三十七 

 濃人が出てきた。醍醐といっしょにマウンドに寄っていく。審判もついてくる。いちおう村田に打診してみるようだ。話はすぐ決まった。プレイ。村田が初球を投げて驚いた。一枝敬遠! 背番号2がさっさと一塁へ走る。
「バッター若生に代わりまして、竹内、背番号55」
 入団四年目。ヒットを一本しか打ったことのない男に何かを望むのは無理だ。竹内懸命にバットに当ててキャッチャーフライ。ゲッツーを食らわなかっただけマシ。
「バッター江島に代わりまして、中、バッター中、背番号3」
 喚声が本格的になった。中、右足でリズムとり。アコーディオンはやらない。速球に備えて視線を揺らさないようにしている。ツーアウト満塁。スクイズはない。私は深い守備位置の一塁手を見た。捕球以外へたくそな榎本。初球、真ん中へ落差のあるカーブ。ストライク。ボックスを出て、強い素振り二回。二球目、内角高目猛速球。
 ―やった、バスター!
 榎本あわてて前進。中はあっという間に一塁を駆け抜けた。菱川生還。一枝二塁へ、新宅は三塁へ。榎本はどこへも投げられず立ち往生。四対一。
「バッター江藤省三に代わりまして、高木守道、バッター高木、背番号1」
 濃人がピッチャーの交代を告げる。
「ピッチャー村田に代わりまして、小山、ピッチャー小山、背番号47」
 投球練習。速い。ゆったりしたフォームから投げてくる球が胸もとでホップするピッチャーだ。完全なスリークォーター。幼いころすでに伝説だった人びとと、十年も経ったいまこうして同じプロ野球人としてプレイをしている。彼らはそのころより老いている。最盛期はいかばかりのものだったろうと思うと恐ろしい。この小山にしても目にも留まらぬスピードボールを投げていたはずだ。
 高木への初球、外角低目シュート、ストライク。二球目ど真ん中パームボール、空振り。三球目、外角低目速球、振り遅れてファーストゴロ。
 四回裏。松本が飄々と投球練習をする。パシッと返球を受け取っては振りかぶり、すぐ投げる。先頭打者の榎本は、ただの立ち投げふうの投球練習だと思って疑問を抱いていない。プレイ。榎本がボックスに入ったとたんに投げる。真ん中ストレート、ストライクだが主審の岡田はコールしない。榎本はあっけにとられて手が出ない。返球をパシッと受け取ってまた振りかぶる。
「待ったァ! 何だありゃあ!」
 榎本は審判に怒鳴る。審判は、
「ボール!」
 と大声で宣告する。走者がいないとき反則投球してもボークではなく、ボールが宣告されることになっている。岡田はすぐに松本のところに走っていき、返球を受けて連続的に投球動作に入るにしても、バッターが構えるまでは投球してはならないと、グローブを頭上でいったん停止させるような身振りを交えて説諭している。松本はうなずく。ところが彼は、榎本がまだ足もとを固めているうちにまた投球動作に入る。たまらず榎本はタイムと言い、ボックスを外して、松本を睨みながら立ち尽くす。江藤が、
「アマでは、ランナーなしのときは静止せんといけんと決まっとるばってん、プロではなるべくするなちゅうくらいのもんたい。ただ、バッターが構える前に投げるんは〈クイックモーション〉ちゅうて禁止されとる」
 松本は根負けして榎本に向かって帽子を上げる。榎本は不機嫌そうに足もとを固めて構え直す。松本が投げ下ろす。百三十キロ半ばの棒球。簡単に捕らえられ、ライト前へ痛烈に弾き返される。むだな悶着の時間だった。守っているほうは常に冷やひやしていて、それがたび重なると苛立つ。
 バッター四番有藤。今度こそセットポジションで静止しないとボークをとられる。松本はグローブを腹に引き寄せ、一瞬も止めずに投球動作に入るやいなや投球した。真ん中低目ストレート、ストライクだ。
「ボーク!」
 岡田主審がホームベース前に飛び出して宣告する。榎本に進塁するよう二本指で指示する。有藤はノーカウントから打ち直し。タイム。太田コーチがベンチから走り出てマウンドへ急ぐ。むだな時間。なぜ相手を戸惑わせてまでそんなに早く投げたいのか。腰が痛いというのは嘘だとすると、いや、嘘にちがいないので、考えられる理由は一つだ。ボールが遅いことの目晦(くら)まし。木俣が、もっとボールを速くしろと叱ったことこそ、まさに本質を突いているだろう。
 水原監督が出てきてピッチャー交代を告げた。星飛雄馬田辺。松本は悪びれもせずスタスタベンチに退がる。ほぼ百パーセント二軍落ちだろう。
 田辺は速球七、変化球三の割合で、打ち直しの有藤から外人二人までのクリーンアップ三人を凡打に切って取った。
 五回表。三番千原に代わって江藤、パームボールで見逃し三振。見逃しで三振するところに油断がない。四番矢沢に代わって私、パームボールで浅いライトフライ。落ちるボールは掬わなければならない。反省。五番菱川、パームボールを引っかけてセカンドゴロ。落ちるボールを上から叩いてはいけない。彼も反省。
