十九
期待の声援の中、高木が打席に入る。静かに構える。一発狙っている。木俣はそうはさせじと露骨に外角に膝を突く。渡辺セットポジション、初球、オーバースローから外角遠くへ直球、ショートバウンドで木俣のミットへ。渡辺はわれを失っている。木俣は渡辺へ強く返球する。二球目、内角低目シュート、高木の膝をかすりそうになる。ノーツー。それでいいそれでいいと木俣がうなずく。三球目、外角高目ストレート、かろうじてストライク。高木がピクリともしないのは、渡辺の得意球のシュートを狙っているからだ。
「さ、こい!」
木俣はド真ん中に構える。四球目、そこへさらに速いストレートがきた、と思いきや、ググッと曲がるスライダーだった。一塁ベンチの上へライナーのファール。そんな変化球など簡単に打てるという高木のデモンストレーションだ。次に投げる球がないので、木俣はまたド真ん中に構える。高木がバットを右腋へ引き寄せた。弓弦(はづる)の引き絞り。彼のパンチングショットはするどい。木俣が叫ぶ。
「さ、もういっちょ、こい!」
五球目が投じられた瞬間、木俣はわずかに中腰になって内角へ寄った。胸もとへ高速シュートがねじこんでくる。振れば空振りになりそうだと思ったとき、スムーズに高木のバットがからだに巻きつくように振り下ろされた。読んでいた! パンチ一発、したたかに打ち据える。ギュンと舞い上がる。レフトの坪井があごを上げて見送る。スッと場外へ消えていく。高木は森下コーチとやさしくハイタッチし、大股でダイヤモンドを回る。拍手が追いかける。菱川と私はホームインして彼を待ち構える。高木は井上コーチとハイタッチすると、恥ずかしそうに首をかしげながら花道に飛びこんでくる。
逆転。六対七。ネット裏の水原監督が渡辺を見つめている。渡辺は茫然としている。木俣が走り寄って肩を叩く。石川島播磨のエースのプライドがずたずたになりかけている。しかしノーアウトで降板させるわけにはいかない。
六番千原。きょうの千原は三振とレフトフライ。曲がりなりにも彼はレギュラーの控え選手だ。おととしの春先には、江藤を三番に置いて四番を打ったこともある。その時期には打点と打率の二冠を制して、中日の首位維持に貢献した。シーズンホームランも十四本打った。去年は低迷したが、ドラゴンズの強打者の下限に位置していることはまちがいない。彼を打ち取れなければ、渡辺の一年間二軍落ちは濃厚になる。新宅や西田やピッチャーを打ち取ったところで評価は高くならないのだ。
千原も渡辺も必死の形相で対峙し合う。実質、一軍二軍選り分け合戦になっているので仕方がない。猶予期間はオープン戦までの三週間。
初球、内角腰のあたりへ速球、ストライク。私には絶好球に見えたが、千原の得意コースは真ん中と外角の高目だ。そこへは投げてこない。二球目、内角低目カーブ、掬い上げてライトポールぎわへファール。目が慣れた内角を三球はつづけられない。秀孝の速球なら空振りを取れるので投げられる。三球目、外角高目から落ちるシュート、三塁スタンドへファール。次も千原の好きなコースの近くだ。四球目、真ん中低目へカーブ、空振り三振。これは木俣の勝利だ。いつもこうなるとはかぎらない。
「八番西田に代わりまして、金山仙吉、バッター金山、背番号50」
百七十八センチ七十九キロ。いいガタイだ。ゴジラ顔。一発がある勝負強いバッターだと太田が言っていた。バットを頭の上でクイクイ動かし、両膝を曲げてチンマリと構える。高目に強いことは一目瞭然だ。私でもわかるのだから、木俣に三、四球で牛耳られるだろう。木俣はミットを地面につけ、捕球面を上に向けて構えた。あからさまだ。渡辺はなかなかそこに投げられず、ファールで粘られたが、結局内角低目のシュートで三振に切って取った。
「七回表、白組のピッチャー、佐藤に代わりまして、渋谷幸春、ピッチャー渋谷、背番号35」
二十二歳、中肉中背。どこを見るともないきれいな目をしている。強い近視だという噂がある。徳島鳴門高校から四国電力を経て、ドラフト下位入団。野球が好きだということだ。右腕を地面まで引いて、大きく踏み出し、スリークォーターやサイドスローでするどく腕を振る。好みの投げ方ではない。速球、変化球ともに特徴なし。踏みこみより右腕が少し遅れて出てくるので打ちにくそうだ。
「九番渡辺に代わりまして、高木時夫、バッター高木、背番号31」
選手兼任二軍コーチが出てきた。百七十三センチ、六十七キロの小兵。ふと忘れてしまう選手だ。スタンドは戸惑った拍手。高木は左打席に立った。新人を前に自信満々だったが、変化球二球でセカンドゴロに打ち取られた。
一番江島。変化球二球で私へのフライに打ち取られた。
二番谷沢。初球の外角カーブを流して、私の前へレフト前ヒット。
三番木俣。初球の真ん中高目ストレートを叩いて痛烈なサードゴロ。チェンジ。
「七回裏、紅組のピッチャー渡辺に代わりまして、田辺修、ピッチャー田辺、背番号33」
