四十九

 四日、日曜日。北村席の生活がふだんのペースに戻った。直人の今年の初登園はあしたからというので、トモヨさんは園児服の名札付けにいそしんでいる。幣原はカンナを背負ってジャッキの散歩に出た。
 中日新聞の落合から電話あり。二月の八日で連載の終わる五百野を三月初旬に出版する予定とのこと。キャンプ地に二度ほどゲラ刷りを送るので見てほしいと言われた。
「わかりました」
「神無月先生の朱(アカ)の入った最終ゲラは今月末に刷り上ります。三月の十日までに店頭に並びます。傑作の評判の高い小説なので、初版は一万部刷ることにいたしました。ミリオンセラーになるかもわかりません。定価は八百五十円、印税率は上限の十パーセントと決まりました」
「はあ、よくわかりませんが、よろしくお願いいたします」
「第二十二回の野間文芸賞の最有力候補に上がることが予想されています。受賞者には二百万円が送られることになっています」
「お断りします」
「野間文芸賞は芥川賞とちがい文芸誌掲載作品の限定条件はなく、単行本も対象となる純文学の新人に与えられる賞です。直木賞を辞退した山本周五郎氏も『青べか物語』で授賞しています」
「それでもお断りします」
「お気持ち、よくわかりました。東海文学振興会主催の新美南吉文学賞に推挙しておきます。中日新聞が提唱しておととし立ち上げた賞です。確実に授賞なさると思います。そのときは受けていただけますか?」
「はい、喜んで」
 座敷の連中に伝えると、喝采が起こった。主人が、
「みんな、二、三冊買えや」
「はーい!」
 カズちゃんに促され、きのう青森から帰った三人と客部屋に集まり、姫始め。三人の反応が激しくなっていることに驚く。最後に睦子をしっかり抱き締めて射精した。
         †
 五日、月曜日。菅野とランニングのあと、直人の初登園を見届ける。母子で元気に手を振って出かけた。則武に回り、素振り、ジムトレ。普通葉書で年賀状の返しを書く。三通のみ。カズちゃんが教えてくれたとおり、寒中見舞いとする。
 カズちゃんの書棚に遇ったディケンズの『二都物語』全三巻を読み出そうとするが、難解すぎて第一巻の第一章で挫けそうになる。どの時代もプラスとマイナスの要素でできている、現代も同じだと言うために数行を費やす。―善かれ悪しかれ最大級の比較法でのみ解されるべき時代―と難解な言い回しで表現するのだ。サウスコット夫人、コックレーンの幽霊、昨年の精霊、楯と三叉戦との姉妹国……まったくわからない。雑読することに決める。一七七五年、フランス革命直前の世の乱れ、第一章はそれで要約することができるだろう。キャンプに出発するまでこれ一巻で足りる。
 昼にハムサンドを届けにきたカズちゃんに、この小説が冤罪と復讐を柱にした〈スッキリしない勧善懲悪〉の小説だと教えられる。
「二都ってロンドンとパリのこと。モンテクリスト伯ほどわくわくしないけど、読み通せばそれなりの感動はあるわ」
 時間がかかっても全巻読み通すことに決めた。
         †
 夜、最終版のテレビニュースで、ヤクルトアトムズへの入団を拒否していた早稲田大学の荒川尭(たかし)が、夜道で暴漢に襲われて二週間の傷を負ったと報じられた。犬の散歩をさせながら自宅近くを歩いていたところを二人組の男に棍棒のようなもので後頭部を殴られ、左手の指と右目も負傷したという。巨人かヤクルト以外のチームにはいかないと公言していた荒川は、ドラフトで強行指名した大洋に入団することを拒否し、交渉も拒んでいた。そのことが熱狂的な大洋ファンを刺激したと言う。
 巨人は彼の義父荒川博が去年まで在籍した球団であり、ヤクルトは大学野球の聖地神宮球場をフランチャイズにする球団であると補足的な解説をしていた。しかし、そんなくだらない理由で一年間野球をやらないと言い張る心理とはどういうものだろう。ドラフトを通さずに自由交渉で希望のチームに電撃入団できた私が幸運だったのだろうか。そうは思えない。大学を中退しなければ叶わない結果だったし、しかも、手順を踏みながら薄氷を踏む思いで成し遂げた入団だった。荒川と同様、ドラゴンズへの拘りはあったが、もしドラゴンズに入団できなかったら、どこのチームに入ってでも野球をやる覚悟が心の底にあった。彼はちがう。他チームをはっきりと拒否したのだ。拒否するだけでどんな努力も覚悟もしなかった。
         †
