十六

 冬物のスラックスとブラウスで身支度した百江が降りてくる。キスをする。しばらく臼山のコラムを見つめ、
「すてきな文章ですね。でも……幸福そのものというのは甘いですね。神無月さんのことはわかろうとしても、わかったつもりになるだけです。まあ、第一回目でこれなら、相当人気が出ますよ。ポットにコーヒーを入れて机に置いておきました。きょうは中番も半分出ることにしましたから、四時過ぎに帰ってきます」
「焦って帰ってくる必要はないよ。こないかもしれないし、きても、百江がくるまで待ってるから」
「はい、転ばないように帰ってきます。ホホ」
「シネマ・ホームタウンは順調?」
「ええ、カーテンウォールの中で、何か着々と進めてるみたいですよ」
「せり出し席の二階がどうでき上がるのか楽しみだ」
「シートカバーの背中に商店やアパート、マンションなんかの宣伝を入れれば、いい入費になります」
「そのアイデア、お父さんか菅野さんに言っといて」
「はい。じゃ、いってきます」
「いってらっしゃい」
 百江は一時前に出ていった。牛巻坂第三章のつづきにかかる。
         †
 午後に入って雨が上がった。鉛筆を置く。節子との初夜を粗く書き終える。手入れは草薙から帰ってから。
 裸足で庭に出て、濡れた芝の上で素振り。ジム部屋に戻り、三種の神器をしたあと、一連の鍛練を十分ずつ。ひさしぶりにバーベルを挙げる。八十キロを五回。一時十五分に菅野がやってきた。
「切符は夕食のときに。きょうは天神山まで」
「オーライ。駅前から天神山までの名無しの市電道は、やっぱり名前があるんでしょう?」
「はい、中央郵便局から那古野までは広井町駅前線で、那古野から天神山までは菊井町線です」
「美濃路や笈瀬川筋みたいに、どの道にも名前があるんだね」
「ぜんぶに名前があります。じゃないと道路台帳に記載できませんから。細い道にも番号がついてます」
 走り出す。
「ほかに何か疑問がありますか?」
「信号に名前があったりなかったり、県道と市道のちがいとか」
「信号は、幹線道路が交差してたり、その付近の土地名が書いてあったり、ひどく適当です。警察なんかは犯人追跡に利用するようですね。都道府県道は路線番号標識がかならず設置してあります。国道は逆三角形、県道は六角形です。そのほかが市道、林道、農道だと思えばいいですね」
 則武のガードをくぐって中央郵便局から那古野へ。
「……臼山さん、いいコラム書いてました。夜明けのうた、たしかに神無月さんの悲しみに初めて触れた人にはショックでしょう。でも、青森とか流謫とか、プロ野球選手になったとか、そういう外部環境的な捉え方のレベルでは神無月さんの悲しみは理解できません。神無月さんの耳の奥には絶えず悲しい歌が流れてます。たぶん周囲の景色が明るく輝けば輝くほど、頻繁に流れてくるんだと思います。自分をその輝きに溶かしこもうとしない本能的な抑制作用だとしか考えられない。浮かれ騒ぎを明るさと考えずに、悲しみそのものを明るい喜ばしいものだと考えてるにちがいないんです。だからいつも悲しい歌を唄う。明るい歌も悲しい声で唄う。神無月さんは命を懸けて悲しみを得たんです。私たちはそのことを知っているので、どんなときも、神無月さんがさびしそうにしているときも、笑ってはしゃいでいるときも目が痛くなります。そして心の底から幸福になります。ピッタリそばに暮らしていなければ、そういう気持ちにはなりません。私たちは自分の感激だけで神無月さんを抱き締めたい気持ちにはなれない。抱き締めて救済してやりたいなんておこがましくて神無月さんの悲しみは恐ろしいほど大きい。抱き締めたいんじゃなく、抱き締められたい。抱き締められて、神無月さんの悲しみの一部でも私たちの胸の中に流しこんでほしいと思う」
 那古野から菊井町へ。
「百江もどっか不満そうだったけど……でも、臼山をかわいがってやってくださいね」
「もちろんですよ。神無月さんに惚れる人はだれでも大歓迎です」
 企業ビルや学校のあいだにひっそり息づいている判子屋、雀荘、食い物屋、喫茶店、接骨院。これほど特徴のない道路もめずらしい。左手を指差し、
「美英堂。これは老舗ですね」
「ええ、板金会社です。金属容器なんかを作ってるんです」
 道の両側に病院。菊井町交差点。すでに何台もの市電とすれちがい、追い抜かれた。右に岐阜信用金庫、左にポツンと弘扇(こうせん)堂という廃屋じみた店。指差すと、
「うちわ、扇子の老舗です。日用品も売ってます」
「こうなると不気味の域ですね」
「知りたがりの神無月さんには、好奇心のいい餌でしょう」
「知ってガッカリ」
「どうでもいいものを知ろうとした罰です」