 五回裏。飯塚、醍醐、小山、連続三振。ほとんど速球。
 二時二十三分。何やら軽音楽が流れ、マウンドとホームベースの周囲、そしてダイヤモンドの外側の内野フィールドにトンボが入る。バッターボックスとキャッチャーボックスの白線が引き直される。軽音楽が止む。
「六回表、中日ドラゴンズの攻撃は、六番ライト太田、背番号5」
 きょう一本ホームランを打っている男に大歓声が上がる。
「もう一本いけよォ!」
「みなさーん、ホームラン五、六本見せてくれ!」
 太田はさっきは直球をホームランしたけれど、結局外角狙いが功を奏しただけだ。今度もそこ一点だろう。小山の変化球は、カーブ、ナックル、フォーク、パーム。どれも打ちにくいが、とりわけパームは射抜きにくい。真っすぐ落ちたり、曲がって落ちたりする。狙えない。速球は百四十キロ前後のフロートボールなので、どの球種も少し前に出れば処理できる(……だろう。さっき私は前に出ないでボールの下を叩きすぎた)。次の打席はどれも狙わず、無心に、思いつくままに打とう。そうすればからだは自然に反応する。
 太田は予想どおり、パームを捨てた外角のカーブ狙いで、ツーツーからライト前に痛打した。
「七番新宅に代わりまして、木俣、バッター木俣、背番号23」
 木俣はあくまでもストレート狙い。三球目、外角へフロートしてくるところを叩きつけて一塁線へ二塁打。ノーアウト二塁、三塁。
 八番の一枝はハナからシュート狙い。フルカウントからようやく内角を抉(えぐ)りにきたシュートをからだの回転だけで打って、深いレフトフライ。太田ホームイン、木俣自重して二塁を動かず。
 九番田辺。初球に胸もとを攻められ、そこから立ちん坊のまま、なすすべなく内角ストレートを二球見逃して三振。ツーアウト二塁。
 中、ツースリーまで粘り、内角へストンと落ちるパームを掬ってセカンドの頭へ巧打したけれども、ジャンプした山崎にキャッチされた。五対一。
 六回裏。ロッテの攻撃は一番に戻って池辺から。女房役に木俣を得て田辺の投球はいよいよ冴え、ほとんど直球とスライダーの二本立てで、池辺をセカンドゴロ、山崎をセカンドゴロ、榎本をファーストゴロに打ち取った。
 七回表。ラッキーセブン。二時五十一分。いままで声援と拍手だけを送っていた三塁ベンチ上の応援団が、ようやく鉦や平太鼓を打ち鳴らしはじめた。球団旗も振られる。三塁側スタンドのファンたちの叫び声も大きくなる。高木から一枝までの七人、息も継がさぬ怒涛の長打攻勢が繰り広げられるのを見たいのだ。気温十二度、かなりの向かい風。ピッチャー有利の風だ。
 二番高木、初球外角ナックル、つんのめって見逃し、ボール。フェイクだ。狙っているのが外角でないとわかる。二球目、ほら、腰を抉るような内角のシュートがきた。ヘッドを残したバットが左手の引きに先導され、強いスイングが始まる。左足をややオープンに踏み出し、からだの軸をいっさいスウェイさせずに右手を絞りこんで弾く。見事な内角のさばきだ。サード有藤がジャンプして差し出したグローブの先を白球が矢のように越えていく。
「いけェ! モリ!」
 江藤がウェイティングサークルで叫ぶ。クッションボールを処理したアルトマンが地を削るワンバウンドの返球をする。高木がセカンドベースに華やかに滑りこむ。間一髪セーフ。鉦、太鼓、進軍開始を告げる大歓声。
 ラインドライブの王者江藤が打席に入る。さっき打ち取られたパームを二球つづけて見逃す。ワンエンドワン。高木と同じようにシュートを打ちにいく雰囲気だ。三球目、内角高目ストレート、空振り。少しボックスの前に出た。四球目、シュートか? いや外角へ流れるパームだ。少し引っ張りながらひっぱたく。よし、右中間! 強烈にドライブのかかった打球が右中間を抜いていく。高木生還。江藤、二塁へ。スタンディングダブル。六対一。
 私はヘルメットをしっかりかぶり打席に入る。歓声が聞こえる。ふと、オープン戦が始まってから尻ポケットにお守りを入れていないことを思い出した。ポケットの帽子をポンと叩く。首から上にボールが来たときのシュミレーションをする。ボックスのフロントライン十センチほどまで近づく。構える。
 小山はキャッチャーとサインを交わさない。松本ほどではないが、打者の足の動きが止まると躊躇なくモーションを起こして投げてくる。初球、外角低目シュート、落ちすぎてボール。二球目、さっき私を打ち取ったパームが真ん中高目からほぼ垂直に落ちかかろうとする。曲がりハナが見えたけれども高すぎると感じて見逃す。ボール。三球目内角ストレート、ちょうどいい高さだ。始動。おっとフォーク、バットを止める。ストライク。これは打てない。予想しないで振っても当たらない。ワンツー。チラと味方ベンチを見た。息を吞んでいる。うなずく。四球目、小山セットポジションからすぐ左足を踏み出す。右腕が強く振られる。外角高目、きょう最速のストレート、ストライクなので打つ、フロートした。忘れていた。バックネット二階席へ高々とファール。ツーツー。
