二十二  

 責任がのしかかってきた。ワンアウト満塁。ゲッツーが怖い。それさえ食わなければ最低一点は入る。つまり内野ゴロ、内角フライを打たなければいい。気楽に考えよう。佐々木はさっき外角スライダーで私をセカンドライナーに打ち取ったことを忘れていない。気分よく変化球を放ってくるだろう。余裕のあるワインドアップから左足を地面に沿って回すように一振りし、腰高に踏み出す。ピッと手首を利かせてリリースする。やっぱり外角低目の遅いスライダーだ、いや、カーブが切れ上がってきた。バットを抑える。
「ストライー!」
 久保山のコールが涼しい。浮き上がるボールは打ち損じる確率が高い。一球だけヤマを張る。外へ沈むシュート、打てばゲッツーだ。二球目、案の定外角低目にするどく落ちるシュート。ストライク。もうそこにはこない。ヤマ張り終了。外野フライを打てる低目を待つだけ。三球目、胸もとを抉る速球。捨て球、ボール。ツーワン。一点に絞ったヤマとは言わないまでも、ぼんやり次のボールをイメージしてしまう。膝もとをボールが抉ってくるイメージが湧く。そこにきたら球種に関わらず掬い上げると決める。四球目、そこにきた。ワンバウンド。打てない。ツーツー。辻がチラチラベンチを見る。五球目もボールにするつもりで、そこに投げさせるだろう。五球目、やっぱりそこだ。カーブ。掬い上げる。少しタイミングが早かった。右翼ポール横へ大きなファール。
「タイム!」
 キャッチャーの辻がマウンドへ走っていく。何やら短い言葉を交わして走り戻ってくる。キャッチャーボックスに立ったままベンチを振り返ってうなずく。視線の先に三原監督の丸い顔がある。私は隙を見てそっとボックスの前に出た。低目が低くなり切らないうちに打つためだ。
「プレイ!」
 四球目、外角高目に遠く外した。え? イメージ崩壊。なんで? まさか敬遠はないだろう。押し出しで三点差になる。田辺から三点取るのはきつい。五球目、また外角へ外し球。こんな作戦はあり得ない。外すと見せてぎりぎりのコースへ落ちてくるはずだ。確信して踏みこむ。アァ! そのまま外れた。中、手を叩いてホームイン。八対五。ヒゲ辻が得意そうな顔で、ホームを踏む中の足を見ている。そしてベンチを見やってうなずく。ピッチャー優勢に進めていた佐々木のプライドはどうなるのだろう。肝の太いダンプ辻とは大ちがいだ。かならず墓穴を掘るぞ。
 五番木俣。三原監督はスクイズを警戒して前進守備をとらせる。バカか。木俣は真っ赤な顔になった。怒っているのだ。ベースから少し離れたところにいた一塁手の小川がボソリと、
「怒っちょるなあ。やばいことしたんじゃね?」
 佐々木は三球連続で内外角低目にシュートを散らす。ぜんぶ見逃され、ワンツー。内野がやっと定位置に退がる。
 ―こんな臆病なチームにはサッサと引導を渡してやれ。高目を投げろ。投げた瞬間に一発で仕留められる。四球目、内角あごの高さへシュートが曲がりこむところを木俣はみごとに叩き切った。
「チャー!」
 小川の悲鳴が上がる。スタンドもフィールドもいっせいにレフトスタンドを見やる。視線の先にピンポン玉になって左翼の森に消えていく白球が見えた。ダメ押しのグランドスラム。きょう二本目の場外ホームラン。三走者並んでホームイン。水原監督と木俣の熱い抱擁。十二対五。致命傷だ。
 ピッチャー交代。社会人からきたドラ二の新人サウスポーの神部年男、二十六歳。オーバースローの本格派、背番号27。円を描くようにグローブと腕を回転させる投げ方は小野に似ている。ボールは遅い。球質は軽そうだ。スライダー回転の直球が武器と言われているが、それほどするどく曲がるのだろうか。
 六番菱川、内角攻めに遭う。カーブ、スライダー、沈むシュートでボテボテのショートゴロ。七番太田、初球のスライダーに詰まって、平凡なレフトフライ。
 五回裏、試合そのものの興味が薄れてきたので近鉄選手のユニフォームを観察する。白地の上下、左袖に赤い水牛の角、アンダーシャツと胸ロゴBuffaloesと背番号・胸番号とベルトと帽子は濃紺、帽子の額マークは赤文字のB、ヘルメットは濃紺の地に額マークは赤い水牛の角、ストッキングは黒白のたがいちがいの縞模様で最下部は柿色。はしゃいでいないユニフォームだが、強さを感じない。観察終わり。
 田辺快投、飯田、相川、辻と三者連続三振。すべてが速球というわけではなく、ゆるいストレートや変化球も混ぜているのだが、高く振り上げる足のせいで微妙にタイミングを崩されるようだ。
 六回表、当っている一枝から。神部も沈むシュートとカーブ気味のストレートを多投して、一枝サードゴロ、田辺三振、中ショートフライに打ち取る。
 六回裏、これほどのスピードボールの持ち主である田辺が、なぜ近鉄時代に勝てなかったか、その理由の一端を覗くことになった。ピッチャーの神部を三振に切り取ったまではよかったが、前の打席でホームランを打っている山田にフォアボールを与えてしまったのだ。ホームランと言っても、不調の水谷寿伸から打ったものだ。必要のない警戒をしたせいで足の速いランナーを出し、みずからの好投にケチをつけた。
 木俣がタイムをとって田辺を叱りにいった。ここは叱りどころだろう。ピッチャーの弱気はチームの一シーズンの勢いに響く。木俣はそう叱ったはずだ。むだなフォアボールのあとにはかならずと言っていいほど長打が出る。そう叱ったかもしれない。田辺は何度も経験してきたはずだ。残酷なようだが、ここは長打が出てほしい。木俣の叱責の意味が骨身に沁みてわかるからだ。新天地でほんとうに再出発をしなければならないとわかるからだ。徹底して反省したほうがいい。
