四
六回から九回まで投げた伊藤久敏は二本のソロホームランで二点取られただけだった。打たれた相手はジョーンズ(右翼場外)と、古葉(レフト前段)だった。門田以上にジョーンズに注目した。最初メクラ振りに見えていたが、選球眼もじつにいい。これぞと思い定めたボールを渾身の力で振っているようだ。ただ精度が低い。
南海は七回からマッシーことサウスポーの村上雅則が登板した。去年の明石の交流戦の先発ピッチャーだ。立ち投げで、サイドスローに近いスリークォーター。投球練習のボールはまったく走らないが、右打者の内角へスッと曲がりこむスライダーがクセモノだと感じる。七回は、案の定太田が詰まったサードゴロ、一枝が詰まったショートゴロ、左投げ右打ちの伊藤久敏が三振。八回は、江島がどうにか力で押しこんで三遊間ヒット、高木が差しこまれてサードインフィールドフライ、江藤がフォアボール。ワンアウト一、二塁。
村上はなぜか私には外へ逃げるスライダーを使わず、内角低目へ百三十キロ半ばのストレートを投げてきた。じつはそれが村上の一番自信のあるボールだということを思い出した。去年の交流戦ではアウトローにこれを投げてストライクをとった。そのあとの外角のスライダーをレフト前段に打ちこんだのだった。きょうはコントロールミスで最初からインローにきた。
「アタァ!」
野村の舌打ち混じりのうなり声が聞こえた。私は難なくゴルフスイングで叩き上げる。ライト看板にぶつかるスリーラン。
「ええかげんにせいや! 弱いチームいじめて楽しいんか!」
という声が三塁ベンチ上のスタンドから飛んできた。鉢巻をした男が叫んでいる。
「鬼にも慈悲はあるやろう!」
木俣詰まったサードゴロ、菱川詰まったセカンドゴロ。
「ありがと! 閻魔さまのお弟子さん! 鬼の目にも涙や」
点数に執心する南海ファンには、村上の優勢がわからない。七、八回の〈野球〉は文句なく村上に軍配が上がった。がむしゃらのシングルヒット一本、失投につけこんだホームラン一本で、運よく三点取れた。
九回表の南海の攻撃は、三塁側内外野のファンの応援空しく、村上の代打の藤原満が三振に倒れて三者凡退に終わった。四時十七分、試合終了のコール。
二対二十三。α勝ち。勝ち投手星野秀孝、敗け投手西岡三四郎。これほど大差がついたのに、最後まで観客は席を立たなかった。結局ノーヒットに終わった野村は、一塁ベンチと目礼も交わさずに、チームを率いてサッと引き揚げた。レフトスタンドの旗振りファンたちも、旗を巻き、しおたれて球場をあとにした。ゾロゾロと観客が出口へ移動していく。遠い日のさびしい気分を思い出す。私はあの中の一人だった。
「ごらんのとおり、本日の試合は二対二十三をもちまして中日ドラゴンズの勝利となりました。三月三日桃の節句のオープン戦は、午後一時試合開始の広島戦でございます。ご家族ご友人お誘い合わせのうえこぞってお出かけくださいませ。とりわけ女性のかたのご来場をお待ちしております」
ウグイス嬢のアナウンスもさびしい気持ちで聞いた。アナウンスが流れたとき、ゆっくり動く人びとの背中を見ていた。アナウンスが侘びしい世界への誘いの声のように聞こえた。
ネット裏を見た。加藤家も北村家もすでに姿がなく、テレビカメラがうなだれていた。
ロッカールーム。いま、侘びしくない世界にいる。水原監督が、
「村上を打ちあぐねたね。先発されてたら、どうなったかわからなかったよ。ヒーローインタビューは、お客さんや選手・スタッフの帰宅の足が遅れるし、ペナントレースや日本シリーズ最終決戦で勝利したのでもないかぎり、一試合一試合のラッキーボーイを持ち上げるなんて片腹痛いことに思えます。で、敵が勝った場合はご自由にやってくださいということにして、シーズン中も控えさせていただくということに決めました。悪しからず」
太田コーチが、
「三日の試合から一試合置きに、金太郎さんを除いて、野手の先発メンバーに控え選手を使うことにした。二打席回ったら、一挙にレギュラーにメンバーチェンジする。公式戦からはレギュラーメンバーに戻す。キャッチャー新宅、ファースト千原、セカンド省三、ショート竹内、サード坪井、ライト谷沢、センター江島、レフトは金太郎さんの全試合出場」
「オース!」
水原監督が、
「きょうは打ってばかりで疲れたでしょう。守ってばかりよりはいいかな。ま、ゆっくり休んで、あさっての広島戦に備えてください」
「ウース!」
