十三

 きしめんをすすり終え、
「じゃ直人、またあしたの朝ね、バイバイ」
「バイバイ」
 則武に帰る。百江が北村席へ出かけようとして玄関を出るところだった。
「カズちゃんにぼくが早寝したと言って」
「はい。ゆっくり休んでください」
 読書も物書きもやる気が出ないので、圓生の落語を聴きながら寝室の蒲団に入る。『ちきり伊勢屋』。五分で眠りに就く。
         †
 階下のテレビの音と人声で目覚める。七時半を回っている。二時間寝た。カセットレコーダーのスイッチが点きっ放しだったので切る。寒い。一・五度。やがて足音が昇ってきて、襖が開いた。下着姿の節子とキクエだった。
「あ、いらっしゃい。ごめんね、気づかなかった」
 キクエが、
「よく寝てたから、居間でテレビ観てました。クイズグランプリ。当てっこしながらだったからうるさかったでしょう」
「ぜんぜん」
 二人ニッコリ笑うと、その場で服を脱ぎ落とし、キャッという声を上げて蒲団にもぐりこんできた。豊満なからだを押しつけこすりつけ、たがいに好きなように唇で全身を愛撫する。笑顔が真剣な顔に変わっていき、たがいに好きな間隔で私に跨って、悶え、うめき、嬌声を発して愉悦に浸る。節子に射精し、キクエに律動を与えた。
 右と左から聞こえる荒い呼吸に充実感を覚える。脂汗が浮いた大きな胸や柔かい腹や形のいい尻を撫で回す。ふるえも呼吸も落ち着くと、節子とキクエは交互に私のものを清める。そして吐息のように自然に、好き、愛してます、と何度も呟く。五年と三年。二十七歳と二十六歳の忠誠に感謝の念を捧げながら、左右の汗に濡れた乳房を握り締め、唇に口づけをする。
「一日も一週間も一年も、ものを思いながら生きると、気の遠くなるほど長い時間だ。それを五年も三年も心を寄せてくれて、ほんとうにありがとう」
 節子が、
「それは私の気持ちです。私をかわいがってくれるだけじゃなく、母の青春も取り戻してもらって……そのうえ、命まで救っていただいて、お礼の言いようがありません」
 キクエが、
「キョウちゃんにあのとき女として扱ってもらってなかったら、私、ぜったい壊れていたと思います。あれからずっと、これ以上ないくらい明るい人生を送ってます。文江さんの命を救ったのも、私のおねえさんを幸せにしてくれたのもキョウちゃんよ」
「お姉さんも?」
「私が思い切った行動をしたから、おねえさんも私に気兼ねなく素直に結婚する気になったの」
 そう言って下着をつけようとするので、
「シャワー浴びてスッキリしよう」
「はい」
 節子が笑いながら、
「もう、ベットベト。暑くもないのに、どこからこんなに汗が出てくるのかしら」
 三人石鹸をしっかり使ってシャワーを浴びた。身じまいをして、居間にくつろぐ。節子がコーヒーをいれに立とうとしたとき、
「歯石取るのって痛いわねェ。歯槽膿漏防止だから仕方ないけど」
 玄関にカズちゃんの声がした。百江の声がつづく。
「神無月さんのためにお口はきれいにしなくちゃ。あした予約してるのは千佳ちゃんとムッちゃんですね」
「素子さんもよ。あさっては優子ちゃんと、ソテツちゃんたち。メイ子ちゃんはもういったんでしょう?」
「きのういったみたいです」
 居間から、お帰り、と声をかける。入ってきて、
「わあ、二人かわいい! 輝いてるわよ」
 カズちゃんと百江に節子とキクエが、こんばんは、と頭を下げる。
「あしたの夜は誕生会だよ」
「みたいね。慎ましくってソテツちゃんに言っといたわ。プレゼントもいらないって。ムッちゃんたち残念そうだった」
「もらっとけばいいのに。恥ずかしがらずに」
「どうせ箪笥の中や鏡台の上で忘れられちゃうから。あしたの夜、キッコちゃんがこっちに泊まるって」
「きょうの様子はどうだった?」
「世界史失敗したけど、英語と日本史がまあまあだったらしいわ。数学は半分ぐらいしか解けなかったって」
「文系で半分はすごい。受かったな」
「千佳ちゃんもそう言ってた。ムッちゃんは、安心しないで気を引き締めなさいって。顔は笑ってたけど」
「あしたは国語と理科か。二十日の合格祝いの準備をしといたほうがいいよ」
「素ちゃんと柳橋あたりを歩き回って、目星をつけるわ。秀子さんには何を贈ろうかしら」
「何もほしがらない人だから、気を使わなくていいんじゃないかな。乗馬クラブに入ったら、何か馬具の小物でも買ってあげたら?」
「そっか、名大で乗馬をやりたいって話だったわね。グッドアイデア、そうする」
 百江がコーヒーをいれる。
「丸さんたち、元気に出ていった?」
「さあ。私はそのときいませんでしたから」
 カズちゃんが、
「夕食のとき、新しい子が四人きてたわ。みんな私の顔見知り。明るい子ばっかりよ。キョウちゃんの好みの子はいないわね」
「もうだれも好まないよ」
 百江が、
「おからだのためにも、そのほうがいいです」
 節子とキクエが顔を見合わせて笑う。キクエが、
「メイ子さんは?」
「法子さんの酔族館を手伝ってるの。四月の初めまで。十一時ぐらいには帰ってくるわ」
「えらいわあ、メイ子さん。法子さんもいよいよ新しい出発ね」
 私はテレビを点けた。NHK銀河ドラマ。
「林芙美子の『めし』だな。倦怠夫婦のスッタモンダ」
 司葉子と山内明か。軽そう。品のよすぎる司葉子は苦手。やっぱり林芙美子ものは高峰秀子と森雅之だろう。『浮雲』のさびしいアンニュイは胸を刺した。『めし』は昭和二十六年に映画化もされていて、原節子と上原謙が倦怠期の夫婦を演じていた。コミカルに流れて、倦怠を演じ切れていなかった。それに、品を作っている原節子は大の苦手。鬼平に落ち着く。第二十三話、〈罪〉の巻。百江がうれしそう。