 二番、これまた足の速い安井だ。初球からヒットエンドランできた。山田が走り、安井が外角ボールになるカーブを打って一塁線を抜く。こういうときはどんな球を打ってもヒットになる。山田生還して一点。安井は三塁へ。十二対六。
 きょうまったく当たっていない永淵洋三。去年張本と同率の首位打者、ホームランも二十本打っている。百六十八センチ、六十五キロの小兵。二十七歳。投手として東芝から入団して、三カ月目に打者に転向。強肩。東芝時代にバッティングピッチャーをやって強くしたという噂だ。強打。小さなからだを大きくひねって打つ。全身バネ。天才だろう。去年は、三原監督の〈超二流〉という哲学的な言辞に少なからぬ反撥があって、彼の配下の選手は二流ではなく三流だろうと軽んじた気持ちでいたが、この永淵という男に関しては、きょう三打席凡退したスイングを見て考えが変わった。三塁ファールフライ、大きなライトフライ、ショートゴロ。奔放な身のこなしでバットを刀のようにするどく振る。空振りがほとんどない。どんなに姿勢を崩してもかならずボールに当てる。無類の酒豪だと聞いている。大きな目はするどいが、欲がなさそうなオジサン面だ。外野フライを打てばいいというくらいの気持ちで臨んでくる。怖い。
 田辺の初球、外角パワーカーブ、のめって振って三塁内野席へライナーのファール、二球目内角高目の快速球、からだを独楽のように回して絶妙の芯食い、打球は右翼席中段に糸を引いて飛びこんだ。中のホームランとそっくりだった。何でも打つ男が出した結果を目の当たりにする。十二対八。ここで水原監督が手を挙げた。グッドタイミングだ。これ以上放置すると、田辺は壊れる。
「中日ドラゴンズ、選手の交代を申し上げます。田辺に代わりまして渋谷、ピッチャー渋谷、背番号35」
 渋谷幸春。丸顔で人がよさそう。二十二歳。木俣に似た好みの顔だが、微笑がない。ちょっと右腕が遅れて出る。これでいやがられているようだが、どんな変則ピッチャーのボールを打つことも、とつぜん暗い穴から飛び出てくるバッティングセンターのボールを打つよりは難しくない。なぜそういうふうに考えられないのだろう。私も城之内に最初手間取ったのは、彼のフォームに気を取られていたからだった。そういうことは一度で卒業しなければならない。
 四番土井正博。大阪大鉄高校中退、二十六歳、背番号3。幼児体形の掬い上げプルヒッター。肩から上の高目は打てず、外角はヘッドアップすることが多い。ただ、インパクトの瞬間はレベルにバットが入ってボールの下を切るので、当たると恐ろしく飛ぶ。もう一つの長所は三振が少ないことだ。この三年ずっと三割も打っている。ここは新人ではやられる。まず目覚ましを食らってからだ。
 初球外角低目カーブ、手を出さないと思ってカウントを取りにいった球だろうが、甘かった。土井は江藤のように大きく身を乗り出し、掬い上げた。左中間へ弾丸ライナー。中も私も一歩も動かない。大きな顔の子供がダイヤモンドを巡っていく。十二対九。これで渋谷もホグレたはずだ。
 五番小川亨、変化球攻め、三振。六番飯田、同様に攻めて三振。七番相川に代わって守備の名人阿南準郎(じゅんろう)。記憶の彼方にいる広島カープの中堅選手。これまた同様に攻めてスローボールでセカンドゴロ。
 七回表。二番高木から。ボックスの外でへんに素振りを繰り返している。ハハア。初球カーブ、なんだかやりそうな気がしていたセーフティバント敢行。守備を代わったサード阿南の前へ。名人は驚いて前進、ボールをつかんだまま立ち往生。
 三番江藤、クローズドに構えて外角球に備える。初球、胸もと目がけてストレート。足を引き両腕を上げてよける。もう死球で出る気はない。私が敬遠される恐れが大きいので、自力で高木を浚って点差を広げるつもりだ。二球目、同じコースへカーブ、見逃す。ボール。三球目、神部(いや辻が)どうしていいかわからず、外角高目へストレート。ストライク。江藤打つ気なし。そうか、シュートを打とうとしているのか。四球目、外角低目へ外し球のシュート。元祖のめり打ち! 土井のように掬い上げない。美しいレベルスイングでセンターへ持っていく。杉山コーチが、
「よーし! シンウチー!」
 慎一のシャレだ。バックスクリーン左横の観客席に突き刺さる。江藤は森下コーチとタッチして一塁を回るとき、めずらしくこぶしを突き上げた。そのこぶしをバッターボックスに向かう私に突き出す。私も右こぶしを突き出した。十四対九。江藤、水原監督と固く抱擁。私たちとパンパンパンパンとタッチ。 よし、ここでみんなが待っている屁っぴり腰。初球だ。辻の声。
「さあ、どうしようかな」
「どうでもいいですけど、ぼくたちはプロで、堂々と勝負することで観る人を喜ばせるのが仕事です。それを忘れないでください。そうすれば勝っても負けても給料は上がります」
「お説ごもっとも。さ、こい!」
 神部振りかぶって、踏み出し、腕を叩き下ろす。外角ストレートだ。屁っぴり腰の用意をする。おっと、だめか! カーブになってベースの外へワンバウンド。打たせてもらえそうもない。少しだけボックスの前に出る。二球目、高く放り出され、揺れながら真ん中に落ちてくる。それもひどく低く落ちてくる。何だ? とにかく振る。空振り!