 一月六日火曜日。曇。則武に迎えにきた菅野と九時からランニングをしたあと、北村席にいってブレザーに着替え、ユニフォームとグローブとスパイクをダッフルに詰める。セドリックで中日球場へ送ってもらう。ソテツ弁当は断った。
「二時間ぐらいで帰るから」
 ロッカールームでユニフォームに着替えてグランドに出る。二カ月ぶりに目にする土と枯れ芝が美しい。十一時。気温二・七度。風があるせいで寒い。きょうから新人たちに雑じってトレーニングに参加する。気持ちを引き締める。
 すでに、江藤、木俣、菱川、太田、秀孝たちがフェンスぎわで柔軟をしていた。私を入れて六人か。帽子を掲げながら寄っていく。
「おはようございます!」
「オス!」
「こんにちは!」
「毎日はこられんばってん、何日か付き合うけん」
「はい、ありがとうございます」
 カメラマンが何人かパラパラいる。グランドの中ほどに散って柔軟をしている新人たちは、一人、二人、三人……七人いる。太田の話では、四人がピッチャーで、戸板光、渡辺司、松本幸行(ゆきつら)、渋谷幸春、野手は一人が外野手の谷沢健一、一人が内野手の西田暢(とおる)、もう一人が金山仙吉というキャッチャーだということだった。
「この三日間いっしょに寮めしを食いましたから、性格もつかんでます。みんなまじめですが、明るいのは谷沢ですね」
 新人の集団が寄ってきた。七人の自己紹介に頭を下げるだけで応える。握手を求めてきた戸板の手を握り返した。ひさしぶりに戸板の眦(まなじり)の切れた涼しい目と再会し、あらためて好感を抱いた。江藤が渡辺に、
「今年の新人て、こんだけね?」
「はい、七人です。末永く、よろしくお願いします」
「末永く、てか……。あすをも知れんプロ野球選手がそぎゃんこつば言うんは勇気が要るばい」
 チクリと言う。戸板が、
「一年でも長くやりたいです」
 私は一歳年上の戸板に、
「こちらこそよろしく。ぼくも一年でも長くやりたいと思ってます。たぶん戸板さんは一年目から出てくるので、あなたが投げるときは丁寧に打つようにします」
「ありがとうございます。……あの、呼び捨てにしてください」
 金山は中商出身で木俣の後輩だが、声をかけてもらえなかった。谷沢が、
「神宮で神無月さんと対戦したときのことを忘れられません。この一年ずっとお会いしたかったので、いまこうしてお会いできてとんでもなく緊張してます。思ったとおり、すごいオーラですね。精いっぱい打撃技術を学ばせていただきます」
 ペラペラしゃべる。法令線の深い谷沢のニヤつき顔は好きになれなかった。彼は太田幸司、荒川尭と並んでドラフトのビッグ3と呼ばれている。江藤が、
「学べんたい。学ぶなら練習姿勢やな」
 菱川が、
「怠けたら神無月さんにソッポを向かれるよ」
 太田が、
「とにかく早く一軍にきて、実戦を見て驚くことですね。ベンチをあっためてもクサラないでがんばること、その二つです」
 秀孝はひとことも口を利かなかった。私は谷沢に、
「荒川という選手は谷沢さんの同輩ですよね。きのうの事件、どう思いました」
「……ぼくも呼び捨てにしてください。身が縮みます。……荒川とぼくは早稲田のON砲と呼ばれてもてはやされましたが、実力は彼のほうが断然上です」
 江藤が、
「二人で十九本、十八本打ったっち。すごかのう」
「八シーズンで神無月さんの一シーズンの何分の一かでしょう。で、事件を同思うかということですが……実際にはそれほど親しい関係じゃなかったので、ああいうことが起きてもよくわからないというのが正直なところです。彼が荒川家に養子に入ったということぐらいは知ってるんですが。……なぜ大洋を拒否したのかもわかりません。ぼくよりはるかに素質のある男なので、どこにいっても頭角を現していたはずですから、球団を選ぶ必要なんかなかったんじゃないかなあ。もちろん巨人にいったとしても、いずれは中軸を打てたでしょう。ただ、一年目から使ってもらえたかどうか。養父の荒川さんは去年巨人を退団してますし、神宮で十九本打った強打者とは言え、神無月さんとはまったくレベルがちがいますからね。やっぱり大洋にいくべきだったと思いますよ」
 木俣が、
「荒川って、アメリカに武者修行にいっちゃうそうだな。日本のプロで実戦を経験してからでないと、むだな一年になるぜ」
 それだけ話したあとは、江藤たちと目立たないように塀沿いのあたりをうろうろしてすごした。柔軟体操やキャッチボールは彼らとした。まだ投げこみの時期ではないので、木俣はだれの相手もしなかった。ただ江藤や菱川や太田とちがって、進んで新人たちといっしょにダッシュをやっていた。太田と菱川はポールのあたりでひたすら素振りをしていた。私はダッシュに数本加わったが、新人の野手たち三人のトスバッティングには加わらなかった。