 右に電電公社、左に菊井町郵便局、右にガソリンスタンド、左にこれまた廃屋じみたヒシダ薬局、川端敷物、右に旭南堂電器店、左に森自転車、居酒屋旭南堂。
「なんとか堂が多いな。何ですかね」
「この通りだけのハヤリのようです。終戦後に流行ったんでしょう」
 右に歯科専門学校、左に美容院、伊藤歯科、右に理容トミ、左にフナハシ煙草店、企業ビル以外はすべて樹間の下草だ。右に啓明学館高校、左にほぼ廃屋のまこと衣料、岡島印房、右に石黒菓子道具店? 左に中京堂ラジオ店、右に末廣堂。
「あの末廣堂というのは?」
「工芸品を売ってます」
 ××堂と言い××店と言い、もうほとんど何を商っているのか不明だ。
 押切のだだっ広い交差点にきた。空が高くなる。相変わらず電柱のスピーカーから流行歌が流れている。私は立ち止まり、
「ああ、いい声だ」
「藤圭子ですね。女のブルース」

 布施明の『おもいで』もこの交差点から聞こえてきた。二人電柱の下にたたずんで、最後まで聴き、ゆっくり走り出す。右にクリーニング原田、読売新聞販売所、名古屋西長生接骨院、安藤歯科、左に太要不動産、マルタ食品、天神山木材、右に桜寿し、豊正堂、井上理容店、スズヤ時計店、ヘアサロンテルミ、このあたりからさまざまな自家営業店が壁を接して並ぶ。左に西消防署、タチバナ商会、ワタコ酒店、右に平田屋商店、大成通商、中日新聞販売店。西警察署前の信号。右に和紙みぞの、花の木鍼灸接骨院、タナカカメラ、左にトタン家の芙美文化服装学院、ビニールの軒庇が傾いている。

「カズちゃんのおととしのスクラップブックを見ました。水原監督のことがだいぶ貼ってあった。江藤さんと水原監督の仲が悪いなんて記事はなかった」
「もともと悪くなんかなかったんですよ。江藤さんは五、六年前から江藤自動車整備工場という、三十人ほど従業員を抱えた会社を経営してました。赤字でした。水原さんは監督に就任するに当たって、江藤さんに、知ってのとおり狂気じみて野球に誠実な神無月という男が入ってくる、きみも彼に負けず劣らず誠実な男だとわかっている、会社の借金は私が何とかするので、どうか会社経営の中心から離れて野球に集中してほしい、さもなければ来年トレードを考えてもらう、そうなったらぼくもドラゴンズを辞めることになるだろう、監督就任にあたって私の狙いは優勝一本だ、優勝を狙うにはきみと神無月の歯車が噛み合わなければ不可能だ、したがって監督をする意味がなくなる、と諭しました。東海テレビの面談のあとです。江藤さんは、ワシは中日で始まり中日で終わる男だ、お説納得した、会社を畳む、借金は自分で返す、もともと身内をいまより豊かにつもりで始めた会社だ、ワシのいまの給料でも身内はじゅうぶん豊かに暮らせる、と答えました。江藤さんはそのことを親しい番記者に話してしまった。それが運悪く〈江藤と水原の確執〉というゴシップとして伝わったわけです。すべてマスコミのでっち上げです」
 天神山南の電停。西高へいく道へ曲がりこむ。右に天神山公園、左に天神山中学校。笈瀬川筋に入る。西高正門、名古屋西郵便局を通り過ぎていく。なつかしさのない古い家が並ぶ。美濃路。
「花屋どうします?」
「きょうはオミット。オープン戦終わってから」
「アイアイサー」
 荻の湯の煙突を見上げ、うなぎ屋宮宇を左にチラと眺めてから、笈瀬川筋を戻っていく。よしのりを荷台に乗せて走った道だ。時代に取り残されたような二階建ての板家やトタン家が壁を接して建っている。中に居酒屋〈優〉。暖簾はなく板戸が一枚。引いて入って名前のいわれを聞きたくなるような店だ。家所内科の看板。何と読むのだろう。鉄筋三階建ての榎小学校。歴史がありそうだ。
「菅野さんの母校だね」
「はい。昭和十年入学です。名古屋市榎尋常小学校。卒業の年に名古屋市榎国民学校となりました」
「人の歴史がつながっていくのは楽しいね。中学校は天神山中学校。在学中から学徒勤労動員」
「はい」
「いまは安心して見上げる青空だ」
 空を見上げながら大通りに出る。
「国道22号線です」
 車に注意して渡る。はるか遠くのビルの群れを見やり、古い家並を走る。得体の知れない、知られたくない建物ばかりになる。イチョウ並木も貧しい形ばかりのものになる。菊ノ尾通二丁目のバス停、理容鈴木、河村会計事務所、二階建て長屋の一階に美容室リアン、石黒製菓、毛利肉店、マンションが増えはじめる。新福理容店。
「しんふく? しんぶく? あらふく?」
「しんぷくです」
 宮崎薬品、西藪下町のバス停、竹内印刷所、広大なノリタケ緑地、背高のビルが迫ってくる。ガソリンスタンド、稲葉塗装店、日本玉台? 
