七十九

 じっちゃがカズちゃんに、
「栄養関係てのは、どたら大学がな」
「女子大の栄養学科で、栄養学の勉強をするだけのものです。卒業すると栄養士の資格をもらえます」
「腕に職のあるのはいいこどでェ。まんいぢのとぎに当座を凌げるすけな。だども、大事なのは資格でね、ふとだ。それがしっかりしてねば、資格を使って生ぎでもつまらね。あんたは大学なんぞ出でねくても、資格がねくても、ふとがでぎでら。キョウに見合ったオナゴだ。これはぼんやりした男だども、人間は特級品だすけな」
「じゅうぶん承知してます」
 じっちゃは煙管を叩いて立ち上がり、
「だば、ワは二時間ぐれひと眠りするすけ、おめんどはメシけばいんだ」
 まだ四時になっていない。カズちゃんも東奥日報の連中もびっくりしたようだが、表情に出さない。カズちゃんは、
「おやすみなさい。すばらしいお話、胸がいっぱいになりました。ありがとうございました」
 じっちゃが部屋に引っこんでから、ホタテの宴が始まった。天板の上で開いた貝に味の素と醤油を注ぐだけの簡単な味つけだが、うまいことこの上ない。カズちゃんはおいしいおいしいと言いながら、男どもが二枚食っているうちに、五枚ペロリと平らげた。ばっちゃはその食いっぷりに大いに満足したようだった。
「浜さこれ持って回るべ」
 箱を二つ風呂敷に包む。私はカズちゃんを見て、ニヤリとした。
「あんべ。ちゃんと服着てな」
 浜中たちも立ち上がった。丹生が、
「歩いていきますか? 車でいきますか?」
「だあ、車たら。歩ぐべせ。すぐそごだ」 
 出かける前にみんなで順番に、裏土間の便所にいった。小便器、水洗の大便器を整えたきれいな便所だった。台所に掛け渡してあった渡り板は外され、土台のしっかりした幅広の板床に替わり、めし炊きクドは、一対きちんと機能するように台所土間に残してあった。
 何カ月か暮らした経験があるとはいえ、雪混じりの道の歩き方に慣れていないカズちゃんは、じっちゃのゴム長を借りた。大きく見えてもカズちゃんと同じくらいの背丈しかないじっちゃの文数は、ぴったりと彼女のそれと同じだった。ばっちゃは雪下駄、私も男たちも革靴のまま歩く。和田電気、田島鉄工、共同井戸。カズちゃんがばっちゃに、
「けいこちゃんの踏切ですね……」
「おお、味噌屋のな。キョウはそたらことも話してらのが。仲のいいこだ」
「キョウちゃんは何でも話してくれます。毎日がうれしくて、楽しくて」
「だべな。……結婚すのが」
 カズちゃんは薄氷の張りかけた道をゴム長でしっかり踏みしめながら、
「いいえ、私はいまのままでじゅうぶん幸せです。両親もわかってくれてます。キョウちゃんの行動のじゃまになることはしたくないので」
「だあ、じゃまになるってが。郷のほうが、あんたのじゃまだべ」
「まさか。私、キョウちゃんが死んだら、生きていません」
「……ンだが。ありがてふとだ。これも、女で人生曲げられた男だすけな」
「その人は、バチ当たりです」
 カズちゃんはとぼけて言った。ばっちゃが鼻をすすった。まったくじっちゃの悪口が出ない。カズちゃんに感化されて、じっちゃに出会ったころの心境を思い出しているのだろう。浜中が、
「和子さんは、神無月さんの母親のような存在ですよ」
「おお、スミがあったらオナゴだすけ、郷もやっと母親ができたようなもんだ。じっちゃがへってらったべ、スミはつれね親だて。……郷をくれぐれもよろしぐな」
「安心してください。それより、お祖母さんもお祖父さんも、健康で長生きすることが肝心ですよ。いつまでもキョウちゃんのふるさとで生きていてくれないと、キョウちゃんもこうして訪ねてくる甲斐がないでしょう?」
「オラんどはだいじょンぶだ。足腰はわんつか弱ってきたけんど、アダマはしっかりしてるはんで。とぐに、じっちゃはな」
「あんなすばらしいお祖父さんはちょっといませんね。お祖母さんは幸せです」
 ばっちゃは、初めて見るような手放しの笑顔を前方に向けた。浜坂を下っていく。丹生は二人が並んで歩く姿を何枚か後ろから撮った。
「うわあ、五年前より海が明るい!」
「一年になんべんもねど、こたら海は」
 坂本の女房は戸口に出てきたとたん、わざとらしく相好を崩し、
「おいや、あねちゃ、いらっしゃい、あらァ、キョウちゃんも。日本一のプロ野球選手の里帰りが? ワイハァ、このふとたぢカメラ担いで、何だべ。新聞記者さんがい?」
 浜中が、
「東奥日報です。図々しく押しかけてすみません。神無月さんの帰省の記事を年末の特集に組むために、こうしてついて回ってます」
 ばっちゃが得意げに、
「東奥日報は一年じゅう郷の記事載せでるべ。郷やら周りのふとやら何日か撮るんだど」
