十九

 三月五日木曜日。六時起床。曇。マイナス○・二度。百江が出かける物音。うがいから始めるルーティーン。軟便より少し硬めの便。シャワーを浴び、風呂に浸かる。背中が痒いので、カズちゃんを呼んで、そっと手のひらでこすってもらう。
「すごい垢! 何年分!」
「二十年分じゃないかな」
 脇腹や尻タボ、尾骶骨あたりのみぞや、陰嚢全体も注意深く指でこすってもらう。こちらは大したことはなかった。胸板や腹は自分でやったが、多少出たくらいだった。両脚や足の甲はまったく出ない。足裏に軽石を当ててもらう。これも痛いくらいで何も出なかった。風呂から上がって爪切り、耳垢取り。自分でやる。聴こうとすれば聞こえる程度の耳鳴り。体調良好。
 ジムトレ二十分、素振り百八十本、三種の神器をきちんとやり、七時十五分、三人で北村席に出かけていく。
 ジャッキを呼んで、庭でひと転がり。直人もやってきていっしょに転がる。みんな集まっている座敷に入る。
「おはようございます!」
「おはようございます!」
 どんどん朝食の用意が進む。ひさしぶりのアジの開きがうれしい。みんなすぐに箸をとる。女将が、
「昼から小雪になるそうやよ」
 主人が、
「静岡は快晴やろう。海のせいで五度はちがう。名古屋は、夏は暑くて、冬は寒いんや」
 ヒデさんが、
「どうしてですか?」
 菅野が、
「日本海からやってくる伊吹おろしのせいです。伊吹山から吹き下ろす北西の風です。これが雪雲を運んでくるんで、毎年雪が降ります」
「盆地でもないのに、夏が暑いわけは?」
 菅野が首をひねったので、カズちゃんが、
「むかしはそれほど暑くなかったのよ。戦後の経済成長のころから」
「ヒートアイランドですか!」
「そう、海からの風が都会の暑い空気を巻きこみながら北へ流れていって、その先の山々で遮られるから逆流しちゃうわけ。山の湿気を吸って戻ってくるの。蒸し暑いわよォ」
 睦子と千佳子が拍手する。
         †
 居間でブレザーに着替えていると、台所でインターホンが鳴り、
「江藤です、ちょっと寄っていきますよ」
 ソテツが、
「どうぞ!」
 とうれしそうな声を上げる。コーヒー、コーヒーと言いながら、イネと幣原が立ち動く。
「おじゃましまァす!」
 江藤、菱川、太田、秀孝、戸板の五人が入ってくる。ジャッキがウォンウォン吠える。
「かわいか犬じゃのう。何ちゅう名前かの」
「ジャッキです」
 しやがんで抱きかかえ、頭を撫でる」
「えとうしゃん!」
 直人が飛びつく。
「おお、坊主、相変わらず美男子やのう。お父ちゃん顔負けばい。ご主人、女将さん、和子さん、それからみなみなさま、今年もよろしくお願いします」
「お願いしまーす!」
 江藤が戸板に、
「どうね、竜宮城やろうもん」
「はあ!」
 ヒデさんが千佳子に耳打ちされながら目を回しそうになっている。
「ほんとうに中日ドラゴンズの選手の人たちなんですね……」
 江藤は彼女を見て、
「お、新メンバーたいね。美しか」
「中島秀子です。どうぞよろしく」
「うちも新メンバーがおるぞ。戸板、挨拶せんね」
「はい、戸板光です。よろしぐお願いします」
 少し訛った。主人が、
「あんたがドラ一の戸板さんか。キリッとした顔しとるなあ」
「ありがとうございます」
「星野さん、最優秀防御率、おめでとうございます」
「は、ありがとうございます」
「今季は沢村賞ですな」
「いえ、防御率のほうがいいです。記者投票で獲る賞より実績を感じられます。最後までライバルを意識して野球ができますから。記録をビシッと残せない世界では賞が重要でしょうけど」
 コーヒーと鬼まんじゅうが出る。菱川が、
「小川さんも神無月さんもただの頑固者じゃないです。野球の世界を汚したくないんですね。神無月さんが大きな文学賞を辞退してるのを知って、深く考えさせられました。人って勲章ではなく、記録こそすべてだってことでしょう」
 太田が、
「神無月さんは野球の記録の世界に偉大な足跡を残す人です。記録に基づいて表彰しない賞は、たとえプロ野球のものでもぜんぶ断るんじゃないですか。記録と重なってるときはいただくでしょうけど」
