二十五

「宮中あたりで、そろそろ昼めしどきになったね」
 睦子が、
「はい、甲羅というカニ料理屋さんは高そうだったので、熱田駅まで歩いて、神宮商店街の蕎麦屋さんで五目ソバを食べました。それから、一度法子さんのお母さんがやってるノラという店を見て、神宮日活を見て、牛巻坂を歩いて牛巻病院へいきました。チラッと中を覗いて帰りました。郷さんて、ものすごく広い範囲を歩き回ってたんですね」
「うん、子供は」
「距離を気にしないから」
 そう言って睦子はやさしく笑った。ヒデさんが、
「野辺地、横浜、名古屋、東京……。私は十六歳まで、野辺地の種畜場と野辺地中学校の周りしか知りませんでした。郷さんとは行動する世界の広さがちがいすぎてたんです。行動といっしょに心も拡がる。これからはうんと世界を広くしていきます」
 睦子が、
「私もそう感じてから、東京、名古屋と、何の抵抗もなく動き回れるようになったわ。まず郷さんの宇宙の広さに入りこまないと、その広さで動き回れない」
 あの広大なあやうい冒険の時代は終わったのだ。頭の中にあるだけだ。
「いま歩くのは猫の散歩道。小さな世界で暮らしたいから」
「それは外見だけのこと。郷さんは変わってません」
 ヒデさんが、
「中身が見えないように蓋をしてるだけ。私たちには蓋が透けて見えます」
 菅野が、
「キッコはどうしていっしょにいかなかったの」
「これ以上深く神無月さんのことを知ったら、これからうんと知る量が削れてまうような気がして」
「それはないでしょう。好きな人のことはもっともっと知りたいものですよ。たくさん知ったからといって、これから先、知る量が減るとは思えないなあ」
「……うん、ほうやと思うわ。あたしの考えすぎやった。ごめんな、みんな」
 睦子が、
「いいのよ、キッコさんの気持ちもよくわかるから。私は郷さんのことで心もからだもパンクさせたいくらいなの」
 千佳子とヒデさんも明るくうなずいた。私は、
「帰りも市電?」
「はい、神宮前から名鉄に乗ればアッという間に帰れるんですけど、せっかく市電巡りを計画したわけですから、一路線でもたくさん乗ろうって話し合って」
 千佳子が、
「内田橋から沢上町まで熱田線、沢上町から八熊通まで八熊東線、八熊通から柳橋まで下江川線と水主町延長線、あとは栄町線と笹島線で名駅まで帰ってきました」
「いい旅だったね。自由な心がないとなかなかできることじゃない」
「神無月さんも、お父さんと菅野さんと三人で北のほうを探索したんでしょう?」
「うん。付き合ってもらった。名駅から那古野、菊井町で曲がって、名古屋城を通り、平田町、赤塚、徳川町、大曾根、上飯田までいった。路線のことはぜんぜん気に留めてなかったけど、楽しかった。帰りはタクシー」
「あれはひさしぶりに子供の気持ちに戻った」
「私もですよ。ただ市電に乗るだけなんてやったことありませんでしたから」
 トモヨさんが帰ってきた。
「雪が止みましたよ。上天気。もう少ししたらおいしいお昼ごはん作りましょうね」
 居間の女将のところにいって、カンナを抱き取る。幣原が厨房から出てきて、
「秀子さん、お部屋決まりました?」
「はい、最初のお部屋に。最高です」
 キッコが、
「荷物はいつ送ってもらうん?」
「やっぱり、二十日過ぎに一度戻ってから」
 睦子が、
「もっと早く帰っておいたらどうかしら。二十日の一週間くらい前に。水入らずの時間をそのくらい持てば、ご両親も納得がいくでしょう。二十日の午前に青森に電話しますから」
「フフ、人さらいに連れてこられたんじゃないんです。郷さんのそばにいくということは中学時代から両親にも兄にも話してたことです。とっくに納得はいってるんです。でも親子水入らずというのは心がけなくちゃいけないことですね。十四日のヤクルト戦を観てから、翌日の日曜日に飛行機で帰ります。二十日の合否の電話をもらったら、荷物の郵送を父母に頼んでこちらに戻ります」
 千佳子が、
「落ちてもくるということ?」
「はい。こちらで受験勉強をします」
「引き受けた!」
 主人が大きな声で言った。女将が、
「一度ご両親がくるんやろう?」
