾台風の翌年、昭和三十五年、千年小学校五年生、記憶がクッキリとした像を結ぶ。と言っても、一番中、四番森、五番江藤しか覚えてない。高木さんは何番を打ってたんだろう。五年生、六年生と記憶はきのうのことのように鮮明になる。しょっちゅう中日球場へいったから。三十六年を最後に森徹がいなくなる。その事情は去年知った。中学一年、野球そのものに夢中になり、テレビ中継を観なくなった。だから中さんの記憶もそこまでだ。この本に中さんのリーグ一位の記録が書いてある。昭和三十三年犠打数。三十五年試合数、得点、五十個で盗塁王、盗塁刺。三十六年、得点、三塁打王、盗塁刺。三十七年、三塁打王、盗塁刺。三十九年、三塁打王。四十年、三塁打王。四十二年、盗塁刺、首位打者。四十四年、三塁打王。これまで三塁打は合計八十になる。これはセリーグ記録で、これからも破られないだろうね。百メートル十一秒ゼロの足で三塁まで走る姿はまさにホーバークラフトだ。長打を放ったときの中さんは、一塁までは緩やかに走り、一塁を回った瞬間から加速する。これはテレビではわからない。ドラゴンズのグランドで初めて知った。ファンの視線は投球と打球に注がれるからね」
 千佳子が、
「中、高木のコンビができ上がったのはいつですか」
「昭和三十八年の杉浦監督時代と書いてある。七年前か。その年に高木さんが五十個で盗塁王になってる。この一、二番コンビの足は他球団の脅威だったろうね。中日はベンチサインは出さないチームだから、盗塁もヒットエンドランも二人の呼吸でやる。最近は高木さんがポツポツ走るくらいで、中さんはめっきり走らなくなった。中さんと同室になったとき、走るのは好きだけど盗塁は好きじゃないと聞いたことがある。それからもう一つ、中日で筋トレを初めてやったのは小川さんじゃなくて、彼だったと話してた。ポパイみたいな胸筋を鍛えるんじゃなくて、前腕、上腕、背筋だけを鍛える。それも一日置きにやると言ってた。飛距離がぐんと伸びるらしい。ぼくの三種の神器だね。ぼくはそれと知らずに習慣でやってたけど。中さんの弾丸ライナーのホームランは、まちがいなくその鍛錬のおかげのようだ」


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