 睦子が、
「野球の世界では、記録と関係ない賞ってどういうのがあるんですか」
「ほとんどないですね。マスコミの人気投票で決まるのは、新人賞、ベストナイン、沢村賞、MVPぐらいかな。この四つは野球選手として大して価値あるものじゃないですね。それなのに騒がれる」
「新鮮な意見! 野球を見る目がちがってきます」
 直人が、ひしかわしゃん、おおたしゃん、ほしのしゃんと言いながら、背後から首っ玉にかじりつく。みんな上機嫌に、よしよしとその腕を握ってやる。戸板のところにきて戸惑ったので、私は、
「といたしゃん」
 と教えてやった。戸板は直人に名を呼ばれてかじりつかれると、
「はい、ハハハハ」
 と照れくさそうに応え、肩車をしてやった。トモヨさんがあわててやってきて、
「すみません」
 と言いながら直人を抱きかかえた。江藤が、
「奥さん、気ば使わんと自由にさせときなさい。どいつもこいつも大男やけん、めずらしかとでしょう」
 キッコがクスクス笑った。菅野が、
「そろそろ時間ですよ」
「よしゃ、出かくるばい。コーヒーごちそうさん」
 玄関にズラッと並んで見送る。
「おとうちゃん、いってらっしゃい」
「いってきます」
「ホームランうってね」
「打つよ。じいじと菅野さんがラジオを聴いてるから、あとでどうなったか聞くんだぞ」
「うん」
 幣原が門を開けるために小走りに先へいく。ジャッキが追いかける。
 八時四十三分ひかり。ホームまで見送りにきた主人と菅野に手を振る。彼らの姿が消えると、江藤が、
「さっきの新人は、どこからきた人ね」
「青森の野辺地からです」
「ほう、ふるさとのよか人ね」
「はい、ヒデさんと呼んでます。青森高校時代、いつも応援してくれてた人です。友人の妹で、中学校の後輩です。青森高校の後輩でもあります」
「遊びにきたと?」
「名大の受験にきました。キッコといっしょに名大の文学部を受けました」
「キッコさんが名大て!」
「はあ、瓢箪から駒です。中村高校の定時制にかよってたんですが、首席をとるほどの成績優秀者になってしまったので、早めに年度終了してそのまま大検に合格し、大学受験の資格をとりました。去年の十一月です」
 太田が、
「勉強の天才だったんですね」
「睦子と千佳子も呆れてました。この四カ月、彼女たちが見こんで特訓したんですよ。ヒデさんも青森高校の首席みたいですから、二人とも受かるでしょう」
「なんちゅう家かいのう、北村席は」
「ソテツと千鶴も、この春から熱田高校の定時制にいくことになりました。中村高校の定時制部が廃止されたので。こちらはただ勉強したいだけのようです」
 戸板が、
「睦子さんと千佳子さんは、ひょっとして青高の女子マネージャーでねがったですか?」
「夏の大会の最後でチラリと」
「東奥日報の新聞写真で見だ覚えがあります。うだでめんこいふとたぢだったはんで、おべでます」
 菱川が、
「なんだおまえ、安心して東北弁しゃべってるな」
「そうですか? クニの標準語ですよ」
「鬼まんじゅう出したイネさんが、どんぞ食べでくたさい、なんてやったからだろう。あの人も青森らしいぞ」
「千佳子もときどきしゃべります。北村席は自由言語圏ですから」
 秀孝が、
「なんと言っても、江藤さんの九州弁が最強ですよ」
「ワシも標準語たい。ハハハハ」
 九時二十分、浜松でうなぎ弁当を買って寮組が遅い朝めしを食った。私は腹がくちていたので半分残して太田と菱川に分けた。
 静岡九時三十七分着。ダッフルとバットケースとスポーツバッグを抱えて、いったん木のベンチに座り、あたりを眺める。在来線との仕切り塀が見えるのみ。五・五度。江藤と菱川が一服つける。ベンチの背後の総ガラス張りの窓の外に、背の低いビルが建ち並んでいる。ホームの階段を降りて南口玄関に出る。風がある。かわいらしい背の低い駅舎。周囲に空を遮るビルはない。
 駅前のロータリーにSIZUTETSUとローマ字で書いた大型貸切りバスが停まっている。あたりにタクシーが十台余り整列し、時おり歯が抜けるように乗り場に入ってくる。
