四十三
八時五十分、ソテツがNHKに切り替える。ビールがテーブルに林立する。一家の者たち、客人たち(文江さん、節子、キクエ)、賄いたち、トルコ嬢たちが姿勢を正す。来年の大河ドラマ『樅ノ木は残った』の予告編。ローカルニュース。東京宝塚劇場の舞台が大写しになる。階段を降りてきた蝶ネクタイの宮田輝がテロップどおりに叫ぶ。
「第二十回、NHK紅白歌合戦!」
男性歌手、女性歌手の隊列が満面の笑顔で観衆のあいだを縫いながら舞台に上がる。白組司会の坂本九、赤組司会の伊東ゆかりと握手して雛壇へ登っていく。こんな様子に国民のほとんどが胸をときめかせているのかと思うと侘びしさに襲われる。
「お待たせいたしました。さ、優勝旗の返還です」
七三分けの坂本九が総合司会の宮田輝に頭を低くして旗を返す。宮田はふんぞり返っている。芸能人の地位というものをあらためて理解した。両チーム司会によるふざけた選手宣誓。男女のダンサーたちの工夫のないみすぼらしい踊り。応援合戦。先攻後攻決めのジャンケン。紅組先攻。すべてがすべてチャラチャラしている。毎年こうだったのか。審査員やゲストは現代の風潮を映し出す。審査員、市川海老蔵(知らない)、浅丘ルリ子、登山家の今井通子(知らない)、信子とおばあちゃんの大谷直子、万博副会長菅野義丸(知る必要がない)、作家佐藤愛子(読んだこともない)、NHK野球解説者鶴岡一人(ようやくスポーツ人)、来年の大河ドラマの主人公平幹二朗(見覚えあり。三匹の侍だ)。ゲスト、藤田まこと、なべおさみ、水の江瀧子、森光子、林美智子(だれ?)、黒柳徹子、アポロ中継の同時通訳西山千(サイドさんほど練達の士ではない。正直、訳せてなかった)、森繁久彌、左卜全、月の家圓鏡……ブルー・シャトーの井上忠夫、なんと南利明までいる。キッコも河合塾から戻って全員集合となる。キッコはさっそくおせちとスパゲティにかぶりつく。
紅組応援合戦オープニング、ポピュラーヒットメドレー。金井克子の不細工な踊り入りでキープ・ミー・ハンギング・オンやら、ラ・ピオーチャやら、ラブ・ミー・トゥナイトやら、西暦2525年やら。青江三奈『池袋の夜』。布施明『バラ色の月』(まったく知らない)。
「東京から一歩一歩進んで、とうとう横浜までやってきたのです」
宮田輝のわけのわからない前説で、いしだあゆみ『ブルー・ライト・ヨコハマ』。千昌夫『君がすべてさ』(一度も聞いたことがない)。小川知子『初恋のひと』(馬鹿の一つ覚え)。浜の坂本でばっちゃと観た紅白とちがって胸が躍らない。早くもウトッときた。みかん二つ目。主人たちに倣ってビールに手を出す。素子がつぐ。
西郷輝彦『海はふりむかない』(人の知らない歌を唄う必然性は?)。カルメン・マキ『時には母のない子のように』(歌声に切々とした哀愁がある。一聴に値する)。アイ・ジョージ『ク・ク・ル・ク・ク・パロマ』(声が嫌いだ)。耐え切れなってきた。越路吹雪『愛の讃歌』(ブレンダ・リーに比べたらクソだ)。春日八郎『別れの一本杉』。ほんの少し盛り返す。奥村チヨ『恋泥棒』、ザ・キング・トーンズ『グッド・ナイト・ベイビー』。こりゃもうどうでもいいな。テレビを離れてどこへいこうか。いくところがない。私の様子を見て、カズちゃんが助け船を出す。
「そろそろおソバ食べにいきましょうか」
「うん、いこう」
主人が、
「バンでいったらどうや」
「名鉄で一つ目の栄生までだから、あっという間の三分よ」
文江さんが、
「ファンがうるさいで。車でいったほうがええよ」
「そうね、私とキョウちゃんと素ちゃん、それとメイ子ちゃんの四人だから、車のほうがいいわね。五分くらいでしょう。クラウン借りるわ」
キッコが、
「私もいく。後ろ三人乗れるやろう」
女将が、
「和子、お腹いっぱい食べんようにな」
「はいはい」
大晦日の名駅通を走る。ビルとマンションの街並が森閑としている。
「熱田神宮の初詣のせいで、もっと道が混んでるかと思ってた」
「みんなほとんど電車でいくから。それに大晦日から一月六日までは、神宮の駐車場を閉鎖するのよ」
「高円寺みたいに、深夜過ぎたら初詣にいくの?」
「近所にね。椿神社か豊国神社」
「人出がないほうがいいね」
「椿神社ね。十人もいないでしょう。日本古来のしきたりだと、大晦日と元旦は家でくつろいで、二日に初詣というのがあたりまえだったらしいわ」