「さあ、名古屋見物が目的でないかぎりこないと思います。電話で事情を話したら安心してましたから。とにかく全面的に郷さんの人間性を信頼してるんです。男女関係という意味じゃなく、人を不幸にしないという意味です。男女関係なんて、成人した大人が信頼されたら困ってしまう代物でしょう。また、そんなことを信頼される堅っ苦しい生活を送っていたら、人間として伸びのび生きられません。とにかくおかあさんは、私と同じくらい郷さんのぜんぶに惚れこんでるんです。だから一年にいっぺんくらいは様子伺いにくるかもしれません。おかあさんは、私よりも郷さんに会いたいはずですから。おとうさんは種畜場の仕事一本鎗の人です。大好きな動物にかかずらってばかりで、めったに家の中にいませんし、家にいるときはニコニコ〈きびしい〉顔であちこちうろついてます。矛盾してるでしょう?」
 トモヨさんが、
「ニコニコきびしい顔って、迫力のある表現ね。お父さんのことがよくわかるわ」
「はい、そういうおとうさんを一家のみんなが尊敬してます。兄は特にそうで、北海道の獣医大にいきました。中三のとき郷さんが家庭教師をしてくれたおかげで、どんな高校にも受からないと言われていたのに野辺地高校に受かりました。それ以来兄は心の底から郷さんを敬愛してます。その兄が郷さんに、妹の恋人になってくれって頼んだんです。私の気持ちを知っていたからです。郷さんはうんとうなずいた切りデートもしてくれませんでしたが、私から思い切って青森の下宿を訪ねました。そして、大学にいったらかならず郷さんの女にしてもらうという遠い約束を取りつけたんです。でも高校二年のおととし、郷さんを東京に訪ねて、無理やり抱いてもらいました。それからは何も考えずに勉強に打ちこむことができました」
「……お母さんやお兄さんが郷くんのことをいくら気に入ってても、お父さんが最愛のあなたのことを放っておくかしら。大勢の女の一人だって知ったら」
「私の人生です。郷さんを愛する女の人はたくさんいても、それは私のせいでも郷さんのせいでもありません。女の人たちにとっては、郷さん一人が大切な人でしょう。教室の女生徒全員が郷さんを慕っている場合を想像すればわかります。そういう状況では、郷さんにとって私がたった一人の女であることよりも、私にとって郷さんがたった一人の男の人であることだけが大切な事実です。それ以上の関係になることは、一人ひとりの女の人にとってこの上ない喜びでしょうから、その一人ひとりの女の人はほかの女の人のことなんか眼中にないはずです。それなのに、郷さんはその女の人たち以外の人びとから倫理的に責められることになるとしたら、理不尽この上ないですよね。解決策は一つです。大勢の女の人がいるということをその人たちに教えないこと、それしかありません。睦子さんも千佳子さんもきっとそうしていると思います。愛する人を失いたくないからです」
 トモヨさんは感嘆の息をつきながら、
「ここにくる人は、男も女もみんな和子お嬢さんですね。と言うか、郷くんを恋する人はみんなお嬢さんです。まるで一人のきれいな心の人間と暮らしてるようですよ。こんなことってあるんでしょうか。驚きとうれしさ半々」
 キッコが、
「みんなで排除すべきものをきちんと排除しとるからちゃうん。それであたしらみたいな女が残んねん」
 主人夫婦と菅野がキッコに笑いかけた。トモヨさんも女たちに輝くように笑いかけると、台所に立っていった。菅野が、
「十四日のヤクルト戦を観ていくなら、六時からの山口さんのリサイタルも観ていったらどうですか。翌日帰れば問題ないないでしょう」
「山口さんの! ぜひ観ていきます」
「切符をとっておきましょう。青森行の飛行機は、八時半、十二時、五時十分と、一日三本あります。どれがいいですか。予約しておきます」
「十二時にします」
 千佳子が、
「四月五日の法子さんの酔族館にもいきましょうよ」
「ぜひ」
 睦子が、
「五日は名大の入学式。一時から二時のあいだに終わるからそのあとでいけます。十一日が授業開始、十二日が中日巨人戦でプロ野球開幕。四月に入ったら、一日から河北新報で郷さんの小説の連載開始、お花見もあるし、楽しいことが目白押しよ」
 主人が、
「花見は三月三十一日と決めとる。その日はアヤメもアイリスも臨時休業にするで」
 女将が、
「休みにすることはあれせんよ。北村の者だけ休めばええが。商売はサボったらあかん」
「確かにそうや」
「あの、菅野さん、大学に合格したら、ファインホースでアルバイトさせてもらえませんか。郷さんの身の周りの様子が知りたいので」