たがいに、ナイスバッティング! ナイスピッチング! ナイスプレイ! などと声をかけ合いながらロッカールームを出る。寮バス組、マイカー組に手を振り、ハイエースを見送り、セドリックに乗りこむ。菅野が、
「ナイスゲーム。幸先いいですね」
「はい。でもマッシーにはやられました」
「神無月さん以外はね。江島さんの詰まった三遊間はうまく打ったし、江藤さんが根性でフォアボールを選んだのもさすがでしたが、神無月さんの弾丸ライナーのホームランがなければどちらも無駄骨になってました」
主人が、
「その村上から、これで去年と合わせて二打数二ホームランだがね。どうなっとるんですか」
「球がゆるいんで、打つのが簡単です。風圧があまりかからない分、変化の量が少ないんです。だれも言いませんけど、ぼくの目には、彼は肩を壊してるみたいに見える。壊してないとすると、じつに変則的な投げ方です。梶本が似てますけど、ちがいますね。梶本はもう少し踏み出しの体高が低い。サイドスローの立ち投げというのは、日本にも世界にも彼以外いないんじゃないかな。そのめずらしさに加えて、肘と肩だけを使って投げるボールは、腕の振りから感じたよりは遅くくるんで、みんなはタイミングがとりにくかったんでしょう。そこへあのスライダーの効果は絶大だった。ただ、少しでも肩肘が痛むと、コントロールできなくなって失投しやすくなります。きょうのインコース低目は、ぼくに関するかぎり失投でした。彼は大リーグでやったと言っても、一年間で一勝しただけのピッチャーでしょう?」
菅野が、
「いえ、二年間で五勝一敗です。サンフランシスコ・ジャイアンツで」
「いつですか」
「三十九年と四十年」
「マッコビーやメイズといっしょにやったわけか。……去年長谷川コーチから聞いた話とちがうな。一年間在籍して一勝したきりと言ってた」
「南海とサンフランシスコ・ジャイアンツとのあいだでスッタモンダあったようですからね。四十年のほうが長谷川コーチの頭から消えちゃったんでしょう。三十九年に南海が村上を野球留学生として送りつけたときのジャイアンツ側の条件は、もし使いものになるとわかったら一万ドルで譲ってくれというものだったんですが、使いものになるはずがないと見くびっていた南海はホイホイとうなずいた。ところが、一勝を挙げて大リーグで使いものになるとわかったとき、その約束をつきつけられて鶴岡がグズッたんですよ。村上を呼び戻しちゃった」
「戻ってきた村上も腑甲斐ないですね」
「村上は法政二高では柴田勲の控えでくすぶっていたんです。ピッタリあの尾崎の時代です。その自分を南海に入れてくれた鶴岡に恩義を感じてたんですね。鶴岡は一年間だけ貸してやる、とジャイアンツと契約を交わして、四十年の五月から村上を渡米させました」
「え、よくわからないな。シーズン途中でしょう? 強引に呼び戻した意味がない」
「当時の南海は、スタンカ、杉浦、皆川がいて、投手天国でしたからね。村上は五月まで試合にも出させてもらえず、飼い殺しにされてたんです」
「ひどい話だな。しかし、あのボールが大リーグで通用したということですよね」
「さっきの〈肩〉の話ですが、速球は百四十キロ後半のボールを投げてたようです。それとスライダー。使えたんでしょうね」
「ふうん、五勝程度じゃ大活躍したとは言えないけど、多少はチームに貢献したピッチャーだったんですね。いずれにしても、奇妙なフォームじゃなく、球筋さえ見ていれば打てるピッチャーです」
こんな次元の話をしてるのではなく、早く江夏や平松と対戦したい。松岡、堀内、外木場、高橋一三とも。宗近棟梁が、
「私には、神無月さんが村上を打ったどうのこうのというレベルの話はどうでもいいですね。とにもかくにも、グランド自体、夢を見てるかと思うほど美しい。その中でもひときわ輝いてる神無月さんのユニフォーム姿、顔かたち、花はかんばせ、眉は三日月、女にしてもいいくらいのヤサ男。じつに惚れぼれしますなあ。相手チームも、審判も、球場係員もみんなそう思ってるんじゃないんですか。そしてあのホームランの連発花火。いやあ、すごいものを観させていただきました」
私はバックミラー越しに棟梁に頭を下げ、
「くすぐったいですけど、喜んでいただいてうれしいです。あァァ、きょうは初戦ということもありましたけど、長時間のゲームになって疲れました。打ち勝つ試合はかならず三時間半前後になるので、気持ちの悪い疲労が残ります。おたがいに打ち合って、投手交代の激しい試合は四時間を超える。投手戦なら二時間から二時間半で終わるんですが」
菅野が、