 秀孝はダッシュもやらず、自分のペースでひたすらジョギングだけしていた。私が倒立腕立てをやっていると寄ってきて、私に並んでフェンスに向かって逆立ちした。スイスイと五回ほどやり、芝の上にあぐらをかいた。私も並んであぐらをかいた。
「谷沢以上に、ぼくが神無月さんに会いたかったですよ。戸板はむかしの知り合いだから親しく口を利いてもうなずけますが、谷沢は図々しい。こんなところに神無月さんが顔を出すこと自体ラッキーなんだから、血圧上がって鼻血出すのがふつうでしょう」
 プリプリしている。私は笑いながら、
「どう? 新人ピッチャーたちを見て」
「キャッチボールを初めて見ただけですから何とも言えませんが、ボールの回転は渋谷がいいですね。トスバッティングは、さすが谷沢ってところです。シャクだけど」
 きょうの練習を嗅ぎつけてやってきたファンがスタンドにパラパラいて、隙あらば選手に声をかけようとするので、極力目を合わせないようにした。弁当屋から届いた中食(じき)は使わなかった。江藤が新人たちに、
「寮長の配慮やな。おまえら二人前食っとけ」
 木俣が、
「あしたから俺たちの分はけっこうですと伝えといて」
 二時間でトレーニングを切り上げた。ロッカールームで着替え、グランドの新人たちに手を振って球場を出る。正門ゲート前でファンに取り囲まれ、全員でサインする。数十人を処理し、みんなで露橋公園に向かって歩き出す。
「毎年このじきは何もしとらんかったけん、走るだけでもよかろうもん。毎日は出ん。出てもつまらんけんな。そのうち二軍連中が混じってガヤガヤやるやろう。ワシらは室内練習場で打ちこんだほうがマシばい」
 木俣がうなずく。十九日まで二週間を予定したトレーニングだったが、みんな江藤に同意して、二日置きか三日置きに四日間だけ参加することにした。いつ参加するかは太田が連絡することとし、最終日は十九日と決めた。
 江藤と菱川と太田と秀孝は、ガードをくぐった通りで拾ったタクシー二台で寮へ帰り、私と木俣は中日球場前まで歩いて名鉄で帰った。名古屋駅の国鉄のホームで木俣に手を振ったあと、新幹線のガード下できしめんを食って帰った。
         †
 一月の半ばまでに、日に夜を継いで、あらかた姫始めをすませた。性的な興奮は覚えなかったけれども、行為そのものは苦でなく、義務感もなかった。ただ、常習的に女の肌に触れることで、自分が性具の用途しかないロボットになったような悲しみを感じたし、女の内部に機械的に吐き出すたびに、バッティングの鍛練の果てにある滑らかなフォロースルーとは大ちがいの失望に浸された。
 オーソドックスに肉体を交える女たちの中には、松の内を過ぎて船方に訪ねた安子も含まれていた。予想したとおり興奮らしい興奮は覚えず、ロボットの悲しみを感じた。たぶんそれは、ロボットとはちがう人間らしい動きと感覚で行為が果たせれば慰められる思いだったろう。しかし、その成果を得られる相手は数人にかぎられていた。
 さらにしかし、カズちゃんを契機にして数人の女に愛される幸運を与えられるまで人から愛される価値はないと思っていた私が、その数人ばかりでなくほかの多くの女たちに愛される過剰な僥倖に驚愕することで大きく変わっていった。これほど多くの女たちに愛されるなら、これまで思ってきた以上の価値が自分にあると信じられるようになった。それは生き延びるための〈信仰〉にまで昇華した。信仰を贈られたことに心から感謝した。私はカズちゃんから始まる女たちすべてから与えられた信仰によって、人生まるごと救ってもらったのだった。彼女たちに恩返しをするためにも、私は生涯懸けてすべての女を愛し抜くと誓わなければならない。
 加藤雅江はいっこうに姿を現わさなかった。だれの話題に出ることもなかった。私も訪ねていかなかった。こうした誓いからすれば、彼女に対する私の尻ごみは矛盾しているだろう。父親の誠実な顔がひどく気にかかりもしたが、私は船方の帰りにも訪ねず、そのまま放っておいた。なぜだろう? とにかく彼女と対面し、からだを重ねると、ロボットの悲しみどころではなく、えも言えない罪悪感が首をもたげてくる。社会に恥じずに生きている雅江のたたずまいのせいではなく、社会に恥ずべき異端すら認める彼女の純朴な人間信頼が厄介この上ない罪悪感のもとになるのだ。彼女も千佳子も、イネもソテツも、大信田奈緒も三上ルリ子も、どこか、異端を正統と考えようとする〈無理〉をしていると感じるのだ。だからそうさせている自分に底なしの罪悪感を感じるのだ。少数の女たちは私の社会的な劣等感をやさしく諫めながらも、それが私に確実にあることを知っている。加藤雅江や木谷千佳子たちは知らない。