 江藤が形ばかりにリードする。五球目、外角すれすれから入ってくるカーブ、低い、ボール。ツースリー。水原監督のパンパンパン。神の御託宣だ。六球目、胸もとへストレート軌道で高速のボールがやってくる。落ちる回転ではない。フロートを見こんで、予測した軌道より心もち上から思い切り斬り入れる。バットの芯よりやや内側で食った。詰まったという手応えではない。高いフライが上がる。逆風に乗った。ベンチに歓びの怒声が弾ける。江藤がライトスタンドを仰ぎ見てこぶしを突き上げる。中段より上に落ちるホームランだろう。打球の行方を見ずに森下コーチとタッチ。
「出てったぞ」
「え?」
「場外だ」
「はい!」
 江藤の背中を追う。おどけて腿を高く上げながら走っている。水原監督が彼の尻を叩いて何やら話しかけた。江藤が首を横に振る。監督は私と抱擁し、
「お仕事終わりだ。次の回から休んでいいよ」
「いいえ、やります」
 これを江藤にも言っていたのか。チームメイトの出迎え。タッチ、タッチ、タッチ。八対一。
 五番菱川。そろそろ彼にも一発が出るだろう。きれいな目がベンチを振り向き、すぐ構えに入る。……森徹。似ている。体型ではない。たたずまいが似ている。侍。ネクストバッターズサークルの太田が、
「ヒシさーん、ヒットでいいよ、俺が平らげるから!」
 菱川は聞こえないふりをする。初球外角低目スライダー、ストライク。踏みこんだだけで振らない。二球目、あごのあたりへストレート、反り返ってよける。次はそのコースからパームかフォークを落とす。菱川もわかっているはずだ。小山はピッチャーズプレイトを蹴って踏み出し、ストレートの腕の振りでわずかに掌を上方に押した。パームだ。菱川はボックスの前に出ない。定位置で間をとり、変化する球をそのまま受け入れる流儀だ。じっとこらえる。揺れて落ちてくる。菱川の腰がピタッと止まり、サッと踏みこみ強烈に回転する。文句なしのジャストミート。ロペス、一歩も動かないで見上げる。ライト看板直撃。大回転の中でスコアボードの得点板が回転する。4。この回四点。九対一。
「よし、三者連続いくぞ!」
 太田が走ってバッターボックスへいく。気力にあふれている。濃人が手を挙げた。
「ピッチャー、成田!」
 太田がウェイティングサ―クルに戻る。厄介なパワースライダーピッチャーが出てきた。ここから先はしばらく打てない。案の定、太田チップ三振。木俣空振り三振。一枝キャッチャーゴロ。
 七回裏。そろそろロッテのバッター陣が田辺に慣れてくるころだ。球威があるとは言っても直球はがんらい打ちやすいものだし、変化球のレパートリーもカーブとスライダーくらいしかない。
 四番有藤。ウェイティングサークルで立て膝した恰好やバッターボックスの構えが長嶋に似ているが、長嶋ほど機敏な感じはしない。速球と逃げる変化球に弱そうだ。内角のゆるい球は打つだろう。そこへカーブが内角から入ってしまった。はい、一本。ライナーでレフトスタンド前段に突き刺さる。ピッチャーは九対二。
 五番左バッターロペス。はい、すんなり三振。外人一般と同様、シュートはからっきし打てない。ボックスの前に出て変化球に対応する考えなど浮かんだこともないだろう。
 六番アルトマン。ロペスと同じシュートを三遊間へ。さすが打点タイトルホールダ―。ここで水原監督が岡田球審にピッチャー交代を告げる。
「ドラゴンズの選手交代を申し上げます。田辺に代わりまして、伊藤久敏、ピッチャー伊藤、背番号16」
 四年前のドラ二。ドラ一の土屋とは駒大で同期。百七十五センチ、細身のサウスポー。顔も細い。ストレートはふつう、カーブ、スライダー、シュートと一とおり投げる。
 七番飯塚。初球内角低目ストレート、ストライク。二球目、外角低目カーブ、空振り。三球目、内角高目スライダー、詰まった打球がサードの後ろ微妙なところに上がる。サード菱川バック、ショート一枝サードの後方へ走る、私も斜め右前方に走る。野球というスポーツが心に戻ってくる。走りながら血が騒ぐ。サード、ショートともに追いつきそうだが、お見合いになる危険がある。私は自分の名前を呼びながら大声を上げる。
「神無月! オーライ、神無月! オーライオーライ!」
 二人がしゃがむ。私は勢いを殺して二人の背後に立ち止まり、簡単に捕球する。味方ベンチから讃嘆の大声。
「ナイスプレイ!」
「最高!」
 菱川が、
「みごと!」
「ども」
 伊藤久敏がグローブを上げる。私も上げる。


