三十一

 十二時二十五分。中日の守備練習。二塁への返球だけでやめた。ネット裏から内野二階席の人たちにはプレーの詳細が見えない。かろうじてホームランが見えるだけだ。
 十二時四十分。メンバー表交換。しばらくの静寂。務台嬢の低いトーンのアナウンスが始まる。
「本日は新装なりました後楽園球場にお越しいただき、まことにありがとうございます。読売ジャイアンツ対中日ドラゴンズオープン戦、間もなく試合開始でございます。両軍のスターティングメンバーを発表いたします。先行は中日ドラゴンズ、一番センター中、センター中、背番号3、二番セカンド高木守道、セカンド高木、背番号1、三番ファースト江藤慎一、ファースト江藤、背番号9、四番レフト神無月、レフト神無月、背番号8、五番キャッチャー木俣、キャッチャー木俣、背番号23、六番サード菱川、サード菱川、背番号4、七番ライト太田、ライト太田、背番号5、八番ショート一枝、ショート一枝、背番号2、九番ピッチャー小川、ピッチャー小川、背番号13。つづきまして、後攻は読売ジャイアンツ、一番レフト高田、レフト高田、背番号8、二番ショート黒江、ショート黒江、背番号5、三番ファースト王、ファースト王、背番号1、四番サード長嶋、サード長嶋、背番号3、五番センター末次、センター末次、背番号38、六番ライト国松、ライト国松、背番号36、七番キャッチャー吉田、キャッチャー吉田、背番号9、八番セカンド滝、セカンド滝、背番号12、九番ピッチャー小笠原、ピッチャー小笠原、背番号24。審判は、主審岡田功、塁審一塁富澤、二塁山本、三塁丸山、線審はライト筒井、レフト福井、以上でございます」
 一塁ベンチから出てきた短軀の男が主審富澤に伴われてマウンドへいく。男はラインを跨ぐ前に一礼、跨いでから一礼、富澤の肩をポンポンと叩いてから歩き出し、マウンド上で四方へ礼をした。
「ただいまより千葉茂さんによる始球式を行ないます。千葉茂さんは愛媛県出身の元巨人軍の名二塁手で、打棒ともに揮い、戦前から両リーグ分立後にかけて巨人軍の第一期・第二期黄金時代を好守両面で支えたスター選手でございます。長嶋茂雄さん以前の背番号3でございます。昭和三十三年まで近鉄パールズと呼ばれていた近鉄球団が三十四年に近鉄バファローズと改称いたしましたのは、その年に千葉茂さんが近鉄の監督に就任されたからでございます。千葉茂さんの現役時代の愛称は〈猛牛〉でございました。では千葉茂さん、よろしくお願いいたします」
 千葉は富澤から渡されたボールをグローブに入れ、帽子をかぶり直すと、素早いワインドアップから一連の投球動作をした。手首を利かしたスリークォーターだった。多少山なりのボールがかなりのスピードで吉田のミットに収まった。中は驚いたように空振りをした。大喚声と拍手が内外野のスタンドから上がった。千葉はもう一度四方へ手を振りながら辞儀をすると、スタスタと一塁ベンチへ歩いていき、川上監督とにこやかに握手を交わした。すぐに静寂に戻った。一時三分。
「一回表、中日ドラゴンズの攻撃は、一番センター中、背番号3」
 中がツイストをするように足もとを固める。太田が、
「小笠原の24という背番号は、去年まで若生忠男がつけてたものですよ」
「西鉄のロカビリー投法?」
「はい、去年巨人にきて三勝挙げて引退しました。十五年間で百五勝挙げたピッチャーです」
 中、右足トントンでリズム取り。小笠原、整った形のワインドアップから大きく踏み出し、腕を振り下ろす。真ん中高目やや内角寄りのストレート。見逃し。ストライク。速い! 百五十キロは出ている。
「オォー!」
 喚声が上がる。投球間隔は? よし、焦っていない。二球目、美しいフォームで腕をしならせる。アウトローへパワーカーブが落ちる。空振り。よし。テルヨシの応援をしていることに気づいて、あわてて気持ちを自軍の応援に切り替える。
「ナイス、スイング!」
「さ、利ちゃん、イッパツ!」
 三球目、外角高目のストレート、セーフティバントの姿勢で踏み出すも、ボールがバットにかすらず、三振。中が走り戻ってきて、
「いまのところ全球いい。外角ストレートはナチュラルにシュートして逃げてく。ほんとうのシュートだったかもしれない」
 小笠原は大したやつだ。クセモノ中を仕留めた。高木が二度、三度と素振りをしてバッターボックスに入る。緊張している。いつもよりバットの引きが強い。初球真ん中低目ストレート、ストライク。フロートしている。平松級だ。これは手ごわい。投球間隔がじつにいい。二球目真ん中高目カーブ、空振り。外へするどく逃げた。ウェイティングサークルに向かう江藤が、
「何ば打っちゃろうかのう、金太郎さん」
「初対決は見てみるか、振ってみるしかないですね」
「ほうやのう」
 高木、三球目、外角低目カーブ、ん? スライダーだ。空振り、三振。秀孝に強敵が現れた。
「……は、三番ファースト江藤、背番号9」