竹井は満員だった。店前に行列もできている。スツールと折り畳み椅子を用意してもらって、寒空の下でソバを食っている人たちもいる。客足はすぐには退きそうもなかった。「お、神無月やないか」
「やっぱり、この店にくるんだな」
「サインもらっとこか」
店主と女房が店の外に出てきて、
「せっかくきていただいたのに申しわけありません」
カズちゃんが、
「商売繁盛はいいことよ」
「神無月さんのサインのおかげです」
行列の客たちが話しかけたそうにする。
「帰ります。じゃ、またの機会に」
「ほんとにすみませんでした」
路肩に停めた車に乗る。店主夫婦が頭を下げる。メイ子が、
「残念でしたね」
「約束は守ることが重要で、結果なんかどうでもいいんだ」
素子が、
「ええ結果のほうが報われるけどな」
キッコが、
「報われるに越したことはあれへんけど、このごろあたしは、自分の気分がよければ報われへんでもええ思うようになった。神無月さんを見とるうちにな」
名古屋駅前以外は目立たない名駅通を帰る。駅前から南へは六反までしか市電の走っていない通りだ。ついに好きになれないかもしれない。則武新町の信号から右折して外堀通りに入る。いつものガードより一本北のガードをくぐり左折。いつもの風景。北村席を出てまだ二十分くらいしか経っていない。カズちゃんが、
「紅白を観るのって、無理やり世間のミーハーに調子を合わせなくちゃいけないから、キョウちゃんにはつらいものがあるでしょ」
「ああやって浮かれてる人たちがこの世の権威だと教えられるのが、つらいと言えばつらいかもね。芸能人は教えられなくても、小さいときから本能でわかってるようだ」
帰り着くと、玄関戸の前にジャッキが腰を下ろして待っている。頭をなぜて座敷に上がると、まだ紅白の半ばだ。前トリというやつらしく、島倉千代子が歌っている。すみだ川? 知りません。三波春夫、大利根無情。知ってますが、嫌いです。和やかな雰囲気の中に腰を落ち着けてビール。カズちゃんたちはみかん。
「結局食べれなかったわ、満員で」
主人が、
「ドライブしただけかい。坂本九の見上げてごらん夜の星を、よかったで」
「それは見逃しちゃったな。紅白はぜんぶで何人出るんですか」
女将に尋くと、隣にいた信子が、
「四十六人。いま二十四人終わったところ」
なるほど、十時半に近い。これは難行苦行になる。ビールのコップを握り、腹を据える。「歌謡曲好きの丸さんにはたまらない番組だろね」
「はい」
弘田三枝子、『人形の家』。イプセン? むかしのポッチャリとしたかわいらしい顔でなくなっている。残酷なくらい整形している。
「どうしたの、これ」
三上ルリ子が、
「整形とダイエットです。フランス人形みたい」
近記れんが、
「もともとかわいらしくて魅力的だったのに」
節子が、
「いまのキクちゃんによく似てたわ。これだと、美しくなったというより、鬼気迫るという感じね」
キクエが節子に、
「これ、プロテーゼですよね」
「そうね、シリコンプロテーゼ。将来変形しなければいいけど……石灰化してシコリや凸凹が生じるから」
「老化すると、ますます怖いわ。感染症も恐ろしいけど」
よくわからない話をしているが、先ゆき悲惨な結果が予想されるようだ。橋幸夫『京都・神戸・銀座』。知りません。またまた宮田のへたくそな前説。
「ヒゲを伸ばしたくなるときもある、恋をしたくもなる、一人でいたいときもあるんですよ。黛ジュンさんが唄うでしょう」
伊東ゆかりが、
「はい、いつもかわいらしい黛ジュンさん、雲にのりたい」
助けてくれ。ビール。佐川満男『今は幸せかい』。こんな陳腐な歌が……。お、西田佐知子『アカシアの雨がやむとき』。よし。ゲ、村田英雄『王将』。こりゃ歌じゃないな。梓みちよ『こんにちは赤ちゃん』。これも外道。青高のバス旅行で、ウサギ跳びの武藤が歌っていたっけ。きた! 水原弘『君こそわが命』。喜びのビール。素子が、
「キョウちゃん、飲みすぎとるよ」
「うん」
きたきた、高田恭子『みんな夢の中』。残念。絶佳な歌にバンド演奏のテンポが合わない。スローな曲がアップテンポになっている。丸信子が悲しげな顔をする。美川憲一『女とバラ』。知らん。中尾ミエ『忘れられた坊や』。何だそれ? ダークダックス『あんな娘がいいな』。つらい。ここが胸突き八丁だ。ピンキーとキラーズ『星空のロマンス』。インパクトはないが聴ける。おお、よし、とうとうきた、内山田洋とクール・ファイブ『長崎は今日も雨だった』。名も知らぬこの男の歌声でなければまったく冴えない曲だ。これが私にはトリの曲。あとは時間潰し。ビール。
