七
居間に入ると、めずらしく主人が直人に本を読み聞かせていた。女将と、カンナを抱いたトモヨさんが覗きこんでいる。菅野は座敷で女たちと煙草を吸っていた。夕食前の平和なひとときだ。
「お、神無月さん、読み聞かせというのは難しいもんですな。小学校以来、本なぞ読んだことがなかったですからな」
あと二ページもない本読みをトモヨさんにまかせて座敷へ移動する。木村しずかがアヤメの遅番に出かけていった。キッコが、学校に週二回ぐらい出ないと義理が立たないと言いながら、早い夕食をすまして登校する。
カズちゃんや素子たちがやってきて、いつもの賑やかなテーブルになる。居間から駆けてきた直人がスプーンとフォークを持って待ち構える。この数日、彼の膳はプレートではなく大人用の皿鉢に替わっている。惣菜の盛りつけと箸役は幣原がする。ソテツ、千鶴、イネたちの手で食卓が整いはじめる。カンナもトモヨさんの膝に尻を据え、裸の指をプレートに突き出して一人前に催促している。菅野が一座の面々に報告する態で、
「王さんから電話がきました。年末にこないことになりましたよ。約束を破って申しわけないが二十五日の北村家訪問は来年以降に繰り延べてほしい、家族の要望で二歳の娘さんのクリスマス会の席を外せなくなったということでした」
「そうですか。当然そうしてあげるべきでしょう。ところで王さんの真剣の素振りですが、握りの丸いバットと同じようには振れませんよね」
主人が、
「あれは精神鍛練のためだけのものだったそうや。刀は横に振るんやなく、紙を削ぎ落とすように縦に振り下ろすんです」
「なるほど。しかし、野球に役立ってるとは思えないな」
「役立つ選手もたまにおるんやろう。〈丹田〉の榎本も荒川の弟子です。荒川は精神論ばかりですな」
「野球そのものを教えられないからでしょう。いやあ、王さんがきたらその話をするところだったので危ないところでした」
千佳子が、
「王さんに子供がいたんですか」
「二歳と言ってました」
百江が、
「かわいい盛りですね。直ちゃんは特別かわいいですけど」
睦子が、
「王選手がこないのは、子供のリクエストに応えたというより、球団の圧力のせいじゃないでしょうか」
素子が、
「うちもそう思うわ。クリスマスごときで、男が約束を破ることはせんやろ」
カズちゃんが、
「そうね、球団フロントから横槍を入れられたのかも。川上監督の圧力じゃないと思う。プロ野球界って、球団同士の対抗意識が強くて、他チームの選手との交流はタブーという暗黙の空気があるでしょう? 巨人軍は特にそうよ。アマチュア時代に同僚だった選手同士でさえ、ちがう球団に入ると表立って会話することを避けるって、足木マネージャーが言ってたわ。長嶋さんと王さんが二人してここにきたのは例外で、キョウちゃんにいろいろな事件が起きたあとだから、球団命令の事後処理だったと思う。もちろんON本人には渋々という気はなくて、心からキョウちゃんに会いたかったんでしょうけど。ほとぼりが冷めたら、もう親しい付き合いはタブーに戻されたってことね」
トモヨさんとイネが直人とカンナを連れて風呂へいく。主人が、
「川上監督のことが新聞に載っとったで。巨人OB会で、『今季かぎりでユニフォームを脱ぐつもりだったが、周囲の事情でまた来季も指揮を執ることになった。OB諸兄のご声援とお叱りを受けたい』って爆弾発言しとる」
菅野が、
「川上監督の後任は長嶋で決まってるでしょう。川上が辞めるということは、長嶋が引退して監督になるか、あるいは引退して選手兼任で指揮を執るということですよね」
主人が、
「川上はむかしから、長嶋はきれいな形で辞めさせたいて言っとったけど、きれいでない形ゆうのは、週刊ベースボールの記事やと、二年連続で不振の場合ということらしいわ。今年三割一分打っとるから、当分長嶋の引退はにゃあな」
「神無月さん、お電話です」
ソテツが飛んできた。式台へいって受話器をとると太田からの電話だった。
「おひさしぶりです」
「ひさしぶり!」
「江藤さん以下、きょう帰寮しました」
「お帰りなさい。ふるさとは堪能しましたか」
「はい、オールスター明けにいって以来でした。また正月に帰りますけどね。大友寮長から聞きましたよ。俺たちも参加します。ただし、無理はしっこなしですよ」
「わかってる。大友さんにもくどく言われた」
菱川に代わり、
「まじめにやるのは素振りだけですよ。ほかは危ないですからね」
「了解です」
「俺は三日間神無月さんに会いにいくことがメインです。あとは大幸でボチボチやります。秀孝は見学です。ボールを握ると投げちゃうから」
江藤に代わり、