「きれかバスやのう」
 バスの腹に荷物を入れる。すでにスーツ姿が二十人ほど乗っている。水原監督と足木マネージャーがコーチ連と話をしている。小柄な運転手に頭を下げながら乗りこみ、チームメイトに挨拶。
「オース!」
 一枝や木俣たちが手を挙げた。私たちが乗ってからも十人ほどきた。小川の姿はない。キッチリ休みをとっている。木俣が、
「モリミチは球場に車で乗りつけるそうだ」
「北陸も車でいった男やけんな。二時間、三時間が苦にならんのやろう」
 水原監督が笑う。


         二十

 十時出発。踏切を渡って北側へ出、二筋先を右折して国道1号線(いわゆる東海道)を東進する。小さいビルの雑じるモルタル造りの家並を走っていく。侘びしさのない落ち着いた街。空が広い。日出町交差点。トヨタカローラ、静鉄ビル。家並がぐんと田舎じみてくる。春日一丁目の標識。鳥居通と見まがう。柚木(ゆのき)の標示。左側に静岡鉄道の線路が走っている。
 戸板が、
「神無月さん、景色はおもしろいですか」
「うん、めったに飽きないね」
「景色となったら夢中やけん、なんも話しかけられんたい」
 線路の向こうにこんもりとした森。
「あれは何ですかね?」
「なんやろの」
 この手のことに詳しい中が、
「柚木公園。維新から二次大戦までの戦没者を祀る護国神社の中にある。池もあって広い公園だよ。女房の友人が静岡市に住んでてね、一度二人で遊びにいったついでにここを訪ねたことがある」
 窓外を見つめながら言う。水原監督が、
「どのくらい祀られてるのかね」
「七万六千柱です」
「ほう、そんなに」
「死んだ人びとの遺品も四千点、展示されてます。軍服、軍帽、写真、水筒、千人針、お守り、手紙、日記、飯盒(はんごう)、戦闘靴、文房具、懐中時計、寄書きのある日章旗、双眼鏡、方位磁石、オキシフル、ヨードチンキ……」
「宮崎の護国神社で、こんな胸を打つ石碑を読んだことがあるよ。特攻隊第一号で死んだ学生の歌だ。南海にたとへこの身は果つるともいくとせのちの春を想へば」
 水原監督は感慨無量の顔で空を見上げた。私は窓辺へ顔を逸らして涙を落とした。気づいた菱川が私の肩に手を置いた。それに気づいた江藤が、
「監督、金太郎さんを泣かしたらいけんばい」
「金太郎さんの心臓は南部鉄みたいに響くからね。すまんすまん」
 ショールームが連なる。ダイハツ、ホンダ、マツダ、ヤナセ、etc……。太田コーチが、
「こういう自動車会社が、草薙の試合の特別協賛会社になるんだ。きょうの主催スポンサーはトヨタグループだ。テレビ放映権もラジオ放送権もあるが、オープン戦なので高い金をかけずにラジオ放送だけだな」
 宇野ヘッドコーチが、
「この試合はホームチームが近鉄なので、うちは先攻、三塁側ベンチになる。じゃ、スタメンいくぞ。一番から八番までオープン戦第一試合と同じ。中、高木、江藤、神無月、木俣、菱川、太田、一枝。三打席不調の選手は代打でとっかえていく。交代要員は江島、谷沢、千原、西田、井手。先発ピッチャーは戸板、打たれても打たれなくても三回投げたら交代。二番手、水谷寿伸、六回まで、三番手渋谷、九回まで。打たれすぎた場合の交代要員は、田辺、松本、川畑。バッティングピッチャーは土屋、佐藤、水谷則博」
 長谷川コーチが、
「きょうは百パーセント鈴木啓示だ。五点は取れないだろう。デッドボールが極端に少ないピッチャーだから、安心して全力で奮闘してくれ」
 長沼の交差点。後久(ごきゅう)川という運河のような川を渡り、工場群を過ぎて、国吉田の交差点で右折、工場群に挟まれた道をいく。真青な空に大小の綿雲が浮かんでいる。上天気。新幹線と東海道本線が並走する線路を見下ろしながら陸橋を渡り、住宅街に入る。静岡鉄道清水線の運動場前駅の踏切を渡る。球場の外壁が家並に見え隠れする。森に囲まれた寂れた町並がうれしい。照明塔の姿はない。
 草薙球場到着。まあまあの人だかり。青少年が多い。若い女性は少女を含めてほとんどいない。
「ドラゴンズの若い女性ファンは北村席だけですね」
 秀孝が、
「主婦層はかなりいるんですけどね」