酔ってきた。横たわる。ザ・ピーナッツ、フランク永井、佐良直美、北島三郎、美空ひばり、ウンコのような歌を夢見心地で聴く。キッコがやってきて膝を貸す。森進一が港町ブルースを唄っている。これはションベンくらいか。酔うと好悪の感覚が研ぎ澄まされ、冷笑的な気分が高まる。この程度の酔いで薄皮を剥がされ、本性が現れる。つまらない男だ。トモヨさんが、
「郷くん、おソバ食べられます?」
「ちょっと無理。このまま寝る」
「ソテツちゃん、ステージ部屋に蒲団敷いてあげて」
「はーい」
年越しソバを仕度する厨房の音。テレビがうるさい。紅組が優勝したようだがどうでもいい。寺の鐘の音。全局合同放送、ゆく年くる年。宮城県なんとか寺の除夜の鐘、愛媛石手寺の除夜の鐘、北海道聖ハリストス教会の新年ミサ。百江もいまごろ息子と同じようなことをしているだろう。キッコの膝を離れてステージ部屋の蒲団に移動する。
一時間ほど熟睡して、酔いが飛んだ。座敷がザワザワしている。女たちが初詣から帰ってきたようだ。主人夫婦やトモヨさんや文江さんの声はしない。幣原や三上や木村や近記の声もしなかった。寝てしまったのだろう。市川右太衛門と美空ひばりの声が襖越しに聞こえる。旗本退屈男。起きていく気はしない。しかし腹がへっている。カズちゃんが襖を開けて、
「やっぱり起きてた。おソバ食べる?」
「うん。躊躇するには人生は短すぎる」
座敷がワッとはしゃぐ。
「何オーバーなこと言ってるの。ソテツちゃん、おソバ用意して」
「はーい」
カズちゃんが、
「私もお替りするわ」
「はーい、もう一杯食べたい人」
全員手を上げる。
「エビ天はあと一人分しかありません。神無月さん以外の人は野菜天になります」
「いいわよう!」
私のほかは自動的に野菜天になった。熱あつのソバが運ばれてくる。
「これは―」
ハラワタに沁みるほどうまいエビ天ソバだった。
四十四
一時半。退屈男はテレビ初放映の『七人の侍』に切り替えられた。カズちゃんが、
「この映画、中日ドラゴンズの初優勝の年に公開された映画よ。昭和二十九年。椙山の二年生のとき栄で観たわ。名宝文化がなごや東宝に改称された記念に、一カ月のロードショー上映したの。千人も入れる映画館だったのよ。今年改築してもっと立派になったみたい」
「インターミッション付きの長い映画だ。三時間半。むかしの映画は飽きさせなかったということだね」
「ほんと? 心にもないこと言って。長くて飽きない映画なんてマレよ。たしかに、黒澤のような大監督の映画には、飽きても観つづけなくちゃいけないって思わせる威厳があるわね。クラッシック音楽みたいな。……ところどころいい旋律があるから。でもタルミがちょいちょいあることは隠せないわ」
「さすがカズちゃん、わかってたか。ジュリー・アンドリュースのサウンド・オブ・ミュージックやルイ・マルの鬼火のような、長いのにまったく飽きない映画ってまずない。音楽で言うと、ラフマニノフのピアノ協奏曲2番だね。映画でも音楽でも〈思慮深い〉鑑賞家というのは、クライマックスの連続では作品としてデキが悪い、何箇所かタルミがあってこそイッチョ前という奇妙な常識を持ってるみたいだ。盛り上がったところで入れるテレビコマーシャルのようにね。創ってる側は中だるみとは思ってないだろうけど、鑑賞してる側には明らかに〈意識的なタルミ〉と思える部分がある。その部分を見抜く才能のある良心的な、ある意味〈思慮深くない〉芸術家は、けっしてそういう作品は創らない」
「いい意味のバカということね。バカの要素のない天才は、結局常識に囚われた秀才に堕落するだけよ」
緑茶とコーヒーが出る。この映画を観るのはひさしぶりだ。農村を襲って略奪を繰り返す野盗団に抵抗する百姓たち。物語の骨は桃太郎の鬼退治だろう。胎は士農団結。
シンプルなプロットの映画に入りこむ。農民の侍探しから話が始まる。村人に用心棒として傭われる食い詰め武士という人びとがいる。たぶん戦国時代の現実だろう。べつに現実でなくてもかまわないけれども、現実〈味〉は重要だ。たらふくめしを食いたいだけで百姓に力を貸す武士というのは、戦国の当時でもそうそういなかったにちがいない。