「弓恵子って、小悪魔的で、それでいて庶民的で、感じいいですね。三十二歳。若いわァ」
「この顔、映画でもよく観たけど、名前を知らなかった」
「映画には昭和三十年あたりから出てるんですよ。悪女役が多いですね。旦那さんも悪役の宮口二朗です」
 カズちゃんとうなずき合っている。カズちゃんが、
「キョウちゃん、机にジャン・クリストフが載ってたわ。長いわよォ」
「長いのはいいんだけど、美文すぎて、『戦争と平和』より読みにくい。幼いクリストフが独立独歩のところはいい。男同士の恋愛感情はグロいけど、女に対する恋愛感情は少女漫画みたいで神経に触る。とにかく描写がへたくそと言っていいくらい大げさなので、読むたびに挫折しそうになる」
「派閥や党派を批判する反骨小説よ。漱石の『私の個人主義の』みたいなね。後半になるとそれがわかるわ」
「まだ二巻しかいってない。全十巻を読み終わるのに一年はかかる」
「暇を見つけてなら、ふつう五年はかかるでしょう。キョウちゃんの読書スピードはふつうじゃないから一年ですむけど」
 腹がへってきた。インスタントラーメンを食いたいと言うと、
「そんなものばかり食べてちゃだめ。きょうはソテツちゃんのお弁当と、天ぷらきしめんしか食べてないんでしょう? 鬼平が終わったら外へ食べにいきましょ。昭和通りを歩けば開いてる店があるはず」
 百江が、
「あ、いいですよ、鬼平なんか観なくて。いつもと同じようなストーリーで代わり映えしませんし。ただ、外食はもったいないです。ごはん三合ほど炊いといてください。ちょっと自転車で〈やきとり竹橋〉までいって、いろいろテイクアウトしてきます」
「飲み屋さん?」
「はい、居酒屋さんです。もちろんお酒も飲めますけど、肴の鶏がおいしいんです。二、三年前にちょっと遊郭を改装して出した店です」
「休みだったら無駄足よ」
「定休日はありません。夜中の十二時までやってます」
「ふーん、詳しいわね。一人きりで神社の家にいたころ、ときどき食べにいってたんでしょう」
「はい、月に二回くらい。神無月さんに遇う前です」
「どうせなら、テイクアウトなんかしないで、そこへいって食べましょうよ」
「そうしましょうか。金時湯の手前です」
「節子さんたちもいきましょう」
「はい、お店の前まで。そこからアパートまで帰ります」
「どうして?」
「お腹がへってませんし、あしたも早番ですから」
 キクエが、
「八時からの勤務ですけど、七時には出勤してないと、いろいろ引継ぎがスムーズにいかないんです。引継ぎしたあとは、社員食堂であわてて朝ごはん」
「たいへんな仕事ねェ」
 私が、
「環状線でタクシー拾っていったらどう?」
「金時湯から新樹ハイツまで一キロもないので、歩いても十分そこそこです」
 眼鏡をかけ、下駄を履く。カズちゃんたちはスラックスにローヒール、厚手のオーバー。クスクス笑い合いながら七、八分の道を歩いていく。
「菅野さんとのランニングコースだ。見慣れた景色だけど、なんだか楽しいな」
 節子が、
「いつも日赤まできてくれてるんですね」
「うん、だからしょっちゅう会ってるような気になる」
 キクエが、
「ときどき患者さんたちが言ってます。神無月が目の前を走ってたって」
 鬼饅頭の味多喜、梱包用品ミヤキ商店、中華料理平和園、コインランドリー平井、御きもの処玉喜屋、たこ焼らいおん堂、理容六浦(むつうら)、キタジマ電気、コーヒーすず、杉戸呉服店。金時湯の煙突が見えてきた。百江が、
「着きましたよ」
 もと遊郭とおぼしき二階長屋の一角に〈やきとり竹橋〉の看板。道を隔てて中国料理冨士の真ん前だ。四枚の透明なガラス戸の中に明るく灯が点り、戸の外に注連縄を巻いた大きな酒樽が置いてある。装飾のための空樽だろう。縁台も出ているが、これも客寄せの飾りにちがいない。白い提灯が二つ提がっている。
「じゃ、私たちはここで」
「気をつけて帰ってね」
「明るくて広い道なのでだいじょうぶです」
 二人で手を振って環状線の信号を渡っていく。
「いい店だ。一時間はいられそうだ」
 戸を開けて店内に入る。
「いらっしゃいませ!」
 カウンターから三人の白衣の男の声が飛んでくる。アッと丸く口を開けたが、言葉を呑みこんだ。十人は坐れそうな長くて広いカウンター、土間にテーブル四卓、小上がりに掘り炬燵式のテーブル三卓。客はカウンターに三人、土間のテーブル二卓に六人、小上がりの小テーブルに二人。かなりの入りだ。タバコの煙と焼き台から上がる調理の煙。店内は暖かい。小上がりの六人掛けテーブルに四人向き合って坐る。オーバーを脱ぎ、店員がうやうやしく持ってきた三枚のメニューを三人で見る。焼き鳥一本三十円から。だいたい五、六十円程度。少し高い。酒もいろいろ取り揃えている。カズちゃんが、
「とりあえず、串五本の盛り合わせ三人前ね。それから生ビールの中ジョッキ三人前」
「はい、少々お待ちください」
 私に横眼を走らせながら辞儀をして去る。生ビールとお通しが出てきた。カルビのような鶏ハム。ちょうどいい塩味。最初から気に入った。
「うまいねえ。地鶏より軟らかい」
「ふつうの若どりがいちばんおいしいわね」
 乾杯。五本セットは、心臓(こころ)、肝、もも、砂肝、ねぎま。どれもこれもうまいが、特に肝は新鮮で、臭みは皆無、火入れ具合も絶妙だった。カズちゃんが、
「こんなおいしい肝、初めて」
 と喜ぶ。たちまち平らげ、
「どんどんいきましょ」
 カズちゃんは皮とツクネと手羽先二本、百江は、こころ、軟骨、せせり、ぼんじり(私は脂っぽくて好きではない)をぜんぶ塩で頼んだ。
「通ねえ。キョウちゃんは?」
「焼き鳥丼、味噌汁つき」