「そりゃ無理ですよ。神無月さんの当たりが止まる日なんて、シーズン中でもめったにないんですからね。神無月さんが打つと、どうしても周りも打っちゃう。いいじゃないですか、長くても短くてもファンは退屈してませんから。ただ疲労はちゃんと取ってくださいよ。あした、どうします?」
「休みません。日赤まで。いつもどおり」
「八時にいきます」
席に戻ると、みんな座敷でわいわいやっていた。アイリスの広野と、キッコ、睦子、千佳子の三人もいた。そこへ主人たちも混じる。広野が私に、
「おじゃましてます」
「キッコはどうですか」
「単語力がとてもあるので、有望です」
甲斐和子が答える。この手の顔は勉強を根性でやる。
「会話力は?」
「それは大学に入ってからでいいです。入試の会話問題はリスニングがないので、単語力があればなんとかなります」
「今年の通訳ガイド試験はどうでしたか。去年は残念だったようで」
「はい。筆記試験で落とされてしまいました。今年は筆記試験までは受かりました。十二月に口述試験がありまして、あさっての三日が最終合格発表です」
「うへ、受かっても何の資格も与えられない大学入試より数倍難しそう。国家試験て、中国の科挙みたいなものだから、別世界の試験なんだ。挑戦する人をぼくは畏敬する。きっと受かりますよ。受かったあともがんばってくださいね。人材なんだから、もっともっと自分を磨いて人の役に立たないと」
「はい、がんばります。受からなければ何度でも挑戦します。年齢制限がありませんから。合格最低年齢は十三歳、最高年齢は七十八歳です」
「それならいつ一念発起しても間に合う試験ですよ」
「はい。励ましていただいてありがとうございました。じゃ、私、帰ります」
女将が、
「夕飯食べていきゃあ。自炊は味気ないやろ」
「いえ、一人で作って、一人で食べるのが落ち着くんです」
「ほおォ? 人それぞれやからな。また遊びにいりゃあよ」
「はい、寄らせていただきます。それでは失礼します」
素子が広野を門まで送っていった。睦子に、
「ヒデさん元気だった?」
「はい。生気がみなぎってると言うか、どんなことも楽しくて仕方ないって感じでした。試験はお茶の子ですね」
千佳子が、
「敵わないなって思った。もちろん女として魅力はあるけど、人間として最高、和子さん級」
「人間として最高度って、簡単な人間のことだよ。簡単さに関しては、北村席の人たちはみんな、だれにもヒケをとらない。いい友だちになれたってことだね。あしたは名古屋の簡単なところを連れてってあげるのがいいね。テレビ塔と熱田神宮。簡単なものは見どころがはっきりしてるから、人を疲れさせない」
直人といっしょに風呂へ。幣原を呼んでジャッキも洗ってやる。ジャッキは尻を落として静かに洗われた。シロのようにやさしい目。
「十年生きてくれれば、ぼくは三十。長生きしてくれよ」
桶に湯を掬ってジャッキの石鹸を流す。尾の石鹸を丁寧に流す。風呂から上がると幣原は直人に服を着せ、ジャッキのからだの水気をしっかり拭う。
五
直人と芝庭に出て、しばしゴムボールで野球に興じる。
「ホームラン!」
と叫びながら直人はプラスチックのバットを振る。前のめりのヨロヨロ振りだが、かなり正確にゴムボールを捉える。二十分もやっていると、トモヨさんがやってくる。
「直人、そのへんにしなさい。おとうちゃん、疲れてるのよ」
「うん、ぼくもつかれてる」
「お昼寝しないで、野球しちゃったからよ」
「ねむくない」
そんなことを言いながら、私の手を引いて池に近づいていく。
「みて、たくさんいるよ」
「あ、増えてるね」
トモヨさんが、
「ムッちゃんの金魚を放したんですよ。気づきませんでした? 座敷に水槽がなかったでしょう」
「そうだったね。いつ放したの?」
「二月一日。郷くんのキャンプの初日です。日曜日。菅野さんがやってくれました。水温が気がかりだったんですけど、椿魚市場にいって訊いてみたら、水面が凍っても底のほうは四度以上だから何の障りもない、それに北村席さんの池は湧き水なので動きながら十五、六度を保ってる。水面は凍らないということだったので、水槽の暖房を切って半日慣らしてから思い切って放しました。ほら、ひと月も経つのにピンピンしてます。餌も三日に一度、いままでの金魚の餌を思い切って蒔けます」
座敷へいく。睦子に、
「金魚の話を聞いた。よかったね」
「はい、安心しました。友だちも増えたし」
「水槽はどうしたの?」
菅野が、