「ヒエェェ!」
 私のめずらしい空振りを見て、ベンチが大騒ぎになる。ナックルボールだ。もう一球くる。屁っぴり腰中止。遠慮なくボックスぎりぎりまでいざる。三球目、外角速球、思わず見逃し、ストライク。ツーワン。いざったままの位置でいる。辻はもう何も言わない。四球目、アチャー、真ん中ストレート軌道。どっちだ? フォークと見てがまんしろ、振らない。フォーク。案外早く落ちてベースの前でショートバウンドした。フォークでなかったら三振だった。
「ナイスセン、ナイスセン!」
「神の目よォ!」
 ツーツー。五球目、神部が高く放り投げた。揺れて急速に落ちてくる。アララ、外角へ曲がっていく。ナックルカーブというやつか。ふたたび屁っぴり腰に切り替え、踏みこまずにしっかり尻を落としてしゃがみこむ。バットを寝かせて強く振り出し、掌を押しこんで手首を絞る。変則屁っぴり腰。芯を食わずにボールの下部を滑った感触だ。弾き上げられるようにレフトへ高い飛球が昇った。
「オーシャァァ!」
 菱川と太田がベンチ前に飛び出して打球の行方を見守る。コーチャーズボックスの水原監督も見守る。森下コーチも見守る。敵も観衆も見守る。土井が塀ぎわまでバックして見上げる。思ったより飛んでスタンド中段に落ちた。五十嵐線審の右手がクルクル回る。今年最短のホームラン。一塁ベース上に立ち止まり、森下コーチとタッチ。
「恥ずかしいです」
「謙遜せんとけ。超絶ホームランや」
 黙々と走り、水原監督と握手。
「みごとだった。客席に落ちたボールがフェンスへ撥ね戻った。一生に一度の見ものだよ。ありがとう」
 抱擁。仲間たちの中へ。太田が、
「撥ねて戻りましたよ。すげえカットです」
 江藤が、
「ほんとのピンポン玉たい」
 菱川と抱擁。
「俺の神さまです」
 チームメイトとタッチを重ねてベンチに戻る。江藤と太田に挟まれて座る。池藤トレーナーがやってきて、
「ちょっと筋肉を触らせてください」
 私を立ち上がらせ、太腿とふくら脛を触る。座らせてアキレス腱のあたりを触る。
「だいじょうぶです。ふだんよりもひどくしゃがみこんだので、肉離れでも起こしてたらたいへんだと思いましてね。もう柔かい正常な筋肉になってます」
 鏑木も触りにきて、納得したようにうなずく。
「超人だと思うと、甘えてしまいますからね。神無月さんも人間ですから」
「さすがやの。ワシらみんなにも目配りが利いとるしな」
「みなさんの筋肉は平均よりもはるかに柔らかくて優秀です」
 十五対九。ノーアウト。木俣が打席に立つ。
「三本目いけー!」
 内角低目攻めに遭う。詰まったサードゴロ。木俣は一塁からすたこら走り戻り、ベンチにドカッと座って、
「低目の素振りをもっとしないとだめだなあ。軌道がよくわからなくて振りづらいんだ」
「石ころを三つぐらい地面に置いて、それを目がけて順番に振っていくんですよ。ストライクぎりぎりに一個、ボールのコースに二個」
「やってみるよ。庭にホームベースを埋めこんでるから」


         二十三 

 六番菱川。ウェイティングサークルに谷沢がいる。太田に、
「つらくない?」
「つらくはないです。谷沢はレベルがちがいます。もっとシュアになって、江島を抜かなくちゃなと思ってます。中さんのあとのセンターは俺ですよ」
「その意気だ。おまえのほうが圧倒的にホームランが多いし、三振が少ない」
 二列目に座っていた江島が、
「そうなんですよ。俺、打率が低すぎです。二割そこそこですもん。太田は二割九分でしょう。射程距離にも入りませんよ」
 江藤が、
「シケた話しとるのう。谷沢も江島もまだまだ太田に及ばんたい。シーズンに入ったら、おまえらほとんど使われんごつなるぞ。温情で使われとるうちに結果出さんば」
「はい」
 菱川がライト上段にぶちこんだ。美しいからだを弾ませながらダイヤモンドを回る。水原監督を包みこむように抱擁。私もああいう姿勢で抱き合っているのか。いいな。監督の大切さが形に出る。ホームに迎える。握手。
「名人」
「まだまだ」
 十六対九。ワンアウト。谷沢が打席に入る。立てたバットを少し前に傾ける構え。一球いい姿勢で見逃し、二球目の外角寄りのスライダーをゴロでセンター前へ持っていった。限界のようなものが見えた。スラッガーには育たない。高打率を上げる打者にはなるかもしれないが、そこまでだ。あとはチャンスに強いかどうかだ。
 バッター一枝。左投手の食いこんでくるカーブやスライダーは彼にとってシュートになる。初球を弾き返してレフト線へ。ワンアウト二、三塁。
 渋谷、外角高目のボールをスクイズ。当て損なってキャッチャー小フライ。谷沢三本間に挟まれてタッチアウト。愛嬌。何でもやって、何度も失敗しておく。
