五十八

「栄に出て、久屋公園でお弁当食べましょうよ」
「そうしよ。もう少しがまんする」
 栄の久屋大通(百メートル道路)に出、テレビ塔を眺めながら駐車場を探す。ハンドルを繰る千佳子の手が美しい。横に座る睦子の首は艶かしい。勃起してきた。
「勃ってきた」
「わあ、どうしよう」
「大津通のほうは今年から歩行者天国ですから混雑してます。左折してみましょう」
 一分も走らないうちに、
「ほらありました」
 左手に樹木に囲まれた公園のような有料駐車場があった。
「あそこのいちばん端の木陰に入れましょう」
 積極的になっている。千佳子が、
「ああ、私、もうたいへん。下着が汚れちゃうわ。ムッちゃん、お先にいい?」
「いいわ。待ってる。郷さん、出さないでね」
「うん」
 守衛から預かり票をもらい、大あわてで数十台並んでいる車の端につける。外壁の内側で、ちょうど木陰になっている。私はズボンを下ろして後部座席で待ち受ける。睦子はラジオを消した。下着だけ脱いだ千佳子が運転席から降りてきて、手びさしで小雨を避けながら後部ドアを開けて閉めると、スカートをひらめかせて私のクビにかじりついてきた。もどかしそうに跨って陰茎を握り、愛液のあふれる局部に当てて深々と腰を落とす。
「ああ、ひさしぶり! わあ気持ちいい!」
 口を吸いながら、せわしく腰を動かし、一度、二度、三度とあいだを置かずに達する。
「も、もっと! あああ、とろける、イイ、イクウウウ!」
 あごが上向く。頬をなぜるとわれに返ったように目を見開き口を求め、舌を挿し入れる。下から突き上げてやる。たちまち強く達し、
「あ、あ、神無月くん、もうだめかも、ううん、イックウウウ! ムッちゃん、ムッちゃん、お願い、もうだめ! イッグウ!」
 サッと離れて隣の席で丸くなって痙攣する。すぐに睦子がやってきて、中腰で跨ると亀頭を膣口に当てながら口づけをする。口づけを強めながら、少しずつ腰を沈めていく。最後まで沈め切り、笑いかけながら腰を動かしはじめる。
「愛してます、死ぬほど好き、あああ、だめ、すぐイク!」
 腰を止め、唇をむさぼる。また動きだす。
「あ、だめ、私早い、だめ、イック! 好き、大好き、あああ、強くイクウウウ!」
 しがみつき、耳を舐め、腰を上下させる。強烈に締まってきた。私にも迫る。
「ああ、郷さん、もう少し、がま、うううん、イク! あああ、郷さん、いまきて、きてきて、いっしょに、ううう、いっしょにイクウウウ!」
 ギュッと茎を握り締められて吐き出したとたん、睦子はガクンと反り返り、後頭部が運転席のピローを打った。いつもより激しい胴ぶるいをしながら顔を真赤にして私の律動を受ける。千佳子は座席に凭れてうなだれ、両脚を投げ出した格好で細かくふるえている。睦子の膣が間歇的に名残の脈を打つ。抱き寄せるともう一度唇をむさぼりはじめる。まぶたを舐め、鼻を舐める。脈が止んだ。
「好き好き、死ぬほど愛してます、何百回言っても足りない」
 千佳子が私の裸の腿に手を触れて、
「私もよ、神無月くん、いつもそばにいてね、どこにもいかないでね」
 からだを起こして、後部席に置いてあったティシュを何枚も抜いて睦子に渡した。睦子は慎重に門渡(とわたり)にティシュを当てながらソロリと抜いた。もう一度無言の痙攣をして千佳子に凭れかかった。
 萎れはじめた股間の一物が光っている。私もティシュを抜いて拭い、ズボンをたくし上げた。身を屈めて前部座席に置いてあった二人の下着を取り、千佳子に渡す。彼女は自分の下着を選び、それで股間を拭くとスカートのポケットにしまった。睦子はティシュの上から下着をつけた。睦子が、
「ありがとうございました」
「ごちそうさまでした」
「百江と同じようなこと言ってる。バリバリの若者にとってセックスなんか大してありがたくもないし、ごちそうでもないんじゃない? 習慣になってると思うけど」
 睦子が即座に言う。
「愛がなければそうでしょうけど、愛のあるセックスは感謝しなくちゃいけないごちそうです。それでいて並でない快楽があるとしたら、大感謝、大ごちそうです」
「その意味では、年よりも若者もないと思う。文江さんや百江さんは心から、ありがとうとごちそうさまを言ってるんです」
「みんな幸せいっぱいってことを信じてくださいね」
「うれしいな」
 睦子は弁当を入れた紙袋を持ち、傘とタオルを手に車を出る。千佳子が鍵をする。三人傘を差し駐車場出口から久屋大通へ出て、公園内の小森を目指していく。たくさんのベンチがある。その一つをしっかりタオルで拭くと、傘を差したまま腰を下ろして弁当を開く。リクエストどおり、中くらいのおにぎり二つ(具はコブの佃煮と味つけエビ天)、卵焼き四切れ、ウインナーとキャベツのカレー炒め。千佳子が、
「おいしい!」
「バカうまだ!」
「これ、郷さんの定番にすればいいですね」
 真昼。小雨が強くなる。睦子が立ち上がる。
「帰りましょう」
「アイアイサー」
 車に戻ったとたん、大幸球場よりも激しい雨がきた。広小路通へ出て道を急ぐ。千佳子が、
「大きい車でよかった。小さい車で強い雨に打たれると心細いから」
 市電といっしょに帰る。
         †
 玄関戸を開けた千佳子が厨房に向かって呼びかける。
「ただいま! ソテツちゃん、名人よ。お弁当すごくおいしかったわ」
「そうですか! おにぎりだけじゃ口さびしいと思って」
「ソテツちゃん、ありがとう!」
 ひとこと言うと睦子はあわててトイレへ飛んでいった。私や千佳子にはその理由がわかっていた(まんいち体内ないから下りてきたものがにおったらソテツを傷つけると思ったからだ)が、ソテツには微笑ましく映ったようだった。私はジャッキの頭をなぜ、抱き締めると、幣原にダッフルを預けて主人たちのいる座敷へいった。昼めしの真っ最中だ。菅野は主人とビールをやっている。主人が、
「おお神無月さん、お帰りなさい。やっぱり途中で引き揚げですか」
「はい。ドシャッときてしまって。アップだけはしっかりやってきました」
「腹は?」
「ソテツの作ったおいしいおにぎり弁当を久屋公園で食ってきました。傘を差して昼めし、なかなかオツでしたよ。菅野さん、FMラジオ、いい音してました。カーオーディオを入れるんですって?」