「ほんとだ、いるね。薄茶色の防寒服を着てる人ばかりだから、目につかなかった」
 駐車場に入る。ぞろぞろ降りる。バスの腹から荷物を引き出す。人波に押されながら正面ゲートへ。ベーブ・ルースと沢村栄治の銅像。回廊へ入る。自販機が一つきり。床に清掃がいきわたっている。一本の隘路へ曲がりこむと、一転してごたごたした雰囲気になる。監督・コーチ控室や、広い屋内ブルペンや、トレーナー室を横目に見ながら、三塁側ロッカールームに入る。古くて、汚い。広さはまずまず。ロッカーは、載せ板一枚、金棒一本渡してあるきり。金棒にはハンガーが二本掛かっている。シンプルの極みだ。正面奥に縦長の鏡が貼ってある。無用のものに思われる。高木が、
「夏はよくゴキブリが出るそうだ。金太郎さんは何ともないだろう」
「この世でいちばん怖いです。姿を見たら逃げます」
 中が、
「金太郎さんにも怖いものがあるのか。スクープだね」
 太田が、
「俺もだめです。俺の母親は手で握って窓から投げてました。飛んで戻ってくるんですよ。怖かったあ」
 ドッと笑いが湧いた。江藤の一声。
「よーし、きょうもいくぜー!」
「ウッシャー!」
 いっせいにユニフォームに着替える。スパイクを履き、帽子をかぶる。高木がやってきた。腕時計を見て、
「十時四十五分か。バッティング練習は?」
 一枝が、
「十一時から三十分」
「よし、間に合った。東名スイスイきたよ」
 江藤が、
「モリミチのスイスイはえずか。制限時速なぞ関係なかけんな」
 高木は渋い笑顔をする。
 ベンチに入る。球場を眺めわたす。九十一メートルに百十五メートル。センターが迫ってくるように感じる。六基の照明塔は、といきたいところだが、一基もない。焦げ茶色の内野フィールド、鮮やかとは言えないまだらな外野の芝生、そのほかはモスグリーン一色。ベンチの二列の長椅子もモスグリーン、フェンスも、芝生に突き立つバックスクリーンも濃い緑。その後方に十本のコンクリート支柱に載っかった板造りの直方体がデンと据えてある。スコアボード。これだけは黒く塗られている。真ん中に丸時計。旗が三本。
 吊りネットのバックネット席は坐りの浅いオレンジ色の椅子。最上部に寺院の宝物殿のような、長々しい巨大な建物が平伏している。何なのかはわからない。あそこまでファールボールが届かないことは確かだ。バックネットの下部は放送室の窓がズラッと並んでいて、すぐ上まで客席が迫っている。一、三塁ベンチの上からつづく内野観覧席はかなり広いスタンドで、すべて淡い水色の板を架け渡した簡便な造りだ。外野は芝生席。防球壁はコンクリートでできていて、その外周は森に囲まれている。杉山コーチが、
「金太郎さん、三本いって」
「はい」
 もう十人ほどすませたようだ。土屋から二本防球壁越え、一本スコアボードの右下に打ち当てた。スタンドはほぼ満員になっているが、北陸の球場と同様、それほどの歓声は上がらない。
「打球にご注意くださいませ」
 近鉄お抱えのウグイス嬢がアナウンスする。事務的で、後楽園の務台嬢のそれに似ている。
 近鉄のバッティング練習。三原監督がダッグアウトの端に立っている。土井正博がポンポン芝生席に打ちこむ。あとは貧打線の評判どおりサッパリだ。へんに大振りをしている口ヒゲを生やした大男に見覚えがあると思ったら、阪神のヒゲ辻だった。今年から近鉄にきたようだ。
 井上コーチのノックでドラゴンズの守備練習が始まる。内野八分、高木のバックトス中心の4―6―3ゲッツープレイ三本、一枝の6―4―3のゲッツープレイ三本、菱川の5―6―3、5―4―3のゲッツープレイ一本ずつ、江藤の3―6―3、3―4―3のゲッツープレイ一本ずつ。外野七分。太田と中はゴロを高木か一枝の中継でバックホーム一本ずつ、フライをセカンドノーバウンド送球一本ずつ、低いワンバウンドでバックホーム一本ずつ。このバックホームのとき、中の肩が捨てたものではないといつもわかる。私は菱川の中継でバックホーム一本、そのほかに一塁と、三塁と、ホームへノーバウンド低空飛行。観客が沸く。この十数分のあいだ、内野手も外野手も精いっぱい自分の姿を派手やかに見せようとする。プロ野球の華、プロ野球選手の生甲斐、麗しきスタンドプレイ。
