六十一
それから小一時間、にぎやかに宴会がつづいた。入れ代わり立ち代わり仲居たちが運膳にかこつけて私と江藤を見物にきた。彼らの様子からそれがすぐにわかった。サインを求めなかったのは、所長の先触れが効いていたからにちがいない。
徳利が二度ほど追加され、山崎さんと飛島さんはグラスで飲みはじめた。座がほぐれ、私にはわからない会社内の話題や、請け負った仕事の話が出た。江藤はグラスを傾けながら、かつて挫折した修理工場の話を所長としていた。唯一身内でなかった経理社員にごまかされたと言っている。私にはけっしてしない種類の話だ。彼がくつろいでいる証拠だ。聞いているだけで楽しかった。山崎さんは、しかつめらしく、建設業の将来を語り、佐伯さんは建築学の可能性を語った。
「オフィス、庁舎はもとより、医療福祉施設、教育文化施設、そのほか商業・レジャー・宿泊施設……」
飛島さんが、
「保育施設、環境・生産・流通施設、アミューズメントパーク、運動場、野球場、なんかにも手を拡げないとね」
山崎さんが、
「うちは水力とトンネル専門だぞ」
大沼所長を中心に、専門用語が飛び交い、華々しくぶつかり合った。営業畑の三木さんは熱心な勉強家の顔で聞いていた。私は山口に、
「これから忙しくなるな。マスコミがうるさいだろ」
「人気商売じゃないから、追いかけ回されるというほどじゃない。演奏会場以外は、サインを求められることもない。静かなもんだよ」
「新聞に顔写真がめったに出ないからだね」
「うん。おかげでゆっくり旅ができた。ピッタルーガの優勝記念に、おトキさんと指宿にいってきた。砂風呂に入った」
江藤が、
「ワシも何年か前のオフに、娘たちば連れて指宿にいったことがあるっちゃん」
「白水館ですか」
「おお、白水館やった。砂蒸し温泉、あれは肘に効いた。……いっときな」
「ふつうの風呂もよかったですよ。おトキさん、一日じゅう入りまくりでした。めしもうまかったなあ」
浅蜊飯と香のものが出てきた。これまた八人全員が、旺盛に箸を使いはじめた。さすがにもう入らんと、みんな悲鳴を上げ、ひたすら銚子を傾ける。私も適度に飲んでいるのだが、なぜか酔いがこない。快適にからだが浮いている。
「所長さん、もと観光バスの運転手が都会に出てダンプの運転手になって、それをやめて故郷に戻って観光バスの運転手をしない場合、どんな仕事をしてると思いますか」
「西松のころの人探しだな。……もう一度ダンプの運転手という可能性がいちばん高いね。これは探しづらい。建設会社はいくらでもあるからね。次は市営バスの運転手。ふるさとの市にちゃんといるなら探しやすいが、ほかの市に移ってるとなると、もうほとんど見つからない」
山口が、
「クマさんか……」
「うん、佐久市の千曲観光バスにはいなかった」
「会いたいだろうな。居所の知れたクマさんのような人たちがいまこうして何人もいるけど、この中の一人にでも会えなくなったら、必死で探してしまうよな。……探偵を雇うしかないかもしれないぞ」
山崎さんが飛島さんに、
「いま佐久のあたりに建設現場があるとしたら、どんなものがある?」
「暴れ川だからね、佐久とかぎらず護岸工事かダム建設だろうけど、工事現場にはこと欠かないでしょう」
「やっぱり探すのは無理だな。探偵でも無理だ」
七人の様子を見ているうちに、目が熱くなってきた。飛島さんが私の涙を見とがめ、
「どうしたの、郷くん」
「うれしくて……ぼくみたいな者のために……。どこをどう気に入られたのかわかりませんが、ぼくはそんな―」
飛島さんは片手を挙げ、
「禁句、禁句。自分で考えたときの自分自身は大したものには感じられないさ。みんな自分のことをそう思ってるよ。でなきゃ、馬鹿だ。大したものかどうかは勝手に他人が決める。キョウくんは価値のかたまりだと、私たちは決めている。じゃなきゃ、私たちがここにいるわけがないだろう。会いたい気持ちにさせるなんて、だれにでもできる芸当じゃないんだ。ファンクラブなんて隠れ蓑だよ。こうやって会って、私たちは大いに満足している。キョウくんのたたずまいの美しさはだれもが一見するに値するし、頭に思索が詰まってることが眼光から一目瞭然だからね。韜晦したってむだだよ。きみと少しでもいっしょに暮らしたことがあって、きみを忘れたい人間なんかいるはずがない。そうでしょ、江藤さん」