         五十

 十七日土曜日の夕方に、法子が北村席に顔を出した。直人が嬌声を上げた。睦子と千佳子が手を引いて框に上げる。法子はみんなに笑いかけ、次々と握手する。息を呑むほど妖艶になっている。化粧っ気が見えないのが恐ろしい。素子や千鶴たちは歓声を上げて彼女の美しさを褒めちぎった。ソテツが頬を触りにきた。
「やっぱり塗ってませんね」
 イネが、
「なしてこたらにきれいだんだべ」
「私、ニキビ症だから毛穴が詰まっちゃうの。化粧をやめたら治ったのよ」
 法子は座敷の長テーブルにつき、
「とうとう古巣に戻ってきました。神無月くんのそばに」
 主人が、
「ほう、こりゃ乙姫や。うちのきれいどころも真っ青やな」
「褒めすぎです」
 と言って主人の肩を叩く。素子が、
「酔族館、でき上がったん?」
「はい、師走の二十日に完成しました。ひと月かけた店内装もほとんど終わりました。これからは細かい開店準備をしながら、もう半月ぐらいかけてメンバーさんを集めるつもりです。二月の中旬に開店する予定。いちおう二月十日前後を予定してます」
 カズちゃんが、
「水原監督には連絡した?」
「はい。開店の日にちが決まったら教えてくださいって。前日に〈水原茂・中日ドラゴンズ一同〉の花輪を贈ってくださるそうです」
「よかったわねえ!」
「はい。和子さんのお父さんがボーイ長を紹介してくれましたし」
「松葉の能勢さんや。牧原さんのお墨つきの男で、寺田さんの下を務めとる男です。一年じゅう長袖のワイシャツでいいならとゆう話やった」
「刺青を隠すためでしょうから、もちろんそれでけっこうです。能勢さんに従業員の二割増しのお給料をお出しするだけで、みかじめもロハにしてくれるそうです」
 その夜の北村席の食卓も宴になった。ものを食べる法子の顔もカズちゃんやトモヨさんや睦子に劣らず美しかった。直人は彼女の膝を離れず、手を差し上げてあごを触ったりしていた。
「法子さんは十カ月、私たちは丸一年。おたがい長かったわね」
「愛してるから何ともありませんでした」
「その言葉を言うには覚悟が要るのよ」
「小学校からずっと覚悟してます」
「私と同じじゃないの」
「和子さんは二十五歳からでしょう」
「同じ十年よ。キョウちゃんが十歳のときだから」
 二人で高らかに笑い合う。直人が法子の膝でコックリを始めて、宴のお開きが近づく。ツンボ桟敷に置かれていた部屋住みの女たちや賄いたちが少しずつ引き揚げていく。残った者でコーヒーになる。私は、
「ホステス集めがたいへんだね」
 女将が、
「すぐ集まるわいな。いつの時代もホステスは買い手市場やから。しっかりした責任者を決めるのが難しいかもしれんけど」
 法子は、
「そうですね。一日二日じゃ人柄を見抜けないし」
「荻窪からだれも連れてこないことにしたって?」
「そう。ミドリさんやミハルちゃんがいいなって思ったんだけど、当座のお店の繁盛が予想できないからきちんとしたお給料が保証できないし、これまで働き慣れてる店から無理に引き剥がすのもなんだと思って」
 メイ子が、
「私、二、三カ月、責任者的な立場でお手伝いしましょうか? 軌道に乗るまで。ホステスさんを選ぶ目もこの一年で鍛えられたと思いますし、力になれると思います」
 目の凛々しい顔を見て法子が、
「ほんとですか! そうしていただければほんとに助かります。二月からさっそくきていただけますか」
「ホステスさんの募集がかかったときからまいります。再来週あたりからでしょう」
「はい。そろそろ新聞広告を出して、一月末の二十九日あたりから面接にかかろうと思ってます」
「じゃ、二十九日のお昼にまいります。二月の七日くらいまではお昼出勤でいいですね」
「はい、それから仕事の内容やお店の規律などを覚えてもらうために、実際の営業時間に合わせて、二、三日実践訓練をしたり、ミーティングをしたりすると思います」
 カズちゃんが、
「メイ子ちゃんの出番が多くなるわね」
「お店の二階にメイ子さんのお部屋を用意します。三室あって、とてもきれいですよ」