         三十八

 ツーアウト。八番醍醐。一難と言うほどでもないが、嫌な予感がする。久敏はとつぜん乱れてワンバウンドを連投し、ノースリー。
 ―次、打ってくる。
 四球目、アチャー、棒球。右中間真っ二つ。悠々二塁打。アルトマン生還。七、八、九、三イニング三失点ぐらいなら許容範囲だろう。
「九番、ピッチャー成田、背番号46」
 ピッチャーなのに二割前後打つバッターだ。去年五本もホームランを打っている。初球外角カーブ、見逃してボール。選球眼もいい。二球目同じコースへスライダー、強打、ライト線だ。醍醐生還。中日ベンチからいっせいに怒声が上がる。
「三塁、三塁!」
「二塁、二塁!」
 かなりオーバーランしていた成田が太田の強肩に驚き、二塁へあわてて走り戻ったが高木に追われて三塁へ走る。三塁転送、菱川にタッチアウトされた。スリーアウト。太田の肩を勉強していないのは怠慢だ。それにツーアウトなので三塁に走る必要などまったくなかった。九対三。
 八回表。中日の攻撃は九番伊藤久敏から。右打席に立つ。成田のシュートで脅されて、立ちん坊のまま三振。一番中、速球二本、スライダー一本でセカンドゴロ。二番高木、スライダー攻めでセカンドフライ。
 八回裏、一番池辺に代打、大男の井石が出る。左対左。初球を私の前へ流し打ってツーバウンドのヒット。二番山崎、これも初球をライト前ヒット。ノーアウト一、二塁。三番榎本、初球を打って火を噴くようなファーストライナー。ワンアウト一、二塁。四番有藤これまた初球の真ん中高目のストレートを思い切り振って、高く舞い上がるセカンドフライ。内野四人の審判がいっせいにインフィールドフライのジェスチャーをしながら大声を上げた。有藤自動的にアウト。二塁ランナーの井石がボーッと二塁ベースから少し離れたあたりに立っていたので、高木は一枝へ送球した。一枝が井石にタッチしてアウト。ワンアウト一、二塁がたちまちスリーアウトとなった。
 インフィールドフライ捕球後の走者は、塁を離れるためにはふつうのフライと同様にリタッチしなければならないので、ベースに留まっていない場合はタッチアップ違反と見なされ、野手にタッチされるとアウトになる。このルールはうろ覚えだった。恥ずかしかったので、ベンチに戻ってからもだれにも確認しなかった。伊藤久敏はついている、しかし、ヨギ・ベラの言ったように、勝負は終わるまで終わらない。
 三時二十四分。九回表。江藤から。三塁ベンチ上の鉦、太鼓。
「江藤、今年も六十本いけよォ!」
 アウトハイストレート、ボール、インハイシュート、ファール、インローのシュートが決まってツーワン。何を狙っていいのかわからない。うろうろ考えているとスライダーがくる。きた。一塁線へボテボテのファール。またきた。高く上がるライトフライ。ワンアウト。
 私の打席。いっときに高まる喚声。水原監督のパンパンパン。杉山コーチの、
「ヘイ、カモン、カモン!」
 というダミ声。高木が、
「〆るよ、十点目!」
 初球、もろに顔目がけてストレート。球筋を見定めてから、上半身を沈みこませてよける。ボールがバックネットへふっ飛んでいった。ベンチが騒然となり、水原監督がコーチャーズボックスから走り出る。私はいつものように掌で止める。醍醐が、
「すまん!」
「とんでもない。これは勝負です。正々堂々なんて、絵に描いた餅だという常識は世間に滲みわたってます。気にしてはいけません」
 マウンドの成田が手のひらで謝罪する。私は手を振って、謝罪は要らないと応える。江藤が、
「ブッ倒しちゃれ、金太郎さん!」
 岡田球審が醍醐に、
「もう一球頭を狙ったら危険球で退場。いいね」
「は、わかってます」
 次のボールは? 私はボックスの前へ出る。胸もとのスライダーと読んだ。二球目、真ん中高目、快速球の軌道で、途中からするどい回転に変わる。読みどおり。曲がりはじめに焦点を当てて絞り打つ。いつもの手応えが手のひらにくる。距離までわかる。ボールが曲がったときや落ちたときは、芯を食うと大きな打球になる。このホームランも逆風に乗った。場外ホームラン。午後の空へ白球が消えていく。潮(うしお)のように押し寄せる歓声。タッチと抱擁の祝福。水原監督が、
「金太郎さんにもしものことがあったら……私も……わかってるね」
「わかってます。ぼくも同じです」
「しかしデッドボールを避ける名人だねェ」
「はい、まかせてください。ほんとに名人ですから心配ありません」
 小中学校の遠征試合、青森高校の練習試合や夏の大会、名古屋西高のクラス対抗ソフトボール大会、名城大付属高校の河原でやった練習試合……玄人たちと戦うわけでもないのに、どうして緊張して全力でがんばるのだろうと不思議だった。でも、いつもボールを握った瞬間、バットを手にした瞬間、自分は野球選手なのだから野球に没頭しなくてはいけないという考えがめぐった。考えと言うより本能だった。野球をする本能を持って生まれたのなら、人より確率よく打てて当然だし、人より遠くへ投げられてて当然だし、デッドボールくらい避けられて当然だ。そんなくだくだしいことを水原監督に説明する暇はなかった。