「はい、まずクラウンデラックスのほうに。この一、二年は市販の8トラックのテープしか聴けない機械だったんですが、年末あたりからサンヨーの出したカーオーディオのおかげで、家庭用のふつうのテープも聴けるようになりましてね」
 何を言っているのかわからない。主人が、
「そうなんですよ。家庭で録音した落語も音楽も聴けますよ。録音するためのラジカセは持ってますね」
「はい、東大受験のときカズちゃんが買ってくれたナショナルのやつを」
「新しいのものがほしくなったら遠慮せんと言ってください。椿商店街の電器屋から仕入れますから」
「はい、ありがとうございます。でも、ナショナルを壊れるまで使います」
 食卓のキッコが、
「三月五日の近鉄戦、草薙球場に観にいくで。四日に入試が終わるさかい」
「ありがとう」
「礼を言われることあれへんわ。あたしが観たいんや。名古屋から国鉄草薙まで一時間半でいけるで」
 菅野が、
「そこからタクシーで五分だよ」
 早番で帰っていた優子が、
「一日は日曜日だからほとんどの人は中日球場にいけますけど、キッコちゃんは入試直前ですものね」
 千鶴が、
「五日って木曜日やよね。うちも休みもらっていくわ。一人旅はさびしいやろ」
「うん、いっしょにいこ」
 幣原が不安そうに千鶴を見つめている。見とがめた千鶴が、
「ごめんな、幣原さん、厨房の手が足りなくなるけど。うち、愛知県の外に二十三年間出たことないから、ちょっと見物してみたいんよ」
「どうぞ、いってらっしゃい、神無月さんに迷惑をかけないようにね」
「スタンドで応援するだけだがね。試合が終わったらサッサと帰ってくるわ。神無月さんも日帰りやろ?」
「うん。静岡までこだま、静岡からたぶん地元のバスで草薙球場まで。やっぱり一時間半くらいだと思う。菅野さん、草薙球場の規模は?」
「両翼九十一メートル、中堅百十五メートル」
「百十五! 外野フェンスは?」
「低いです。ちょっと広めの芝生席。バックスクリーンなしのスコアボードだけ。観客二万一千」
「打撃戦になりますね」
「はい」
「ホームランが乱れ飛ぶ。外野席が広いなら、場外は百三十メートルくらいかな。……ぼくが打つのはふつうのホームランじゃいけない。ぜんぶ場外でないとみっともない」
「まだオープン戦ですよ。そんなに張り切らなくても」
「水原監督だったか、田宮コーチだったか、フェンスの向こうに落ちればホームランだと言ったことがあります。シャカリキに遠くまで飛ばす必要はないということでしょう。でも、ぼくの唯一の特技であるホームランが百メートル前後というのは、自分に許せないんです。うまく掬ってぎりぎりに落ちたのならいい。しっかり打って平均値というのは打ち方がおかしい証拠です」
「神無月さんにとって、ホームランは本数じゃないんですね」
「距離です。希望はそれだけ。甲子園の場外を打って以来、精神がたるんでました。百八十メートルはマグレでしか打てないとしても、百四十メートル前後を目指さないとホームラン打者と言えない。百四十メートルなら世界中の球場の中段以上に入る。誇っていいホームランです」
「中日球場だと場外ですね」
「はい。そこが希望の始まりで、目標です」
         † 
 二月二十七日金曜日。五時半起床。昨夜はなんだかいやに疲れていて十時に寝たので早起きしてしまった。部屋の温度五・四度。洗面所に降りて歯を磨いているとき、えも言えぬ胸騒ぎがして新聞を取りにいく。キッチンテーブルで広げたとたん、息を呑んだ。

     
中日激震!
        小川健太郎 今季かぎり
         オープン戦直前フロントの前で明言

  小川健太郎投手(36)が二月二十六日、今季かぎりで引退する意向を示した。午前十一時名古屋栄の中日ビル球団事務所を訪れ、小山球団社長以下フロント陣に胸の内を伝えた。その後取材に応じ、
「今シーズンかぎりで現役生活を退こうと思う。麻雀すらしたことのない、まったく純白の小野さんが根も葉もない疑いをかけられたことに憤って、今季かぎりで潔く身を引く決意をしたのに、法的な不正行為はしていないと公に判断されたとは言え、現実に田中勉くんと公営ギャンブル場に出かけて浮かれ興じた私が、のうのうと生き延びるわけにはいかない。ケチのついた私の存在は、これからドラゴンズの未来を背負う選手たちにとっても障害になる。水原監督や神無月くんや江藤さんの強い引き止めがあって、小野さんは引退を一年先延ばしにした。私たちは彼らの、とりわけ神無月くんの魅力にまいって野球をしているところがある。事前に神無月くんに話して、あの強い握力で腕をつかまれでもしたら、一年どころか選手生命が尽きるまで先延ばしにすることになる。だから彼らには話さず、経営フロント陣にだけ話した。わかってもらえたようだ」と明かした。
 考え抜いた末の決断だった。オープン戦直前にその年かぎりでの引退を発表するのは異例。中日ドラゴンズ日本一に貢献し、二度目の最多勝投手(二度目の沢村賞は辞退)の名誉を引っ下げての勇退をもって、一人の天才投手が今年かぎりで姿を消すことになる。
「星野が成長し、戸板はじめ数人の有能なピッチャーが入団してきたので、私が抜けたあとのチーム力の衰弱についてはあまり心配していない。ファンたちの目に個人としての集大成をお見せしたい。全力でやる覚悟だ」
 小山オーナーは、
「引留めたいのはやまやまだが、本人の決意が堅い。選手兼任コーチを持ちかけたがだめだった。今後は彼が日本プロ野球界に貢献できる道を探っていきたいと考えている。それにしてもシロをクロと言いつのる無責任な風潮を憎む。昨年十一月の永易永久追放処分以来、世情があわただしくなってきているが、おそらくそれに対する憂慮もあって、小川くんはわが球団への影響を心配してくれたのだと思う。ひとこと言わせてもらいたい。公営競技においては暴力団関係者から金をもらっただけで賭博罪が成立する。野球の場合、金をもらっても選手に共謀の意思がなければ賭博罪は成立しない。小川くんはだれからも金品を受け取っていないし、ましてや共謀などしていない。つまり灰色ですらなかった。葛城くんと同胞であったというだけで疑われた人格者の小野くんもしかりであり、惻隠の至りと言うしかない。小川くんの来季引退のことは選手たちへ表立った報告はしない。みな即刻この事実を新聞等で知って大いに胸を痛めるだろう。そこへ追い討ちはかけない」と語った。