「キャッチボールは軽くな。ダッシュも軽くやらんといけん。ほんとうは一月初旬まで完全休養するのが基本やけんな。やるなら自主トレゆうより、メンテナンスたい。あちこち関節や筋肉を動かしとくちゅう程度のもんばい。三日間のあと、またメンテナンスしとうなったら、電話ばくれんね」
「今年はその三日でやめときます」
「一月の初旬からは、大幸球場か中日球場でフロント不参加の合同自主練習が許されとる。もちろん、各自好きな土地で練習してもよかけんが」
「わかりました。今年からは球団の設ける自主キャンプ場はないということですね」
「そうたい。新人合同自主トレちゅう集まりそのもんが、ようわからんものやけんな。一軍二軍の振り分けのための選手見極めちゅう名目もあるげな。ばってん、そぎゃんこつ春キャンプでもでくるばい」
「そうですね、あらためて考えると不思議な習慣ですね」
「おう、やけん、中日ドラゴンズはそればやめたっちゃん。よかことばい。じゃ、十四日にな」
「はい、失礼します」
なつかしい九州弁を聞けた。
食後のテーブルにビールが用意され、テレビが点く。女将はソテツと幣原を呼んで帳場へ、主人と菅野は夜の見回りに出る。風呂から上がってきた直人がおやすみなさいを言う。みんなでお休みなさいと返す。カンナを抱いたトモヨさんと、付き添いのイネもお休みなさいを言い、四人連れ立って離れへ去った。一秒ほど長くトモヨさんが私を見つめたので、合図だとわかった。
「私たちもお風呂に入って、テレビでも観ましょう」
カズちゃんと素子たちが七、八人で風呂へいった。優子、近記、三上たちも混じっていた。底抜け脱線ゲームが始まる。私は離れへ向かった。
直人とカンナが子供部屋の蒲団とベビーベッドで眠っているのを確かめてから、トモヨさんの寝室へいった。全裸のトモヨさんとイネが蒲団をめくって私を招いた。
「お嬢さんには伝えてありますから、焦らないでかわいがってください」
ゆっくり愛撫し、律儀に交わる。イネが気を失いかけたので、トモヨさんに射精と律動を与えた。トモヨさんも最後は危うくなった。二人の回復を待つあいだ一人でシャワーを使った。興奮の鎮まった二人が持ち場に戻る(トモヨさんは直人の蒲団へ、イネはカンナのベビーベッドの裾の蒲団へ)のを確かめ、お休みなさいを言い交わして座敷へ引き返した。
まだ底抜け脱線ゲームをやっている。カズちゃんたちが風呂から戻ってくる。やがて八時になり、チャンネルがNHKに切り替わる。カラー放送連想ゲームが始まる。初めて観る番組だ。明るいテーマ曲。このクイズ番組も先回につづいて楽しめそうだ。司会野村泰治、白組キャプテン小沢昭一、紅組キャプテン江利チエミ。白組ゲスト、フランキー堺、森田健作、井沢八郎、鶴岡雅義。紅組ゲスト、宮城まり子、和田アキ子、富士真奈美、西尾三枝子。キャプテンが解答者にひとことヒントを投げ、そこから連想する言葉を両組交互に答えて勝負する。単純で、難しくて、おもしろい。しかし、やがて飽きがきた。知識と経験の嵩(かさ)だけが戦いの武器で、勝ち負けに関心の薄いおっとりした人間がじゃま者扱いされ、小馬鹿にされるという構図。たまらなく胸が悪くなった。丸や優子たちがコーヒーをいれて持ってくる。すがすがしい気分になる。
睦子と千佳子が金魚の糞取りをし、餌をやってから、お休みなさいを言って二階に上がった。主人たちが帰ってくる。三上が彼らにコーヒーを運んでくる。チャンネルが歌のグランドヒットショーに切り替わり、トルコの遅番組が四、五人サンダルをつっかけて出ていく。女将とソテツ幣原が帳場から戻ってきて、テレビに加わった。残りの女たちは世間話をしたり、雀卓につどったりする。私はカズちゃんに、
「王さんもこないことになったし、山口の東京の初リサイタルは睦子たちにまかせるとして、ぼくは温泉でのんびりしてくるよ」
「のんびりなんかしてこないくせに。どこにいくつもり?」
「メイ子の実家。メイ子はいかなくていいよ、紹介してくれるだけで」
メイ子は、まあ! と口に手を当て、
「ほんとに田舎ですよ。温泉もありませんし、あんな農家では何のおもてなしもできません。お嬢さんが送ってくれたテレビがあるくらいで、本もありませんし、外に出ても散歩コースもありません。もちろん映画館や美術館も……。家には子供もいて……」
「遊山じゃなく走りにいくんだよ。……子供は一人だよね?」
「はい、三上さんと同じです」
「静岡の浜松だっけ?」
「三ヶ日です」
「じゃ、みかん農家?」
「はい、と言っても栽培主は金持ち農家なので、うちは契約で切り子という請負い仕事をしてます。夏芽の剪定、摘芯、摘葉、摘果、収穫などです。いまはちょうど収穫時期で忙しいので、子供も駆り出されますし、各家に人の出入りもあって、神無月さんに目を配れません」