「そういうことなら週一回くらいでいいんじゃないかな。それでじゅうぶんわかりますよ。お嬢さんは、学生は働かせないという方針なので」
「金の心配なら要らんで。神無月さんの年俸やら賞金やらコマーシャル収入やらを積み立てた〈教育費〉ゆうプール金があるで。そこから毎月の小遣いの十万円も出る。シネマ・ホームタウンの建設費用もそこから出とる」
 キッコが、
「あたしもそのおかげで受験までこれたんよ」
「とてもありがたいことなのでお受けしたいと思いますけど、やっぱり週一回でもアルバイトはさせてください。両親に申しわけが立ちます」
 睦子が、
「私たちもときどき手伝ってるのよ。曜日を決めてみんなでやりましょ。キッコさんも入れて四人ならちょうど週一ぐらいになるでしょう」
「はい」
 十一時を回って、百江と優子がアヤメから帰ってきて、座に加わった。アイリスの賄いめしを食わずにカズちゃんと素子もやってきた。カズちゃんが呼んだのか、文江さんと節子とキクエもときを置かずに顔を出した。主人が、
「おう、これで名古屋組はぜんぶや」
 ヒデさんと自己紹介し合う。ヒデさんは節子が〈不良〉の流謫に関わった女かもしれないと薄々気づき、儀礼的な枕話もなく、すぐに私との出会いとこれまでの道のりのあらすじを知りたがった。節子と文江さんの口からかいつまんで語られる。やがてヒデさんは感激で頬を真っ赤に染め、涙まで流した。
「……郷さんの歴史、お二人の歴史」
「キョウちゃんのおかげで、二人は生きてこれたし、いまも生きとれるんよ」
 睦子がもらい泣きする。私は、
「きょうは日赤、夜から?」
 キクエが目もとを拭いながら、
「今週だけ一時から九時までの変則です。お昼のごちそうをいただいたら出勤します」
 文江さんが、
「私も一時から河合塾なんよ。主婦組」
 ハンカチを収めた千佳子が、
「今年は名大での書道教室はあるんですか」
「六月九日から十二日の名大祭で、四日間のうちどこかでと頼まれとったけど、十二日にしたわ。九日から十一日は、女将さんたちと万博いってくるで。冥途の土産はキョウちゃんの思い出でじゅうぶんやけど、せっかくやから見れるものは見とかんと」
 ヒデさんが、
「名大でどういうことをなさるんですか?」
「書道部の子たちに個人レッスン。最後にタテカンに貼った紙に漢字一文字か二文字を大書するんよ。五十万円もくれるんで、かえって気の毒してまう」
 昼めしになる。ソテツが、
「ごちそうじゃないですけど、厨房のみんなで腕によりをかけました」
 トモヨさんが、
「北村席のお台所は名人揃いだから」
 筑前煮、キンピラごぼう、ナスの煮浸し、野菜サラダ、味噌汁代わりの素きしめん、ライス。賑やかに箸が動く。


         二十六

 カズちゃんが、
「ソテツちゃんと千鶴ちゃんの入学式は何日?」
 ソテツが、
「四月七日です」
 女将が、
「うちがちゃんと参観にいくで、心配せんでええよ。トモヨのときもキッコのときもいったから要領はわかっとる。講堂やなくふつうの教室でやるんよ。教壇で校長先生が紙見ながらしゃべるのを、学生と父兄が後ろの折り畳み椅子に座って見とるだけや」
 トモヨさんが、
「それだけでも心強いんですよ。よかったわね、お二人さん」
「ぼくもいこうかな」
 女将が、
「あかんあかん、大騒ぎになるで」
 カズちゃんが、
「じゃ、カバンと靴買ってあげる。靴は千佳ちゃんやムッちゃんと同じものを取り寄せるわね」
「ありがとうございます!」
 二人で頭を下げる。
「学生はええなあ」
 千鶴の姉の素子が心からうれしそうに微笑した。
「素ちゃんにも買ってあげるわよ」
「うちはいままでたっぷり買ってもらっとるでええ」
 カズちゃんは睦子に、
「名大は父兄参観禁止だったわね」
「はい」
「ムッちゃんと千佳ちゃんは送り迎えだけね。でもキッコちゃんと秀子さんにちゃんとついてってあげてね」
「もちろん」
 節子母子とキクエが箸を置いて、
「ごちそうさま、厨房のみなさん、おいしかったわ。ほんとに名人やね。和子さん、呼んでくれてありがと。ここにくるとホッとする。外の世界と空気がちがうで。秀子さん、感じええ子やね。四人娘でしっかりスクラム組んでがんばってや。きょうはこれでおいとまします。さいならキョウちゃん。いつでも遊びにきてちょ。再発の心配はほとんどなくなったでね。ぜんぶキョウちゃんのおかげやよ。ありがと」
