十
  
 テレビを点けると、まだ大運動会をやっている。歌手、俳優、コメディアンが巨大な体育館に寄り集まって浮薄にじゃれつき合っている。いずれこの時間帯はプロ野球中継に交代する。それまでのツナギ番組だろう。カズちゃんが、
「万博の動く歩道で事故があったみたいね」
 百江が、
「四十人以上がケガをしたんですって」
 メイ子がコーヒーをいれる。
「おかあさんたちがいく前でよかったわ。改良されるでしょうから」
「あ、このごろ菅野さんとキャッチボールやるの忘れてるな。物忘れが激しくなってきた」
「私なんかむかしからよ。何をどこにしまったのか、ぜんぜん思い出せない」
 百江が、
「そういうのってかならず出てくるんですけど、つい買ってしまいます。私は孫の手が三本もあります」
 九時。あまりの軽薄さにカズちゃんがチャンネルを回した。ちょうど水野晴郎の木曜洋画劇場が始まるところだった。映画解説をするとどんな男の顔も信憑性が薄くなる。戦場を駈ける女。ソフィア・ローレンか。メイ子が、
「よさそうですね」
「観ようか」
 ときはナポレオン時代。洗濯女から王妃まで出世した女。あらすじはわかった。これで話でもしながらときどき画面に目をやればいいだけになる。ソフィア・ローレンは私にとって性を感じさせない女なので、映画鑑賞中に興奮することもない。メイ子が、
「すごい胸ですね。ゾクッときませんか」
「こない。顔が愛らしくないから。愛らしくない顔って、この手のやつと、目の小さい田中絹代顔」
「樅(もみ)ノ木は残ったですね。原田甲斐の母役で出てます」
 何のことやらわからない。知ろうとも思わない。映画が進んでいる。ナポレオン軍の将校ルフェーブルと洗濯女カトリーヌが罵り合い、やがて恋仲になり、夫婦になる。
「どうしたの、これ」
「洗濯屋を軍の陣地にされて、カトリーヌが押しかけ談判したの。それがきっかけでね」
「この時代の身分制を考えると、談判も結婚もちょっと考えられないな」
「ナポレオンが出てきたのはフランス革命後だから、身分制はそれほどきびしくないんじゃない? まあきびしかったとしても、無視、無視。それもひっくるめてコメディだから」
 そのコメディの流れの中で夫はどんどん手柄を挙げてナポレオンの腹心となり、任地国の国王に封ぜられるまで出世する。カトリーヌは王妃になる。ここまでが物語の半ばだ。
「今晩は」
玄関に元気な声がした。一時間も早く睦子がやってきた。
「いらっしゃい!」
居間が華やぐ。
「九時五十五分のスポーツニュースを観てからきました。日米野球のことばかり、郷さんのことばかり」
「うれしいでしょう」
「はい」
「映画観てたのよ。ソフィア・ローレン」
「島の女観ました」
「これは戦場を駈ける女」
 カズちゃんに並んで腰を落ち着けた睦子に百江がコーヒーを出す。すみません、と頭を下げる。
「ソフィア・ローレンは〈××の女〉という映画が多いね。日本語タイトルだから原題とはちがうんだろうけど」
 メイ子が、
「河の女、島の女、ふたりの女」
「私はそんな女、そしてこの戦場を駈ける女。女そのものというくらいセクシーだと思われてる証拠だね」
 カズちゃんが、
「この映画はフランス・イタリア合作で、原題はマダム・サンジーンてなってたから、ぶしつけな夫人、気兼ねしない奥様って意味ね」
「カズちゃん、フランス語できるの!」
「椙山の選択授業でとった程度。管理栄養学科と言っても、そのくらいはやるのよ。フランスは料理の本場だからちょっととってみたの。ぶしつけなんて、英語でもふつうレベルの単語でしょ?」
「うん。ルード、インポライト」
「私はふつうのことをたくさん知ってるの」
「でもいまだに忘れないとはね」
「少し記憶力がいいだけ」
 睦子が画面に見入っている。
「明け透けで裏表のない女の人の大出世物語ですね。ご主人といっしょに平民から貴族にまでなってしまう」
「よく笑い、よく怒り、だれに対しても思ったことを隠さず口にする。男でも女でもこういう人間が出世するのは奇跡だね。舌禍に遭うから。出世してこそ物語になる」
 百江が一日しけらせておいた南部ゴマ煎餅を出す。
「しけった乾きものが好きなんておかしな人ですね。柿の種までしけらせるんですよ」
「ムニャッと嚙むのが好きみたいね。天ぷらの衣も軟らかくないといやだって言うし」
「カツ丼や天丼の硬い衣には腹が立つ」