「あ、私、そっくりいただきました。女房が、北村席みたいに金魚を飼いたいとよく言ってましたんで。うちには池がないので、家の中で飼うには水槽しかないということで。飼い方はムッちゃんのふだんのやり方を見てわかってますから。いま和金を二匹、出目金を二匹飼ってます。元気ですよ」
みんなできょうの試合の話へ戻っていく。
優子が、
「ホームランて、釣られて打つものなのかしら」
千鶴が、
「それ、狙って打てるってことでしょ?」
百江が、
「狙って打てるのは、大差がついて、気持ちに余裕があるときじゃないかしら」
主人が、
「プロの選手は気持ちと関係ないところで自然とからだが動くんやないかな。どうですか、神無月さん」
「コースなりにホームランを打つ鍛練を積んでいなければ、自然と動きません。ぼくもまだ自然からは遠いです。考えたり、ヤマを張ったりして打ってますから」
ソテツが、
「一枝さんのホームラン、すごかったね」
カズちゃんが、
「あの小さいからだが打ったって信じられないくらい飛んでったわね。キョウちゃんがいつも言ってる〈ホームランはからだじゃない〉ってことの証明ね。星野さんの投げるボールもすごかった。一塁スタンドから見えなかったもの。伊藤さんのボールも速かったけど、ちゃんと見えたわ」
宗近棟梁が、
「野球場も選手もきらきらしていてきれいですな。夢を見とるようでした。北村さん、また折を見て連れていってください」
「おう、いきましょう」
ウフッ、と玄関にジャッキの声。散歩から帰ってきたのだ。
「それじゃ、ジャッキに挨拶して帰りますかな」
「社長、棟梁を降ろしたら、その足で見回りにいきましょう」
「オケ」
三人が出ていき、夕食になる。女将の膝にカンナ、キッコの隣に直人の椅子。カズちゃんが、
「おとうさんたちの席のすぐ下あたりに、雅江さん一家がきてたわ。夢中で応援してた」
素子が、
「気づかんかった」
「キョウちゃんが手を振らなかったからよ」
カズちゃんが、
「キョウちゃん、もう、あの家族にズルズル希望を持たせないほうがいいわ。あの人たちはキョウちゃんを遠くから見守ると心を決めた感じがするの。四月四日で最後にしたらどうかしら。別に宣告なんかしなくていいのよ。今度、私、機会を選んでご家族を訪ねていってみる。雅江さんの幸せは、まともな人とまともな家庭を築くことだって言ってあげたいの。キョウちゃんのようなヤクザな男とはぜったい世間並の家庭なんか築けないって。いつまでもこのままだって。それでも、いまのままでいい、いまのままで一家が幸せだと主張するなら、それ以上の解決策はないってことね。キョウちゃんが、どんなに気が進まなくても、一生訪ねてあげればすむ。それは私の望んでることでもあるんだけど、もし雅江さんやご両親が不幸そうな様子を少しでも見せたら、それとも、何か縁談話でも持ち上がって親子で喜んでいる気配を感じたら、すぐに身を引きましょうね。私たちには何の未練もないんだから」
「もちろん、雅江一家のどんな結論もぼくの望むところだよ」
メイ子が、
「北村席という〈家庭〉とずっと家族ぐるみお付き合いしたいと言うかもしれませんよ。雅江さんの家を訪ねていくことばかり神無月さんに求めるのもおかしいと思うんです。こちらに訪ねてきてもかならず神無月さんに会えるわけですから」
女将が、
「それがいちばんええわな。ムッちゃんや千佳ちゃんの家族も要するにそういう形になっとるし、今年くることになっとる秀子さんも、再来年の美代子さんも、結局家族ぐるみの付き合いをしたいと思っとるわけやろ。身を引く引かんは、神無月さんやうちらの決めることやなく、あちらさんの決めることや。ほやろ、千佳ちゃん」
「はい、メイ子さんやお母さんのおっしゃるとおりだと思います。神無月くんにそんな決意をする負担を負わせたくありません。神無月くんを愛した人はすべて、自分の責任で行動すべきだと思います。雁字搦めになっているのは神無月くんのほうで、私たちじゃないと気づけば、そして私たちはほんとうに自由に行動させてもらっていると気づけば、何もかも解決します」
睦子が、