 近鉄の守備練習のあいだに、正門外の屋台から、大盛り焼きそば三十人分がロッカールームに届けられる。水原監督の心遣いだ。監督とコーチ、トレーナー、足木マネージャーは銅像前の一般食堂へいったとのこと。焼きそばで足りない連中はその食堂へ向かう。私は焼きそばでじゅうぶん。それに時間がない。さすがにベンチ組は、菱川でさえ焼きそばでがまんする。がまんが利かないのは帯同組だ。
「静岡駅で駅弁ば買うたらよかろうもん。静岡は駅弁のうまかぞ」
 中が、
「東海軒の鯛めし」
「ワシャ、幕の内弁当ばい。米がよかけん、冷めてもうまかっちゃん」
 菱川が、
「俺はその二つ食う」
 メンバー表交換も終わり、スタメン発表となる。近鉄のウグイス嬢が平坦な抑揚でアナウンスしていく。スッスッという感じ。
「先攻は中日ドラゴンズ、一番……」
 宇野ヘッドコーチの申し渡したとおりのスタメン。
「後攻は近鉄バファローズ、一番センター、山田、背番号11……」
 二番ショート安井、三番ライト永淵、四番レフト土井、五番ファースト小川、六番セカンド飯田、七番サード相川(おととしまで中日にいて、吉沢さんが中日に戻ってくるのと交換に近鉄にきたんだった)、八番キャッチャー辻(移籍早々スタメンか。期待されているんだな)、九番ピッチャー鈴木。
「球審は久保山、塁審一塁寺本、二塁前川、三塁大野、線審ライト斎田、レフト五十嵐、以上でございます」
 最後まで淡々とアナウンスし終える。今回も始球式はなかった。これからも、その試合がよほど目立ったイベントに関わっていないかぎり、たとえば開幕戦や日本シリーズでないかぎり、中日の球団フロントは始球式を断りつづけるだろうと思った。私ごとき青二才の好悪に迎合してのことではなく、野球というゲームを浮ついた見世物にしたくないと心から願ってのことだ。
 バファローズの選手が守備に散った。バッテリーも野手もみんな大きい。鈴木啓示の球がドスン、ドスンと辻のミットに収まる。百五十キロ前後の剛球だ。ワインドアップしないで腰から胸前にグローブを持ち上げ、左腕を後方へ大きく回し、体高を低めて踏み出しながら力いっぱい投げ下ろす。背番号1というのが奇異に映る。太田が、
「小さいころに右腕を骨折して、左投げに替えたそうです」
「彼も? 尾崎と江夏は、健康な腕をもう一本の健康な腕に替えたんだったけど、ぼくのようなケースの選手もいたんだね」
「はい、調べて驚きました。やっぱり替えた腕が神無月さんと同じように鉄砲肩だったんですね」
「一回の表、中日ドラゴンズの攻撃は、一番センター中、背番号3」
 スタンドがシーンとしている。コーチ連のかけ声。
「さ、利ちゃん、いこ」
「ガーッといこ」
 ドスン! 初球のストレートが内角真ん中寄りに決まった。打てない球ではない。球筋を見たのだ。フロートはしない。それで被本塁打数が異常に多くなる。私も去年のオープン戦で一回対戦して、ライトへホームランを打っている。二球目、肩を回して強く振り下ろす。放っておけばドスンになる直球だ。ど真ん中。振った、食った。
「オーッシ!」
 杉山コーチの怒鳴り声。コーチャーズボックスの水原監督の背中といっしょに打球を見つめる。いつもの一直線の弾道。背番号10が背走してすぐ止まる。平べったいライトスタンド上段に飛びこんだ。観客が左右に割れた切れ目で弾むと防球壁にぶつかった。中は森下コーチとタッチし、一塁を回ってスタスタ走りになる。ホーバークラフトはお休み。鈴木がグローブを腰にあてた格好でライトスタンドを見やりながら、首をひねった。水原監督とタッチ、見交わす笑顔、尻ポーン、ホーム突撃、揉みくちゃ。


         二十一

 二番高木。悠然とした構え。太田に、
「直球以外は?」
「ふつうのカーブ、ふつうのスライダー、それとスズボール」
「何、それ」
「フォークです。スピードがあるので効果満点。ごくたまに、あまり曲がらないシュートを投げるそうです」