         十四
  
 チラチラこちらに投げられる視線から、察しているご仁が何人かいるとわかる。〈静かなる男〉のマスコミ宣伝が効いているようで、けっして話しかけてこない。
「あんまり有名すぎると、こうなるのね。ありがたいわ」
 百江が、
「名古屋だけだと思います。ほかの土地だとこうはいかないでしょう」
「うん。だからほかの土地では、集団で行動する以外は外へ出ないようにしてる。本がほしいときは、やむを得ず出かけるけど」
 百江が明石の散歩を思い出したように微笑む。カズちゃんが、
「散歩好きのキョウちゃんにはちょっと窮屈かもね」
 生ビール中ジョッキ追加。ジョッキを打ち合わ、笑いを交わす。鶏を食む歯の丈夫な女たち。私は球場でもよくやるように〈運命〉を見回す。そして心から満足する。
「サービス、白肝(しろぎも)の串焼きです。八日の巨人戦がんばってください」
 店主が持ってくる。シロギモとはなんのことかわからない。説明を求めると、
「産卵に必要な栄養を蓄えた状態の肝です。白肝と言っても完全な白じゃありません。臙脂がかった肌色の感じでしょうかね。どうぞ食べてみてください」
 食ってみるとバターに近い歯触り。口内温度で滑らかに融ける。
「おいしー!」
 鮨もトロ好きな女たちは喜ぶが、私は、
「うまいね」
 と、ひとこと言って終わり。主食にもおかずにもならない代物。美味のはずがない。私はビールを流しこんで口中の脂を漱(すす)いだ。
「さ、帰りましょか。マスター、お勘定。それから鶏ももドテ串カツをお土産で包んで」
「へーい」
 三人すっかり食欲を満足させ、カズちゃんの一声に促されて店を出る。下駄の音にローヒールの音が混じる。カズちゃんが、
「小腹がすいたら、素ちゃんも誘ってときどきこようね。さ、私たちはメイ子ちゃんが帰ってきたらお風呂入って寝ましょう。キョウちゃんはテレビでも観て、眠くなったら寝なさい。あしたの午前は百江さんにごはん用意してもらってね」
「うん。草薙球場のテレビ中継はあるかな。ないよりはあったほうが多少張り切るから」
「テレビ静岡が中日新聞系列だけど、オープン戦の放送はしないみたい。東海ラジオの中継はあるわよ。ウィークデイだから、おとうさんたちみたいな暇人しか聞けないわね。アイリスとアヤメはラジオを流すつもり。あ、そうだ、夕飯を食べてたとき、毎日新聞の臼山さんから電話があったわ」
「インタビューのお礼だね?」
「うん。きょうはいい記事が書けました、あしたの朝刊のスポーツ欄にコラムとして載ります、今月は中日球場で予定されている二試合を取材させていただきます、今後ともよろしくお願いしますって」
「そう、よかった。きょうの水原監督の取材を見てて、番記者って、ベンチの外ではそれほど目立つ存在じゃなくて、目当ての選手にいくぶん近い距離にいるだけだってわかった。マイクを突き出して、周りの記者に先んじて肩のあたりに寄っていくんだよ。ただベンチの中だと特権的に近寄ってこれるみたいだね。中さん、江藤さん、高木さんにもそういう記者がいる」
「水原さんとキョウちゃんは運命的なものを感じるわ。彼がシベリア抑留から帰ってきたのは、キョウちゃんが生まれた昭和二十四年の七月よ。年齢は四十歳ちがい。キョウちゃんが二十歳で水原さんが六十歳のときに二人とも中日ドラゴンズに入った。パチッと決まってる感じ。四十という数はね、聖書では幸運の数と言われてるの」
 百江が興味深そうにカズちゃんの横顔を見た。カズちゃんが幸運の数のいわれを話しはじめた。
「ノアの洪水は四十日間、モーセは二度四十日間断食した、イエスも四十日間断食した、ゴルゴダの丘で磔になったイエスは、復活したあと四十日間福音を宣(の)べ伝えたあと昇天した。私はキョウちゃんのことを、水原さんが生まれた四十年後の四十歳のときに産ませた実の子だと思ってるの。きっと水原さんも無意識にそう思ってるにちがいないわ。あのかわいがり方はふつうじゃないもの」
 百江が、
「四十という数字の話は息子から聞いたことがあります。モーセは四十日断食したあとイスラエルの民を連れてエジプトを出、カナンという約束の地に向かうんです。神さまがそこに住めと言った土地です。カナンで四十日間偵察します。からだの大きい強敵が住んでいるとわかりました。十二人の偵察隊の中には〈豊穣な土地だ、強敵を恐れず戦えば主は私たちをあの土地に導き入れるだろう〉というよい情報を流す二人の人たちと〈あんな巨人に敵うはずがない、われわれはイナゴのように食い尽くされてしまうにちがいない〉と悪い情報を流す十人の人たちがいて、悪い情報を信じる人たちのほうが多かったそうです。結局カナンが手に入ったかどうかは聞いてません」