「ほんだの。野球日本一だもの、あたりめだべせ。どんぞどんぞ、撮ってけへ。ほやァ、そちらさん、外人さんだべか」
「郷が連れてきたのい。れっきとした日本人だ。カクトの顔だべ」
「イツミちゃんはきれいだっばって、やっぱし日本人面だべ。キョウちゃんのいい人だってが。ま、上がってけへ」
 坂本が相変わらずストーブにあたって晩酌していた。かすかに頭を下げる。
「日本一になったこだ。おめでとさん。ま、上がって茶コ飲んで」
 女房が、
「カニあがってら。トゲクリでねけんど、食ってってけへ」
 坂本が、
「トゲクリは四月、五月しか獲れねんだ」
 さっきまで鳴っていた恩田のシャッター音が聞こえない。田代のデンスケも丹生のビデオも回っていない。彼らの好奇心をくすぐらないのだろう。相変わらず子供たちの姿はなかった。長男が漁師になり、次男が東京に出て品川の工場に勤めているということは、去年の夏帰省したときに知った。この家にかぎらず、家庭というものの秘密主義には、いつも不思議な思いをさせられる。その気配が四人の記者たちの好奇心を刺激しないのだ。基本的に秘密の中へ腰を引いた人びとからは何も引き出せない。ばっちゃがストーブの前に上がったので、みんなつづいた。私と男たちはばっちゃの後方に控えた。フラッシュが二度、三度光ったきり、やはりデンスケもビデオも動いていない。ばっちゃに並んでストーブの前に坐ったとたん、カズちゃんがためらいもなく言った。
「ご家族、お二人きりですか?」
 デンスケが回りはじめた。丹生がビデオを担ぐ。場合が場合なら失礼な質問になるのだろうが、坂本はカズちゃんの美しさにあてられたように頭を掻きながら、
「男わらし、二人いら。息子は朝から海さ出て、あご上げて、とっくに寝だ。次男はおっとし中学出て東京さいった。品川の鉄工場よ。さっぱし手紙コよごさなぐなった」
 カズちゃんは私に、
「男の子はキョウちゃんの同級生?」
「さあ、会ったことないから」
 女房が、
「そんだんだったってが?」
 亭主が、
「そんだんだ。皮肉れて、秀才のツラなんぞ見たくねってへってらった」
「ふんとにな?」
 女房はとぼけている。亭主が、
「馬鹿ケは、あったらふうだんだ。郷こそツラ合わせたぐねべ。本家のアダマと争って勝てるわげねんだ」
 初めてにこやかに笑った。複雑な秘密の底が見えた。ばっちゃは武士の末裔に嫁にいったが、妹は漁師と結婚した。ばっちゃに底意がなくても、妹にはあったのだ。暮らし向きが本家よりいいので、なおさらライバル心が燃え上がったのだろう。
「これ、うめ大福だず。名古屋の老舗のだど」
 ばっちゃは女房に大福の菓子箱を差し出した。妹は、どもども、とさっきの愛想をなくして素っ気なく受け取った。坂本がカズちゃんに、
「あんた、蟹、食うが?」
「はい、いただきます」
「おい、持ってこい。食い方知ってっが」
「いいえ」
「いま教えるがら」
 女房が持ってきた蟹を掌に、ひとしきり講釈をする。バリッと二つに割って差し出すと、カズちゃんは驚いた様子もなく素直に従って、いただきますと言い、さっそく指で味噌を舐めはじめた。おいしいと言う。ばっちゃはうれしそうにその様子を眺めている。男たちもそれぞれ倣って蟹を裂き、指を使った。
「あんた、いくつだ?」
 女房が訊く。
「三十五です」
「おんやあ、トシだでば! 二十八、九に見えたけんど」
「はい、キョウちゃんより十五も年上です」
「関係ねべ。本人同士がなんともねんだすけ」
 坂本がピシャリと言う。ばっちゃも、
「オラだっきゃ、この人なら、五十でも六十でもいいじゃ」
「だども、結婚となったらそうはいがねべせ」
「結婚はしません。形に縛られたら、キョウちゃんは大きく羽ばたけなくなります。先の長い将来のある人ですから、女ごときで道を塞ぎたくないんです」
 ばっちゃだけにこにこし、亭主は頭を掻き、女房は黙った。しばらくして女房はポツリと言った。
「若げうぢはそれでいいたって、あんたにも将来があるべ。遠慮ばりしてられねんでねの」
「私みたいなものの将来なんてどうにでもなります。才能のある人の将来は、じゃまされがちです。キョウちゃんの将来の助けとなるように、名古屋に喫茶店を出しました。十五人ほど従業員を使ってる大きな店です。キョウちゃんにまんいちのことがあって、私独りで生きていくことになったら、その店を人に譲り、そして、キョウちゃんの遺品の整理がついたら、この世にお別れするつもりです」
 坂本が感に堪えたふうにため息をついた。
「立派なふとだな。文句のつけようがね。ばばちゃ、蟹二、三バイ持ってげ」