近鉄からきた右ピッチャーだ。二十五歳。ガタイはまずまず。星飛雄馬のように左足をピンと一直線に高く上げ、オーバースローで全力投球する。スピードがある。変化球も切れる。即戦力になりそうだ。中が、
「あの投げ方で一度も肩肘の故障をしてないっていうんだから、よほど頑丈にできてるんだね」
漫画通の秀孝が、
「星飛雄馬のモデルじゃないかな。田辺さんが近鉄で活躍したのはいつですか」
菱川が、
「デビューは三十八年だ。活躍したのは、四十年、四十一年」
「やっぱり! 巨人の星が雑誌の漫画になったのは四十一年です。テレビアニメになったのは四十三年です」
高木が、
「だれも言わなかったのは不思議だな。ほんとにそっくりだぜ。バレーダンサーじゃなきゃ、あそこまで足は上がらない」
中が、
「サンフランシスコ・ジャイアンツのマリシャルと似てるようだけど……」
「マリシャルは寝そべるように反り返るし、膝が少し折れてるから、田辺のように一直線に足だけ高く上げてるわけじゃないですね」
柔らかい声のアナウンスが流れる。
「白組のバッターは、ピッチャー渋谷」
速球三本で立ちん棒のまま三振。次打者の日野が、
「はえーなあ! うちじゃ秀孝の次ぐらいじゃないの」
とため息をつきながらバッターボックスへ走っていき、あっという間に三振して戻ってきた。
二番中、さすがに田辺の制球難を見抜いたか、五球投げさしてフォアボールで出た。私は高木に、
「右に左に球が散るようですけど、デッドボールだいじょうぶですかね」
「制球が悪いけど、シュートがないんで、意外とデッドボールは少ないんだ。年に一個か二個」
三番菱川。当たっている。二塁打、三振、シングルヒット。もともと才能にあふれた選手が努力しはじめたら怖いものはない。彼はバッティングゾーンが広い。顔の高さまでカバーする木俣ほどの上下幅はないが、左右の広さは驚異的だ。いずれ確実に江藤二世になるだろう。初球、胸もとストレート、ボール。速い。百四十キロの後半は出ている。これで通せばしばらく菱川は沈黙しているが、カーブかスライダーを投げたら餌食だ。木俣はわかっているが、田辺がサインに首を振る。自信のある変化球を投げたいのだ。木俣は内角に構えた。二球目、内角胸の高さから真ん中へ切れこむカーブ、ハーフスイング、ストライク。ここから内角カーブ攻めが三球つづいた。ボール、ボール、キャッチャーミットに当たるチップファール。六球目、内角カーブがよけた菱川の右太ももをかすった。痛くないデッドボール。その話をしたばかりだったので、高木と二人で笑った。一球振っただけで菱川は一塁へ歩いた。一塁ベース上で江藤兄に尻を叩かれる。ついでに私にこぶしを突き出す。私はバットを上げる。江藤までいっしょになってこぶしを突き出す。
初球、ひどく簡単な速球を放ってきた。内角膝より下のストレート。ボール二つ低い。何気なくバットを出し、しばき上げる。低いライナーでライト芝生席に立つ一本の樹に突き刺さる。梢を抜けていったようで、観客が仕切りの生垣の向こうを振り返る。
森下コーチ、江藤とタッチ。大歓声。木俣は田辺に、このコースを打つやつもいるということを教えたかったのだろう。どんなボールも確信を持って投げちゃいけないぞ、と。井上コーチと両手で握手。いつもの花道。ホームインしたとき木俣に訊く。
「あそこはぼくのストライクですよ」
「わかってる。田辺を安心させたんだよ。自分のチームにこんなすげえ四番がいるとわかれば、ペナントレースでビクビクしないで投げられると思ってさ」
六対十。ツーアウトランナーなし。五番高木。きょう二本目のホームランを狙うか? いや、外角カーブを狙い打って、右中間フェンスにワンバウンドで当たる三塁打。
六番千原。速球で胸もと膝もとをつづけて攻められて、振り遅れのショートゴロ。チェンジ。
八回表。渋谷続投。
「バッターは、四番ファースト江藤」
江藤が考えていることを〈考える〉。
―渋谷相手に四点差を縮めて逆転することは至難だ、大物を狙わずにランナーで出るよう最大限の努力をしなければならない、しかし、渋谷はコントロールがよさそうなのでフォアボールは望めない。太田、一枝、省三という打線を考えると、自分が出て一発で浚ってもおうとするよりは、連打して、あとの盛り上がりに期待するしかない。
初球、渋谷はギコギコしたフォームからクセのある球筋を放った。シュートのすっぽ抜けだ! 江藤は頭を下げながらからだを逸らした。ボールがヘルメットのてっぺんをかすったように見えた。
「デッドボール!」
岡田の甲高い声に、渋谷が帽子を脱ぎながらあわててホームベースへ駆け寄る。
「よかよか、心配しなしゃんな!」
故意ではないので、渋谷にお咎めはない。江藤は悠揚と一塁へ向かう。
この一投で渋谷は萎縮してしまった。太田にストレートのフォアボール、一枝の初球にワイルドピッチ。たちまち、ノーアウトランナー二塁、三塁になった。木俣は立ち上がって一枝を敬遠させた。ノーアウト満塁。本多監督がゆっくり出てきて、球審の岡田にピッチャー交代を告げる。