「なんすか?」
「ビリヤード道具や機材の会社です」
 変わり玉のように変わる景色。毎日願っている変化の叶う日が、こうしてたまにあることがうれしい。ふたたび大通りに出る。
「国道200号線です」
 渡る。銀杏並木の幹が太くなって、間隔が狭まり、緑も色鮮やかになる。食い物屋が軒並と言っていいくらいになる。大小の有料駐車場がはまりこむ。名駅通にぶつかる。
「帰ってきましたね」
「はい、往復七キロ。四十分」
 信号標識は牛島町。渡る。事務所ビルばかりになる。土手の上を走る電車が見える。
「この線路沿いの道は、牛島町第56号線です」
 中村郡道に出、ガードをくぐる。則武一丁目の信号を左折。新幹線ガード沿いの道。駅ビルが林立しはじめる。河合塾。ここからの道は一見整頓されているようで無秩序の極みになる。暗記していないかぎり、どの一区画の道も迷路になる。太閤通口。視線を下げ、ビルとガードの谷間を走っていく。ガード側に駅地下街への入口がポコポコ開いている。
「この道にも名前があるんですか?」
「あります。駅西第一号線です」
 右折して昭和通りに入る。
         †
 牛巻坂。草薙にいく前に、きょう書いた原稿の手入れ。一時間ほど。
「こんにちは」
 思ったとおり、四時過ぎにキッコが則武の玄関を開けた。式台に迎えに出る。
「お嬢さんには夜にいくゆっとったけど、試験終わったらお股がたまらんなって、早よきてもうた。チャチャッとしてくれればええさかい。ただなァ、危ない日なんよ」
「だいじょうぶ、百江がすぐ帰ってくる。二日目のできはどうだった?」
「古文がさっぱりやったけど、現国はけっこういけた。生物と地学はまあまあやな。ムッちゃんも千佳ちゃんも受かったやろう言うてくれる。せやけど、あたしは自信があれへん」
「ヒデさんもいっしょに帰ってきたんじゃないの?」
「うん、きた。神無月さんを迎えにいってくるって出てきたわ。三十分ぐらいだいじょうぶやろう」
 そこへ百江が帰ってきた。
「あ、百江さん、助かったわ。自分から神無月さんに頼んどいて、危ない日やゆうことを忘れとったんやで。お願いしてええ?」
「喜んで。神無月さんから申しつけられてます」
「うれしいわ。せやったら、早よしまひょ。秀子さんがきとるさかい」


         十七 

 二階の百江の部屋へ三人でいく。キッコと百江はすぐに剥き出しのからだになり、蒲団に横たわって私の攻撃に備える。私は服を脱いだが、攻撃の態勢が整わない。百江が口で可能にする。芯が入らず萎みそうな予感がしたので、半勃ちのままキッコの厚ぼったい小陰唇に挟みこむようにして挿入し、膣の熱に感激することで中程度の勃起を促す。素早くこすり、刺激を連続的なものにして硬度を増していく。ようやくしっかりと芯が入り、長さも定まった。安心だ。難なく射精できる。
 硬度を確かめながら抽送を開始する。とたんにキッコが達する。その瞬間の膣の収縮が刺激になって抽送の意欲を増す。三度、四度、五度とアクメを重ねさせる。キッコが喉を絞ってうなりはじめる。百江が私の腕に手を置き、
「キッコさん、感じすぎてますよ。苦しそう」
 自分を〈用立てる〉ことだけに夢中で、キッコの愉悦の反応を意識していなかったことにふと気づく。結合部を見る。愛液が間断なく飛んでいる。キッコの顔を見る。首が横に倒れ、苦しげに荒い息をしている。
「も、あかん、も、あかん……」
 と繰り返している。あわてて引き抜くと、両脚が烈しく硬直して痙攣した。すぐさま百江に挿入し、一分ほどあわただしくこすり、彼女の何度目かのアクメに合わせて射精を完了する。
「うれしいィ!」
 私が律動するたびに、百江はキッコ以上にからだを荒々しくふるわせた。律動を終えて離れると、キッコに豊かな胸を押しつけて自分のふるえを伝えた。二つのからだが協和して振動する。
 しばらくしてキッコは百江のからだをそっと押しのけ、私に抱きついてきた。
「おおきに、神無月さん、おおきに、愛しとるよ、死ぬほど愛しとる」
「うれしかったわね、キッコちゃん」
 横になって細かくからだをふるわせながら百江が言う。
「うん」