「戦場を駈けるってどういう……」
 睦子が首をかしげる。
「この少し前の場面で、夫が心配で戦地まで追いかけてくるところがあったの。そこで娼婦といたしている現場にぶつかって、怒鳴りつけて出て走っていっちゃった。追ってきた夫といっしょに的に捕まえられて」
 メイ子が、
「がんばって脱出して、敵陣地を爆破して大手柄を挙げるんです」
「そういうことですか」
 パーティ場面になる。ソフィア・ローレンのざっくばらんな野生女ぶり。あんたたちもともと庶民だったじゃないの、格好つけないでよ、アハハハというわけで、ナポレオンの恩恵を被った周りの出世将校たちや貴族たちから嫌われてしまう。
「ナポレオン以前の時代は旧体制、いわゆるアンシャンレジームという身分制のきびしい時代でしたけど、ナポレオン以降の時代はナポレオン法典によって万民平等を打ち出しましたから、庶民も出世できるということになりました。家柄ではなく、出世した人たちを貴族と呼んだだけです。いちおうそれも身分と言えば身分ですけど、きびしい身分制の産物ではありません」
「詳しくて、わかりやすいわ」
「出世を誇る人間は、出世していなかったころの自分を忘れたがるんだね。だから下から昇ってきて自分と肩を並べた人間を嫌う」
ナポレオンは柄の悪いカトリーヌと離婚するようにルフェーブルに命じる。ここでまたカトリーヌの押しかけ談判ということになる。ナポレオンは、ルフェーブルがイタリア戦線を有利に導いて功成ったのは妻の活躍のおかげだったと知り、大笑いしながら肩を叩き合う大団円となる。
「さ、終わった」
「このウェスト・ファリアという王国は、たぶん実在の短命王国だったと思いますけど、短命に終わらせたのはルフェーブルさんでしょう」
「二人で庶民に戻ったのね。二人で洗濯屋を建て直したりして」
「はい、きっとそうです。人の幸福は、身を飾る栄華よりも、自分を愛してくれる人に出会うことだと思いますから」
「ロマンチックなムッちゃん。大好きよ」
 肩をやさしく叩く。百江とメイ子が睦子の手に手を置いた。
「ぼくはもう歯を磨いて睦子と布団に入る。お休み」
「お休みなさい。ムッちゃん、あしたは朝ごはんを食べてから私たちといっしょに出ましょう。キョウちゃんはそのあとランニングだから」
「はい」
 大きな洗面台で五人いっしょに歯を磨き、廊下であらためてお休みなさいを言い、睦子と二人で居間に床をとって寝た。枕もとにラジオを点け、手を取り合って眠った。二、三時間経って一度目覚め、ラジオを消して一交し、しらしら明けに目覚めて一交した。いずれも二分かそこらの交わりだったが、睦子はそのつど全力で応え、心を預けた悦びの声を上げながら私を抱き締めた。そして行為のあとにやってくる心地よさの中で深い眠りについた。私は全身に何とも知れない気だるさを覚えたが、睦子と同じようにこよなく満たされた気分で深く眠った。
         †
 三月二十七日金曜日。七時十分起床。睦子の唇を唇に感じて目覚めた。晴。タイメックスは一・四度。キッチンで物音がしている。睦子の胸を吸う。
「愛してます」
「ぼくも心から愛してるよ。青カンはまたの機会にね」
「いくらでもチャンスがあると思います。楽しみに待ってます」
 微笑み合い、二人全裸で歯を磨きに洗面所へいく。睦子はシャワー。私はうがいをし、排便、睦子と交代でシャワーを浴びる。百江が私の着替えを置きにきた姿が磨りガラスに映る。
 ジムトレ二十分。四人に遅れて食卓につく。完全休日。
「納豆と、味噌汁に卵ポン、それだけでいいよ」
 百江がハイと返事をする。テレビはNHKのスタジオ102。テーブルの上に中日スポーツの見出し。

    ドラゴンズ一丸でジ軍を一蹴 竜神軍十一連勝
         
EKまたもアベック 神無月十九号
           世界デビュー星野 ジ軍の光学速度計154キロ
 大リーガーたちが口をあんぐり開けたままドラゴンズの猛攻を〈楽しんだ〉。取りも取ったり十八点。しかし敬意を表して小川健太郎がマッコビーに四点、星野秀孝がマコーミックに二点を献上した。十八得点は日米野球史上の新記録である。なお、フォックス監督が『軽く投げている。もっと速い球が投げられるはず』と評した星野のストレートは、ジ軍スカウトマンの速度計によると、154キロを示した。