傭兵の一人である歴戦のツワモノ、温和沈着な勘兵衛(志村喬。シブイのひとこと)が首魁の桃太郎として起ち上がる。必然、犬や猿やキジといった配下を何人か集めるという塩梅になる。副将に人格のこなれた五郎兵衛(稲葉義男。よく見る顔だ。切腹に出ていたと思う)、勘兵衛のかつての忠実な従卒七郎次(加藤大介。まず社長シリーズ、片岡千恵蔵と共演した血槍富士、南の島に雪が降るでも印象深い)、窮地に陥ってもユーモアを失わない平八(千秋実。英夫兄さんの家で初めて観たテレビドラマ、ママちょっと来てのパパ役だった。生きるではハエ取り紙)、諸国修行中の峻厳な剣客久蔵(宮口精二。生きるでヤクザの親分役をしていた。好きな俳優だ)、郷士の息子で純情な勝四郎(木村功。内田吐夢の『宮本武蔵』に又八役で出ていた)、佐々木小次郎のような長刀を肌身離さず持ち歩くどこか荒くれた菊千代(三船敏郎。勝新太郎に劣らない剣技の持ち主。彼には似合わない天真爛漫で傍若無人な演技に違和感がある)。
とまあ、性格や個性が際立っているばかりでなく、調子に乗って群盗のような軽挙に出ないと思わせるキャスティング。団結の筋が一本通っている。彼らの協調のたたずまいがすばらしい。
七人の侍という映画は、百姓たちも含めた登場人物のキャラクターや、練れた脚本が秀逸だけれども、ところどころ間延びした展開へ傾く。そのせいか、優子、信子、千鶴といった面々がポツポツ姿を消していく。前半が終わらないうちに、カズちゃん、素子、メイ子、キッコ、節子、キクエ、ソテツ、私の八人になった。七人の侍は世界中の専門家たちを驚嘆させているらしい。その理由は主に緻密な撮影技術にあると映画雑誌で読んだことがある。そういったことは専門家でない私にはサッパリわからない。しかし、ロケ地の選択や、天候待ちや、衣装の考証や、演技指導、大道具小道具のセッティングなどを考えると、驚嘆の理由は撮影技術だけに留まらないと思われる。専門家の目から見れば、すべてがすごいのだろう。
場面は山間の村入りをした浪士たちの戦闘準備へと移る。野盗を迎撃する地の利を整えたのち、農民を戦士に変えるべく竹槍の訓練を施す。勘兵衛は戦略上、村外れの農家数軒を引き払うよう命じる。一部が造反する。温厚な勘兵衛が喝を入れる。
「おのれのことばかり考えるやつはおのれをも滅ぼすやつだ」
仲間に殉じて生き延びろという意味だろう。カズちゃんが小さく拍手した。ここで前半部が終わり、インターミッション。
三時。カズちゃんと素子がういろうと茶を出す。さすがに日ごろの疲れが出たのだろう、茶を飲み終えた節子とキクエがお休みなさいを言った。
「ゆっくり寝てね」
「はい」
メイ子とソテツとキッコはがんばっている。
「ソテツちゃん、あなたあした早いんだから、もう寝なさい」
「九時まで寝正月をもらってます。もう少し観ます」
そう言って目をこする。後半は初夏の麦刈りから始まる。そこへ野武士の斥候が現れる。そいつを捕え、根城の場所を聞き出す。焼き討ち。炙り出した何人かを切り殺す。女たちも炙り出される。野武士たちに略奪された百姓女たちだ。率先して武士を雇った利吉(土屋嘉男。地球防衛軍や美女と液体人間で見覚えあり)の女房もいた。メイ子が、
「この女房役が島崎雪子です」
「ふうん、やっぱり印象が薄いね」
女房は利吉に気づいて火の中へ戻ろうとする。追いかける利吉を止めに入った千秋実が野武士の銃弾に倒れる。女房が火の中へ戻ろうとしたことと、利吉が女房を追いかけたことが解せない。愛し合う者同士なら再会を喜び、抱き合って自陣に走り帰るところだろう。操の観念をとりちがえている。人間が抱える闇の捉え方が私とはちがうと思わざるを得ない。さらに、危険な状況を知っている平八がなぜ利吉を止めに入ったか。命を庇ってやるほど利吉が貴重な戦力とも思えないし、男同士の微妙な友情が芽生えていたとも思えない。
「よくわからないなあ」
女たちは耳を貸さない。女心に訴える場面のようだ。
群盗の来襲。凄絶な肉弾戦が始まる。豪雨と泥の中での斬り合い、刺し合い、取っ組み合い。野武士の馬術アクションがすごい。戦闘シーンとしては特上だろう。たしかにアクション映画としての完成度は讃えるに値するが、トップクラスの作物として素直にうなずけないものがある。まず人員動員のスケール。迫力こそ黒澤に軍配が上がるとは言え、NHKの大河ドラマの大スケールの合戦シーンが重なってしまい、また信長か、また信玄か、また秀吉か、また家康かとなる。