「白組のピッチャー、渋谷に代わりまして、若生和也、ピッチャー若生、背番号32」
口を利いたことのない選手。去年は零勝一敗。塩釜高校を出てから社会人を転々として、おととし立正佼成会からドラゴンズに入団した。先輩の小川にあいだを取り持ってもらってドラ三で指名されたと聞いている。若手とは言えない二十五歳。中肉中背の本格派。ダイナミックなフォームだ。外角に伸びのある速球がいい。決め球はスライダーのようだ。高校時代はバカ肩のキャッチャーだったというのだから驚く。彼と同期入団した金博昭はもういない。
「紅組のバッターは、七番セカンド江藤省三」
初球、探りにいく外角の棒球。なんとショート日野の前へセーフティバント! 江藤ホームイン、太田三塁へ、一枝は二塁へ。七対十。ノーアウト満塁のまま。思わぬ展開だ。
八番坪井新三郎。予想どおり外角のスライダーを引っかけて4―6―3のゲッツー。太田ホームイン。八対十。
九番田辺がそのまま打席に入り、若生の意地が勝って三振。
八回の裏。紅軍は田辺から川畑和人へピッチャー交代。背番号17。二十二歳、長くて白い角面。大柄のほう。去年のオフにロッテから移籍してきた。こうして見ると、中日はかなり投手陣の補強をしているとわかる。投球練習を見つめる。オーバースロー。快速球の本格派というが、高目のボールに力がない。カーブとスライダーに自信があるようだ。
七番新宅。川畑はゼロワンからカーブを連続三球投げて、三振に打ち取る。
八番金山。足がふるえている。こんなざまでは当分一軍へは上がれない。内角シュートを見逃して三振。
九番若生。ストレート三本で三球三振。白組守備位置へダッシュ。
十二時二十二分。早く終わるかと思ったが、平均的な試合時間に落ち着いている。九回の表。若生続投。紅軍は二点返せなければこれで試合終了。打順は一番江島から。最終回なので応援の声と拍手がひっきりなしに上がる。球場の周囲を見回す。一双の櫓、外周を縁どるこんもりとした緑、黒っぽい防寒服に埋まった内外野のスタンド、低い曇り空。目に留まった線審の丸山に頭を下げる。丸山も首だけで返す。
江島初球、真ん中かなり低目のストレートを叩いてセンター前クリーンヒット。歓声。「ヤザワ! ヤザワ!」
「同点! 同点!」
谷沢は一球内角高目のストライクを見逃し、二球目の外角高目のシュートをこれまたセンター前へクリーンに打ち返す。逆転される予感。
三番木俣。四球続けて外角変化球をすべてカット。その中の一球が一塁ベンチへライナーで飛びこみ、やかましい音を立てた。上がりのピッチャー陣のヒャーという声。つづいて笑い声。木俣には小器用なところがある。内角高目は持っていかれるので新宅は投げさせない。五球目、内角低目へシュートが食いこむ。カットするつもりがサードへの痛烈な打球になる。菱川は逆シングルでつかまえ、三塁を踏み、二塁へ矢のような送球。ダブルプレー。一塁はセーフ。木俣は鈍足ではない。ツーアウト一塁。スタンドのため息。しかし江藤がいる。
二十
「四番、ファースト江藤」
ふたたび気を取り直して拍手。
「江藤、イッパーツ!」
新宅が、クローズに構えた江藤の足もとを見ている。若生の初球、真ん中低目フォーク。ボール。外角スライダーしか見ていない江藤はピクリともしない。新宅も意地でも外角は投げさせない。二球目、真ん中高目のストレート、外し球でボール。江藤が新宅に何か話しかけている。打たせんのか、とでも言っているのだろう。三球目、江藤が内角寄りの高目のストレートに対応して大きくアウトステップした。金属音! 高いフライがセンター中の頭上に舞い上がる。嵐のような歓声。中があっという間に左中間フェンスに達し、低い金網に手と足をかけて落下する打球を待つ。私はカバーに回る。江藤が両手で、
「入れ、入れ」
と煽ぎながら一塁へ走る。三塁ベンチも全員グランドへ上がって同じ身ぶりをする。中があきらめてピョンと飛び降りた。スコアボード左の芝生席に打球がポトリと落ちた。二塁塁審の松橋が走っていって、大きく白い手を回した。
「ウオー!」
同点ツーランホームラン。ドラマチックだ。タッチ、タッチ、いつもの儀式。あの中に加わって、江藤と抱き合いたくなる。
五番太田。きょうは、三振、レフト上段へホームラン、センター前ヒット。若生は真ん中高目と内角高目で二球バックネットへファールを打たせ、真ん中にフォークを落して三振に仕留めた。場内放送。
「九回裏白組の攻撃でございます。この回無得点の場合は、引分け試合といたします。ご了承くださいませ」
球場が沸きに沸く。サヨナラを見たいのだ。
「高目のストレートですよ! 棒球です」
先頭打者の日野に声をかける。甲斐なく、低目のカーブに手を出してサードゴロ。スタンドの落胆の声。
二番中、構えがピタリと決まっている。三球連続低目の変化球を見逃す。四球目、胸もとへ力まかせの速球がきた。
「いただき!」
高木と私は同時に声を上げた。ガシ! まともに芯を食った。
