第四部


二章 オープン戦ふたたび




         一

 三月一日日曜日。六時半起床。二・四度。抜け上がるような青空。ルーティーン。ふつうの軟便。シャワー。ナショナル髭剃り。少し剃り音が大きくなってきた。耳垢取り、爪切り。長袖のシャツをランニングシャツに替え、股引を脱いでジャージを着る。
 朝食はステーキライス。メイ子も百江も生きいきと動き回っている。
「北村席の人として戻ってきたわね、メイ子ちゃん」
「はい!」
 ステーキに添えられたジャガイモもニンジンもブロッコリーもきちんと平らげる。カズちゃんが、
「日米親善戦に焦点を当てて、一日一日焦らずにね」
「うん」
 ハブ酒をキャップに一杯。
「ランニングの帰りはそのまま北村席に寄って、菅野さんの車で球場へいく」
「はい」
 タオルを腰に凌雲寺へ。きょうも黙々と走る。復路にかかり、
「南海の先発は西岡三四郎でしょう。今年の開幕投手だと言われてます」
「西岡!」
「どうしました?」
「明石の映画館に入ったとき、洲本実業出身の売店のおばさんが、彼もその高校出身だと言ってました」
「そうです、淡路島出身です」
「キャンプ最終日の阪急との交流戦で始球式をやった渡哲也も淡路島出身でした」
「へえ、渡哲也もですか。聞いたことなかったな。西岡の持ち球はナチュラルスライダーと重いストレート。握りが深いせいだそうです」
「なるほど。去年のキャンプの交流戦で、一打席だけ対戦して、セカンドゴロ。バットを折られた。めったにバットを折ることがないから、憶えてる。スピンとか回転数なんてよく言うけど、ボールの重さには軽いも重いもないので、差しこまれなければどんなボールも何とも感じないと思う。投球フォームから予想したよりも速い球がきたということでしょうね。胸を張った本格派の投げ方をしますから」
 通りがかりの市電から子供たちが手を振る。応える。日曜日だ。あの子たちの何人かはきょう試合観戦にくるかもしれない。
「きょう観にくるのは菅野さんとお父さん?」
「社長も私も昼から寄り合いですが、サボります。もう一人年間席は宗近棟梁です。あとはスタンドで、お嬢さんたち野球好きな連中が何人か見物します。メイ子さんも水族館の休みをとっていきます。オープン戦なのに内野指定券を買うのがたいへんでした。何とか一塁ベンチ上のB席を八枚取りました」
「どこで買うの?」
「名鉄のチケット販売所です」
 席に帰り着いて、ジャッキと直人のお出迎え。主人が居間から、
「きょうも三日も観にいきますからね」
「よろしく!」
 カズちゃんが、
「私たちはハイエースでいく。素ちゃん、メイ子ちゃん、百江さん、厨房から四人、ソテツちゃん、イネちゃん、千鶴ちゃん、幣原さん、ぜんぶで八人。おとうさん、三日の広島戦は、年間席に優子ちゃんを入れてあげて」
「おし」
 素子が、
「千佳ちゃんとムッちゃんは、中島秀子さんに会いに名古屋観光ホテルに出かけていったで。名大を案内して帰ってから、午後は広野さんといっしょにキッコちゃんの家庭教師。あしたはキッコちゃんといっしょに試験会場の確認と、秀子さんの市内案内。そのあとでキッコちゃんの家庭教師。三日は試合を観にいくって」
 丸や木村、近記らの顔がない。三上は厨房で静かにしている。気詰まりなのだろう。人は自分の荷を軽くしたくて秘密を打ち明けると、結局一人相撲をしてそれ以上の荷を負うことになってしまう。荷を分かち合えないと判断した人間に対しては、わが身がもとで生じた後ろめたさは、人生必須の因果とあきらめて背負わなければならない。私は秘密を分かち合う人間と分かち合わない人間の顕別を疎かにしない。
「ファールボールに気をつけてね。サンフランシスコ・ジャイアンツ戦は、内野席じゃなくネット裏を取っておいたほうがいいよ。超満員になるから、内野席じゃボールをよけきれないかも」
 シャワー。菅野は頭をバシャバシャやりながら、
「中日の先発は星野でしょう。小川さんは三日の広島戦ですね」
「どうしてですか」
「野村にこすからく責められないようにですよ。小川さんはいま話題の人ですから、バッターボックスで意地の悪いこと言われたり、ひょっとしてぶつけられたりするかもしれない。広島の田中尊(たかし)は南海に一年いて広島にきた十六年選手で、野村を反面教師にしてるキャッチャーです。捕手は目立たずピッチャーを陰ながら支えるだけでいい、と常々言ってます」