「それ以上ですばい。金太郎さんのためならいつでん死んでよかと思っとります。ワシだけでなかろうもん」
「俺もです。そろそろもう神無月のためには死ねない状況になったかなって思うんだけど、やっぱり死ねるんだよね」
飛島さんは、
「ある意味、それはキョウくんの重荷かもしれないけど、快適な重荷として甘受するんだね」
私は顔を上げたまま、指の先で目もとを拭った。
「……ぼくは、一度でも多く、こうしてみなさんに会えることを願いながら、がんばって生きていきます。きょうは、帰ったら、しみじみと泣かせてもらいます」
江藤が、
「金太郎さん、いっちょ歌いけ! みんな驚くぞ」
「はい。それではささやかなお礼に、唄わせていただきます」
山口が、
「よし、俺が伴奏しよう」
と言って、傍らのギターケースを開けた。使いこんだギターが現れた。
「イヨッ!」
と江藤のかけ声が上がった。三木さんが、
「キョウちゃんは、野球と勉強以外にも得意なものがあったのか」
「野球はさておき、歌は勉強よりは得意です。森進一の去年のヒット曲、『ひとり酒場で』を唄います。こぶしは回せないので演歌らしくは唄えませんが、がまんして聴いてください」
私は立ち上がり、礼をして、目をつぶった。山口のギターから美しいイントロが流れ出し、やさしいハミングがつづいた。みんなホーとため息をついた。
広い東京にただ一人
泣いているよな夜がくる
両手で包むグラスにも
浮かぶいとしい面影よ
夜の銀座で飲む酒は
なぜか身にしむ胸にしむ
三木さんが、
「なんだこりゃ! すごすぎるぞ」
所長が、
「だから、キョウは何でもかんでも天才なんだよ!」
長い間奏。山崎さんが、
「山口さん、ギター極上だぜ!」
嘘で終わった恋なんか
捨てて忘れてしまいたい
男の意地も思い出も
流せ無情のネオン川
夜の銀座で飲む酒は
なぜか身にしむ胸にしむ
飛島さんが、
「なんだか、胸がざわざわするね。目が熱くなる。たまらない」
江藤と佐伯さんが目にハンカチを当てていた。山口はしっかり涙を落としている。
暗い東京の酒場でも
夢があるから酔いにくる
今夜はとてもさびしいと
そっとあの娘が言っていた
夜の銀座で飲む酒は
なぜか身にしむ胸にしむ
唄い終わり、礼をして、着席した。佐伯さんが、
「ふるえました! 信じられないくらいです」
所長が、
「森進一よりはるかにいい。胸がかきむしられた。江藤さん、よくキョウに唄わせてくれた」
江藤はハンカチでまぶたを拭いながら、所長に辞儀を返した。山崎さんが、
「キョウちゃん、プロになれるぜ。喉自慢に出たらどうだ」
大沼所長が、
「そんなふざけたレベルじゃない。プロ以上だ。キョウが言っただろう。勉強より得意ですって。歌ごとき得意技の一つにすぎないんだよ。きっと人に聞かせるためのひそかな趣味なんだ。……ありがたく聴かせてもらった。キョウ、おまえはそういう人間だ。おまえの後援を買って出る人間は、すでにけっこうな数がいるんだろうが、俺たちもその一端を担わせてもらうぞ。ああ、きょうはとんでもなく楽しかった。次回も楽しみだ。さ、飲み食いを仕上げて、腰を上げるか。シーズンオフのプロ野球選手はスケジュールが目一杯詰まってるんだ」
大沼所長は私の杯に酒をついだ。彼の部下たちや江藤も、それぞれにこやかに目の前の酒や食い物の処理にかかった。
やがて幹事役らしい三木さんが立ち上がった。
「われわれの念願だったキョウちゃんとの逢瀬が、江藤さんと山口さんという特別ボーナス付きで十カ月ぶりに叶いました。キョウちゃんに会うことで、目の保養はもちろんのこと、望外の耳の保養までさせてもらい、感に堪えません。江藤さんの言葉と態度から、キョウちゃんがいかにドラゴンズの人たちに愛されているかがわかりました。山口さんの言葉と態度から、キョウちゃんと出会った人間にどれほどの人生の感激を与えるかもわかりました。この会を来年以降、できれば定例のものとし、ふたたびみたびキョウちゃんの足労を願うことを、大沼部長の提言としてお伝えいたします。ちなみに、時を経て、キョウちゃん親子のあいだに雪解けが訪れた場合、お母さんにもご同席願おうと思っております。一回ごとに、いよいよ盛大な会合にしようではありませんか。本日は、ご足労ありがとうございました」
大きな拍手が上がる。山崎さんが、