 私はネクストバッターズサークルへ向かう。江藤はスッとボックスに入り、いつもの美しい構えに入る。平行スタンス。何もヤマをかけていない。初球内角低目グニャリと曲がるシュート、ストライク。江藤はそのコースをじっと見ている。打てないから手を出さなかっただけだ。テルヨシは同じコースと球種を二度とつづけない。ヤマ張りはむだだ。二球目内角高目ストレート、ナチュラルにシュートしてくる。江藤、胸を反らしてよける。ボール。杉山コーチが、
「ナイスセン! 今度きたら当たってけー!」
 その声は小笠原に届いている。三球目、内角高目にきた。江藤は山内一弘のようにアウトステップして振り出しにかかる。急激に真ん中に落ちた。空振り。ドロップ? 江藤は今度は最初からオープンスタンスに構えた。執拗なインコース攻めなら内角だけを待つ。四球目、内角低目ストレート、振った、当たった。バットが折れた、サード長嶋へハーフライナー。みごとだ。才能が一挙に飛躍したのだ。あの山奥の農家の前でキャッチボールし合った小笠原照芳が、いまプロ野球のピッチャーとしておおきな花を開こうとしている。私は拍手したい気持ちを抑えながら守備位置へ急いだ。
「金太郎、打てそうかァ!」
 レフトスタンドから声が飛んでくる。私は振り向き両腕で×印を作った。爆笑。
「精いっぱいやれよォ!」
「あんたなら打てる!」
 一番高田。極端な引っ張りか流し打ちしかない。小川は真ん中から内を攻めてくれるだろう。ラインぎわに守備位置をとる。初球、小川ヒョイと真ん中低目へお辞儀ボール、引っかけてサードゴロ。テルヨシと好対照だが、全幅の信頼感がある。二番黒江、外角カーブとストレートでファールを打たせ、真ん中高目のスピードボールに詰まらせて私への浅いフライ。三番王、内角高目、内角低目のカーブで空振り、ファールのあと、勝負に出た外角高目のシュートをジャストミートされ、ライト中段へライナーのホームラン。巨人軍私設応援団長の関屋さんが一塁ベンチ上で紙吹雪を撒く。王は外角に強い。これで今年の攻め方が決まっただろう。四番長嶋、ワンスリーから私の前へワンバウンドのヒット。低い痛烈な当たりだった。五番末次、外角カーブ、空振り、スローボール、足もとへファール、内角高目シュート、空振りで三球三振。
 二回表。私の打順だ。異様に大きい喚声が上がる。三塁ベンチ上にも応援団数人が乗っかり鉦太鼓を鳴らす。見たところテルヨシに緊張はない。内角高目を遠慮させるようにヘルメットをかぶらないでバッターボックスに入る。流れるようなフォームで初球インハイへストレートがきた。ボール。すごいスピードだ。少しフロートしている。二球目もインハイ、シュート、ストライク。読む。外角、外角、内角で仕留めるつもりだ。三球目外角低目ストレート、ストライク。やっぱり。五センチほど前へ出る。四球目、外角低目するどいシュート、ベースをかすりそうだったので手を出す。三塁スタンドへファール。私への苦手意識をなくすなら次はインローだ。ロジンバッグに手がいく。ようやく彼の緊張が高まった。インローへ直球か変化球か。ハナから低く入ると、どちらもやられる。真ん中高目と見せてインローへ落とすと踏んだ。顔のあたりにさしかかったときに振り抜く。ツーワン。五球目、外角! 吉田ジャンプ、ミットを弾いてバックネット前へ転がった。大拍手。いままで声の出なかった味方ベンチから、
「金太郎さん、軽くいっちゃって!」
「蛇に睨まれた蛙だよォ」
 ロジンバッグ。ツーツー。インローは回避したようだ。一年がかりの勝負と考えて先延ばしにしたのだろう。もう一度アウトハイだ。さっきはシュートが流れたから、今度こそ落とす。六球目、外角高目! 落ちろ! 落ちない! ストレートだ。半歩踏みこみ、かぶせて打ち抜く。振り遅れたが、左中間上空へいい打球が伸びていく。高田と末次が見上げる。左翼照明灯の支柱の広告〈松坂屋〉の屋の字にボールが衝突するのと森下コーチとタッチするのと同時だった。王がミットで私の尻を叩き、
「ナイスバッティング!」
 左中間まで走っていった福井線審がゆるゆると白手袋を回している。球場を揺るがす歓声。速足で走る。
「ナイスミート!」
 長嶋の甲高い声。水原監督と抱擁。どよめく嘆声。
「ダークダックスと孫が観にきてたんだ。ありがとう」
「はい!」
 歓迎の列、タッチ、タッチ。ホームイン。大沼所長たちに手を振る。ネット裏からいっせいに拍手が上がる。ベンチに駆け戻り、タッチ、抱擁、タッチ、抱擁。
 小笠原はめげることなく、つづく木俣を三振、菱川をライトフライ、太田を三振に切って取った。
 二回裏。国松三振。吉田セカンドゴロ。滝センター前ヒット。テルヨシ三振。
 三回表。一枝ど真ん中の速球をこすってキャッチャーフライ。小川茫然と三振。中内角高目のスライダーをこすってファーストフライ。
 三回裏。高田ライト前ヒット。黒江セカンドフライ。王4―6―3のゲッツー。
 四回表。高木内角胸の高さのストレートをからだの回転で打ってレフト線二塁打。江藤肩口から落ちてくるカーブを叩いてサード強襲内野安打。ノーアウト一、二塁。テルヨシの踏ん張りどころだ。私はツーナッシングから外角低目のシュートを屁っぴり腰で掬って左中間へ深いフライ。高木三進。ワンアウト一、三塁。木俣のセンター前へ抜けそうなゴロを黒江がかろうじて抑えて江藤を二塁封殺、その間に高木生還。二対一。菱川内角速球に詰まってピッチャーゴロ。