「小川さんは肉体的な困難には屈しない人です。デッドボールなどはうまくよけるでしょう。でも、精神的に悩まされることには敏感かもしれません。今回の行動もその証ですからね。監督はそこを危惧して―」
「はい」
 風呂から出ると、キッコが二人分の下着を用意していた。菅野の裸体を見ないようにする。菅野はあわてずにからだを拭き、ゆっくり下着をつける。二人ジャージを着る。キッコは私に、
「四日、試験終わったら……ええでっしゃろか」
「もちろん。夕食のあと則武にきて」
「うん。きょうはがんばってや。東海テレビで放送するさかい、勉強の合間に、それ観て応援しとる」
「ありがとう。寸暇を惜しんで勉強だ」
「うん」
 直人に付き合い、苦手なパズルを少しやる。いつの間にか百ピースのパズルに挑戦しているのに驚く。鉄腕アトム。ここまでピースが増えると、人の挑戦も許可したくなるようだ。勝利する自信があるからだ。直人は私の十倍のスピードでピースを発見していく。
「やあ、とても敵わないや。もう少し腕を磨かないと直人に褒めてもらえないな。きょうはここまでにして、おとうちゃん、お仕事にいってくるよ」
「うん、ぼく、おとうちゃんよりつよい?」
「ああ、だれよりも強い。チャンピオンだ」
 抱き上げて頬にキスをする。直人は得意げに勝利の笑みを浮かべる。こんなに幼くても人に優越することが感情の根っこを揺すぶるのだ。私にこの感情が幼いころにあったろうか。もしあったら、私はもっとごまかしのない人間になっていたはずだ。……いまは、ごまかしがない。生きて人間としての誇りを得たいからだ。誇りがあれば人は〈引いて〉生きないはずだ。直人と同じように、誇り高く生きて、個として卓越することの純粋な喜びに浸りたいはずだ。しかし、私の気質がそれを許さない。それが叶わないなら、せめて誇り高き人びとを慕い、彼らを師表として生きたい。これからは直人ばかりでなく、誇り高き人間のどんな種類の勝利も心から喜べる人間になろう。
「はい、おにぎり二つ。塩鮭とコブです」
 冬ものの洒落たワンピースを着たソテツが新聞紙でくるんだ小さな包みを差し出した。
「あ、もう時間?」
「九時四十分です」
「支度してくる。おにぎり、土間のスポーツバッグに入れといて」
 納戸部屋へユニフォームを着にいく。時間をかけ、ピシッと着こんで廊下に出る。主人と菅野がすでに背広を着て、正装した女たちといっしょに上がり框に立っている。運動靴を履いているあいだに女将が私の肩口に切り火をする。トモヨさん母子三人が間近で見守る。ダッフルを肩に担い、バットケースと小バッグを手に提げ、カンナを抱いたトモヨさんや直人や、キッコや優子や留守番の賄いたちに、
「いってきます」
「いってらっちゃい!」
「いってらっしゃいませ!」
 ソテツとイネが小ぶりの段ボール箱を一つずつ抱えて玄関を出る。幣原たちがつづく。素子と千鶴はクビにカメラをぶら下げている。菅野は紙袋を提げている。私は見送りの人たちに辞儀をして玄関戸を閉めて出る。十一人ぞろぞろ庭石を歩く。ジャッキが足もとを走り回る。ジャッキを呼び戻す天童の声がする。直人が彼女の前に立ってチョコチョコ走ってきて、数寄屋門の戸を開けた。優子がジャッキの首輪をつかまえる。
「いってらっちゃい!」
 私を見上げる直人の頭を撫で、
「いってきます。三歳の誕生日がきたら野球場に連れてくからね。それまでは怖い野球ボールには近づかないようにしよう。いい子でお留守番しててね。テレビでおとうちゃんを観るんだよ」
「うん!」
 優子が、ジャッキ、ほら、と声をかけると、ジャッキが私にウォンと吠える。門の外に宗近棟梁が待っていた。ハイエースに女連中がドヤドヤ乗りこみ、いち早く出発する。素子が運転を買って出たようだ。棟梁は私たちに、
「一日お世話になります」
 と頭を下げる。主人が、
「開幕まで一カ月半やが、一足速い開幕戦みたいな感じですな」
 目を細めて青空を見上げる。
「まったく。最終戦のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦は、開幕戦より興奮するやろね」
 セドリックのトランクに荷物を入れ、三人乗りこむ。助手席に図体の大きい私。菅野に、
「彼女たちの弁当はあの段ボール箱?」
「はい。私どものはトランクに入れた紙袋です。豪華なやつですよ。神無月さんがおにぎりなのに、すみません」
「試合前はあんまり腹をふくらましちゃいけないんだ。おにぎりでちょうどいい」