「キョウちゃん、今度は気に入った女を何人でも連れてきていいぞ。部長に接待費で落としてもらうからな」
佐伯さんが、
「ぼくは、酒は飲める口じゃないけど、この日だけは飲むようにします。うれしい酒だから。こんなに飲んだのは初めてです」
飛島さんはにやにやして、最後まで若き血を歌わなかった。
「郷くん、がんばって生きていく、なんて、おかしなこと言わないでよ。山口さんや江藤さんは慣れているかもしれないけど、私たちはみんなギョッとしちゃうぜ。暗く沈みこんじゃったときは、ウン、と踏みとどまってね。ぼくたちのためにも」
所長が、
「そうだ、キョウ、おまえの人生は風当たりの強いことが多いかもしれないが、反対にそれを帳消しにするようなあったかい風も、背中のほうからドッサリ吹いてくるんだ」
みんな気にかかっていたことらしく、江藤といっしょに静かに耳を傾けていた。
「みなさんのやさしい言葉、いつも記憶に留めて野球をします」
所長は洟(はな)をすすり上げ、
「よし、帰ろう」
九時を回っていた。所長が会計をすまし、男八人飯田橋駅まで歩いた。いち早く山口が東西線の地上階段口で別れを告げた。赤い顔をした五人の後援者たちとプロ野球選手二人は、山口と固い握手を交わしたり、肩を抱き合ったりした。私は懸命に涙をこらえた。やはり、野球場の外も夢だ。こんなことが現実のはずがない。
「ときどき連絡入れるからな。江藤さんたちとピッタリくっついて生きてろよ。カズちゃんによろしくな」
「おまえも忙しさに負けずにな。おトキさんに、それから一家の人たちによろしく」
「わかった。じゃ、江藤さん、失礼します。飛島のみなさん、また来年お会いします。お元気で」
「山口さんも!」
階段を降りていく山口の背中へみんなで手を振った。
六十二
大沼所長と山崎さんは、国鉄のロータリーで私と江藤に同じことをすると、仲間たちに軽く手を上げタクシーに同乗して去った。三木さんが、
「所長は九段の本社に寄って山ちゃんを降ろしてから本郷に帰るつもりだね」
江藤と私と二人の男たちは国鉄の出札口でめいめい切符を買った。地下鉄口へ引き返すつもりの佐伯さんは、改札口で江藤と私に感情をこめた握手をすると、
「お会いできてうれしかったです。また来年お会いします。もう少し胃袋を鍛えておきます。キョウちゃん、江藤さん、ほんとにありがとうございました」
と言って踵を返した。二度、三度と振り返った。
飛島さんと三木さんと、九時三十五分の総武線中野行で代々木まで同乗することになった。飛島さんが、
「私たちは代々木の次の新宿で小田急に乗り換えて、下北沢までです」
三木さんが、
「第一回は緊張気味でした。言いたいことの十分の一もしゃべれなかった。三人のオーラに圧倒されました」
飛島さんは、
「からだの大きさと人間の器が並じゃないですからね。才能は言うまでもなく―。よくぞ引っ張り出されてくれたというところです」
江藤は笑い、
「ただくっついてきただけばい。できるだけいっしょにおりたかけん。……みんなそうたい。男も女も」
市ヶ谷、四谷、信濃町。二、三分ごとに停まる。私は、
「毎年受賞できるとはかぎらないので、再会は軽々しく約束できないことなんです。三冠の一つでも獲るようがんばりますけど」
三木さんが、
「理屈はわかりますけど、理屈は天才には通用しないでしょう」
千駄ヶ谷。飛島さんが、
「キョウちゃん、江藤さん、来年のオープン戦から、後楽園の優待席にきょうの五人が交代で観にいきます。ケガに気をつけてがんばってください」
三木さんが、
「お母さんは下北沢の社員寮にいます。シロもいます。元気とは言えないけど、もうしばらくだいじょうぶでしょう。飛島と私が夕暮に散歩に連れてってます。折があったら逢いにきてやってください」
「わかりました」
代々木。ホームに降りて車中の二人に手を振る。
「信じられんごたるな。だれもかれも、金太郎さんが引き寄せた人たちやろう。ばってん飛島の人たちはみんな、金太郎さんとおふくろさんがカチ合う生活ば見とるけん、金太郎さんの先の人生を悪いほうへぎり考えるったい。ちいとした言葉に引っかかると、心配が強うなっていたたまれんごつなるんやろう。春におっても夏におっても、冬におるように思わるうやろう。びっくりするようなことば言いよる。金太郎さんがよう使う〈生きていく〉ちゅう言葉は、不遇の中で使ったことはなか。希望にあふれとるときにかならず使う言葉たい。いっちょ暗い雰囲気はせん。ワシらはわかっとるけんな。それにしても、よか人たちばい。また集まるうときは、ワシも参加させてもらうけん」