 ばっちゃは新しい涙を流していた。女房がしみじみ言った。
「キョウちゃんみてな男には、あんたみてなオナゴがつくんだべな。羨ましじゃ。うぢのガキどもは、まんずロクでもねのを連れてくるこった」
 ばっちゃは関節の曲がった指で涙を拭きながら、
「郷もつまらね女と、すったもんだしたことがあったんだず。郷とかがわりなく、このふとが立派なのせ。救われだのは郷のほうだ」
「ほんだべなあ。キョウちゃん、不良だったすけなあ」
 カズちゃんは心外そうに、
「キョウちゃんは誠実な人です。不良だったことなど一度もないんですよ。だれよりも真剣に生きてきただけです。真剣に生きていると、周りに合わせられないことが多くなります。私はキョウちゃんのお母さんと職場がいっしょでしたから、小学生のころからキョウちゃんを見てきましたし、こちらに送られたときの事情もぜんぶ知っています。キョウちゃんは、愛する友だちと女の人に打ちこんだだけだったんです。それで何もかも奪われてしまって……」
 女房が考えこんだふうに言った。
「親が親らしくねたって、子供が勝手なまねしていいってこどにはなんねんだ。悪い親のためにも、やさしい気持ちコあってこそ、孝の道も立つんだず。子が親をけなせば、親は子を憎むべせ。親子して我を通せば、世の中無茶苦茶になるべ。ほんだすけ、子というのはニシ―」
 カズちゃんは微笑みながら、
「あなたはいい人のようですね。けれど、生きている人間の生身の苦しみや悲しみはわからないみたいです。忠と考、親と子、家と世間、そういう型どおりの考え方では、人のほんとうの苦しみや悲しみはわからないものです」
 ばっちゃが押しとどめて、
「北村さん、もうなんも言わねんだ。ンガの気持ぢはわがってるすけ。スミが郷のタチをちゃんと見抜いでだら、なんも荒立ったことにはなんねがったんだ。―だば、オラんどは帰るすけ。またくるじゃ」
 立ち上がった私たちに女房はへこへこお辞儀をした。坂本はあぐらをかいたまま、深く頭を下げた。戸口まで送って出た女房は、ばっちゃに蟹と棘ウニを入れたバケツを渡した。カズちゃんに正対し、
「あんた、また野辺地さきたら、寄ってけへ」
「すみません、でしゃばったこと言ってしまって」
「なんもよ。あんたの気持ぢはよっぐわかるすけ」
「蟹、ごちそうさまでした」
 みんなであらためて辞儀をして、雪道に出た。丹生が、
「途中から機械を動かしましたが、いい絵と音が撮れました。かなり編集が必要ですけど」
 浜中が、
「音はよほど注意して入れないといけないね」


         八十
 
 浜坂の麓でばっちゃが言った。
「スミが和子さんみでな人間だったら、郷もどったらに丸ぐ生ぎられたか」
 カズちゃんはそれには応えず、海を見たいんですが、と言った。坂を戻らずに、七人でチッコまで歩いた。海からの風が冷たい。モンペ姿のばっちゃが首をすくめた。カズちゃんはチッコの先にたたずみ、だれに言うともなく言った。
「この海辺をあるいたのね。十五歳で。……悲しい。だれもそんな悲しみ、包んであげられない。でも、私はこの海を見たから包んであげられる。……キョウちゃん、好きなように生きてね。どんなことも、ぜんぶ包みこんであげる」
 デンスケだけが回っていた。使えないテープだろう。
「風邪ひくすけ、あんべ」
 海沿いの道を引き返す。ばっちゃは、じっちゃの弟の家には寄らずに、菓子袋を提げたまま踏切の前にきた。
「もう一軒、回るところがあったんじゃないんですか?」
 カズちゃんが訊くと、
「あしたでいじゃ。ふとのうぢで茶コばり飲んでもアンベ悪ぐなる。和子さんのおかげで気持ちコ、サッパリした。郷が同窓会さいったら、また二人で話コすべ」
「はい」
「きょうは、寝るべ。長旅で疲れてるこだ」
 六時前だ。浜中が、
「では、あしたの昼ごろにまた伺います」
 浜中たち四人は深く礼をして、そこからバンに乗り、馬門へ引き返していった。
 私たちは新しくなったばっちゃの十畳間で炬燵にくつろいだ。カズちゃんは節子のことを語りはじめた。奇跡の再会を説明したあと、
「節子さんは、キョウちゃんの深い愛情に心を打たれて、すっかり別人に生まれ変わったんです。もともと、身を焦がすほどキョウちゃんを愛していた人ですから、もとの自分に戻っただけなんですけどね。強い罪の意識をなくすのに長いことかかりました。とても良心的な、まじめな人です」
「今度遊びに連れてくんだ」
「はい、機会があれば。ただ、私たち女は、出歩いて目立たないほうがいいと思ってますから」
「ほんだな、あだりの人間が東奥日報さんみてなふとたぢばりとはかぎらねすけな」
「はい」