         五十九    

 読み終えて涙が止まらなかった。永久追放された永易が失踪しているという追加記事もあった。巨人の藤田コーチが暴力団を使って会社の役員を脅したとか、長嶋が暴力団と関係のある政治家と親しくしていると騒がれているが事実無根だった、などとも書かれていた。
 長嶋を神無月と書き換えれば、まさに当てはまる。藤田にしても長嶋にしても事実無根のはずがない。多少は根がある。私だけが騒がれない理由もわかっている。たとえ金銭的な授受や共謀行為はないにせよ、私は彼らとちがって、ほんとうに暴力団と親しくしているので、主客総力を挙げて隠蔽しているからだ。あるいは、中学校時代の友人が長じて暴力団員になったにすぎず、それはだれにでも起こりうる不可抗力であり、まして〈正義の人〉である神無月がその男と親しく付き合うはずがないとマスコミが誤解しているからだろう。私は根っから〈怒り〉の人間であり、暴力団員の横顔の凛々しさに感銘する〈美学〉の持ち主であり、権威の安泰を嫌悪する〈反骨〉の徒だ。いつ足を払われても何の不思議もない。
 涙が止まらない。小野や小川こそ正義の人だ。彼らの正義はどんな妨害を受けても、どんなに宥(なだ)めすかされても、一筋に貫かれる。私はうなずくしかない。足音がして、カズちゃんがやってきた。急いでまぶたを拭う。
「どうしたの? こんなに朝早く」
「小川さんが今年一年で辞めると球団に申し出た。残念だけど、ぼくは無力だ」
「何か言われたのかしら」
「何も言われてない。自分の決心だ」
 新聞をカズちゃんに押しやる。じっと見入る。きょうとあしただけ中番にシフト替えした百江が起きてくる。カズちゃんといっしょに覗きこむ。カズちゃんが、
「俠気(おとこぎ)ね。波乱万丈の人生を送った小川さんが、三十七歳で引退……。やるだけのことをやったという感じね。オフに北村で盛大なお祝いをしましょう」
 三人で朝食作りにかかった。私はルーティーン。下痢。神経が昂ぶったせいだ。風呂に入る。風呂から上がって、気を静めるために、居間で爪切り、耳垢取り。ステレオで睦子からもらったジャズレコード。現在三十九歳のブロッサム・ディアリーが五年前に吹きこんだ『アイ・ウィッシュ・ユー』。少し取り澄ました子供のような声。伸びのある繊細な歌い方だ。安らぐ。カズちゃんがそっとやってきて、私の脇に横坐りになり聴き入る。片面が終わるまで聴いて、台所に去る。私はもうしばらくアニタ・オディの低音を聴いてから食卓へいく。
 上の空のめしの最中に江藤から電話が入る。
「知っとうと?」
「はい」
「マスコミに何聞かれても、キレたらいけんぞ。感想はシーズンオフにする、て言うてな」
「はい。江藤さんも泣きましたか」
「みんな涙が止まらんごたる。ワシは目が腫れた。さっき水原さんからも、泣いたっち電話がきた。金太郎さんには言うな、大騒ぎになるち心配しよったけん、とっくに知って泣いとると思いますよて返事しといた。健太郎の家は電話がなかけん連絡できん。あさって球場で思い切り抱いちゃることにした」
 八時に菅野がきて、しばらく小川の話になる。
「永易の年俸は百八十万らしいです。ピーピーの生活なのに、中洲の繁華街で豪遊してたらバレますよ。十月の初めに行方不明になってもう五カ月近くですか。ヤクザが八百長を暴かれたって痛くも痒くもないんで、永易がヤクザに殺されたというのはデマでしょう。小川さんにトバッチリがきたのは、西鉄のオーナーが苦し紛れに、八百長なんか九十九パーセントほかの球団もやっていると爆弾発言したのがもとになってます。小川さんは何もしてませんよ。いっしょに舟券を買った仲間が田中勉だったということで、濃い疑いをかけられたんですね。気の毒に」
 カズちゃんが小川の歓送会のことを言う。
「ぜひ盛大にやらなくちゃ」
 カズちゃんと百江が出勤し、早めに起き出したメイ子が掃除洗濯にかかる。
「メイ子は、夜は水族館にもいって、たいへんだね」
「あしたまでです。お昼過ぎにアイリスで賄いごはんを食べさせていただいて、お店の二階の部屋で一休みしてから出かけるんです。十時半ぐらいに退かせてもらって、厨房の賄いごはんを食べてから帰ってきます。ここに帰るのは十一時四十五分ぐらいですね。ふつうに元気にやってます。あと一日のがんばりです」
 菅野とランニングに出る。凌雲寺まで三度のウォーキングを混ぜて寄り道せずに往復。一時間五分、二人ともひとことも言葉を交わさなかった。数寄屋門前で別れぎわに、
「元気出してくださいよ」
「うん。気持ちが落ち着くのにもう一日かかるな。オープン戦までにはシャンとしないと」
「昼めしに北村席にきます?」
「いや、きょうは寝てる」
「昼過ぎに千鶴をいかせますよ。気を紛らせてください」
「紛れるかなァ」
「紛れますよ。セックスするときの女は明るいですから。小川さんもスッキリした気持ちでセッセとやってるんじゃないですかね」
「子供が学校いってるあいだに?」
「そうそう、その調子」
 菅野はニッコリ笑った。
「やっぱりいい。テレビでも観てのんびりする」
「了解」
 則武に戻る。メイ子コーヒーをいれてもらった。
「アイリスには何時にいく?」
「十二時に出ます。賄いさんの時間がありますから。……小川さんがあんことになって、さびしいでしょう」
「うん、明るい人だけにつらい」
「クビになったんじゃないんですよ。自分で決めたんです。たしかに三十六歳にもなっていまだに天才的な活躍をしてる人ですけど、その頑丈なからだよりも気持ちのほうが疲れて、思い切り休息したくなったんでしょう。折悪しくプロ野球界にへんな騒ぎが持ち上がってしまったし、潮時だと踏んだんじゃないでしょうか。私は立派な決断だと思いますよ。じゃ、お洗濯してきます」
「ぼくはシャワーを浴びて、二度寝する」
「居間にお蒲団敷いておきます。テレビでも観ながらゆっくりしてください。アサリの佃煮とコブの佃煮でおにぎりを握っておきますからね、好きなときに食べてください」
「うん、ありがとう」
 シャワーで汗を流し、居間の蒲団に横たわる。小川と同じくらい疲れているように感じた。洗濯機の音を聞きながらウツラウツラする。
 ―中や江藤や、高木や木俣や一枝も、こんなふうにある日とつぜん別れの先触れをして去っていくのだろうか。じっちゃ、ばっちゃ!