 七回裏、近鉄の攻撃。八番辻。ピンチヒッター児玉。変化球二つ、直球一つ。三振。神部に代わってピンチヒッター伊勢。ウドの大木の感じ。外の変化球三つで三振。山田に代わってピンチヒッター松原、初球外角高目のスライダーでセカンドフライ。
 八回表、近鉄のピッチャーは清。端正な顔立ち、控え目な物腰。オールスターで二度対決して、一本は甲子園のライト照明塔の足もとへ、二本目は平和台のスコアボードを越えた。オーバースローの流れるように美しいフォームなので打ちやすい。ストレートは速くはないが伸びがある。これも打ちやすい。カーブの落差が大きい。スライダーとシュートが切れる。手を出すと打ち取られそうだ。
 一番中に代わって江島。ストレートをネットファールしたあと、するどいスライダーに手を出してセカンドゴロ。二番高木。初球大きなカーブを叩いてサードゴロ。三番江藤に代わってピンチヒッター千原。ツーナッシングから、グニャッと波打つスイングで真ん中ストレートを叩いてファーストゴロ。
 八回裏、私の守備位置に井手が入る。木俣に代わって新宅、一枝に代わって西田、菱川に代わって坪井。三時五十二分。少しずつ観客が動きはじめる。クリーンアップのいない九回表の攻撃は観るに値しないということだろう。近鉄は二番安井から。気が緩んだのか、渋谷はツーワンと追いこんでから、内角へ棒球を投げ、レフトへライナー性のホームランを打たれた。ピッチャー交代。松本幸行。丁寧に投球練習をする。笑える。
 三番永淵、バッターボックスに立って構えたとたんに初球がきたので驚いて見逃す。ストライク。タイムを取ってボックスに入り直す。すぐさま二球目。内角顔のあたりから落ちるカーブ。これも驚いて飛びのく。ボール。審判に掌を向けながらボックスに入り、構え直してピッチャーに正対する。とたんに三球目。アウトハイのカーブ、空振り。永淵はいちいちボックスを出る。今度は松本に手を向けてじっくり構えようとする。構えたとたんに四球目。真ん中低目の直球。空振り。三原監督がチョコチョコ出てきて、主審の前で松本の投球動作をまねて見せる。グローブを静止させずに投球動作に入っていると主張しているようだ。見たところ、たしかにゼロコンマ何秒かは静止していると思いたいが、まったく静止しないで振りかぶり投げ下ろしている。三原監督は完全静止のルールに反すると言いたいのだ。却下された。太田に、
「完全静止って何秒?」
「決まってないんすよ。審判の主観です」
「ランナーが三塁にいるとき、松本をリリーフに出せないね」
「ですね。でも、ランナーがいないときにはボークをとられませんので、バンバンいけます。セットポジションになったら多少は静止するでしょうからだいじょうぶです」
「とんでもないピッチャーが出てきたもんだ」
 四番土井。初球を打つしかないと決めたようで、インハイのストレートを空振り。二球目からはバッティングの予備動作もさせずに、構えたとたんに投球。アウトハイのシュート二球で三振に仕留めた。
「なんだか反則して打ち取ってるようだなあ。いい気持ちがしない。阪急の米田もこれほどじゃないよ」
 水原監督が、
「勝ち試合でしか出さないから、美学の点は勘弁して」
 五番小川亨、いっさいバッターボックスを出ずに対決して、センターフライ。
 九回表。四番井手、三振。五番新宅三振。六番坪井三振。清の速球と変化球に手も足も出なかった。
 九回裏。みんなでボックスを外さない作戦をとってきたが、松本は新宅から受け取った返球をグローブに収めたとたん振りかぶるので、めまぐるしいことこの上ない。飯田、阿南、児玉と連続内野ゴロと外野フライに切って取られて、ゲームセット。四時七分。十六対九。勝ち投手渋谷。負け投手鈴木。
 両チームに新聞記者たちが群がってきて、ベンチへ退避。水原監督と三原監督に群がっているので、私たちはロッカールームへ。高木はそそくさと着替え、
「じゃ、お先!」
 と一声、ダッシュで出ていった。臼山はこなかった。私たちはゆっくりスーツやブレザーに着替え、監督を待ち、駐車場に停まっていたバスに乗って静岡駅に向かった。
 静岡駅で帰名組は弁当を買いこむ。水原監督ら帰京組は駅近辺で食事していくというので、駅前のロータリーで別れる。
「巨人戦は派手だから、始球式があると思うけど、こらえてね」
「オース!」
 宇野ヘッドコーチが、
「七日の午後から八日の朝までにニューオータニにチェックインしてくれ。バッティング練習は八日の十時からだ。ホテルは九時半出発」