 それからばっちゃは、しばらく近所話をしてから、これも新しくなった勉強部屋に三枚重ねの蒲団を敷いてくれた。
 シュミーズ姿で蒲団にもぐったカズちゃんは、豆燭の下の薄赤い光の下で、いつまでもじっと私の机やステレオを眺めていた。
「悲しさに満たされた人生って、いいわね」
「うん、絶望やヤケじゃない、湧き水のような悲しみならね。……労災病院の不随者病棟の空気は澱んでて悲しくなかった。悲しみはああいうところからは湧き出ない。ダッコちゃんは背骨を折る前から悲しい人だったんだ。だから悲しくない仲間たちを嫌った。いまではよくわかる。人は生まれ持った悲しみの中で悔いを残さないように努力して、それなりに収穫を得ようとしなくちゃいけない。ダッコちゃんはそういう人だった。……ダッコちゃんはいまも生きてると思う」
 カズちゃんは私を抱き寄せ、頭を抱いてしばらく撫ぜていた。私は大きな胸に顔を埋め、いつしか深く寝入った。
         †
 十二月二日火曜日。六時に目覚めると、カズちゃんの姿はなかった。身が引き締まるほど寒い。服をつけて戸を引くと、すでにじっちゃが囲炉裏にいて、煙管を吹かしながら新聞を読んでいた。
「じっちゃ、おはよう」
「おう、よぐ寝れたが」
「うん、ぐっすり寝た。カズちゃんは?」
「ババと台所にいら」
 台所に二人の背中が並んで見えた。水を入れたコップを持って外で歯を磨き、道端の雪をコップに落としこんで口を漱ぐ。人が通りかかる。私は、
「おはようございます」
「おはようごぜいやす」
 愛想笑いをして通り過ぎる。居間に戻り、じっちゃの下座にあぐらをかく。
「じっちゃは、いくつになった?」
「七十四よ。七月で五になら」
「じゃ、ぼくが幼稚園のころ、やっぱり還暦に近いぐらいだったんだね。ぼくや義一がいて、たいへんだったろうね。それにしても、ちっとも変わらない」
「年とったじゃ。歯の具合が悪くてよ。医者にいがねばなんね」
「ぜんぶ自分の歯?」
「あたりめだ。ババとはちがう。人相変わるすけ、入歯にはしたぐねじゃ。おめのかっちゃは、歯も磨かね女だったすけ、まんだ二十歳にもならねうぢに、上の歯がぜんぶ入れ歯になったんだじゃ」
 それで嫁入りしたとすると、その事実を秘密主義の母に知らされていなかった父は驚き呆れ、裏切られた気分になっただろう。母の奥深い劣等感がそろりそろりとわかりはじめた。母はあまり父に抱いてもらえなかったにちがいない。酒にまかせてということが数回あっただけだろう。私は奇跡的に生まれたということになる。父の垂れた前髪、筆を持つ繊細そうな指先……父はじっちゃと同様、清潔を好む男だった。清潔な雰囲気の大女だったサトコを、いや、サトを鮮明に思い出した。手と歯の美しい女。それが私の決めている女の美の基本だ。手の美しさは遺伝的な美の素質だし、歯の美しさは清潔を求める習慣を面倒がらない律儀さの象徴だから。
 囲炉裏と縁側の中間に置かれた卓袱台に朝めしの支度ができた。じっちゃは相変わらず食卓に加わらずに煙草を吸っている。彼はだれともけっして食事をともにしない。めしは自分用の二合釜で炊き、惣菜も味噌汁も自分で作る。幼稚園のころから、彼が食事をしている姿をめったに見かけなかった。時間をずらしてひっそり食っているのだ。ものを食っている背中の記憶はぼんやりある。惣菜は魚一品と味噌汁だけで、四角いあごが動いている印象が強烈だった。どうして一人で食っているのかと子供にさえ問わせないほどの、根深い孤独がにおった。
 ホタテの煮つけと、蟹ピラフ。あとは野菜の炒め物。ピラフはカズちゃんが作ったのだろう。どれもこれも美味だった。じっちゃは私たちの団欒を柔和な笑顔で眺めていた。
「おじいさん、ちょっとこの焼きめし食べてみませんか。自信ないんですけど」
「どれ」
 と言って、じっちゃはカズちゃんの差し出した小皿とスプーンを受け取った。ばっちゃが目を瞠った。たしか高一の夏、長男の善太郎の娘のひなたがここに遊びにきたとき、ホタテとニエッコに箸をつけたことがあった。高二の夏にミヨちゃんを連れて帰省したときにも、これに似たようなことがあった気がする。しかしそれぐらいだ。いずれにせよ革命的なことだった。
「うめな。あんた、料理がじょンずだ。これならキョウも痩せる暇がねべ。野中さかよってだころは、ガリガリだったすけ」
 彼は小皿を平らげた。
「ホタテも、一つ、けねが」
 じっちゃが自分から食いものをねだった! ばっちゃの目がますます丸くなった。カズちゃんは貝柱を二つ載せた小皿と新しい箸を囲炉裏に持っていった。箸はぜったい共有しようとしないと、ばっちゃに聞かされていたにちがいないが、じっちゃはカズちゃんの律儀さと清潔さを信用したのだろう、こだわりなく手にとった。