 四回裏。長嶋センター前ヒット。末次三振。国松ライト前へ痛烈なヒット。吉田私の前へゴロのヒット。勢いをつけて前進し、ノーバウンドの滑空バックホーム。長嶋三本間に挟まれタッチアウト。沸き上がる喚声。沸き上がる歎声。ツーアウト一、三塁。関屋さんの平太鼓が激しく鳴る。八番滝。小川速球勝負。ツーツーから三振。
 五回表。七番太田。ようやく外角速球にタイミングが合ってライト前ヒット。一枝内角シュートに詰まってゆるいサードゴロ。太田二塁封殺、一枝はセーフ。小川空振り三振。その瞬間一枝盗塁、あわてた吉田の送球がワンバウンドでセンターに抜ける。一枝三塁へ。ジャイアンツのキャッチャー森に交代。中外角シュート攻めでサードライナー。
 五回裏。テルヨシに代打が出る。
「小笠原に代わりまして、バッター柳田、背番号62」
 主人たちと去年二軍戦を観にいったとき目についた左バッターだ。寝かしたバットからするどい当たりを飛ばしていた。通称毒蝮。見れば見るほど毒蝮三太夫に似ている。小川さん、こいつは危ないよ。あの構えからして内角高目はツボだ。外へ、外へ、低く、低く逃げるように投げないと一発食らう。と思っていたところへ内角高目にいった。ダウンスイング一閃、やられた。低い弾道であっという間にヘラの上部に突き刺さった。二対二の同点。一塁側スタンドがドンチャン騒ぎになる。紙吹雪。関屋さんの団扇の舞。
 一番高田。調子づいて私の前へゴロのヒット。出た。黒江送りバント。王敬遠気味のフォアボール。仕方ない。長嶋私の前へ痛烈なツーバウンドのヒット。三塁の菱川へ一直線の返球をする。高田自重してワンアウト満塁。末次ツーワンから速いシュートに振り遅れてピッチャーゴロ。高田還れず。国松内角高目の速球を振って三振。
 トンボが入る。
「読売ジャイアンツ、柳田に代わりまして、ピッチャー川藤(かわとう)、背番号45」
 水原監督がベンチメンバーに、
「ここから総とっかえをしていくつもりだったが、あと一巡このままいく。このピッチャーから大量点を取ってください。小川くんはもうワンアウトだけ投げてよ。ここで点を入れてかならず勝ち投手になってもらうから。小野くん、継投の準備をお願いします」
「おいす!」
 小野はブルペンへゆっくり向かった。新宅が、
「あのブルペンさあ、荷物を運ぶやつが通れるようにするために、キャッチャーの右足側が下がってるんだ。あれひどいんじゃない?」
 木俣が、
「それだけじゃないぞ。内野に天然芝というのは考えものだ。夏場に水を撒いたあととか雨上がりとか、とにかく滑る。ボールが跳ねないでツルッと滑るんだ。おととしだったかな、試合前のノックで外野からの返球を受けてたとき、捕り切れずに後逸しちゃってさ。振り返ったら、石切りみたいに滑ってった。この球場、バックネットの両サイドにドアのない関係者入口があるだろ。すぐ階段になっててさ。よく人が上り下りしてるんだよ。悪いことにボールがその勢いのままそこへ飛びこんじゃった。焦ったぜ。頭に当たりでもしたら大事故だからな」
「当たったの」
「当たらないでうまくすり抜けていったみたいで、どっからきたんだ! って怒鳴り声がしたけど、知らん顔してた」
「外身だけ整えて格好つけるから、そういう不具合が出るんだよ。中日球場がいちばんだな」


         三十二

 高木が川藤の投球練習を見守る。大きなサウスポーだ。私は太田に、
「どういうやつ?」
「四年目の二十三歳。今年千田とのトレードでロッテからきた変化球ピッチャーです。シュート、カーブ、フォークが武器。悪い膝を庇って投げるので、ストレートに球威がありません」
 相変わらずの博士ぶりだ。高木が聞き耳を立てている。
「フォーク、落ちないな。ま、フォークより、入ってくるカーブを狙うか」
 新宅と木俣の話はつづく。
「去年までの後楽園のブルペンもたいへんだった。木俣はあまり経験ないだろうけど」
「あるよ。内野のファールグランドはフェンスの低いスタンドが迫ってて、金網もない。客はゲームに夢中でこっちを見向きもしない。ワンパンがきたらからだをかぶせて抑えてたよ。暴投になったら大ケガだ。幸いうちのピッチャーはコントロールがいいから、暴投はなかった」
 六回表。高木がバッターボックスに入る。打つ、と背中が言っている。変哲のないオーバースローからの初球、しょんぺんカーブ、絞った手首でドンピシャで打ちひしぐ。左中間中段へ一本筋。進撃開始。
 江藤、しょんべんシュートをのめって打って、右中間スタンドへ一本筋。タッチと抱擁の儀式が繰り返される。川上監督がのしのし富澤に近づき、
「ピッチャー、渡辺!」