さらに気にかかった細かいことを言うと、食い詰め浪人や武士もどきの手を借りようと決めてのちの、村人たちの優柔不断ぶりが気に障る(そのせいで何人もの犠牲者が出るからだ)。若侍勝四郎と百姓娘志乃(津島恵子―目の小さい美人女優)の添え物的な恋愛話は鬼退治の骨子からかなり乖離している(戦闘の合間の息抜き的なエピソードにしか感じられない)。アクションに見どころありとしても、蟻を潰すような戦闘場面がしつこすぎて、手のこんだチャンバラごっこに見える。全編を通して三船敏郎一人の奇矯なはしゃぎぶりが神経をイライラと刺激する。野武士に家族を殺されたみなしご百姓の三船は、その痛ましい過去を通じて侍と百姓の感情の橋渡しをする貴重な役どころであるはずだ。あんなに明るくはしゃいではいけない。三船には椿三十郎や赤ひげのような重厚な役柄が段ちがいにマッチする。観客もそれを求めている。
つまり、総じて全体がしっくりこないということだ。座頭市のような、個人の熟達した剣術の技を娯楽的に見せるという工夫がない。イクサとは汗と泥と血なまぐさい殺し合いであるという通念が黒澤にはあるようだ。まちがった通念ではないので否定しがたい。
ソテツは粘り切れず、四時ごろ部屋に退がった。フラフラしていた。こんなに遅くまで起きていたのは生まれて初めてのことだろう。
戦いすんで、四人死んだ。菊千代、久蔵(宮口精二には死んでほしくなかった)、そして千秋実の平八と稲葉義男の五郎兵衛。四人とも銃弾に斃れた。キッコが、
「みんな鉄砲にやられるってどういうこと? それなら盗賊のほうも、村になんか攻めてきて危ない思いをせんと、七人の侍を鉄砲で殺してからじっくり百姓を料理すればよかったやないの」
「象徴かな」
素子が、
「何の?」
「どんな時代も文明の利器には勝てないということの。菊千代は何本も刀を地面に刺して戦いに備えたよね。あれが文明に対する最大限の抵抗だね」
「刀で戦っとる盗賊がほとんどやったよ。最初から文明でいけばよかったんやないの。たった七人なんやから」
カズちゃんがあくびを噛み殺しながら、
「それだと映画がストンと終わってしまうでしょう。刀で戦う野武士がいないと、戦闘シーンがなくなっちゃうの。そういう理由でないとすると、死に方のバリエーションを思いつかなかっただけのことかもね」
剣を刺した四つの塚が作られた。生き残った勘兵衛、勝四郎、加東大介の七郎次の三人が村を去っていく。勝四郎が死ななかったことは意外だったし、彼を生かす意味もわからなかった。いずれ村に戻ってくるという含みがあるのかもしれない。それをカズちゃんに言うと、
「郷士でしょう? なりわいは農民でも身分は侍だから、それはあり得ないわね。ただ去っていくのよ。全世界共通の大好きな終わり方」
とにかく志村喬が死ななくてホッとした。私は彼の厚い唇にただよう哀愁が好きだ。癌に冒された一人の市役所課長に焦点を当てた『生きる』はいい映画だった。志村喬はあれ一本と言っていい。素子が、
「ああ、眠なった」
「もういいかげん寝ましょう。十時ぐらいまで」
四時四十五分。座敷のカーテンはまだ明るんでいない。キッコは二階へ、カズちゃんと素子とメイ子は客部屋へ去る。私はジャージを脱ぎ、もう一度ステージ部屋の蒲団にもぐった。
九時過ぎまで四時間熟睡して、サッと起き出す。歯を磨く。便意がない。二・二度。居間を覗く。主人夫婦が茶を飲んでいる。神棚に三方に置いた雪だるまのような大小の鏡餅が飾られ、てっぺんに大ぶりの橙が載せてある。
「きのうこんなのあったかなあ」
女将が、
「師走の二十八日から飾っとりましたよ。きょうは玄関に門松を飾りました。二十日に鏡開きしますでね」
「餅に敷いてある不思議な形の葉っぱは何と言うんですか」
主人が、
「譲り葉。橙も譲り葉もうちの庭から取ったもんです。どっちも常磐木(ときわぎ)で縁起物やで、この家を建てたときから植えてあるんです」
女たちの声に惹かれて座敷へいくと、すでに正月の特別歌番組が流れている。クレージー・キャッツのコンサートのようだ。さすがに昨夜聞いた歌手たちの声は雑じらない。手つかずのおせち料理がテーブルに並んでいる。カズちゃんをかしらにカンナを抱いたトモヨさんから賄いたちまでゾロッといる。