 節子が、
「このごろキクちゃんとスケジュールが合わなくなりだしたので、それぞれ都合のいいときにキョウちゃんの都合にも合わせて則武にいくことにしました。野球しっかり観てます。球場に応援にいけないけどごめんなさいね。開幕戦には休みをとっていくつもり」
 キクエが、
「キャンプ中から夢中で応援してるのよ。ほんとにケガに気をつけてがんばってね。またいずれ則武に伺います」
 ヒデさんが、
「今度お会いしたときは、キクエさんのお話を聞かせてくださいね」
「私はずっとキョウちゃんについて回ってるだけ。大したドラマはないのよ」
 女将が、
「西高の先生を辞めて東京についていった人やが。大したドラマやよ」
「アハハ、そんなことでよかったら、いつでもお話しします。でも話すことは、あなたたちと同じで私もキョウちゃんなしでは生きていけない、ってことしかないんじゃないかしら。じゃ帰りますね。さようなら」
 三人が帰ると、カズちゃんと素子をアイリスまで見送りがてら、百江やヒデさんたちと散歩に出た。めいめい脇抱えのハンドバッグを持っているのが愛らしい。ジャッキを連れていく。牧野公園、牧野小学校校庭、トモヨさんの離れの裏門、牧野小学校裏門、私のユニフォームを請け負っている若山クリーニング店、杉戸という旧家。小崎商店や後藤商店のほうへ右折せずに直進。小さな喫茶店や美容院を通り過ぎる。昭和通りの駅西銀座の看板を見通す路上に出た。
「この通りは昭和通り。むかしふうの店が並んでることで有名だ。これが椿神社」
「小さくて、いかめしくて、由緒がありそう」
 ヒデさんが言うと、睦子が、
「愛知県の神社名鑑には創建不明って書いてあります」
 カズちゃんが、
「五百年は経ってるわね。十メートル以上ある二本の大木は椿よ。放っておくと、何百年もかけて十五メートルにもなるの。あの角のあかひげ薬局はアッチ系の店。三十年も経てば私たちもご厄介になるかも。この通りはときどき歩いてごらんなさい。何かおもしろい発見があるかもよ」
 笈瀬川筋を左折、鮮魚店がズラリ。椿魚市場。千佳子が、
「魚好きにはたまらない通り。魚博士もたくさんいるわ。ここが百江さんの家。百江さんは則武の神無月くんの家に住んでるから、ここは別荘ね」
「家ェ、って感じですね」
 百江が、
「たまに風を入れにきてるだけなんですよ。今年は息子が泊まりにきてくれると思いますけど」
 素子が、
「ほい、着いたわ、アイリス」
「すごい! きれいなお店。満員!」
 レジのメイ子が私たちに気づいて手を振る。ヒデさんはお辞儀をした。
「あの子がメイ子ちゃん。じゃ私たちは店に戻るわね。バイバイ」
 ジャッキに牽かれて散歩をつづける。コメダ珈琲店を左折。
「これが終(つい)の棲家、則武の神無月家、右が裏庭、左が表庭とガレージ。入ってる車は古いクラウン」
「大きなおうち!」
「じゃ私はこれで」
 百江がお辞儀をして玄関へ入っていった。
「見てく?」
「いえ、あらためてじっくり」
 椿郵便局を見て踵を返す。あかひげから笈瀬川筋をいく。
「たたずまいはぜんぜんちがいますけど、どこかなつかしくて、野辺地や青森と似たような雰囲気がします」
 千佳子が、
「そうなのよ、むかし住んでた感じがするの。東京はどこもこの感じがなかったわ」
 砂糖・小麦粉・雑穀後藤商店、牧野小学校正門、坪井生花という花屋があるのに初めて気づく。隣に里乃珈琲店。いつものとおり右折、牧野小学校の金網沿いに歩く。道の反対側にモルタル造りのひどく古い三階建ての群れがある。これにも初めて気づく。何の建物かわからない。角地に福屋旅館。牧野公園。桜が色づいている。入りこみ、ジャッキを放す。飛び跳ねながら走り回るジャッキの姿を、四人ベンチに座って眺める。
「ムッちゃんと千佳ちゃんは郷さんのこと―」
「死ぬほど好き」
 二人同時に答える。千佳子が、
「そばにいるだけでいいの。恋とか愛とかわからない。いっしょに生きていたい。……ねえ、秀子さん、一年半も抱いてもらってないんでしょう? 平気なの?」
「心は平気ですけど、やっぱりからだは思いどおりにいかなくて……郷さんの顔を見てしまうと」
 睦子が、