 十対三。ワンアウトランナーなし。バッター菱川。美しい男。こんな悲しげで美しい男を見たことがない。彼を見るといつも目の奥が痛くなる。私は声を張り上げた。
「菱川さーん、イッパーツ!」
 菱川はバットを上げて応える。外角が強いとわかっているので内角攻めできた。ファール二本で凌いだところへ、美しい尻にデッドボール。シュートのすっぽ抜け。
 四時が数分後に近づいている。この回の表裏だけで三十分以上かかるだろう。バッター六番太田。初球、外角低目のフォーク、ショートバウンド。二球目、内角高目カーブ、ハシッと打つ。ライナーで左翼ポールの左へファール。あと一メートル右だったらホームランだった。
「いいぞ、いいぞ、太田」
「その調子だ!」
 スイングがコンパクトなので成田は簡単にストライクを取りにこれない。
「太田、いけ!」
 三球目、外角高目のカーブ、バットの先に引っかけて打ち上げた。センター定位置のフライ。ツーアウト。
 七番木俣。初球、真ん中高めのスライダー、ボールの下をこすって打ち上げ、左中間の深いフライ。スリーアウト。ここは狭い球場なので、ピッチャーはもっぱら低目に投げてくるが、成田はわざと逆の投球をして、大物狙いの打ち急ぎを狙った。最後にいい学習をした。野球は繊細なスポーツだけに、心理的要素が非常に大きいということだ。
「九回の裏、ロッテオリオンズの攻撃は、五番ライトロペス、背番号9」
 気を引き締めるべきだ。どのチームも五番打者は手ごわい。杉山コーチがベンチ前でライト、センターに後退するよう手のひらを振る。中と太田がグローブを上げ、長打に備えてバックする。守備位置の調整というやつだ。ロペス、初球の内角カーブを救い上げてセカンドフライ。高木がオーライ、オーライと叫びながらキャッチ。江藤が、高木の足もとにしゃがんでいる。野球の緻密さを示すすばらしい図だ。野球というのは一瞬と一歩の勝負だ。アウトを一つ取るのもたいへんな共同作業なのだ。
 六番アルトマン。ロペスにつづいてこれも左対左の対決。気になる初球、外角スライダー見逃し、ストライク。いい制球力だ。木俣が内角に構える。二球目、内角ストレート、を深く突き刺す。いい球だがボール。伊藤久敏はいい度胸をしている。三球目同じコースへストレート、ストライク。四球目、外角カーブ、ボール。五球目、外角カーブ大きく外れて、ボール。一人の強打者を打ち取るのは大仕事だ。アルトマンはバットを振らずに投球数を増やしている。さすがだ。六球目、ど真ん中のストレート、あ! センター前へ痛烈なヒット。助かった。ロッテファンの大拍手。六球も投げさせ、仲間に投球内容を見せたうえに、ヒットで出塁。完璧だ。やりたくても簡単にはできない。アルトマンだからできたのだ。
 七番飯塚。初球内角高目ストレート、バットの根っこに当てて打ち上げる。さっき菱川と一枝と私で追いかけた打球とほとんど同じだつたが、落下位置がそれほど微妙でなかったので、菱川一人が斜行バックしただけで捕球した。ファールゾーンだった。
 ツーアウト。八番醍醐に長谷川一夫という名のピンチヒッターが出た。二十四歳、オリオンズ八年目のベテラン左バッター。その名前を聞いて少し笑った。彼はきょうのバッティング練習でも打っていて、江藤が、
「大映の俳優の長谷川一夫と同じ名前やけん、永田オーナーが入団させたちゅう話もあるげな」
 と言ったのを思い出したからだ。
 初球、内角速球、足もとから右へファール。二球目、外角低目シュート、強引に引っ張って一塁線へファール。伊藤久敏のテンポがいい。しかし勝利投手はいちばん投球回数の多い田辺だ。三球目、外角高目ストレート、空振り三振。試合終了。三時十三分。三十分どころか十五分かからなかった。伊藤にナイスピッチングの声をかけながらベンチに走り戻る。ペチン、ペチンとみんなでタッチし合う。チームが個体ではなく群体だと感じるときだ。大学野球までは一度も感じなかったことだ。大勢の観客が拍手している。私たちはスタンドに向かって帽子を振る。胸が熱くなる。
 ―こんな環境で試合ができるなんて……。
 ファンの歓声の中で野球をすると、感情がこみ上げる。こんなことはもう経験できないと思い、悲しくなる。ほんとうにこんな機会は二度とないかもしれない。一度、一度、そう感じる。フラッシュカメラやテレビカメラが右往左往する。彼らをベンチ前で振り切ってロッカールームに全員集合。水原監督が、