「そういうものでしょうね。あ、棟梁の分もありますからね」
「ありがとうございます」
 十時出発。主人が、
「棟梁も寄り合いサボりましたな」
「はあ、ほかにも何人かサボっとりますよ。どうせ春の一斉セールスの話やろう。工務店にセールスはまず関係ないがね。ま、そんな話をするくらいなら、野球を観てるほうがマシですからね」
「そりゃそうや。どうせ来週の日曜日に集まるんやろう」
 笹島から名駅通を一路走り出す。
「棟梁の工務店はどこにあるんですか」
「神無月さんのランニングコースから外れとるわね。銀座商店街から一筋中に入り、金時湯の裏通りですわ。昭和の初めの古い民家がゴロゴロ建っとります」
 菅野が、
「それにセールスかけたらどうですか」
「何度か改築の声をかけとるんですがね、頑固者ばかりで、家の手入れなんか考えとらんのです」
 下広井町、六反。今年もこの路の往復が始まった。西日置橋、中川運河。山王通の中日球場前駅を右折して、四種類の路線が走るガードをくぐり、いろいろな卸問屋の事務ビルの建ち並ぶ通りを左折する。左に新幹線の高架、右に露橋公園の緑。三分咲きの桜。尾頭橋駅のガードを通って人の波が中日球場へ向かっている。
 目の前にそびえ立つ中日球場。八基の照明塔が見える。レフト側場外の道路沿いから正面口にかけて人びとが群れている。彼らの背後は広い駐車場だ。そのまた背後に民家が疎らに点在している。正面口から一塁側スタンドにかけて、人混みを取り囲むように在の町工場が密集しているのが、ところどころ裂け目のようになった細道から見える。工場群の全容は黒いトタン塀で覆われ、球場の高いスタンドからしか見えない。こんな鄙びた場所に球場があることなど子供時代には気づかなかった。ものすごい人だかりに興奮して、周囲を見回す余裕などなかったからだ。
 素子たちのハイエースが人群れを縫ってゆっくり三塁内野側の駐車場を目指す。あとを追う。
「さあ、やるか!」
 助手席から張り切って降りる。男三人も浮きうき降りる。トランクから荷を下ろす。女たちはすでに正面ゲートのほうへ歩き出している。こちらに手を振りながら人混みへ紛れていく。彼女たちは一塁側入場口から入る。男三人は正面ゲートから入り、私はその十メートル先の関係者専用口から入る。発券の穴場に列を作る人びとを眺めながら歩く。
「神無月ィ!」
「金太郎さん!」
「ホームラン頼むぞォ!」
「がんばりゃあ!」
 押し寄せ、触りまくる人びとに囲まれながら関係者専用口から入る。






         二

「おはよっす!」
「オス!」
 ロッカールームの新しい活気。ふだんはゴチャゴチャと乱雑な空間が、きょうは整頓が利いている。どの選手も笑顔を崩さず、スパイクの紐を締めてはダッグアウトへ出ていく。高木がグローブのチェックをしている。太田が谷沢に、
「久保田バット三十本、奮発したァ」
 谷沢は羨ましそうにグリップを握る。気に入ったようだ。
「ほしいか。一本やるよ」
「悪いですよ。高いでしょう」
「いいから持ってけ。それできょうは打ってみろ」
「はい!」
 小川がロッカー前の折り畳み椅子で煙草を吸っている。
「小川さん!」
 駆け寄って抱き締める。自然と涙が湧いてくる。小川は私の背中をポンポン叩き、
「わかった、わかった、みんなでそれをやるからたまらん。水原さんもモリミチも、慎ちゃんなんか一分もやってた。太田もやっと離れたところだ。気持ち悪いだろ? きぬぎぬの別れじゃねえんだから。あとは日本シリーズが終わったときにしてくれ」
 江藤は自分のロッカーの前でうなだれていた。私は小川から離れ、尻ポケットのタオルでまぶたを拭った。小川はあたりを見回し、
「あれ、菱は?」
 江藤が、
「ひと泣きして、ベンチへいったばい。健太郎は生々(しょうじょう)流転に身をまかせるんやなく、自分で無理から変身しようとするんやけんな。強情な男たい」
 一枝が、
「これまでもそうだったんだから、一朝一夕で変えられる性格じゃないさ。変えるつもりもないだろう。東映やめて、素人野球を転々として、子育てのためにドラゴンズに就職した男だからな。それ、素直な流転じゃないだろう」
 高木が、
「才能があったから可能だったんだ。ギクシャク生きるのは天才しかできん」
 秀孝が、
「もうすっかり野球やめちゃうんですか」