 いよいよこれでテルヨシは巨人の三本柱の一本となった。それを確実にするために、このピッチャーも打っておく。首にタオルを巻いたテルヨシがベンチから私を見つめている。バッターボックスに入る。三匹目のドジョウを期待する声援が高まる。渡辺の得意球は速球とスライダーだ。特に内角にくる。ボックスの右前隅に思い切り出る。ベースから遠くなるが、変化前にインコースに入ってくるボールを真ん中のコースの感じで叩ける。かならずどちらかがくるので、ぜんぶ振る。私の構えを見て外角を攻めてきたら屁っぴり腰でいく。初球、やっときょうお初のインコース低目がきた。真ん中低目のボールがスライドして内角に入ってくる。ベースをよぎらせるその場所は私のど真ん中になる。気分よく叩き上げる。伸びていく。ライトの横長照明灯の下の看板に当たる。タッチと抱擁。
 五番木俣。真ん中高目の速球を蠅のように叩き下ろす。これまたレフトスタンドの看板直撃、四者連続ホームラン。タッチと抱擁の儀式。
 六番菱川。打ちそうな気配だ。外角スライダー、ライト中段―そのイメージが見えたとたん、内角にストレートがきた。やばい。
「オオー!」
 セーフティバント! これは予想できない。してやったり。長嶋あわててダッシュ、アンダースローで矢のような送球。クロスプレイ。セーフだろう、いやアウトか? アウト! 三塁ベンチからため息ではなく、割れんばかりの拍手が上がった。杉山コーチが、
「よくやった!」
 一枝が、
「気持ち、もらったぞ!」
 江藤が、
「タコ、代わりに打っちゃれ。ヒシの志をむだにしなすなや」
「オシャ!」
 初球、菱川にイメージしたとおりのボールをイメージどおりのスイングで太田が叩いた。外角スライダーをライト中段の通路へ! タッチと抱擁の儀式。五点差。もうだいじょうぶだろう。ピッチャー交代。高橋一三が出てきた。最後まで投げるだろう。
 ワンアウト、ランナーなし、バッター一枝。ストレート、ストレート、シンカーで、意気ごみ空しく三振。九番小川。スト、スト、ストで空振り三振。
 六回裏。中日の守備陣がピッチャーを除いて全員代わった。務台嬢の放送が長々とつづく。谷沢の名前が流れたとき、多少拍手が上がった。今年のドラゴンズの予備戦力を見定めようとしてか、三塁側スタンドで腰を上げる客はほとんどいなかった。
 巨人のバッターは七番森。私の記憶では、片手打ちダウンスイングのヒットメーカーだ。柳田と同様、内角高目を避ければいい。わかっていてもそれをしないのが小川だ。初球の内角高目をライト前へ弾き返される。ワンアウト取ったら交代のお達しだ。一点ぐらい取られてもいいから、少しでも長くピッチングを楽しみたいのだろう。森の代走に梅田という痩せっぽちが出る。八番滝の二球目に盗塁。センター前ヒットで生還した。七対三。小川はホッとした表情で、ピッチャー高橋一三を三振に取りマウンドを降りた。小野が出てくる。小野はビュンビュン速球で押して、高田、黒江を三振に切り取った。
 七回以降九回までドラゴンズはオシャかだった。一番の日野から始まり二番坪井、三番江島、四番谷沢、五番江藤省三、六番新宅、七番千原、八番伊熊とつづく打線は、谷沢の右中間前列に打ちこんだソロホームランを除いて、ことごとく凡打に打ち取られた。
 七回からの小野は速球のほかにドロップカーブを多用し、王から始まる九人の打線を完封した(滝と高橋一三の代打に、今年かぎりで引退すると発表したベテラン森永と、中商時代に木俣の先輩だった相場が出たが、二人ともあえなく三振だった)。小野は完全復調で最後の花道を歩み出した。
 三時四十四分試合終了。七対三、勝ち投手小川、負け投手川藤。
 報道陣の押し寄せる中、もう一度ネット裏の大沼所長たちに手を振った。彼らは満面の笑顔で手を振り返した。また十一月にと両手の指を一本ずつ立てたが、意味が分からずVサインと誤解したようだった。
 水原監督と小川以外だれもインタビューを受けなかった。
 二人を待って、ホテルバスで引き揚げる。これが何年もつづくのかという嫌悪感や失望はない。人間はどんなことにも順応できる。繰り返しているかぎりは……。人間には繰り返しが必要で、それがなくなると、正気を失いはじめる。昼夜の区別や、食料や水がなくなったと考えるとよくわかる。自分はおかしくなったと自覚してしまい、根性で正気を保とうとしても叶わない。繰り返しは痛みではなく、生きるために必要な心地よい時間だ。ゆっくりと死に近づいていることを知る陶酔の時間だ。……ただ、繰り返すことで油断し、疑わなくなる。
「いい新人が現れたね。小笠原くんか。尾崎くんの球質に似ている。堀内も顔色なしだった。一、二年したら筆頭のエースだ。大事に使われることを祈るよ」
「ありがとうございます」
「金太郎さんの友人だったね。潰さないよう大事に使うように川上くんに言っといた」
 フリーバッティングのとき話していたのはそのことだったのだ。
「さあ、次は下町南千住(せんじゅ)の東京球場だ。昼めしは弁当持ちこまなくていいよ。選手食堂が銀座の一流店並みだからね。うまいもの食って五連勝といこう」
 監督は浮きうきとしゃべる。私は太田に、
「東京スタジアムは光の球場って呼ばれてるけど、どのくらいの明るさなの」
「千六百ルクスです。ほかの球場はわかりませんが、千五百ルクスから千七百ルクスでしょう。どこの地元っ子もうちがいちばん明るいと思ってるようです。川崎のおばちゃんも川崎球場がナンバーワンだと言ってましたしね。一般家庭の明るさはだいたい三百ルクスなので、たしかにどの球場も光の球場ですよ」