「ぜひそうしてください。カズちゃんといるように安心です」
「女神さんとね! 光栄たい」
山手線内回りで品川へ帰った。車中で短い言葉を交わした。
「命のかぎり生きていきます。ぼくの命を永らえさせてくれるみんなの思いに応えなくちゃいけないから」
「ワシも人に生かされとる命ばい。そん人たちの思いに恥じんごと、生きんといけん」
「大切な人たちに出会えば、それだけで幸せに生きられます」
「まっことそんとおりたい」
ホテルに帰り着くと十時半を少し回っていた。江藤は私を五階の部屋の戸口まで送ると、六階の自分の部屋へ階段で昇っていった。
「江藤さん!」
振り返った顔に、
「愛してます!」
「ワシもたい! うれしかよ。あした八時にめし食わんとここを出る」
「わかりました」
†
十一月二十四日月曜日。七時半起床。大粒の雨。六・九度。特急の下痢便。ルーティーン。ノーネクタイのスーツを着る。
ロビーラウンジでコーヒー。八時、エレベーターで降りてきた江藤と無言の握手をしてホテルの玄関に見送ったあと、ルームサービスで朝食。老舗若竹の天丼。二時間ほど仮眠をとり、十一時にチェックアウトした。ボストンバッグ一つ。身軽だ。
嘘のように雨が上がっている。品川から京浜東北線で東京駅に出、丸の内線に乗り換えて本郷三丁目へ。車内でチロチロ見られるだけで、話しかけられも触られもせず。赤門前にかなりの人混み。数百人はいる。マスコミ関係者が二十人ほど。仕方なく人混みに紛れ入った。待っていた白川と黒屋に腕をつかまれる。
「金太郎さん、ご苦労さん。第二生協食堂に六百人以上集まってるよ」
白川のそばにテレビ朝日の担ぎカメラが控えている。枯れた銀杏並木の下を歩く。カメラが横顔を追う。自分がいま何をしているのかわからなくなる。野球選手らしく気持ちを統一したいのだが、ままならない。
「子供たちは? ファンクラブには子供たちもいるんでしょう」
「そういう主旨で集めなかったからな。それでも何十人かいる。きょうは学長本人がくるよ。ちょっとしゃべって帰る」
「また見知らぬ人間の賞賛か」
「賞賛ならいいけど、加藤一郎は知識人尊重の悪口屋で有名なやつだから、サンスポの記者みたいにならないことを祈るよ」
この会合のあと、どういう行動をとる予定だったか、すっかり忘れた。とにかく最後に吉祥寺にたどり着ければいい。
フラッシュを浴びながらステージ裏の控え室に入る。鈴下監督とOBたちが待っていた。涙もろい監督はすでに目を潤ませている。握手。抱擁。
「いつも会いたい男と、また会えた。三冠王おめでとう!」
「ありがとうございます」
「二リーグ分裂前の昭和十三年に東京巨人軍の中島治康、分裂後はパリーグ南海の野村克也、金太郎さんはセリーグ初だ」
「はい。工夫と鍛錬の結果です。マグレではありません」
「うん、マグレで三冠は獲れない」
応援団の団長、バトンクラブの部長染井、副部長の大山、ブラバンの指揮者もいる。それぞれと握手。テレビカメラが回る。
黒屋のいれたコーヒーをみんなで飲んでいると、河北新報の出版局の戸館(とだて)学と名乗る眉の太い若い男がやってきて、四月からの牛巻坂の執筆契約と初回の原稿受領の方法を取り決めておきたいと眼光するどく言った。
「三月の初旬に北村席で、ということにしましょう。細かいことはファインホースと連絡をとり合ってください。ぼくが不在のときはファインホースの社員たちと図って処理してください。二回目以降の原稿は、でき上がる都度、回数を考えずにまとめて書留で郵送しますので、適当に割り振ってください」
「は、承知しました。ありがとうございます。……五百野、愛読しております。すばらしい作品です。どうか今後も末永く健筆をお揮(ふる)いください」
「―どうも」
男は名刺を渡して帰っていった。鈴下が、
「五百野は完結したら、日本国民大賞を獲るようだね。おめでとう」
