三十四

 帰り着いて、みんなを舟屋へ連れていく。やはりだれもこの店を知らなかった。一般客が大勢いたが彼らは気にかけなかった。客たちも当たり前の光景として大して注目をしない。とりどりの朝食メニューというものから注文した。高木は焼きたてパンセット、一枝はトッピングたっぷりの稲庭ふううどん、江藤と私は日替わり和食膳、木俣は生ハムとスクランブルエッグセット、太田、菱川、秀孝、戸板、谷沢はスパイシートマトスープカレー。江藤が私に、
「ここはルームサービスはなかと?」
「コーヒーのテイクアウトはしてくれますけど、ルールサービスはやってないんですよ」
 高木が、
「ホテルを歩き回ったことがなかったから、ぜんぜん知らなかった」
「ぼくも今年気づきました。朝昼晩と食べられて、とにかく安いです」
 一枝が、
「肉もオーストラリア産の高級肉だぞ」
 秀孝が、
「あしたの昼めしは東京球場ですね」
 菱川が、
「あそこの選手食堂はうまい。なだ万弁当にはかなわないけど、安いし、和洋中と揃ってて、単品で腹いっぱい食える」
 木俣が、
「腹いっぱいにしたらいかん」
「はあ」
「三十億もかけて作った球場ばい。何もかも贅沢にできとる。下町の風情とのギャップがすごかぱってんが、それがまたよか。ただ野球一本でのうて多目的に使うとるけん、やりくりが利かんようになって経営が傾かんばよかばってん」
「ゴンドラシートがポールぎわまであるし、椅子はプラスチック製、キャンドルスティック六基、フィールドは天然芝。電光掲示板はないにしても、よほどうまくやりくりしないと傾くのは早いかもね」
 太田が、
「つづいてほしいですね。バックスクリーンとスコアボードの位置が中日球場とそっくりなのでホッとします」
 私は、
「入場口からつづく四本のスロープ塔もいい。下駄でもラクに上がれるように考えらしい。なだらかな一階席と、せり出して見やすい二階一般席もいい」
 高木は、
「客が少ないから、あの二階席が埋まることはめったにないんだ。オールスターくらいじゃないか。あしたは埋まる」
「このホテルはこげん広かとに、バットば振る場所がなかけん、なんもできん。あしたは十時出発たい。球場まで三十分はかかるけんな。きょうはどこも出かけんと、ゆっくり骨休めばしなっせ」
 太田が、
「あしたのランニングはどうします?」
「清水谷でよかろうもん。そのあとここでめしば食って、シャワー浴びて、出発」
「オシ!」
 解散。舟屋のテーブルからめいめい部屋に戻る。私と高木はフロントにいき、仕上がってきたユニフォームを受け取る。いっしょに階段で五階へ戻る。二人とも無言だ。彼には私と話すことはないので、話柄(わへい)を作り出せない。私も彼と話すことはないので作り出せない。彼が私に話しかければ、私は彼と話すことが出てくる。彼も同じだろう。たがいの話すことに興味が湧くからだ。たがいに話すことがある人間はかぎられている。たがいに興味を覚え、たがいが経てきた時間を知り合い、たがいに愛し合いたい人間だけだ。彼らは同胞愛を知っている。同胞愛とはさびしさを共有し合うことだ。同じようにさびしい人びととつるむことだ。さびしい自分と向き合うのを避けるために。
 彼らのいる空間には鏡が張り巡らされている。さびしい自分の姿が映し出される。しかしいずれ、その鏡を叩き割って、愛と依存をあきらめ、さびしい自分と向き合うときがくる。私が話をしたいのは、鏡を叩き割りたくないと熱望して生きている人間だけだ。私は彼らを愛し、彼らに愛され、彼らを頼り、彼らに頼られたい。生来さびしさを感じない人間や、すでにさびしさを脱した人間とは話をしたくない。話すことがない。自分を刻印する武勇伝だけの人間、自分を上昇させる欲得だけの人間、自分を幸福にしようとする希望だけの人間、自分を恥じる後悔と罪悪感だけの人間―彼らにはさびしさがない。それに満足し切っているからだ。それらを忌んで生きることのさびしさを他人に見出し、他人から自分のさびしさを見出されない人間とは話をしたくない。プロ野球選手はさびしい人間だ。いや、何かに一筋に打ちこんでいる人間はさびしい人間だ。
「野球という美しいスポーツを最大限に美しく見せるためには、美しい身づくろいをしないとね」
 高木が話しかける。
「はい、それから着こなしですね」
 私も応える。そしてストッキングの見え具合のバランスやスパイクの紐の締め方を語る。高木も賛成する。
「ベルト周りの皺もね」
 ささやかな美学を語り合うことも、さびしさを共有する貴い手段だ。一号室のドア。
「健太郎が、グランドで金太郎さんといっしょに〈暮らせ〉なくなることだけが心残りだって言ってたよ。泣いてた。ちょうど小野親分もいてね……泣いてた。みんなそういう気持ちで金太郎さんと〈暮らし〉てるんだ。もちろん俺もね」
「ぼくもです。みなさんと〈暮らす〉時間を一秒でも長くしたいと願って生きてます。グランドで心中したい。……だからみなさんの総大将の水原監督と心中することにしました。彼はぼくを拾って、育て、捨てなかった父です。みなさんはぼくの兄弟です」
「いっしょに死のうな」
「はい」