「ほんとに、走って、バットを振るだけだよ。放っておいてくれればいい。起伏のある道を走りたいだけなんだ。食事は適当に外でするし、寝るのは蒲団部屋でいいし、どうにかなるさ。二十四日から三泊ぐらい。ご両親の仕事のじゃまはしない」
「そうはいきません。神無月郷が泊まるんですよ。ないがしろにはできません。うちだけじゃなく、そこら一帯パニックになります。それに、実家は湖畔に近い平坦な土地にあります」
「湖畔?」
「はい、浜名湖の北の猪鼻(いのはな)湖。瀬戸という水道で浜名湖とつながってます。とにかく平らな土地で、家も固まって建っているので、トレーニング場所はほとんどありません」
「それでもいいんだけどな。山の手へ走ればいいだけのことだから」
菅野が、
「心配ですね。ついていこうかな」
主人が、
「菅ちゃんがいったら、ますます泊まり切れんやろう。神無月さんはこれから毎年オフに一人でトレーニングする定宿を作りたいんだよ。取っ掛かりの場所やな」
カズちゃんが、
「やっぱりメイ子ちゃんも実家に帰ったら? 猫の手も借りたい時期だから、重宝されるわけだし、キョウちゃんもほっといてもらったほうが動きやすくなるわ」
「この時期に私が帰ってもじゃま者扱いされます。そうなると神無月さんが気兼ねして気の毒です」
「じゃま者か。……たしかにお盆や正月に親や子供にお土産もって帰る場所よね、実家って」
「ほかの場所を探すしかないか……」
カズちゃんが、
「でも、湖のそばなんて絶好だと思うわ。湖に注ぐ川があるから、かならず山の手があるはず。走るのに最適よ。ほかの場所といっても、簡単には見つからないでしょう。キョウちゃんは独特の直観で、メイ子ちゃんの家にしたいと思ったのよ。別にメイ子ちゃんの家に拘らなくても、食事がきちんとできる旅館に泊まればすむんじゃない? あるかしら」
「あります。実家から十五分ほど北へ登ったところに、よろずや旅館というのがあります。三ヶ日でたった二軒あるうちの一軒で、安いので浜名湖一周のサイクリングをする人なんかがよく泊まってます。小ぎれいな老舗旅館ですよ。もう一軒は三ヶ日駅前の割烹旅館ちぐさ。四階建てのビルで、神無月さんは落ち着かないんじゃないでしょうか。よろずやから山手にかけて長いゆるい坂道になってますから、ランニングには最適だと思います。坂の途中に、私の娘がかよってる三ヶ日西小学校があって、そこを登り切ると、浜名惣社神明宮という神社になってます」
「そりゃいいね。偶然だけど、いいトレーニング場所が見つかったみたいだ。電車はどうやっていくの?」
「名古屋から新幹線で豊橋、そこから東海道本線に乗り換えて新所原(しんじょはら)、もう一度二俣(ふたまた)線に乗り換えて五つ目が三ヶ日です。二俣線は一時間に一本か、多くて二本なので、うまく乗り継ぎができないとたいへんです。それでも名古屋から二時間あれば着きます」
八
木村しずかが帰ってきた。ソテツと幣原が遅いおさんどんをする。キッコも帰ってきてすぐ階段を上がった。尻に声を投げる。
「ケッパレよ」
「ケッパル」
ムッちゃん、千佳ちゃんと呼びかけている。
「ちょっと教えてほしいんだけど」
主人と菅野が、ワールドプロレスリングを観ている。かよいの賄いが帰りはじめた。九時二十五分。カズちゃんたちと立ち上がり、座敷に別れを告げる。夜道に出て、キクエの出発時間のことを言う。みんなで新幹線口に向かう。素子がカズちゃんに、
「キクちゃん、心細いやろな。知らん人と二十日間も」
「あの子はだいじょうぶ。マイペースだから」
改札口の売店でキクエが週刊誌を物色している背中にぶつかる。カズちゃんが寄っていって声をかけ、二冊買ってやった。キクエは私たちに手を振り、跳びはねるように改札を通り抜け、もう一度大きく手を振って階段を昇っていった。素子が、
「キクちゃんを見とるとうれしなるわ。うちらみんながつながっとる、愛し合っとるとわかるで」
カズちゃんが、
「栄養学の予習、ちゃんと進んでる?」
「ぼちぼち。来年四月から栄養学校で一番通したるわ」
「自信満々ね。じゃ、ちょっとテスト」
アイリスまでの道でカズちゃんが何問か出題する。
「基礎問題よ。三問出すから、二問正解で基礎ができてると見なすわ。第一問、セチルコリンは胃液の分泌を促進する」
「×。胃の運動と胃酸分泌を促進するのはガストリン」
「オッケイ。ほかに促進するものは?」
「ヒスタミン」
「よろしい。第二問、筋肉のグリコーゲンは、血糖値の維持に利用される」
「×。血糖値の維持には肝臓グリコーゲンからのグルコースが利用される」
「オッケイ。エネルギー源としてグルコースを利用しているものは?」
「赤血球と脳」