 中が、
「だいたい内野が千ルクス、外野が七百ルクスと決まってる。それ以上になるとかえってボールが見えにくくなる」
 宇野ヘッドコーチが、
「昭和二十三年、私が巨人に入って二年目、プロ野球ナイター記念日になってる八月十七日に、プロ野球初のナイターが横浜ゲーリック球場で行なわれたんだ。奇しくも巨人―中日戦だった。新米の私はベンチ観戦。きょう始球式をやった千葉さん、それから川上さんと青田さんが出てたな。照明の明るさは百五十ルクスくらいしかなくて、ボールがよく見えなかったな。青田さんが顔面にデッドボールを食らって退場したよ。大したことにはならなくて、青田さんはその年に首位打者とホームラン王を獲ってる」
 水原監督が、
「私は二十四年にシベリアから戻ったからその試合は見てない。川上の打球がホームランか二塁打かでもめたそうだね。結局どうなったの」
「二塁打になりました。外野は暗闇でしたからね。練習で拾い残したボールは転がっているし、危険この上なかったですよ。それでもすごい人気で、空前の超満員と新聞に書かれました。客席に入り切れずにファールグランドで観戦してた人も相当いましたから。映画四十円の時代に百円も入場料を取ったのにですよ」
「野球はいくら高い金を出しても観たいスポーツだからね。特殊だよ」
 中が、
「ふつうにプレイできるほど明るくなったのは、昭和二十五年に後楽園球場にナイター設備ができてからですね」
 四時二十五分ニューオータニ着。沿道に居並ぶ人たちの歓呼と拍手とフラッシュに迎えられてロビーに入る。ホテルの従業員たちがお辞儀をしながら拍手する。フロントで北村席から届いていたドリップセットを受け取る。
 めいめい部屋に戻ってユニフォームを脱ぎ、シャワーを浴びる。私はシャワーの前にユニフォームをビニール袋に入れてフロントへ持っていく。それから部屋に戻り、アンダーシャツとソックスを湯洗いし、浴室の紐に干す。新しいのを持ってきているのでこんなことはする必要がないのだが、今年からは送り返すにしても汗は抜いておきたいという気持ちになっている。下着はそのまま送り返す。帽子の縁を石鹸で洗い、脱衣場のタオル棚に置く。中にタオルを一枚詰めて頭頂を上にして置く。それからシャワーを浴びる。
 サッパリしたら散歩に出たくなった。ネネからも吉祥寺からも連絡はない。ネネは職場を退いて、北海道の息子のもとへ、たぶん同居でもしにいったのだろうし、吉祥寺は仕事と勉強で忙しいのにちがいない。電話があれば、迎える心の用意も、出かけていく精力も残している。ただ、積極的に求めてはいない。繰り返される再会の挨拶に肉体を使い合う習慣に食傷した。学校の教室や校庭で友に会うようなすがすがしさが欲しい。
 肉体を握手代わりにする再会を新鮮だと感じる女はかぎられている。二人だけだ。カズちゃんと睦子。……彼女たちは根本的に肉体がない。ぼんやりとただよい、やさしく包みこむ大気だ。彼女たちは、昼夜の区別が立たないことや、食料や水を得る習慣を失うことに恐怖がない。日ごとの繰り返しはけっして心地よい陶酔ではなく、痛々しい営みだと感じていて、常に油断なく痛みの感覚を失わないようにし、痛みを陶酔と錯誤させるものを疑っている。つまり、自分という存在の本質が感じる〈不調和〉を習慣の一要素として宥和(ゆうわ)させずに、習慣の外の心すべき貴重な突発事と考えている。―新鮮な人たちだ。
 ジャージを着てロビーに降りる。ニューオータニのレストランはどこも高いので、ふらりと玄関を抜けてスロープを下り、紀尾井坂に出る。坂をくだっていくが、食い物屋らしき店は一軒もない。紀尾井町通りをくだり、弁慶橋を渡る。ない。結局会食会がないかぎり、ホテル内で高いめしを食うしかないとわかった。江藤たちとタクシーを飛ばして近辺のめし屋へいくのも億劫だ。
 ホテルのロビーに戻り、いつも腰を落ち着けるラウンジの喫茶コーナーの回廊を奥までいき、舟屋という下町風のメニューをケースに展示している店を発見する。朝食は七時から十時、ランチは十一時半から二時、ディナーは五時から十時までとなっている。値段も五百円から千円前後と手ごろだ。ラウンジの奥まで歩いたことがなかったので、一年間この店に気づかなかった。一人で食うときは、一年間すべてこの店で賄えそうだ。
 店に入る。広い空間。三十卓余りも整然とテーブルが並んでいる。江藤ら外食組を除いて、チームの仲間たちはたいていサツキか大観苑か最上階のビュッフェに食いにいくので、一人も見知った顔がいない。二十人ほどいる客はすべて宿泊客だ。これはいい。何人か驚いて見つめるが、一時的なものなのでかまわない。サーロインステーキ二百五十グラムにライス大盛、それに食後のコーヒーを注文する。計千三百円。ニューオータニにしては極安だ。ここで二千円食うのは至難だろう。ふだんみんなは三千円から五千円の値の張る食事をしている。私もこれまでそうだった。とど、給料から引かれることになるので不経済この上ない。大食いの太田たちにも教えてやろう。