「和子さんは雅江さんの家を訪ねる必要はありません。それから、郷さんを雁字搦めから解放してあげようと思う必要もありません。郷さんが愛してる和子さんは私たちの模範なんです。もちろん愛してます。和子さんを愛してる私たちは、言ってみれば〈さばけた〉女なので郷さんの重荷にはならないでしょうが、たとえ雅江さんのようにさばけていない、気持ちのうえで負担になる人を抱えても、郷さんはそのまま抱えながら、なんとか耐えて相手の幸福を考えてあげる人です。……問題は郷さんを愛してる当事者じゃなく、家族です。家族というのはどんなに心が広いように振舞っていても、根が常識人なんです。家族にまつわる負担は、郷さんにはしょい切れない。その類のいざこざに死ぬほど悩む人ですから。小さいころから母親や親族から逃げつづけているのはそのせいです。だから、私も千佳ちゃんも、ぜったい家族を郷さんに近づけないようにしてます。私は一度近づけてしまいましたけど、深く反省してます。メイ子さんやお母さんのおっしゃった〈家族ぐるみ〉というのはすばらしい考えだし、理想の人間関係だと思います。でも、家族ぐるみの付き合いなんて、結婚しないかぎりぜったい実現しません。結婚を条件にしないでそれを実現させてるのは、和子さんや素子さんのような、それから法子さんのようなさばけた家族だけです」
カズちゃんが、
「心強いわ。そうね、私は気を回しすぎかもしれないわね」
キッコが直人の口もとを拭ってやりながら、
「ほうよ、みんな心配しすぎ。あたしの家族もさばけた家族やあらへんけど、ぜんぜん心配しとらんよ。天下の神無月郷に惚れて、気に入られて、怖いものなんかあれへんわ。神無月さんは、好きな仕事と好きな人間にじゃまにされたらいさぎよう死ぬ気で生きとるさかい、好きな仕事と好きな人間のことしか気にしとらん。あたしらも神無月さんと同じ気持ちでおれば、何の心配もいらんわ」
トモヨさんが深くうなずいた。女将が、
「みんな和子と同じヤンキーやなァ。神無月さんがヤクザやなかったら、あんたら生きる場所あれせんかったで。ありがたや、ありがたや」
奇妙な折り合いのつけ方にみんなの顔がほころんだ。笑いの中で箸が進んだ。小川のことが浮かんだ。せっかくヤクザ者の中で生きる場所を見つけて安らいでいたのに、〈健全な〉人びとにせっつかれて立ち退いた。引き込み線―ヤクザ者は健全な人びとに見つかるまでは、肩寄せ合って逼塞しているしかない。
†
三月二日月曜日。六時半起床。曇。マイナス二・一度。ルーティーン。ふつうの軟便。シャワー。
「おろし納豆と焼海苔と味噌汁だけでいい」
ミョウガとナスの味噌汁がうまい。ドンブリ一杯。中日スポーツ。
神無月オープン戦初戦四発
星野五回十一三振
取りも取ったり二十三点―
軍神天馬神無月が止まらない。明石キャンプの紅白戦二試合・阪急との交流戦一試合で打った六本のアーチから数えて、きょうの試合で四戦十発となった。セリーグの中日ドラゴンズにとって、パリーグ南海ホークス投手陣に関する情報は少ないはずだが、初回第一打席は西岡三四郎からスコアボードの時計脇を直撃するソロホームラン、二回新人佐藤道郎に敬遠され、三回は巨人から移籍したベテラン種部儀康(のりやす)から右翼場外へツーラン、五回同じ種部からレフトの看板に当てるツーラン、六回続投の種部に敬遠され、七回マッシー村上からライト看板直撃のスリーランと鬼のごとく打ちまくった。
これに刺激されたレギュラー陣も、中、高木、江藤、木俣、菱川、一枝と六人がホームランの揃い踏み、計十本の花火を打ち上げた。派手な花火の陰で肩を落としているように見えた太田でさえ、じつはシングルヒットとツーベースの四打数二安打という結果を残しているのだから恐ろしい。なお、先発七名本塁打および一チーム一試合十本塁打は、プロ野球新記録として昨年同チームが一再ならず記録している。
一方、昨季の最優秀防御率投手星野秀孝も、奪三振ショーで猛アピールした。五回打者十六人、一安打、毎回の十一奪三振。小泉のショート前でイレギュラーした内野安打一本を許したきり、バットに当てさせない直球勝負で無双の投球を披露して抜群の存在感を示した。マスクをかぶった木俣に「ローボールよりハイボールでいけ」と助言を受け(長谷川コーチ談)、キレのあるスピードボールを高目に集めた。体重が増えたせいだろうか、猛速球が往時の尾崎行雄を髣髴とさせる豪速球に変わってきた感がある。パームボールは富田と古葉に二球だけ使ったが、変化するどく、もののみごとに三振に切って取った。鬼に金棒、今季も健在である。
また、六回から継投をまかされた四年目の速球派左腕伊藤久敏は、打者十四人に対して、被本塁打二、三振二、凡打十、無四球という絶妙なピッチング。このまま中継ぎの重鎮として定着する勢いだ。
いよいよ今月二十一日からオープン戦の一環として日米決戦が始まる。強豪サンフランシスコ・ジャイアンツが、招待チームであるロッテとの五試合を交えながら、巨人、大洋、南海と。昇竜軍団、連覇の重圧をものともせず、今年も異次元の活躍を期待できそうだ。