 マッコビー「神無月さんの静かな雰囲気、スイングの奇抜さ、ホームランの軌道と距離、すべて永遠に記憶に残る。一時期でも彼が私を敬愛したことがあったという事実に至上の光栄を感じる」
 メイズ「神無月郷は日本から奪ってはならない国宝だと痛感する。貴賓として招くことは許されるが、アメリカ商業主義の下でのプレイを求めて毒してはならない。彼は東洋精神の人だ」
 マリシャル「神無月さんの打席に光輪(ヘイロー)が輝いていて眩しかった。何を投げてもその光輪に吸いこまれる気がした。彼が野球選手である時代に居合わせて幸運だとしか言いようがない」
 マコーミック「軍神神無月が率いる神軍を打ち負かすには時間が必要だ。神とその従者たちの衰えを待たなければならないからだ。ただ神の父水原も神である神無月も彼の従者たちもみな神なので、全軍の衰えを気長に待たなければならない。何年かかることだろう」
 ディーツ「神無月、江藤、菱川、高木、谷沢、中、太田、一枝、それに星野、小川といった選手たち。彼らはもちろん、彼らの背中に控える者たちも天に選ばれた人びとだろう。もともと選ぶ純度がちがっているように感じる。この中日ドラゴンズというチームはアメリカのワールドシリーズを何連覇するか知れたものじゃない」
 フォックス監督「地質年代のちがう場所で恐竜たちと戦った感じだ。揃い踏みした恐竜たち相手によく奮闘したと思うよ。コンディションの整ったシーズン中に戦っても似たような結果になっただろうね。来年以降しばらく単独チームが来日すると思うが、いずれ合同軍で胸を借りにくることになるかもしれない。恐竜の分厚い皮膚にもっと強い力で噛みつこうと覚悟してね。とにかく中日ドラゴンズ以外のチームには負けない力をつけて臨みたいね」


「きょうは少し書くんでしょう?」
「うん。ランニングのあとで、午後いっぱい」
「四月一日から連載開始。夏までには書き終わるわね」
「たぶんね。次の予定は東奥日報のほかにはないから、書き終えたら当分休むよ。目先のことが大事。いまは花見と、ソテツとのデートと、みんなの入学式」
「五百野が発売十日で二十万部を超えたそうよ。娯楽性のない純文学だから、芥川賞か直木賞の候補に上がることは確実ね。六月くらいに打診があるわよ」
「菅野さんが断ってるはず」
「本人の口からしっかり断るのでなければだめだと臼山さんが電話してきたわ」
「断る以前に、候補に挙がることは十中八九あり得ない。もちろん電話がきたらきちんと断る。勘ちがいの受賞なんかした日には、草葉の陰の大天才太宰治に申しわけがない」
 カズちゃんは八重歯を出して笑い、
「じゃ出かけましょうか。メイ子ちゃん、ムッちゃん、いきましょう。百江さん、キョウちゃんをしばらくお願いね。お洗濯はあしたするから、庭のお掃除だけでいいわよ」
「はい」
 睦子が、
「郷さん、昨夜はありがとうございました。身も心も隅々まで満たされました。それでは夕方に」
「うん、夕方に」
 直人みたい、とカズちゃんが言うと、みんな手で口を押さえて笑った。


         十一
 
 三人元気に出ていく。百江にコーヒーのドリップを頼む。毎日新聞の臼山の〈美と涙の連関〉というコラムを読み、美と感じるものには記憶が関与していると知る。

  ……神無月には、もの心ついてから吹奏楽の響きを美と感じて深く感銘した過去の経験があったにちがいない。なぜなら、たとえ赤子のときに吹奏楽を聴いたことがあったとしても、大きな音としか感知できず、感銘することも記憶することもできなかったはずだからだ。少年時代のある日―しかし、いつ? 私は思い出した。東大野球部のころ、彼はロッカールームでユニフォームに着替えながら、
「百年、百年、開いて百年、ミナト横浜、朝がくる」
 と口ずさんでいたことがあった。そのときは何だろうと訝しんだだけだったが、きょう、美しいものには泣けると彼が言ったとき、ハタと気づいた。母子の不遇な時代を過ごした横浜。調べた。一九五八年、横浜開港百年祭。神無月郷九歳。孤独な彼は一人横浜港までその祭りを見にいったのだ。そうわかって首筋に粟が立った。写真が残っていた。岸壁に蝟集する人びとの前を軍楽隊が行進していく写真だ。これだ! この群衆の中に神無月郷がいたのだ。
 澱んだ不遇は美ではない。澱みに射しこむ希望の光、それこそが美だ。澄んだ金管と太鼓の響きが希望の光と化して神無月の胸を貫いた。瞬間、感激が押し寄せ、おのずと神無月は泣いた。吹奏楽の響きが彼の原始の胸底に涙を伴った〈美〉として定着したのだ。