「私もキッコちゃんのおかげで、大ごちそうをいただきました」
 ふるえが治まった百江はキッコにティシュを取ってやり、自分はトイレに立った。
「だいぶスミ吐いてもうたね。かんにんな」
「キッコがこんなふうになるなんてめずらしい。うれしかったよ」
「おおきに」
 キッコは股間を拭い終えると、足どり軽くシャワーを浴びにいった。百江がタオルを持って戻ってきて、私のものを清潔にする。
「あの様子だと、合格ですね」
「うん。まちがいなく。二十日の夜はおねだりされそうだ」
 キッコが戻ってくると、三人身じまいをして、北村席へ出かける。キッコが、
「秀子さんて、ほんまにきれいな人やなあ。まぶしいわ。お父さんお母さんもびっくりしとった。お嬢さんには敵わんけど、ムッちゃんとはドッコイかもしれん」
 百江が、
「みなさん、輝いてますよ。だれがだれにヒケをとるというものでもないです。おや、幣原さんとジャッキですよ」
 一人と一匹が鎖でつながって後藤商店から曲がっていくところだった。キッコが声をかけると立ち止まり、にこやかな顔で私たちを待っている。私は下駄を鳴らして走っていき、ジャッキの頭を撫でた。
「あしたの用意はできてます。バットは自分でケースに入れてくださいね」
「ヒデさんきてるでしょ」
「はい、トモヨ奥さんと直ちゃんとパズルしてます。二十日までここにいらっしゃる部屋も決めました。きょうはお嬢さんの誕生日会も兼ねてるので、たいへんなごちそうですよ」
 幣原とジャッキといっしょに玄関に入ると、ヒデさんがちょうど実家にしていた電話を切るところだった。
「あ、郷さん、こんばんは!」
 肩まで切ったストレートヘアを揺らして大きく笑う。歯が美しく輝く。
「きたね! 何年ぶりかな」
「一年半です。おととしの九月に荻窪でお逢いして以来です」
「そしてとうとう名大か。有言実行の人だ」
 きつく握手する。ヒデさんは思わず私の手を引き寄せ、固く抱き締めた。私も成熟し切った柔かいからだを抱き締めた。胸を押しつけてくる。ヒデさんの肩口に千佳子が出てきた。
「さあ、キッコちゃん、秀子さん、神無月くんと記念写真撮るわよ」
 三人で座敷にいき、正座した二人の後ろに私が膝立ちする格好で写真を撮った。撮影者は高級カメラを構えた主人だった。三枚撮った。
「集まってるゥ?」
 カズちゃんたちが帰ってきた。カズちゃんはトモヨさんに手を引かれた直人にキスをすると、女将に抱かれたカンナにもキスをした。ヒデさんは、その美しい姿を一瞥して驚愕の目を見開き、すぐに一家の主役と見抜いた。畳に手を突いて、
「中島秀子です。どうぞよろしく」
 と挨拶した。カズちゃんも同じように手を突き、
「北村和子です。キョウちゃんともども末永くよろしくお願いいたします」
 と頭を下げた。トモヨさんの手を離れた直人も、
「きたむらなおとでしゅ」
 と頭を下げる。カズちゃんと直人に並びかけて、素子も自己紹介の挨拶をした。まだ挨拶をすませていなかった百江も挨拶をした。厨房の主だったメンバーと菅野と優子は挨拶ずみのようだった。メイ子はこの場にいなかった。カズちゃんが、
「則武のキョウちゃんの家に住みこんでるメイ子ちゃんという女の子がいるんだけど、いま熱田の法子さんという子がやってる店を手伝ってるの。どちらの子にもそのうち会えるわ」
 睦子がカズちゃんに、
「叱られると思って、廉いものにしました。冬用の厚手の靴下五枚セットです。おうちで履いて下さい」
「あら、ありがとう。遠慮なくもらっておくわね。さ、ソテツちゃん、手伝うわよォ」
 アイリス組や百江たちがバタバタと厨房に入る。手ぎわよく四つのテーブルに皿鉢が並べられていく。ヒデさんがその様子も目を大きく開けて見つめている。それぞれのテーブルに、鯛の刺身の大皿を中心に、小鯛の姿煮、鯛めし、ハヤシオムレツ、チラシ寿司、煮こみハンバーグ、ハマグリの酒蒸し、ビーフシチュー、ガーリックチキンソテー、生野菜サラダ、角煮、豚汁と並べられていく。子供二人のプレートには、香辛料の強いものは避けてそれらが少しずつじょうずに盛りつけられた。カンナのライスはお粥、直人のそれはしっかり鯛めしだった。ソテツが、