 握手し、おのずと抱擁し合う。
「ゆっくり休んでね」
「高木さんも」
 八号室に戻り、シャワーを使う。長い休息の一日が始まる。机に向かう。ジャン・クリストフ、青年、三。
 散歩の途次のアーダとの出会い。頭の悪いアバズレ。その夜のうちの初体験。誠実でない平凡な女を知っていく過程。
『それにも拘らず、二人は愛し合っていた。たがいに心から愛し合っていた。アーダも愛にかけてはクリストフと同様に誠実だった。その愛は精神の同感の上に立ってはいなかったが、それでもやはり真実のものだった。青春の美しい愛であった。いかにも肉感的なものではあったが、卑俗なものではなかった。率直でほとんど清廉で、快楽の燃え立つ清純さに洗われた愛だった。……ちょっと触れても人知れず顔色が変わり、一身が快感に溶け去ってゆくほどのとつぜんの追憶、種々の事象、隠密な考えなどが、蜜蜂のような羽音を立てて二人を取り巻いていた。燃え立つやさしい光。心はあまりに大きな楽しさに圧倒されて、茫然となり黙りこんんでゆく。春の初光の打ちふるえる大地の沈黙、熱っぽいものうさ、けだるい微笑……若々しい二つのからだの清新な愛は、四月の朝である。それは露のように過ぎてゆく。心の若さは、太陽の朝餐である』
 意味不明の個所を嫌って雑読を強いる文章。行為の最中のとつぜんの追憶や隠密な考えは作者のものだろう。二人のものとして書くことは許されないし、不可能だ。現象だけを書けばいい。いずれにせよ、こういう傲慢な文章は書きたくない。訳がまずいのかもしれない。きょうはここまで。仮眠。
         †
 夕方五時起床。
 ―大事なものが見つかることもある。きょうがそれだ。いつもその気持ちで。
 歯を磨く。ロッテの情報が知りたくなり、六階の太田の部屋を訪ねる。太田がドアを開け、
「あ、神無月さん、いらっしゃい」
 同階の仲間たちと歓談していたようだ。秀孝、則博、戸板、谷沢、渋谷。めし前の楽しいひとときだ。谷沢が、
「きたァ、神無月さん! 噂をしてたんですよ」
「何の?」
「左手の一瞬の寝かせです」
 私はベッドに腰を下ろし、
「あんなもの。それより叩きつけです。……ちょっとロッテの情報がないかと思って」
「監督はかの悪名高き濃人です。三年目」
 太田はスポーツバッグの底からかなり分厚い本を取り出し、ペラペラやると、
「ピッチャーは不作ですね。去年までのピッチャーを考えとけばいいです」
「木樽、成田、小山、池田か」
 ―成田はいやだな。
「はい。ほかに村田というえらく球の速いピッチャーもいます」
「野手は?」
「やっぱり不作です。まともなのは二年目の有藤と広瀬、あとは三年目のアルトマンとロペスくらいかな。二年目の飯島も確実に代走で出てくるでしょう。ぜんぶうちのバッテリー陣が研究することですよ」
「そんな厚い本をいつも持ち歩いてるの?」
「はい、野球年鑑。今年のやつです。何年かまとめたやつも持ってます。ポケット用のパンフレットはいつも持ち歩いてます」
 戸板が、
「今年は不作の話ばかり聞こえてきますけど、青森県の豊作の年と新聞に書いてありました。巨人の小笠原、ヤクルトの柳沢、そして光栄にも、ドラゴンズのぼく。みんな高校時代に神無月さんに関係していたということで、豊作の種を蒔いたのは神無月さんだと書いてありました。―太田さんもぼくたちも神無月さんに出会ってプロを目指すようになったわけですから、そのとおりだと思います。とんでもない偶然ですが、この偶然を活かして、みんなで神無月さんが蒔いた種を豊かに実らせるようにがんばらないと」
 谷沢が、
「ぼくは青森県じゃないけど、大学時代に神無月さんと戦ったわけだから、時間的にはいちばん近い関係があることになる。評判倒れに終わったら、神無月さんの顔を潰すことになっちゃう。なんだ、そんなにそばにいて感化されないのかってね」
 則博が、
「じつは俺も神無月さんに影響されてプロを目指した口です。中学時代に神無月さんに打たれた大ホームランを忘れずに野球をやってきました。こうしてすぐ身近で神無月さんの大活躍を目にしながら、自分も精進できるのがうれしいです」
 太田が、
「そう言えば、来月、百六十八号の記念ボールを納めたガラスケースの横に、神無月さんの等身大の蠟人形が立つそうです。バットを持たないただの立像です。間が抜けてますよね。いずれ正面ゲートにちゃんとした銅像が建つまでのあいだと聞いてます。でも銅像は断ったんでしょう?」
「うん、断った。そんなものがチラチラ見えてたんでは、ぼくもみんなも野球に打ちこめなくなる」
 渋谷が、
「謙虚だなあ、神無月さんは。このオープン戦も四試合で九本ですよ。公式戦にこれだったら二百六十本ペース。研究されたり、疲労がたまってきたりを考えたとしても、どう少なく見積もってもその三分の一、百本近くはいくでしょう。竜神鬼神ですよ。蠟だろうと銅だろうと、何だって建てさせておけばいいじゃないですか。それで神無月さんの力が衰えるわけじゃないし、とやかく言ってくる人間なんかいないんですから」
「オーバーに顕彰されること自体、ぼくにはストレスになるんだ。好きでないことをされたら、精神的にぎこちなくなる」