「おいしいでしょ」
「おお、うめ」
 ばっちゃの目が潤んだ。私はカズちゃんを連れてきてよかったと心から思った。
 めしを終えると、無性に走りたくなり、バットも振りたくなった。
「野中のサブグランドで走ってくる。バットないかな」
 じっちゃが、
「裏に善司が使ったバットが何本かあら」
 これまで土間にあった天井棚はすっかり取り壊されて、一面に薄板がきれいに張ってある。だから〈裏〉というのはもう土間の奥のことではなく、じっちゃとばっちゃの部屋のあいだに造られた便所脇の物置のことだ。
 ばっちゃの部屋の洒落た磨硝子の戸を引いて、短い階段下の土間へ出ると、そこが物置だった。天井に届くほどの高さに組んだ木枠の中に大小の箱が積み重ねてあり、こまごました道具類も横にまとめてあった。かつて屋根が覆いかぶさって真っ暗だった土間納戸は、いまは大窓からの採光と蛍光灯のせいで明るい空間になっていた。小ぎれいに整頓された室内の隅に、むかし天井納戸にしまってあったスコップや鍬やスキー板などが立てかけられ、その中に野球のバットが二本雑ざっていた。木目がささくれている。二本とも握り心地がよかったので、なるべく手首に負担をかけないようその中の軽いほうを持った。居間に戻るとカズちゃんが、
「ジャージ一着持ってきたから、それ着てってね」
「ほい」
 張り切ってミズノのジャージに着替えた。
「きょうは、雪はこねこった。あしたあたりから何日かムッタど降るらしじゃ」
 ばっちゃが言う。
「じゃ、ぜひきょう走っておかなくちゃ」
「走るのが商売だべせ」
「うん、走って、投げて、打つ仕事だよ。……あ、運動靴!」
「それも持ってきてるわ。ボストンバッグの底」
 黒レザーの運動靴を履いて玄関を出る。轍の雪だけが細く皺寄っている。人は歩いていない。轍へ踏みこまないように走り出す。踏切を渡り、あのボロアパートを右に見て、線路沿いに左へ折れる。すぐにサブグランドに出る。薄っすらと雪が敷かれている。六メートルほどの金網バックネットの前に立つ。力をこめない素振りを百本。そのあいだに本格的に走るか走らないかを決める。走ることにする。ぬかるみはひどくない。それほど運動靴もめりこまない。一周、四百メートル前後か。五周することにする。走り出す。思いのほか滑って蹴りが利かない。肉離れを起こしたらたいへんだ。即刻中止。
 バットを担いで、浜坂へ戻る。チッコの雪の積もり具合を見て決めよう。足もとに気をつけてゆっくり坂を下りていく。ふもとから右折してチッコに向かう。朝早い漁業組合の車の往来で雪はほとんど融けている。氷も張っていない。チッコに到着。百メートルほどの突堤だ。走りだすと蹴りが利く。ジョグとダッシュを混ぜて、十往復する。ついでに腕立てだけ百回。素振りを強めに百本。きょうはこれでよし。
 帰り道、浜坂のふもとでばったり四戸末子に遇った。冬ズボンを穿き、暖かそうなフードジャンパーを着ていた。
「あ!」
「ひさしぶりだニシ!」
「どこへ?」
「神無月さんが戻ってるて坂本の人から聞いたがら、合船場のあたりをぶらぶら歩ってだら遇えるかなって。……逢いたがった!」
「あしたの夜にでも店のほうへいこうかと思ってたんだ。すごくきれいになったね」
「ありがど。オラ……一年半、浮気しでません」
「様子でわかるよ。清潔な感じだから。ありがとう。ぼくは浮気しまくりだ」
「男だもの。おっかねぐれの美男子だし」
「あした、できるといいね」
「できなくてもいいです。ああ、遇えだだげで胸がいっぺ!」
 人がきかかったので、末子は私を近くの小屋の裏手にいざなった。私の手を強く握り、
「為替送ってくれて、ありがとうございました」
「え、そんなことしたっけ?」
「はい、五月の十日に、五十万円。申しわげねと思ったけんど、父母には、神無月さんが店さ寄付してくれたってへって、十万を家さ入れで、残りはちゃんと店の切り盛りに使わせでいただぎました。ほんとにありがどうございました」
「あした、この時間、バットを振りにチッコにくるよ。空いている小屋があったら、そこでしよう。したい?」
「はい!」
「……あしたは大雪とか言ってたな」
「あのう……」
「ん?」
「……うぢの裏に網小屋が……」
 隘路を指差す。
「ここがら裏道をいげばだれにも遇いません。家にはいまだれもいねけど、母が漁協からいつ帰ってくるかもわがんねすけ……。漁具が置いであるばりで、だれもきません。少しくせけど」
「うん、いまそこでしよう! 危ない日?」
「だいじょうぶです」