 初球、内角高目、ドスン、ストライク。高木は目を丸くしてベンチを振り返った。相当速いのだ。一枝が、
「大して伸びてないぞ。いったれー!」
 二球目、外角高目、またドスンか。振りにいく。シュートだ! かろうじてかすってネットへファール。ポーカーフェイスの高木が嫌そうな顔をする。変化の少ないシュートは打ちにくい。それにしても鈴木はほとんど外し球を投げない。常にストライクコースで勝負してくる。潔い男だ。三球目、真ん中低目直球、これか! フォーク、空振り。高木が天を見上げて帰ってくる。私はネクストバッターズサークルに向かいながら、
「落ちますか」
「ちょうど空振りするくらい落ちる」
 低目のフォークに手を出すな。忘れがちな鉄則だ。フォークピッチャーの真ん中低目のストレートは、スリーストライ目でないかぎり見逃そう。フォークかもしれないから。
 三番江藤。去年のオープン戦でも鈴木からアベックホームランを打った。今年はどうだろう? 初球真ん中高目、高く舞い上がるネットオーバーのファール。このとき、あの宝物殿のような〈建物〉は、巨大な〈鉄傘〉であったとわかった。瞥見しただけでは〈傘〉だと認識できなかった。しかしこんな幅の狭い鉄傘もめずらしい。ネットの後方をちっとも守っていない。最上段の雨避けになっているだけだ。鉄傘の端に当たって落ちてくるボールはよほど危険なものになる。江藤のファールボールは懸念したとおり客席の真ん中に落ちた。二球目、真ん中低目、きょう初めてのカーブ、振りにいく。ほんの少し曲がっただけだったが食いこまれ、ショートの頭へハーフライナー。ストレート予想の右打者がカーブを打つとこうなるのか。
 金太郎さん、金太郎の大歓声。ボックスぎりぎりまで前へ出る。これで初球は胸もとのカーブを投げられても曲がり鼻を叩ける。外角カーブならクロスに踏みこむ。カーブ、オーケイ。内角シュートはバットを折られる。手を出さない。高目フォークは落ちぎわを打つ。低目フォークとストレートは打たない。
 初球、外角低目へズドン、ストライク。打たない。二球目、真ん中低目ストレート、ズドン、ストライク。打たない。しかしフォークでなかった。ツーナッシング。辻が、
「投げる球がねえなあ」
 と聞こえよがしに呟く。片膝突いて低く構える。
 三球目、真ん中低目ストレート、いや、フォーク、空振りを取るつもりだ。思い切って見逃す、ボール。
「困っちゃったなあ。内角で勝負してみるか」
 そんなつもりのないことは百も承知だ。四球目、初球と同じ外角低目へストレート、いやフォークだ。見逃せばストライクになりそうだ。見逃さず、右手一本で三塁線へファール。
「さ、ほんと困ったぞ」
 五球目、内角高目、ズドン、外れてボール。鈴木が意識して外すなどめずらしい。中日ベンチからの声。
「コマッタちゃん金太郎、ピッチャーマイッタちゃん!」
「さあ、次、どこ投げる?」
 六球目、外角高目へ剛球、スライダーしなければ打てる、スライダーしませんように! 踏みこむ、スライダー! 見逃す、ボール! ようやく喚声。静かな観衆が目覚めてむずかりはじめたようだ。ツースリー。鈴木に失投はない。とすると、私は外角低目と真ん中低目と内角高目のストレートを振らなかったし、真ん中低目のフォークを見逃し、外角高目のスライダーを見逃し、外角低目のフォークはファールしたので、残るは、内角低目、それともど真ん中の腰の高さかど真ん中高目、あるいは外角腰の高さ……球種がわからないし、選択肢が多すぎる。いつもこうなる。直観は? ど真ん中高目のストレート、あるいは敬遠。負けず嫌いの彼は敬遠しない。
 七球目、腕の振りは? まちがいなくストレート。どこだ? ど真ん中高目! フロートなし、打ち据える。ズシンときた。思ったよりバットの先だ。ナチュラルにスライダーがかかったのか。センターへ高く舞い上がる。芯は食っているが伸びはよくない。しかし百十五メートルは軽く超えるだろう。大歓声の中を走り出す。森下コーチが左肘をグイと引き、右こぶしをスコアボードに向かって突き出す。
「スコアボードは無理ですよ」