 太田が、
「むかしから神無月さんのモットーは、たかが野球小僧がえらそうにするな、です。蝋人形は愛嬌ですむけど、銅像には反対だな。建てるにしても、本人が引退して、本人の目につかなくなってから建てるべきですよ」
 秀孝が、
「一年間見ててつくづくわかりました。神無月さんは静かに野球をやりたいんです。……グランドでは凄まじいですけど、長嶋みたいに派手じゃないでしょう?」
 谷沢が、
「うん、派手じゃない。自分をアピールするうるささがない。独自のきらびやかさはあるけど、不気味に静かだ。ひっそり仕事をしてる職人の雰囲気がある。水原監督に抱き締められるときも静かだ。その静かな振舞いに観客の喚声がピタッとマッチしてる」
 戸板が、
「わかってきました。手柄なんかうるさく求めないで、静かに本分を尽くせってことですね。考えてみたら、高木さんも一枝さんも、江藤さんも中さんも、みんなみんなそうしてる。……そういう人しか神無月さんは気に入らない」
 太田が、
「中日ドラゴンズに静かな職人ばかりいたのはほんとうに偶然で、神無月さんの最大の幸運です。そういう星の巡りだったんですよ。俺たちは神無月さんの幸運の恩恵を被ったわけだから、その幸運に乗るしかないでしょ」
いつものとおり彼らは私から受けた影響のことを語っている。この面映ゆい感じにも慣れた。しかし、いまの私では足りない。静かにしていることで癒されたいと願っている私の影響では足りない。静かに安らぎだけを与える人間でいてはならない。前に出て、彼らを鼓舞する存在にならなければならない。静かな人びとの中で癒されたいという願いではなく、攪乱が生じたときに耐える力と、耐えながら前に出てその攪乱を鎮める強さを得たいという願いを抱かなければならない。強く〈ここで生きていく〉という気力を示さなければならない。
「野球小僧は野球の技術で胸を張って見せることは許されると思う。強い肩や、長打、ファインプレー、そういう技能を見せたときに得意そうにする選手の姿は美しい。バンバン目立ちましょうよ。ぼくも少しずつ自分を変えていきます」
「ウス!」
「でも、神無月さんはいまのままでじゅうぶん目立ってます。無理しないでください」


         三十五

「それよりめしだ」
「舟屋、舟屋」
「晩めし、あそこ五時からですよね」
「うん、十時まで。ラストオーダーは九時」
 七人で舟屋へ押しかける。ほぼ満員の店内。コースメニューもあるが、高いし面倒くさいので、単品ばかりの品川下町ディナーというものにする。九品目もある。私はカツ丼大盛り(味噌汁つき九百円)、谷沢はビーフシチュー(ライスつき千五百円)、太田と則博はハンバーグステーキ目玉焼き載せ(ライスつき八百五十円)、戸板は牛ヒレカツセット(千六十円)、秀孝は鉄板焼きのスパゲティナポリタン(八百円)。食いながら、私と太田と秀孝はそれぞれ一人の子供に笑顔でサインした。
「会計して出ますか」
「はい」
「ホイ」
 高くても安くても、すべてレジで部屋番号を記すだけで会計がすむ。
 フロントカウンター前で解散。私はラウンジのソファでホテルの新聞を読む。暴力団永易を軟禁か? の記事。日本社会党議員中谷鉄也が国会において、行方不明なっている永易は暴力団の手で軟禁されているのではないかと発言。この発言を受けて、あす十日、警察庁は永易の行方を捜査するよう大阪府警および静岡県警に指示することとなった。関心を持たなければいけないと思うが持てない。
 まだ黄昏どきだ。今夜はどうしようか? 仮眠をとったので早寝は無理だ。散歩をするにも清水谷公園以外適当な場所はない。仲間たちはテレビを観て過ごしているだろう。早いあしたに備えるにはそれしか方法がない。……一日が異様に長い。
 七時。八号室に戻り、ベッドに横たわって肘枕でテレビを観る。NHKきょうのニュース。永易のことをやっている。回す。クイズ大作戦。回す。キックボクシング。回す。夜のゴールデンショー。回す。ひみつのアッコちゃん。切る。
 机に向かい、きょうもジャン・クリストフを開く。読む気がせず、ロビーの書店にいく。言葉に工夫のない作品を読みたい。わかりやすい作品はもうこりごりだという巷の声はよく聞くが、私はわかりにくい作品はもうこりごりだ。そういう声を聞いてみたいが、聞いたことがない。聞こえてこないのはだれも口にしないからであり、口にできない理由があるからだ。わかりにくさこそ価値だという通念が数千年、数万年のうちにできあがったからだ。哲学、文学、宗教、わかりやすいものは一つとしてない。ここに恐怖が生じる。自分はわかりにくい価値あるものが書けない。それは社会に知られたくない……。書くのをやめよう―そういう価値あるものが書きたいのに書けない人はやめればいい。