「よろしい。第三問、空腹時、脳がエネルギー源として利用するものは?」
「ケトン体」
「正解。ケトン体について説明せよ」
「脂肪の分解により肝臓で作られ、血中に放出されるアセトン、アセト酢酸、β―ヒドロキシン酢酸のことをまとめてケトン体と言う。ケトン体は、食物をしばらく摂取せずに栄養が不足したときや、長時間の運動をしたときにエネルギー源として使われるものである。ケトン体は血液の循環に乗って脳や筋肉へと分配されていき、最終的にエネルギーの素となるブドウ糖に変わり、からだを動かすパワーとして使われる」
「完璧。三問中三問正解。栄養学校の一番を保証するわ」
メイ子が、
「素子さん、すごい!」
百江が、
「ただただ驚きです」
「お姉さんも、大学出てから十何年も経っとるのに、よう憶えとるわ。おっとろしい」
素子は私に口づけをすると、アイリスの隘路の先の階段を昇っていった。
「メイ子ちゃん、さっきの切り子の話でふと思ったんだけど、お父さんはむかし、自分でみかん農園をやっていた人だったんじゃない? 浜松で」
「……はい、そうです」
「あなたが〈出稼ぎ〉をしなくちゃならなくなった理由は、きっと、その経営がうまくいかなくなったからね。……これは予想だけど、伊勢湾台風が原因でしょ。それで浜松から三ヶ日に移ったんでしょう。切り子としてやり直すためにね。実家が困ってというわけじゃない、男に捨てられて云々かんぬんと言ってたけど、そうじゃないわね。やっぱり実家が困ったのね。北村にきたのがちょうど五年前だもの。やっとわかったわ」
「……すみません」
「謝ることはないわよ。田畑の凶作って首吊りものだというのは常識だから。同情されすぎるのがいやだったんでしょう? メイ子ちゃんの性格ならそうよ。バンス、たしか百万だったけど、養育費だけにしては多すぎると思ったもの。男の人のほうはもういいわ。きっとその人も経済的な負担に嫌気が差したんでしょうから。根性なしね」
「いつかもお話しましたが、浜松のほうの被害は大したことなかったんです。ただ、そのあと〈すす病〉というみかん特有の病気にやられて、ほとんど全滅しました。農薬散布が効かないほどアブラムシやカイガラムシが大量発生して、その糞にやられたんです。農家の三男坊の夫はもともと甘やかされて育ったせいでこらえ性のない人でしたから、そういう毎日に不満が募って、飲み屋の女とできて出ていきました」
「そう……それから離婚届が送られてきたんだったわよね」
「はい」
百江が、
「お子さんはスクスク?」
「はい、明るい子で、家のお手伝いもよくする子です。来年四年生になります」
居間に落ち着き、コーヒー。NHKニュースの焦点をやっている。衆議院師走選挙、安保自動更新阻止、テレビ政見放送開始、投票日二十七日、同時に最高裁判所裁判官国民審査。チンプンカンプン。
「選挙にいく?」
「いかない」
「いきません」
「私も」
「国民審査って何?」
「裁判官の名前が何人か投票用紙に印刷してあるの。実績は新聞に発表される。それをちゃんと読んで、その人のままでいいと思ったら無記入、問題ありと思ったら×を打つ。それだけ。審査なんてしないわ」
特別機動捜査隊に落ち着く。名古屋テレビ、石狩の女。四百二十三話。退屈。
「名古屋テレビは今年、久屋大通公園に〈希望の泉〉を寄贈したのよ」
「十月だったね。三段皿の滝」
テレビを切って、女たちはメイ子の離れに引っこむ。私は机に向かい死刑囚最後の日にかかる。一時半読了。嘆願哀訴にも関わらず、〈名無し〉の死刑囚は断頭台に引っ立てられた。最終行は、四時! 長いあとがきを読む気力がなく、後日に回す。
†
十二月十一日木曜日。七時起床。快晴。一・九度。うがいから始まるルーティーン。ひさしぶりにふつうの便。体調万全。百キロバーベル三回で止め。
朝食のテーブルに百五十グラムのステーキ。もちろん食い切れない。八時にやってきた菅野に回す。菅野は喜んで平らげた。
「小腹オーケー。出かけましょう」
三人の女に見送られて走り出す。太閤通口へ出て、駅の西側をガード沿いに走る。則武のトンネルを過ぎ、則武一丁目の信号、亀島のトンネルを過ぎ、亀島の信号、外堀通りに突き当たる。
「初めての走路ですね」
「はい、気まぐれに線路のこっち側を走りましたけど、新鮮ですね。昭和三十二年のきょう、百円硬貨が発行されたんですが、それまでの百円紙幣はだれだったか憶えてますか」
「白ヒゲの板垣退助」
「正解」
新鮮な道を黙々と走る。やがて栄生のガードに出る。牧野小学校から十八分。左折して鳥居通へ入る。
「あそこ、いつかいった蕎麦屋の竹井。大晦日にきますよ」
「ほい。……神無月さん、ふつうの感覚って、やっぱり経験不足の産物ですかね」
何だ?