「いえ、ここから出勤します。名鉄で二駅、あとばバスですぐでしょう? 昼や夕方の出勤に間に合いますし、帰りも名鉄で」
「営業が始まったら閉店が十一時くらいになるので、ミーティングを入れると十二時近くになります。タクシー代を千円お出しすることになってます」
「そうですか、四月の十日までということで、よろしくお願いします。そのあいだ、素ちゃん、レジをよろしくね」
「まかしといて」
 カズちゃんはニコニコうなずいていた。
 法子は則武で一泊した。カズちゃんに促されてメイ子と百江も部屋に退がったあと、法子と二階の机部屋で姫始めをした。秘密めかない明るい交歓に、そこはかとない幸福を感じた。
 法子は寝物語に内田橋の酔族館の話をしていたが、彼女の大きな胸で夢路につきかかっていた私の耳には薄ボンヤリとしか入ってこなかった。資本を得て店を持つ人びと、彼らに仕える者、その両者に扶養される者。この世には使用人と被使用人と寄生虫しかいないと、やはり薄ボンヤリと感じた。
         †
 一月十八日日曜日。七時五十分起床。降りていくとカズちゃんたちが朝めしの用意をしている最中だった。
「法子は?」
 朝食もとらずにコーヒーだけ飲んで帰ったと言う。午前中にボーイ長の能勢を松葉会に訪ねることになっているし、でき上がった酔族館の建物を少しでも早く見たいからということだった。排便、シャワー。めしは食わずコーヒーを飲みながら菅野がやってくるのを待つ。
「メイ子ちゃん、思い切ったわねえ」
「四月の開幕前までと思って。ふた月半ですね。精いっぱい法子さんの力になるつもりです。神無月さんを東京まで追いかけていった心意気はお嬢さんや素子さんと同じです。信頼できる人です」
 百江が、
「則武のことは心配しないでね」
「たいへんでしょうけど、お願いします」
「私もいるんだから何の心配もないわ。お掃除と洗濯だけでしょ。二十九日までまだ十日あるわよ。さ、日曜日なんだからゆっくりしましょう」
 三人掃除洗濯にかかった。新聞を開く。約三百年前一六五七年の一月十八日に起きた明暦の大火のことが載っている。俗説の振袖火事には興味が湧かなかったが、世界三大大火というところに目が留まった。燃えた範囲の広さでは紀元六四年のネロ時代のローマ大火、一六六六年のロンドン大火と並ぶという。死者数が曖昧なことや、戦災、天災を除くというところに不満を感じた。
 菅野と太閤通を大鳥居までランニング。あまり飛ばさないで走る。車体の横腹にアサヒグラフとプリントしたバンが笈瀬川筋からずっと貼りついている。
「どうしたんだろう」
「オフの特集記事でも組むんでしょう。きのうファインホースに撮影許可を求める電話がありました。朝日は一度受けてるので、お受けしました。青森高校、中商、千年小学校にもいったそうです」
 三、四十ページの週刊グラフ誌だ。ふと蒲原や浅井慎平のことを思い出した。彼らは東京高輪の授賞会場にもいったのだろうか。浅井は会場へいくと言っていたが、見かけた覚えはない。いや、見かけたかもしれないがまったく忘れてしまった。蒲原はいなかったようだ。入場を許可されなかったのかもしれない。西に東に話題の人物を追いかけるのはたいへんな仕事だ。同情するわけではないけれども、写真くらいもったいぶらずに撮らせればいい。
「手を振りましょう」
 二人でバンの窓に向かって手を振った。カメラマンたちにそれに応える余裕はないようだった。菅野に、
「今朝めし食ってないんですよ」
「私もです」
 信号を渡って大鳥居にタッチ。もう一度信号を渡って、アサヒグラフがUターンしてくるのを待つ。ふたたび走り出す。私たちと併走するバンを後続車が追い抜いていく。美しい市電と何度も行き交う。撮ってほしい構図だ。雑誌が発行されたらいつまでもとっておこう。菅野に大声で、
「カツ丼ですね」
「カツ丼です。エビス屋へいきましょう」
 聞き覚えのない名前を言う。むかし節子母子のもとにかよった辻にくる。素子も立っていた辻だ。大門の電停の線路を渡り、黒看板に金文字の蕎麦屋の前に立つ。恵比寿屋・本店。生蕎麦という崩し字が〈生〉しか読めない。
「昭和二十年創業の店です。本店となってますが支店はありません。名古屋は店一軒でも本店と書くことが多いんです。店構えが立派すぎるので入ったことはありませんが、カツ丼が絶品だと聞いてます」
 バンも注意深く右折して狭い駐車場に入る。男二人、カメラとデンスケを担いで小走りにやってくる。写真雑誌にデンスケは要らないだろう。