「まだ食べてないの」
キッコが、
「主役がこんと始まらへんやろう。あたしは食べたけどな。正月講義に出かけるさかい」
カバンを提げて出ていった。
「がんばってね」
メイ子が背中に声をかけた。
「カンナはおせち、無理だよね」
トモヨさんが、
「お乳を飲みました。一人だけお食事終わり」
二日に顔を出す予定だった菅野が、女房と秀樹くんを連れて玄関に顔を出した。ジャッキがうれしそうに吠える。直人にくっついてみんなで出ていく。
「神無月さん、みなさん、明けましておめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
直人が秀樹くんに抱きつく。カズちゃんがスカートのポケットから小袋を出し、
「はい、秀樹くん、お年玉。新しい筆でも買いなさい」
「ありがとうございます」
直人が、
「ぼくもばあばにもらったよ。パズルかうの」
「よかったね」
秀樹くんが直人の頭をなぜる。主人夫婦もやってきて、
「上がって、上がって」
「いえ、いまから熱田神宮に初詣にいきますんで。あとで私だけちょいと顔を出します。あしたからきちんと出勤します」
「駐車場、だいじょうぶなんか?」
「神宮の外ならいくらでもありますよ」
女将が菅野の女房に、
「奥さん、年じゅう菅ちゃんをこき使ってまって、申しわけないな」
「とんでもありません。タクシーのころに比べたら、決まった時間にマメに帰ってくるほうですよ。おかげさまで楽しい生活を送らせていただいてます」
主人が、
「へたに亭主が家に居つかんほうが伸びのびしてええやろ」
「そのとおりです」
玄関に笑いが湧く。菅野一家があらためて挨拶して玄関を出ていくと、みんなで座敷に戻り、めいめい笑顔を交わして合って腰を下ろす。ビールと燗徳利がズラリと並ぶ。カズちゃんが、
「清酒はお屠蘇代わりよ」
直人が私に飛びついてきて、
「おめでとまちゅ」
「はい、おめでとうございます」
四十五
昭和四十五年一月一日木曜日。曇。暖房を入れた座敷の温度は二十一度。主人がチャンネルを切り替える。『これが万国博だ・世界は集う』。替える。『引田天功の大魔術』。替える。『年頭総理記者会見』。しばらく逡巡してから替える。『スター家族ゲーム』。仕方なく止まる。カズちゃんが、
「年賀状、則武から持ってきたわ。九通。山口さん、上野さん、秀子さん、美代子さん、西沢先生、菊田さん福田さん二人名義、下通さん、加藤雅江さん、久保田さん。ファンレターはなし、チームメイトからもなし」
「気を使ってくれたんだね。返事を書かなくちゃいけなくなると思って」
「でも書くんでしょう」
「うん、その中の六人には出してるから、三通だね。吉祥寺、下通さん、上野詩織」
賀状を出さなかった人に返しをするのは失礼になる気がすると言うと、
「七日過ぎに届くように、寒中見舞いとしてふつうのハガキで出せばいいの」
「わかった」
主人がコップを突き上げ、
「明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。精いっぱい励みましょうや。乾杯!」
主人の音頭にみんな、
「がんばりましょう!」
と合わせた。ジャッキが玄関で一声吠えた。隣同士ビールをつぎ合う。みんなの箸が動きはじめる。目の前の重の中身を観察する。じっと見ている私に、幣原が一つひとつ指を差しながら、
「そこにあるのは祝い肴。数の子、黒豆、叩きゴボウ。関東ではゴボウの代わりに田作りが入りますよね。それも入れておきました。その横は口取り。伊達巻、紅白かまぼこ、栗きんとん、昆布巻です」
ソテツが、
「端にあるのが箸休め。紅白なますと、酢れんこん。横に並んでる焼き物のお重は、鯛の西京焼き、エビのうま煮、ブリの照り焼き、煮ハマグリです」
千鶴が、
「三つ目の煮しめのお重は、幣原さんに教えてもらいながら、うちが作ったんよ。肩に力入ったわ。鶏もも肉、里芋、こんにゃく、人参、レンコン、ゴボウ、筍、シイタケ、絹さや。コツは一つ。鶏とこんにゃくを下味で別に煮る、とシッカリした味に仕上がるゆうこと」
幣原が、
「愛知県だけのおせちとして有名な鶏すき焼きも用意してありますよ。シラタキ、豆腐、長ネギ、水菜もたっぷり入ってます。ごはんのおかずにどうぞ」