 私はやめない。そんなものは書きたくないから書けなくてもいっこうにかまわない。私が書くものは、この世に存在する必要のない、まともな理解力を持った人には無価値なものだと知っているからだ。私の文章は、少し頭の弱い、さびしい人生を過ごしている人びと、私の愛する人びとの娯楽と救済になればいい、私の愛とは疎遠な頭のいい人しか理解できない価値ある作物は、高度な知能を持った天才の生産にまかせておこうと思っているからだ。わかりやすい野球の世界、ホームラン、速球、ファインプレー。その世界に暮らす頭の悪い私には、この世にわかりにくいものを愛する人びとがいるなどとは信じられない。彼らのために私は、せっかく馬鹿に生まれついた命を、一分、一秒たりともむだに使いたくない。
 私の書くような作文を書棚に探す。私の心の隅には、天才たちの作物に対する劣位の枠組をそのままにして、価値判断だけを反転させたある種の居直り的な肯定をしたいという怠けた冷笑はない。才能の優劣と関係なく、洋の東西と関係なく、ほんとうに人間の魂を啓蒙善導する作品に巡り会いたいと思いながら背表紙を見、ペラペラ雑読していく。私の理解できる本を……。ない! 少女漫画雑誌、週刊誌、料理のマニュアル本、推理小説や官能小説でさえ、専門的だったり一ひねりあったりで難しい。一時間余り数十冊の本のページをめくっていた。ついに、この世にわかりやすい本などないと結論を出して、小さな書籍売り場を出る。これまでわかりやすいと思っていた太宰治や谷崎潤一郎を読み返すのも恐ろしくなっている。二十歳十カ月。馬鹿が賢いと信じこむロクでもない人生だった。きょうかぎり野球関係以外の本はいっさい読まない。自分の書いた文章だけを読む。……振出しに戻るだけだ。原始のころへ。きつい。しかし、私を赤子と見抜いて命の拠り所にしているカズちゃんたちにはいいことだろう。赤子の私が生きるには彼女たちが何よりも大切だ。
 部屋に戻ってサントス。ベッドに横たわりテレビを点ける。これしかないのか。これしかないテレビでさえ、言葉の意味に難渋する。時代劇、現代ドラマ、そしてニュース。迷宮だ。消して、枕頭の埋めこみラジオを点ける。ニュースを避けながら自動チューニングしていく。ディスクジョッキーのうるさいしゃべりのないNHK第一に落ち着く。
 ベッドに仰向いて、歌謡曲、ポップス、落語、漫才、名作講読と聞いていく。落語と名作講読は難解な部分があるが、どうにか乗り越えられる。私の理解できる領域だ。ニュース、国会討論会となったところでベッドを降り、グローブ、スパイク、バットの乾拭きをする。
 やがて『夢のハーモニー』。軽音楽が流れてくる。飛島寮で聞いた覚えがある。たしかマントヴァーニ・オーケストラの『今宵の君は』。タオルを置いてベッドに入る。女の柔らかい声。

  灯りがまた一つ消えて、窓が一つまた眠りにつきました。
  きょうとあすの狭間に、夜が静かに更けてまいります。
  お休み前のひとときを音楽でおすごしください。


 今夜は……をお送りします。数曲で眠気に襲われる。ラジオを消して目をつぶる。夜のラジオは心地よい。あしたからはこれだ。
         †
 三月十日火曜日。七時四十分起床。熟睡。晴。六・一度。ユニフォームをソファに延べる。うがい。ふつうの軟便。シャワー、歯磨き。ふと、このホテルのトレーニングジムの遠藤という女と関係を持ったことを思い出した。十年も前のことのように思える。疎遠になるには時間を要さない。一キロ距離が離れ、一日心が離れればいい。
 八時から仲間たちと清水谷公園を走る。舟屋で朝食。きょうからバイキングと告示してある。そのほうがいい。さまざまな総菜が食える。パン食にした。総菜はスクランブルエッグとベーコンと野菜サラダとコーヒー。部屋に戻ってユニフォームに着替える。しばらくソファに座り、ラジオを流す。TBSラジオ、パティ・ペイジ。聴き入る。
 ダッフルを担ぎ、十時、仲間たちとエレベーターで一階開放ガレージのバス駐車場へ。おととい以上の人だかり。歓声、嬌声。彼らに触られるままにする。ガードマンの中に明らかにそれとわかる松葉会の組員が二、三混じっている。胸に竜松××とロゴの入った警備会社のジャンパーを着ている。見知った顔はいない。
「キンタ、全打席ホームラン!」
 無理な注文が飛んでくる。
「中、江藤、小川、小野、張り切りすぎてケガするなよ!」
「小川、おまえは鉄人だから、だいじょうぶ!」
「一年間の花道、しっかり見守ってます!」
「小野さーん、いつもすてきよ!」
 小野は帽子をとった。控え選手たちを先頭に、一人ひとり拍手に押されながらうつむいてバスに乗る。水原監督が最後尾だ。
「俠(おとこ)水原、あんたがいちばん若い! 今年もよろしく!」
 出発。清水谷公園の裏手を回って外濠へ出、二松学舎大から靖国神社へ。九段坂上の信号を右折し、濠と別れて九段下に出る。森下コーチが、
「後楽園の客は背広を着た大人ばっかりやが、東京球場はちゃう。下町のおっさんやガキたちもぎょうさん観にくる。アットホームな感じやな」
 太田が、
「アルトマンは電車でかよってるそうです」
 江藤が、
「外人は弄(いら)われんけん得ばい。ワシらは電車は弄われるけんきつか。木俣はえらかっちゃん。一年じゅうやけんな」
 木俣が、
「バスはラクだなあ。寮生がいちばんラクしてる。室内練習場はあるし、ちゃんちゃんとめしは出るし。それで一生懸命練習しないのは罰当たりだ」