「観るのはやめないよ。小山オーナーが、向こう五年間、優待席の手続をしてくれた。再来年からはラジオ解説者だしな。それより秀孝、きょうは先発だろ。早めに肩慣らしとけ」
「はい」
 秀孝はノロノロダッグアウトへいった。
「今年は沢村賞を獲ってください」
 私が言うと、
「沢村賞と最多勝は秀孝だ。沢村賞は一回獲ってるからほしくない。最優秀防御率を狙う」
 中が、
「何ごとも自力更生の男か。似た者の金太郎さんと別れるのはつらいだろう」
「別れないよ。ちょくちょく北村席に遊びにいくつもりだし、解説者になればグランドを闊歩できるだろう」
 煙草を灰皿で揉み消し、グローブをむんずとつかむと、
「さ、ちょっとバッティングピッチャーでもやってみるかな」
 十時半。みんなでベンチに入る。菱川がフェンス沿いをランニングしている。バッティングケージが二つ。左のケージに江藤が入り、門岡が投げる。満員のスタンド。看板ぎわの立ち見が増えていく。緑のスコアボード、真っ黒いバックスクリーン。左中間の後方を新幹線が過ぎていく。風が強い。スコアボードの旗が真横に靡いている。小川がマウンド右の防球網に走っていく。
「五、六球肩慣らし!」
 私がケージに入る。歓声が上がる。監督やコーチが二つのケージの後ろに集まりはじめる。彼らに報道関係者がまとわりつく。江藤が高々とレフトスタンドへ打ち上げる。
「スタンドのみなさま、打球にご注意くださいませ」
 じつにひさしぶりに聞く下通の澄んだ声。江藤は二球、三球と打つ。シュ、タシ! サッ、コン! 実際の話、打球音はカンでもキンでもない。カ、コ、キ、に少し湿った音が加わって、カシュ、コシュ、キシュに近い。
「いいぞ、金太郎さん、いくぞ!」
 私は一球目の外角球をレフト中断へ弾丸ライナーで打ちこむ。井上コーチが、
「ようし、正しいフリーバッティングのやり方だ」
 記者たちが手帳を持って井上コーチに迫る、杉山コーチが代わりに答える。
「一球目は試合と同じように全力で振って、かならず長打しなければならないんだ。フリーバッティングというのは〈甘い球を一球で仕留めろ〉の訓練だからね」
 井上コーチが、
「バント練習をするなど愚の骨頂だよ。試合でめったにやらないことで目慣らしをするなどもってのほかだ」
 五本中四本スタンドに打ちこんだ江藤に促され、菱川が左のケージに入る。門岡の初球インハイ。右掌でボールそのものをひっぱたく感じで振り抜く。クン、クン、クンと左翼場外へ。水原監督が、
「ナイスバッチン!」
 私は小川に、
「ミックスで四本!」
「オッケー!」
 ミックスというのは、球種をご勝手にということだ。カーブ、スライダーを低いライナーで右中間フェンスへ一本ずつ、シュート、フォークを低いライナーで左中間フェンスへ一本ずつ打って終了。
 グローブを手に外野へ回り、ポール間ジョグ。菱川のいい当たりの打球がレフトスタンドへ飛んでいく。センターフェンスあたりで三種の神器。ひさしぶりに片手腕立て十回ずつ、パフォーマンスのつもりでやる。フェンス沿いにケージまで回っていき、籠を提げて防球ネットの周囲に溜まったボール拾い。
「谷沢、入れ!」
「はい! ミックス、高目だけでお願いします。センター中心に打ち返します。十球」
 太田からもらった久保田バットを持つ。フラッシュが瞬く。五種類ほどの球をセンター定位置へのライナー三本から始めて、右中間三本、左中間三本、バックスクリーンへ一本打ちこむ。スタンドから盛大な拍手。すばらしいバットコントロールだ。門岡のケージに高木が入った。左中間へライナー二本、レフトスタンドへライナー三本。小川が、
「太田、入れ!」
「はい!」
 レフトライナー二本、レフトスタンド上中下段へフライのホームランで終了。
「もう一度金太郎さんいけ!」
「はい!」
 バックスクリーン越え三本、スコアボード直撃二本で終了。腹に響くスタンドのどよめき。
「バケモン!」
「ゴッツァンです!」
「俺もきょうは終わり!」
 水原監督が拍手する。小川と二人でフェンス沿いにランニング。
「非暴力系のヤクザには泣きます」
「俺はヤクザか」
「正真正銘の」
「運の悪い年に当たっちゃったよ」
「運を信じますか」
「人間それだけじゃないの」