「よし、終わった!」
次打者の菱川がバンザイをする。白球がライト中段の観客席に吸いこまれていく。みんなでホームへ走り出る。ネット裏から水原監督が一塁ベンチへ向かう。岡田が試合終了の右手を挙げ、サイレンが鳴る。ホームベースのあたりで両組分け隔てなく握手し合っているところへ水原監督が出てきて、
「ピッチャーもバッターも全力を尽くして、だれもが喜ぶすばらしい試合でした。第一クールのいい区切りになりましたね」
「オス!」
本日はご来場ありがとうございました、の放送が流れている。監督は、
「十五日の紅白戦は、一軍レギュラーと控えの対抗戦にします。じゃ、太田コーチ、メンバーを発表してください」
「はい。レギュラー組一番センター中、二番セカンド高木、三番ファースト江藤、四番レフト神無月、五番キャッチャー木俣、六番サード菱川、七番ライト太田、八番ショート一枝。ピッチャーは小川、星野が主軸。リリーフは戸板、伊藤久敏、水谷寿伸。控え組は一番セカンド省三、二番ファースト千原、三番センター江島、四番ライト谷沢、五番キャッチャー新宅、六番ショート日野、七番レフト伊熊、八番サード坪井。ピッチャーは田辺、渋谷が主軸。リリーフは松本、佐藤、川畑」
本多コーチが、
「いま一時半だ。解散して、あとは自主練習をするなり、めしを食うなり、飲むなり、自由にしろ。二軍はあしたも練習だぞ」
にぎやかな喜びの声とともに観客がはけていく。監督、コーチ陣は控室へ、中や小野らベテラン投手陣、千原、新宅といったベテラン野手陣は、いち早くロッカールームに戻っていく。江藤に、
「きょうは焼鳥でしたね」
「よう憶えとるな」
省三が、
「兄さん、俺は江島や日野たちと昼めしば食って、自主練やっていくけん、ここで」
「ほうね、がんばれや」
新人たちを含めた二十人ほどが省三たちとベンチから回廊へ出ていく。定食を出す売店か正門玄関の外の屋台で簡便なめしを食うのだ。井手のさびしげな背中が目についた。私たち仲良し組(江藤、小川、木俣、高木、一枝、太田、菱川、秀孝)はフェンス沿いにゆっくり一周ランニングしたあと、だれもいなくなったロッカールームへいって運動靴に履き替えた。
「さあ、ホテルへ戻ってシャワーを浴びてから出かけるばい」
園路を歩きながら小川が、
「監督はすばらしい試合だったと言ったけど、控え組はほとんどオシャカだったな。接戦になったのはそのせいだろう」
菱川が、
「むかしもてはやされただけに、現状を突きつけられるのはつらいでしょう。……俺がそうでしたよ」
道を帰っていくのは時間がかかる。遠い〈よかったころ〉を目的に定めるからだ。道は目的を定めず、ひたすら前へ歩きつづけるためにある。その先にはよいことも悪いこともない。戻る道と同じようにひたすら遠い。いき着いた距離だけがある。木俣が、
「ピッチャーは見どころがあるやつはけっこういましたよ」
一枝が、
「当確は、戸板、渋谷、田辺か」
木俣は、
「佐藤もいけるんじゃないかな」
「とにかく今年は投手陣の層が厚くなったね。山中の抜けと小野親分の衰えは埋められると思うよ」
高木が言うと小川が、
「俺の衰えもな」
秀孝が、
「ぼくも今年活躍できるとはかぎらないし、ありがたいですよ」
太田が、
「星野さんはそういうことをいちばん言っちゃいけない人ですよ」
小川が、
「そうそう。俺に合わせちゃだめだよ。天才は似てるなあ。金太郎さんもそのケがあるけど、言いっ放しでキョトンとしてる。何の下心も不安もない。ダメもとの人生って思ってるんだろう。本能でな。ま、周りに気を使って合わせないことだよ。本気でしゃべってるヤカラが恥ずかしくなるだろ」
フロントで部屋の鍵と名古屋から送られてきた段ボール箱を受け取り、406号室に戻る。ユニフォームを脱ぎ、一式ビニール袋に詰める。帽子の縁を洗って蛇口に掛ける。シャワー。全身を隈なく洗う。段ボール箱を開け、新しい下着とジャージを取り出して着る。ビニール袋を提げてロビーに降り、フロントに預ける。
ラウンジで八人と合流。コーヒー。玄関から秀孝と入ってきた太田が、
「見つけてきました。いい焼鳥屋がありました。こないだいった南口の羅生門のすぐそばです。神冨士という焼鳥と串カツをやってる店です」
一枝が、
「まだ二時半だぞ。早すぎるんじゃないの」
秀孝が、
「昼あたりから夜の十一時までやってます。店構えは場末の焼鳥屋という感じですが、中が広いんです。めしも酒もいけます。メニュー以外のものは壁に貼ってなくて、落ち着ける店です。騒ぎ立てないようにお願いしてきました」
足並揃えて濠端を歩いていく。江藤が、
「壁のサインはイライラするけんのう」
菱川が、
「寮のころはよく連れ歩かれて、サインしましたよ。恥ずかしい」
「あれ? 菱川さん、寮を出たんですか」
「おととしのオフにアパートを借りました。寮のすぐそばです。きちんきちんと食える寮めしが狙いで」
「寮って規定があって、追い出されるんでしたよね」