「でしょ? いますぐ抱いてもらったほうがいいわ。からだの熱はすぐに冷ましておいたほうがいいから。からだの生理が心と関係ないことがわかって、何もかも晴れ上がるわ。私たちもひと月に一回はしてもらうの。ほら、あの角にある福屋は、駅裏の簡易旅館の中でも清潔なことで有名なのよ。地元の労働者たちが寝泊まりする簡易旅館じゃなくて、旅行客が乗り継ぎで立ち寄る旅館。ふつうの簡易ホテルは三百円で一泊できるのに、あそこは七百円もするの。食事はつかないし、お風呂もないけど、ティシュがあればどうってことないわね」
「はい」
「ムッちゃん、調べたの?」
「北村席にきたばかりのころね。いつ何があるかわからないでしょう?」
「そうね、一度駅裏の古い旅館で抱いてもらったことがあったけど」
「あそこは受付が帳場でしょう? 顔を見られちゃうわ。福屋はお金を出す小さな窓口しかないから顔は合わせない」
「じゃ秀子さん、いってらっしゃい」
「はい!」
 千佳子はジャッキを呼びつけ、睦子といっしょに数寄屋門へ去っていった。
「ちょっと待っててください」
 ヒデさんはバッグを抱え、頬を染めて公園のトイレへ小走りにいった。戻ってきて私と腕を組んだ。
「二人に言われたとたん、洪水になってしまって。いきましょ。うんとかわいがってくださいね」
「オッケー。外に出す?」
「そんなのいやです。荻窪と同じになっちゃう。四、五日前から安全日に入りました」
 路地木戸のような玄関戸を引いて入る。狭小な控えの間があり、壁に穴場があった。
「部屋、お願いします」
 女の声で、
「二階の二番目の部屋。泊まり?」
「いえ、一時間もしないで出ます」
「休憩でも泊り料金の決まりやから、七百円」
 七百円を差し入れる。じつにシンプルな交渉だ。狭い階段も廊下も清潔に磨き立てられている。部屋に入ると、意外なことに板敷にベッドだった。枕もとにティシュボックスが置いてある。小さなテレビが付いていて、三十センチほどの突き出しテーブルに湯を入れたポットとパックのお茶セットが置いてあった。和式トイレも完備されていた。七百円ではただ同然だ。
「きれいな部屋だ」
 すぐ二人裸になり、立ったままベッドの前で抱き合う。一年半前よりも豊かになったあのコニーデ型の乳房が胸を圧(お)しつける。そろそろと手が下りてきて私のものを握った。
「ああ……」
 ため息を漏らす。
「何百回も夢に見ました」
 私はベッドに仰向けになり、それをヒデさんの自由にさせる。彼女はほんとうに自由にさすり、舐め、精いっぱい含んだ。そうしている彼女の尻を後ろ向きに引き寄せ、顔に跨らせる。私の番だ。乳房と尻を撫でさすりながら、思う存分舌と唇を使う。
「あああ、愛してますゥ、イク!」
 痙攣するからだを仰向け、濃い陰毛の奥の柔らかい洞に突き入れる。
「ウン!」
 一声うめき、一度腹を跳ね上げ、片腿を捕まえるとゆっくり胸に引き寄せていく。蠕動が始まった。
「うううん、郷さん、気持ちいい! あ、イク、イクウ!」
 両手から離れた腿がゆっくり下りてくる。すかさず腰を持ち上げ、四つん這いにして突き入れる。激しく動く。一年半前はこれほど激しく動かなかった。ヒデさんのからだはそれを期待し、それを悦び、それに耐えられる成長を遂げている。
「ああ、郷さん、すごいすごい、グ! イックウウウ! あ、いや、イクイクイク、イッッックウ!」
 激烈に収縮してきた。波打つような蠕動になる。乳房を揉みながら動きつづけているうちに私にもたちまち迫った。
「ヒデさん、イクよ!」
「はい、いっしょに、あああ、イク! うん、イクウ! ううう、大きい! わかりますゥゥ、いっしょに、いっしょに、郷さん、いっしょに、好き好き好き、あああ、イイイックウウウ!」
 同時に達した。私は律動のたびに恥骨を尻たぼのあいだに叩きつける。ヒデさんもそのたびに悦楽の声を発して硬直に硬直を重ねる。
「ああああ、愛してますゥ!」
 硬直が細かい痙攣で解れていく。鎮静を待ちながら、胸を寄せて腹を抱える。からだのいたるところ脂汗が噴き出している。
「死ぬほど愛してます……」
 脈動が鎮まったのを確かめ、箱から抜き出したティシュを結合部に当てて引き抜く。
「あ、イク……」
 もう一度かすかに引き攣るからだを仰向けて腕枕をしてやる。口づけをする。左指を熱く濡れた陰唇に挟みこむように置く。
「ぼくとの新しい人生が始まったね」
「はい」
「ひと月に一回、不定時に」