 眠気が吹き飛び、目を開けた。
「メイ子!」
「はーい」
「まだ時間ある?」
「あります!」
「早く!」
「はーい」
 二階へ駆け上がってきて枕もとに立つ。スルスルと服を脱ぎ捨てて全裸になる。手を引いて横たえ、股間にむしゃぶりつく。
「どうしたんですか、急にしたくなったんですか、あ、いい、神無月さん、とても気持ちいい、イキますね、ううう、イク!」
 跳ねる腰を抱え上げて陰阜を頬につける。
「ああ、愛してます、どうしようもないくらい愛してます」
 すぐに挿入し、激しく往復してメイ子の快感を高める。
「あ、イクイクイクイク、イクウウウウ!」
 二度、三度、四度と達し、高まり切ったところへしっかり射精する。 
「あああ、イク、イック、イックウウ! うれしいィィ!」
 私の律動に合わせて手品のように膣が収縮する。
「いつもこんなすばらしい思いをさてもら……お礼の言いようが―ああ、イッグ!」
 膣が間歇的に陰茎を握り締める。私はメイ子の顔を見つめながら名残の律動をする。メイ子も私の顔を見つめながら、ビクリ、ビクリと名残のオーガズムを伝えてよこす。しばらく二人で呼吸を整え合う。
「ありがとう、明るい気持ちになった。小川さんもいまごろ奥さんと同じようにしてるかもしれないね。そうだといいな」
「そうですとも。さびしいときはからだを寄せ合うにかぎります。オチンチンとオマンコをくっつけて歓び合うのはおまけです。さびしくなったら、いつでも離れにきてくださいね。からだを寄せ合って寝ましょう」
 メイ子はソッと尻を引いて離れ、股間にティシュを当てると私のものを口で丁寧に清めた。
「じゃ、寝ててください。もう十五分もしたら出かけます」
「いってらっしゃい」
「いってきます」
 玄関を出たあたりで百江と出くわしたようだ。
「あ、メイ子ちゃんいってらっしゃい」
「いってきます」
 玄関を入ってきた百江に風呂場から、
「百江、いま風呂。出たら少し居間で仮眠する」
「はーい」
 ぐっすり眠った。柱時計を見ると一時半を回ったところだ。一時間半。小川の笑顔が浮かぶ。洗面所にいき、歯を磨く。読むよりも書く気持ちになっている。靴下を履き、箪笥から股(もも)引を出して穿く。ジャージを着る。二階の書斎にいって、牛巻坂第二章にかかる。康男の入院。光夫さんとの出会い。推敲を兼ねる心づもりで、いきつ戻りつしながら書き進む。書き溜めた断片があるのでスムーズだ。三時ごろ書き終える。三章にかかる。節子との出会い。難渋する。
 四時半、百江が二階に上がってきた。
「あ、書いてますね。寒いのにストーブも点けないで」
「股引穿いてるから、だいじょうぶ」
「股引? 神無月さんが? なんかおかしい」
「青森ではいつも穿いてたよ。小さいころだけどね。横浜のころからはぜんぜん穿かなくなった。ここ一、二年は、机に向かうときに穿いてる」
「ストーブ点けないからですよ」
「寒いと首から上が引き締まるんだ。ものを考えるにはいい」
「そうですか? 女はただ寒いだけですけど。いまコーヒーをいれますね。一段落ついたら席に出かけますよ」
「うん」
 五時半。三章終了。おおよそ四月分書いた。章立てがいくつになるか予測がつかないけれども、いまのところ順調だ。きょう書いた分の見直しはあしたやろう。則武にいるときだけ暇を見つけて書くとしても、十月までには書き終えられるだろう。それからは猫食いのペースでやっていこう。
 百江と北村席へ出かけていく。名古屋には三月七日までいる。交接の計画を立てる。天童、丸、幣原、節子、キクエ、キッコ(彼女は入試の終わった日)。計画? 彼女たちは規則的な生活の一部ではない。いき当たりばったりの人生の一部だ。出会いの時間は彼女たちが決める。
 ガレージにひさしぶりに御用聞きのミニトラックを見る。ほんの少しのタイミングの狂いで見かけなかっただけで、ほぼ毎日きているのだろう。数寄屋門を入り、幣原と出かけるところだったジャッキを抱き締める。幣原と百江が立ち話をする。
「小川さんのこと、ニュースでやってましたよ。ほんとに残念ね」
「疲れたのよ。お嬢さんが神無月さんのことで心配しているのもそれ。マスコミと世間の中傷が、有能な人を殺すの」
「ほんとに、怖いですね。私たちもせいぜい気をつけないと。じゃ散歩させてきます」
 カズちゃんたちが帰ってきて、楽しい夕餉が始まる。百江は厨房に入り、私は食卓に向かう。カンナを抱いたトモヨさんと直人の隣。その隣にカズちゃんと素子。睦子と千佳子は主人夫婦の隣に坐り、キッコと菅野が反対隣に坐る。直人の美男子ぶりが恐ろしいほどになっている。カンナはかわいらしいポッチャリおでぶさん。トモヨさんが私に、
「小川さんがたいへんなことになって。……少しは気持ち落ち着きました?」
「うん、今朝江藤さんが、水原監督も寮のチームメイトもみんな泣いたって電話くれた」
 睦子が、
「五時のCBCニュースは小川さんのことばかりでした。小山オーナーが、黒い霧とはまったく関係していないことは関係者が知悉(ちしつ)しているところだが、風聞が球団およびチームメイトに迷惑をかけると主張して譲らなかった、せめて引退試合をと持ちかけたが断られた、それから……」
 千佳子が、
「引退後の補償を篤くして、その俠気に応えるつもりだ、中日ドラゴンズはオトコの集まりだ、小川くんを追いこんだ諸事情に関しては慙愧の念に耐えないが、営利団体の長として大きな宝を失う無念さを覚えないほど、次元を超えた喜びを感じている、って」


         六十