 手放しで泣く彼を見て、ベンチも泣いた。彼らは神無月の過去の記憶に瞬時に同化した。なんという同胞たちだろう。下通(しもとおり)みち子ウグイス嬢も、神無月郷や江藤慎一たちを泣かせてくれてありがとう、と涙声で楽隊に謝辞を送った。
 知に訴える後天的な芸術美ばかりで人間の魂を感知できるわけではない。涙とともにある原始の記憶も、人間の魂の美に直結しているのだ。
 
 九時。菅野とランニングに出る。
「十年一日、もうほとんどの道を走りましたね。直線で往復できる道を何日かつづけたいですね」
「太閤通三丁目の電停まで出て五分、そこから栄生までの環状線は直線です。十五分。いって帰って四十分。一、二度走ったことのある道ですけど。山口さんと走った新大正橋までいくという手もあります」
「環状線でいきましょう」
「ほんとにもう、走らなかった道なんてないんじゃないですか」
「ないですね。大鳥居の向かいの道も走りましたし」
 太閤通の笈瀬通の電停に出る。遠く左手のガードの上を団子鼻の新幹線が過ぎる。こちらをアイボリーと緑のツートンカラーの市電が過ぎる。来年には姿を消す市電。頬に2の番号を付けている。乗用車やバスに追い抜かれる市電の背景をどう表現すればいいのだろう。古い民家とせいぜい三階建てまでのビル。看板は、コクヨ事務用品、パチンコオリオンホール、雪印牛乳、理研電化工業株式会社、第百生命……。
 太閤通三丁目の電停。右折。見晴るかす小ビルの並ぶ直線路。商店や食い物屋の名前に見覚えがある。則武本通三丁目。空に飛行機雲が二筋。岐阜34km、瀬戸25kmの標示板。則武本通一丁目。ここも走ったことがあるが、〈見知らぬ道〉に属する。電信柱に中村区佐古前町とある。笈瀬中を過ぎて、崩れ落ちそうな古民家が混じりはじめる。開発されていく町並だ。
「もうすぐ栄生のガードです」
 鳥居通とぶつかった。栄生駅のガードを眺め、引き返す。
「なるほどやっぱり直線路は飽きる。これっきりにしましょう」
「直線路も、くねくね道も、道は飽きます。愛着がないと」
「西高と日赤と大鳥居ということになりますか」
「ですね」
 仕方なく黙々と走る。途中でさびれた古書店に立ち寄り、店主に尋いてアガサ・クリスティのアクロイド殺人事件を買った。新潮文庫、中村能三(よしみ)訳。
「丹生さんの薦めた本ですね。そう言えば日本文学振興会からファインホースに連絡がきましたよ」
「何ですか、文学振興会って」
「文学の賞を与えることを仕事にしている団体です」
「そういうのは菅野さんから断ってくれと頼んでたけど、どうも本人が直接断らないとだめのようですね」
「そうなんですよ」
「六月まで直木賞、芥川賞の候補作吟味をするが、もし最終候補五、六人に残った場合には打診したいと思うのでよろしくということでした。その時に受賞の意思があるかどうか確認の電話をしたいようです」
「とにかく候補を断るならそのときに断れということだね。野間文芸賞は菅野さんが断りを入れただけでスンナリだったのは、ひょっとしてもともと候補に挙がってなかったからじゃないの」
「いえ、講談社から去年の十月にちゃんと打診がきましたよ。仰せのとおり断ったので候補から外されました。日本文学振興会は主に芥川賞、直木賞、菊池寛賞を文芸春秋社の社員数十人に依頼する団体で、その団体が作家や評論家数人に託すという仕組みになってるみたいです。講談社とはそのあたりの緻密さがちがうようですね」
「吟味される候補作というのはだれが選び出すんですか。どう考えても、出版社の社員たちや、あのインテリ顔の最終選考委員たちが選んでると思えない。もっと枝の先があるでしょう」
「毎日の臼山さんに聞きましたよ。驚きました。作家、批評家、各出版社の編集長、新聞社の学芸部長、文化部長の推薦……そのあたりまではなるほどとわかりますが、一般文化人、ラジオ・テレビ・映画関係者の推薦ときてハハアと思いました。ほぼ政治の世界ですね。神無月さんが拒否して当然です。新美南吉文学賞がいかに純粋かがわかります」
 直線路はほんとうに飽きる。直線を維持したいので脇道に入るという気にもならない。ようよう太閤通三丁目の電停に戻ってきた。