「野球以外のすべての賞は拒否します。手慰みでやったことに報いがあるのはおかしいでしょう。文学も、工夫と鍛錬の成果をあげた人を顕彰するのが正しいことです。受賞する人びとはぼくの仲間ではありません。ドラゴンズの同胞のような、励まし合い切磋琢磨し合う相手ではないんです。ましてや、過去の大家たちの住む世界は、ぼくにとって月ほども遠い異郷です。踏みこんではいけない聖域を荒らすつもりはまったくありません」
「いやはや、金太郎さんは、現代の文学界が大嫌いなんだね」
私は克己に、
「現役たちは?」
「静岡の草薙球場へ練習試合にいってる。明治戦だ。ついでに、静岡高校とも試合をしてくる。今年最後の練習試合になる」
広い控え場に賑やかな足音がし、人声もかしましくなった。係にいざなわれて控え室を出ると、カメラに囲まれた部員たちが準備態勢をとっていた。バトントワラーたちはほとんど顔見知りだった。裏階段から舞台の袖に登った。ブラバンドが配置についた。真ん中のマイクの前に立つと盛大な拍手が上がった。会場に少年少女のファンがいる。こんな場所にまでやってきて、熱心に見つめている。白川が袖のマイクで、
「神無月郷のファンのみなさま、本日はご参加ありがとうございます。第一回天馬ファンクラブの集いでございます」
そのように横断幕にも書いてある。応援団とバトントガールが反対側の袖からぞろぞろ入ってきて、ブラバンの前に並んだ。指揮者がタクトを振り下ろし、闘魂はのスローな演奏が流れる。
「多忙の中激励に駆けつけてくださった加藤一郎学長より、祝辞をいただきます」
無理やり引っ張り出されたにちがいない小柄な男が、手短な祝辞を述べる。この度の強い眼鏡をかけた丸顔の男は、今年の入試中止が決定したとき、
「しっかりと時間をかけて入試問題を作れないと、万端の準備をした知識人以外が紛れこむ可能性がある。私は知識人以外を信用しない」
という発言をして世間を騒がせた人物だ。私への〈祝辞〉の中で彼は、
「神無月郷くんは、学問の府にバットを引っさげて飛びこんできためずらしい異端児であります。そのバットを持って獅子奮迅の活躍をし、東大の窮迫した事情を緩和してくださった救世主であります」
と、荒れる東大救済にしか私の存在価値がなかったかのような、オブラートにくるんだ揶揄をした。会場がざわついた。馬鹿な運動男が東大にきて、東大の質実に似合わない浮薄な人気を高めたという意味にちがいない。今回の克己は激高して立ち上がるということはなく、鈴下監督も赤くなってうつむいた。それから加藤学長は、会場にたむろしている知識好きな人たちを想定して、ファンクラブの催しとは関係のない今年の東大入試中止のいきさつを語った。
「安田講堂に学生らが立てこもった事件では、大河内学長辞任ののち私が学長代行となりまして、みずから学生の説得にあたり、黒かった髪が一カ月でかくのごとく真っ白になるほどでしたが、一月十日に七学部代表団とのあいだに大学自治に関する確認書を締結してストを解除し、東大再建への道へ歩み出したと思ったのも束の間、依然として占拠をつづける全共闘学生との意見の不一致はいかんともしがたく、結局機動隊の学内導入を決断することとあいなりました。S文部大臣(御池の言っていたS先生だな)と会談後、最終的に政府の判断で、東大九十年の歴史で初めて入試が中止となりました」
「きょうの会合と何の関係があるんだ!」
どこからともなく飛んだ野次を耳にして、加藤学長はハッと正気を取り戻した顔になり、
「……なお、神無月郷くんは、日本プロ野球においてセリーグ初の三冠王という偉業を成し遂げました」
と私に関する〈要約〉をひとことでし、三冠王のほかの打撃の賞もすべて獲得したことも報告した。
「野球につまびらかでない私としては、この種の業績を一つひとつ明確にして賞賛することは門外漢の行為に当たるので、このへんで切り上げさせていただきます。きょうのイベントが成功裡に終わりますことを心より願っております」
そんな記録は東大という最高最大の学府とは関係がない、と示すデモンストレーションのようだった。つまり〈知識人〉でないスポーツ選手など歯牙にもかけていないという意思表示だった。彼はそそくさとマイクの前を離れ、作り笑顔で私と握手するとすぐに舞台袖に引き揚げた。拍手がパラパラと上がった。新聞記者のペンがあわただしく動き、学生ではない一般ファンがブーイングの声を上げた。この正直な人はまた新聞に叩かれるだろうと同情した。