 トモヨさんの膝に坐るカンナと小椅子に座る直人の前にプレートが出る。テーブルいっぱいに皿鉢が揃い、いただきます。豚肉と白菜の餡かけ焼きそば、ブリの甘酢照り焼き、シャケと蓮根のフライ。ソテツが、
「サッパリしたものを食べたい人は、チクワの天とじ丼を用意してます」
 三、四人手を挙げた。菅野が、
「ポイントは金銭授受でしょう。あとはそれを勧誘されたか目撃したかの場合の報告の義務。小野さんはまったくその種のこととは無縁、小川さんは田中勉とたまたま遊びにいっただけで無関係。その二人が自主的に辞める。胸が痛みますよ」
 主人が、
「悪人と知らずにいっしょに競輪や競馬にいったら、ワシらも悪人と思われる、ゆうことやろ。やるせないな」
 カズちゃんが、
「小川さんは他山の石よ。世間は怖いの。私たちはますます注意してキョウちゃんを守らなくちゃ」
 キッコが、
「あたし、やっぱり草薙いくのやめる」
 千鶴が、
「うちもいかん。幣原さんがじっと心配そうにうちらを見とったわけがわかったわ」
 女将が、
「松葉さんもあれだけ気を使ってくれとるしな。これからも小野さんや小川さんみたいに、火のないところに煙を立てられる人がどんどん出てくるんやない?」
 みんなでうなずく。菅野が、
「去年の十月から始まって、そろそろ三月ですか。半年。その間に、永易は失踪するし、週刊ポストが〈永易のほかに疑惑の八人〉の爆弾記事を発表するし、十一月には中西監督の辞任、行方不明のまま永易の永久追放」
「そのころにドラゴンズは田中勉を切っとる」
「年明けて藤田事件でしょう。いまは警視庁と週刊ポストが必死で永易を探してますよ」
 菅野が、
「中日新聞の落合さんから、五百野が単行本出版された場合、日本文学大賞の最有力候補に上がってると連絡がありました。新潮社が設けてる賞です。五百野の版元とは言え、著者ではない自分たちが勝手に断るわけにはいかないので、神無月さんのほうから直接断りの電話を入れてくれとのことでした」
「断ってください」
「断りました」
 私は菅野に、
「南海に今年入った新人ピッチャーは?」
「投手二名、野手七名です。目ぼしいのは、投手ではドラ一の佐藤道郎(みちお)一人。名投手の器です。野手ではドラ二の門田(かどた)博光一人。百七十センチ、八十キロ。ドテッとしたからだですが、攻守走揃った左利きの長距離ヒッターです。いずれパリーグを代表する打者になりますよ。二人ともあさって出てくるかもしれません」
「ふーん、興味があるなあ。特に門田」
「嗅ぎつけますね。門田も強烈なスイングをすることで有名な男ですが、今年の高知キャンプのインタビューで、神無月さんのことを目標にする人と名前を挙げて、おもしろいコメントをしてます」
「おお、あれな」
 主人が水屋から〈ドラゴンズ他〉のスクラップブックを取り出し、
「そんなに強う振らんでもホームランになると馬鹿な解説者がよう言うが、軽く振っとるように見えてホームランを量産する選手の秘密を知らんのよ。そこまでくるんはラクやないんで。神無月選手は小学校中学校のときにバットを振りすぎて立てんようになったという記事を見たことがある。十何年かけての何万、何十万スイングの結果が、静かに見えるスイングになっとるわけや。その証拠に、神無月選手のスイングスピードは機械で測ると世界一やとゆうやないか。ワシは朝のコケコッコから時間を忘れてバットを振っとる。この小さなからだで四十本、五十本打つには、神無月選手の二倍、三倍バットを振らんとあかんのよ」
 早くその男に会いたいと思った。
「背番号は?」
「27です」
 直人の食後のパズルを優子と信子が見守る。七時のCBCニュース。小川の件は三十秒ほど。東京の水原監督と昇竜館の江藤のインタビュー。
「ホワイトの小野くんと小川くんが、風評に耐え切れず、ファンと球団とチームの未来を憂慮して決死の範を示した。世情とはいかに無責任で恐ろしいものかがわかる。二人の腹の中にどれほどの無念さが溜まっているかを考えると、切ない。彼らの犠牲的精神に倣って、グレーやブラックの人が範を示さなければ、この問題は泥沼化する。彼らのためにも二連覇する」
「小野さんと健太郎のために一年間泣いてやっちくれ。そして末永く思い出してやっちくれ。この潔さは伝統あるドラゴンズ魂から発しとる。この魂が消えたら、ワシャ野球ばやめる。今年も金太郎さんを総大将に優勝するばい。小野さんと健太郎に華々しか花道ば作っちゃる」
 二人とも泣きながら語った。座敷じゅうの者たちが泣いた。菅野が、
「中日ドラゴンズ、バンザイ!」
 と叫んだ。みんなバンザイと呼応した。直人まで立ち上がって、
「バンジャイ!」
 と叫んだ。
         †
 帰り道に天童と丸が伴った。カズちゃんが、
「メイ子ちゃんは帰りが遅いから、彼女の離れを使いなさい」
 信子が、
「いえ、私はアイリスの前から帰ります。長居したらみなさんにご迷惑ですから」
 カズちゃんが、
「どうしたの、信子さん? 深刻な顔しちゃって」
「きょうのお話、そのとおりだと思ったんです。神無月さんに迷惑かけちゃいけないって」
「油断しなければいいの。自然にしてればいいのよ」
 信子は思い切ったように、
「じつは私……アヤメのお客さんとお付き合いすることになって」
 優子が不審げに信子の横顔を見た。カズちゃんが満面の笑顔で、
「そう! よかったわね」
 丸の手をとった。ようやく〈自然〉な方向へものごとが動き出したと思った。