 門岡のケージで中と一枝が打ち終わって、全員ベンチに戻る。南海野手陣のバッティング練習開始。ベンチから続々と出てくる選手の姿に目を洗われる。白地のユニフォームの胸に緑でNANKAIのロゴ、肩と袖とズボンの外側の緑のライン、緑の帽子。ホームのユニフォームのロゴはHawksとなるようだ。しばらく観察する。野村に注目。王や長嶋と同様バットを一握り短く持ち、のめり気味にダウンに振り出し、背中を丸めてからだの軸を調整する。右手を強く絞り、左手首をひねり返して打つ。独特の打法。距離はそれほどでもなく、ライナーでレフトスタンド中段から前段に放りこむホームランがほとんど。何かのきっかけで、一般的な距離のホームランを打つ技術を習得したのだろう。王とちがって蒲団を叩くような気軽さだ。これなら量産できる。
 門田博光が打つ。小さくて丸い。重そうなバットをぎりぎり長く持って全力で振る。ポンポンスタンドに飛びこむ。ケージの後ろで野村が苦々しい表情で見つめている。なぜだろう。嫉妬ではない。アベレージヒッターとちがってホームランバッターに嫉妬はない。えらそうにチビが身に合わないことをやっている、というところだろう。しかし、ボールの下を打つバットコントロールがじつに正確なので、あの打法でいいと思う。門田のような小さいからだの選手は当てただけではスタンドインしない。何よりもスイングスピードが命になる。ただ、強振するだけでコントロールが荒いならば、叱らなければいけないだろう。二割前後のバッターになってしまう。
「ドラゴンズの守備練習でございます」
 星野秀孝と伊藤久敏がブルペンへ。私は一枝と高木に、
「今年からワンバンで一塁送球もしようと思ってますから、カットしないでくださいね」
「オッケー。パフォーマンスだな」
「はい」
 レフトゴロを二塁へ一本ノーバウンド、三塁へ一本ノーバウンド、一塁へ一本低いワンバウンド、ホームへ一本浮き上がるノーバウンドで。歓声が沸く。すべて九分の力で投げた。格段に肩が強くなった手応えがある。強いというよりラクになったと言うべきか。
 太田もまねをして、二塁、一塁、三塁、ホームへ余力を残して送球する。ホームへはワンバウンドの低い送球。じゅうぶん強肩だ。中は二塁送球とワンバウンドのバックホームのみ。外野が引き揚げ、内野の併殺だけの練習。外野と合わせて十二分で切り上げる。
 南海の外野の練習は、ライトの門田もセンターの広瀬もセカンドにカットつきで何本か返しただけ。レフトは知らない顔だった。外野は五分で切り上げ、十五分の守備練習時間のほとんどを内野に費やす。そのあいだにロッカールームでおにぎりを食う。仲間たちは選手食堂へいった。
「本日は中日スタジアムへお越しいただき、まことにありがとうございます。ただいまより中日ドラゴンズ対南海ホークスのオープン戦を行ないます。この試合は、昭和四十五年度ペナントレース開幕に向けての前哨戦となる非公式試合第一戦でございます。ホームチームは中日ドラゴンズ、ビジターチームは南海ホークスでございます。両チームのスターティングメンバーを発表いたします。先攻南海ホークス、一番センター広瀬……」
 二番ライト門田、三番サード富田、四番キャッチャー野村、五番ファーストジョーンズ、六番レフト小泉、七番セカンド古葉、八番ショート小池、九番ピッチャー西岡、と背番号とともに発表されていく。気温六・三度。風強し。
「後攻中日ドラゴンズ、一番センター中……」
 二番セカンド高木、三番ファースト江藤、四番レフト神無月、五番キャッチャー木俣、六番サード菱川、七番ライト太田、八番ショート一枝、九番ピッチャー星野。強固な布陣。
「審判は主審原田」
 江藤が、
「熊商の大先輩たい。もと阪急の豪球ピッチャーぞ」
「塁審は一塁大谷(水原さんの犠牲者)、二塁太田(これで太田は三人か)、三塁手沢、線審はライト鈴木、レフト竹元、以上でございます」
 始球式はないようで胸を撫で下ろす。八人守備位置へ走っていく。秀孝がマウンドに上がる。中とキャッチボール。中は太田とキャッチボール。内野陣のボール回し。レフトスタンドの一画で鷹のマークの旗が振られる。慎ましい合唱。去年大阪球場で聞いた南海ホークスの歌だ。
「一回表、南海ホークスの攻撃は、一番センター広瀬、背番号12」
 広瀬がバッターボックスに入る。足もとを均し、クイッとバットを立てて構える。
「プレイ!」
 轟々と喚声が沸く。秀孝振りかぶって初球、ど真ん中ストレート、思わずバットを出し振り遅れのセカンドゴロ、高木わずかに前進しながらさばいて江藤へ、ワンアウト。内野スタンドの歓声。広瀬がしきりに右手を振っている。ど真ん中なのに差しこまれて詰まったのだ。