「経験があっても、ふつうのままでしょうね」
「やっぱりね。じゃ、私はもともとふつうじゃなかったんだ。神無月さんを好んでずっとくっついている人たちもみんなそうだな。神無月さんが怖がってるふつうの人たちは、どんな経験をしても固定観念が揺らがない人たちですよ」
よくわからないまま応える。
「多くを知りすぎて、経験をただの知識として蓄えるから、学ぶことを忘れるんだね」
私はしばらく菅野の言葉の意味を考えながら走った。十王町、本陣通三丁目。これを左折すれば亀島のガードトンネルだ。
「あ、わかった、セックスのことですね」
「はい。セックスはだれでも経験する、理屈でわかっていても他人のセックスには嫌悪感を覚える、だから直接見たくない、それがふつうの感覚です。その感覚に訴えるものをスキャンダルと言うんでしょう。でも、私たちは嫌悪感が湧かないのでスキャンダルと思わない。神無月さんにとっては私たちは怖くない人間です」
「そうです。北村席の親しい人たちや、ドラゴンズの親しい人たちは怖くありません。ぼくが怖いのは、スキャンダルという世間が立てる波じゃなくて、親しくないふつうの人びとの嫌悪感というやつです。だから、彼らの感覚を波立てないように、自分の性的な行動は極力ひた隠しにしてるんです。ひた隠しにすることが彼らには常識中の常識ですから、たとえイメージが頭に浮かんでも、具体的な図が目に触れないかぎりは何の感覚も催しません。とにかく自分も同じ姿だという真実を実際に見たくないんです」
「それを〈ふつう〉と言うんですね」
「はい。ぼくたちのようなヤカラは、自分の真実を他人の姿から知ることを心地よく感じる変種です。ふつうじゃない少数派です。ふつうの感覚では生きられない。だからこそ支え合って生きていく必要があるんです」
「はい!」
中村日赤前、鳥居通四丁目、左折。日赤からいつもの遊郭街を走っていく。
「また女の子は増えましたか」
「四人きて、一人採りました。二十六歳。岩手の中学を出て名古屋にきて、明道町の丸川製菓で十年働いたまじめな子です」
「丸川製菓って有名なんですか?」
「大企業とは言いませんが、大きい会社です。オレンジのフーセンガム憶えてませんか、四角い小さいパッケージ」
「ああ、あれ、みかんの断面図」
「梱包、箱詰めの仕事を十年まじめにやった女です。美人じゃないですが、男を安心させるおっとりした雰囲気があります。千鶴ほどの美人はなかなか見つからないですよ。北村席にはたくさんいますけどね」
「バンスは?」
「それがないんです。めずらしい」
「なんでこの仕事に……」
「事情はみんな同じです。クニの実家への仕送りです。兄弟が多いらしくて」
北村席帰着。栄生から十四分。合わせて三十分強。まだ九時にならない。女将が稲荷の掃除をし、賄いたちが落ち葉を掃き、主人はジャッキを従わせて庭の立木の冬芽を視て回っている。菅野とシャワー、朝めし。ソテツと幣原がおさんどん。直人が登園の仕度をする。ソテツが、
「幣原さん、きょうお誕生日なんです」
「そう、おめでとう。プレゼントは何がいいかな」
幣原は顔の前で懸命に手を振ると厨房にあわてて逃げていった。千鶴、三上、カンナを抱いたイネがトモヨさんと直人を送り出す。庭をいく直人が、主人や女将と声をかけ合っている。睦子と千佳子も出かけていく。
「ソテツ、まだ、だいじょうぶ?」
「神無月さんが私をほしくなって、私のからだで喜んでくれないとつまらないです。なるべく襲うようにしてください。みんなそうされるのを待ってると思います」
人は愛する人間がいるだけでは満足しない。その愛する人間が自分の力で報われないと。
「約束しないで、襲うようにするよ」
「お願いします」
私も庭に出て、主人といっしょに冬芽を観る。小豆のような桜、梅、丸っこいツバキの芽、風が研いだようなクロモジやヤマボウシの愛らしい芽を見て、心がみなぎる。
「お父さん、いまから渥美半島の先っぽにいってきたいんですが」
「おお、いってらっしゃい。一人旅はあかんですよ。電車が三河田原までしかいってないから不便に泣かされます。おーい、菅ちゃん」
座敷に入る。事情を言うと、
「三河田原から伊良湖岬まで二十キロはあります。レンタカー屋もないんですよ。ここから車でいくしかありません。いっしょにいきましょう」
「宿は角上楼。伊良湖でいちばん古い旅館です。半島の先っぽは、海と灯台以外何もありませんから、車で巡ったらええわ」
「九時半か。十時に出て、向こうに二時ぐらいかな。さっそく出かけましょうか。社長、角上楼に三時までに二人チェックインすると電話しといてください。それから天神山にもお願いします。あしたの夕方には帰ります」