みんなで強い者への讃歌を唄う。讃歌に倦怠を覚える。讃歌に絡みつく〈金〉にも倦怠を覚える。野球は讃歌や金のためにやるものではない。そのただ一点の真実のおかげで私は野球に倦怠を覚えないでいられる。野球に倦怠を覚えるとき、私は終わる。
小学校四年、プロ野球選手になることを夢見て、人の三倍も五倍もバットを振った。あの情熱があったから、いまここにいる。
―木田ッサー。
運動神経のない彼にとって私がすべてだった。哀れで見ていられなかった。私を誉め讃えるためにだけ、彼は野球にしがみついた。いつも笑顔で……。そして、私の知らないところでひっそり死んだ。
彼が教えたこと。野球は〈一人のためには〉できない。身をもってそれを教えたのは服部先生ではなかった。木田ッサーだった。服部先生は〈一人では〉できないと教えた。あたりまえのことだ。いまもって胸に響かない。木田ッサーの教えのおかげで、私はプロ野球選手になれた。
彼を忘れないせいで、まだ憶えているのだ。人の三倍も五倍もバットを振ったこと、マッコビーの打球が消えていった空を見上げたこと、押美さんの背中をさびしく見送ったこと。憶えているから信じられる。私がどれほど野球を愛していたか。私の野球を喜ぶ人たちをどれほど心頼みにしていたか。私は野球をやめない。やめたらだめだ。もういい。よくわかっている。いいかげんにしろ。
六
カズちゃんたちを送り出す。百江は今週も早番なので、私が起きたときから姿はない。
菅野とランニング。日赤を取り止め、ひさしぶりに中村公園まで。大鳥居下の豊國参道を入り、商店や民家や高級アパートの建ち並ぶかなり長い松並木道を走って、豊國神社の小ぶりな茶色い鳥居に到着。鳥居の左下を歩いて参道へ入る。短パン姿でトロトロ走っている中年がいる。脚が痩せ干からびている。看板も樹木も小池も、燈籠も手水舎も目の端によぎらせるだけにして、奥へ奥へ。緑あふれる園路を歩いて、いつか山口たちときた花見の場所へ。七分咲きの桜を見渡す。さっそく二人で両手合わせ背中合わせの柔軟。三種の神器。しっかりやって切り上げ、走り出す。
「神無月さんが忘れようとしてることがあります」
「え?」
「勝つために野球をするということです。協調性や自己犠牲じゃないんです。それは神無月さんのからだからあふれてます。もういりません。自分の気持ちを維持することで精いっぱいなのに、全体の精神的な調和を考えることは必要ありません。勝つという一事を頭に叩きこんでください。それが野球です」
「……わかってますよ、いい人ですね菅野さんは。ぼくは忘れてませんよ。勝つことを忘れない―そこまでは野球の教科書です。一度卒業した過程なので、次の段階にいるだけです。教科書に書いてない〈野球を楽しむ〉という段階です。野球を心から楽しむ方法は? たぶん菅野さんの言うとおり、勝ちたいという気持ちを持ちつづけることでしょう。でもその人生の教訓は卒業したし、飽きがきたので、修了免状を持ってるだけにします。いまぼくは、その気持ちをふくらませる、格好よく言うと、アウフヘーベンさせる段階にいます。勝ちたいという気持ちをなつかしみながら、野球を楽しむ。好きな人との調和と協調を楽しみながら戦いつづけるんです。野球もケンカです。集団の出入りです。ぼく一人の力では勝てません。いちばん怖い相手は、とうてい勝てそうもない強敵じゃない。こちらを見くびって憐れむ敵です。そんなやつらと戦うと気力が失せる。まんいちそんな敵に出会ったときのことを想定して、侮られない気組みを作り上げておかなければいけない。侮ろうとする敵を竦(すく)みあがらせる気組みです。目で睨みつけるくらいじゃだめです。腹を立てて怒鳴り散らしたって空しい。努力した自分を惜しがって涙を流すのは愚の骨頂です。つらくても、かたときも休まず、自分には野球というケンカしかないと信じながら、黙って苦労しつづける。一人ひとりがその苦労をつづける。プロ野球の選手たちがどれほどの力の持ち主か、その結束力がどれほどのものか考えてみてください。ぼく一人の力ではとうてい太刀打ちできません。そういうやつら相手のケンカで優位に立つことを楽しみにして、疲れても、休まず、日々自分を叱りつける。出入りの強力な一員でありつづけるためのたゆまぬ努力。そこから身につく圧倒的な実力。それがあって初めて気組みが整う。それしかないんです」
「……よくわかりました。山口さんじゃないけど、泣かせてください」