しかし、だれも母ほどは手ごわくない。私はただ微笑んでいた。頬がむず痒いので、掻いてみると、涙が流れていた。瞬間私は、この世のほとんどの事象に好奇心を持たずに生まれてきた自分の荒涼とした宿命に、なぜか深い幸福を覚えた。流れた涙は深い痛みの涙ではなく、幸福のそれだった。
折よく、鈴下監督以下スタッフ陣と握手して抱擁し合う時間になった。白川はじめ東大野球部OBたち、現役選手たち全員と手を握り合った。その笑顔に比して、なぜか私を見る視線は遠く、手のひらから発散される温もりも感じられなかった。あの一年は、彼らにとって過ぎし日の麗しき青春であり、私はいまなおその戻らぬ青春を引きずっているおぞましい亡霊なのだ。彼らの心の声が聞こえてきた。
―そう言えばあんなやつがいたな。ま、それだけの存在だよ。
六十三
白川の解説付きで、舞台に垂らされたスクリーンに、この一年間の私の主だった活躍が映し出され、おとといの授賞式の模様も長々と映写された。満場が喝采しながら画面を見つめた。映写会が終わると、テーブルが用意され、整理券を持って並んだ二百人以上の人びとに機械的にサインし、握手した。少年ファンには、握手しながら微笑みかけた。中に東大の教師や講師たちも混じっていたが、去年見知った顔は一つもなかった。彼らは〈親切な〉告げ口屋だった。
「法律家は頭が悪いから、聞き流して」
「アメリカ模倣屋のくせに、野球は認めないんだよね。無視してください」
「やつはね、天才は嫌いだ。人間は慎みのある秀才にかぎると放言したことがあるんだよ」
「気にしないで、またきてください。あなたは、過去の偉大な学者たちと並ぶ東大の誇りです」
サイン会が終わると、スピーチを求められた。
「遠路足を運んでいただき、ありがとうございました。旧知に再会させていただき、うれしいかぎりです。この会合を終えたら、名古屋に戻り、来季のためにふだんどおり鍛錬を開始します。いまぼくは、野球選手に〈なれた〉ことの幸福を噛みしめています。〈なる〉ということについて語りたいと思います。だれにでも精神の転機はあります。ぼくの場合にも何度かありました。それを思い出しながら確認していきます。一度目は小学校四年生の晩秋、二度目は中学三年生の初夏、三度目は高校一年生の春。まずその三度からお話します。その三度の折々に、なりたいと思ったものがありました。プロ野球選手と、ヤクザと、芸術家です。その願望ののちの心の経過を申し上げます。プロ野球選手にはスタジアムへの道を確約してくれる勧誘者が、ヤクザには契りの盃を差配する有力な縁故者が、芸術家には大衆の動向に聡い専門家の喝采が必要だと思い至りました。どれもこれも、私には無縁のものでした。願望から現実認識に移らねばなりません。なりたいものになれないわけですから、残された選択肢は、職業としての〈なる〉ものの範疇にはなく、職業の形をとらずにすでに〈ある〉ものの範疇にあると思い直しました。あるものとは? 太古より人間の命を一貫して流れるもの。―愛という高遠なもの。それにようやく思い当たりました。ただちに私は、人を愛する者になりたいと決意したのです。それが四度目の転機です。高校一年生の夏でした。しかし、愛の必要条件が無私であるとするなら、自分しか愛せない私はけっして人を愛する者にはなれない、と気づきました。絶望がやってきました。つまり、これを総合するに、私はあらゆるものになれないのだという絶望です。この絶望的な状況を脱するすべはありませんでした。居直りました。仕方がない。凍えた風に吹かれよう、悲しみに貫かれよう、僥倖があれば、凍えて悲しいからだを好事家に愛されることもあるだろう。その奇特な人の愛がやんだら? 凍えて悲しいからだを抱いて死ぬだけだ。凍えた悲しいからだを独りで抱き締めることで、自分しか愛せない無為を思い知り、みずからのからだを空と大地にゆだねよう。そのときは、愛の途絶も命の途絶も恐怖ではない。―そんなふうに絶望し尽くしたとき、自分しか愛せない私でも〈なれる〉ものをとつぜん見出したのです。私に関心を抱いて見守ってくれる人に〈感謝〉する者にはなれる、というものでした。問題は感謝する方法でした。その方法はすぐに思いつきました。原初の時代にいちばんなりたかったものになろうと努力する姿を見せることだと。これが精神の五度目の転機でした。高校二年生の夏でした。