「よーし、これで五連勝です。連勝が大事なんじゃなくて、大切に一つ一つの勝利を手にしてきたかが大切です。きみたちはほんとに一つ一つ大切に勝ってきた。しかも手を抜いたことがなかった。……誇りに思う。それ以上に、この十三カ月で確信した。きみたちは他のチームの選手たちとはメカニズムがちがう。野球に懸ける情熱がちがう。十五年ものあいだ優勝しなかったことが不思議だ。私が監督をしているあいだは優勝しつづけましょう。私が辞めてさびしくなったら、最下位になってもいいですよ」
 笑いが爆発する。
「その代わり、ベテランはからだがつづかなくなるまで野球をすることが条件です。私はベテランたちと一蓮托生です。若手は水原なきあとも好きなだけやってください。ひどく残念ですが、きみたちの行く末を見守れるほど私は長生きできません」
 菱川が、
「監督、そんなことは言わないでください! 俺たちだって一蓮托生ですよ」
「ありがとう。湿っぽい話は終わり! これからも勝ちつづけよう!」
「オシャ―!」
 廊下にあふれる報道陣を水原監督と田辺が引き受ける。私たちはバスに戻る。バスの周囲にファンが群れ集う。何十人かのサインをこなしているあいだに監督と田辺が帰ってくる。田辺がだれにともなく、
「勝利投手賞でカーステレオをいただきましたよ。近鉄時代は商品なんてなかったです」
 一枝が、
「ほんとかよ。ホームラン賞があるだろう」
「はあ、三年前に一度だけ賞金を振りこまれたことがあります」
「打ったのか! 冗談で訊いたのに」
「二塁打二本、三塁打一本、おととしは五打数二安打、四割打ったんですよ」
「そうか、今年も頼むぞ」
 ヤクルトからきた変化球ピッチャーの佐藤進が、
「俺は二塁打七本、ホームラン三本打ってます」
 水原監督が、
「そうか、じゃもっと使わなくちゃね」
「お願いします」
「じゃ次の東映戦の先発いこうか」
「はい、ぜひ」
「中継ぎはどうしようかな。ベテランはこの五試合で、小川くん、小野くん、伊藤久敏くん、水谷寿伸くんが投げてるね。若手は、星野くん、川畑くん、戸板くん、渋谷くん、松本くんか。田辺くんも佐藤くんもベテランだし、中継ぎは若手でいこうか。戸板くん、渋谷くん、川畑くん、若生くん、水谷則博くん、それと土屋くんだな。松本くんは投球間隔の調整ができるまで、しばらくファームにいってもらうことにした。開幕までみっちり調整してくれ。いいね」
「はい」
 松本は不機嫌な表情をしながらも素直にうなずいた。和やかな雰囲気に包まれてホテルへ戻っていく。


         三十九

 五時。部屋に戻ってシャワーを浴び、ブレザーに着替え、眼鏡をかけた。フロントにユニフォームのクリーニングを頼んで散歩に出る。晩めし前だ。
 上智大学の殺風景な堰堤沿いを四ツ谷駅に向かわずに、右手の紀尾井坂をくだっていく。殺風景なのは変わらないが、並木の多い分、心が安らぐ。坂下から弁慶橋のほうへ右折しないで左へ曲がり、ふたたびだらだら坂を上る。コンクリートの建物群に挟まれた道。何の建物かはわからない。たぶん上智大学の一部だろう。四谷に向かう道と反対側の道を堰堤と平行に歩いているような気がする。上り坂の途中に右折路があった。右折しても変わらない景色だが、気分直しにのぼっていく。大通りのビル街に出た。横道があったので曲がりこんで進む。何本かくねくね歩いたが、結局もとの大通りに出ただけだった。大通りを進みながら横道に入ったり出たりする。迷ったな、と思ったら、四ツ谷駅前の公衆便所に出た。小便をし、タクシーを拾う。
 新宿へ出る。運転手は無口な男で、私のことを背の高い眼鏡男としか思っていないようだった。ありがたく無言で通す。紀伊国屋前で降り、レコード店を適当に探して入る。アメリカンポップスのジャケットをパタパタやっているうちに、なつかしさに圧倒され、〈クマさんと私〉の時代のレコードをEP、LP、合わせて二十枚ほど買う。ずっしりとした紙袋二つ。すぐにタクシーでニューオータニに戻り、フロントにレコードを紙袋ごと差し出し、北村席宛ての郵送を頼む。
 舟屋へいく。すでに仲間たちがテーブルについて、箸を動かしている。蟹クリームコロッケとライスの大盛りを注文する。千二百円。ほとんどの仲間が天ぷら膳か豚ヒレカツ定食を食っている。
「なんばしよったと? また散歩ね」
「はい、新宿までいってレコードを仕入れてきました」
 秀孝が、
「音楽ですか。いいなあ。江藤さんもギターを弾いてラテンを歌うし、本多二軍監督もギターの名人、一枝さんはクラシック通」
 私は、