「とにかく文芸の世界や芸能界の人間とは付き合いたくないので、その種の話が持ち上がったらぜんぶ追い払ってください。理由は、選考委員のインテリ顔が嫌いだからと言ってください。自分で断るときは、身に合った執筆生活をしたいと言って断ります」
「身に合ったというのは?」
「言語は目の粗い道具です。ふつうに使ったんでは、言わんとすることが相手にほとんど伝わらない。ぼくはその目を細かくして使いたいんですよ。別に偏執的なことでも何でもなくてあたりまえのことだと思う。自分の発した言葉に責任を持って、げたを預けないということ。言語の目を細かくすれば言わんとすることが伝わりやすくなるから。でもそういうやり方をする人間を〈素人〉と見る学者・文人が多い。ほとんどと言っていい。目を粗くして相手に伝わりにくくするのが〈玄人〉だという信念を持ってるんだな。ごまかしの人生。それでも彼らにとっては真正の人生で、ぼくはまがいものということなんだ。不器用なぼくは彼らに靡いた生き方はできないので、靡かないで暮らしたいということです。それが身に合った執筆生活の意味です。身に合った生活、とぼんやり言っておけば、謙虚にもとられるし、傲慢にもとられるんじゃないかな。それでいい」
 菅野はしばらく呼吸を整えながら走り、
「玄人っぽくしないと歴史に残れませんよ」
「わかってる。もともとぼくは野球以外のことではまがいものだもの。歴史に残るはずがないし、残りたくもないから、願ったり叶ったりだ」
「神無月さんの〈義〉、心底わかりました」
 太閤通の古い家並を戻っていく。この家並はまるで私のようだ。いつか整理整頓されて新しいものに入れ替わる。そしてそちらが〈真正の〉歴史になる。まがいものだった私はきれいに淘汰される。
 則武の門前で菅野と別れる。百江が廊下の拭き掃除をしている。二階の書斎に入る。コーヒーをいれたポットが二つ机に置いてある。牛巻坂九章のつづきにかかって三十分ほどして、階下から百江が声をかける。
「枕カバー替えておきました」
「ありがとう。百江、来週のアヤメは?」
「四月の四日まで遅番です。夕食はごいっしょできません」
「五時から九時か。夕方までいっしょにいられるね」
「はい。花見の日はお休みにします。じゃいってきます」
「いってらっしゃい」
 百江が出かけ、家の中に完全な静寂が訪れた。
 三時半。節子と神宮前の旅館に向かうまでをあらあら書き終えた。北村席に向かう。アイリスの二階に寄っていく。優子や名大生たちが素子の部屋に集まり、小物の整理をしている。
「よ、やってるね」
 女たちが笑顔で振り向く。素子が、
「一人暮らしでも、けっこうがらくたが溜まるんよ。引っ越しのたびに持ってきた思い出の品も多いし。台所道具はぜんぶ置いてくわ」
「転宅おめでとう。この部屋には次にだれが入るの?」
「広野さんの友だちが来月からの契約をしたらしいわ。うちは家賃タダやったけど、その人は敷・礼なしの一万円やて。相場からすればタダみたいなもんや」
「ここに一年住んだんだね……」
「花の木、高円寺、則武。ちょっと、しみじみするなあ」
 段ボール箱が七つ、八つ積まれている。ヒデさんがマジックで箱に書きつけている。睦子が、
「あしたは鏡台とクロゼットと机の整理ですね。本はぜんぶ終わったから」
「ごめんね。一人でやれば一週間かかったわ。ありがとう」
 千佳子が、
「教科書配布日はいつですか?」
「四月二日。午前十時から。ソテツちゃんたちも同じみたいやな」
 キッコが、
「あたしらはいつ?」
 ヒデさんが、
「今月の二十八、二十九、三十日です。配布じゃなくて、販売。その三日間は必須教科書と外国語の教科書。四月二日はその教科書のガイダンス。それ以外の教科書は四月四日から。ガイダンスはいく必要はないと思う。販売所は二、三箇所に分かれるから、館を確かめていきましょう」
 睦子が、
「同じ期間に生協手続をして、販売所で組合員証を提示して買わなくちゃいけないのよ。面倒ね」
「みんな忙しいね。じゃいこうか」
 ぞろぞろ北村席に向かう。アイリスのガラス戸越しにカズちゃんとメイ子が手を振った。
 数寄屋門を入ったとたんに、
「おとうちゃん、やきゅう!」
 忘れていた。ジャッキといっしょに直人の相手をしていた菅野が、
「直人はすごいですよ。あとをよろしく。ファインホースを見てきます」
「よし、根性こめてやるか」
 素子や優子や名大生たちも参加する。千佳子がソフトボール式に下から放る。私たちは守備。直人はポンポン打ち返す。