私はもう一度懸命にプロ野球選手になろうとしました。現実にならなくてもいい、なろうとするだけでいい。そう思うと気がラクでした。その姿を見守ってくれる好事家が少しずつ数を増していき、私は懸命に彼らに対する報恩の行動を開始しました。むろん、どこからもプロ野球の勧誘者はやってきませんでした。野球という報恩の行動の妨害を取り除くために、受験勉強をして、東大に入り、大学一年間もその行動をつづけました。もうこれでいい。やるだけのことはやった。あとは好事家たちと愛にあふれた生活を送ることに意識を切り替えよう。そう思ったとき、まさに僥倖が訪れました。勧誘者が虹の彼方からやってきたのです。その先は転機ではありません。何の精神の変革もありませんでしたから。そしていまぼくは、五度目の転機のままここにいます。―関心を持って見守ってくださるみなさまに感謝しています。みなさまに酬いるためにプロ野球選手になろうとする努力を継続いたします。以上」
怒号のような喚声と拍手が上がり、鳴り止まなかった。
最後に花束贈呈があった。私からの受け取り役は黒屋と染谷だった。山口のコンバットマーチの演奏を背にバトントワラーたちが踊り、応援団が蛮声を張り上げた。拍手喝采が静まり返ったあと、ひとしきり撮影会のようなものがあり、それが終わると、子供を除いたファンやOBたちの波が速やかに退いていった。ブラバンたちもいつの間にか姿を消していた。応援団やバトントワラーは子供たちを相手に和やかに会話していた。私は子供たちに尻や力瘤を触らせたり、力の強そうな子と腕相撲をしたり、バットの振り方を口で詳しく説明したりしてやった。やがて彼らは親たちに手を引かれて帰っていった。新聞記者たちも引き揚げていった。
花束を食堂の膳部に寄贈し、私のおごりで、応援団とバトントワラーたちといっしょにスパゲティを食った。彼らはすっかり満足し、丁寧に辞儀をすると、合同パフォーマンスをした。そして、これから練習です、と言って引き揚げていった。
鈴下監督と白川と黒屋と平服に着替えたバトントワラー二人が残った。黒屋が、
「この二人とも、横浜のフェリス女学院出身」
「フェリス? どのへん?」
「元町。中華街のあたりです」
「高校でバトンやってたの」
「フェリスにはありません。今年から始めました」
白川から差し出された金一封の熨斗袋をファンクラブに寄付し、来年は訪れないことを白川に告げた。白川は明るくうなずいた。
「克己たち、サッと引き揚げたね。みんな生活が忙しくなったということだよ。加藤学長の態度がすべてだった。どんなに拍手喝采したって、あれが金太郎さんに対する東大のアティチュードだ。球場行脚の初志貫徹組も、俺を除けばオールスターあとぐらいから皆無になっちゃったしね。あんなに盛り上がってたのに……。俺が飛び歩いて写真を撮りまくるだけにするよ。しかし、素材は神無月郷以外のものにも手を出さないと、写真家として将来がない。テレビ朝日の社員で終わってしまう。来年からドラゴンズのファンクラブ支援金は、潔く辞退するしかないな。何の活動もしてないわけだから。俺は金太郎さんが引退するまで追いかけるよ」
「東大球場を見ていきます」
鈴下監督と黒谷とチアガールと肩を並べて、夕暮れまぎわのだれもいない東大球場を歩き回った。見納めた。白川が写真を撮る。鈴下監督が、
「金太郎さん、来年春から東大野球部監督は別の人になる。助監督も交代だ。なんだかホッとした。これからは、金太郎さんの試合を見ながらノンビリ暮らすよ」
黒谷が、
「でも先生、学習院の監督に誘われてるんでしょう?」
「うん、この秋どうにか五位という成績を残したからね。再来年でどうかと学習院には打診しておいた。とにかく一年ゆっくり休みたい」
「OBたちが抜け殻になってましたね」
「奇跡の一年だったからね。大事な思い出なんだよ。金太郎さんのことはサラリーマン生活の自慢話にしたいだけなんだ。こうして実際に会いたいわけじゃない。複雑な心境だろう。金太郎さんのああいう話を自分の身に引きこんでは考えられないと思う。でも金太郎さん、めげずに語りつづけなくちゃいけないよ。私のようにしっかり聴いてるファンがいるんだからね」
「私たちもです」
黒谷が言った。染井が、
「あふれる才能の持ち主に報いることができるのは、心から頭を垂れられる人だけです」