 急激に勃起してきた。二人急ぎ足で網小屋へ歩く。木戸を開けて、ムッと魚のにおいのする薄暗い空間に入る。いろいろな漁具の背後に、網が畳んで積んであるのが見える。戸を閉め、抱き合い、貪るように口づけをする。あのときと同じように伸ばしてきた舌を吸ってやる。同じようにふるえた。ジャージを下ろし、握らせる。
「ああ、神無月さん、好きだ!」
 屈みこんで思い切り含む。満足すると立ち上がり、冬ズボンと股引とパンティを脱いで網の上に置く。作業台に手を突いて後ろを向き、大きく脚を広げる。すぐ挿入する。温くゆるい空間に入りこむ。記憶していなかった感触を探って思い出そうとする。思い出せない。やがて緊縛し脈動を始める。
「ああ、神無月さん、好きだよ、好きで、好きで、一日も忘れなかったよ、ああ、気持ぢいじゃ、イキそんだ、ワ、イグよ……うううん、イグ!」
 膣の頻繁な脈動以外、記憶は戻ってこなかった。ただ連続でアクメを伝える尻の動きをかすかに思い出した。
「も、だめだ、く、苦しい、ああ、おっきぐなった、うれし! イグウ! 神無月さんいっしょに、あ、イグ、好きだあ! イグウウ!」
 射精した。末子は強く何度も痙攣しながら、胸をつかんでいる私の手をしっかり握った。凍えるように寒いので、腹を末子の尻に押しつけた。尻はほてっていた。
 私の律動が止むと末子のふるえも止んだ。そっと引き抜く。末子は手を股間にあて、私の吐き出したものを逃さないように押さえながら下着をつけた。一年半前とまったく同じだった。末子はズボンを穿き、手のひらを心ゆくまで舐めた。そして冷たい土にひざまずき、私のものを清潔にした。陰嚢も含んできれいに舐めた。それから戸を開けて出、地面から突き出た水道の蛇口で念入りに手を洗った。こぼれるように笑い、固く抱きついてきた。
「好きだ、死ぬほど好きだ、やっと逢えだ、うれしい―」
「忘れたことはなかったよ」
「ワが忘れねば、それでいいの。三年でも五年でも待つってへったべ?」
「うん、一年半待たせたね」
「すたらの何の苦でもね。いっつもテレビで神無月さんに逢えるすけ」
 私はポニーテールの髪をさすった。
「同窓会くる?」
「いぎます。一分でも、一秒でも、神無月さんを見ていですけ」
「歩こう」
「人目についたらまいね。日本の大事な人だおん。こっから帰ってけへ。……だば、同窓会で。さよなら」
「さよなら」


         八十一

「さっき、佐藤製菓の文雄さんという人から電話があって、二次会には出るかって」
「遅くなるようなら、二次会だけ断ろうかな」
「断らなくてもいいのよ。めったにないことなんだから。二日酔いになっても、翌日一日ゆっくりできるじゃない」
「うん、でも、あしたは奥山先生を訪ねようと思ってるし、胃を悪くしてすごしたくないから」
「あ、その奥山先生も出席するって」
「そうだった。それなら二次会に出ようかな」
 ばっちゃが、
「んだば、和子さん、オラんどは早ェうぢに、惣介のとごさ大福届けでくるべ」
「はい、お祖父さんの弟さんのところですね」
 じっちゃは何も言わず、煙草に火を点けた。ばっちゃが、
「何カ月かこの家いじって、押入や納戸から出てきた要らねものをかっちゃがかっさらってったじゃ。図々しんだでば」
 高校時代に、ばっちゃの似たような吐息を聞いたことがある。
 ―惣介は役場を定年になってがら酒食らって寝でばりいる。長男の嫁(カガ)はけぢくせェたがり屋だ。役所勤めの亭主が嫁に月給の半分しか渡さねすけよ。惣介も嫁もあったふうになっても仕方ねんだ。
 それでもばっちゃは惣介の家に出かける。惣介は、愛するじっちゃの弟だからだ。ばっちゃとカズちゃんが土間に下りたとたん玄関から、こんちは、と若くて渋い声がきた。
「神無月くんはおりますが」
「はい!」
 私は障子から顔を出した。ガマが玄関に立って手を挙げた。
「よう、神無月、ひさしぶり。なに、同窓会でスピーチしてけねがなと思ってせ」
「スピーチ……」
「だめが?」
「一分ぐらいなら」
「グダ山がくる」
「わかってる。ハガキに書いてあったし、さっきボッケからも電話があった」
「ンだな。へば、同窓会で」
 ばっちゃとカズちゃんがガマといっしょに出ていったので、私は囲炉裏に戻った。じっちゃが茶をいれた。
「おめとこうして囲炉裏さ坐るのもひさしぶりだこだ」
「合船場は何もかも、死ぬまで思い出す場所だね。この炉端は特に。―じっちゃは名誉の機関士だったんだよね」
「ンだなァ」
「どうして途中で辞めてしまったの?」