「高卒は四年間義務です。大卒は二年から三年。結婚すれば即退寮できます。活躍が認められると早期に退寮できることもあります。退寮したあとも、寮費一万円を払えば食事も宿泊も自由なんですけどね」
ガードをくぐって南口に出る。江藤が、
「ヒシは寮費支払い免除やったろう。有望選手やったけんな」
「はあ、それで甘えが出ちゃったんですよね。二軍選手は晩めしのあとの夜間練習が義務づけられていたのに、ほとんど出なかったりとか。……給料泥棒でした」
出店で鶏を焼いているいい雰囲気の店だった。いらっしゃいませの声に導かれて店内に入る。すべてテーブル席で、広い。テーブルも大きい。五、六十人は入れる。客は午後の退けどきなので、ポツポツいるだけ。ほとんど串カツにソースをかけて食っている。
「落ち着くのう。ほう、ここは刺身もあるとか」
私は、
「ウォンタナが近いですから」
「何ですか、ウォンタナって」
秀孝が尋くと、太田が、
「海産物商店街。去年神無月さんと歩いた」
定食メニューが五種類貼ってあった。日替定食、串カツ定食、焼き鳥定食、ミンチカツ定食、刺身定食。刺身定食だけは七百円だが、あとはぜんぶ三百円。焼き鳥を食いにきたのだからという理由で定食はやめて、めいめい好みの焼き鳥を決めて注文する。私はおまかせ焼き鳥盛り合わせ十本セットを注文する。江藤は焼き鳥五本セットと、みんなのために刺身の盛り合わせと生ビールを注文した。
「めしはホテルで食えばよか。これはおやつやけん」
小川の前に出てきた小鉢を見て、
「その枇杷の実と紐みたいなものは何ですか」
どこかで見覚えがあった。文江さんと菅野といった鶏鍋屋でなかったか。
「タマヒモ。卵管と排卵前の卵を煮つけたものだよ。ふつうの卵とは食感がぜんぜんちがう。食ってみるか」
「遠慮します」
小川は豪快に笑いながら卵を噛みしめた。木俣が、
「……一軍、一軍半、二軍が交じっての紅白戦は、ちょっと残酷だな。田辺には金太郎さんの恐ろしさを教えちゃったけど。……ほんとに励みになるのかと思うよ」
菱川が、
「彼らもいずれ劣らぬ武勇伝の持ち主ばかりですからね。レギュラーの実力を見せつけられて、いままでの自分は何だったんだろうって、気持ちがペシャンコになるでしょうね」
「そうなるのは一定以上の能力がなかったという証拠でしょう。同情してやる必要はないと思いますよ」
太田の言にみんなうなずいた。江藤が、
「来週はもっとペシャンコにしてやらんば。這い上がってこれん。レギュラークラスゆうんは、キャンプで自分のからだを作っていく。新人や若手ゆうんは、二月一日からマックスでいかなきゃいけん。紅白戦でもアピールせんといけん。振り分けがあるけんな。おまえはもう第二球場いけとか、第二球場から逆に第一球場に呼ばれるとかいろんな入れ替えもある。一軍二軍いったりきたりするような選手ゆうんは、二月一日からプレッシャーがすごかろう。やけん、なかなか結果ば出せんちゃ」
「二軍の夜間練習って、ベテラン選手もやるんですか」
だれにともなく訊くと、太田が、
「三、四年目までですね。それ以上のヌシみたいな連中は、そんなものに出ずに門限まで飲み歩くようになります。その後、たいていクビになってます」
秀孝が、
「中日は他球団と比較しておもしろいことをやっているって、今朝の新聞に出てましたよ。各球団の練習メニューや内容には、ほとんど差がないんだそうです」
一枝が、
「形骸化しつつある現今のプロ野球の春季キャンプに風穴を開ける練習方法だ、と書いてあったな。新人のチーム溶けこみに気を使ってるんだよ。それもプライドをずたずたにするような荒っぽい方法でね。からだを鍛えるだけなら全体を集合させなくたってできるから、全体の意味を考える新旧複合練習ということだな」
私が一枝の顔をじっと見ているので菱川が、
「各球団の練習メニューというのは、たとえば投手は数人単位で投内連係、牽制、ブルペンピッチング、バント練習、打者はフリーバッティング、ティバッティング、ランニングといった練習をひと組につき何分ずつというふうにやるんです。日本の誇る〈全員野球〉というやつです。全体ではすごくたくさん練習してるように見えるけど、選手一人に対する練習量は確保できてない。だから、ドラゴンズは一軍や控えの特守特打と、紅白戦なんかで合同実践練習をやるわけ。あとは適当に流して、自主性にまかせる。キャンプ期間も四週間でなく三週間で切り上げる。さすが優勝チームのやり方ですね」
太田が、
「先輩や有能な同輩から得意技を学んだり、学んだものを磨いたり、実戦によって、この場面ではどんな方法がいいのかという目を養ったりするということですね。それこそ、集団の利点を個人に生かすということになりますね」
私は、
「そう思うな。結局は個人の技能の集合体がプロ野球だから」
「西田や井手や金山や竹内の名前が来週のメンバーになかったな」
小川が言うと、