 私たちは監督一行に最敬礼した。乗車券とグリーン券を買いに出札窓口へ。控え組や帯同組は乗車券のみ。グリーン券が給料として振りこまれないので一般車輌に乗るからだ。イヤな構図だが仕方ない。
 四時五十二分発こだま名古屋行のネオン標示。新幹線ホームに記者連中はいないが、乗客でかなり混雑していて、ほうぼうからフラッシュを焚かれる。選手の名前を呼ぶ声が上がったりもする。通りかかった駅員に帰着時間を尋く。六時六分着。ホームの青電話で北村席に連絡する。グリーン車に乗るのは帰京組以外のコーチ陣全員(太田、杉山、森下、長谷川、井上。彼らはみな名古屋観光ホテルに泊まる。本多二軍監督、塚田コーチ、岩本コーチは草薙に帯同していない)と、江藤ら寮組(菱川、太田、秀孝、戸板、谷沢、田辺、渋谷、松本。その他の寮生とトレーナーは一般車輌。徳武コーチ、小野、千原は東京組やスコアラーたちといっしょに帰った)、ほかに帰宅組の中、木俣、一枝、水谷寿伸、伊藤久敏、新宅コーチ、吉沢コーチ、私、そして足木マネージャー。合わせて二十三名。
 乗りこむとすぐに賑やかな弁当の時間となる。缶ビールを飲みだす連中も多い。缶ビールは足木マネージャーがドッサリ差し入れた。松本のボークの件が肴になる。長谷川コーチが、
「おまえ、セットポジションのとき静止してるか」
「してます」
「してねえよ。イーチ、これが一秒だ。してねえだろ」
「……はい」
「瞬間静止でも許す審判がいるから、つい甘えちゃうんだが、イーチ、これくらいは静止するようにしろ。サヨナラボークなんて悲惨だからな」
「はい」
 返事だけのような気がする。新宅が、
「もっと球を速くしろよ。ちぎっては投げに迫力がないんだよ。猫だましで勝ってどうするんだ」
「はい」
 これも返事だけだろう。松本はひたすら缶ビールを流しこみながら、無聊げに窓の外を見ている。ふくれっ面のエラ張り男。この二十三歳の無愛想な男といっしょに野球をするのはいやだなと思ったけれども、ドラゴンズの一員である以上わがままは言えない。
「巨人戦の始球式は水前寺清子だそうです」
 情報通の太田が言う。一枝が、
「着物姿で投げるんかい。アホらしいな」
 菱川が、
「水原さんは耐えてくれって言ってたけど、耐えるしかないかな。ね、神無月さん」
「特別な試合のときはいいアトラクションだと思いますけど、つまるところ始球式は商品の熨斗(のし)紙でしょう。熨斗紙がついてれば、商品はなんとなく上等なものに見える。でも、蓋を開けて中身を取り出すときは破って捨ててしまうものです。ふだんの買い物をして熨斗紙をかける人はいない。始球式も特別な試合のときだけでいいんじゃないですか。こんなに頻繁にやるものじゃない。球団の接待だとするなら、どっかの料亭かゴルフ場でやってほしい。少年野球の子供たちが投げることもあるけど、見たところ明らかに喜んでいない。あこがれの場所にとつぜん立ってる自分を場ちがいだと思ってる。観客にしても楽しい試合がなかなか始まらないのは苛立つでしょうし、選手も緊張感がどんどん抜けていく感じになる」
「そんたうり!」
 江藤の大声で車内大拍手になる。松本はブスッとしていた。杉山コーチが、
「ふつうの選手は、けっこうそんなことで自分が出世した気分になるんだよ。巨人の開幕戦に、ときの総理大臣が投げることもあったからね。だれだか知らないオジサンや芸能人が出てきて、おかしなフォームでボールを投げる。バッターは申しわけ程度にバットを振り、キャッチャーはどじょう掬いのような格好でボールを受け、始球式をしたやつに渡す。記念撮影、気のない拍手。たしかにアホらしいね。ふつうでない選手にとってはね」
 私は、
「ふつうふつうでないの問題じゃありません。いやしくもプロ野球選手になった人間にとっては、ですよ。そんなものに立ち合って、ああプロ野球選手になってよかったと思うはずがないですから」
「私は神無月くんのように考える人間だよ。ドラゴンズチームのみんなもそう思ってるだろう。戦後、プロ野球選手がようやく芸人の地位を脱して、純粋な天才集団と目されるようになったのに、わざわざ芸人を呼んで喜ぶのは矛盾した行為だ。だからドラゴンズフロントは今年から、自球団開催の試合はよほど特別な試合でないかぎり始球式は行なわないと決定したんだ。このオープン戦三試合で気づいたと思うけどね。神無月くんはタイムリーな発言をしたわけだ」
 江藤が、
「金太郎さん、それでもプロ野球界にはふつうの選手が多かばい。プレイや記録で名を上げるんやなく、飾りで出世したち思う馬鹿がな。うちにはおらん。そう信じとる。金太郎さんが変えてくれたけんな。ワシがその一人たい。野球が華やかなスポーツやゆう意味がほんとうにわかったとばい。感謝しとる」