 菱川が、
「プロには練習好きと練習嫌いが入ってくるということですよ。練習という篩(ふるい)で選別されるのも知らないでね。高校大学社会人できつい練習は終わったと思ってる。たしかに肉体的にきつい練習は終わったんですが、精神的に怖い練習が残ってる」
「自主練な。自主練の怖さはなかけんが、合同練習のきつさだけは残しとるチームがほとんどやぞ」
 長谷川コーチが、
「そういう時代錯誤のチームがいてくれないと、うちは優勝できない」
 戸板が長谷川コーチに、
「東京球場は室内ブルペンがきれいだと聞きましたが」
「きれいだけど、投げられるのはほかと同じ二人だよ。室内ブルペンしかないのは東京球場だけだろう。ロッカールームが一、三塁側に二つずつあるのもめずらしい」
 小川が、
「ブルペンはつい投げすぎてしまう。禁物だぞ」
 太田コーチが、
「そうだ。俺はいつもブルペンピッチングについてるが、リリーフ投手の体調や機嫌を見極める意味があるだけじゃないんだ。たかが準備とは言え、球数が重要だからだよ。投げすぎが重なると、シーズン後半のがんばりに影響する。ひいては故障につながる。五十球以上はダメ。二、三十球までだな。その準備も一回だけにして登板したほうがストレスも溜まらない」
 神保町、小川町、岩本町、左折して、秋葉原、御徒町、上野と北上する。日々移り変わる景色。あたりまえの日常はもう存在しない。別の日常を探す。入谷、三ノ輪、鄙びた町並。ビルもマンションも鄙びている。紙屑のようにまとめて放り投げられ、たがいに自然と弾き合って拡がった民家の群れ。軒を好きな角度で向け合う家々の中にとつぜん円形競技場が突き出した。瓦屋根、トタン屋根、スレート屋根を押しのけてそびえ立つ東京スタジアムだ。昼間見るキャンドルスティックがすばらしい。
 ポリスボックスのある名もない交差点を左折して、すぐさま広い駐車空間に入る。十時三十八分。人がゴチャゴチャいる。東京スタジアムという壁文字も凛々しい壮大なコロッセウムだ。ロッテ―中日戦十時半入場と書かれた立て看が鮮やかだ。正面メインゲート前でバスを降り、荷物を担ぎ、三塁側ベンチへの通路がある建物から入る。清潔な回廊を歩いてロッカールームへ向かう。
「中さん、この球場の左中間と右中間が直線状になったのは、民家と道を大事にしたからですよね」
「いや、大リーグの真似だよ。アメリカでは川崎球場のような非対称な球場さえ好まれるんだ。直線状も非対称もホームランを出やすくするための工夫だ」
「ぎりぎりのホームランですね」
「うん。彼らはホームランなら大きくてもぎりぎりでも気にしない。と言っても、ほとんどの球場は両翼九十六メートル前後あるんだけどね」
 清潔に整ったロッカールーム。広いので食堂にもなる。太田が運動靴をスパイクに履き替えながら、
「さあ、ロッテのバッティング練習が終わったら、グランドを一周してからフリーにいきましょうか」
「オシャ!」
 バットとグローブを超近代的なダッグアウトのベンチに置き、グランドを眺める。すでに二階席の一部を除いてギッシリ満員になっている。ケージが二台。監督コーチ陣と新聞記者の群れの中でロッテチームがバッティング練習をしている。あと十分ほど。アルトマンとロペス。そしてやはりこの球場も〆に榎本と有藤が出てきた。見どころがあったのはアルトマンだけ。腹の前で薙ぎ払うバッティング。するどい打球。榎本と有藤とロペスは荒っぽい。何の方針もなく振っている。きょうは怖くない。
 十一時。グランドへ飛び出す。内外野スタンドで待ち構えていた人びとから大歓声が上がる。太田と中と江藤がレフトスタンドに向かって時計回りに走り出す。高木を先頭にベンチ組がいっせいにつづく。通り過ぎるフェンスとスタンドから声援が降り注ぐ。
「きょうも打てよォ!」
「中日ファンもようけおるでな!」
「二十点入れろォ!」
 バックスクリーン前を越えても声援が止まない。
 三塁ベンチ前で一周を終え、江藤と私がケージに入る。割れんばかりの喚声。バッティングピッチャーはおととい投げて上がりの小川と小野。小川は私に、小野は江藤に。極めつきのサービスだ。一塁ベンチからロッテの選手たちがじっと見つめている。恐怖感を与えておく。江藤もそのつもりのようで、バンバンスタンドに打ちこんでいる。二本場外へ飛び出した。私はすべてライナーで九十メートルのフェンスぎりぎりを狙う。二人で十本ずつ打って外野へ柔軟にいく。菱川と太田が打っている。江藤と背中合わせに筋肉の伸ばし合い。三種の神器。ポール間ダッシュ。このごろは鏑木コーチは球拾いくらいにしか顔を出さない。私たちの自主性に安心してトレーナー室で待機している。
「片手腕立てなし」
「オッケー」
 バッティングを終えた選手たちがグローブを手に外野へ回ってきて同じことをする。なんとすばらしい人たちだろう。