「千佳子、上からもそっと投げてあげて」
 空振りが多くなる。
「直人、よくボールを見て」
 まともに当たりはじめる。
「……あ、下手投げ上手投げでわかった!」
「どうしたんですか」
 睦子が振り向く。
「マルコムXの言葉だよ。クリームはコーヒーを弱くする―白人は黒人を弱くするという簡単そうな寓意なんだろうけど、もっと深いアフォリズムだ。奴隷解放なんていい加減なところで手を打つと、自由平等の建前のもとで人種差別のようなしっぺ返しを食らって、黒人本来の強さを蚕食される。直人、これからは上手投げだぞ!」
「うん!」
 千佳子とピッチャーを交代する。
「十本空振りしたら、きょうの練習は終わりだ。うんと空振りしろ。バットがボールからどのくらい離れてたか、目で感じて覚えるんだ」
「うん!」
 少し強めのボールを放ってやる。何球か空振りしたあと一本当たって足もとに落ち、何球か空振りしたあと一本ファール、合計十本空振りした。
「おしまい!」
「おしまい!」
 幣原がやってきて、ジャッキに首輪をつけ、門から出ていった。みんなで座敷に戻り、夕食前の楽しいざわめきが部屋に満ちる。イネがカンナをハイハイさせて遊ばせている。ときどき一人坐りさせたりする。居間では主人が東奥年鑑をペラペラやり、女将は煙草を吸いながらテレビを観てくつろいでいる。


         十二
 
 主人が、
「郷土の誇り・飾る錦というページに神無月さんの写真が載ってますよ」
「そうですか」
「県下の高校の卒業アルバムまで載ってます。……福島チンチン電車姿消す、花に飾られて、市民千人が見送る、ねぶたの変遷、ねぶた万国博へ、か。何でも載ってるなあ」
 幣原とジャッキと菅野がいっしょに戻ってくる。カズちゃんたちも帰ってきた。ジャッキの餌皿が用意される。冷やめしの上におでんの練り物がいくつか載る。ソテツが、
「おでんできましたよう。テーブルについてください」
 テーブルに大きな土鍋が三つ載る。
「ビール、ビール」
 たしかにビールを飲みたくなる。ビール瓶とコップが並ぶ。女将やカズちゃんたち路加わって酒が始まる。おでんの具というものを初めてフルバージョンで見た。
「袋、袋、それとガンモドキ」
 私が言うとトモヨさんが、
「巾着というのよ。餅入り巾着というのもあるの」
「ふうん。大根、こんにゃく、玉子……」
 ソテツがカズちゃんに、
「ダシは、昆布、サバ、アジ、イワシの削り節でとりました」
「いいダシが出てるわよ。おトキさんもダシ名人だったけど、とうとう二代目になったわね」
「そう言ってもらえてうれしいです」
 キッコがソテツに、
「さつま揚げ、ゴボウ巻き、厚揚げ、はんぺん、それからちくわ。この白いの何やろ」
「チクワブ。最近関東から入ってきた具です。腰があるからすいとんにまちがわれるの」
 千佳子が、
「東京のおでんにはかならず入ってたわ」
 洋ガラシをつけたガンモに舌鼓を打っている私に主人が、
「広島はガンモドキの代わりに牛スジを入れるらしいですわ」
 ソテツが、
「牛スジは煮こみじゃないとだめです」
 千鶴が、
「こっちの鍋に、もっとほかの具が入っとるよ」
 睦子が、
「じゃがいも、ロールキャベツ、昆布、焼豆腐、手羽、いわしつみれ、ウィンナー、しらたき」
 直人は玉子とガンモドキと焼豆腐、それとウィンナー。カンナは大根や玉子、ガンモを砕いて粥を混ぜたプレート。主人と菅野がビールをつぎ合う。私は飲みすぎると眠くなるので控えめに飲む。女将が、
「そのくらいの飲み方にしてくれたら、ええ酒やが。寄合だと飲みすぎてまって帰ってこんことがあるでね」
「最近はないで」
「最近はな。菅ちゃんに担がれても帰ってくるようになったわ」
 メイ子が腹をさすりながら、
「お腹いっぱいになりますね。ごはんが要らない」
 幣原が、
「ごはん、ちゃんとありますよ。ほしい人は言ってください。シジミの味噌汁も作ってあります」
 ビール族の男は手を挙げないが、名大生四人とカズちゃんが手を挙げた。私はロールキャベツを皿にとる。
「でっかい俵だなあ」
 ソテツがニコニコうなずく。
「よく味が滲みてますよ」
 ガブリと齧る。
「うん、うまい。ところで青森におでんてあるの? 食べたことないけど」
 青森三人組に尋く。千佳子が、