 長谷川コーチが、
「私が神無月くんに感謝してるのは、彼のいろいろな面での破天荒さのおかげで仲間同士つまらない腹を探り合わないようになったことだね。彼を見習っておたがい自由に発言できるようになって、人間信頼が根づいた。何をするにも、これ以上の原動力はないと私は思ってる。さあ、名古屋まで一時間もないぞ。ここは巨人の新人ピッチャーの話でもするほうが、始球式の話より意義があるね。太田くん、どんなものかね」
「使いものになるのは、早稲田から入団した剛球小笠原と、切れ味するどい小坂だけでしょう。小笠原は早稲田を二年生で中退してからドラフトで入団してます。二人ともすぐに出てくると思います。小笠原は神無月さんの青森高校時代の同級生で、剛球で鳴ならしましたが、崩れやすいのが欠点で、早稲田でようやく全国区になりました。制球は抜群、百五十キロ以上のストレートを投げます。百八十一センチ、八十二キロ。一度肩を痛めましたが、頑丈なからだのようで、浪人する前に完治してます。小坂は、ご存知早稲田のエース、百七十二センチと小柄です。速球とカーブの切れる本格派サウスポーで、谷沢さんや荒川と同期です。百四十キロ以上を投げます。制球がいま一つということと、肘に古傷があるということを谷沢さんから聞いてます」
 中が、
「いい説明だった。小坂はたしかドラ一だろう。巨人は堀内と高田以外はへんなやつばかりドラ一で採るなあ」
 戸板が、
「小坂はへんですか」
「ああ、だめだろうね。どのチームもドラフトに順位づけなんか必要ないんだよ。ただ採ったでいいんだ。その中で出てくるやつだけ使えばいい。と言うより、ドラフトという祭りごとをやめて、スカウト制とテスト制オンリーに戻したほうがいい。そうしないと天才選手を拾える確率がどんどん低くなる」
 長谷川コーチが、
「いまの時代には極論だが、正しいだろうね。ドラフト下位にスグレモノが多いのが証拠だ。うちのことを考えても、太田がドラ三、島谷がドラ九だったからね。ドラフトが障害になってることは明らかだ」


         二十四

 菱川が、
「秀孝、おまえはおととし何位だったんだ」
「八位です」
「なるほどね。今年は中日の上位は当たり年だったけど、それでも渋谷が八位だもんな。名前の挙がらなかった選手でもほしい選手がいただろうに……。結局ドラフト外というのがいちばんいい選手の採り方ということか」
 太田が、
「ドラフト制度の目的が契約金を抑えることと球団間の勢力均衡ですから、結局いずれドラフト一本になって、ドラフト外は廃止されると思います。中程度の似たような実力の持ち主同士で野球をするようになるでしょうね。勝ち負けだけを重視する楽しくない野球です。これを大勢の人たちが喜ぶようになるんです。神無月さんの言葉だと、スター不在の大衆社会の爛熟と言うんだそうです。自分と似た者の存在しか許さない社会」
 江藤が、
「えずかァ。ま、そのころにはいまのメンバーはみんな引退しとるやろう。どうなろうとよかよか」
 私は、
「長嶋世代あと五年、王世代あと十年。ぼくたちもそのくらいです。そのあとは、オールドボーイズ集まって、草野球をして暮らしましょう。実現性の薄い夢ですが、夢だけは見ましょう」
 野球小僧たちの大拍手。松本も不思議な笑顔で拍手していた。
 六時六分、名古屋駅に着いた。主人と菅野が改札に迎えにきている。知った顔と握手する。押し寄せる群衆の中でいつもの解散。コーチ連と自宅組は駅玄関へ、木俣は国鉄改札口へ向かう。
「木俣さーん、素振りのしすぎは腰を痛めますよォ」
「わかってるよォ、ありがとう」
 木俣は足を止め、
「じゃ東京でな。野球クイズはもう卒業。わからないことが出てきたらそのつど訊いてくれ」
「そうします」
 手を振った。足木マネージャーが、
「西口に寮バスがきてます。タクシー精算が面倒なので、今年から遠征のあとはそうなりました。予定のある人は乗らなくてもかまいません」
「足木さんも寮に泊まるんですか」
 温顔に問いかけると、
「みなさんをバスまで見送ったら、名鉄で一宮の自宅に帰ります」
 寮生全員がバスに乗った。窓に手を振って別れた。
         †
 三月六日金曜日。七時半起床。粉雪。マイナス二・六度。昨夜はビールに酔い、九時に則武に帰った。九時半に床に入って十時間寝た。
 ルーティーン。快便、硬度よし。耳鳴りほとんど聞こえず。きぅよも早番の百江がいない。メイ子に簡単なものをと頼んで、目玉焼きと納豆、味噌汁の朝食。中日スポーツ。

    
郷弾!