「二番ライト門田、背番号27」
 すべて内角高目の速球、すべて空振り、三球三振。ヘッドアップしないみごとなスイングだった。僅差のゲームになったときに怖いのは、彼と野村の一発だ。ベンチに退がるときの門田の膝から下が少し細いと感じた。筋力をつけるのはそこだけだ。
「三番サード富田、背番号5」
 法政三羽烏か。腰の高い三塁手だが、バネはありそうだ。パーム、ストレート、カーブでこれも三球三振。
「ナイスピッチング!」
 みんな口々に秀孝に声をかけながらベンチに戻る。秀孝はベンチ隅の洗面所へ顔を洗いにいく。
「脂汗が出ました」
「ほんとかいな」
 一枝が秀孝の尻を叩く。


         三

「一回の裏、中日ドラゴンズの攻撃は、一番センター中。まだまだバリバリ元気なドラゴンズ最古参の十六年選手です」
 江藤が中の背中に、
「腕の振りとスピードがちごうとるよ。ごまかされなすな!」
「おう!」
 振り返って応える。足もとを固め直し、構える。初球外角カーブを見逃し、ボール。二球目外角低目ストレートを見逃し、ストライク。中はうんうんとうなずき、足もとを固める。三球目、内角ぎりぎりのコースにお辞儀して入ってきたストレートを掬い上げた。いい角度でふっ飛んだ。
「ヨシャ、一本!」
ベンチの森下コーチの叫びを聞いて、セカンドの古葉とショートの小池がアーと振り仰いだ。歓声。ライト中段の上のほうに突き刺さった。ドラゴンズの紺の小旗が蝟集しているあたりだ。いつもながら美の極致のホームラン。みんなで小躍りしながら迎えに出る。秀孝が先頭だ。小さな中が三塁コーチの水原監督とタッチして悠揚と戻ってくる。秀孝がからだを小さくしながら握手する。
「中選手、オープン戦第一号の堂々たるホームラン。今季のドラゴンズのゆく手を占うすばらしい景気づけでございます。拍手!」
 スタンドがドヤッときた。江藤が、
「今年も、シモトオリ節、健在やのう」
 と言いながらウェイティングサークルに入った。バッターボックスは高木。グッと脇へバットのグリップを持ってくる。弓の弦(つる)を引く構えだ。江藤はもう少しグリップを上げる。二人とも美しい。
「つづけ、モリミチ!」
「ミスタードラゴンズ!」
 西岡の初球、外角スライダー、よし初球からひっぱたいた、右中間をするどい打球が抜けていく。高木の右中間はめずらしい。門田懸命に走ってフェンスに達する前に横っ飛びで捕まえる。立ち上がってセカンド送球、中継の古葉カット、それを横目に高木悠々スタンディングダブル。大歓声。
「初回から長い攻撃になりそうです。バッターは三番江藤、背番号9」
 江藤バッターボックスへ、私はネクストバッターズサークルへ。ネット裏の主人たちを見上げる。驚く。彼らの前段何列か前に加藤雅江一家を見つけた。雅江はじっと私を見ていた。手を振らなかった。今年からはたとえグランドのパフォーマンスはしても、この種の浮ついた行動は戒めようと思っていた。
 江藤初球、西岡力まかせの速球、内角高目、ボール。ふだんならそこを振ってパフォーマンスする江藤が自粛した。読みにかかっている表情だ。下通のいる窓を見る。金網で何も見えなかった。二球目、同じコース、やや高目のストレート、ストライク。江藤は頑なに手を出さない。高木が膝の屈伸運動をしてからリードをとる。予感がある。ベンチが静まり、スタンドが騒ぐ。三球目、やっぱり外角、得意のスライダー、ガツ! 独特の外から内への引っ張り! センターに向かって一直線に伸びる。広瀬バック、バック、ストップ、バックスクリーンへドスン。江藤は片手を突き上げ、森下コーチとタッチ。ワーンという歓声の中から下通の明るい声が立ち昇る。
「今年の打点王の行方を占う一発です! いよいよ長い攻撃になります」
 スタンドの大笑い。江藤は水原監督と抱擁。仲間たちの群れに飛びこんでくる。私は最後尾でタッチしてバッターボックスへ。少年たちの声援に大人の声が混じる。
「かっ飛ばせ、神無月!」
「ホームラン、ホームラン、金太郎!」
 ネット裏の雅江が立ち上がっている。
「ヨー!」
「ホレ! 一発!」
 ベンチの胴間声。監督兼キャッチャーの野村が、
「何人も女連れて歩いとるそうやが、新聞記者も何か秘密くさくないんで写真に撮れんゆうとったわ。あんたひょっとして聖人君子やないか? ほんまは家で座禅組んどんちゃうか」
「はい、そうです」
 初球甘い外角高目カーブ、わずかに踏みこみ叩き切る。ギン! 