「そんなもの余興ですよ。羨ましくもなんともない。星野さんも漫画の趣味を人に羨ましがられたら奇妙に思うでしょう? ぼくたちの生涯のあこがれは野球です。野球に全身どっぷり浸ってないと生きてる感じがしない。でも、野球は並外れた体力と知力を必要とするスポーツですから、そうやって生きるのは相当疲れます。それで余興で息抜きしなくちゃいけなくなるんです。……ぼくはバットを夢中で振りはじめた小学校五年生のころ、飯場でダンプカーの運転手をしていたクマさんという音楽通に、初めてレコードを聴かせてもらいました。アメリカンポップスでした。ケイシー・リンデン、悲しき16才。そこから何十曲、何百曲と枝葉が広がっていきました。この十年間、その経験をずっとなつかしんで聴きつづけてます。きょうもあのころのレコードばかり買ってきました」
「どんな歌ね?」
「ヤッヤッヤーヤ、ヤッヤッヤヤ」
「おお、あれね。……思いついたんやが、最初の攻撃前の景気づけ、それにしたらどうやろな。円陣作って、ヤッヤッヤーヤ、ヤッヤッヤヤ、そりゃ!」
 太田が、
「いいすね! ヤッヤッヤーヤ、ヤッヤッヤヤ、そりゃ!」
 菱川が、
「メロディつけずにかけ声だけ。いいすね」
 谷沢が、
「これなんですね、ドラゴンズが強い理由は。野球で融和するだけじゃなく、個人の過去や未来とも融和する」
「難しかことはわからんばってん、したかことをしとるだけたい」
 戸板が訥々と青森弁で、
「とにかぐワタクタ勝ちつづげるチームだはんで、たまげるじゃ。強さの理由は……うだでぐ神秘的です。オラはその神秘性に便乗してるだげです」
 標準語も交えようとするが、うまくいかない。私は、
「いつだったか菱川さんが、打って走り出そうとしたときに転んで、危うくレフトゴロになりそうなことがあったでしょう? あれでアキレス腱でも切ってたら、ドラゴンズの結集力から神秘性は消えてました。一人ひとりのメンバーが異常で神秘的なので、チームの歯車が一つ抜け落ちただけで神秘性にヒビが入るんです。神秘的な歯車がうまく補充できなければ、再建しても異常な強さはなくなります。菱川さんの予備はいない。ドラゴンズはそういう神秘的な一人ひとりで成り立ってるチームです。嚙み合ったときは神秘的な総合力を発揮できますが、一人欠けただけで全体が平凡になります。もともと平凡な他のチームに類を見ません。ドラゴンズに入団するまでわかりませんでした。このチームでは平凡な人は淘汰されます。平凡は悪ではありませんが、ハイレベルな和を乱します。ぼくはいつもそう思って鍛錬してます」
 こぶしを突き合わせる。
「あしたは午後からモリや健太郎とトレーニングルームにいくばい。おまえらはどうすっと?」
 太田が、
「清水谷で走って、バット振ってから、新宿に映画を観にいってきます。明日に向かって撃て」
「ついでに歌舞伎町で抜いてくるとやろう」
「それもあります」
「そろそろ顔が売れてきちょるけん、気ィばつけんと」
「結婚したら気をつけます。ヒシさんいっしょにいきませんか」
「俺は江藤さんたちといっしょにトレーニングルームにいくわ。神無月さんは?」
「ぼくは寝てます」
 江藤が、
「嘘つけ。いろいろ忙しうしとるんやろう」
 秀孝が、
「女の人ですか」
「今回はその予定はないです」
 ほんとうにまったく予定が立っていない。谷沢が、
「ぼくはひさしぶりに恋人とデートです。夜は大学時代の友人もいっしょにめしでも食います」
 戸板が、
「朝ランして、めし食ったら、寝れるだげ寝でます。午後はオラもトレーニングルームさいぐじゃ」
 江藤が、
「いろんな新聞に載っとったが、きのう大リーグのコミッショナーのキューンちゅう人が、七月十四日のオールスターの特別招待選手として、金太郎さんばホームラン競争に呼びたかて小山オーナーに申し入れたらしか。小山さんは、神無月くんを見世物にするつもりはないと応えて撥ねつけたげな。日本野球機構の宮沢コミッショナーと鈴木セリーグ会長も同じ意見で、日本の公式戦の時期と重なるばかりやなく、神無月くん自身が大リーグに関心ばちいとも抱いとらんことが大きかて応えとる」
「うまく代弁してくれましたね。外人が嫌いだと言わないでくれてありがたいです」
 太田が、
「鼻が小さい女は好きなんでしょう?」
「うん。でも、日本人がいちばんだね。戸板さん、ジムの入会金、一万円かかりますよ。だいじょうぶですか」
「だいじょぶです」
「おまえ、渋谷と相部屋やろう。仲ようしとるね」
 江藤に問われて戸板は、
「静(すんず)がなふとだすけ、むんずがし」
 菱川が、
「めしも隅っこで食ってるしな。島谷も四国電力だったけど、おとなしかったな」
「四国電力は都市対抗もパッとせんし、島谷がおったころのベストエイトが最高やなかね。廃部の噂も出とるげな。まあ、今年入った中では戸板の次に力があるけん、そこそこやってくれるやろう」
 谷沢が、
「くどくてすみませんが、ホームランを打つ心構えをもう一度教えてください。野球はマインドが大半を占めるゲームだと思うので」