 私は愚かだった。母や岡本所長や浅野たちをただ恨んだだけではない。私の八方破れの一徹さを見て、彼らがわが身を振り返るだろうと思っていた。一見イカれた凡人たちだが、心の奥には悲しみがあると信じていた。根に孤独を抱え、人のやさしさや燃え立つ情熱を求めていると思っていた。人の渾身の自棄を見たら心動かされるだろうと思っていた。まちがいだった。彼らはとっくに手遅れだった。心が囚われていた。人のことなどどうでもよく、人を自分の意に従わせて、自分が生き残ることしか頭にない、そういう人たちだった。
 ……私も同じだった。死を人間の最高の美しい姿だと確信し、美しく〈生き残る〉ために自分を見かぎって見せるような、疲れて夢を見ているような季節があった。あれは現実だったろうか。クソ! 私を捨てていった父親とイカれた母親を口実にして、身勝手に振舞い、周りを傷つけ、道を誤ってばかりだった。物心ついてから道をまちがいつづけ、祖父母を捨て、母を罵り、教育されることを拒み、だれの言うことも聴かなかった。自分の希望に一途だった―。そのどれもがまちがいだったのに、いまここにこうしていられるのは、まちがいをそのつど他人の尽力によって修正され、行く手の障害を一つひとつ取り除いてもらい、ついに幸運の翼に乗れたからだ。
 他人に影響を受け、命懸けで変われる人間はかぎられている。影響を与える人を愛し、必要とする人間だ。彼らには幸運の翼は要らない。私はようやくその一人になりつつあると思いたい。カズちゃんたちも、水原監督も、江藤や太田たちもここにいる。私は彼らを愛し、必要としている。だいじょうぶ。私は彼らのおかげで変わりつづけることができるだろう。


         三十六 

 控え選手たちのバッティング練習がつづいている。グローブを持って、ときどき飛んでくる打球を見やりながら芝を踏んで歩く。後楽園球場より少し丈が長く、かなり不揃いの芝だ。打球の足を殺してくれる芝だと知っている。百五十センチほどのラバーフェンスの上に一メートルの金網が張り巡らされている。ぎりぎりのホームランはジャンプすれば捕球できる。ファールグランドの芝に入り、ゴンドラ席を見上げる。客の顔はまったく見えない。フェアフィールドに入らなければ見えないのだろう。菱川が、
「めしにしましょう」
「ウース」
 選手食堂で、中華飯、五目焼きそば、ラーメン、刺身定食、チラシ寿司、などなど、私はチャーシュー麵ライス。この間に十分足らずのロッテ守備練習が終わっている。中日の守備練習に入る。観客は堪能する。プロ野球選手の守備練習はスタンドプレイの連続になるからだ。
 十二時半。水原監督と濃人監督のメンバー表交換。選手の酷使と嫌がらせを旨とするニヤついた小デブの男と、赤誠と哀憐を旨とする痩躯の水原監督ではあまりに品格がちがう。江藤も二人の姿を澄んだ大きな目で見つめていた。ウグイス嬢のアナウンスが流れる。
「ロッテオリオンズ対中日ドラゴンズ、間もなく試合開始でございます。両チームの先発メンバーを発表いたします。先攻は中日ドラゴンズ、一番センター江島、背番号12、二番セカンド江藤省三、背番号28」
 江島ァ、省三ォ、と少し語尾を伸ばすように聞こえる独特のアナウンスだ。先回は気づかなかった。
「三番ファースト千原、背番号43、四番レフト谷沢、背番号14、五番サード菱川、背番号4、六番ライト太田、背番号5、七番キャッチャー新宅、背番号19、八番ショート一枝、背番号2、九番ピッチャー若生、背番号32。つづきまして、後攻はロッテオリオンズ、一番センター池辺、背番号34、二番セカンド山崎、背番号2、三番ファースト榎本、背番号3、四番サード有藤、背番号8、五番ライトロペス、背番号9、六番レフトアルトマン、背番号7、七番ショート飯塚、背番号28、八番キャッチャー醍醐、背番号24、九番ピッチャー村田、背番号29。主審岡田(セリーグの岡田功審判とは別人の岡田豊審判だ)塁審一塁久保山、二塁前川、三塁大野、線審ライト斎田、レフト五十嵐、以上でございます。なお、スタンドに飛びこむ打球にはじゅうぶんご注意くださいませ」
 水原監督が三塁コーチャーズボックスへ歩いていく。江島がバットを肩にベンチ前に立つ。中が、
「金太郎さん、市川雷蔵って知ってる?」
「はい」
「大映の看板スターだったんだけど、去年の夏、大腸癌で死んだ」
「……知ってます。いい俳優でした。濡れ髪シリーズや陸軍中野学校シリーズは名作です」
 吉冨さんの笑顔を思い出した。
「永田雅一は大映一筋の映画人でね、昭和三十五年に野球界に参入して大毎オリオンズという名前で経営権を握ったのも、大映の繁栄を狙ってのことだったんだ。去年もロッテと業務提携を結んだりして意気盛んなところを示してた。……雷蔵をかわいがっててね、ショックのあまり永田ラッパがピタッと止んで、映画への気力が失せちゃった。もちろんちゃんと映画製作の仕事はやってたんだけど、ドンドン作るという勢いはなくなった。それが映画産業衰退の風潮と重なって、大映の経営がガクッと悪化したんだ」
「東京球場も長くなさそうですね」
「そう思う」
 村田兆治の投球練習を見つめる。大きく踏み出して、肩と腕だけで力投する。ドッコイショという感じだ。球は速いが、からだが早く開くのでコントロールが悪い。去年の最優秀防御率投手とは信じられない。顔は……言葉は悪いが、古来田舎者を表現するのに使われてきた〈田吾作〉面だ。太田に、