「手に入ったのよ。旧約の申命記にイスラエル人に追い払われる七つの民の一つって書いてあるわ。旧約聖書は一種の文学書なので、普遍的なことが象徴的に書かれてるってわかる。この世に救い主が現れたときに、人びとがどう反応するかということよ。時代がくだって、イエスが現れたとき周囲の権力者はどう反応したか。イエスに大きな力と権威があるのを見て、彼の働きが法律の範囲を超え、自分たちの観念や想像に適(かな)わないので、何のためらいもなくイエスに関するデマを飛ばし、悪口を言い、裁断して冒瀆したの。そうやって悪い情報を流すという役割を果たしたの。ユダヤ人はその悪い情報を信じたので、権力者といっしょに悪を行なってイエスを十字架につけた。彼らが神の懲罰を受けたというのは現実を無視した美しい夢物語でしょうけど、新約聖書にはそう書かざるを得ないでしょうね。彼らのことはどうでもいいわ。とにかく、イエスの弟子たちはイエスに付き従った。彼らはローマ政府の迫害を受けたけれど、命を惜しまずにイエスを信奉した。彼らが宣べ伝えた言葉を福音と言うのよ。彼らは最終的にイエスの祝福を受けたわ。……神のような人間がこの世に現れるたびに、二種類の人びとが現れる。悪い情報を流す大勢の人びとと、よい判断を知らせる少数の人びと。多くの人びとは真理を知る力がないので、善悪や是非をはっきり見分けられない。いつも大勢の人たちの流す悪い情報を信じて、少数の人たちの知らせるよい判断を拒絶する―」
 涙を流している。百江も頬を濡らしている。カズちゃんという知性と感情のまったき混合物を愛したことに、私はふるえるほどの歓喜を感じた。その気持ちのままカズちゃんを抱き締めた。百江はカズちゃんの手をとった。
「どうしたの? 恥ずかしいじゃないの」
 三人は離れ、ふたたび歩き出す。このままではカズちゃんは私をイエスという大偉人に重ねかねない風向きなので、水原監督の話に水を戻した。
「巨人の監督で一時代を画した水原監督が、純血主義の中日にとつぜん迎えられたのはなぜなんだろう」
「水原さんという人は、かならずオーナーと対立するの。球団オーナーというのは水原さんの方針に口は出すけど金を渋るからよ。正力オーナーのときも大川オーナーのときもそう。そんな状況にいる水原さんに目をつけたのが中日の高田球団代表で、水原さんが東映を優勝させて何年もしないころに、水原を譲ってくれって大川に諮ったの。二つ返事で大川は承諾したんだけど、純血主義の中日本社幹部が反対して立ち消えになっちゃった。水原さんは結局三年前の四十二年に大川にクビを切られた。そこでおととし、就任したばかりの小山オーナーと、名古屋の財界人が水原さんを招こうと乗り出したの。権力者を信頼していない頑固な水原さんがそうそう簡単にきてくれるわけがないから、財界人をパイプ役にしようとしたわけ。トヨタの社長の山口という人が水原さんの慶応時代の先輩で、大同製鋼の石井社長が高松商業の先輩という関係もあったうえに、野村證券をはじめとする財界人全体が水原シンパだったしね。だから水原さんが中日にきたのはぜんぜんとつぜんじゃなかったのよ」
 父親譲りの呆れるほど詳しい知識だった。すでにどこかで聞かされてボンヤリ知っている話をもう一度聞かされているような気がした。則武の家の玄関に着いた。
 メイ子が帰宅すると、カズちゃんたちはすぐに風呂にいった。私は机に向かった。牛巻坂四章のつづき数枚。この章の終わりで節子と結ばれる。しばらくして、メイ子がドテ焼きを喜ぶ声が聞こえてきた。
 深夜一時からジャン・クリストフ、朝、二のつづき。クリストフは、自分は娘ではなく婦人のほうに恋していると信じこむ。それはちがっていた。ロランはミンナの指を『花弁のようにしなやかな透き通ったもの』と表現した。クリストフはその指に衝動的にキスをした。それで二人のツンケンしていた関係は好転する。しかし、二人の親しさに気づいた婦人のクリストフに対する中傷で、ミンナの心はクリストフが不利になるほうへ揺れる。それだけのことに大仰な描写が費やされる。耐え難くなる。恋愛はもっと静かに顕(あらわ)れ、激しく内攻し、苦悩に苛まれるものだ。