一家があわただしくなる。ソテツと幣原がコブとオカカのおにぎり弁当を作る。おかずはウインナーと卵焼き。千鶴が二本の魔法瓶に茶とコーヒーを用意する。折よく戻ってきたトモヨさんが、びっくりして離れへ走っていき、下着と洗面道具を二人分用意して戻る。
「思い立ったら、ですね。いい思い出を作ってきてください」
北村夫婦と賄いたちが門に見送る。クラウンデラックスに乗る。使用頻度がいちばん少ない車だ。
九
名駅通から大須通へ出て右折、中川運河を渡り左折、南下する。いつかきた道。四女子町から松葉公園、昭和橋通、東海通、左へいけば東海橋、そしてずっと向こうに千年の交差点。目の前に土古競馬場。ここまでは見覚えあり、ここからは初体験になる。土古(どんこ)競馬場を右に、土古公園を左に見ながら信号を抜ける。
「席を出てからまだ二十分経ってないのに、もう港区……」
「車の少ない道ですから。微妙にアスファルトが新しくなってますし」
運河を越えてトヨタ関係の倉庫や工場ばかりになる。築盛町、名四町、左折。
「豊橋方面国道23号線、名四国道に乗ります」
幅広の中川運河を渡る。グイグイ走って大きな川を渡る。
「このでかい橋は港新橋です。川は堀川ですよ。いま十時二十七分。さあここから一時間半、単調な道路になります。右も左も鉄筋住宅とガードフェンスだらけ」
しばらく沈黙。広いきれいな川を渡る。
「天白川です。ここを渡ると東海市で、もう名古屋市じゃありません。天白川と矢田川は清流です。さっき堀川の次に渡ったのは山崎川です」
「雅江のお母さんがいつか、大瀬子橋の下を流れる川を山崎川と言ってたけど、あれはやっぱり堀川で、下流で合流する川が山崎川だったのか」
菅野は路肩に車を寄せ、フロントのボックスから地図を取り出して眺める。
「なるほど。いま、知多半島の根っこを走ってます。刈谷市、西尾市と通って蒲郡市までいきます」
出発。ふたたび沈黙。やがて、
「なぜ急に渥美半島にいきたくなったんですか」
「お父さんといっしょに冬芽を見てたんです。じっとからだを固くして、春に咲く準備をしてる芽です。希望そのものですね。それを見ているうちに急に胸がふくらんじゃって。広い空の下でたくさん空気を吸いたくなった。べつに渥美半島である必要はなかったんだけど、山は登る手間もあるし、裸山でないかぎり空が少なくて少し息苦しいから。で、海に近いほうをと……。二年前に知多半島にはいったので、もう一つの半島にもいってみたいと思ってね」
「……神無月さんはいつも、空のことを言いますし、フィールドでも空を見上げてることが多いですよね。ほんとに、空がふるさとで、空が神無月さんの希望の出発点で、そして終点かもしれない。最初から天馬と言われたのも、そういうことだったんでしょう。みんな一目でわかったんですよ」
心なしか空が広くなってきた。雲が輝いている。左右に田畑が拡がり、農家が固まって点在するようになる。
「矢作川を渡りますよ。西尾市に入ります」
低かった山並がほんの少し高く迫ってきた。左右に田畑と林と農家。その景色が長く長くつづく。丘のような山の連なりが急に寄ってきた。民家も山裾に固まる。
「上大内(かみおおち)です。蒲郡市に入りました。ここまで出発から一時間半です。適当なところで車を停めて、弁当を食いましょう」
適当な場所が見つからず、それから三十分ほど車を走らせる。蒲郡競艇場というのがあった。四階建ての直方体。スコアボードを裏から見たような形をしている建物だ。
「開催してるようですよ。ここで一服ですね。仕方ありません。公園すらないんですから」
「おもしろそうだ。やったことあるんですか」
「一度も。それよりめしです。ちょうど十二時ですよ」
だだっ広い駐車場に車を停め、中央入口で五十円の入場券を買って入る。二人まずトイレにいった。菅野は小便をしながら、
「たまに死亡事故もあるそうで、出くわしたくないので端っこの席で食いましょう」
「ですね」
券売場の傍らにあった選手の写真入りの出走表という大型の紙を手にとる。第二日とある。記載の細かさに、この世界にも長い歴史と、深い知識の累積があると感じさせられた。予想紙は売っていない。みんなスポーツ新聞を握っている。思った以上に混雑しているフロアの人群れを抜けて水辺に出る。足もとに広大な水面が拡がる。左手に山並が見える。薄雲の欠けらを浮かべた空がどこまでも高い。爽快だ。
専門用語が飛び交っている。投票券は舟券と言うようだ。ピット、バナレ、進入、スロー、前づけ……。