「去年何勝?」
「六勝八敗。四十二年のドラ一です」
 投球練習の最後に村田はするどいカーブを投げた。あれを決め球にされたら苦労するなと思った。
江島が打席に入った。彼をはじめとする控え組は、連続打席での起用はきょうのオープン戦で最後のような気がする。あまりにも打てなさすぎる。
初球、真ん中剛速球、ラッキー! 江島はそこしか打てない。ジャストミート、打球はセンターへ一直線。バックスクリーンを直撃する。先頭打者初球ホームランは大して有効打にならない。交通事故と見なされる。村田も気にしていない様子。ロッテベンチもショックを受けた気配はない。森下コーチのタッチと、水原監督の尻ポーンで終わり。私たちはベンチ前に並んでタッチ。
「タクミはストレートが強いのう」
「ありがとうございます!」
ありがたくはない。変化球はからっきしという意味だ。
二番省三。
「あれが第一回ドラフトで巨人にドラ三で入団したとき、巨人がやらかしたなて思うたばい。社会人くらいの力しかなか男やったけんな。三年やって目が出んときは野球ばやめてワシの会社を手伝えて言うてやった。やっぱり芽が出んで、自分で退団しよった。中日スタジアムの社長の平岩治郎さんが、もったいない言うて、球団に取り次いで契約させてくれたっちゃん。金太郎さんはわれ関せずやろうばってん、プロ野球ゆうんは主力と控えは天と地くらい差があると思われとる世界たい。ほやけん、あれもワシとなかなか口が利けんようやった。ベンチで笑えるようになったんは金太郎さんのおかげばい」
省三はカーブを二球つづけて見逃し、ツーナッシングから、真ん中ストレートに詰まってセカンドゴロ。中が、
「その慣習はいまも変わってないよ。このドラゴンズが奇妙なチームに生まれ変わっただけだ。レギュラーと控えの格差や待遇、チーム内でのランキングは歴然としてる。どんな謙虚な選手もその慣習に甘えて威張りだす。あるいは自信のある選手は卑屈になったりもする。だから新人選手が抜擢されたりすると、ベンチにものすごい緊張が走る。水原さんは去年のいまごろはたいへんだったんだよ」
三番千原、初球カーブ捕逸から、三球つづけて外角速球を空振りして三振。高木が、
「金太郎さんの起用に不満を抱く連中は一人もいなかった。異次元の人間だからね。浜野もドラ一だからまあいいだろうということだった。ただ島谷と太田の起用には大不満だった。徳武さんや伊藤竜彦をなぜ使わないんだということだよ。水原さんは島谷や太田の堅実な守備を買っただけのことだったんだが、とくに島谷に関しては、高商の後輩をエコ贔屓してると映ったんだね。……浜野も島谷もまるでその雰囲気を悟ったかのように出ていった。伊藤竜彦まで釣られて出ていった。結果的に波静かになったいま、水原采配に不満を抱く連中はいなくなった。新人起用というのは難しい問題なんだよ」
 小川が、
「要は、プロ野球界には実力しかないということだな。新人、ベテランじゃなくてさ。その矢沢にしても、戸板にしてもきっちり淘汰された結果だろ。水原さんの眼力は確かだよ」
四番矢沢、初球ストレートをファールチップ、二球目外角ストレートのストライクを見逃し、三球目内角するどいカーブを空振り、三振。一対ゼロ。江藤は二塁の守備位置に走っていく弟を眺めながら、
「省三もそこば気にしとった。葛城さんや徳さんが出番に備えて鏡部屋で必死に素振りばしちょるのに、省三が代打で指名される。慶大閥かゆうことになったくさ。水原さんに言わせれば、試合の展開を観もせんと、ただ指名がかかるのば待って準備しとるやつは使えんちゅうことらしか。それもこれもぜんぶ金太郎さんの無心の姿勢の影響で解決したっちゃん。菱ば抜擢する、秀孝ば上げる、四の五の言う前に金太郎さんば見習えちゅうことげな。水原さんはまちごうたことはせん。大人物たい」
水原監督が三塁コーチャーズボックスから戻ってきて、ベンチの一列目に座った。話は止んだ。
「このまま一対ゼロでいくだろうとロッテ側は踏んでいるかもしれないが、菱川くんと太田くんと一枝くんがいるからね」
一回裏ロッテの攻撃。一番池辺。水原監督は長谷川コーチに、
「若生くん、変化球が切れてるね。しばらく抑えてくれるんじゃない? リリーフは?」
「松本幸行です」
「きょうは完封かもね」
 初球真ん中カーブ、池辺早打ちしてセカンドゴロ。二番山崎初球外角カーブ、ボール、二球目内角シュート、バットを折ってサードゴロ。三番榎本、真ん中高目ストレート、二球目外角高目シュート、三球目内角低目スライダー、すべで空振りして三球三振。
 二回表。五番菱川、二球つづけて真ん中高目のストレートを空振りしたあと、外角のするどいカーブをライト前へ痛打。さすが菱川、村田の自信のボールを打ち据えた。
六番太田、オープンに構える。内角のスピードボールを待つつもりだ。外角低目へストレート、カーブでツーナッシング。太田はボックスを外してバットを高く掲げ、ヘッドを見た。さっよりもオープンスタンスに構える。
「ヨー、ホッ!」