 クリストフの苛立った独り相撲の果ての破局。むろん、原因はミンナの心変わりだった。いや、目に見える独り相撲でも心変わりでもなく、目に見えない因習だった。貴族と平民という〈身分〉のちがいに対する固陋な信念だった。クリストフは母娘のその信念を思い知らされる。夫人はそれを口に出してクリストフに宣告した。
『この危機のために、彼の幼年時代は終わりを告げた。彼の意志は洗練された』
 そして、父メルキオルの水死。放蕩と泥酔の因果。
『ミンナも、彼の誇りも、彼の恋愛も、ああ、いかにくだらないものであったか! この現実、唯一の現実、死、それに比べては、すべてはいかにつまらないものであったか! ついにはかなく成り果てるならば、あんなに苦しみ、あんなに欲求し、あんなに苛立ったのも、何の甲斐があったろう』
 おかしな諦念だ。肯(がえ)んじられない。死に比べればすべてのものが輝いている。私は日々そう思って生き延びている。朝、二、読了。二時を少し回って就寝。
         †
 三月四日水曜日。七時五十分まで寝た。二・五度。かなりの雨。百江はいない。カズちゃんとメイ子は出勤。菅野とのランニングを忘れていた! 寝惚けまなこでジャージを着る。歯を磨く。途中で電話が鳴った。口を漱いで受話器をとる。
「昼ごろに雨が止むそうですから、一時過ぎにいきます」
「オッケ」
 助かった。
「きょうは北村席にきますか」
「夕飯食べに」
「わかりました。新幹線の切符買っときましたから、そのときにお渡しします」
「了解」
 アヤメの百江に電話する。
「四時ごろにキッコがここにやってきそうな気がするから、北村席にいかないで則武にいてね。キッコが危なかったら受けてほしいから」
「はい!」
 ルーティーンにかかる。うがい、排便。下痢。シャワー。耳鳴り。ハブ酒を少し飲む。
 キッチンパラソルに朝食が用意してある。卵焼き、おろし納豆、板海苔、カリッと焼いたベーコン、梅干、豆腐とワカメの味噌汁。冷めたまま食ってもうまい。
 ジムトレにかかる。じっくり時間をかけてやる。三種の神器、素振り。ひさしぶりに一升瓶。勃起してきた。ハブ酒が引き起こした緊急事態だ。もう一度アヤメに電話する。
「ハブ酒飲んじゃって、緊急事態」
「はい! わかりました。あと十何分かで終わります。終わったらすぐいきます」
 声をひそめて強く言う。
「キッコがきても危なくない日だったら、百江とできなくなるから」
「キッコさんがいらっしゃらなくても、してもらえなくなりますし」
「そのときもするよ」
「うれしい! いつも私ばかりいただいて申しわけありません」
「そんなことあるもんか。一人きりで抱いてやれることがめったにないから、こっちこそ申しわけがないよ」
「いいえ、けっこう一人きりで抱いてもらってます」
 レジの隅で背中を向けてしゃべっているのがわかる。
         † 
 私が居間でジャージのズボンと下着を脱ぐと、百江もそそくさとパンストごと下着を脱ぎ、早足で脱衣場に行って洗濯機のノブを回した。早足で居間に戻ってきて、ティシュの箱を持つ。二階へいくつもりのようだ。
「ソファでしよう」
「はい!」
 百江はソファに手を突いてスカートをまくった。私は白くて丸い尻を撫でた。そっくり装置が見えている。黒い陰唇から愛液が門渡へしたたっている。ひさしぶりの眺めに感激して、陰茎が極度に硬くなり、亀頭が大きくふくらんだ。挿入する。
「ああ、神無月さん、好きィィ!」
 百江はたちまち尻を高く突き出して激しく打ちふるえた。ソファにガクリと肘を突いて顔を伏せる。表に返してソファに仰向けにし、口を吸いながら動きつづける。吉祥寺の福田さんとそっくりな白いからだが二度、三度と高潮に襲われ、いつもより大きく跳ねた。
「あ、もう、これ以上は無理です、神無月さーん、愛してますゥ、イックウウウ!」
 しっかり射精する。百江は私の律動にも陰阜を食いこませて貪欲に応じた。唇を重ねながら抜き取る。一度大きく跳ね、痙攣が鎮まっていく。百江はティシュをたっぷり引き抜き股間に当てる。雨の音が聞こえてきた。
「ありがとうございました。ソファでするのは初めてでしたので、いつもよりいっそう興奮しました」
「昼めしはいっしょに食おう。インスタントラーメン」
「はい」
 私のものを口で浄めてから便所へいった。七、八分ほどの交接のあいだに、その数倍の時間の愛情伝達がなされる。おかげで単純な快楽が愛に昇華する。男と女の世界の不思議だ。