「二軍落ちばい。則博も土屋もなかったろうが。二軍から上がってこれんのやろう。それより一軍半のほうが心配くさ。きょう好投したピッチャー二、三人と、谷沢、江島、新宅はよかばってんが、日野、千原、省三、伊熊は崖っぷちやろう」
高木が、
「省三はだいじょうぶ。光るものがある」
江藤は相好を崩し、
「信用してよかね?」
「はい、今年相当打率を上げると思う」
二人はビールのジョッキを打ち合わせた。高木の目はきびしい。おためごかしは言わない。一枝がメニューを見て、ホール回りの店員に、
「カッパって何?」
「鎖骨の軟骨です。松葉の形になってる」
「ああ、あれか。それ四人前ちょうだい、塩で。それと心臓、タレで一人前」
四時に店を出て、ウォンタナに回った。アーケード商店街の入口でワッと寄ってこられたので、旗や幟を遠目に引き返した。
二十一
メールに全員集合で会席料理。肉と天ぷら御膳。食いきれるかどうか危ういところのボリューム。まず前菜。長芋にハモ皮梅肉を載せたもの、炙ったタイラガイにキノコと若芽を載せたもの、鯖のゴマ味噌漬け、サンマの柚鮨、卵豆腐。そこまでで腹四分。わいわいがやがや、みんな(キャッスル組の二軍選手の姿はない)何気なく処理している。話し声や笑い声が絶え間なく聞こえる。水原監督やコーチ陣の声も聞こえる。田宮コーチの声が聞こえないのがさびしい。
「二軍の食事と量も味も大ちがいですけど、これ栄養つけすぎですよね」
秀孝が菱川に語りかける。江藤が、
「とにかくプロ野球選手は食わんといけん」
次に主菜。喉通しの水を飲む。基本は食事中飲酒禁止となっているそうだが、何人かビールを流しこんでいる。仲良し組はだれも飲んでいない。ツユに漬けたじゃがいものアラレ饅頭、食いにくいが風味がある。梅が混じっている。小鍋は牛スジと淡路タマネギの煮こみ。肉がほろっと崩れるので食いやすい。天ぷらはエビ、ハモ、ナス、ミョウガ、シシトウ。醤油をかけ、盛ってあった一膳めしのおかずで食う。めしは残した。ここでもう一度水。最後はグリルビーフ三切れ。フライドポテト二切れ。オクラ一本。どうにか食い切れそうだ。揚げニンニクを載せ、添え醤油に漬けて食う。うまい。残しためしをいっしょに食う。食い切った! 前菜をやめて、ビーフと天ぷら食い放題という選択もあるそうだが、どれほど強靭な胃袋を持ったツワモノかと思う。同じテーブルを瞥見すると、食い切っているのは秀孝だけだった。満腹なのに食えるのがデザートの小ケーキ。菱川と太田が運んできたセルフのコーヒーとともにフォークで。
巨漢の松本幸行がやってきてお辞儀をする。
「アドバイスをお願いします。簡単に打たれてまったさかい」
大阪人か。
「バッティングセンターと同じリズムなので、バッターボックスを外さないドラゴンズの選手には効果がなかっただけですよ。ストレートが百三十キロ台の後半になれば、変化球とのコンビネーションで効果が出ると思います。遠投を一年ぐらいつづけることで肩が決まるでしょう。小野さんは二年以上つづけて肩を作りました。他チームは無意味にバッターボックスを外す打者がほぼ全員なので、面喰うんじゃないかな。でも猫だましのようなものだから、小兵の使う業です。大きな松本さんは堂々と正攻法でいくべきです。速球に力がつくまでは仕方ありませんけど」
同じ大阪人の一枝が、
「きょうはやられたな。しかしおまえは球が重いんで、打たせて取れるピッチャーになれるやろう。低目に決まっとればな」
菱川が、
「直球にスピードがないから変化球が生きないな」
一枝が、
「コントロールがええよって、ホームランを狙われるぞ。速球の高低で工夫せんと、長生きできん」
「わかりました。ありがとうございました!」
江藤が、
「訊きにくるだけ見どころがあるばい。三、四年したら出てくるやろうもん」
†
ジャン・クリストフ、曙、二に入る。老人音楽家、ジャン・ミシェルに対する残酷な人物評。自分を天才と信じようとする情熱家。創り上げる作品は偉人の切り貼り。内部に美しく力強い芽を蔵しているのだが、それを成長させ得ない仁。
『多くの貴い自尊心、しかも実生活においては長上に対するほとんど奴隷的な賞賛。独立不羈を欲する高い願望、しかも事実においては、絶対の従順。自由精神を有しているとの自負、しかもあらゆる迷信。勇壮に対する熱愛、実地の勇気、しかも多くの無気力。―中途にして立ち止まる性格だった』
彼は大音楽家になるという自分の大望を小天才の息子メルキオルに託した。息子はたしかに音楽の小天才だった。楽器を使って奏でる音楽的な技巧に何の困難も覚えない男だった。ただ、奏でるときに何も考えていなかった。そして、考えないことを何も気にしなかった。考えないせいで日常の行動も突飛で、その奇人ぶりも天才のゆえとして世にもてはやされた。
『彼はまさしく凡庸な役者と同じ魂を持っていた。凡庸な役者は台詞の意味を気にかけず、ただ台詞回しにばかり注意し、聴衆に及ぼすその効果を得々として細心に見守っているものである』