「蒸気機関車の技術革新てのが、大正でビダッと止まってしまったのよ。鉄道省で動力設計していだった朝倉やら島やら技術屋が、冒険するのをおっかながって、ドイツ流のやり方を墨守したすけよ。大径動輪をゆっくり駆動するプロイセン流のやり方な。スピードは出ねし、勾配に弱い。……汽車辞めだのは昭和十六年の秋だ」
「何歳のとき?」
「四十六」
「やっぱり四十歳で辞めたんじゃなかったんだね」
「ババがそたらふうに宣伝してるすけな。ま、四十も五十も大差ねべ。まんだ働ける齢だったんだすけ。世の中、電気鉄道に替わりはじめたころでな。技術を教えでければワもじっくり覚える気があったたて、電気が使われるのは満州と関東のほうばりでな、東北はサッパリだった。ワは蒸気が好ぎだすけ、別に野辺地でのんびり機関車走らせて定年まで勤めでもいがったんだども、昭和十年ころから東北・北海道の凶作が深刻化してよ、オナゴたちがどんどん売られでいった。そいつらを毎日乗せるのがいやになってしまってせ。見たぐね。休暇とるてへっても、凶作がいづまでつづぐかわがんねしな。スッパリやめだ」
「そのことばっちゃには話したの?」
「気持ぢの問題だすけな。台所大事の人間に言ってもわがんね。野辺地は大っきた産業が漁業だはんで、そたら惨めな状況は農業ほどは表立たねがった。したばて、農民もそれなりに苦しいのよ。煎餅担いで野辺地の外さ行商して回っても、すたら窮民相手に売れるはずがねがべ。やっぱしワが働がねば家が苦しぐなんだ。怨んだべおん」
「怠け者の烙印捺されちゃったんだものね」
「それでいがべ。じっせ、我(が)ァ通して、怠けで暮らしたんだすけ」
「生活の怠けは、人間的な怠けに直結するわけじゃないからね」
 やはり尊敬に値する人物だった。胸の内に涼風が吹いた。
         †
 一時間ほどで、ばっちゃとカズちゃんが惣介さんの家から戻った。茶をいれるために立ち動いているカズちゃんを見て、じっちゃが、
「……北村さん、ほんどにありがどう」
 ばっちゃもコクリとうなずき、
「ほんによ。郷をまがせられるじゃ」
「はい、まかせてください。十五年もしたら、私、五十ですけど、いっしょに長生きしてキョウちゃんの行く末を見届けます」
 じっちゃとばっちゃは心からうれしそうに笑った。
「お祖父さんはよく雑誌をお読みになるんですか?」
「なもよ、暇つぶしだ。墓場にいぐのをじっと待ってるのも退屈だすけ」
「若げころから、本ばり読んでんだ」
 ばっちゃが言う。カズちゃんはきらきらした目でばっちゃを見つめ、
「年とって活字を求めるのは、ロクでもない女ばかりです。女の本は生活です。男は頭の生きものですから、活字が死ぬまで必要なんです。本を読まない男は信用できません。毎週、雑誌を二、三冊、お祖父さんに届けるよう、本屋さんに言っておきましょう。どんな雑誌がいいですか」
「そごまでしてくれなくもいじゃ。こたらのは近所からもらってくるすて」
「面倒でしょう。年間の契約をしても大した金額じゃありません。遠慮なくおっしゃってください」
 じっちゃは思案顔で頭を掻きながら、申しわけなさそうに、
「だば、朝日ジャーナルと、週間文春と、文芸春秋だな」
「わかりました。このあたりでそんな雑誌を読むのはお祖父さんだけでしょう」
 じっちゃはうれしそうにまた頭を掻いた。ばっちゃはため息をつき、
「あんたみてな女がいるもんだってが……」
「私はキョウちゃんに恥じない女になろうとしてるだけです。そんなふうにがんばってる女の人がたくさんいます。もしそういう人が野辺地に訪ねてきても驚かないでくださいね。みんなキョウちゃんのふるさとにあこがれてるんです。気持ちのいい人たちばかりですよ。お二人ともきっと気に入ります」
 じっちゃが、
「何人ぐれいるのよ」
「数の問題じゃありません。王様や将軍のハーレムと誤解しないでください。キョウちゃんの精神性を反映してる女が、私一人じゃないということです。子供のころに不幸だったキョウちゃんを幸せにしてあげたいと思う女の人が、もっといるということです。自然にそうなったんです。選ばれた女の人たちです」
 ばっちゃが、
「……和子さんはそれでいいんだが?」
「百パーセント幸せです。ほかの女の人も同じです。たまたま私が最初に野辺地にきただけです。道徳的な後ろ指を差されるのが怖いとおっしゃるなら、これからも私だけがくることにします」
「そたらの、先の短い人生考えたら屁でもねけんど、郷が何か言われるべ」
「キョウちゃんは何も考えてません。野に咲く花のような人ですから、どんな評判や風聞もただ受け流すだけです。そういう人なんです。もちろん、女同士もおたがい嫉妬することがありません。……実際には、彼女たちは仕事で忙しくて、めったに休暇がとれないと思います。こちらにくることは当分ないでしょうね」