「お好きなものをぜんぶお皿に取りながら召し上がってください。ごはんのあとで別腹のショートケーキが出ますからね」
 上座にヒデさんとキッコが坐り、下座に主人夫婦と直人とトモヨさん、トモヨさんの膝にカンナ、その向かいに睦子と千佳子、その隣に私と菅野。カズちゃんと素子は二つ目のテーブルに並んで坐り、それに向き合う席に百江と優子が坐る。余った席にはソテツとイネと千鶴と幣原が、手が空くつどめいめい勝手に坐った。三つ目のテーブルには、新参の四人を含めて、あまり顔を知らないトルコ嬢たちが坐った。
 厨房のテーブルでは、これまたあまり顔を知らない住みこみやかよいの賄いたちが食事の仕度をした。卑屈な顔をしている者は一人もおらず、和やかな自然の形だった。直人がいただきますを言ったのを潮に、めいめい勝手に食べはじめる。三つのテーブルの面々たちがたがいにビールをつぎ終わると、菅野が立ち上がり、
「ええ、北村席の大胡キッコ二十二歳と、青森県は下北の野辺地町からやってきた中島秀子さん十九歳が、きょうつつがなく名大文学部の受験を終えました。まずはおめでとうございます」
「おめでとうございます!」
 拍手。
「キッコは中村高校定時制部および昼間部ともに首席、秀子さんは名門青森高校の首席とくれば、われわれの下馬評どおり二人の合格は確実と思われます。まずそのことに乾杯いたします。カンパイ!」
「カンパイ!」
 ジャッキが土間でウォンと吠えた。
「また本日は、三月三日生まれの北村家長女和子お嬢さんの、一日遅れの誕生会です。三十六歳です」
「やめてよ」
 一場笑いが上がる。
「ごらんのとおり、年齢を超えた絶世の美女でありますから、何歳と言っても差し支えないでしょう。その三十六歳にもカンパイ!」
「カンパイ!」
「おめでとうございます!」
「おめでたくないってば」
 温かい笑いが拡がる。菅野が坐ると、主人が立ち上がり、
「ワシはこの家にやってくる娘さんからおばさんまで(甲高い笑い)みんなわが子と思っとります。どうぞこの家では、子供らしく自由勝手に生きてください。ワシら夫婦を含めて一家みんなが睦まじく自由に生きることは喜ばしいことや。とりわけそこにおる神無月さんがそういうワシらを喜んでくれる。神無月さんはだれよりもそういう喜びを生きるエネルギーにしとる人や。人が喜ぶことがうれしてたまらんのやなァ。ワシらが喜んどらんと、神無月さんはシュンとなる。だからワシらもいつも喜んどらんとあかん。笑ったりはしゃいだりするだけが喜ぶゆうことやない。自由勝手に生きて、仲睦まじくすることが喜ぶゆうことや。けっこう難しいことやぞ。だからこそ、神無月さんは喜ぶんや。神無月さんにはそのエネルギーで一年でも長く生き延びてもらわんと困る。神無月さんが喜ぶとき、ワシらはむちゃんこ幸せになるからや。これは請け合うわ。幸せになったら、自分も神無月さんになればええ。人が自由勝手に仲よう生きることを喜ぶ人間にな。てなところで、カンパイ!」
「カンパイ!」
 ヒデさんが目を拭った。箸、フォーク、ナイフが活発に動き出す。めいめいの会話が始まる。菅野が、
「行方不明になってた永易が、自分を探し出したデイリースポーツの記者に観念してしゃべりましたよ。西鉄から口止め料として五百五十万円もらった、自分以外にも八百長をしてた選手がいるって。YとかMとかFとイニシャルでぼかして言ったんですが、なぜか田中勉だけははっきり本名を出しました。それを週刊ポストがすっぱ抜いたんです」
「もう泥沼ですね。やっぱり小川さんは関係なかったんだな。小野さんと同じように、火のないところに煙を立てるマスコミがいやになっちゃったんでしょう。……あと一年で大天才が二人いなくなっちゃうのか。この損失は大きすぎる」
 要領を得ない顔のヒデさんに主人が説明している。カズちゃんが、
「キッコちゃん、八日の日曜日に春物の服を買いにいくわよ」
「合格してからにしてくれへん?」
「受かっても落ちても春はくるわよ。一年待つつもり?」
「……おおきに。日曜日やな」
「そ、朝からいきましょ。それから秀子さん」
「はい」