    
ホームランの申し子神無月が打てばみーんな打つ 
 中日ドラゴンズ神無月郷外野手(20)が五日、近鉄とのオープン戦(静岡草薙球場)で二本のソロ本塁打(6号・7号)を放った。一本目は、ピッチャー鈴木啓示、一回二死ランナーなし、フルカウントから外角寄りのスライダーを打ち抜いた。ややバットの先だったが、持ち前の強烈なパワーで打ち出された打球は悠々とスコアボードを越えていった(推定百五十二メートル)。
 二本目は、ピッチャー神部年男、七回ノーアウトランナーなし、ツーツーからの五球目、ナックルがカーブ軌道で入ってくるところをステップなしの屁っぴり腰で、上体のみを回転させた。かなりボールの下を叩いた感じだったが、打球は不気味な上昇を開始し、飛距離を延ばしてレフト芝生観客席の中段に落ちると、まるで卓球の逆回転ボールのようにフェンスに向かって撥ね戻った。常人には不可能な逆スピンだった。
 じつはこの打席、初球にナックルボールを真ん中に投じられ、神無月はびっくりしたように空振りしていた(彼が空振りすることはきわめてめずらしい)。その五球目をホームランしたということは、ナックルが同じ打席のうちに外角にくることを予測し、打法まで準備していたということになる。神のワザとしか言いようがない。
 神が打って進軍指令をくだせば、中も高木も江藤も、木俣も菱川も一枝も打つ。打って打って打ちまくり、十六点。先発の戸板と抑えの松本以外の中継ぎ陣の調子がいま一つだったことから九点も献上したせいで神の軍隊を奮い立たせたとも言えるが、やはり神無月の初回スコアボード越えのホームランが進軍ラッパになって、奮起のスイッチが入ったと見てよいだろう。
 どこまでつづくドラゴンズの快進撃。今年もオープン戦優勝は確実だろうが、サンフランシスコ・ジャイアンツ戦も含めて、できれば十二戦全勝で決めてほしい。なお草薙球場は、三十六年前に日米野球で沢村栄治とベーブ・ルースが名勝負を繰り広げた球場である。


 カズちゃんとメイ子が八時半に出勤。私は菅野と稲葉地まで粉雪に濡れた路面を走る。市電といっしょに走り、市電の車庫で折り返し、また市電といっしょに走る。毎日同じことを繰り返す。人間のからだそのものが動きつづける仕組だから、同じことを繰り返し、疲労し、老いて、止まる。
「繰り返しの宿命だ。生み出されたものの美学。退屈しない」
「はい」
「からだが退屈したら、たいへんなことになる」
「宇宙もそうです。太陽も、樹木も、動物も、退屈しないで同じことをして生きてます」
「うん、寿命が長いか短いかのちがいだけだね。繰り返しながら寿命をまっとうしなければ」
「はい。この五月で四十一になります。トモヨ奥さんも十一月で四十一歳」
「四十一年間まっとうしましたね。寿命は個々まちまちですから、まっとうすることだけを考えましょう」
「はい。……神無月さん、〈まっとう〉してくださいよ」
「もちろん」
 ものごとが美しく見えるあいだは―。汚く見えたら……そう見えることを人に告げずに繰り返しを終えよう。
 北村席に戻り、玄関で寒そうにしているジャッキを抱き締め、トモヨさんと式台に立っている直人の頭を撫で、トモヨさんに抱かれているカンナの頬をなぜる。トモヨさんに小鳥のキスをしてから、菅野とシャワーを浴びにいく。下着とジャージを着替え、座敷に入る。主人夫婦、睦子、千佳子、キッコ、ヒデさんが歓談している。千鶴とソテツがコーヒーを持ってきて落ち着く。トモヨさんと直人が入ってくる。やってきて、睦子の膝に坐る。
「わ、直ちゃん、重い」
 直人は得意そうに睦子を見上げる。トモヨさんが、
「十三キロあるんですよ。二歳七ヶ月」
「身長は?」
「九十一センチ。平均だそうです」
 千佳子が、
「カンナちゃんはどのくらいですか」
「生後ちょうど八カ月、六十九センチ、八キロです。やっぱり平均です。さ、直人、用意して」
「はーい」
 直人は居間にいき、ゆっくり自分で園児服を着る。肩に小さなカバンを提げる。座敷にきたので抱き上げてやる。
「おお、重い重い。よし、もう大人だ。今月末のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦は、じいじと菅野しゃんといっしょに観にきなさい」
「うん、みにいく」
「騒いだり、走り回ったりしちゃだめだよ。野球をちゃんと観てる人に迷惑だし、ボールが飛んできたら危ないからね」