メルキオルは酒飲みだった。彼を天才に見せている奇人ぶりは酒のせいだった。優越感にまみれた男で、それで鍛練を怠り、後につづく名人たちの後塵を拝することになった。
老人も息子も悪い男ではなかった。〈なんでもない〉男だった。
『かかるなんでもない男こそ、人生においては恐るべきものである。彼らは空中に放置された重たい物体のようにただ下に落ちようとする。どうしても落ちざるを得ない。そして自分といっしょにいる者をみないっしょに引きずって落ちていく』
しばらく私はその一節で停止した。……私はなんでもない男だ。それだけはまちがいない。ただ、いっしょにいる者を引きずって〈落ちて〉いるだろうか。彼らを伴って上昇はしていないが、落ちてはいないはずだ。死に魅惑されるという意味では、自分自身落ちようとしつづけているけれども、彼らを引きずりこもうとするような働きかけはしていない。死という意味でなければ、その種の働きかけをしているかも知れない。社会的な不幸―それは私にとって不可抗力の範囲にある。
コーヒーをいれて飲み、心を平静にした。
ジャン・クリストフはそういう環境の中で生きて、メルキオルがルイザに産ませた二人の子ども(エルンストとルドルフ)の子守をする年齢になった。六歳。楽しい散歩の時間を奪われるのはつらかったが、愛情深く立派に面倒を見た。
家庭が裕福でないと知ること、命令するのではなく命令される側に属していると知ること、他人の不正を知ること、それがクリストフの生涯の最初の危機であった、というような描写にぶつかる。私は奇妙な感覚に陥った。……それが正常な気持ちなのだろうと思い知る感覚だった。私は半生を通じて貧も冨もいっさい感知したことがない。貧乏であることや、人に命令できない階級に属していることにショックを受けたことなどまったくなかった。キャベツの油炒めや、バター醤油のめしや、西松の三畳部屋のスチール机にいることがうれしくて仕方がなかったことを思い出す。ただ、不正には異常な怒り方をした。私は何本か釘の抜け落ちた人間だ。少なくともクリストフのような正常な人間ではない。
級友と教師に不正を働かれたクリストフが、もう学校へいかないと強情を張るあたりから、急に筆致と表現が澄んできて、読みやすい文章になってきた。これで読み通せると安心して本を閉じた。
†
二月九日月曜日。ルーティーン。ふつうの軟便。八時から仲良し組とランニング。筋肉痛がほとんどなくなっている。朝食のあと、休日を返上し、乾いた帽子をかぶり、ユニフォームにズック靴を履いて、グローブとバットとスパイクを手に第二球場へ出かける。
公園内の第一球場を経て森の道をたどる。行き交う人びとに声をかけられる。頭を下げて応える。さっき朝食のテーブルをともにした中が、明石公園は明石大空襲で集中的に爆弾を落とされた、人も大勢死んだし樹もほとんど燃えた、とパンフレット的なことを言っていた。そのパンフレットは私も読んだ。燃え残った樹が芽を吹いて、広葉樹主体の林になった。樹齢七十年の県下最大の落羽松(らくうしょう)が第一球場の玄関近くに生えている。生き延びた針葉樹だ。十四分で第二球場到着。金柵の関係者入口を開けて細道を歩き、三塁側ベンチ裏の通路から入る。ベンチと言っても、板屋根を渡しただけの長椅子だ。外の公道をたどってくれば、正面ゲートから入れたのかもしれない。見たところ、ネット裏にゲートらしきものはなく、壁時計のくっついた小ぶりな小屋が建っているだけだ。長椅子は無人。ズックをスパイクに履き替える。全面土の球場。三十人ほどがグランドでウォーミングアップをしている。バックネット前に塚田、岩本両コーチがいたので、声をかける。振り向いたところへ丁寧に挨拶する。二人は驚き、
「おお、神無月さん、ようこそ」
「六勤一休ですね」
「きょう一日だけです。小心者なのでサボってられないんです。よろしいでしょうか」
「どうぞ、大歓迎です。バッティング練習はしますか」
「はい、ひととおりやらせていただきます。守備練習のバックホームは二本までで」
「有名ですね。肩を非常に大切になさってることは知れわたってます」
たむろしている選手たちの中にいた本多監督に帽子を脱いで一礼し、フェンスぎわへウォーミングアップにいく。徳武、井上、山中らの顔にも出会い、一人ひとりと挨拶を交わす。井上が、
「ゆっくり遊んでいけ」
と声を投げる。初対面の選手たちは呆気にとられ、オス、ウス、と呟くだけでほとんど声をかけてこない。外野から直立バックネットを眺める。バックスクリーンやスコアボードはない。客席は一塁側、三塁側に階段状のものがわずかにあるだけ。それでも数十人は収容できるかもしれない。見物客は一人もいない。左翼八十三メートル、右翼七十三メートル、中堅九十七メートル、フェンスの向こうは森。三種の神器から始める。二軍選手たちのウォーミングアップと横跳びジョギングが終わり、キャッチボールに入った。混ぜてもらう。土屋と則博がいたので、声をかけ、彼らとやる。しばらく二十メートルで。
「ひさしぶり。第一にはこないの?」
則博が、