「アチチチィ!」
 野村の叫びを尻目にセンターへ上昇していく。思った以上に大きい。スコアボードのイニングパネルの上部、防弾ガラスで覆ったばかりの時計の左脇へドン! 甲高い歓声が渦巻く。森下コーチとタッチ。
「今年も始まりおったな!」
「始まりました!」
 スタンドの喚声を聴きながら二塁ベースを回る。三十歳のベテランショート小池が、
「ナイスバッティング!」
 澄んだ声をかける。サードの富田も明るい声をかける。水原監督と抱擁。
「きょうはこれを五回かな」
「二回を目指します」
「何回でもいいよ」
 尻をポーン。下通が、
「EK砲出撃、ドラゴンズの空爆開始です。打者一巡するまでうるさいアナウンスになりますが、ご容赦くださいませ」
 と、落ち着き払った調子でやっている。
「ええぞ、ええぞ!」
「やれやれ!」
 やんやの喝采と拍手。私が菱川たちに揉みくちゃにされている最中に、野村が原田球審にピッチャー交代を告げている。
「ホークスの選手交代を申し上げます。ピッチャー西岡に代わりまして、佐藤道郎(みちお)、ピッチャー佐藤、背番号14」
 ドラ一の新人に大きい拍手が上がる。エラの張った美男子、巨漢だ。マウンドに上がって投球練習。ワインドアップをしないおかしな投げ方だ。
「バッターは五番、キャッチャー木俣、背番号23、マサカリ弾が投下されます」
 木俣バッターボックスへ。ヘッドを上下させながらグリップを腰のあたりで止める。ここからもう一度ヘッドを上げて叩き下ろす打ち方だ。初球インコース低目ストレート、ストライク。投球間隔をほとんど置かず、二球目インコース腿の高さのカーブ、ストライク。木俣が、いまのは肩が静止していなかったのでボークでないか、と審判に確かめる。原田はちがうと手を振る。
 ―松本幸行のまねか? 同じ二十二歳、社会人と大学野球、まさか知り合いじゃないだろう。球質もユル球と速球でぜんぜんちがうし。とにかく次はアウトコースへスピードボールだな。
 木俣は審判に〈待った〉の意思表示をして足もとを均す。三球目、今度はふつうの投球間隔でアウトコース高目へ速球、空振り三振。野村がシテヤッタリ顔でボールをファーストのジョーンズに放る。白球が内野を回って佐藤に戻る。
「マサカリ弾不発に終わりました。次の投下に乞うご期待。バッターは六番、サード菱川、背番号4。昨年ついに大輪の花を咲かせた異色の七年選手です」
 菱川は、松本に似た〈ちぎっては投げ〉の対策を一瞬のうちに考えたようだ。一球目の絶好球を立ちん棒で見逃し、間隔を置かず投げてきた二球目、外角低目のクソボールをしごき上げた。かなりキレのいいカーブだったが、芯で捉えてしごき上げたのでピンポン玉のように飛んでいく。ものすごい勢いでライトポールを巻いた。怒涛の歓声。薄茶色の顔がニコリともせずにダイヤモンドを周る。バンザイをしている水原監督にぶつかるように飛びこんで抱き締められる。このときだけ歯を見せた。迎えに出た江藤や私に胸をぶつけて喜びを表す。ゼロ対五。
「入団式で中学時代の神無月選手と奇跡の再会を果たした感激屋太田選手は、中選手や木俣選手と並ぶ野球物知り博士として有名です」
 七番太田、菱川と同じように二球目を打つが、内角ストレートに詰まって冨田へのサードフライ。
「チーム随一のクラシック通一枝選手は、なんと難波のど真ん中出身です。デッドボールを当てられないように気をつけてください」
 笑いの中で八番一枝、四球見送ってワンスリー。五球目のシュートをきれいに捉えた。が、惜しくもサードライナー。チェンジ。
「二回表南海ホークスの攻撃は、四番キャッチャー野村、背番号19」
 三塁側内外野からいっせいに拍手。私の背後から、
「神無月ィー、色白いなあ、家の中にばっかりおらんと、もっと外に出て日に当たらんとあかんぞ!」
「満員の球場で試合できて幸せやのう!」
「うちだけやなく巨人もいじめたらんとあかんで!」
 私は帽子を振った。
「おお、ええやっちゃないか、気に入ったでェ、もっとホームラン打ってええどォ。どうせうちは勝てんさかい!」
 爆笑。
「おおい、野村が打つど、応援したらんかい!」
 秀孝の初球、真ん中高目速球、ファールチップ。さすがにタイミングが合っている。二球目、同じコースへ速球、同じようにファールチップ。わずかに浮いてくるのだ。秀孝言うところの〈変化球〉だ。三球目、内角低目ストレート、空振り、三球三振。