「まだ喫茶店でお話しただけですけど。四十四歳の会社員のかたです。奥さんと死別して二年目で、お子さんが二人。今度そのかたのおうちに遊びにいくことになってます」
 百江が、
「家庭に入ると決めた以上、しっかり家庭の人になってね。前の仕事のことをぜったい言っちゃだめよ」
「それはもう。ただ、神無月さんを裏切ってしまった気がして」
 素子が、
「キョウちゃんの顔見てみい。ものすご喜んどるが。うちらもうれしいわ」
 カズちゃんが、
「あなた明るいから、子供さんともすぐ馴染めるわよ。その人、何してる人? 会社員にもいろいろあるでしょう」
「名鉄百貨店の紳士服売場で主任をしてます」
「万々歳ね。あなたまだ三十歳だし、これからよ。ほかにもそういう女の子はいるの?」
「はい、何人か。木村さん、近記さん、厨房の三上さん。将来どうなるかわかりませんけど、男の人とお付き合いしてます」
 みんな私に振り返られることが少ない女たちだ。それどころか、交わったかどうかも覚えていない。こうなるのも当然のことだと思い、心の底から愉快になった。
「アヤメがいいお見合いの場になってるわけね。いいことよ。三上さんは年季が明けたばかりね。うまく結婚できれば、周防にいる子供を引き取れるわ」
「だといいですけど」
「優子ちゃんは?」
「私は神無月さん一筋です。何があっても離れません。末永くご迷惑をおかけします」
 信子のほかの女たちは明るく笑った。私は信子に、
「三上さんたち三人には、ぼくに遠慮しないように言ってね。もともと気を使う必要なんかなかったんだよ」
「……はい、今夜伝えます。ほんとにごめんなさい。短いあいだでしたけど、ありがとうございました。心から感謝してます」
 四つの荷物を降ろした。伸びをしたい気持ちになった。アイリスの前で素子が、
「じゃ優子ちゃん、ノブちゃんの分もがんばりや」
「はい、何人分でも」
 手を振って素子と別れる。信子はうつむきかげんに背中を丸めて北村席へ引き返していった。『みんな夢の中』がさびしく耳に蘇ってきた。優子が、
「許してあげてくださいね。ノブちゃん、家庭にあこがれてたから」
 カズちゃんが、
「人と人が別れるのはこんなものよ。あっけないの」
 優子は〈何人分〉も全力で乱れた。清潔な餅肌が脂汗でテラテラ光った。完全に喪神したので、百江に頼んで彼女の全身を拭いてもらった。百江はそっとタオルを動かしながら、
「女には猫のように家に付く人と、犬のように人間に付く人がいます」
「安住を求める人と、心中を求める人だね」
「はい。猫から犬に変わる人もいます。私やメイ子さん、ソテツちゃん、イネちゃん、節子さん、キクエさん、法子さん、睦子さん、千佳子さん、幣原さん、雅江さん、たぶん秀子さん、美代子さん、それから下通さん、東京の福田さん。彼女たちは二度と猫に戻りません」
「ヒデさんとミヨちゃんの名前よく憶えてたね」
「一度聞いた名前はたいてい忘れません。……犬に変わり切れない人もいます」
「きょうの四人だね」
「はい、神無月さんの身の周りでは四人ですけど、この世の半分はそうでしょうね」
「残りの半分は猫のままか、犬のまま、犬から猫に変わる人、変わり切れない人、の四種類。犬から猫というのも複雑な心境だろうな」
 フフフ、と百江の含み笑いの声がした。優子が、
「私は犬のままですね。安心」
 百江が、
「そう、犬のまま。お嬢さん、素子さん、千鶴さん、キッコさん、東京の菊田さん、おトキさん」
 優子は股間をティシュで拭き、百江からタオルを受け取り、自分で胸や首を拭く。タオルの裏を返して私のものもきれいにした。
「神無月さん、ありがとうございました。死ぬまでこの雌犬を飼ってくださいね」
「優子を見てると、いつも、笛吹川という清潔な言葉の響きを思い出すんだ。飼いつ飼われつ、仲よくやろうね」
「笛吹川?」
 百江が優子の顔を不思議そうな目で見つめた。
「私、山梨の笛吹市の出身なんです。一度神無月さんに話したことがあって」
「そう。笛吹っていい響きね。きれいな優子さんにぴったり。……あなた、丸さんとは付かず離れず仲良くしてきたから、さびしいでしょう」
 天童は服を整え、
「ええ。好奇心の旺盛な人なので、ふつうの生活に満足できるか心配です。あんなに神無月さんのこと好きだったのに……。ほかの三人はなんとなくうなずけますけど、まさかノブちゃんが。……うまく家庭の人になってくれればいいんですけど。青線のころに北村席にいたということ以外、それ以前のことをぜったい口にしない人で、私たちのあいだでは謎の人なんです。そういう秘密主義が新しい男のかたとの関係のネックにならないように祈ってます。過去なんかどうでもいいことですけど、ふつうの人はそうはいかないので」
「そうねえ。才能ある人の自由な集団の中で暮らしてると、フッと型どおりのふつうの生活が恋しくなるんでしょう。神無月さんたちに遇う前から、長いこと頼りない生活をしてきたこともあるでしょうし、少なくとも〈ふつう〉の中には道徳という芯張り棒がありますから、頼り甲斐があるように感じるんでしょう。ある意味、そんな棒を外して、だれにも頼らない生き方をしなければ、うがった言い方をすると、身を持ち崩さなければ、人間の真実は見えてきません。せっかくそれが見えていたのに、残念ですね。神無月さんに遠慮しないで、その人とお付き合いするだけでよかったと思います。……何も結婚までしなくても」
 三人で居間に降りて、カズちゃんのテレビ仲間に加わる。優子はメイ子が帰宅するのを待たずに、あっけらかんとあくびを一つしてから帰っていった。