「あります。昆布ダシで醤油と酒を煮立てたツユに、大根、ちくわ、こんにゃく、さつま揚げ、玉子、たまにはイカ、タコ、ツブ貝を入れて煮ます。それにショウガ味噌のタレをかけて食べます」
 ヒデさんが、
「野辺地はごくふつうのおでんです。鰹節ダシの醤油ベースのおつゆで煮て、具もふつうです。大根、ちくわ、豆腐、ガンモドキ、油揚げ、さつま揚げ。具はパックで豆腐屋さんや漁協に売ってます。たいていダシつゆもいっしょに」
 カズちゃんが、
「ああ、八幡神社から真っすぐ農道をいったところにある豆腐屋さんで買ったことがあるわ」
「観音林の野村豆腐店さんですね」
「おでんはブルジョアの食い物だな。合船場は粗食だった。海のものばかりで」
 ソテツが、
「そのほうがブルジョアです。獲れたての高級素材を煮たり、焼いたりするくらいで食べられますから」
 しゃべりながらみんなでどんどん消化していく。トモヨさんが大鉢で野菜サラダを持ってくる。
「あしたは十時から、三月生まれの子供たちのお誕生会なんですよ。出し物もあったりして四時くらいまで。おとうちゃんのお見送りができないって悲しんでるんです」
「朝くるから、だいじょうぶだよ。そのときお見送りしてくれればいい」
「うん」
 明るく笑う。
「さ、七時を過ぎた。少しパズルで遊んだら、お風呂に入って、歯を磨いて寝なさい」
「うん。あしたの朝、きっときてね」
「きっとくる」
 ヒデさんと睦子が直人のパズルの相手をする。千佳子とキッコはテレビのスイッチを入れ、金曜邦画劇場を観る。日活の若草物語。四人姉妹。結婚している芦川いづみ、独身は浅丘ルリ子、吉永小百合、和泉雅子。この三人の恋愛物語。島流しの年に公開された映画か。オルコットの退屈な原作とは関係なさそうだ。飛び交う大阪弁。なんだかちょっと観てみたいな。カズちゃんに、
「観る?」
「そうね」
 みんなでテレビの前にいく。主人と菅野は見回りに出かけ、優子は簿記の勉強をしに二階へ上がった。女将とソテツとイネは帳場に入り、住みこみやかよいの賄いたちが食卓につく。幣原がおさんどんをする。トモヨさんは居間でカンナのおむつを替えている。
 思ったとおり、くだらない恋の鞘当てと、わざとらしい勘ちがい。浜田光夫、和田浩二では重厚さのカケラもない。女たちの軽い尻があちこちさまようあみだくじ映画。だれとだれがくっつこうと別れようと知ったことではない。
 そろそろ眠くなった直人を睦子が居間へ抱いていく。結局睦子とヒデさんはトモヨさん母子と風呂に入ることになった。このパターンができ上がりそうな気がする。
 八時を回って、ソテツとイネが帳場から戻ってくる。幣原と千鶴といっしょに食卓に向かう。かよいの賄いが帰り、住みこみの二人がおさんどんをする。女将が、お休みと言って離れに引っこんだ。
「自分を振り向いてほしいだけのイヤな女たちだなあ」
 カズちゃんと素子がうなずく。
「ほんと。青春の苦悩なんて看板に偽りありね」
「最低やわ」
 キッコと千佳子がうなずく。吉永小百合が片想いの浜田光夫を飛行機で追いかけていくところで終わった。メイ子が、
「あやういところで根性を見せたのは吉永小百合だけですね」
 百江がうなずく。私は、
「そもそもあやうくなっちゃいけない。根性がなかったせいだから」
 睦子とヒデさんが風呂から戻ってきた。
「直人ちゃんとカンナちゃんを寝かしつけてきました」
「ほんとにかわいいわ」
 主人と菅野が帰ってきた。幣原が茶漬けを出す。主人がめしを掻きこみながら、
「秀子さん、名古屋は慣れましたかな?」
「新鮮すぎて、慣れません。お伽の国にいるみたいです。風物も、町並もぜんぜん飽きません。六月七日の日曜日には熱田祭りを見にいきます。郷さんはちょうどそのころ北海道にいますから、いっしょに見れませんけど」
「そうだった。五月五日からの大洋戦が北陸、六月六日からの大洋戦が北海道だった」
 カズちゃんが、
「六日は室蘭新日鉄球場、七日のダブルヘッダーは札幌円山球場。八日の月曜日にみんなと名古屋に帰ってくるんでしょうから、七日の夜は西松の人たちに会えるかもしれないわよ。菅野さんに段取りをとってもらったら? ホテルのレストランにきてもらうなりなんなりして」
「いつでも遊びにきてくれとは言われたけど、むこうからきてもらうのは無理だね。昼夜兼行の工事の日々だ。たとえ休日でも、小山田さんたちの時間が具合よく空くことは難しいだろうね。野球を観にこれる人がいたらそうしてもらうしかない。ネット裏の券を五枚でも送るというのが礼儀だろうね」