「あせらなくていいですよ。逃げませんから」
 使いこんだ暖簾をくぐりガラスの格子戸をガラガラと開けて入ると、右に大きめのテーブル席三つ、左に小上がり席三つの広い店だ。手書きの壁貼りメニュー。まだ十時半なのにかなり混雑している。銚子を傾けている人もいる。むかし若かった男女が溜まっている雰囲気だ。日曜日なので中高生もチラホラ。
 ―ああいいな、こんな人生。
 店内が大騒ぎになった。
「神無月だがや!」
「神無月選手よ!」
「きれい!」
「ジャージ着とる。走っとったんか」
「ええオトコやなあ」
 いい人生が壊れる。記者のシャッター音が連続する。夫婦とおぼしい店員がいそいそと出てくる。
「いらっしゃいませ、神無月選手。そちらはファインホースの菅野さんですね」
 菅野は愛想よく、ハアと笑い、カツ丼とミニうどんのセットを注文する。四百五十円。
「カツ丼にミニころ一つでーす!」
「ころ?」
「香る露です。ダシの香りがいいという意味です。ときどき店の前を走っていくお二人のお姿を見かけておりました。光のバリアーがあって声をかけられませんでした」
「私も?」
 菅野は自分の鼻を指差した。
「はい、いろいろな雑誌の写真でお見かけしてます」
「よ、菅野マネージャー」
 客から声がかかる。


         五十一

 小上がりの小卓に向かい合って腰を下ろす。アサヒグラフのマイクが伸びてくる。
「きょうは取材をご承諾くださってありがとうございます。ここは、よくくるお店なんですか?」
「初めてです」
「好物はカツ丼ですか」
「はい、カツ丼と麺類です」
「こんなふうにランニングの途中でよく食事をなさるんですか」
「初めてです。気まぐれに喫茶店に入ることはあります」
「ランニングは何キロほど?」
「二キロから四キロ、ときには十キロ走ることもあります。朝の散歩と考えてますから距離は自由に決めます」
「ランニングのあとは?」
「素振り、筋トレなどです」
 菅野が、
「写真だけの約束でしょう。インタビューは遠慮してくださいよ」
「すみません。写真の添え書きがほしかったもので。じゃ、最後にひとつだけ。プロ野球選手の技術や体力はむかしより向上しているとよく言われますが、どう思いますか」
「そう思いません。いつの時代も個人です。トレーニングの種類や方法が向上しても、その成果を決定するのは個人です。小学校で野球をやり、中学校で、高校で野球をやる。大学や企業で野球をやる人もいるでしょう。そこまではみんないっしょです。ただ野球をやってきたという同じ条件です。人間の集まりですから、平均値以上の才能を持った人たちは当然いる。彼らが誘われてプロへいく。万古変わらないシステムです。野球選手全体の技術の向上などあり得ない。どの時代にも、ベーブ・ルースやミッキー・マントルや中西太やON、ボブ・フェラーや尾崎行雄や金田正一や江夏豊や星野秀孝のような突出した人がいただけの話です。突出した人びとと彼らに近接した実力の持ち主たちがプロ野球の長い歴史を彩っているんです。向上も退歩もありません。彼らの技術や体力は、むかしの野球選手のそれとほとんど同じです。ほかのプロ野球選手はアマチュアより才能の絶対値が大きいというだけのことで、やはりむかしの野球選手と技術や体力の差はありません」
 カツ丼とミニうどんが出てくる。
「ありがとうございました。それでは私どもはこれで引き揚げます。今回の写真とインタビューは二十八日の再来週号に掲載いたします。もちろん表紙は神無月選手です」
 戸口に向かって遠ざかっていくカメラマンのシャッターが、私たちと店内を捉えて何度か鳴る。二つの頭が辞儀をし、戸を引いて外へ出ていった。
「さ、食いましょう」
 カツ丼はカツの上に甘辛く味つけした卵が載り、濃すぎない絶妙な量のツユがかかっている。煮ていない薄切りのカツが香ばしくてうまい。白米もうまい。アヤメのカツ丼と甲乙つけがたい。ミニうどんもしっかり醤油が効いていて、ホウレンソウ、ネギ、カマボコといった定番の具がうれしい。麺の舌触りもよかった。ソバもきしめんもあるこの店で年越しソバを食えばよかったとふと思った。
「次回はきしめんを食いましょう」
「了解」
 レジでサインを求められ、快く書いた。何人かの客と握手した。
 北村席の昼めしのあと(カツ丼を入れたばかりの菅野と私は遠慮した)、直人のパズルを横目に見ながら、座敷で一家で歓談。今月の七日に死んだエノケンのことが話題になる。八年前に彼が片脚を切断した話が必然的に出る。