         十五

 百江は便所の帰りにアルバムのようなものを持ってきた。
「お嬢さんのおととしのスクラップブックです。旦那さんから一年ごとに譲り受けてるもののようです。水原監督の就任の記事が載ってます」
「ラーメンのあとにしよう」
 二人、微笑みを交わし合う。
「お嬢さんがあんなに野球に詳しいのは、こういうものにいつも目を通してるからですよ。読書の量もすごいですけど」
「百江もそうなりたい?」
「いいえ、最初から敵わない人を褒めてるほうがとてもいい気分です。私、お嬢さんの大ファンですから」
 百江は手際よくインスタントラーメンを作る。あり合わせの野菜を載せた味噌ラーメン。二人肩を並べてすする。
「きょう初めての食事?」
「はい」
「ごめんね、こんなもので」
「いいえ、神無月さんとする食事はいつもごちそうです」
 百江は朝と昼の食事のあと片づけをまとめてやった。洗濯機を止めて中身を洗濯籠に取り出し、風呂場のロープに干せる小物だけ干す。そのあいだ私はずっとスクラップブックを眺めていた。
 十一月七日。中日監督に水原正式就任要請、本社首領と話し合い、なごやかな一時間と書いてある。電撃入団から数日経ったころの記事だ。おおよそ知っている内容だった。要請を受諾したのは十四日だ。十四日の切り抜きもある。これもだいたい知っている内容だった。