「馬術部に入るとして、学生が用意しなくちゃいけないものは何?」
「必須の乗馬用品は三つです。キュロットと言う乗馬ズボン、ブーツ」
「革の長靴ね」
「はい。それからヘルメット」
「高いの?」
「ぜんぶ数千円から数万円です。でも、五月の連休に乗馬用品の専門店で新入部員向けのセールが行なわれますから、そのときに三点セットは廉く購入できます。まだいったことはありませんが、本町公園という公園のすぐそばの堤乗馬用品店です」
「しっかり選んでいいものを買ってね。入学のプレゼントにしてあげる。連休にいっしょにいくわ。桜通を真っすぐいって、桜本町の交差点から左折して、本町通をまっすぐいけばすぐよ。名古屋は東西の中心道路は広小路で、南北の中心道路は本町通なの。名古屋の街と熱田宿をつなぐ道路で、名古屋で最初に舗装された道よ。水道やガスが最初に敷かれたのも本町通。昭和四年に昭和天皇が名古屋に行幸なさったときお通りになった道ということで、御幸(みゆき)本町通と呼ばれたの。戦前までは名古屋の中心の通りだっただけに、一流の卸問屋が並んでるわ。堤靴店は戦火をまぬがれた洋風建築の洒落た店。軍用品を扱っていた戦前のころの雰囲気を残してる唯一の店よ」
 千佳子が、
「私もいってみたい」
「みんなでいきましょ」
 キッコが、
「名大はどこで乗馬の練習するん?」
「東郷町の名大農場です」
 菅野が、
「東郷町か、遠いなあ」
「名大から車で三十分かかります。じつはそれで悩んでるんです。火木土日の週四回、そこへ引き馬や餌やりや乗馬練習をしにいかなくちゃいけないということになってます。名大を午後の一時にクラブバスで出発して、帰ってくるのが七時。朝番や宿直というのもあって、それは自分で星ヶ丘からバスでいくことになってます。一時間はかかります。ほとんど合間を縫って授業を受けるということになりますけど、そんな都合よくとれる授業なんかありません」
 睦子が、
「そうよね、ぜったい無理」
「実家の農場みたいに気楽に考えていたのが甘かったんです」


         十八 

 カズちゃんが、
「悩むことないわよ。別のクラブにしなさい。とにかくからだを動かしたいんでしょう」
「それほど運動に拘ってるわけじゃないんです。青高では一年ぐらい徒手体操をやりましたけど、ケガが多くてやめました。そろそろ大学生らしい文系サークルに入ってみようと思ってます。映画研究会や文芸サークルといったものです。神無月さんに少しでも近づきたいので。スポーツは体育の選択科目で足ります。睦子さんや千佳子さんがやってるソフトボール」
 千鶴が、
「身を守るための合気道部」
「危険な場所にいかないかぎり、心がけで身は守れます」
「映画や文芸というのは理屈っぽそうだね。一家言の持ち主ばかりだったりして。……思い切ってクラブそのものをやらないってのはどう?」
「考えてます。睦子さんや千佳子さんがサークルに入ってないのは、万葉集や法律を研究するクラブがないからです」
 カズちゃんが、
「そんなこといつの間に調べたの?」
「受験の下見にいったときに、学生会館に立ち寄って学生たちに話を聞きました。和子さんのご好意はうれしかったんですけど、言い出せなくて」
 キッコが、
「落語研究会はあれへんの?」
「あります。発表会がたいへんですね」
「ええやんの。おもしろそうやわ」
「そうですか? 私はやっぱり、映画研究会にします。月曜と金曜の六時から構内校舎で映画を観られますし、郷さんも映画館を作るようですから。参考になるような感想が言えるかもしれない」
 千佳子が、
「自主制作の撮影会に引っ張り出されたりするかもしれないわね」
「そっち好みの人は、その人たちで徒党を組んでやってるようです。観るだけの人、大歓迎と言ってましたから」
 カズちゃんが、
「でも乗馬は好きなんでしょう?」
「はい。帰省したときに実家で好きなだけ乗ります」
「馬具持ってるの?」
「はい、使いこんで古くなってますけど、ちゃんと揃えてます」
「日曜日、みんなといっしょに出かけましょう。ズシッとした映画年鑑買ってあげる」