 じっちゃが、
「めごい郷のこどを、なんたらかんたら言われたぐねすけな。だれがきてもかまわねけんど、くるとぎは和子さんもいっしょにきてけんだ」
「わかりました」
 カズちゃんはフフフと笑った。思わずばっちゃも笑った。
「ばっちゃ、ぼくは女たらしじゃないよ」
「わがってら。じっちゃみてに、黙ってでも女に惚れられるんだ」
 じっちゃが、
「和子さんと結婚してしまったら、面倒くせ話は終わりだべせ」
 間髪入れずばっちゃが、
「まんだまんだ早えべ」
「郷はいいたって、和子さんが年食ってしまるべ」
「ぼくはだれとも結婚しないよ。女はだれもぼくとの結婚を望まない」
「ンでねのよ……」
 ばっちゃが目に涙を浮かべた。
「みんな、おめと結婚してのよ。ほがの女に悪りど思って、おめのそばさくっついてるだげで、そうやって年食ってぐのよ。おめが和子さんばりチョしてやったら、和子さんもうれしいべたって」
 じっちゃが、
「そうしなが」
「勝手に寄ってくるのせ。ンガの若げとぎみてに。ンガはワを嫁にしたばって、郷はそたらに一本固まった男でねのよ」
「私のために泣いてくださってありがとうございます。でも、お二人とも、神無月郷という人間を理解してません。風に靡く花。だれかがキョウちゃんに結婚してくれと言ったら、キョウちゃんはかならず結婚します。別れてくれと言ったら、かならず別れます。一本固まってないとお祖母さんは言いましたが、キョウちゃんはやさしさから自分を一本に固めないんです。自分の都合なんかどうでもいいんです。他人の都合に泣かされつづけてきましたから、自分だけは他人に都合を押しつけないと、人生のどこかで決意したんでしょう。キョウちゃんを愛する女は、みんなそのことを知っています。だからけっして自分の都合を押しつけません。伸びのびしておいてあげさえすれば、キョウちゃんはどんどん世の中のためになることをするんです。私たちはそれを見ているだけで、そしてときどきかまってもらえるだけで、天に昇るほど幸せです。だいじょうぶですよ、みんなキョウちゃんに負けないほど変人ですから、キョウちゃんに何の不満も持っていません」
 じっちゃは深くため息をつき、
「そたらに庇われで、人間おがしぐなんねもんだべが」
「庇われなくておかしくならなかった人間ですから、庇われたらますます正常になるでしょうね。いまはたった一つの才能をもてはやされて世に現れた形になっていますが、もともと、野心を持って世間に打って出ようとか、うまくいかないから世をすねるとか、そういう類の人間じゃないんです。打っても出ないし、ひねくれもしない、生粋の真人間です。しばらく付き合うと、外見とまったくちがって、ただのスケベ小僧でもなく、器用貧乏でもなく、出世好きの文学青年でもないことがわかります。私はキョウちゃんを小学校四年生のときから見てきました。年齢に関係なく人を感動させる、まぎれもない〈人間的天才〉です。総合的天才と言うのかしら、才能を一つひとつ全力で使って多芸にすぐれるスーパーマンです。キョウちゃんは人に求められれば、もしそのことをやりおおせる可能性のあることなら、そのどの一つにも全力を注ぎます。そうやって世間評価を無視しながら、人にお返しをしていく。その結果、まれに高い世間評価を得ることもあります。いまのところそれは野球です。いずれほかの分野も評価されることがあるかもしれません。こういう芸当のできる人は、古今まれでしょう。私たちはそういう人物をおろそかにしたり、進む道のじゃまをしたりすることはぜったいぜきません」
 ばっちゃは涙を掌の土手で拭いながら、
「スミはそういう郷が憎かったこだ。てめに近ぐね人間はみんな憎む女だすけ」
 じっちゃがうなずき、
「こっちさ送って、将来をワタクタにしたかったこだ。あにはからんや、たちまち県下のいぢばんにはなるし、いちばんの高校さいぐし、いぢばんの大学さいぐし、野球でいぢばんになるし、たった五年のあいだに予想もつがねこどばり起きて、てめでもわげわがんねくれ憎くなったこだ。オラんども、だれも、スミに細かぐじゃまされでる郷を助けてやれながった。和子さんみてな人がいながったら、郷は死ぬしかながったべおん。和子さん、これがらも郷を助けでやってください。オラんどは幸せに生ぎでる郷を見でるだげで、長生ぎでぎるすけ」
「私の言葉が通じたようでうれしいです。キョウちゃんの面倒見は、私たちみんなで一生懸命しています。安心してくださいね」



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