女たちにめしが盛られる。女将が栗きんとんを頬ばる。私は煮ハマグリ。うまい! ビールで追いかける。直人は昆布巻をほぐして齧っている。昆布の中身は甘口シャケだ。気に入らないようで、すぐに伊達巻に落ち着く。
「うまい!」
私のまねをする。節子母子とキクエはレンコン。
「おいしい!」
「千鶴ちゃん、じょうずよ」
文江さんが、
「幣原さんの指導がええんやろな」
信子が直人に黒豆も齧らせる。
「うまい!」
優子が鶏もも肉も齧らせる。
「うまい!」
二杯目のビールに驚いた腹がグルグル鳴りだしたので、便所へいく。水っぽい便を吐き出し、シャワーを使う。座敷に戻っても、みんな私の腹具合には慣れているので何も言わない。ソテツにめしを頼む。三上や木村たちに、
「今年の最初の事件は何?」
「きのうきょうは別に何も起きてません。ニュースは万博のことばかりです。三月十四日に開幕、十五日から一般入場だそうです。七十七カ国。天皇や皇太子も開会宣言のために出席するって」
「とにかく人間はお祭りが好きなんだね」
千鶴が、
「ほんとやがね。会場の広場は〈お祭り広場〉という名前らしいわ」
節子が、
「お祭りと言うより、お祭りから入るお金が好きなんだと思うわ。日本医師会が医療費値上げを要求して、四日まで一斉休診をします。日赤でも医師会の会員は休診します。これもお祭りから得る利益でしょう?」
「一種のスト?」
キクエが、
「イベントです」
「人間を育てるのはイベントや儀式じゃなく、仕事なんだけどね」
しゃべることが堅い。心が翳る。近記れんが、
「バンパクは仕事をサボって遊びにいくところです」
カズちゃんが、
「エキスポランドは十七万平方メートルの遊園地ね。太陽の塔、ロープウェイ、電気自動車、動く歩道」
メイ子が、
「展示会場を十五分で一周するモノレール」
私は、
「動く歩道って、ただの移動板でしょう、エスカレーターを水平にした」
堅い。主人が、
「そうです。とにかく遊びそのものですよ。六千万人以上の見物客が見こまれてます」
延々と家族ゲームがつづいている。安井昌二一家、勝呂誉と大空真弓夫婦、川口浩と野添ひとみ夫婦。
「もう一回だけチャンネル回してみて」
私は優子に頼む。日活映画『大巨獣ガッパ』。あきらめる。年が変わっても、これといって新しいことを始めるわけでもなく、直人はおせちの物色、部屋の隅には雀卓、主人はビール、女将と文江さんとトモヨさんはカンナを真ん中に世間話、カズちゃんたちはお重とテレビにかかりっきり。主人に、
「今年は何年(どし)ですか?」
「戌(いぬ)年やね。おトクは去年還暦で、酉(とり)年やった。戌年のやつはおるか?」
カズちゃんと優子と木村が手を挙げた。カズちゃんが、
「戌年は大正十一年、昭和九年、昭和二十一年」
「ぼくの母も戌年だ」
カズちゃんが、
「西松にいたときから知ってたけど、何かの因縁かしら」
女将が、
「そんなもんあれせんやろ」
幣原もうなずきながら、
「ジャッキの年ですよ」
カズちゃんはカラカラ笑った。幣原はめしの上に何種類かのおせちを盛った餌椀をジャッキに持っていった。ソテツが、
「さ、雑煮、いきますよ!」
直人や雀卓組がテーブルに戻ってくる。千鶴が、
「名古屋の雑煮はとても変わっとって、角餅と小松菜とカツブシだけなんよ」
ソテツは、
「私はかまぼこも入れました。ダシはホンダシと醤油と味醂。けっこう濃いダシです。お餅はリクエストでいくつでもどうぞ」
一口ツユをすすって、美味! たちまち二つの餅を平らげる。
「お替わり。餅二つ」
「はーい」
玄関に塙夫婦が顔を出した。
「明けましておめでとうございます! 今年もよろしくお願いいたします」
主人夫婦が出ていき、
「おお、塙さん、ま、上がって」
「いや、これから二、三軒回るところがありますから。おーい、持ってきて」
板造りの箱を若い衆に二つ運びこませる。
「切り餅の追加です」
女将が、
「まあま、すみませんね。来年はうちが搗きましょうわい」
「いや、うちにまかせてください」
塙の女房が、
「今朝、蛯名さんがバンでお見えになってな、年賀の挨拶をして、牧原さんからゆうて樽酒を置いていきましたわ。ヤクザからの賄賂を持って北村さんに出向いたら、神無月さんに迷惑がかかるとおっしゃってな。本年もよろしくとお伝えするようにと」
塙の亭主が、