「ありがとうございます。―和子さん、あらためて誕生日おめでとうございます」
「だからやめてって」
 直人も口まねして、座敷じゅうが大笑いになった。
 ショートケーキとコーヒーが出た。直人はジュース。ヒデさんがトモヨさんに、
「一つ訊いていいですか」
「ええ、どうぞ」
「直人くんとカンナちゃんが郷さんとトモヨさんの子供だって聞いて、何の違和感も湧きませんでしたし、驚きもありませんでした。それどころか、一瞬自分が郷さんとのあいだに産んだ子供のような気持ちになりました。お訊きしたいのは、大したことじゃないんですけど、トモヨさんが和子さんとおなじ北村という姓で、顔もそっくりなので……もしかしてトモヨさんは和子さんのお姉さんなのかなって」
 ワッとみんな笑う。トモヨさんが手を口に当てて笑いながら、
「顔が似てるのはただの偶然なんですよ。ほら、お嬢さんは八重歯がありますけど、私はないでしょう? 八重歯は遺伝することが多いって言いますから。私が北村籍なのは、直人を妊娠したとき、お義父さんが私を養子にとってくれたからなんですよ」
 菅野が、
「姉妹というより、双子に近いぐらい似てますよね。私も最初はそう思いました」
 トモヨさんはヒデさんに笑いかけ、
「頭のよさは別にして、私とお嬢さんは考えることも感じることもよく似てます。その意味では双子かもしれませんね。五つちがいの」
 睦子は、
「思考や感情がおたがいに似ているということなら、私たちもみんな双子同士と言っていいんじゃないかしら。秀子さんもそう。この何日か見てて、やっぱり私たちと考え方が似てるなあって思いました。心の底から郷さんを愛してるし」
 睦子とヒデさんだけが、郷さんと言う。トモヨさんが、
「だから直人もカンナも、安心して、ここにくる人みんなに実の子のように甘えられるんですね」
 カズちゃんが、
「直人に甘えてもらえるのはうれしいし、ズッシリ充実感があるけど、苦しい思いをして産んだ母権は大事にしなくちゃ。直人やカンナにきちんと差をつけてもらわないと、トモヨさん、張り合いがなくなっちゃうわよ。直人、私はだれ?」
「かずこおばちゃん」
「あの人は?」
「キッコちゃん」
「あの人は?」
「しではらしゃん」 
「ね、たいへんな思いをして産んでくれたトモヨさんのことをおかあちゃんだとわかってるのよ。私は和子おばちゃん。あの人はキッコちゃん、あの人は幣原しゃん。私たちみんなが双子同士みたいによく似てるってのは、それはそれですばらしいことなんだけど、それはキョウちゃんにとっていいというだけのこと。直人やカンナにとっては関係ないことよ。そこはちゃんと理解しておかないと。私もみんなも直人やカンナのことを、自分とキョウちゃんとのあいだにできた子供かもしれないと思ってかわいがってるだけ。秀子さんの言うとおりね。うれしい錯覚。自分の子がこんなにかわいらしかったら、うれしくて仕方ないもの。だからありがたく子育てに便乗させてもらってます。羨ましいわ、トモヨさん、こんなかわいらしい子の親になれて。直人とカンナにはあなただけが大切なお母さんよ。私たちはやさしいおばちゃん、お姉ちゃん。母親にはなれないの。毎日の子育てはたいへんでしょうけど、一人でがんばらずに、私たちにもそのたいへんさを分けてちょうだいね」
「そうさせていただいてます。ありがとうございます」
 ヒデさんが直人を抱いて膝に乗せた。
「なんだか不思議な気持ち」
 睦子が、
「郷さんを抱いてる感じでしょう?」
「ええ」
 主人が、
「神無月さんがおまえらみんなの子やゆうことやろう。手のかからん子育やで」
 菅野が、
「神無月さんは私たちをラクチンにしてくれますからね。ま、おたがい肩の荷を軽くしてノホホンとやりましょうやってね。いつもそんな感じです」
 女将とトモヨさんが顔を見合わせてニッコリ笑った。直人があくびをしたので、カンナを抱いていたイネが、
「さ、直ちゃん、そろそろ風呂へって寝べが。髪洗ってけら」
「うん」
 ヒデさんが、
「イネさんは青森のどこ?」
「田名部です」
「まさかり半島の先のほうね」
「うんだ」
「野辺地は付け根。どちらも漁港ですね。魚介類ばかり食べて育ったでしょう」