「うん、さわがない」
 トモヨさんが、
「だいじょうぶでしょうか」
「ボールが直接飛びこんでこない席だから安全だ。ただ、走り回ると階段から転げ落ちることもあるから……」
 菅野が、
「だいじょうぶですよ。社長と私のあいだに座らせて退屈させないようにしますから」
 トモヨさんはカンナを女将に預け、母子で傘を差して出かけていった。幣原とジャッキが門まで見送る。
「きのうは市電で市内を散歩したの?」
 ヒデさんに訊くと、
「はい、何度も乗り降りしました。途中でごはん食べたりしながら」
 睦子が、
「和子さんに略地図を書いてもらって、路線名も菅野さんに訊いてメモしました。分岐点でいちいち乗降しなくても、路線名はきちんとついてるんですね。午前早くに出て、最初は駅前から稲葉地町までいきました。駅前から笹島町までは笹島線、笹島町から稲葉地町までは中村線。赤い大鳥居がほんとに大きかった」
 千佳子が、
「終点で降りて、市電の車庫を見てから、地図どおり荒輪井公園のほうへ歩いて西栄町までいき、飛島建設寮跡を見ました」
 ヒデさんが、
「大きな鉄格子門も、鉄筋三階建ての寮も、食堂も、まだもとのままそっくり残ってましたよ。二階建てのバラックのガラス戸を見て、ここで郷さんが勉強したんだなあって思うと、涙が出ました」
 ガラス戸の前に横たわっていたシロの姿や、二階の佐伯さんの窓の明かりを思い出した。
 睦子が、
「それから荒輪井公園の前のかわいらしい喫茶店でモーニングを食べ、市電に乗って笹島を通って栄町まで引き返したんです」
「栄町線だね。名古屋の大黒柱の市電」
「はい。大津通のほうからきた熱田線に乗り換えて、上前津、金山橋、沢上町、高倉と通って熱田駅前に出ました。そこからは名古屋港までいく築港線。右へ曲がって坂道を登って」
「御陵の坂道だ。右に民家が並んで、左に熱田神宮。あの市電道は伏見通と言うんだ。坂のてっぺんの電停が菖蒲池。宮中が近い」
「宮中はあとでいきました。坂をくだって白鳥橋、お寺」
「本遠寺だ」
「もう一度坂道を登って、堀川を渡って左へ曲がると、船方、南一番町」
 ヒデさんが、
「南一番町で降りて、愛知時計の工場の塀と屋根と熱田高校の生垣を眺めながら、千年の電停まで歩きました。千年の十字路から広い通りをずっと見通して、この道が、和子さんが言ってた東海通だ、郷さんが康男さんと歩いた東海通だと思うと、また涙が出ました」
 千佳子が、
「そこから先はどういけばいいのかわからなくなっちゃったのよね」
 睦子が、
「左へ曲がって、とにかく地図に書いてある平畑の浄水場に出て、目の前の八幡神社にお参りして、新幹線のガードをくぐって、堀酒店まできて、道路の反対側を見たら、洒落た民家が建ち並んでました。もちろん西松建設の事務所なんかどこにもなかった。八百清という店がありました。なぜか和子さんの地図に書いてあったんです。ガラス戸をピッタリ閉めて、自販機を何台か置いてあるだけの侘びしい店でした」

「西松が食材を仕入れてた店だよ」
「ああ、それで。仕方なく市電通りのほうへ後戻りして、千年公園と千年小学校の写真を何枚か撮ってから、もう一度平畑へ戻って、大瀬子橋を目指しました。へんに舗装の利いたさびしい道。むかしは繁華な商店街だったんでしょうね」
 ヒデさんが、
「大瀬子橋のたもとの加藤雅江さんの家を見ました。玄関がすぐ見える小さな庭に大きな木が立ってるのでビックリしました」
「クスノキ。あの家のシンボルだね」
「大瀬子橋の歩道から見た堀川は、いつも郷さんが言ってたようにインク色でした。イヤなにおいはしませんでした」
 主人が、
「五年前の昭和四十年からヘドロの浚渫(しゅんせつ)が始まったんですよ。五十年以上かける計画だそうです。南一番町から大瀬子橋まで物見しながら歩いてきたら、クタクタになったでしょう。それからどうしたの?」
「いくところがなくなっちゃったんじゃない?」
 私が訊くと、睦子が、
「いいえ、松葉会さんの屋敷の前を目を逸らしながら通って、宮中の正門までいきました。西松建設からとても遠いですね」
「子供は距離を気にしないから」
「青木小学校と浅間下がそうでしたね」
「ほんと!」
 千佳子が声を上げ、あの日のできごとを連想したのだろう、思わず顔を赤らめた。



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