 なんと水原監督から声がかかった。三球目外角低目へ渾身の速球。太田は一転して大きくクローズドに踏みこみ、ヘッドを振り抜いた。ギン。いった! ライトポールのかなり内側に突き刺さる。太田はみずから求めて水原監督に抱擁される。
「タコ、頭使ったのう」
 かならず江藤に評価される。三対ゼロ。
 七番新宅。彼の打撃は期待できない。シュート、ストレート、カーブ、ストレート、四球で三振。
 八番一枝。ひたすらシュートを待ち、ワンツーから内角シュートをレフト前ヒット。
 九番若生、ゲッツーを嫌って一球も振らずに三振。
 一番江島。もうラッキーは許してもらえない。外と内の変化球攻めでパッパッパと三振。
 二回裏。四番有藤。引き締まったからだの巨漢だ。頬の皺が深いのが気になる。高木が、
「去年の三振王で新人王だ。三振が多いくせに二割八分も打った。ホームラン二十一本。足も速い。かなりの素質だね。でもエラーが多いのが玉に瑕だ」
 長嶋を模倣した構え。初球のスライダーを引っかけてセカンドゴロ。明らかなドアスイング。スイングスピードも鈍い。これから何年やるかわからないが、二割打者で終わるだろう。
 五番アート・ロペス。外人にしては小柄、日本のプロ野球選手と比べても中肉中背。若生のシュートが冴えて、あっけなく三振。
 六番、注目するジョージ・アルトマン登場。これは大きい。マッコビーくらいある。木俣が、
「おととし百打点でタイトルホールド、ホームラン三十四本、打率三割二分、最多安打、最多得点、最多二塁打、最多塁打。去年はふつうのスラッガーに戻った。ホームラン二十一本、打率二割七分」
「でも六番はないでしょう。四番を打たすべきです。ほら打った」
内角極端に低いストレートをあっという間にライト場外へ持っていった。慎ましい走り方でホームに戻ってくる。一塁ベンチへ戻っていく背番号7が小さく見える。小人のような濃人監督と慎ましいタッチ。仲間たちと慎ましいタッチ。三対一。
 七番小兵飯塚。二年目二十四歳。宇野ヘッドコーチが、
「ドラ十四で入って、一年目から一軍に上がっためずらしい選手だ」
 めずらしさにも関わらず、三振。
 三回表。村田の球威がますます増してきた。二番省三、三振。三番千原、ファーストゴロ。四番谷沢、振り遅れて浅いレフトフライ。観衆のざわめきに不満の調子が加わる。私たちの出番に痺れを切らしている調子だ。
 三回裏。八番醍醐。オリオンズ生え抜きの十四年選手。大型捕手だ。キャッチャーなのに全試合出場という記録を三度も打ち立てている。職掌のせいもあって選球眼がいい。若生が初めてフォアボールを出した。
 村田なんとか犠牲バントを決める。醍醐二塁へ。しかし池辺が一枝へのショートゴロを打ち、醍醐動けず。二番山崎菱川への痛烈なゴロ、菱川軽くさばいてスリーアウト。
 四回の表。五番菱川、村田が神経質に警戒している。内角攻め。ストライクゾーンには投げてこない。ノーツ―。おっと! 左尻に当たった。かなり痛そうだが、菱川は気丈に走り出す。
 六番太田も内角攻め。ストライクが入らない。ノースリー。醍醐がタイムをとって駆け寄り、叱咤する。こういうのはミスだろう。カウントが悪いのに変化球を投げろと言うわけがないからだ。太田はストレート一本に的を絞る。真っ正直な村田はコースを選ばず直球を投げるに決まっている。もとよりコントロールが悪いのでコースは選べない。四球目、内角膝もとの速球、ファール。五球目、同じコース、低すぎる、どうする? 打ちにいった。三塁線ボテボテのファール。不正解。フォアボールで出てノーコンピッチャーを動揺させるべきだった。たしかにきわどい内角を二球つづけてファールしておけば、次のボールは、当てられないことを願って外角に投げてくる確率は高い。さっきホームランを打ったコースだ。しかし外角にこなかったらどうする? 外角にくれば、ストレートだろうがカーブだろうが太田は打つだろう。もし外角を投げるなら、たぶんくさいボールでフォアボールにするにちがいない。そして新宅で勝負と考えるのがふつうだ。しかし醍醐はフォアボールにはしない。二点差しかないのだ。点差を広げる可能性は極力避けるはずだ。六球目、真ん中高目ストレート! 力勝負できた! 叩きつける、うーん、センターライナー、池辺少し左中間へ走ってキャッチ。
「よくやった!」
 ベンチから太田に拍手が上がる。よくやっていない。五球目のファールがすべてだ。
 七番一割打者新宅。いまのところオープン戦に入ってゼロ割。眉の太いヤクザ面。この顔がファイト剥き出しになることはまずない。ひっそりした男だ。水原監督のパンパンパン。いまの失敗を取り戻してほしいのだ。新宅にそれができるだろうか。
「洋志、男になれ!」
「オープン戦と思ったらいかんぞ!」
「新人にやられてどげんすっと!」
 新宅は初球の内角高目のパワーカーブをめくら振りした。まともに芯を食った。
「ヨオォォシ!」
 木俣がベンチ前に飛び出した。左中間のフェンスに向かって打球が伸びる。入れ! 金網に当たって撥ね返った。



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