「事故か何かで手足の動脈にできた傷と、歯槽膿漏のばい菌のせいでその傷が悪化することが原因だって言われてるけど、発症したあとは煙草が拍車をかけるらしいわ。足や手の壊疽になる人の百パーセントが歯槽膿漏ですって」
「煙草は吸わないから、手足の事故を避けて、歯をきちんと磨いていれば防げるね」
「それは基本だけど、ときどき歯垢も取ってもらわないと。私は大学のころから半年にいっぺん歯医者さんにいってるわ。もう十五年。キョウちゃんもキャンプ前にいっておきなさい。永久歯になってから虫歯がないようなので、歯垢が溜まりにくい体質だとは思うけど、いちおうね。竹橋町の信号の角にある水野歯科」
「いまからいってくるよ」
「日曜日と月曜日はやってないの。火曜から金曜までの予約をとっといてあげる。毎日午後二時。四日かよえば、上下の歯垢取りが終わるわ。十五分ぐらいずつ。再来診になると三十分もしないで上下終わっちゃう」
「二十日から二十三日か。余裕だね」
 百江が、
「私も去年、明石にいく前に水野さんで小さな虫歯を治してもらって、歯垢も取っていただきました」
 睦子が、
「私たちもいきましょうよ。歯垢は口臭のもとだから、郷さんに嫌われちゃう」
 みんなで、私もいく、私もいくになる。ソテツまでやってきて、火曜から順繰り予約をとることになった。
 一人則武に戻り、二都物語のつづきを読む。雑読でも本筋はわかる。裏切りがあり、冤罪があり、悲恋がある。しかし、登場人物のすべてが、上昇下降に関係なく、悲喜哀楽に関係なく、善悪に関係なく、だれも建設的な考えの持ち主だと心に沁みてくるのだ。これが芸術作品というものなのか。
 私は―最悪の遺伝子を持っている。どうせ失敗に終わる……そう考える遺伝子だ。自分では見当もつかないが、どこか歪んで育ったらしく、ふつうの人のように幸せを楽しめない。自分にきびしい見方というのではない。何かいいことが起きると、それが終わることを考える。唯一つづいている幸福は、カズちゃんだ。それも、彼女が別の生き方に関心持つまでだと思っている。どうかしている。どこか異常だ。この遺伝子を変えたいが、難しい。とにかく結果を恐れるあまりカズちゃんたちを遠ざけるということをしないことだ。彼女たちと親密でありつづけることだ。予測不能な人生にためらっている時間はない。そうしてみよう。それでどうなろうと、ほんとうに、心の底から満足なのだから。
 読み挿して、夕方まで二時間ほど仮眠。起きてジムトレ、庭に出て三種の神器、素振り百二十本。イヤな予感がしたので、バーベルと倒立腕立ては回避。いや、しばらくやらないことにする。北村席へ出かけていく。ふだんと同じ人びとと親しむ時間に浸るために。
         †
 一月二十日火曜日。晴。カズちゃんに国民健康保険を持たされ、水野歯科へ出かけていく。午後一番目の診療なので、すぐに診察室の椅子に座らされる。
「院長の水野です」
 と名乗る眼鏡をかけた中年の男に平身低頭され、ホームランのことや優勝のこと、〈北村席のお嬢さん〉のことなど、しきりに愛想よく語りかけられる。
「四日間で完全にきれいにいたしますからね。ああ、よく磨かれてます。きれいな歯ですね。それでも歯垢はかならずあるんですよ」
 椅子が倒れる。
「ちょっと虫歯が見つからないか調べますね」
 歯のつけ根をチクチク押さえながら、傍らの若い助手に何やら番号を伝えていく。生まれて初めて口の中の〈患部〉を探られているようだが、肘の音を聴かせた労災病院の部長先生のときとちがって、絶望を前提にしたあてのなさはない。現状よりも〈患部〉が確実に改善されていくだろうという喜びがある。
「やはり上下とも虫歯はございません。立派な歯です」
 うがいをしたあと、左の上顎に麻酔を打たれ、院長と交代した年増の助手に奥から順に歯根をこじられる。ガシガシと音がするだけで痛みはない。何本目かをこじっているとき、
「この歯根は手強かったです。これが歯周菌の死骸です」
 綿を敷いたシャーレの上に黒い小さな破片を載せて示す。
「ウエェ、生まれてからきょうまでのバイ菌ですか」
「ホホホ、そういうことになりますね。こういう黒い死骸になるまで何年もかかります。放っておくと、二十代の後半までに歯根が化膿して歯槽膿漏になります」
 次の歯、次の歯とこじりがつづく。ようやく終わり、
「はい、左上の歯が完了しました。きょうはここまでです。お手入れがよいせいで、左の三番目以外は簡単に歯垢が取れました」