 五番ジョーンズ、アフロヘアの黒人。でかい! メクラ振り、三球三振。
 六番小泉、見覚えのなかったレフトだ。十年選手、二十八歳、長身の左バッター、三角顔、王とそっくりの一本足打法。江藤と同じ背番号9をつけているが、貫禄がまったくちがう。初球外角高目速球、早打ちして高いバウンドのショートゴロ。一瞬ボールが低くイレギュラーして一枝の内股に当たった。拾って懸命に送球したが間に合わない。ランプはH。だれの目にも不可抗力だ。一枝と秀孝は手を挙げ合い、それでおしまい。
 七番古葉、背番号1。十二年在籍した広島から今年移籍してきた。盗塁王を二度獲っている俊足の選手。江藤と日鉄二瀬で同期だったと聞いている。ツーツーから、きょう二度目のパームで空振り三振。
 二回裏、秀孝、レフト前ヒット。
「ピッチャーらしからぬきれいな流し打ち。尾瀬の山中に隠れ住んでいた天才です。ご存知のとおり、昨年度の最優秀防御率投手です。その豪速球は九回ナンバーワンと言われています」
 中、新人相手にしきりにアコーディオンをやって、フォアボールで出る。
 高木、センター前へ抜けそうな当たりを古葉に好捕され、中フォースアウト。秀孝三塁へ。ワンアウト一、三塁。
 江藤初球見送り、高木盗塁成功。ホームへ投げることに汲々となっている佐藤はまったく無警戒だった。野村も三塁ランナーを警戒して、二塁へ投げない。ワンアウト二塁、三塁。二球目、江藤は外角カーブを軽いスイングで弾いて大きなライトフライ。秀孝生還、高木三塁へ。六点目。
 私、敬遠。ファーストのジョーンズにミットで尻をポンと叩かれた。振り向くと、真っ黒い大男が私を見下ろして微笑んだ。
 木俣、インコース高目のカーブを叩き潰すように打ってレフト前ヒット。高木生還、ゼロ対七。
 菱川、敬遠気味のフォアボール。
 七番太田、右打ちに切り替え、外角低目スライダーをライト前へ痛打。ツーアウト一、二塁。ここで一枝がレフトスタンド上段へ一発食らわし、全員安打達成、オールスター総出演になった。小さなからだ同士が三塁コーチャーズボックス前で抱き合う図に、場内から盛大な拍手が湧いた。一枝は満面の笑みを浮かべてホームに飛びこんできて、みんなに尻や背中を叩かれる。
「ぶっ飛んでったぜ。俺の最長不倒」
「球種は?」
「カーブ。肩口からきた」
 ゼロ対十。打者一巡。秀孝はバントをしてアウトになったものの、佐藤にダメ押しの疲れを与えた知恵は、なかなか愛嬌のある括弧閉じに思われた。
 一回表から五回表まで、秀孝は打者十八人に対して被安打二(門田と古葉)、四球一(野村)、三振十一、凡打四(そのうち一本がレフトフライで飛んできた)、自責点ゼロで投げ切った。まともな当たりは門田の火を吹くようなライト前ヒットだけだった。六回から伊藤久敏に交代した。
 三回裏から南海のピッチャーは種部に代わった。背番号16。初対決だった。今年巨人から移籍してきた右のサイドスローで、癖のある変化球を投げるやつだと江藤が言う。太田がパンフレットを見て、
「種部儀康(のりやす)、昭和三十七年、米子鉄道管理局から巨人入団、今年三十一歳。去年のオフに南海へ金銭トレード。これまで八勝二敗。防御率がひどいです。おととしは6・00でした」
「去年は登板なしのままトレードされたんやったな」
 種部は三回から六回まで投げ、私たちになす術もなく打たれた。交代もさせてもらえなかった。打たれて見離されるというのはこういうことだろう。三回、中フォアボール、高木左中間へツーラン、江藤センター前ヒット、私ライト場外へツーラン、木俣レフトライナー、菱川ライトフライ、太田右中間二塁打、一枝セカンドフライ。ゼロ対十四。四回、秀孝三振、中センターフライ、高木ショートゴロ。五回、江藤レフトフェンス直撃の二塁打、私屁っぴり腰でレフト看板に当てるツーラン、木俣センターバックスクリーンへソロ、菱川痛烈なファーストゴロ、太田レフトファールフライ、一枝ピッチャーライナー。ゼロ対十七。六回、秀孝の代打谷沢、久保田バットで痛烈なセンター前ヒット、中の代打江島センターオーバーの二塁打(そのまま中と交替)、谷沢生還、高木レフト前ヒット、江島生還、江藤サードゴロゲッツー、私敬遠、盗塁、木俣右中間テキサスヒット、私生還、菱川レフトライナー。ゼロ対二十。




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