部室に入ると、白川は五人を並べたり肩を組ませたりして写真を撮った。私の写真が壁一面に何枚も掲げられていた。白川が、
「こういうやつも一枚ぐらいにして、ユニフォームといっしょに飾っておくのがいいな。いつまでも神無月じゃないだろなんて言われたら、この写真がぜんぶ泣き出しちまう」
黒谷が、
「そんなひとことでも出たら、私もマネージャーを辞めます」
大山が、
「万年最下位のくせに。逆に〈いつまでも神無月〉をスローガンにしなければ、強くなんかなれませんよ。黒屋さんが辞めたら、私も辞めます」
「私も」
染井が応じた。鈴下監督がさびしそうに笑った。
「金太郎さんが褒められるのを嫌う理由がよくわかったよ。みんなもろ手を上げて褒めないからだね。ドラゴンズはちがうようだね」
「はい、真正直な人ばかりです」
「よかった。金太郎さん、もう東大は訪ねなくていいよ。大して能もない人間に天才が皮肉られるなんて図は、東大ぐらいでしか起こらないよ。その意味で庶民の代表のような大学だ。これからは有能な仲間同士で忙しくしなさい。じゃ、私は事務所へ戻る。日誌を書かなくちゃいけないからね」
「監督!」
「うん?」
「プロに入れてくれてありがとうございました」
「私こそお礼を言いたい。石ころを取り除いただけだ。忘れられない一生の思い出だ。〈五度目の転機〉の締めくくりができた。……年に二つぐらいは、あの眼鏡を送るからね。愛弟子へのせめてものプレゼントだ」
「ありがとうございます!」
鈴下監督は球場事務所へ戻っていった。
「じゃ、俺は染谷と大山と生協食堂へ後始末に戻るから。黒屋がおまえと帰りたいそうだ。付き合ってやれ。じゃ、元気でな。おまえを愛してる臼山が来年の春から名古屋の毎日新聞にいくから、適当に顔を出してやってくれ」
「わかった」
赤門を出て、黒屋と歩く。
「また、春にでも北村席に遊びにいきます」
「うん、ファインホースにスケジュール尋いて、のんびりくればいい。三月はオープン戦の最中だから」
ファインホースの名刺を渡す。
「四月は?」
「初旬が空いてる」
「きょうは?」
「いろいろ知り合いを訪ねる」
「……女の人ね」
「うん。最後は吉祥寺に戻って、それから名古屋に帰る」
「……きょうは、うちにきてくれませんか?」
私は立ち止まって、黒屋の顔をしげしげと見つめた。面倒だなと思った。
「だめですか?」
「そりゃいいけど、まんいちのとき、責任をとるのが煩わしい」
「きょう、だいじょうぶです。あと何日かで生理ですから」
黒屋が私のボストンバッグを持った。
「家は近く?」
「あそこの文光堂書店の先の道を少しいって、右に入ったところ」
文光堂書店の前までくる。
「ここから本郷三丁目の駅までのゆるい下り坂を、見返り坂って言うんです」
「なんで?」
「本郷三丁目の交差点は、江戸追放になった罪人を家族が見送る橋だったみたいで、赤門のほうへ登っていく罪人が振り返り振り返り去っていく坂だったからだそうです」
「じゃ、江戸市中ってその本郷三丁目までだったんだ」
「はい、市中はそこまでで、その先は単に〈田舎〉と言ってたようです」
細道を右折する。とつぜん、ごみごみしたアパート地区になる。しばらくいって左へ曲がりこみ、茶色い壁の立派な二階建てアパートの玄関に立った。
「このあたりは本郷五丁目です。むかしは風情があったみたいですけど、いまはごらんのとおり」
玄関戸を引き、コンクリートの土間に入って靴を脱ぎ、書棚式の下駄箱に靴を入れる。黒屋の尻を見ているうちに、ようやくリビドーが湧いてきた。
「もう勃ってきた」
「わ、うれしいです! 早くいきましょ」
浮き立ち、一階廊下のいちばん奥の部屋に入る。八帖の板の間と四帖の台所。その奥が一帖のトイレと三帖の風呂場。
「掃除が効いてる。女はこまめにかぎる」
「お母さんがそういう人だったんですか?」
「逆。だからマメな女にあこがれる」
八帖に戻る。女の部屋だ。窓際にベッド。ベッドの頭に大きなソファ。衣類が脱ぎ捨ててある。勉強机。机の上に真空管ラジオ。鏡台。化粧品が並べてある。
「化粧はさびしい……」
「身だしなみです」
「女が一律化される」
書棚。鴨居に種々の服が掛けてある。部屋の隅にマネキンが立ち、自分の創作らしい服が着せてある。
「意志と工夫が見える。すばらしい。ん? テレビがない。温かい! いい部屋だ」