 うがいをする。院長と交代し、椅子が戻される。
「金曜日までにぜんぶ終えますが、その後も半年にいっぺんは来院して歯垢をお取りください」
 手に色紙とサインペンを持っている。
「息子は神無月選手の大ファンなんです。この春大学受験でして、今月は河合塾の直前講習にかよってます。愛知学院大の歯学部を受けます。小さいころから野球をやってきたんですが、愛知学院大は愛知大学リーグの最強豪校なので、並の力量では野球部になんかとても入れませんし、もう本人にも野球をやるつもりなんかなくて、たまたま神無月さんがすぐそばに住むようになったことを勉強生活の励みにして、歯科医になるために六年間みっちり勉強するんだと殊勝なことを言ってます」
「愛知学院大出身のプロ野球選手はいますか」
「金田留広です。平和台のオールスターで、神無月選手は彼からセンター前ヒットを打ちました。そしてすぐ盗塁しました」
「はあ……まったく憶えてません」
「そうでしょうね。ホームランを打った相手も憶えてない人だと聞いてますから。先週和子お嬢さんから予約の電話が入って、神無月さんが診察にみえるとわかると、息子は小躍りして……。この二、三日、ぜひサインをもらってくれと手をすりつづけです。よろしいでしょうか」
「もちろんです」
 すらすらと書いた。院長は低頭して受け取り、大事そうに二階へ持っていった。息子の勉強部屋があるのだろう。年増が、
「あしたは左下をやりますね。それから右上、右下とやって終わりです。歯はあまり強く磨かなくてもいいんですよ。奥歯の根にその傾向が出てます」
「そうですか。つい強く磨いてしまいます」
「硬い歯ブラシで強く磨くと、象牙質が露出して過敏症のもとになりますからね。一日一回、柔かい歯ブラシでふつうに磨けばじゅうぶんです」
「わかりました」
 椅子から降りると、院長が戻ってきて、もう一度丁寧に辞儀をした。
「息子の机に飾っておきました。ほんとうにありがとうございました。それではまたあしたお越しください。お大事に」
 待合室に出ると、数人の患者に紛れて美しい睦子と千佳子が座っていた。
「よう!」
 二人はニコニコ手を振った。
「あしたからも二人ずつ予約してます」
 患者たちが私に気づいて息を呑んだ。それからあらためて睦子たちを見つめて、別の意味の息を呑んだ。
         †
 幣原がカンナに哺乳瓶で乳をやっている。おやつ代わりだ。そろそろ直人母子が帰ってくる。金魚に餌をやる。新聞を見ていた主人が菅野に、
「やっぱり中日は外人補強をせんかったみたいやな」
「水原監督の『外人には手を焼く』のひとことが効いてますね」
「アルトマンみたいな模範的な外人はめったにおらんやろうしな」
 なつかしいウィリー・マッコビー! 彼は静かな男として有名だ。今年四十五本打ってナショナルリーグ三度目のホームラン王になった。マッコビーが、もし日本のチームに入ったら、そのチームは確実に優勝するだろう。
 彼のことを詳しく知りたくなって、主人にプロ野球年鑑と中日ドラゴンズ出版の中日ドラゴンズ三十年史を水屋の書棚から取り出してもらった。三十年史は昭和四十年出版となっていた。どちらにも昭和三十五年(小学校五年)の日米親善野球のことは掲載されていなかった。自分で思い出すしかなくなった。とりあえず主人と菅野の力を借りた。
「お父さん、昭和三十五年の日米親善野球を憶えてますか。サンフランシスコ・ジャイアンツ。たしか十一月だったと思います。中日球場です」
「憶えとりますよ。十一月十二日土曜日。サンフランシスコ・ジャイアンツ対全日本第十五戦。巨人はバッテリーしか出場しとりません。伊藤芳明、堀本律雄、森昌彦。キャッチャーの森は一打席も立たずに野村に代えられとる。ドラゴンズの選手で出場したのは森徹、江藤慎一、井上登、ほかに代打で中利夫、岡嶋博治、吉沢岳男。ピッチャーでは大矢根博臣一人」
 菅野が、
「四打席ぜんぶ打ったのは森徹だけでしたね。六番で四打数三安打。二打席立ったのが江藤と井上ですが、どちらもノーヒット、代打陣も全員ノーヒット、四番の山内もノーヒットでした」
 驚異的な記憶の披露が始まる。
「二桁取られたんやったろ?」
「はい、十四対二。ホームランは大リーグが五本、全日本はなし」
「そのうち四本がマッコビーですね!」



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