「じゅうぶんです。からだが解放されると、このお顔のそばで暮らしたいだけだということが痛いほどわかります。からだの快楽のことはすぐに忘れて、ただ晴ればれとした気持ちになります。睦子さんの言ったとおり」
 もう一度口づけをして、服を着る。緑茶のパックを湯呑みに入れ湯をつぐ。記念に半分ずつ飲む。笑い合う。
「さ、帰ろう。今度は則武でね」
「はい」
 穴場は人影があるきりで静かだった。玄関戸を出て、牧野公園に向かって歩み出す。


         二十七 

「妊娠の危険のあるときは、危険のない人といっしょにセックスして、その人に射精するって聞きました」
「うん」
「健康的で正しい方法だって思いました。正直言うと、きょうそれがわかったんです。射精を引き起こす快感を与える膣も、同じような快感を与えられているんです。快感を与え合うもの同士で完全に合体しようとする自然な反応が、男の射精と女のオーガズムです。それで完全な満足をたがいに得るんです。それを完全な合体の瞬間に離れて、不満を残しながらただ最後の生理的な快感で満足し合うのは不自然です。だから私は郷さんの考えた方法は理に適っていて、これ以外にないって感じさえするんです。でも、それって、最後に合体した男と女だけがじゅうぶんな満足を得て、射精してもらえない女は不満を覚えながら九十パーセントのオーガズムであきらめてると思いませんか」
「思わない。みんな百パーセント満足してる」
「そう言うと思いました。睦子さんたちからその話を聞いたとき、最初はそういう疑問が湧いたんですけど、じつは女は射精してもらえなくても生理的にじゅうぶんな満足は得てるって教えられました。途中で抜かれてもぜんぜん快感の大きさは変わらないので、抜いてほしいと思うことがけっこうあるって。たしかに張型でたっぷり満足できることからそれがわかります。男は包まれて射精するほかにじゅうぶんな快感は得られないんです。だからどうしても最後に合体して膣内に射精する必要があるんです。女がそれを望むのは精神的な満足を得たいか、妊娠したいときだけでしょう」
「問題はそこからだろう。この方法は複数のからだが必要になるから、どうしても乱交の要素が出てくる。社会倫理に関わってくる」
「はい、それは大きい問題でしょうね。でも強く愛し合って、秘密を守り合えれば解決する問題です。厄介なのは、倫理的な解決が得られたという前提があったとして、個人の感情の問題をどうするかということです」
「つまり?」
「男は静かにセックスできますが、女はどうしても乱れます。そういう自分のあられもない姿をほかの女の人に見られるのを嫌がる人がいるんじゃないかということです。……そういう人はいませんか」
「いない。少なくとも乱れる女にはいない。大して快感を感じない女なら、性行為そのもののが醜悪だという通念に縛られてるから、その思いこみを貫こうとして、自分が性交する姿をほかの女に見られるのを嫌がるだろうけど、ヒデさんや睦子たちのように究極まで感じる女にはそんな人間は一人もいない。性行為そのものの歓びに没入できるからね。ほかの女の歓びを見つめるときも、同じように反応する自分に重ねて見てる。自分も同じようになると思うと期待だけがふくらむので不潔に感じないんだ。からだの歓びを知った女の自然な心持ちだと思う。もちろん男とはぜんぜんちがう心持ちだ。男は自分に快楽がなくても相手の悦ぶ姿を見て充実を感じるけど、女は男の悦びは重視しない。愛情の深さから重視することはあっても、いざ快感に襲われると忘れて、自分の歓びに没頭する。それは男と女の生理のちがいで、まったく自然なことだし、嫌悪感などでは太刀打ちできないものだ。結局、愛する者同士の心が結びついていさえすれば肉体の生理反応は二義的なものになるということを諒解し合えれば、こと肉体に関する嫌悪感や嫉妬や憎しみは人間世界から消え去るだろうね。了解し合うためには、男は自分の快楽に淡白で、女は自分の快楽に貪欲になれるほど敏感な肉体を持っていることが条件だ。女の自然な生理すら持っていないせいで通念に惑わされる女は、乱れないからだを人前に曝す羞恥とその作法に神経を尖らすことになる。愛のある男は過剰な快楽を求めないという真実を知らないので、スケベな男だけが快楽を求めて、スケベでない女は何の快楽もなく〈やられる〉だけだ、そういう姿はみっともない、という結論になるんだね。その嫌悪感の極致が、大勢の女とやるという図だろうね」