岸辺からファンファーレとともにダーッとやってきたボー群に驚く。コーナーを回ると突然プカプカ六艘のボートが好きな位置と間隔で浮きはじめる。場内放送で第三レースとわかる。番号順に浮かんでいないところを見ると、枠順に関係なくどのコースからスタートしてもよいようだ。水辺の端まで歩いていき、大時計のそばのコンクリート階段に腰を下ろす。割箸を手に、握り飯にかぶりつく。菅野が、
「ああ、うまい、さすが!」
割箸でウインナー、卵焼き。私も、
「うまい、さすが!」
何やらハイテンポの音楽がかかる。しばらくして柔らかい音楽に変わり、いったん売り出した投票券は交換しないという注意が終わると、投票締め切りになる。もう一度ファンファーレ。スタート。ものすごい音量だ。一番のボートが先頭を切ったきり、一周、二周まったく順番が変わらない。何だこれは。スタートのままではないか。三周目、ジャンが鳴る。最後のコーナーを回ったあたりで、
「あ、ダンプ!」
観客が叫んだ。三番手のボートが追いこんできた四番手のボートにジャンプして乗り上げたのだ。大事故かと思ったら、三着と四着が入れ替わってゴールしただけだった。ふたたびおにぎりに戻る。菅野が、
「何ですかね、ダンプって」
「ドスンと落ちることのようですね。ウンコはダングと言います」
「ハハハ」
弁当終了。すぐに腰を上げる。
「差したり追いこんだりしないレースは嫌いです」
「機械でやるレースの宿命ですね。大金を張る人たちのギャンブルでしょう」
十二時半。低い町並の上に拡がる高い空に向けて出発。草原、工場、二階建ての民家。捨石川を渡る。
「これが捨石川か。見たことはありませんけど、花見の季節には何十もの鯉のぼりが岸から岸へ架け渡されることで有名らしいです。蒲郡名物と言われてます。新聞に桜と鯉のぼりの競演と載ってました」
給油。魔法瓶のコーヒー。出発。丘の裾に民家の集落。信号が現れはじめる。食い物屋の姿もちらほら。一キロほどビニールハウスの連なり、田畑、農家。しかし新しい民家の列が全体の調和を崩す。
「豊川市です。豊川を渡ります。右手が三河湾になります」
川面もアスファルトの道も陽光に反射してテラテラ光っている。新造の町並だとわかる。新しく通された路ではないかと思った。
「この道路は?」
「上大内で国道23号線から247号線に替わりました。四年前にできた道路です。もうすぐ十能で23号線に戻ります。そのあと豊橋市の大崎まで23号線がつづき、そこから右折して田原街道に入ります。道なりに三十キロ弱。一時間で到着です」
「ここから大崎までは?」
「二十分です」
「あと一時間二十分。着くのは二時二十分くらいか」
「予定を少しオーバーしますけど、道草を食いましたから。でも、予定の範囲です」
十能を過ぎる。日本じゅう同じ景色だとしみじみ思いはじめる。時代によって少しずつ変わっていく同じ景色の中に人間は暮らしてきた。何十万年、何百万年も。
「柳生川を渡ります」
同じ景色。
「梅田川を渡ります」
同じ景色。だれかが地主で、だれかが家主の同じ景色。それを太古と同じ空が覆っている。
「大崎です。右折して田原街道に入ります」
菅野はもう一度車を停めて地図を確かめた。すぐに田畑が途切れ、田舎の新開地の様相を呈する。信号と車が増える。野辺地の農道とそっくりだ。いくらもしないで田畑と農家に戻る。信号が途切れ、車が少なくなる。ポツンと愛知農協の大きな建物と広大な敷地。巨大なオランダ風車をシンボルにした喫茶店。
「帰りに寄ってみますか?」
「忘れてなければ」
二十分、三十分、まったく景色が変わらない。広大な農村地帯なのだ。菅野は右の丘のほうを指差し、
「あのあたりが、豊鉄渥美線の終点ですね。三河田原」
「そこから二十キロでしたね。あと二十分か」
「地図だとそろそろ海が見えてくるころですよ」
「渥美湾」
「はい」
ビニールハウスの列、大きな種苗スーパー、右に丘、左に田畑。やがて箱庭のように小ぎれいな町に入る。田原野田。伊良湖岬19kmの標示板が出る。路肩の木立のあわいにチラと海が見えた。上りの坂道から木の間隠れに海が見えつづける。やがてまばらな松並木が途切れとぎれになり、しっかりと水平線まで海が見通せた。
「もう十分もないですよ」
海が隠れ、古い民家が建て混んできた。
「ああ、そこに学校がありますね。見ていきましょう」
渥美町立清田小学校。校舎、運動場すべてが枝桜に囲まれている。春は花園になる。車を寄せて降り、門柱しかない正門から入る。宮中のような木造校舎。音楽室から聞こえてくる唱歌。クリスマスソングの練習をしている。隣り合わせの広い運動場には、首から笛を垂らし眼鏡をかけたトレパンの教師と、短パンとブルマーの男女生徒。きびきびと陽光のように明るい。貸本と歯笛と映画と野球のせいで、私に縁がなかった小学生時代。私も彼らと同じことをしたにちがいないけれども、疎んじて避けた明るい時代。