「いや、いった!」
 ファーストの小川亨がボーッとセンターの上空を見上げている。森下コーチとタッチして一塁ベースを回ると、白球が三本の旗目がけて落ちかかろうとしていた。旗のあいだをスッと抜けた。
「ヒャ、すげえ!」
 セカンドの飯田が頓狂な声を上げた。ショートの安井がスコアボードの上空を凝視している。そして、
「おっかねえなあ……」
 と呟きながら、帽子の庇をつかんでうつむいた。サードの相川は打たれた鈴木に声をかけるためにマウンドへ寄っていった。水原監督と二日ぶりの抱擁。スタンドの戸惑ったような拍手。
「ライナーでいってたら時計粉砕だった。粉砕して時間を止めたかったよ」
「監督……」
「時計が止まるだけだね」
「生きてるあいだ、時間を止めましょう」
「そうだね」
 仲間の祝福の中に飛びこむ。握手、抱擁、握手、握手、抱擁。一枝が、
「球場を大きく見せてくれてサンキュー」
 江藤が、
「みんな塀までしか見んけんな」
 次打者の木俣のバットから金属音が上がる。
「よしゃ、これもいったー!」
 白球が米粒になって防球壁の彼方の森へ飛び出ていった。三対ゼロ。
 つづく菱川セカンド強襲ヒット、太田センター前ヒット、一枝ライト前ヒット、菱川還って四対ゼロ、戸板三振。中ファーストライナー、飛び出していた一枝タッチアウト。
 一回裏、近鉄の攻撃。一番山田フォアボール。二番安井の一球目に山田盗塁。安井セカンドゴロ、山田三進。永淵三塁ファールフライ。土井サードゴロ。
 二回表、高木左中間二塁打、江藤右中間二塁打、五対ゼロ。私三塁線二塁打(外角のカーブを素直に打った)、ツルベ打ち。六対ゼロ。鈴木ノックアウト。
 ピッチャー佐々木宏一郎に交代。アンダースローからの切れるシュートと逃げ足の速いスライダーにやられて、木俣サードフライ、菱川ファーストフライ、太田キャッチャーフライ。
 二回裏、戸板のエンジンが温まってきて、小川、飯田、連続三振。相川ショートゴロ。
 三回表、一枝詰まったピッチャーライナー。戸板痛烈なファーストゴロ。江藤が、
「バッティング、悪くなかぞ」
 戻ってきた戸板に井上コーチが、ナイスバッティング! の声をかけた。中、三遊間の内野安打。高木とのあいだにヒットエンドラン、ライト前に抜けて一塁、三塁。江藤右中間フェンスぎわで山田に捕球されるライトフライ。
 三回裏、辻カーブをうまく掬って、私へのレフト前ヒット。佐々木ボテボテのサードゴロ、封殺ならず一塁アウトのみ。山田私への浅いレフトフライ。永淵太田への深いライトフライ、佐々木三進。土井三振。戸板お役御免。
 四回表、私のセンター前へ抜けそうなハーフライナーを飯田が好捕。微妙に早く曲がりこんできた外角低目のスライダーを打ち損じた。遅い球に手が痺れた。菱川、へんに怖がられてフォアボール。太田ショートゴロゲッツー。
 観客が退屈しはじめた四回裏、よくしたもので、戸板から交代した水谷寿伸が打ちこまれた。小川三振のあと、飯田一、二塁間ヒット、すぐさま盗塁、相川センター前ヒット、飯田生還して六対一。辻また私の前へヒット、ノーアウト一、二塁。なんとここでピッチャーの佐々木がセンターオーバーのスリーランホームランを放った。冴えないスイングだったが、当たりどころがよかったのか、あれよあれよという間に中の頭を越えた。一番山田に戻って、初球の真ん中カーブをレフトスタンド前段へホームラン。六対五。観客がふだんになく興奮していることがわかった。いちばん興奮しているのは近鉄チームのようだった。安井私の前へゴロのヒット。まだノーアウトだ。これは〈打たれすぎた場合〉にあたる。
「中日ドラゴンズ、ピッチャーの交代を申し上げます。水谷寿伸に代わりまして田辺、ピッチャー田辺、背番号33」
 去年まで吉沢さんのものだった背番号だ。いま吉沢さんは70をつけている。もと同僚だった田辺の〈晴れ姿〉を見て近鉄ベンチが身を乗り出している。近鉄七年間で十勝しか挙げていない男を小馬鹿にしている様子だ。
「ひょっとこ、変身したんかい!」