「……愛情深い男の人はかわいそう」
「女に快楽を与えられずに射精するだけの男はかわいそうかもしれないけど、女をきちんと悦ばすことのできる男はかわいそうじゃないさ。どんなに淡白でも射精だけはするんだから、それ相応の快楽は得ているということになるものね。そういう男は、女との快楽の差を愛情で埋める。……理想的な生き方だと思うよ。ぼくはそれこそ男女の恋愛の正体だと思ってる」
「なんて頭のいい……。その頭のよさを永遠に知られないで生きていくんでしょうね」
 愛情も才能も廉直さも見るまでは信じられない。しかし、信じなければ見えない。ヒデさんは私を信じている。信じない人間は永遠に現れなくてもいい。午後二時十五分。
「じゃぼくは読書しに則武に帰る。また夕食で」
「今夜は私もお台所を手伝います」
 則武に戻り、牛巻坂の食前酒にジャン・クリストフ。第三巻、青年、一。
 クリストフは母と二人で暮らしながら、義務的に演奏家と家庭教師の生活をつづけることになった。生活は貧しかったので、質素な安い家に転居した。
『音楽さえも彼に何らの慰藉も与えなかった。喜びも感じないで義務のようにして音楽を弾いていた。あたかも彼は、もはや何ごとにも興味を持たないことに、もしくはそう思いこむことに、生存の理由をすべて失うことに、それでもなお生存することに、ある残忍な喜びを見出しているかのようだった』
 母もまた、夫の死後、部屋を乱雑に散らかしたまま気力を失ったようにぼんやりしていた。病的ではない一時のボケに陥ってしまったのだ。クリストフは心を痛めながらも、食卓で母と二人きりでいるのが気まずく、食事がすむとすぐ別々になった。やがて母を一人きりにしておくのは危険だと悟り、極力そばにいるようにした。
 引っ越し先のいわゆる〈善人〉大家一家ともうまくいかなかった。多忙、多言を美徳とし、寡黙を知らなかったからだ。中に一人だけ宗教に執心している少年がいて、いっとき心惹かれたが、甘えた精神のまがいものであると断じた。信仰の破滅。それはまがいものの少年のせいではなかった。みずからの倦怠のせいだった。倦怠には陶酔と悲哀と快い苦悶がある。それをクリストフは〈悪〉と見なした。そして悪の世界を肯定した。
『野蛮な際限のない広い世界……神よりも広大である世界』
 さらに一家の中に醜女(しこめ)の少女ローザがいた。彼女のクリストフに対する片恋。クリストフの嫌忌。ローザはクリストフの母ルイザに親切だった。クリストフは感謝したものの等閑に付した。
 十六歳の性欲の目覚め。牧場の草刈り娘との出会い。初対面のその女にクリストフは飛びかかって押し倒し唇を奪った。抵抗され、罵られ、逃げ出した。青年、一、読了。
 牛巻坂にかかる。第七章。松葉会の一夜、パトカー、強制下宿。粗(あら)々書き切る。
         †
 和気に満ちた夕食のテーブル。箸を動かしながら、あらためて北村席のメンバーを見回す。主人、女将、菅野、トモヨさん、直人、カンナ、カズちゃん、素子、百江、睦子、千佳子、キッコ、ヒデさん、優子、おさんどんをしているソテツ、イネ、幣原、千鶴、そのほかに立ち働いている賄い六人(住みこみ二人、かよい四人。住みこみの二人を含めてその六人とは言葉を交わしたことはない)、むかしからいるトルコ嬢三人(口を利いたことはない)、新入りのトルコ嬢四人(同前)、総勢三十一人。メイ子はいない。彼女が混じれば三十二人だ。きょうはたまたま百江と優子が早番だったが、番が替われば人数も変わってくる。それでも三十人以上の大所帯だ。ただ、賄い連中十四人の食事は遅れるし、食事をしないで帰るかよいもいるので、十人用テーブル三卓が満席になることはない。
 部屋に大型の二台の石油ストーブが焚かれている。ガスストーブは頭痛がするというので女将が取り払ってしまった。トモヨさんの離れにも居間と寝室に小型の四角い石油ストーブが置かれている。ガスストーブも石油ストーブも換気がたいへんだ。女たちは各部屋で筒ストーブを焚くか炬燵に当たる。たいてい炬燵だ。菅野が、
「あした出発しますか、あさっての朝ですか」
「みんなあしたの夜までにチェックインするみたいですから、ぼくもそうします。夕食会には出たくないので、晩めしを食ってから出発します」
「七時台のひかりですね。品川までの乗車券とグリーン券をとっておきます。ランニングは?」