菅野はポロポロ涙を流しながら走った。私の人生は復讐の人生だ。そのひとことは菅野に言えない。復讐のために他人を踏みにじり、恐れさせてきた自分に許しを与えはじめているいまの私を汚し、菅野の得心の涙を汚すものだからだ。私は野球がなければ生きられない人間だ。才能のみでここまできたように思われているけれども、野球は一度始めたらやめたくてもやめられないという固執に冒されながら、人間性がいびつになるほど野球に没頭することでここまできたのだ。才能などというお気楽なものではない。そんなお気楽なものは信じていない。この一歩、この一振り、それしか信じないでひたすら野球に固執すること。人はそんな私を恐れたはずだ。でも、恐れながら、野球を偏愛する人間の隣にいることを幸福だと感じたはずだ。きっと……。そう思わなければ、私はもう一度あの暗い森へ近づいてしまう。
自分の意志より他人の決定が重要だとか、したくてもできないことがあるなどということを私は知らない。大勢の人が私にそれを教え、思い知らせるために尽力した。しかし私はこう生きるしかなかったし、これからもこう生きる。野球のためなら、からだが壊れても平気だが、野球を愛する心を壊されることには耐えられない。小川さん! あなたの心は壊れていない。たゆまず鍛練して、校庭でも河原でもずっと野球をつづけていくでしょう。
「がんばってください!」
「がんばれ!」
沿道から声がかかる。通勤途上の男女の勤め人たちだ。子供の手を引いた主婦が立ち止まって、
「キャー、神無月選手よ!」
「かんなづきィ!」
二人で手を振る。菅野も手を振る。
「世間は自分たちとちがう人間を放っておきませんね。どんどん引っ張り上げる……神無月さんがどこかへいってしまいそうで怖いですよ」
「彼らは最終的に放り出しますよ。そうしなければ自分の居場所がなくなりますから。居場所がなくならない程度にオモチャにして遊びたがるだけです。そうして意外に早く遊びに飽きて放り出す。遊ばれてることに気づかない連中だけがどこかへ連れていかれるんです。連れていかれて荒野に放り出される。……ぼくは愛する人びとと生き延びたいと決意したので、だれにも遊ばれません。どこへもいかない」
祭大門のアーチ看板をくぐり、呉服美濃幸から賑(にぎわい)町の細道へ入る。初めて走る道。庭のある古びた住宅街。マンションやトタンアパートや駐車場が混じる。どこに出るのか楽しみだ。
「どこに出ます?」
「さあ、車の通れない道なので知りません」
突き当たったので、だいたいの位置を知るために太閤通へ戻るしかない。太閤通三丁目の電停の少し手前に出た。しばらく走って左折し、中村区役所の裏を通って、やや広めの道路に出る。竹橋町の見慣れた風景になる。まっすぐいけば牧野小学校だ。アパートやマンションが建てこみはじめる。さいとう内科外科を過ぎて牧野小学校の裏門に突き当たった。直人と入りこんだ門だ。
「年齢差って何の意味もないな。ぼくは直人と十八歳差、菅野さんと二十歳差。文江さんとは三十歳差。みんな同じように思い出す」
北村席に帰り着いて、ジャッキの〈お手〉と握手し、菅野とシャワー。トモヨさんが下着を置きにきた。菅野が、
「思い出す回数の差は、距離の差だと思います。人間はそばにいるのが大正解です。みんなそうしてます。さすがです」
「おとうちゃん、ごはん」
園児服を着た直人が脱衣場に呼びにくる。
「もう則武で食べたんだよ。直人は保育所だね」
「うん、おかあちゃんとカンナと」
彼に手を引かれて座敷にいくと、トモヨさんが、
「きょうから朝の会に出ることにしたんですよ。九時半から」
「どんなことをするの?」
「出席とり、名前を呼ばれてハイと返事、おたがいの名前を覚えるためだそうです。それから絵本の読み聞かせ、季節のお歌。いまはお雛さまの歌を唄ってます」
「そのあとは?」
「主活動というのに入って、お昼まで、まずお散歩、これは交通ルールを教えることが要点になってます。次に室内遊び、主にお絵描きですね。それから運動遊び、たいてい外部から体操教師を招いてピンポンパンみたいなことをやってます。そして給食。食事の姿勢とか、フォークやスプーンのマナーなどを教えるんですが、直人はちゃんとできてます。来年からは配膳の仕方を教えるようです。午後は一時から二時半までお昼寝をして過ごします。起きたら迎えにくる親に従って順次帰宅してもいいですし、三時のおやつを食べてから帰ってもいいんです。親の迎えが遅くなる子は、自由遊びをしながら延長保育ということになってます」
「何時まで?」
「保育所を閉める十時までです」
「フェー! 十二時間以上の子もいるわけだ。かわいそうすぎる」