 ステーキは安いのに美味だった。腹もふくれた。発見。何日でもかよってこれる。まだ六時。本格的に散歩に出よう。玄関前のタクシーに乗り、東京タワーへと言う。
「はい。承知しました。十分くらいで着きます」
 スロープをくだっていく。
「タワーは何時までやってますか」
「午前九時から午後十一時までです。最終の入場時間は十時半です。地下駐車場のエレベーター口でお待ちしてます。先ほど江藤選手たち六人ほどが二台で溜池のほうへいきましたよ」
「焼肉屋かラーメン屋ですね。江藤さんは食通ですから。タワーの模型を土産に買って戻ってくるだけですから十五分ほどです」
「土産物屋は塔の足もとのタワービルの二階にあります。普通の階段でいきます。展望台に昇るのはタワービルの屋上の五階からです」
「名古屋テレビ塔で経験ずみなので昇りません」
 弁慶橋を渡り、ビル街のアスファルト道を走る。
「この通りは?」
「都道405号線です」
 赤坂見附駅、溜池山王駅。
「江藤さんたちはこのあたりのどこかですね。ビルばかりだけど」
「どこかの裏小路でしょう」
「外堀通りです」
「はあ」
 外堀通りとぶつかった交差点から右折する。しばらく無言。
「このあたりは麻布通り、飯倉に向かってます。その谷町の二叉路を左へいきます」
「はあ。道を覚えるのは特殊な才能ですね」
「才能じゃないと思いますけど、車好きじゃないとなかなか覚えませんね。野球もそうだと思います」
「そうですね」
 きのうニューオータニにくるときに通ってきた道だ。麻布小学校を左折。
「外苑東通りですね」
「はい。……ただ、野球は好きでプロ野球選手になっただけじゃだめで、とんでもない才能がないと人に見てもらうほどの選手にはなれません」
 黙っていた。そのとおりなのだが、とんでもない才能で抜擢される選手など一握りの中の一握りだ。この世には才能があるだけでは勝ち残れない、運九分のような世界が厳としてある。


         三十三

「右がロシア大使館です」
 指差すがどの建物かわからない。ただそのあたりから直線路の前方正面に紅白まだらの東京タワーがクッキリそびえていた。
「東京タワー通りです」
 飯倉の信号を抜け、坂道をくだって登る。
「この先が芝公園です」
 緑の木群れがだらだら坂の下に見えている。東京タワーの足もとを通り過ぎて、ゆるい坂を右へ迂回する。
「最後にホテルで清算します」
 と運転手が言うのを聞かず、三千円を払って降りる。
「あとでとか、最後にというのが性に合わないんで」
「そうですか。十分ぐらいたったら、通りの向かいの駐車場でお待ちしてます」
 ジュース類の自販機が並んでいるドアへ向かう。一階入場口は坂下にあるようで、私が入ったのは二階の入口だった。入場券を買う。ただ入るだけで三百五十円。高い。大して歩き回らずにミニチュア模型の売り場が見つかった。ガラス容器の中にジオラマを入れて雪を降らせるもの、プラスチックケースの中に紙の背景を貼りつけてその前方に模型のタワーを置いたもの、背景なしのもの、そういうケース物はいかにも東京観光にいってきたと言わんばかりに、タワーの脚もとに東京タワーと書いたミニ看板が刺してあった。組み立て部品が箱に納められたものもあった。対象年齢六歳以上となっている。ブロック組み立てのものもあり、箱に十二歳からと書いてあった。結局、振りふりすると雪が舞い落ちるスノードームを買った。四百円也。塔を出て道を渡り駐車場にいく。運転手は入口に立って待っていた。すぐに引き返して車を出してくる。
「いいのがありましたか」
「ありきたりのスノードームになりました。いい置物になりますよ」
「知り合いのお子さんですか」
「はい……。まだ三歳にもならない子です。約束したもので、きのうから気にかかってたんです。安っぽいものですけど、約束を守ったということのほうを喜んでくれるでしょう。帰りましょうか。ついでにそこの芝公園とやらに寄っていきましょう」
「そうしますか」
 ビルに灯が点りはじめている。振り返ると東京タワーが夜空にオレンジ色に浮き上がっている。芝公園駅側の駐車場にタクシーを停める。港区立芝公園の標示石のある場所から東京タワーを見やりながら石畳の遊歩道を歩き、土の遊歩道を歩く。赤い増上寺の殿舎の群れが大きな区画を占めている。細道を歩くと、小公園がいくつもあり、この公園が短編小説を接ぎ合わせて作られた長編小説のような造りになっているとわかる。人出を見こんで夜店まで出ている。
 細道はほとんど上りで、芝公園が高台にあると知れる。犬を散歩させている人が圧倒的に多い。人混みを避け、鬱蒼とした黒緑の中へ入る。石垣沿いの狭い石階段をひたすら登っていく。
「散歩がお好きだそうですね」
「いつも発見を楽しみにしてますから」
 踏み固められた土の道に出る。また小公園のような空間。薄闇の中に石碑が建っているが見ない。処々に小さな赤鳥居。
「何の発見もないですね」
 全体がどこか気取っていて、東京タワーと増上寺の付属公園の立場に甘んじて遊興場になっているせいか、木群れの下を歩いても熱田神宮のような深々とした暗い趣がない。