「八時半」
「わかりました」
 トモヨさんが、
「ビジター用のユニフォーム一式と、アンダーシャツ、ソックスを三組、ワイシャツは白とピンク一枚ずつ、スポーツバッグに入れておきます。バットケースにはフィルムのままのバットを三本入れました」
「ありがとう。一式あればクリーニングで使い回せる。ズックのダッフルのほうはさっき詰めたからOK」
 菅野が、
「富沢さんのスパイクですか」
「まだ四足もあるけど、もったいないからミズノのスパイクを持っていくことにした。グローブもミズノ。富沢さんのスパイクとカズちゃんのグローブは中日球場だけで使う」
「帽子と鈴下監督の眼鏡、忘れないように」
「だいじょうぶ。入れました」
 主人が、
「巨人もいまのところ三勝零敗です。去年のオープン戦二連戦は一勝一敗でした」
「今年はどのチームとも一戦だけですね。勝てるかぎり勝ち進みます。直人、巨人戦はテレビで観れるぞ。日曜日だ」
「うん、みる。ホームランうってね」
「がんばる。おとうちゃんがバッターボックスに立ったら、打てー、打てーって応援するんだぞ」
「うん、おうえんする」
「打てなくてもガッカリしちゃだめだ。ホームランて簡単に打てるもんじゃないからね」
「うん、ガッカリしない。かんたんじゃない」
 優子が、
「簡単じゃないんですか、あんなに打って」
「簡単なら野球をやめてる。楽しくないから」
 トモヨさんが、
「ニューオータニ、六泊ですね」
「うん、こんな長丁場、初めてだ。後楽園、東京球場、後楽園」
 菅野が、
「朝ランする道路は事欠かないでしょう」
「うん、いい環境です。空気のいい清水谷公園もある。たいてい江藤さんたちがいっしょに走ってくれる」
 カズちゃんが、
「吉祥寺は最終日に寄ってくるの?」
「今回は寄らない。十四日がヤクルト戦だし、山口のリサイタルもあるから暇がない」
「読む本はだいじょうぶ?」
「ジャン・クリストフを持ってくからだいじょうぶ」
 睦子が、
「ジャン・クリストフ! 高二のとき、挫折しました」
「プロットはいいけど、表現がオーバーなので退屈だよね。纏綿(てんめん)とした表現は読み飛ばしてる」
 とつぜんカンナが私の膝に乗ってきた。直人もあわててやってきて、片方の膝に乗る。直人から順に額にキスしてやる。二人して私の左右の腕に凭(もた)れる。キッコが、
「三人そっくりやが! どないやの」
 千佳子が、
「おとうちゃん奪い合っちゃって、かわいいわ」
 女将が、
「神無月さんと、おとうちゃん。どうしても慣れることができんわ」
 主人が、
「神無月さんが孫みたいなもんやから、そりゃ慣れんわ」
 主人が一人でビールを始める。菅野もコップをとる。
「一杯飲んだら出かけますか」
「目安箱見るだけやな。八時ごろ出よ」
 古手のトルコ嬢が一人、新入りのトルコ嬢が二人、
「遅番で出ますんで連れてってください」
「いいよ」
 カンナが私の膝で眠りこみ、直人があくびをする。毎度の食後の時間が動き出す。賄いたちが離れた食卓につく。テレビ開始。トモヨさんに、
「ねないこだれだ、要らないね」
「蒲団に入るとパッチリしてしまうんですよ。役に立ってます」
 賄いの一人が、
「このあいだ、ウルトラマンの親兄弟の名前をワーッと言ってました。驚きました」
 別の一人が、
「ご本の文章もワーッと諳(そら)んじることがあるのよね。とにかくビックリ」
 ヒデさんが、
「西沢先生がダンディ神無月によろしくと言ってました。毎朝郷さんの銅像に会いにいくんだそうです。死んでしまった人のように感じるので銅像はよくない、それでも一日の始まりには会いにいってしまうって笑ってました」
「うれしいな。忘れないって、なんてすばらしいことなんだろうね。現国の相馬先生は?」
「相変わらず野球部の監督をしてます。おととし去年は三沢高校、今年は五所川原農林が強くて、青高は話題にも上りません。たいてい一回戦か二回戦で敗退してます。でも郷さんの思い出を引きずってるファンが多いので、公式戦になるとスタンドは満員になります。私は一年生のとき、一、二度応援にいったきりいってません。野球がこじんまりして、あのころとちがいすぎます」



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