        六十一

 二月二十八日土曜日。八時起床。小雨。三・八度。ルーティーン。便意がないので、ひさしぶりにジム部屋にいきトレーニング。バーベルとダンベルはやらず。代わりに庭に出て素振り百八十本。カズちゃんと食卓につき、味噌汁に玉ポン、一膳めし。ようやく軟便が出た。
 カズちゃんの見せた中日新聞の二面に、

    神無月
野間文芸賞候補・日本文学大賞候補連続拒否
              新美南吉文学賞は辞退しない模様


 という記事が載っていた。読まなかった。 
 カズちゃんを送り出す。メイ子がまた早めに起きてきた。
「だいじょうぶ?」
「六時間は寝てるので、だいじょうぶです。お掃除お洗濯。きょうは部屋干しです。家の中が湿っぽくなりますよ」
「しょうがないよ。ランニングから帰ったら、もう一度しっかり朝めし食うよ」
「わかりました」
 九時から菅野とランニング。菅野と同じようにビニール合羽を着る。凌雲寺往復。広い通りも二車線の路もほとんど並走する。この数日で、からだが距離と時間に慣れてきた。
「体力って、ランニングだけでだいたい鍛えられるものですね」
「ぼくもこのごろ痛感してます。基礎体力をつけるには、三種の神器と関節周りの筋肉の補強だけでじゅうぶんだと。バッティングは素振り、ピッチングは投げこみ。あとはプレイの中で細かい瞬発力をつける、と」
「四人ほど、女たちが北村席を出ていくようですよ」
「仕事も辞めるんですか」
「いや、天童ちゃんから聞いたんですけど、仕事はそのままで、アパートを借りるらしいです。アヤメに勤めているうちにいろいろまともな人付き合いが増えて、北村席に住んでいるんじゃ体裁が保てなくなったということでしょう。また追々、四、五人、入れ替わりのトルコ嬢が入ってきます。志望者はいくらでもいますから」
「何と言っても、北村席は異界ですからね。ぼくには理想郷ですけど」
「理想郷は異界の最たるものですよ。ふつうを望む人は暮らせない」
 丸たちはアヤメの人付き合いの内容は天童のほかには洩らしていないようだ。
 シネマ・ホームタウンの白テントを眺めながら数寄屋門に帰り着く。菅野と別れ、則武に戻ってシャワー。朝食。ハムエッグ、海苔、納豆、キャベツと油揚げの味噌汁。しっかりと言えるほどでもない。めしを大盛り一膳。
 机に向かう。メイ子がコーヒーを入れたポットを持ってくる。お礼のキス。
 牛巻坂。きのうの読み直しと手入れ。一時間で完成。角封筒にしまい、一つ目の封筒に重ねて机の端に積む。コーヒーをすすり第四章に着手。節子への思慕、康男への衷情、節子から飯場へ電話がかかってきたこと、母との角逐。起きたことを羅列するだけで、胸の内の風雲が寸刻みに急を告げていた状況を書き切れるだろうか。
 メイ子が二階に声をかけて出かける。いってらっしゃい。メイ子はきょうが酔族館の最終日だ。来週からはアヤメか。二時まで書いて疲労困憊。ほぼ半分。
 雨の土曜日。直人は家にいる。できるかぎり顔を合わせてやらなければならない。傘を差して出かけていく。雨の庭を歩き、玄関を開けたとたんにジャッキに飛びつかれる。式台に直人が立っている。
「おとうちゃん、ごほんのひょうし! おうちとおそら!」
「え?」
 菅野が出てきて、
「五百野の表紙の見本が届きました。すばらしいです」
 直人と居間の夫婦のもとへいくと、カンナを抱いたトモヨさんが、
「すてきな表紙ですよ」
 と白い歯を見せて笑った。テーブルの上に、湿ったような薄茶色とブルーのかけ合わさった絵が広げてある。厨房の女たちもやってきて覗きこんだ。近づいて見ると光沢のある高質紙だった。まぎれもなくあの時代の横浜の下町の家並がそこにあった。古写真を丁寧に絵筆で写し取ったものだろう。紙の上部三分の一のスカイブルーの空の下に、瓦を葺いたなつかしい家々が沈んでいる。ふと気づく程度に、いき交う人も車も描かれている。空には溶け紛れるように電線が架かっていた。
「いいなあ!」
 菅野が、
「でしょ。今年二十九歳の長谷川仂(つとむ)という名古屋の画家に依頼したものだそうです。十年前に光風会展に初入選し、五年前に新日展に初入選した新進気鋭の洋画家だということでした。取り立てて不満な点がなければ、すぐオーケーの連絡をくれるようにと電話がありました」
「連絡をお願いします」
「了解!」
 主人夫婦も賄いたちも飽かず眺めている。
「あの文章にピッタリの表紙ですな!」
「おとうちゃん、ぴったり」
 私は直人を抱き上げて頬にキスをした。睦子と千佳子が降りてきた。嘆声を上げて表紙に見入る。
「すごーい!」
「きれい!」
 私は直人の手を引いて座敷へいき、
「きょうはおんもで遊べないから、野球盤をやろう。菅野おじちゃんにもらった野球盤を持っておいで」
「うん!」
 晴れていれば、ひさしぶりにプラスチックバットとゴムボールで遊んでやろうと思っていたが、あいにくの雨だ。室内で遊ぶしかない。パズルは私に図形の能力がないせいか苦手なので、見守るしかなくなる。直人が離れの遊び部屋から持ってきた野球盤を見ると、何度か使った形跡がある。
「ジイジとやったのか?」
「すがのしゃんと」
「ピッチャーがいいか、バッターがいいか」
「バッター」
 直球ばかりを投げてやる。バネで絞った鉄のミニバットを離すタイミングがよく、おもしろいように飛んでいく。ときどきフェンスから跳ね出ることもある。
「うまいぞ、直人!」