「お年玉を渡そうとしたら断られましたから、餅を一箱差し上げました。きょうじゅうに樽酒をこちらにもお届けするそうです」
「それでええんですよ。お年玉ゆうんは本来お餅だったそうやから」
「ほうですか。ええこと聞いた。じゃ、お嬢さん、神無月さん、ご一家のみなさん、本年もよろしゅうお願いします。トモヨ、からだに気ィつけて子育てに励むんやで」
「はい、旦那さんもお母さんも、末永くご健康で」
塙夫婦はへこへことお辞儀をして帰っていく。座敷に戻った主人が残りの雑煮を食い終え、
「ちょっと宗近棟梁のところに顔出してくるわ。ジャッキの犬小屋も頼まんとあかんしな。熨斗巻いた酒一本用意して」
カズちゃんが、
「菊井町でしょう。乗せていくわよ」
「せっかくの正月や。ゆっくりしとけ。トク、タクシー呼んで」
そう言って、タクシーがくるまでのあいだビール片手に映画を観ている。私もおせちをつまみながら観る。
「ほう……」
日活の中堅どころがズラッと出ている。川地民夫、小高雄二、和田浩治、藤竜也、山本陽子。南海の孤島オベリスク島。科学者に生まれたばかり子ガッパを連れ去られた親ガッパが怒って大暴れする。体長七十メートル、マッハ6の親ガッパは海を走り、空を飛び一路日本へ。まず熱海に上陸して大暴れ、というのが笑えるが、笑わない。どの役者も〈まじめ〉に演じているからだ。
「じゃ、いってくるわ」
主人が出かけると、直人がパズルに貼りついた。文江さんと節子が見守る。チャンネルが信子の手でクレージー・キャッツの珍コンサートに切り替えられた。去年ヒットした歌謡曲、民謡、クラシック、何でもござれで、ふざけながら唄いまくり演奏しまくる。ゲスト、園まり、スクールメイツ、小松政夫。素子に、
「スクールメイツって何?」
「さあ、何やろ」
信子が、
「ナベプロが作った音楽学校の生徒たちです。東京音楽学院。名古屋にもあります。紅白のバックダンサーをやったのも彼らです。若いってすばらしいという曲を唄ってます。ナベプロのほかにジャニーズ事務所というのがあって、そこの出身にはフォーリーブスがいます。スクールメイツとフォーリーブスがいっしょに活動することもしょっちゅうです」
優子が、
「スクールメイツはNHKに出るときは、ヤングメイツって名前に変えるんでしょう?」
「そう。大阪万博のオープニングにも出ることになってます。意外な人が東京音楽学院出身なんですよ。園まり、布施明、森進一、湯原昌幸」
千鶴が、
「さすが信ちゃんは芸能通やな。よう知っとるわ。何歳や」
「三十歳です」
「うちより七つも年上や。筋金入りのミーハーやで」
「フフ、この小松政夫という人は、植木等の付き人から出世したお笑い芸人です」
「なんとなくおもしろい男だね。彼にかぎらず、お笑い芸人は先天的に持ってる〈おかしみ〉が次元のちがうところまで昇華してる。こうなると芸術も芸能も一つの文化だね。芸能人と馬鹿にしていられない」
カズちゃんと素子と看護婦二人がチラと私を横目で見たが、ほかのだれも気にしていない。信子が、
「園まりは今年の紅白には出ませんでしたけど、去年まで六回連続で出場してます」
カズちゃんが、
「呆れた。菅野さんの野球みたいなものね」
私は、
「園まりはむかし好きだったけど、演歌調になってから嫌いになった。ポップスがいいんだ。最高傑作はマッシュポテト・タイム。ほかの歌でどうにか聴けるのは、燃える太陽だけだね」
上板橋の園のマスターとの会話を思い出している。十年一日同じことを言っている自分にイヤ気が差す。だれもが複雑に、そして緻密に成長していく中で、私はなぜ原始の状態に留まることになってしまったのか。一日一日、自分に対する嫌悪感が募っていく。神無月郷は日本最高の打者なのだという自負では、とうていその嫌悪感は叩き潰せない。すぐれた人間の証は運動能力ではない。文明も文化も人間の知性が切り開いてきたものだ。解明と創造。私はその分野に寄与できない。このさびしさと侘びしさの中で、あと何年生きられるだろうか。
「カズちゃん」
「ん?」
「もともとすぐれたアタマを鍛えて人間社会に参加する人びとは、世のためになる。アタマもない、技芸もない、鍛える動機もないような人間は、どうやって貢献すればいいんだろうね」
今度は座の全員がギョッとした顔で私を見た。直人のパズルを見ていた文江さんと節子も顔を上げた。