車に戻る。クリーニング屋、ガソリンスタンド、二階建てアパート、石材店。分岐する細道が増え、家並に温度がこもる。お食事処旅館玉川、喫茶アップル、古民家、洋菓子シャンゼリゼ、五階建てマンション、福江市民館、民家に囲まれた野球場くらいの広さの駐車場。このあたりの居住民のための駐車場だろうか。
「うへ、車一台の道ですね」
駐車場の前の小径へ入り、ひと曲がり、ふた曲がり、ノロノロいく。
「おー、ここだ。着きましたよ」
ピンクのブラウス、黒い前掛けと黒いズボンの中老の仲居が迎えに出ている。待ちかねた様子はおくびにも出さず、車に向かって丁寧に辞儀をする。玄関前の、十台ほども停まれそうな広い駐車場に車を入れる。すでに二台停まっている。駐車場の背後に庭木が茂っている。私たちが車から降りると、仲居は走り寄り、
「神無月さま、ようこそいらっしゃいました!」
「お世話になります」
菅野と二人同時に応える。旅荘の正面を見上げる。瓦屋根の遊郭ふうの二階家だ。瓦の上空にイワシ雲が群れている。すばらしい。棟つづきで、合船場の五倍もありそうな、瓦屋根に板塀の民家が建っている。これも宿の一棟だろう。
和味の宿 角上楼
立派な看板が庭木の端の礎石の上に立っている。なごみ、と読むのだろう。老爺に近い従業員や、黒前掛けの仲居たちが玄関に出迎える。玄関の脇壁の下部がタイル貼りだ。花街の建造物の特徴だ。
「いらっしゃいませ!」
「いらっしゃいませ!」
二階に昇る階段の右に戸つきの古びた電話ボックスがあり、昭和初期の筒式電話が掛けてある。きちんと使えるようだが、使う人はいないようだ。館内にはふつうの卓上電話機が備えられている。階段の左には、足灯と壺に足もとを飾られた台に花瓶が置かれ、水仙が活けてある。細かな飾りつけや備品はちがうが、部屋や廊下の配置と広さがどことなく北村席の造りと似ている。置屋よりは派手な造りなので、この家は花街の茶屋だったにちがいない。
車を出迎えた年増の仲居が、こちらへどうぞと導く。女将だったようだ。八帖敷きの三和土の土間。大きな引き戸式の下駄箱。広い上がり框と広い式台。スリッパがない。
「靴下のままどうぞ。お寒くなければ素足で。松の木の肌合いが感じられます」
手入れの行き届いた杉板の風合いが美しい。廊下に香のにおいがただよっている。四方が透明な硝子障子の待合室へ通される。その一室を中廊が取り囲んでいる。二重のガラス窓越しに中庭の樹木が見える。腰高の囲炉裏がある。傍らの木椅子に坐る。囲炉裏の枠板で記帳。コーヒーと茶菓子が運ばれてくる。老爺と数人の仲居もついてきた。女将が、
「ようこそいらしてくださいました、角上楼の誉れでございます。末代まで語り継がせていただきます。当旅館は昭和元年の創業でして、今年で四十三年目を迎えました。十年ごとに改装改築を施しながら、開館当時の新しさを保っております。とりわけお風呂設備は万全でございます。水は地下百五十メートルから汲み上げた天竜川の伏流水を使い、ボイラーで焚いております。四十二度に設定してございますが、熱いと感じられましたら水で薄めてくださいませ。温泉ではございませんが、湯当たりが柔らかいとみなさまからご好評をいただいております。どうぞごゆるりとおくつろぎくださいませ」
菅野が一服つける。仲居たちを背後に従えた老爺が、
「お食事は、渥美半島近郊で獲れた新鮮な旬の魚介を最高の味わいでお召し上がりいただく〈郷土の幸〉プランでございます。また、天然トラフグは当館自慢の冬の名物料理でございます。なお、こちらが本館、脇の棟が別館でございまして、神無月さま菅野さまのお部屋は、本館二階の十畳に八畳の和室、萩の間でございます。当館で最も豪華な和室でございます。トイレは水洗、お風呂は内風呂か一階奥の貸切り風呂をお使いください。空いていれば二十四時間いつでも使えます。どちらもヒノキ風呂になっております。別館には大風呂もあり、もっと広い洋室、洋和室もございますが、本館の萩の間でよろしいでしょうか」
「文句ありません。宿泊料金は?」
「日本一の野球選手のご入来ですので、すべて無料でおもてなしをする所存でございましたが、予約をくださった北村席のご主人さまより、神無月さまは過ぎた歓待を好まない気質だとお聞きしましたので、ご夕食代だけ、お一人さま九千円ちょうだいすることにいたしました。そのほかはすべてサービスさせていただくことをお許し願って、当館の喜びとさせていただきます」
「わかりました。ありがとうございます」
頭を下げる。菅野も煙草を消して頭を下げた。