 水原は東京駅の新幹線ホームで中日応援団の激励に苦笑しながら、午後一時発の〈ひかり25号で名古屋に出発。午後三時三分に到着すると、そのまま中日ビル9階の球団事務所に入り、小山球団社長と会談、正式受諾の返事をした。
 三時五十五分、同ビル5階の〈橋の間〉に、小山、水原、村迫晋球団代表、それに愛知トヨタの山口社長、大同製鋼の石井社長が現れ、就任会見を行なった。この場で水原は「勝つことに執念を燃やして、来シーズン、チャンスがあればぜったい逃さない」と決意を表明。ほかにも「若手育成のためにファームの訓練、および躾けをきびしくする」「ユニフォームはいまのものをやめたい」等、記者の質問に対して小気味よく応答した。
 記者との問答をひととおり終えた水原は、単身名古屋市東区の東海テレビに向かった。8階の応接室で待っていたのは、江藤慎一、中利夫、高木守道のレギュラートリオだった。〈新監督と主力選手緊張の対面〉―東海テレビと中日スポーツ主催で座談会が組まれていた。
 「よろしくお願いします!」
 水原が部屋に入るなり三選手が威勢よく声を上げた。参加する顔ぶれを事前に知らされていなかった水原は一瞬戸惑いながらも、
「こちらこそよろしく。しっかり頼むぜ」
 とすぐに笑顔を見せた。
「中、もう目はいいのかい。噂では失明するような話だったか……」
「モリミチは背中だったな。その後はどうなんだい」
「江藤、ヒジはどうかな。酒は慎んだほうがいいぞ」
 さすがは一年間放送席からきびしい視線を送ってきただけあって、水原は各選手の状態を的確に把握していて、ざっくばらんな口調で三選手の体調を気遣った。と同時に、
「オフのあいだに徹底的に治しておかないと、キャンプできっと再発する。その点をよく考えて治療にあたってくれ」
 としっかり釘を刺すのも忘れなかった。まじめ一筋の高木は最後まで両手を前に合わせたまま硬い表情を崩さなかったが、中、江藤は、冗談雑じりにしゃべる水原の話術に終始笑顔を絶やさなかった。
 十五、十六日は秋季練習が行なわれている中日球場を訪れ、全選手に挨拶をすませてひとまず帰京、さっそくコーチ陣の組閣作業に取り掛かる予定である。
 

 やはり水原監督は最初からそういう態度で江藤たちに接していたのだ。角逐など起こりようがない。週刊誌の記事も添付されていた。

 両脇に一般企業の重役を従えての就任会見は異例も異例。ご両人が就任の実現に尽力したことはまちがいないが、とは言っても婚約会見じゃあるまいし、仲立ち人の同席など聞いたことがない。
 あくまで勝手な推測だが、この形式を望んだのは水原というより、むしろ中日サイドだったのではないか。球団内部には純血主義者が少なからず存在している。彼らからしてみれば外様の、しかも新聞戦争真っただ中にあった読売出身者の就任は気分のいいものではないはずだ。単に快く思わないだけならともかく、足を引っ張るようなまねをされたのではたまらない。そこでこの招聘が球団の独断ではなく、地元財界の推薦であることを知らしめることによって、内部の純血主義者の動きを封じようとした。バックに地元財界の大物がついているのでは、クーデターも起こしがたかろうというわけだ。


 また別の週刊誌の記事。

 いくら財界の後押しがあったといえども、排他的で知られる名古屋にあろうことか読売の血を輸血するとは、オーナー、球団社長も思い切ったことをしたものだ。
 近年、球界の長老藤本定義の神通力が弱まりつつあり、後任監督に頭を悩ませていた阪神もまた水原招聘を本気で企てていた。現に昨年、ある試合が終わったあと、解説放送をすませた水原に、待ち構えていた阪神ファンが「水原さん、来年は頼みまっせ」と声をかける内部情報漏洩的な〈事件〉があった。こうした噂は中日首脳陣の耳にも入っていただろうから、阪神が本腰を入れて動き出す前に、小山オーナーが財界人に泣きついたのもうなずけるのである。


 さらに日にちを経た別の週刊誌の記事。

 ……水原政権にとっても、中日球団にとっても欠かすことのできない重要なトピックに触れておきたい。水原の監督就任が決定する二日前の十一月十二日、ドラフト会議が日比谷日生会館において行なわれたが、就任の十一日前、中野勤労青年会館で神無月郷の電撃入団が発表された。この入団は前代未聞の大きな世間的注目を集めた。この東大野球部に所属する清廉無欲の評判高い天才青年のプロ野球入団は、これまで水商売のイメージの強かったプロ野球界に浄風を吹きこみ、プロ野球選手の地位を飛躍的に向上させた。
 中日球団は、神無月郷が青森高校野球部の一介の部員として静かに頭角を現し、未だ全国的に知られていなかった早い段階からその獲得を決定。諸事情から彼が一年半にわたって逼塞した期間も他球団とは異なって関心の目を逸らさず、受験合格を経てのち六大学で華々しい活躍をする同選手の〈動向〉をひそかに探りつつ追跡し(この間、中日ドラゴンズ以外のすべての球団は、四年後のドラフトを睨んでいた)、その中退に乗じて、いかなる他球団とも競合することなく交渉権を得るや、たちまち電撃入団に漕ぎつけ、その後日本プロ野球の〈顔〉として君臨することになる稀代の大物を手中にしたのである。
 そこには、神無月郷の幼少時代からの人生を興味深く研究し、知悉し、共鳴し、惚れこんだ水原茂の迅速な獲得戦略があった。水原にはドラフトの〈当たり〉など眼中になかった。想い人である神無月に監督就任直前に会いにいき、恋情に近い赤心を示すことでドラゴンズ入団を懇願することしか頭になかった。不発の場合には監督就任を辞退するとまで考えていた。この男と野球をやれないのなら、監督をしても何の意味もない。
 ところが、当の神無月は、積年、中日ドラゴンズを恋慕していたのだった。これこそ水原の野球人生における最高の〈幸運(あたり)〉になったのだった。水原は自分の恋情をひとことで、『すべてのあしたを持っている男に捧げる心』と表わした。
 水原がその神無月を獲得したにもかかわらず、十一月七日の就任受諾を遅延し十四日にしたについては、十二日のドラフトに無関心なわけではないことをフロントに明示するためだったと考えられている。これまでのみずからの芳しくない評判を覆してフロントと融和してやっていくことは、神無月の野球環境を整えることと同義だと判断したからである。
 いまや神無月郷は、水原の細心配慮をよそに、フロントの、そして選手たちの想い人にもなった。ことあるごとにグランドで繰り返される清浄で熱い抱擁に、ドラゴンズファンばかりでなく、全国の野球ファンも胸を打たれる。水原個人のあしたが国民全体のあしたとなったのである。