「どの入口から入ってもこの造りのようですね。出ましょう」
 石段を下りる。すぐに大通りに出る。車に乗り、窓明かりの灯るビル街へ帰っていく。
「東京は公園まで都会の風に毒されてる。金のにおいばかりただよってくる」
「世の中すべて金と言いますけどね」
「無機的にはすべて金で流動してるけど、金だけでは有機的に落ち着かない」
「物質と精神ということですか?」
「はい。物質は狂わず動くことが基本でしょうけど、精神はその基本にそぐいません。最大の証拠は、愛情です。愛情は物質で余儀なく流動させられることはあっても、物質で落ち着かせることはできない。お子さんに金を貯めることより、友人を貯めることを教えたいでしょう」
「はい、そのとおりですね」
 殺伐とした街並。何を語っても、だれの願いの一言一句も、この堅固な街並に降る雨の一滴にすぎない。私は笑いながら、
「まあ、つべこべ言わずに、おたがい好きなように生きていきましょう」
 運転手は車の流れや対向車のライトを瞥視しながらハンドルを動かす。
「神無月選手の年俸はすさまじいですよね。その金で神無月選手が贅沢に暮らしてるという噂が一向に流れてこない。親族をはじめとして、ほとんど周囲の人たちに施していると聞きました。……神無月選手にとって、金って何ですか」
「自分や他人の生命維持をラクにさせるものですね。人は自力で生きようとしますが、それには限界がある。うまくいかなくなるのがふつうです。この金融社会で狩猟採集で生活できる環境にある人は数百万人に一人でしょう。生まれながらに生活の保証をされている人以外、ほぼ百パーセントの人がうまくいかない。うまくいかないところを金の力で補って円滑に生活しようと努める。それが金の効能で、それ以上の効能は本来必要のないものです。たくさんあればたくさん効能を果たす、少なければ少ないなりに果たす。年俸の大小はその行動の哲学に影響しない。金が権力を目指さなければ、当然そうなります。それが正常です。正常な行動をとる人が少ない社会でなんとか生きていくためには、ぼくは周囲の人たちだけにでも自分が正常だと信じる行動をとりたいんです。彼らのおかげできょうまで生きてこられたなどというきれいごとじゃなく、この世にはぼくよりも救われるべき価値のある人が確実にいると信じてるからです。金でもからだでも役立つならばいくらでも役立てます」
「まるで牧師ですね」
「いいかげんでない人たちですか。そういう人も団体宗教の枠にはめられると、えてして富と権力の人になりがちです。人間、独り身のいいかげんさは残しておかないと」
「感動しました。……私、一生、神無月選手を応援します。どうか一年でも長く球界に貢献なさってください」
「がんばります」
「インタビューでもふだんからそのひとことですね。きょうはそのひとことの意味が痛いほどわかりました。すみません、そのひとことをサインでいただけますか。ニューオータニに着いたら色紙にお願いします」
「はい」
 コンクリート仕立ての粗末な街並にネオンだけは美しい。文化が発酵した輝きだ。死を忘れるな。いまを楽しめ。その思想の爛熟した輝きだ。―死も、いまも、忘れよ。愛する者とのみ、永遠を万感の思いで共有せよ。
 外堀通り。ビルの窓明かりに包みこまれる。溜池。名前の由来を訊けば、運転手は得々としゃべり出すだろう。そのむかしほんとうに池があったとかなんとか。今池の話を繰り返し聞きたくない。何が存在したにせよ、すでに潰してしまったのだ。なぜ潰したのかと訊けば、外堀という単語を出しながら、〈金の進出〉の説明になるだろう。聞きたくない。
 日枝(ひえ)神社を過ぎる。赤坂見附の交差点。弁慶橋。七時半。帰ってきた。
「往復、待ち時間も入れて、千四百四十円しかかかってません。玄関に着いたら清算します」
「それはタクシーが働いた物理的値段でしょう。ぼくたちは一時間も会話を交わしたんです。あなたはすばらしい応答をしてくれました。その対価が支払われなくなります。取っておいてください」
「はい」
 スロープを登って玄関につける。運転手は色紙とサインペンを差し出した。
「いつもここの玄関と都内各所を往復してます。轟と申します。車が三つ。車に縁があるんですね」
 私は後部座席に座ったまま、がんばります、と大書し、文江サインをして、左に、轟さんへ、それから日付を忘れずに添えた。
 プロ野球選手……。サインをするたびに恐ろしくなる。サインをすれば、自分が何者なのか認めないといけなくなる。自分に対してだけでなく、他者に対しても。
 何者……戦わなかった記憶がない。戦いの記憶しかない。戦争やヤクザ者の出入りのように黒くはない。灰色だ。灰色の戦いに染まった記憶。フィールドでだけ、灰色に淡い青が混じる。色紙を差し出すと、運転手は振り返り、押しいただいて深く辞儀をした。