 磁石がついているので、ときどきほんの少し変化させてやると、これまたおもしろいように空振りする。
「あたらない! おとうちゃん、ずるい」
「それは変化球といって、ずるい球だ。当たらなくていい。おとうちゃんの仕事はそういうボールをなんとかして打つことなんだ。野球盤はバットが回るところを球が通過するようになってるから、十回ぐらいバットを離すタイミングを計りながら振ってごらん。一回当たったらホームラン王の称号をあげる」
 睦子と千佳子がやってくる。カーブをつづけて投げる。七回目に当たった。
「あたった!」
「よし、ホームラン王! おとうちゃんも直人みたいには打てないや」
 女二人がパチパチ手を叩く。
「じゃ、野球の次はアタマの運動だ。お姉ちゃんたちにご本を読んでもらいなさい」
 私は縁側のガラス戸の前に座布団を敷いて横たわり、木々や草花に落ちる雨を眺める。木は白梅、根方にはクリスマスローズの白い花が咲いている。目を転じると、黄色いシンビジウムが群れ咲いている。睦子が私の背中に膝を折り、
「濡れ縁に鉢植えが置いてありますけど、何でしょう」
「かの有名なシクラメン。千佳子は直人に何を読んであげてるの」
「ピノキオ。難しいとは思いましたけど、福音館の古典童話を読んであげてます。いい本なのよと言うと、直ちゃんは黙って聴きますから。言葉も意味もほとんどわからないのですぐ寝ます。子守唄代わりですね」
「寝せなくちゃいけないの?」
「直ちゃんは夕食前に二時間ほど寝たほうが食欲も出るし、お風呂の機嫌もいいし、夜の寝つきもいいんです。二、三歳児向けの簡単な絵本はときどき大学の帰りに買ってきて、遊び部屋の本棚に並べてあります」
 首を挙げて覗くと、なるほど直人はすでに千佳子の膝で眠りこけていた。庭の花に目を移す。木は真っ赤なツバキ、根方に咲きはじめたばかりの紅紫のジンチョウゲ、純白のマーガレット。じつに配置がいい。
「お母さんは庭いじりをするの?」
「職人の域です。お父さんは木が専門。和子さんはぜんぜんだめって自分で言ってました。花の名前はよく知ってるようです」
 千佳子が直人を離れで寝かしつけて戻ってきた。カンナは女将の胸で眠っている。トモヨさんは、厨房のテーブルでソテツや幣原やイネと調理法の打ち合わせをしているようだ。そろそろ足りない食材の電話注文をするだろう。主人は銀行屋か不動産屋のような男と帳場で話をしている。菅野はファインホースに詰めた。女将がそろばんをはじくのは主人たちが見回りに出る夕食前か、夕食後のテレビが一段落したあとだ。だいたいそんなふうに捉えているけれど、彼らの一日の動きは自由勝手だ。
 きょうは雨なので賄いの動きはぎこちなくなる。洗濯物干しも蒲団叩きもなく、この時間は娯楽部屋につどっていることが多い。ときどき蛯名が顔を出すのは、北村席の女たちの送り迎えのためだ。大門の女たちの送り迎えもあるので気ぜわしいだろう。
 式台に出て、グローブとスパイクの乾拭きをしてツヤを出す。バットを三本取り出して一本だけフィルムを剥ぐ。三本をバットケースに納める。クリーニングから上がって下駄箱の棚に置いてある帽子を確認。グローブ、スパイクといっしょにダッフルに入れる。納戸部屋にいって鴨居に掛けてあるホーム用のユニフォーム一式、アンダーシャツ、アンダーソックス、ストッキングまで確認する。汗拭きタオル三本、ほとんど用途のないバスタオル一本をスポーツバッグに入れる。ダッフルとバットケースを下駄箱に立てかけ、スポーツバッグをその脇に置く。準備OK。野球だけの人生、夢見た人生、すばらしい。
 菅野が玄関を入ってきて、
「中日新聞に表紙了解の電話をしておきました」
「ありがとう」
「出版まであと半月です。ところで、河北新報の戸館さんは、三月四日の一時にくるそうです。出版局次長という肩書でした」
「河北新報社ってどういう会社? 太宰治の『パンドラの匣』を連載したことは知ってるけど。たしか昭和二十年から二十一年にかけて」
「そうですか、それは知りませんでした。創刊七十年以上の仙台の新聞社です。宮城県内のシェアは七十パーセントですが、他県の普及率は低いです。三大ブロック紙というのをご存知ですか」
「いや、知りません」
「北海道新聞、中日新聞、西日本新聞です。河北新報はその三大新聞と記事交換も行なってます。連載小説は各紙独自のものですから、もちろん同時掲載はしません。スポーツ好きの新聞で、ちょくちょく一面でも取り上げます。東奥日報さんのように特集記事も時おり載せます。神無月さんは東北出身の英雄として宮城県の隅々まで知れ渡っているということでした」
「名古屋出身なんだけどなあ。東北や横浜は仮住まいしたというだけで」
「いいじゃないですか。花がしっかり開き始めたのは東北なんですから」
 菅野はそのまま主人と一回目の見回りに出た。
 夕食になり、和やかな喧騒の時間がやってくる。トモヨさん親子が去り、キッコグループが去り、女たちはテレビの前へ去り、賄いたちがテーブルにつき、主人たちが帰宅してビールを酌(く)み、女将が帳場へ去る。私とカズちゃんたちはジャッキをなぜて玄関を出る。
 牛巻坂、きょう書いた分の見直しをしただけでやめ、長袖のシャツを着、股引を穿いて蒲団に入る。メイ子が帰ってきた物音がハッキリ聞こえた。声をかけようと思ったが、わざとらしいのでやめた。


一章 明石キャンプふたたび 終了

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