「働く母親も多いので、しょうがないですね。私も北村の養子に入ってなければそうなっていたと思います。お義父さんお義母さん、ありがとうございます」
「何言っとるの。神無月さんに惚れさせたあんたの手柄やよ。ほうやなかったら、養子になるどころか、直人もカンナも生まれとらんかったでしょう。自分で切り開いたラッキーやよ」
「いえ、お嬢さんと郷くんと、お義父さんお義母さんのくださったラッキーです」
入試初日をあしたに控えたキッコが、音楽部屋で睦子と千佳子に寄り添われて、物理と化学の最終チェックをしている。睦子が、
「英・数・国・理二科目・社二科目ね。配点はたしか、英・数・国二○○、理一○○、社一○○だったわね?」
「うん、八○○点満点」
千佳子が、
「合格ラインは非公表なのよね」
「河合塾の情報だと六十六パーセント前後やて」
デマだ。そんなに取ったら断トツの上位成績者で合格する。五十数パーセントでいい。ソテツが私と菅野のおさんどんに就く。
「ぼくは食べてきたので味噌汁だけでいいよ」
平べったい白玉とジャガイモの味噌汁だった。もちもちしてうまい。菅野には冷奴に味つけナメタケを載せたものと、納豆キムチのオムレツが出た。
「みなしゃん、いってまいります」
「いってらっしゃい」
カンナを背負ったトモヨさんと手をつないだ直人の背中を廊下に見送り、菅野と箸をとった。幣原がトモヨさん母子を門まで見送るために、ジャッキといっしょに玄関戸を出ていく。
廊下がバタバタと忙しくなった。主人と菅野は見回りに出、女将は接客(客はトモヨさんの離れの裏門から入ってくる)をするために帳場にいく。私は座敷の畳に大の字に寝転がる。受験生と家庭教師の質疑応答の声、掃除機が板や畳を滑る音、裏庭からかすかに響いてくる洗濯機の合唱、厨房から断続的に立ち昇る女たちの笑い声、昼めしの下ごしらえや煮炊きの音、御用聞きの声(彼らも離れの裏門から入ってくる)―これ以上何も望ませない、完璧な退屈さ。
やがて厨房の御用聞きが帰り、帳場の客が帰り、掃除機はいぎたなく寝転がっていた私や、真剣に額を突き合わせていた勉学グループのいる部屋に入ってきて、いっとき庭へ追い立て、騒音を切り上げて去る。睦子と千佳子は、
「秀子さんと熱田神宮へいってきます」
「三時ぐらいに帰ります」
と言って出かけていった。キッコが、
「ローバーでいくんやて。三時に帰ってきたら、もう少ししごかれるわ。二階で予習しとこ」
洗濯機の音が相変わらずしている。トモヨさんとカンナが帰ってきた。帳場から居間に戻ってきた女将が、カンナの抱き役を交代しておしゃぶりを与える。主人と菅野が帰ってくる。完璧な退屈が崩れはじめる。菅野はソテツのいれたコーヒーを飲んでファインホースへ。主人が、
「ビール、いきますか」
「はい。ところで、ファインホースで働いてる人たちは、めしはどうしてるんですか」
「昼めしはアヤメやな。弁当持ってきとる社員もいるようやし。夜は家で食うんやろな」
女将が、
「アヤメで食べてく人も多いようやよ」
テレビが点く。アヤメの早番組が戻ってきてテーブルにくつろぐ。厨房の人声と物音が本格的になる。主人は音楽部屋を見やり、
「キッコはいよいよあした試験やな。がんばれや」
「はーい」
「合格祝いは何がええ?」
「お祝いもらえるん? じゃ、机、お願いします。いままで卓袱台でやっとったから」
「よしゃ」
「おおきにな、お父さん、いろいろようしてもらって」
「北村子飼いの女から初めて学士さんが出るんや。めでたいがや」
「落ちたら……」
「買ったる。受かっても落ちても買ったる。どのみち勉強せんとあかんからな」
「おおきに」
早番から帰ってきて割烹着に着替えた百江が、
「勉強も、遊びも、若いうちが花ですよ。楽しくやってください」
「百江さんも若いうちが花やったん?」
「私は勉強も遊びも、年とってからです。いま咲かせてます」
「五十に見えんもんなあ。ほんまに若いわ」
睦子が、
「百江さんの勉強と遊びってどういうものですか?」
「みなさんのおっしゃることを一生懸命考えること、それからお料理が勉強。ときどき本も読みます。遊びは、みなさんにくっついていろいろなところへいくこと」
千佳子が、
「息子さんや娘さんたちとは?」
「牧師をしてる息子は伴侶ができて将来の見通しがつきましたし、娘たちはとっくに家庭の人ですから、何の心配もありません。年賀状のやりとりぐらいです」
女将が、
「たまには遊びにきたりいったりするんやろ」
「はい。そのために椿神社の家は人に貸さないでおいてます」