 ドリップセットの小包をフロントで受け取り、スノードームの郵送手続をすます。仲間たちの部屋番号を確認する。先回とちがって背番号どおりなったと教えられる。一号室は高木、二号室は一枝、三号室は中、四号室は菱川、五号室は太田、八号室は私、九号室に江藤が入った。木俣は背番号23の2と3を掛けて6号室だという。6は日野の背番号だが、五階にレギュラー全員納めるためにはいたしかたない。きのう到着して以来、たまたまだろうが、廊下でレギュラーのだれにも遇っていない。
 売店でバウムクーヘンを買う。八号室に戻り、フィルターでサントスをいれる。いい香りだ。机に向かう。ジャン・クリストフ。
 何の愛の記憶も残さないまま、ザピーネがインフルエンザで死んだ。形見に彼女の手鏡がクリストフに残された。子供は親族に引き取られた。この唐突さは何だろう。周囲への関心の薄さ(クリストフは関心過剰で感情過多な人間に描かれるが、その言動から嘘っぱちだとわかる、作者のミスだろう)。周りへの関心を希薄にして生きるのはラクだ。だれのことも考えず、いろいろな感情から逃げ、自分の心配だけをする。惨めな人生だが、ラクだろう。クリストフはラクな人生を送っている。彼に魅力はない。いずれにせよ一つの恋が終わった。クリストフはまだ童貞だ。ロマン・ロランの意図がわからない。壮絶な道徳観の持ち主ではないのか。それはもう芸術家と呼べない。
 青年、二、読了。九時過ぎ。なぜ読んでいるのかわからない。なぜかわからないことは継続する。あしたは一日休みだ。しかしあしたは読まない。寝て、走って、食って、寝ている。
 乾きかけの帽子を浴室のドアノブに掛ける。グローブとスパイクを乾拭きする。二本目のバットのフィルムを剝がし、ベッドの床頭に立てる。ベッドに横たわり、テレビを点ける。日曜洋画劇場をやっている。『戦場を駆ける男』の日本語吹替版。初見。コーヒーをいれ、バウムクーヘンを食いながら観る。昭和十七年の戦意高揚狙いのアメリカ映画のようだ。敵はナチス。スパイ大作戦ふうの特殊任務物と見えて、じつは任務に頓挫して捕らえられた男どもの脱走物。最初の飛行士を除いては一人ひとり死んでいくという悲劇性がないので、痛快な気分だけが残る。『大脱走』のシリアスな展開にはいまひとつ緻密さで及ばないが、娯楽性は肩を並べる。
 十一時。満足して、歯を磨き、寝る。
         †
 三月九日月曜日。七時半起床。晴れ上がった天気だ。雲もほとんどない。うがい、軟らかな快便、尻シャワー、歯磨き。ジャージを着ているときドアを叩かれる。
「遅かぞ。一人で走るつもりね」
 あわててドアを開け、
「すみません、のんびりしてました」
 五階のメンバーが立っている。戸板と谷沢も加わっている。いつもと同様中はいない。太田が、
「別のルートを考えました。外濠のほうじゃありません。玄関スロープから上智大学沿いに走って国鉄四谷駅を通過し、国道20号線を新宿御苑入口まで走るコースです。新宿駅まではいきません。ちょうど二・五キロ、往復五キロです。人混みにぶつかっても三十分くらいでいって帰れます」
「いきましょう!」
 七時五十五分出発。太田を先頭に、上智大学の校舎と区画堰(せき)の緑に挟まれた細い閑静な道を走る。堰の桜はまだ咲きだしていない。いつかタクシーで帰ってきたときに眺めた紀尾井ホールが十字路の遠くに見える。道を抜けると麹町六丁目の信号に出た。新宿通り。左折。広い歩道が整備されている。四谷駅前の信号。国鉄の陸橋を渡る。みんな歩幅に気を配り、自分なりの走りを有効にしようとしている。私は、横を走る谷沢に、
「高橋一三から打ったホームランの感触はどうでした」
「最高でした。直球に絞ってましたから、カーブ、ストライク、シンカー、ボールと見逃して、ストレートが真ん中低目にきたのを思い切り叩きました。低い弾道であんないいホームランを打ったのは初めてです」
「中段に刺さりましたね。低目なのでスムーズにバットが出ました」
「沢村賞投手から打てるなんて、自分でもびっくりしました。高目だったらあの球威に押されていたと思います」
 木俣が、
「おまえ、ローボールを打つのがじつにうまいよ。ローボールを打てるのは先天的なものだ。ハイボールは実戦を積めば自然と打てるようになる」
 整然としたビル街に入る。四谷小学校前。ビルの秩序立った並びは崩れない。私は東京の長い谷沢に、
「四谷・新宿の街ってこんなに整っていましたっけ」
 高木が、
「乱れるのは新宿駅近辺だけだよ。池袋もそう」
 四谷三丁目。四谷四丁目。ビルの背と厚みが不揃いになってきた。人が増えてきたせいで歩道が走りにくくなる。新宿一丁目西の信号を左折。百メートルほど先に、こんもりとした緑を背景に新宿御苑の入口が見えた。みんなで足踏み。太田が腕時計を見て、
「七時三十四分。ここまで十四分です。引き返します」
 二分ほど徒歩で帰路につく。通勤の人並が繁くなっている。鈴木旗店という古看板が目についた。旗、幕、伴天、暖簾、のぼり、と赤い垂れ幕に染め出してある。こんな店もあるのかと驚く。商会、商店という看板が多く、碁盤店というのもある。新宿駅界隈と異なり、老舗が軒を並べる街区のようだ。走り出す。




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