「バッティングピッチャーでいきます。このキャンプは第二球場でスタミナアップを命じられたんですよ」
土屋が、
「至上命令です。交流戦のベンチには入れてもらえるそうです」
三十メートルに延ばす。堀込基明や竹田和史(まさふみ)や北門富士雄の顔も見える。残留したと思っていた松本忍や外山博の顔はない。寒々しい気分になる。伊熊、西田、竹内、坪井らきのうのメンバーの何人かがこっちに回っている。残りは知らない顔ばかりだ。総勢二十五人はいる。
昼めし前の守備練習。ノッカーは本多監督。意外と長身で、ノックバットは長く持つ。外野から始まる。堀込といっしょにやることになった。ライトからゴロを打っていく。井手、西田、伊熊たちのセカンド返球。
「様子見で、もう一年飼ってもらえたよ」
「はあ……」
愛想のいい猿顔。三十歳。南海時代の昭和四十年に一度ベストナインを獲っている。ホームラン十本前後、二割七、八分を打っていた選手だ。それが二割二、三分しか打てなくなり、おととし移籍してきてからはすっかり衰えた。
「中さんの穴埋めみたいなものだったからさ。ほんとは去年で用済みだったんだよ」
応えようがない。レフトゴロが転がってくる。堀込がセカンドへ返球する。山なりのワンバウンド。私のセカンド返球。一直線のフロート。ふつうに手首を叩き下ろせば、力を入れなくてもそうなる。
「その肩、反則だな」
「コツコツ鍛えて大事にしてますから」
「あんたを見てると、野球に対する未練なんかなくなるよ。きょう一日でそういう気持ちになるやつは多いと思うぜ」
それならそのほうがいい。フライが飛んでくる。同じフロートで二塁と三塁へ返球。ベンチから拍手が上がりはじめる。本多監督がうれしそうだ。
「バックホーム!」
ライトから一人二本ずつ。アマよりははるかに強いワンバウンドの送球だが、私の目にはトロン、トロンとした球筋に見える。その返球の中に私のノーバウンドのフロートが雑じる。球場内が静まる。と言っても、もともと観客はいないので、選手たちの拍手が静まったことになる。
「おみごとー! 次、内野ノック!」
徳武にノッカーが代わった。長椅子に走り戻る。外野手五人と肩を並べて徳武のノックを見つめていたが、気詰まりなので外野へいって素振りをする。何人か寄ってきて見学する。きのうの代打メンバーもいる。
「はえー!」
「打ち下ろしてからレベルへもってく瞬間が見えないよ」
「手首どうなってんの」
「手首じゃない。腰だよ、腰の回転」
勝手な感想を聞き捨て、私はポール間ジョギングに移る。
三十分もかけた内野ノックが終わり、休憩! の声が上がる。選手たちにくっついてネット裏へ出る。小屋のような建物の中に広めの食堂があった。監督とコーチ連中が離れたテーブルに座る。私は則博たちと座った。私は監督のテーブルへいって、
「きょうは練習させていただき、ありがとうございます」
「来週もくるの?」
「来週は用事がありますんで、きょうだけです」
井上が、
「カンフル剤の上をいってるから、驚かすには一日でじゅうぶんだよ」
徳武が、
「驚くだけじゃなく、天馬の活躍の根幹に弛(たゆ)まぬ努力があると知るのは重要ですよ」
「午後のフリーも二十本ほど参加させていただきます」
「何本ロストボールしてもいいよ。伊熊で捜し慣れてるから。あいつ、こっちの球場ではパカスカ打つのにな」
「なるべく球場内に打ちます」
本多監督が、
「好きなように打って。ただ、森の向こうは一般道だ。百四十メートル飛ばさないでくれれば助かる」
「軽くスイングしますからだいじょうぶです。じゃ」
カレーライスと野菜サラダを注文し、品出しカウンターで受け取る。則博たちはすでにチャーシュー麺をすすっている。
「フリーのピッチャーはだれ?」
「竹田と北角です。神無月さんになったら土屋が十球、俺が十球投げます」
カレーを最後の一掬いまで食い終え、野菜サラダのレタスだけを噛みしめながら洗い場口に盆を戻すと、二人といっしょにグランドへ出た。
ケージの後方に立ってフリーバッティングを見つめる。小柄な北角が投げている。クイックモーション、スリークォーターからのストレートがなかなか速い。則博が、
「東邦高校出身です。昭和四十年の夏の甲子園で、選手宣誓をしてます。ドラフト外で中日に入って、新人で六勝してます。翌年肩を痛めてゼロ勝、その翌年三勝。去年から二軍暮らしです。スタミナ不足だと言われて、なかなか一軍に上がれません」
選手宣誓は菱川と同じだ。長丸のボーッとした顔。覇気がない。堀込や伊熊にスコンスコン打たれる。村上真二や私の同期の三好真一にも強い打球を打たれる。打ちやすいから打ってるだけのことだろうが、工夫なくただ打ってる感じだ。北角はもちろん、彼らも一軍には上がってこれない。伊熊は七十三メートルしかないフェンスばかり見ている。そこを二十メートル越えなければ一般球場のホームランにならないということを忘れている。八十メートルほどの高いフライを打ち上げて悦に入っている。