「まんずな。スルメイガ、昆布、シャゲ、ブリ、ヒラメ、カレイ、ウニ、ホタテ」
 千鶴が、
「だからイネちゃん、すごく魚に詳しいんやね。椿魚市場に買い出しにいったり注文の電話したりするの、たいていイネちゃんやもの」
「烏賊(いが)とホタテはよぐ覚(お)べんでらたって、さがなはそれほどでもね。千佳ちゃんやムッちゃんとも、とぎどぎ買い出しにいぐじゃ。青森のふとはさがなが好ぎだすけ」
「今度私も連れてってください」
「外さ出たら、ナマリ出してしゃべるべしよ。オラ、標準語苦手だんだ」
「はい、私もそのほうがラクです」
「みなしゃん、おやすみなしゃい」
 直人が殊勝に頭を下げる。
「お休みなさい」
 トモヨさん母子とイネが風呂に引き揚げ、トルコ嬢たちが二階へ引き揚げ、かよいの賄いたちが玄関へ引き揚げた。ソテツと千鶴と幣原が座敷のテーブルについた。私は、
「ヒデさん、この家に慣れそう?」
「慣れそうなんて……最初から自分の家のような気がしました。それより何より、神無月さんのそばにいられれば、どこにいても天国です」
 女将が、
「ここに住んだらええがね。二階にいくらでも部屋があるんよ」
「いいんですか!」
「ええに決まっとるが。結局ここで暮らすことになるやろなって、みんなで言っとったんだがね。部屋賃も食費もいらんで、好きに暮らしゃあ。名大生三人のほうが心強いでしょう」
「はい! ありがとうございます」
 幣原が、
「ムッちゃんと千佳ちゃんの部屋がこの廊下のすぐ上のお隣同士です。その向かいの八畳に蒲団を入れておきました。追々時間をかけて好きな部屋を選んでください。六畳と八畳があります」
 主人と菅野が立ち上がるとカズちゃんたちも腰を上げた。私も倣う。
「じゃ、ヒデさん、あしたは朝が早いんで、これで失礼するね。そのうち則武の家にも遊びにきて」
「はい、あさって遊びにいきます。あしたは三人で市電に乗って千年と岩塚のほうへいってきます」
 ソテツが、
「神無月さん、朝食は七時半、みなさんといっしょの時間ですね」
「うん、よろしく。八時ごろに江藤さんたちがくるので、コーヒーお願い」
「はい」
 女将や睦子たちにお休みなさいを言い、ジャッキを撫でて玄関を出る。ヒデさんが門までと言って送ってきた。腕を絡ませ、
「郷さん、とうとう逢えました(私の横顔を見上げ)。ああ、このお顔! すごく幸せです。……胸が詰まって言葉が出てきません」 
「ぼくもすごく幸せだ」
「もう何もいりません。ずっとそばにいます。死ぬまで」
「ありがとう。ぼくも死ぬまでそばを離れない」
 途中の敷石で立ち止まって、長いキスをした。ヒデさんはその場から玄関へ帰っていった。門を出ると菅野が、
「ほい、新幹線の切符。八時三十七分ですよ」
「はい。あしたはランニングなしで」
「了解」
 主人が、
「ええ子やなあ。サッパリしとって、情が深くて(カズちゃんの顔をじっと見て)。……双子か。ようわかるわ」
 二人セドリックに乗って太閤通りのほうへ去っていった。
 いつもの夜道。百江が、
「秀子さん、岩下志麻に似てません?」
 素子が、
「そっち系やけど、岩下志麻よりずっときれいやわ」
 カズちゃんが、
「ムッちゃんみたいにおっとりしてるのがいいわね。蒲団のようにおっとりしていて、人を暖かく包みこむのが女の理想。でも蒲団は埃が溜まりやすいから、いつも自分や他人の手で埃をはたき落としていないと。その努力をきちんとしているかどうかが、女の価値の分かれ目ね。秀子さんも私たちと同じように努力する女よ。よかった」
 百江が、
「からだというものに心ほど価値を置いてないので、みっともない嫉妬もないし、常識的な平凡さもないですね。気持ちが静かな人」
 カズちゃんが、
「自分がきれいなことと、考えていることに何の不安もないからよ。自信にあふれてるの。自分に自信があれば、嫉妬とか、詮索とか、競争とかに無駄な時間を使わなくなるでしょう?」
「そのとおりですね」
 その夜は十時に寝た。


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