「合点です。札幌の西松建設ですね。小山田さんというかたに届くよう早々に段取りをつけます。六月七日は日曜日ですから、お一人お二人は観にこれるでしょう」
「そうしてください。ところで北海道へはどういういき方になるんだろう。楽しみだけど」
 主人が水屋の抽斗を開けて便箋を眺め、
「六月五日の小牧空港一時十分の全日空にチーム全員が乗ることになっとります。千歳まで一時間四十分と書いたる」
 菅野は便箋を覗きこみ、
「航空券は球団で用意しているということですね。じゃ、北村席を十一時半に出て、小牧でチームに合流して、千歳へ一時間四十分で飛んで、二時五十分か。そこからは札幌観光の大型バスで室蘭へ移動となってます。なるほどね。札幌観光バスは名鉄の出資で立ち上げた会社ですからね。室蘭まで二時間強。五時前後にホテルですか。ちょうどいい時間ですね。きっとバスガイドがつくでしょう。退屈しませんよ」
「五日の宿は室蘭プリンスホテルとなっとる」
「東奥年鑑に書いてありましたよ。くだんのプリンスホテルとはまったく関係ないらしいです。百貨店の中身だけをうまく改築しながら、どんどん宿泊施設に変えていってるホテルです。最終的に五百室になるようですが、もう百室は完成してるんじゃないんですかね。改築中の区画と仕切る隔壁がじょうずに作ってあるので、快適に泊まれるそうです」
「プリンスホテルから新日鉄球場まで十分。六日の試合が終わって、球場から直接バスで札幌へ移動。三時間半てか! 札幌到着は九時前後になるな。こりゃきついわ。仮眠とりながらいくしかないやろう」
「推理小説を持っていきます」
 菅野が、
「たぶん国道三十六号線だな。海沿いのきれいな道ですよ」
「札幌の宿は札幌グランドホテルとなっとります。円山球場まで十七分。試合の翌日の八日は九時四十五分にホテル出発で、千歳空港まで一時間半。十一時四十五分のANAに乗ることになっとる。一時半小牧到着と」
「めちゃくちゃ強行軍ですね! やっぱり西松の人たちと会うのはハードでしたよ」
 カズちゃんが、
「小山田さんたちとはまたいつかゆっくり会えばいいわ。今回は北海道の景色を楽しむつもりでいってらっしゃい」
「うん。菅野さん、あしたの出発は何時? このあいだは羽田から飛行機で大阪までいったから、今回は新幹線だね」
「はい、大阪まで新幹線で、そこからは山陽本線か神戸線で芦屋まで一本です。適当に快速をつかまえて乗ればいいでしょう。この秋からは新快速という急行列車が運行されるそうです。五分とちがわないでしょうけどね。きのうの夜江藤さんから電話があって、金太郎さんに気を使わせたくないので、自分たちで勝手にいくと電話がありました。名古屋から広島にいくときだけは、心配なのでいっしょにいくそうです。めいめいで竹園に向かうときは送迎バスが出ませんから、大阪からは電車でいくしかないです。それでも二十分くらいです。三時三分のひかりを買っておきます。芦屋には四時半ですね」
 ソテツが、
「竹園に送る荷物はありません。ダッフルとバットケースだけで出かけてだいじょうぶです。お弁当はいりませんね」
「うん、いらない」
 キッコが、
「神無月さん、推理小説も読むの?」
「これからは難しさに苦しめられないものを読む。この一冊を読み終わったら、たぶんあと二、三冊雑読してもう推理小説は読まない。そのあとは文学的に未熟だと世間から見なされてるなとぼくが感じる作家のものを読む。たぶん文章が難解でないので軽んじられてるんだと思うから。豊島与志雄、久坂葉子、野村胡堂、久保田万太郎、宮島資夫(すけお)、山崎冨栄の日記……」
 カズちゃんと名大生たちがメモをとりはじめた。
「思いつきだけでしゃべるから、メモをとってくれるとありがたいね。中村地平、久米正雄、長谷川伸、小宮豊隆、宮地嘉六、木村荘(しょう)八、葛西善蔵、山中貞雄の随筆」
「山中貞雄って、映画監督の?」
「うん、丹下左膳百万両の壺」
「豊島与志雄と山崎冨栄は太宰つながりね」
「そう」
「ときどき本屋で見ておくわ」
「私も!」
 女たちがいっせいに言った。自然とみんなで腰を上げる。お休みなさいを言い合いながら、二階、一階、玄関へと別れていく。


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