 口汚い野次が飛ぶ。たしかに口の尖った長い顔で、蛸に似ている。帽子がひどく高い位置にあるのでよほど長面だとわかる。新参の三原監督のもと、おととし去年と一勝もできずに放出された。いまマウンドで投球練習をする田辺は、足を高く上げ、星飛雄馬のような溌溂としたフォームからスピードの乗ったストレートを投げこむ。変化球も切れている。ドラゴンズに移籍したことが彼の覇気を甦らせたのにちがいない。水原監督も長谷川コーチも大きな期待を寄せているようだ。きょうもバスの前席で、
「変則だけど投げ方が合ってるんだろうね。いままで一度も肩肘を壊したことがないのは大きな強みだ」
「ようやく四、五番手以降が充実しましたね。田辺、渋谷、松本、川畑、佐藤。十二球団随一じゃないですか」
「ほかのチームを整理同然で追われた選手が活躍するというのが、ドラゴンズの伝統のようだからね」
 と、にこやかにしゃべり合っていた。
「もうすぐ子供生まれるんだろう。田辺の自宅は大阪だった?」
 足木マネージャーが、
「はい、大阪です。実家は徳島です。子供は先月キャンプ中に生まれました。男の子だそうです。自分も生まれ変わった気分でしょう。近鉄にいるときはどうでもいいやという投げやりな気持ちがあったそうですが、中日にきてからはルーキーになったつもりでフレッシュな気持ちでやっていると言ってました。遠征先にはホテル宿舎がありますけど、名古屋はないので寮に泊まってコンディション作りをしてます」
 当の田辺は、後部座席で新しい仲間たちと歓談していた。彼はむかしの彼ならず。もとの同僚たちはキリキリ舞いさせられるだろう。
 永淵ショートゴロゲッツー。土井レフト前ヒット。きょうは忙しい。小川亨三振。
 五回表。トンボが入る。みんなでベンチに座ってのんびり眺める。菱川が、
「一枝さん、大阪の実家から万博会場は近いんですか」
「遠い。車で四十分かかる」
「そのくらいなら見物にいくでしょう」
「ああ、オールスター休みのときにな」
 江藤が小指を立てて、
「何本と約束しとるんね」
「二本、男児」
 くだらないシャレを言う。思わず私は噴き出した。ベンチじゅうが大笑いになる。こういう単純なものに私は敏感に反応する。
 ―カックントヤッタッカナ、チョイサット。
「さあ、シュートをしばいて、水原さんと抱き合いっこしてくるか」
 その言葉どおり、一枝は初球のシュートをシバキ上げてレフト上段へ叩きこんだ。ガッチリ水原監督と抱擁。スタンドの拍手に笑いが雑じった。七対五。
 九番田辺。星飛雄馬のバッティングは? 構えはいい。初球、内角シュート、反り返ってよける。だめだ。カーブ、スライダーで三球三振。太田が、
「佐々木を初めて見るような顔してますけど、去年のオープン戦で対戦してるんですよ」
「そうだっけ」
「はい。鈴木、バッキー、佐々木と出てきて、鈴木と佐々木からホームラン打ってます。鈴木はライト中段、佐々木からはバックスクリーンでした」
 ホームランを打った相手はたいてい憶えているが、この男は忘れていた。
 一番中。狙いは外角シュートだろう。ストレート、カーブ、二球つづけて見逃したあと、外角やや低目のシュートをジャストミートして、レフト線へ二塁打。芸術品。
 二番高木。こういうとき彼は一発を狙わない。中を還して自分を塁に残し、江藤か私に掃除してもらおうとする。高木はシュートを執拗に〈高田ファール〉で凌ぎ、カーブ、スライダーは見逃したりファールにしたりする。二打席連続で自分を攻略しているバッターに、そう簡単に打てそうな球は投げてこない。結局高木は中を還せず、粘ってフォアボールで出た。
 三番江藤。そろそろアベックホームランを期待するけれども、江藤は下手投げのピッチャーが苦手だ。私も真っ向勝負の感じがしないピッチャーは苦手だ。一足早くランナーを浚ってほしかったが、江藤はあえて浚う努力をしないで、内角高目のシュートに踏みこみユニフォームをかすめるデッドボールをもぎ取った。辻がストライクだと主張したが却下された。


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