 毎日新聞のスポーツ欄を見る。

  
神無月加速 驚弾五号開幕待ちきれず
     
広角打法継続で全方向へ
 ドラゴンズ神無月郷外野手(20)が、一日の南海戦の二敬遠を交えての四打数四本塁打につづいて、三日の広島戦でも四打数二安打一本塁打を放ち、これで八打数六安打五本塁打、打率七割五分、打点十とし、オープン戦残り十試合、昨年オープン戦の三十四本、七割二分五厘、六十九打点を凌ぐ勢いとなった。しかも昨年より三試合少ない条件のもとでである。ホームランの打球方向も、中、右、左、右、左で、昨シーズン同様広角に打ち分けている。二本の凡打も、外角にするどく曲がるシュートをうまく振り切った結果で、打ち損じとは言えないものだった。
 特記したいのは、昨年以上にスイングスピードが増したことだ。四回裏に外木場から打った第五号ホームランは、その攻めどころの外角低目のシュートを大きく踏みこんで〈屁っぴり腰打法〉で叩いたものだった。目にも留まらぬスイングでしばき上げた瞬間、ボールの破裂音がした。と聞こえたのはじつはバットの折れた音だったが、凄まじいインパクトの衝撃を実証していた。バットを折ってスタンドまで届く! 彼を封じるヒントは、それでもなおこのコースと球種にあるようだが、ペナントレースに入ればさらに打法改善がなされているかもしれない。
 あらゆる打撃記録を世界最速で達成していくインクレディブルマン・神無月郷―デッドボールと四球しか封じ策のない竜神神無月郷に対峙して、各投手が頭を悩ませる季節が今年もやってきた。


 左上半分ほどの紙面を使って臼山のコラムが載っている。きょうから北村席に一部、則武に一部届けられるようになっているようだ。

 
夜明けのうた (連載第一回)
 畏友神無月郷の耳の奥に歌が流れた。
 十五歳、青森県野辺地町で流謫(るたく)の日々を送っていたころに小暗い部屋で心さびしく聴いた『夜明けのうた』だ。それは四回裏、江藤を二塁に置いてみずからツーランホームランを放った直後、五番木俣がライト前にテキサスヒットを落としたときだった。空とスタンドとチームメイトの顔がとつぜん明るく輝きはじめたと感じた。反射的に、野球を封じられていた〈灰色〉の時代が不意に甦ったのだろう。
「きょういちばん印象に残ったことは?」
「二つかな。外木場のシュートでバットを折ったこと。その反省をしてレフトへホームランを打てた。もう一つは安仁屋の伸びるシュート。驚いて振ったらサードライナーになった。あれは研究できない。いいところへ飛んでくれるのを期待するしかないね」
 このショートインタビューのあと神無月は、野球とは関係ないがと前置きして『夜明けのうた』のことを呟くように語ったのだった。記者は思わず落涙しそうになった。
 東大野球部のころ、彼はいつも気強く振舞っていたが、どこか悲しげでさびしそうだった。記者はそんな超人らしからぬ彼をひそかに恋人のように慕っていた。毎日でも抱き締めたいと思っていた。その男はいま、夜が明けた輝く世界で、クビキを解かれた超人のごとく跳梁している。幸福そのものだ。
 神無月よ、心の底から快哉を叫ばせてくれ。そして一度でいい、いつかこの胸に固く抱き締めさせてくれ。
                    スポーツ部 臼山円(まどか)記


 臼山は円(まどか)という名前なのか。ほのぼのとかわいらしい。




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