「ぼくもそう思います。まずボールに食いつくことですね。食らいつくのではなくて食いつくんです。無茶振りや、ヘッドアップでは食いつけません。場外看板に当てるのではなくて、打ち抜くつもりで振ります」
「常人の考えじゃないですね。フェンスだけでも越えようと思ったことは?」
「小学生のころから一度もないです。いちばん遠い目標を越えようと思ったことはあります。とにかく、越えるんじゃなく、打ち抜く気持ちです」
「さ、きょうはゲバゲバば観て、ミットば磨いて寝るか」
 解散。正直、私はすることがない。やはりテレビのスイッチを点けるか。電話が鳴る。
「菊田さまからでございます。おつなぎしますか」
「はい。……もしもし」
 八時に近い。
「もしもし、キョウちゃん、トシです! すごい活躍ね。いつも新聞見てます。テレビはおととい巨人戦をやってたみたいだけど、昼間だったから仕事で観られなかったの。ごめんなさいね。あしたはお休みでしょう?」
「うん。……だいぶ逢わなかったね」
「だいぶといっても、ひと月半です。一月の下旬にきてくれましたから」
 きょうが火曜日であることを思い出した。
「そうか、あしたトシさん、休みだね」
「そうなの。キョウちゃん、きょうは都合はどうですか?」
「ピッタリ空いてる。トシさんも休みだし、ぼくも試合がない。いまからいくね」
「泊まれます?」
「泊まれる。ゆっくりできる。九時過ぎには着く」
 先にセドラのアヤを訪ねようかとふと思ったが、開店中には逢えないとすぐに気づいた。
「急がなくていいのよ。ゆっくりきて。私いま荻窪だし、お風呂入ったりしてちゃんと準備しなくちゃいけないので。福田さんと河野さんに連絡しときますね。河野さんは大学が春休みのはずだからこれると思う。吉祥寺で待ってます」
 まだブレザーを着たままだった。眼鏡を拭い、しっかりかけ直す。大げさではなくまったく性欲はなかった。ただ、ちょうど一週間女体に接していないので、からだが自然と反応してきちんとコトを遂行できるだろうと思った。
 ロビーに降り、フロントに鍵を預け、歩いてスロープをくだる。しばらく思い出さなかった女たちの歓びの表情と声を蘇らせ、遠く離れていた欲望を引き戻す。
 ―接しなければ衰える。イメージすらしなくなる。それは年齢と関係がない。
 カズちゃんに何度もたしなめられたことだ。衰えて許されるからだではない。それでいいとうなずいてもらえない事情を抱えている。自分が積極的に作り出した事情だ。性欲の発作も断続的な鍛錬の賜物にちがいない。わけても〈求められる〉習慣に馴染んだからだは、自分の満足のためにだけ安穏と暮らすからだよりも、勤勉な、丹精こめた鍛錬が必要だ。一定の成果を得るために労を惜しまない鍛練。そうした鍛錬が自分の一瞬の満足のためだけにあるのでないのは、野球の鍛錬と変わるところがないだろう。鍛錬を愛が代替するのはマレな幸運にちがいない。きょうの太田や矢沢も、時おり帰宅する江藤たちも、まちがいなく同じ気組みでいると思いたい。何ごとにせよ現役でいる時代には〈衰えてはいけない〉のだ。衰えは十全な生活に支障をきたす。
 気持ちを引き締めて紀尾井坂をくだり、弁慶橋を渡る。赤坂見附から八時二十三分の丸ノ内線荻窪行に乗る。満員。二分で四ツ谷。一番線から二番線に移動し、八時三十分の中央線快速高尾行に乗り換える。通勤帰りの客で混雑している。適度な群衆に紛れるのは快適だ。快適に搔き分けながら進んで最前車両の運転席の後ろに立つ。電車が動き出す。
 空が青黒く沈んでいる。高層ビルの窓にまだらに明かりが点っている。沿線の建物にほとんど灯りがないので、線路灯や信号灯がまばゆく映える。線路が入り組んできて、ネオンの中へ辷(すべ)りこむ。新宿。背高のビルが左右の車窓に迫る。人びとを載せるホームの数の多さに呆れる。
 電車が出ると濃紺の空が垂れこめる。高層ビルの灯りが遠くなる。親しげのようで親しくない中野駅に到着。人のたむろするホームがへんにまぶしい。ここから親しい街へ入っていく。高円寺、阿佐ヶ谷、駅近辺の民家が中背の商業ビルやマンションにすり替わったような街。荻窪、西荻窪。一直線に延びるレールが、線路灯、信号灯に縁取られる。
 八時五十分。ビルと商店と民家がごた混ぜになった街、吉祥寺に到着。ホームから階段を降り、南口改札を抜けて公園口へ出ていく。閉店した丸井百貨店を見上げながら、井之頭通りを歩く。セドラの小路を遠く見やる。かすかに置看板の明かりが点いている。吉祥寺通りへ曲がり、井之頭公園の裏口を左に見て八丁通りへ入る。駅から七、八分で御殿山の家に到着。
 隣家が取り壊されて更地になっている。生垣沿いに立木が何本か増えていた。


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